施
設・設備からみた高等女学校教育の一側面
山 本 禮 子
序 一八九九年﹁高等女学校令﹂の発布により、女子中等教育機関としての高等女学校が、各県一校ずつ設置することを義務づけられ、 それに先立つ前史としての系譜を含めた時期から、一九四八年の新学制に基く教育改革によって高等女学校が終焉するまでの半世紀あ まりの教育の営みを捉え直し、今日の女子教育への示唆を得ることを目的として作業を進めている。本論文においては、高等女学校の 施設・設備に焦点をあて、戦前の女子中等教育の特色を浮彫りにしつつ、そこで実施された教育の役割を考察しようとするものである。 そのため、女子教育の草創期において先駆的役割を担った高等女学校を除外し、高等女学校令︵以F、高女令・二略記︶以降に設立され た公私立高等女学校︵以下、高女と略記︶に限定して考究することとする。 そもそも高女における設備規則は一八九九年文部省令第五号により規定されている。その第六条で施設にふれ﹁校舎ハ左ノ諸室ヲ備 フ ヘ シ 一生徒各学級二鷹スル通常教室 二理科、裁縫、圓書、音楽等ノ各特別教室 三雨中贈操場 四講堂 五圓書室、器械室、標 本 室 六職ロ貝、生徒控所、其他所要ノ諸室 前項ノ諸室ハ差支ナキ限リニ於テ便宜兼用スルコトヲ得﹂と指示している。四種の特別教 室、体操場、講堂、図書室の設置が高女設置条件である。二年後の高女令施行規則で再び規定にふれ、第二十九条に﹁髄操場ハ分テ屋 らユ 外 膿 操 場 及 屋内髄操場トス﹂と述べ、屋内体操場は生徒控所との兼用を認めている。さらに公立高女に寄宿舎を備えるように促したの 五九表1 高等女子校と中学校の校舎・施設の異同 県立青森高女 県立青森中学 普通教室 21 普通教室 25 化学室(理科準備室) 化学実験室(準備室・薬品室) 階段教室(物理) 物理 〃 (準備室・器具室) (生物標本室) 生物 〃 (準備室・標本室) 共 通名称部分 手工室 工作室 体操場 体操場 音楽室(兼、図画室) 図画教室 講 堂 講 堂 裁縫室 2 地理教室 割烹室 剣道場・柔道場 洗濯室 武道防具室・兵器庫 男女別教室名 作法室 弓道場 図書室(兼郷土室) 卓球場 図書館 和 洋 女 子 大 学 紀 要 第三十二集︵文系編︶ 六 〇 ユ が一九〇八年の高女令施行規則中改正である。 中等教育機関としての高女と中学校を校舎・施設の面で具体的に比較してみる。男女共学の高等学校の中に、前史として旧制中学と 高女との歩みの二路線を持っているものが多い。一例として青森県青森中学校と同青森高女の校舎平面図を対比して一覧にする︵表 1︶。ここでは校地・校舎の面積は除外し、教室部分のみに限定した。高女・中学両校の共通名称部分においても、中学の施設の充実さ が わ かる。もっともこれは一八九九年文部省訓令﹁師範學校中學校及高等女學校建築準則﹂が発布され、その中で﹁物理及化學及博物
ヨ (師範學校女子部及高等女學校二於テハ理科︶ノ特別教室ハ階段席ヲ設ケ平家建ト爲スヘシ﹂とあり、それに則ってのものである。施設 面 で の 別 学 体制の特色は、女子教育には家庭生活に直結する科目を中核に置き、それに対する特別教室を配置したことにある。︸方、 男子に対しては各教科の充実と併行して体力面の訓練、武道を通しての錬磨に重点が置かれている。 性 差 に 対 応 する歴然とした別学体制の中で目指した女子中等教育の目的およびそこから醸成されたものを学校施設・設備面から瞥見 してみる。 一、時期別にみた施設の概観 高女の学校施設・設備関係の資料は、お茶の水女子大学女性文化研究センターで収集した三三〇校分の高女関係の学校史︵誌︶およ び 『高等女学校資料集成 第九巻 学校一覧編﹄に掲載している平面図および校舎説明記事に檬った。その中から分析の対象となる延 べ 七 四 校をつぎの四期に分類した。ここでは普通教室以外の施設を対象とし、さらに寄宿舎を省き、学校教育に直結するものに限定し た。 第−期 一九〇〇年代までの高等女学校施設 第H期 一九一〇年代の高等女学校施設 第
m
期 一九二〇年代の高等女学校施設 第W
期 一九三〇年代以降の高等女学校施設 なお、第m、W期は、学校規模に差があるため、 出した。 一 一 〇 〇%の設置がみられ、 設 立 へ の 迫力が感知できる。 で高値を示している。 (表2︶ (表3︶ ( 表4︶ (表5︶ 九学級以上と未満に分割して大規模校と小規模校として表示し、 各施設の設置率を算 八 九 九年文部省令によって規定された施設の条項と一九〇〇年代までの施設設置状況を照合すると、裁縫教室・理科教室・講堂は 音楽教室・体操場が七校中六校、図画室が五校と設置率が高い。各県一校は創立しようとした成立期の高女 また設置義務が明示されていないにもかかわらず作法教室は他の時期においても設置率が裁縫教室に次い 一九一〇年代になると割烹室の普及が九割近くになり、同時に家事教室・洗濯室が登場し、家政系の施設の拡充 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 杢表2 1900年代までの高等女子校施設 学校名 記載年教室名 群馬県立高 崎高女㈲ 青森県立第一高女㈲ 宮崎県立 高女⑦ 埼玉県立浦 和高女〔8) 大分県立 高女⑨ 東京府立第一高女⑩ 福島県立会 津高女(ID 設置 校数 1900∼’02 ’01∼’03 ℃3 ℃4 ’05 ’07 ’09∼’11 設置率
%
裁 縫 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 7 100.0 割 烹 室 ○ ○ 2 28.6 作 法 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 6 85.7 理 科 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 7 100.0 音 楽 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 6 85.7 図画習字教室 ○ ○ ○ ○ ○ 5 71.4 雨天体操場 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 6 85.7 講 堂 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 7 100.0 図 書 室 ○ ○ 2 28.6 和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 表3 1910年代の高等女学校施設 学校名 教室ガ記載年 福岡県立朝 倉高女〔12) 山口県立長 府高女(13} 岡山県立倉 敷高女肋 栃木県立足 利高女⑮ 宮城県立第一高女㈹ 長野県立諏 訪高女⑰ 栃木県立栃 木高女08} 尼崎市立 高女(19) 愛媛県立西 条高女⑳ 設置 校数 ’12∼’13 ’11∼’21 ’12∼’22 ’13 ’15 ’17 ‘ ’18 ’17∼’21 大正期 設置率 % 裁 縫 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 9 100.0 割 烹 室 ○ ○ ○ ○ △ ○ ○ ○ 7.5 83.3 家 事 教 室 △ ○ ○ 2.5 27.8 洗 濯 室 ○ ○ ○ 3 33.3 作 法 教 室 ○ ○ △ ○ ○ ○ ○ △ △ 7.5 83.3 理科(化)教室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 8 88.9 博 物 教 室 ○ ○ 2 22.2 音 楽 教 室 ○ ○ ○ ○ 4 44.4 地 歴 教 室 △ 0.5 5.6 習 字 教 室 △ 0.5 5.6 図 画 教 室 ○ 1 11.1 雨天体操場 △ ○ △ △ ○ ○ ○ ○ 6.5 72.2 講 堂 ○ △ △ △ ○ 3.5 38.9 図 書 室 ○ ○ 2 22.2 備 考 △印兼用 △印普通教室と兼用 △印兼用 △印手芸室と兼用 杢 注)△印は設置校数を0,5として計算する表4 1920年代の高等女学校施設 大 規 模 校 (9学級以上) 小 規 模 校 (9学級未満) 私立高女 全 体
学校名
記
教室名 載年
茨 城県立水戸高女︵21︶ 歳匡大王警女︵22︶ 東京府立第五高女︵23︶ 愛 媛県立今治高女︵24︶ 奈良県立御所高女︵25︶ 栃 木県立足利高女︵26︶ 千 葉県立千葉高女︵27︶ 麓竪竺響要︵28︶ 青 森県立弘前高女︵29︶ 栃 木豊宇都宮高女︵30︶ 茨城県立下館高女︵31︶ 尼 崎 市立高女︵32︶ 香川県立高塗局女︵33︶ 設 置校数 設置率%
京 都 府 立 綾 部高女︵34︶ 群 馬県立沼内高女︵35︶ 埼 玉県立熊谷局女︵36︶ 群馬県立渋川高女︵37︶ 島根県立益里局女︵38︶ 秋 田県立花輪高女︵39︶ 召曇大理寺高女︵40︶ 設 置 校 数 設 置 率 % 大 谷 高女︵65︶ 牛 込 高女︵66︶ 設 置 校 数 設 置 率 % ’20 ’23 ’23 ’23 ’23 ’23 ’24 ’23 大正期 ’28 ’28 ’28 ’30 ’23 ’23∼‘26大正期 ’2ピ30 ’29 ’30 ’30 ,24 ,24 裁 縫 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 13 100.0 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 7 100.0 ○ ○ 22 100.0 ミ シ ン 室 ○ ○ 2 15.4 2 9.1 割 烹 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 10 762 ○ ○ ○ ○ ○ 5 71.4 ○ ○ 17 77.3 家 事 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ 5 38.5 △ ○ ○ ○ 3.5 50.0 8.5 38.6 洗 濯 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 7 53.8 ○ ○ 2 28.6 ○ 10 45.5 作 法 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○○ ○ ○ ○ 10 76.2 ○ ○ ○ ○ △ ○ ○ 6.5 92.9 ○ ○ 18.5 84.1 理科(化)教室 ○ 「. ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 13 100.0 ○ ○ △ ○ ○ ○ ○ 6.5 92.9 ○ ○ 2L5 97.7 博 物 教 室 ○ ○ △ ○ ○ ○ ○ 6.5 50.0 ○ 7.5 34.1 化 学 教 室 ○ ○ △ 2.5 19.2 ○ 3.5 15.9 物理教室(階段教室) ○ ○ ○ △ ○ 4.5 34.6 ○ 5.5 25.0 音 楽 教 室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 10 76.2 ○ ○ ○ ○ △ 4.5 64.3 ○ ○ 16.5 75.0 楽 器 練 習 室 ○ ○ ○ ○ 4 30.8 ○ 1 14.3 ○ 6 27.3 地 歴 教 室 ○○ ○ ○ △ 3.5 26.9 ○ ○ 2 28.6 ○ 6.5 30.0 習 字 教 室 ○ ○ △ △ △ ○ △ △ 5.5 42.3 △ 0.5 7.1 ○ 6 27.3 図 画 教 室 ○ △ △ ○ △ ○ △ 5 38.5 △ ○ 1.5 21.4 ○ 9.5 46.2 雨 天 体 操 場 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 12 92.3 ○ △ ○ 2.5 35.7 ○・ △ 16 72.7 講 堂 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 9 69.2 ○ ○ ○ △ 3.5 50.0 ○ △ 14 63.6 図書室(館)閲覧室 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 10 76.2 ○ ○ △ ○ 3.5 50.G ○ ○ 15.5 70.5 そ・ の 他 ○ ○ ○ 備 考竃墾;
{
生理英 徒教・ 堂と・ あ普国 り通’教修室・邑{
成一閲 後九覧 食室数は二室 階九兼 上年の 作廃養 法止蚕 室’室 兼歴に平あ 用史使和り 用館完
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郷教英 土室・ 室と数 あ普・ り通国 教’ 室地 兼・用摩修身{
上鉄西 三筋洋 階コ日’ン本 地ク作 下リ法一|室 階トの 構二造教’室地 球 技了㌧トzクあり 綿入教室あり 府基管の年に改築 理卓 科球 家室 事あ 教り 室 郷球 土技 室コ あ1 歎 家ト 庭ラ 寮ツ あク りあり 球 技〒㌧トzクあり 屋鉄上筋 運コ 動ン 場ク ありり1’ト暗造室装置 講 堂 兼 体 育 館 則 ・諮撃貧心心よ」1[ロ帥ぷ朴蒋蒋畑QI亘阻(≡[掬畑 屡壮・則叫く朴瑠臨 部111十11蝶(採繰鷹) 1930年代以降の高等女学校施設
表5
体全 設 置 率 % 010 “1 “6 昭5 H5 篇8 回10 乃3 娼1 胴2 “6 日2 B3 姐3 臼4 姐6 銅7 “6 設 置 校 数 32 5 21 18 17 28 32 12 蛎 口 21 8 10 11 15 口2 “2 21 東 洋 高 女洞 魂 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 聖 霊 高 女⑬ 頃 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ 洋 裁 室 蒲 田 高 女㈹ 沮 ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ 女高立私 帝 国 第 一高女㈹ 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 神 田 高 女㈹W
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ △ △ ○ 森 高 女⑱ 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ 三 階 建 、和・洋式作法室 十 文 字 高女⑱ 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ シ ャ 洋 式 作 法 室 日本橋高女㈹ 閲 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ 屋 階 鉄筋、ダストシュート、リフトあり 設 置 率 % 回10 Ω1 四4 刀5 “2 “7 回10 “1 05 Ω1 “2 臼3 U2 n5 ”8 Ω1 設 置校 数 7 1 3 4 2 日 7 1 “ 1 2 肪h
4 6 1 千葉県立大原高女60 冶 ○ ○ ○ ○ ○ 球技コート、トラック、弓道場あり 島根県立大東高女⑬ 壇 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 養蚕室、飼育舎あり 岡山県立倉敷高女⑰ 7383,∼ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 工 作 教室、弓道場あり 島根県立益田高女θM
○ △ ○ ○ ○ 静岡県立富士高女㈹ 祖 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ ○ ○ 試食室あり 三 重県立阿山高女㈲ 泣 ○ ○ ○ ○ ○ △ △ △ ○ ○ ○ 綿 入 室 語 教 室と普通教室兼用 山形県立谷地高女㈹ Ω ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ 家庭生活実習館 設 置 率 % ㎝10 錨2 “7 日5 口6 日8 回10 ”5 “2 胴3 日5 別2 臼3 日3 踊5 靱7 打6 臼7 設 置校 数 17 4 13 10 H 日1 17 9 “ 日 肪 5 6 6 10 “1 11 13 山口県立厚狭高女㈱ ⑭ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 和 裁 育室あり 栃木県立鹿沼高女㈲ 鴇 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ ○ ○ 学 校 博 道 場あり 埼 玉 県 立 浦 和 第=局女岡 瑠 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ 球技コートあり 宮 城 県 立 宮 城 第=局女80 姐 ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ 球技コート、トラック、弓道場あり 青森県立第二局女倒 駆 ○ ○ ○ ○ 凸 ○ ○ ○ 愛 媛県立西条高女⑫ 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ 尼 崎 市 立 高女O 額 ○ ○ ○ ○ ’ . ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 合同教室あり、作法室は済美館内 栃 木 県 立 宇 都 宮 高 女 68 部 ○ ○ ○ △ △ △ ○ △ △ ○ △ ○ ○ 図 工、そこに器楽室あり 岡山県立和気高女㈲ 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ ○ ○ 試 食 室 法 室 は同窓会館内にある 北 海 道 庁 立 札 幌 高 女 ㈹ 額 ○ ○ ○ △ ○ ○ ○ △ 山口県立長府高女㈲ 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 家庭寮 徳 島 県 立 小 松 島 高 女 oo 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ ○ ○ 試 食 技コート、家庭寮あり 山形県立酒田高女oo 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ ○ 英語・数学・歴史・地理教室あり 熊 本県立第二局女ω 別 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ ○ 講 堂 〔 筋コンクリート構造 長 野県立諏訪高女㈲ 額 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 福島県立福島高女oo 留 ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ ○ 卓球室、弓道場、球技コートあり国語・英語、修身・公民・歴史、地理教室あり 千 葉県立安房高女畑 別 ○ ○ ○ ○ ) ○ ○ ○ ○ △ △ ○ ○ 専 門 に 分 化 理 科 教室に 印をつける 名校 年学 載 記 名 室 教 室教縫裁 室烹割 室教事家 室濯洗 室教法作 室教物博 室教学化 室教楽音 室習練器楽 室教歴地 室教字習 室教画図 堂講 他のぞ 考備が みられる。一方、音楽教室の設置率が低下し四割強と半減する。しかし、地歴教室・習字教室と普通教室を兼用し、教科によって教 ︵乃︶ 室を移動するシステムを導入している高女が登場してくる。 ︵76︶ ︵η︶ この傾向が一九二〇年代の大阪府立大手前高女・奈良県立御所高女では一段と徹底して、普通教室すべてを英語・数学・国語・修身・ 歴史・地理・博物・習字・裁縫教室と兼用し、主要教科には三、四教室を割当てている。この期の大規模校の特筆事項の第二は、一九 ︵78︶ 二 四 年 に 改 築 竣 工した兵庫県立第一神戸高女の校舎である。地上三階・地下一階の鉄筋コンクリート構造、窓枠は鋼鉄製サッシュ、さ らに電車通りに面した窓は防音のために二重硝子障子とし、各階にダストシュートを設置するといった近代建築の粋を集めた学校建築 になっている。割烹室設備として地階にある実習室から試食のために四階上の西洋作法室に運ぶためにリフトを設けている。このよう な家政系の教室の設備もさることながら、各教科も準備室・標本室・研究室が完備され、講堂・体操場以外の集会室が大小二室、生徒 研 究 室まで確保されている。このように恵まれた環境づくりがなされている校舎がこの時代にすでに構築されていたという事実に驚か される。第三は、一九一〇年代で音楽教室の設置率の低下現象を指摘したが、この期に七割以上の高女で特別教室として音楽教室を設 けていることである。さらに楽器練習室が登場してくる。この傾向は大規模校のみならず小規模校にもみられ、後述する一九二〇年代 という時代の風潮が教育に反映した結果であろうと推測する。音楽を通しての女学生教育と共に卒業生・地域社会の人々との交流の手 段とし、また場所として高女が活用されたのである。第四は割烹室・家事室・洗濯室の普及、図書室・閲覧室あるいは図書館の竣工も みられ、設置率も七割以上に達している。小規模校では、裁縫・作法・理科教室が一〇〇%の設置率を示し、ついで音楽教室、家政系 の 教室へと続く。 第W期、一九三〇年代以降においては、全般的に施設充実に拍車がかかり、理科系教室が博物・化学・物理教室と分化し、準備室・ 標本室も整備されていく。またミシン室設置の傾向がでてくる。このような動きの中で音楽の特別教室の設置率が一七%以上減少し六 割弱となっていることは注目すべき現象である。この傾向は小規模校にもみられる。新設校・組織変更による高女、県移管による高女 等の設置時に音楽教室以外の特別教室あるいは施設の建設が焦眉の課題であったと判断できる。三割近い設置率の減少が割烹室にもあ らわれている。一九四三年に﹁中等学校令﹂が公布され、高女と実科高女が統合した時期にはこの傾向がより顕著であろうと思われる が、今回の資料では、このことを明確に証明することはできない。 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 六 五
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 奈 ︵86︶ 二、新設・組織変更・移管と施設問題 一九〇〇年代、各県に一校ずつ設置が義務づけられた高女創設当初の学校設立は、それぞれに難産の秘話があるといっても過言では ︵79︶ ない。一九〇二年創立千葉県立千葉高女は、千葉中学移転後の校舎が充当されが挾隆なためコ部県会議事堂を借用し、堂内を仕切っ ︵80︶ て 授 業を行﹂っている。岡山県立津山高女は、一九〇三年旧藩士族共有物の鶴山館と附属二棟を仮校舎として開校し﹂ている。 八七一 年 藩 校 修道館施設として増築された建物は﹁痛みはひどく、柱傾き壁欠け落ちて城春にして草木深しの感あり﹂と述べるほど老朽化し たものであった。待望の新校舎本館は六月に完成、次年度寄宿舎・講堂・体操場が作られるが日露戦争で中止。四年後までに理科・音 ︵81︶ 楽教室等が竣工する。一九〇〇年開校の茨城県高女は、旧弘道館を中心に教育がなされている。中を四つに区切り、一年から三年まで の 教室、残りを職員室として使用した。各教室の境は板をたてただけのもので他室の講義に夢中になる様子が学校史に描写されている。 二 年後、自習室兼寄宿舎二棟が完成、これを教室にあて仮校舎から移転する。その後四年の年月をかけて本校舎、特別教室が竣工して ︵82︶ いくのである。これに比し、前史をもつ高女は施設が完備している。大阪府立大手前高女は最初の校舎が一八九二年に中之島に完成、 普 通 教室一四室、裁縫室三室、刺繍室、家事室、礼法室、茶室、音楽室、生徒控所二室を備えた二階建である。しかし空地は殆んどな く、室内運動が主流であった。一九〇二年堂島仮校舎で府立堂島高女、校舎類焼し梅田移転で府立梅田高女、さらに一九二三年大手前 へ の 移 転 に 先立って府立大手前高女と変遷していく。 一九一〇年代は高等女学校令の改正による実科の設置および実科高等女学校の設置が認められ、その法令の中で実科高女の高等小学 校 併 設を許可した。設置を簡易にして地方の女子をなるべくその地域で必要な教育ができるようにしたため実科高女の設立が目立つ。 一九一一年郡立三豊実科高女は、四年前元織物会社を仮校舎として発足した郡立三豊実業女学校が新校舎ならびに寄宿舎を建てて組織 ︵83︶ 変 更した学校である。さらに一九↓二年には郡立三曲豆高女に組織変更する。同じく一九一二年に町立八幡浜実科高女として設立した学 校も、小学校旧校舎東棟の階上北端の教室を使用して発足した町立八幡浜女学校としての前史をもつ。新校舎の建築、音楽室の寄宿舎 ︵84︶ へ の 改 造といった高女になるための必要条件を整備し、一九二一年町立高女、次年度増築して県立八幡浜高女へと脱皮していく。秋田 ︵84︶ 県立能代高女の創立は、一九一四年小学校に併設された実科高女である。その後独立校舎を新築して町立高女、寄宿舎を建設して次年 度の一九二一二年に県立高女となっている。教育の営みが数教室といったささやかな場所からはじめられ、生徒・父兄・さらに地元の人々
の力強い支援の中で充実、発展していく様子が各学校史に綴られてある。 以 上 のように高女創設にまつわる様々な動きはその後も続く、校地を確保し、校舎を建設し、施設・設備を完備することを前提に誘 致 運 動 が展開されていく。とくに県移管への働きかけの記録は多くの学校史の中で詳述されている。特に一九一=年四月﹁郡制廃止に 関する法律およびその施行期﹂を定めた一九二三年三月に勅令により、自治体としての郡は]九二一二年四月以後消滅することとなる中 で の県への移管運動は、各地でさかんに行われた。一九一一年町立真岡実科高女として設立し、一九一四年芳賀郡立高女に組織変更、 ︹87︶ さらに一九二〇年県立移管を果すべく栃木県知事に建議した時、県当局からの指示は次のようなものである。 「 一、 敷 地 の 増 加は二千八百五十坪を要す。生徒四百名に対する敷地は六千坪を要するも現在は三千百五十坪にすぎざるを以て更に二千 八 百 五 十 坪を要す 二、理科教室及び理科標本室の建築五十坪 三、講堂の建築 四、体操場並びに生徒控室の建築六十坪 五、作法室の建築三十坪 六、備品設備五千円 理 化 学 器 機 標 本及び 般教授用標本、図書類不足につき、この際設備を要す ヒ、校舎屋根を瓦葺とすること。校舎は現在杉皮葺を以プ、それを瓦葺となし、寄宿舎、小使室、物置其他杉皮葺建物は総て瓦葺また はトタン葺とす ︵大正二年三月二二日付下野新聞ご これらの指示をうけて芳賀郡会では県立移管準備予算として五九、一一八円を計上し、校地の拡張と校舎等の増改築をなし、一九二 三年三月落成式を挙行している。 県立にすべく陳情を重ねる中で、知事より県立への内達をうける。それには校地二、○○○坪と、県立として体面を保つための校舎 新 築費とを負担する条件がついている。町財政が窮乏している中で総工費一八万円のうち五万円を一般よりの寄付でまかなうことを決 定し、女子教育振興のため万難を排して取り組み、一九二三年四月、福井県立武生高女が誕生する。校地・校舎の様子を引用する。 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 七
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ ノN 「 従来の校地に二千坪を加えて、敷地は四千坪となった。校舎の周囲には高さ四尺の土塀を作り、正門は南に、裏門は北端に新らし くつくられた。また新校舎は総建坪八九六坪で、従来の本館の南側に、さらに五間に四五間の宏壮な二階建の新本館が建てられ、校長 室 がをはじめ、職員室、事務室、応接室、その両端には割烹室、音楽作法室、などが設けられた。作法室は旧控所を移築して模様がえ したものである。旧本館の北方西側には、八間に二十間の講堂兼控所が堂々とその威容を示している。その東側には運動場が約千坪あ ︵88︶ り、ブランコ、肋木、並行水平棒、テニスコートなどが設備された。寄宿舎も運動場の北側に新築された。﹂ ︵89︶ 威 風 堂 々たる校舎全景が描かれている。中には県移管をした後に校舎の増築をしたところもある。群馬県立沼田高女は﹁県立移管当 初 からの懸案であった校舎の増築はようやく⋮⋮大正一五年六月三〇日講堂・寄宿舎・理科室・同準備室・音楽室・作法室︵延べ面積 二 八四・一六坪︶の増築工事が工費三二、三一五円﹂で竣工した。工費の他に敷地買収費、工事設計費、地均し、道路工事、設備費等 を加算すると増額五万円前後になつたものと思われる。この増築工事後、ピアノが着荷する。費用一、五〇〇円は主として職員・生徒 のピアノ購入積立金よりの寄附によるものであった。郡内各町村より寄附された一六本の吉野桜を職員・生徒の手によって植えている。 さらに一年後、校地一、〇九二坪が購入され拡張された部分を運動場とする。 以上、新設校の場合も、組織変更や県移管の場合も、地元・父兄・卒業生の支援の中で経済的なものが満たされていったといえよう。 三、地域文化の場としての高等女学校施設 さきに、音楽教室の普及状況を県に一校の高女設置を義務づけた一九〇〇年代が八六%、実科および実科高女が認められ、高女の設 置が徐々に増加していく一九一〇年代が四四%、設置校数が急増する一九二〇年代七五%、漸増状況を示す一九三〇年代で五八%と増 滅が短期間の間に繰り返されていることを指摘した。高女教育が華々しくスタートする第−期およびその前史において、西洋音楽は女 学 生 のあこがれの教科であり、学校側も音楽教室を設置してその教育にあたった。しかし、高女設置が県毎に二校、三校と促進される H期においては、音楽教室を特設せずに講堂のピアノで補い、設備を必要とする割烹室の建設を先行させる必然性もあったと判断でき る。同時に実科及実科高女の発足のこの時期、家政系の教科への固執が新設高女にあったとも推測できる。しかし、いわゆる大正デモ クラシー期と称されるm期の女学生々活は、経済的に中間層といわれる階級の子女の教育要求が高揚する時期を反映して、文化的香り
を追求する傾向が出現してきたと思われる。これは生徒の要求のみに まらず、教師・父兄・地域住民の願望であった。この動向を裏 ︹90︶ 付ける資料は学校史︵誌︶の中で多く散見できる。はじめに音楽について見解を述べている兵庫県立神戸第一高女の学校史を引用する。 「 和 洋 何 れ の 音楽を選ぶべきか。所謂西洋音楽は現に正課として日々これを課しつつあり。然れども実に課外にこれを課すべきか或 は日本音楽を課すべきか。もし両者並行せぼ所謂一兎を得ずして終らんことを恐る。元来音楽に和洋の別なし、窮極は同源にして将来 又 両 者 相 寄りて一致融合の時あるべし。⋮⋮暫く西洋音楽を採用せん事を決心しここに正課たる西洋音楽を諸種の場合に用ひてその練 習をなさしめ以てその向上を図りたり。⋮⋮完全なる樂器練習室をつくりて、更に東京音楽学校の優秀なる卒業生を聴し音楽科を担当 せしめ該科の発展を図る。⋮⋮本校漸くその緒につくや噂は噂を生み遠近の高等女学校長或は該科担任の教員にして特に本校の教授を 来観せられたる士少からず⋮⋮。時代は漸く音楽を要求せり。この時に當り本校の音楽会は市内各種行事の呼物となるに至れり。⋮﹂ 第一回音楽会は一九〇七年でその後皇室の弔時を除き連綿と続く。校舎新築の一九二四年、新講堂において第一四回音楽会を盛大に挙 行している。午前、午後の二部にわかれ、生徒のピアノ独奏、連弾、独唱、二部・三部・四部合唱の一七ずつのプログラムが並ぶ。最 後 に番外として職員有志の混声四部合唱が花を添える。聴衆二、七〇〇名以上、﹁さしもに誇る大講堂も今日ばかりは遺憾な程苦しい﹂ と述べる程の人数であり、﹁演奏者の心と聴衆の心とが快い旋律の中に溶け込んで森と静まるその様﹂に音楽の崇高でしかも幽玄な働き に 魅 せられる様子が綴られている。 ︵91︶ 一九〇〇年開校の茨城県立水戸高女の音楽会の記録が残っているのが一九一二年である。第七回音楽会であるため一九〇〇年代中半 に は第一回音楽会が開催された可能性が高い。]九二六年の記録では第一部、生徒発表、第二部、特別出演と二部にわかれており、特 別出演は東洋音楽学校混声合唱団と管弦楽団で計約五〇名を招聰している。﹁昼夜二回にわたって行なわれ、水戸市における空前の大演 奏 会 であった﹂と記している。さらに一九三〇年三十周年記念行事の一環として東京音楽学校生徒を招いての音楽大演奏会がひらかれ、 水戸高女の伝統的行事であると共に水戸市の名物ともなっている。﹁普通人四六一名、学生四五二名、招待者一〇五名、計]、〇一八名 で 講 堂は満員の盛況、聴衆を魅了し尽して盛会裡に終了した。﹂と述べている。一方、同窓会も琵琶・琴・日舞による音曲会を有料で講 堂 に て開催、入場者は八〇〇名にも及んでいる。 ︵92︶ 琵 琶 演 奏を聴く音楽会を第一回として開催した群馬県立渋川高女は、一九二三年以来、毎年のように実施している。時には校内だけ 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 六九
和 洋 女 子 大 学 紀要 第三十二集︵文系編︶ 七 〇 で、時には一般来聴者と共にこの集いを楽しんだのである。小学生との共演を試みたり、予算がある年は校友会同窓会主催で東京音楽 学 校より演奏者を数名招いたり多彩なプログラムを組んでいる。一九三九年の音楽会プログラムは、﹁君が代﹂で始まり﹁海行かば﹂の 全 員 合 唱 で 終了する。時代を反映している一駒である。 ︵93︶ 福島県立福島高女は一九二二年に控所兼講堂として八間と一五間の堂々たるホールを完成し、卒業生・父兄有志から贈られたグラン ドピアノも完備して、本格的な音楽会が催されるようになった。このようにグランドピアノは篤志家による寄附や、卒業生・父兄有志 の 寄 贈 の 場合、さらに生徒や教師の積立て等による購入で悲願を達成し、その喜びは筆舌に尽し難いものがあったようだ。 ︵94︶ 栃 木県立鹿沼高女では一九二七年に最初の音楽会が開かれている。三年後、保護者の寄贈でドイツ製グランドピアノが講堂に据え付 けられ、高名な音楽家とソプラノ歌手を招いて本格的音楽会を催している。父兄も卒業生も相集いての会である。一部は生徒中心、二 部 管 弦楽合奏、プロの歌手による独唱、指揮をなさったその音楽家のピアノ独弾等々が披露され、最後音楽家の指揮による高女生の﹁流 浪 の民﹂の合唱、講堂は感動の増塙と化したといってよい程の強い印象を参会者に与えている。この学校ではその後も毎年三月に開か れるのが通例となり、一部が在校生中心、二部が中央楽壇から迎えた有名人が出演する形をとっている。常に﹁聴衆は時刻前より校門 内にしつかに繰りこまれて開会の時すでに場内を埋めて﹂しまうほどの人気を呼んでいる。一九四〇年学級増を記念して一人一口一円 以 上 の 募 金を行ない、それを基金に新しくピアノを購入、﹁ピアノ披露音楽会﹂を専門家を迎えて開催した。古いピアノは修繕して体操 場 に 移 動し、舞踏用および生徒の練習用として使用している。 ︵95︶ さらに私立の成城高等女学校での音楽教育は、一段と程度の高い特色のあるものであった。全人教育を目ざす成城学園において、芸 術 教 育は大きな柱であり、人間形成の一環として格別に力を傾注している。他校と異なり、中学・高校をも擁している学園における混 声 合 唱は紆余曲折の歩みはあるものの非常な称賛をはくし、新響の定期演奏に出演する機縁ともなっている。曲目もモーツァルト、ヴェ ル デ ィの﹁レクイエム﹂、バッハの﹁受難曲﹂、ハイドンの﹁四季﹂、ベートーヴェンの﹁第九シンフォニー﹂等々、本格的な大物を歌っ ︵96︶ て いる。一九四五年卒業の一人の高女生は、つぎのような学園生活の想い出をアンケートの中で綴っている。 ﹁三年になると混声合唱団に参加し、卒業生と共に大曲に取り組んだ。マタイ受難曲を日比谷のステージで現在のNHKフィルと協演 し、終演と同時に数人は戦場に向い、再び帰らぬ人となった。若い日の最初の悲しみとして、今も心に残る。﹂
数 例 の 記録から高女における音楽教育が女学生の音楽的教養を高めただけでなく、高女の施設を活用して地域の人々への文化的寄与 を担っていたといえよう。高女の校舎・施設が社会教育の場として役割を果していたのである。 栃 木県立鹿沼高女で、創立一〇周年の記念事業の一つとして記念図書館建設を決定﹁明朗な気分を以て研鐙修養娯楽の道場たらしめ、 将来は一般校外の婦人子供にも開放したい。﹂という理想を掲げている。図書館開放の傾向は⋮九三〇年前後から徐々にみられるように ︵97︶ なったのか、山口県立長府高女が創立二五周年記念に建設した趣意書にも表われている。 「 図 書館ガ学校教育上必要デアルコトハ申スマデモナイコトデアリマスガ特二今回設ケマス図書館ハ﹁婦人図書館﹄トシテ在校生ハ 勿論同窓生或ハ一般婦人ニモ開放致シマシテ母校教育ノ充実発展二助力スルト共一二般婦人ノ向上ニモ貢献シ得ルノ設備ト致シタイト 存ジマス﹂。地域社会との一体化を図りつつ、﹁婦人図書館﹂として地域の婦人層をも含めて文化のセンターでありたいとの遠大な構想 を学校側がもっていたことが読み取れる。その他、バザー・運動会・展覧会等多彩な行事の展開は学外者との交流の時となる。 ︵98︶ バザーを実施した学校は数少ないと思われるが、群馬県立渋川高女の学校史は、その様子を記録にとどめている。バザーという名称 で、豊富な出品によって地元の方々に即売したのは一九二四年からであった。入場者は年によって異なるが少ない時で一、五〇〇人、 多い時は六、○○○人と記録されている。一九三三年まで毎年開催される。一九三四年バザー、展覧会の中止の記録はあるが、その理 由はさだかでない。再開は戦後になってからである。恒例の行事としてではなく、十周年記念バザーとして一九三五年に開催したのは ︵99︶ 栃 木県立鹿沼高女である。会場は裁縫品部・手芸品部・染色部・図画手工品および化粧品部に分かれている。タニシで作った鹿沼人形、 図 画 の 先 生 揮 毫 の色紙を色紙掛入りで、老人向きの手編みの羽織下等客に喜ばれる品々が並ぶ。食堂部は昼時はさばききれない繁昌さ で 入 場者二、七五四人の多勢にのぼっている。 地 域 の 人 が 喜 ん でくれる催し物ではあるがバザーにそなえての製作品作り、食堂の仕込みの繁雑さ、当日の多忙さ等が広く他の学校 に 敷 行しなかった理由ではないかと思う。 ︵㎜︶ 卒 業 生 に 対 する補充教育として、ほぼ二〇年間続いた重要行事として長野県立諏訪高女の﹁補習講話﹂がある。一九一六年から実施 されている。卒業した年の七月と二月の二回、卒業二年目は一二月の年一回となっている。その内容はつぎの通りである。 大 正 五年度補習講話 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 七
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 一v ○卒業第一年対象第一回 七月二二日︵土旺日︶午前八時 午前 割烹実習︵料理三五人分︶=時半昼飯 午 後○時半より講話 校長、田中、峰村 午後二時より三時まで雑談、幹事選挙。会費一〇銭徴収 ○卒業第一年対象第二回 大正六年二月一七日︵土旺日︶ 開会正午、一二時半まで自由談話 講話一二時半より 校長、峰村 二時半より三時まで唱歌、茶話会 三時半閉会 会費五銭 ○卒業第二年対象 二月一八日︵日旺日︶ 午前共同にてぼた餅をこしらふ 昼食ぼた餅 午後講話 校長、田中 余興謡曲小袖曽我 会費一〇銭 以上、補習講話の内容にふれたのは、卒業後二年間だけだが、高女の果した生涯教育のはしりであると考えたからである。七月二二 日について卒業生の文が寄稿されている。割烹は肉や卵の料理、菓子二種。﹁講話は、峰村先生は﹃心の正しきを得て健啖善眠せよ﹄、 田中先生は﹃身を誤りて後に後悔するな﹄、校長先生は﹃修養をしそこなって傲慢に流れあるいは卑屈に陥らぬこと﹄傲慢と卑屈は全く 反 対 な れどそれより出る結果は共に等しき虚栄となって表はれるとのこと、又﹃女の教育をよく言はない人が世間にはあるが、その様 なことを言はれぬ様みんな行動に気をつけるやう﹄とおっしゃった﹂と記している。講話参加者は卒業生に限られ、その上卒業年次も 限られているが、生涯教育の場を多く作り出している長野県ゆえの高女版であるといえよう。 四、施設からみた良妻賢母主義教育 自由を謳歌し、芸術性を追求する音楽会が高女教育の一側面であるが、同時に良妻賢母主義教育の牙城であるとの評価を無視するこ とはできない。概観の項で述べたように、裁縫室はじめ各種の家政系の特別教室増設や作法室の設置率の高さの中にこの事実を読みと
ることができる。 家政系の特別教室の中で裁縫教室一〇〇%の設置は高女創設時からであり、複数の教室が設けられている。被服系ではミシン室の特 設、和裁・洋裁の各教室を作り、畳敷の部屋と椅子式の部屋に分割する学校、中には綿入室を特設するところもある。衣生活への技術 の習得が当時の女子教育の課題の一つであったことは事実である。この裁縫教育重視の風潮から、栄養面・衛生面への学習へ展開して いくのが一九二〇年代であり、割烹室および試食室、家事室さらに洗濯室の登場となる。生活の改良、台所の改善は女性の地位向上に 関連する。そこで五人一組八台の調理台の割烹室をもつ栃木県立芳賀高女︵のちに真岡高女︶の教育の与えた影響は大きいものがあっ たようだ。﹁当時の一般家庭における調理場は、外の井戸の傍の流しめいたものか、室内にあっても広いだけの板の間の片端、わずかな 明りとりの前に腰をかがめて使う流しが一つあるだけである。そして煮たきは一段とおりた土間でする。非常に不便なものであったが それが当然という時代﹂であり、地方農村において裁縫のレベルは高いが、食生活に関心のなかったこの地域に一石投じた形となった の である。 ︵班︶ また、家庭生活に直結させる教養教育を実習する作法室は、さきにも述べたように高女創設時からの施設である。秋田県立秋田高女 は、一九九一年開校するが翌年作法室が完成する。入母屋造りの壮麗な作法室は、その年皇太子行啓時の宿泊所になるということで、 泉水庭園、湯殿、便所を増築したが都合により行啓が中止になったと伝えている。記念館あるいは同窓会館として別棟建築を企画し、 ︵服︶ その中に作法室を設ける傾向が一九二〇年以降にみられる。一九二七年竣工の山口県立長府高女の昭和大典記念館は、床の間つき四八 畳 の 大広間と六畳敷の控間二室、さらに一二坪の洋間があり、和式・洋式の作法や華道の実地指導、雛祭り・慰霊祭等の学校諸行事に 広く活用された。 さらに一九三〇年前後から新設される家庭寮はそれまでの高女教育に新たなインパクトを与える。創立二五周年の記念事業として図 ︵脳︶ 書館の建設と同時に行った山口県立長府高女で家庭寮建設の趣意をみてみよう。 「 『 女 学校ヲ卒業シテモ何ノ役ニモ立タヌ﹄ト云フコトハ、従来私共女学校卒業生二浴セラレタ]ツノ非難デアリマシタ。コノ非難ガ 果シテ当ヲ得テ居ルカ否カニツイテハ深イ研究ヲ要スルコトト思ハレマスガ一面之マデノ女学校教育二考フベキ点ガ全ク無カッタトハ 申サレナイカト存ジマス。ソレカアラヌカ最近女学校ノ教育ヲ成ル可ク実際生活化シテ将来主婦トシテ又母トシテ家庭生活二必要ナ精 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 七
和 洋 女 子 大 学 紀要 第三十二集︵文系編︶ 七四 神 的 ノ修養ト実務的ノ修練トヲ積マセヤウトスル傾向ガ盛ニナッテ参リマシテ各地ノ女学校二或ハ家庭寮ガ設ケラレ或ハ花嫁学校ガ開 カレル事ガ盛デアルカト存ジマス。 私 共ノ母校ハ従来良妻賢母・王義デ其ノ上乃木式二質実ナ学校トシテ世間カラ認メラレテ参リマシタガ若シ此ノ校風ノ上二更二前述ノ 如キ将来主婦トシテ母トシテノ必要ナ修養ヲ実際的二積ムコトノ出来ル学校二致シマスナラバ今後母校二学ブ幾百幾千ノ女性ガ如何程 幸 福ナコトデアリマショウカ。ソレハ又ヤガテ当地方文化ノ向上二貢献スルトコロモ少ナクナイト存ジマス。⋮⋮﹂ や や 長 文 の引用であるが建設機運を盛り上げようとする発起人一同の意向が窺がえる。質実な良妻賢母を培う修養道場を目標としてい るこの寮は、木造瓦ぶきの平家建約三二坪、内部は修養室・応接間・客間・茶の間・台所・風呂場・仏殿・神棚などを備えている。こ こでの教育を家庭実習と称して四年生以上の生徒を対象に五名ずつの班に分け、この一班を単位として寮母一名︵家政系教諭五名が交 代 で 担当︶が指導に当たった。三日または六日間入寮し、食事の献立、材料の購入、調理等毎日に必要な家事一切と、週一回来客とし て 女 学 校男性教師あるいは外部の関係者を招待して接客作法の実施を行っている。この試みは担当教諭の綿密な計画と、細心の注意を 払っての実習であり、生徒にも教師にも好評であったようだ。 ︵501︶ 家 庭 生 活実習館が一九三二年に竣工した山形県立谷地高女でも、一週間、五、六人で起居を共にし、献立・買物・炊事・掃除を役割 分 担し﹁夜には先生を囲んでお茶の呑み乍らの歓談﹂をしている。 ︵踊︶ 一九三﹁年に設立した徳島県立小松島高女では一九三五年から寄宿舎修養室を家庭寮とし、家庭寮規程を作って実施する。設立趣旨 として﹁家事ノ技術経理其他家庭生活二於ケル実際問題ヲ研究シソノ実習ヲナシ以テ家政二熟達セシメ婦徳ノ酒養二資スルヲ以テ目的 いね トス﹂と述べている。実施の方法は長府高女とほぼ同じである。一九三七年から家庭寮計画を実施した福岡県立京都高女では綿密な家 庭 寮 規 程を作成し、内規・寮生心得・訓練要項等三、○○○字以上にわたって記している。目的の中に﹁学校教育の生活化﹂をはかり、 「 平 素 学習せし一切の事項を実際生活中に綜合せしむる﹂ことと共に、わが国の﹁家族制度の美風を体認﹂させることを掲げている。そ こで分担任務として主婦の任務、女中の務、子供の務を設け、それぞれを体験するように立案している。 その他、二宮尊徳生誕百五十年にあたる一九三六年に感謝の生活と報恩の精神に基づく家庭を築くため指導の一環として﹁報徳家庭 ︵棚︶ 寮﹂を開設した栃木県立真岡高女、二〇〇名の全校生徒を通学区によって、学年を越えて八班に分け、一班二五∼二六名構成にして合
宿訓練を家庭寮︵旧寄宿舎使用︶で実施した岐阜県立羽島高女の事例などもある。 ︵m︶ 皇紀二千六百年の記念事業として福岡県立筑紫高女が設立した筑紫家庭寮は、父兄・同窓生の熱烈な要望による高女卒業生のための 教 育 機関であった。女学校における学科課程と教授時数の制約に伴う実際生活上の不満を充足させ、女学校卒業より結婚期までの数ヶ 年を効果的に教育する場として活用している。教科目の中心は和洋裁・手芸・家事とし、教養として﹁国民道徳・文芸思想・時事解説・ 家庭教育﹂の科目を置き、一方で書道・茶華道・作法を習得させようとしている。新時代に適応する良妻賢母、文化的な女性の﹁香り﹂ を備えた教養高き日本的母性の育成を目的としている。 ︵m︶ 家 庭寮の名称は、一九三二年大日本連合婦人会が設置した花嫁学校﹁お茶の水家庭寮﹂にすでにみられ、これが高女教育の中に取り 入 れられたのである。その目的は、さきに挙げたように主婦として家庭生活を切り盛りしていく時の具体的な生活技術・要領を修得す ることにあったことは事実である。しかし、学校に通学しながら一週間にわたって、しかも小人数の合宿生活は、高女生にとって忘れ られない青春の一頁を飾るものとなっている。小人数教育の成果であり、教師との肌のふれ合いにも似た親しい交流の時として位置づ けられるのである。 このように家庭生活に密着した教育が、単に良妻賢母主義教育として形にはまった考え型や技術の学習に終始したのではなく、生活 改 善 の役割、礼儀作法の学習による生活の向上をもたらし、家庭寮での合宿生活は、小人数教育の場でもあったといえる。﹁功罪半す﹂ というが、良妻賢母主義教育は負の側面ばかりを持ち合わせたのでなく、積極的に正の役割をも担った、否、人間はどんな局面をも打 開しながら自己を活かしていく力を内包しているといえよう。そしてこのエネルギーが戦後の男女平等教育ン、の実質的移行を容易なら しめた一因であったと判断する。 五、結 語 学 校 施設・設備の変遷を明らかにすることは、高女教育における教育方針およびその実績を客観的に掌握する方法の一つである。本 論 文 では、各学校が編纂した学校史︵誌︶を資料に分析を進めた。 普通教室以外の特別教室を含む施設の拡充を概観すると、一九〇〇年代までの高女成立期における施設の設置率は概して高い。裁縫・ 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 七 五
和 洋 女 子 大 学 紀 要 第 三十二集︵文系編︶ 七 六 ︵肥︶ 理 科 教 室 の一〇〇%の充足は、﹁裁縫ハ女子ノ生活二於テ最モ必要ナルモノナリ﹂との認識と、生活の合理化・科学的な判断力の育成を 目的とした高女教育を具現化したものである。しかし、実科および実科高女の設置が認められ、さらに高女の学校数が徐々に増設され た一九一〇年代の施設の設置は、特別教室の種類は多くなるが、割烹室以外は全体的に停滞する。一九二〇年代は高女設立の急増期で あり、大規模校の施設は拡充していく。学級数が多くなれば必然的に特別教室の需要も大となり、理科でも家政でもより専門的に分化 した教室設置となる。これに比して、小規模校は家政関係の施設は整備され、とくに家事・作法教室は大規模校を上回る設置率である が、理科教室は一教室のみにとどまる。他施設は音楽教室の七割以上のほかは停滞ぎみである。高女漸増期二九三〇年代︶は全般的 に 施 設 の 設置率の数値も漸増するが音楽教室は一七%減少して六割弱となる。一九四三年﹁中等学校令﹂による実科高女の高女への統 合 期は、戦局急を告げる時であり、施設・設備の増設なしの昇格となり、全体設置率の数値は大幅に下降する。さらにその後戦災の被 害を蒙り、高女終焉の頃の建築・施設を明らかにすることは不可能である。 このような全体的動向の中で、高女教育の特色を示す施設は、第一に裁縫教室を挙げざるを得ない。すべての時期に、すべての学校 に 設置された筆頭であるこの教室は、高女教育において被服生活の実用的側面を担ったのである。家政系の割烹・洗濯の各教室は、生 活 改 善を学習する場であった。生活に密着させようとする作法教室の設置も以外なほど高く、同窓会館内に一部施設を作るほど父兄や 卒業生の作法教育への支持がある。これに対し、理科系の教室の設備は学校間の格差が歴然とする分野であり、全体的には中学校に比 し見劣りがする。これに加えて、家庭寮の果した役割をみると、高女教育の中心は、良き妻、賢き母の育成であり、主婦として家政を つ かさどる日に備えてのものであった。 しかし、その中でよりよき人間としての感性教育が音楽を通して行なわれていた事実に注目したい。音楽教室の設置率が一九〇〇年 と一九二〇年に高く、一九一〇年と一九三〇年に低くなっている現象は、それぞれに時代・時期を反映したものある。アップライトピ アノにしろ、グランドピアノにしろ高女に設置された時の喜び、設置校数は少ないが、一九二〇年代には楽器練習室が登場、時間があ れ ば この小部屋で練習をする女学生の姿が絶えない。さらに音楽教育の成果として、音楽会が開催される。学内の発表会的なものだけ でなく、音楽の専門家を招いての演奏会は、本格的な音楽会であり、同窓生も一般市民の方々も一堂に会してのイベントであった。こ の ことから、高女の施設は社会教育の場であり、地域社会の文化の中心であったといっても過言ではない。同様の役割を果したのが図
書館であり、展覧会やバザー等の行事であった。 一方、ごく限られた専門学校しかなかったこの時代にあって、高女は生涯教育の]端を担っている。全国的な広がりをもって高女の 同窓会組織が運営され、各種の活動を展開している事実は、これを認左する。 以 上 のような観点で高女教育を把え直す時、さきに指摘した家政系の教育は良妻賢母主義教育に順応し、その中に埋没していたので はなく、時代の要請に応じつつ、中流階級の子女の教育を通じて、文化的生活を招来させ、地域社会との連繋、社会教育の場の提供、 生 涯 教育の拠点としての役割を果していたのである。 註 ︵学校史は現校名 括弧内に旧校名、書名の順に記し発行所は省略した︶ ω 法会に関しては﹃高等女学校資料集成 第一巻 法令篇﹄一九九〇 大空社参照のこと。 ② 青 森県立青森高︵青森高女︶﹃青森県立青森高等学校八十年誌﹄一九八〇 折込み二枚 ③ ωと同じ。一=四頁、この訓令は一九〇四年に廃止される。 ω お茶の水女子大学女性文化研究センターにおいて収集してある高等女学校学校史︵誌︶の一覧は、﹃高等女学校の研究 程ー﹄一九九〇、大空社の巻末に資料三︵四三−六四頁︶として掲載してある。また学校一覧は、﹃高等女学校資料集成 一九八九、大空社の中で収録。 ⑤ 群馬県立高崎女子高︵高崎高女︶﹃高女七〇年﹄一九六八 三頁 ⑥ 青森県立弘前中央高︵第=局女︶﹃八十年史﹄一九八〇、七九頁 ⑦ 宮崎県立高女一覧﹃高等女学校資料集成 第九巻﹄所収 一六六頁の次に折込み ⑧ 埼玉県立浦和女子高︵浦和高女︶﹃創立八十周年記念記﹄一九八〇 二四頁 ⑨ 大分県立上野丘高︵大分高女︶﹃第=局女 八五年の歩み﹄一九八六 五頁 0① 東京府立第一高女一覧﹃高等女学校資料集成 第九巻﹄所収 三〇二頁の次に折込み oo 福島県立会津女子高︵会津高女︶﹃創立八十周年記念誌﹄一九八八 二七頁 oo 福岡県立朝倉高︵朝倉高女︶﹃創立五十年史﹄一九五九 二六四ー三六五頁 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 制度的沿革と設立過 第九巻 学校一覧編﹄ 七 七
(34) (33) (32) (3D (20) (29) (28) (27) (26) (25) (24) (23) (22) (21) (20) (19) (18) (17) (i6) (15) (14) (13) 和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 山口県立長府高︵長府高女︶﹃長府高等学校六十年史﹄一九七二 二一二ー二六頁 岡山県立倉敷青青俵高︵倉敷高女︶﹃創立七十周年記念写真集﹄三頁 栃木県立足利女子高︵足利高女︶﹃創立七十周年誌﹄一九七九 二六頁 宮城県立第一女子高︵第一高女︶﹃六十年史﹄一九六一 三八頁 長 野県立諏訪二葉高︵諏訪高女︶﹃諏訪二葉高等学校七十年誌﹄一九七七 七ニー七三頁 栃 木県立栃木女子高︵栃木高女︶﹃創立六五年誌﹄一九六六 八〇頁 尼 崎市立高女﹃創立二十五年史要﹄一九五〇 四ー五頁 愛 媛県立西条高︵西条高女﹃八十周年記念誌 輝け道前の群像﹄一九七九 一〇四頁 茨城県立水戸第二高︵水戸高女︶﹃水戸二高七十年史﹄一九七〇 七六頁 大阪府立大手前高︵大手前高女︶﹃大手前高等学校七十年史﹄一九五八 一七七頁 東京都立富士高︵府立第五高女︶﹃創立六十周年記念誌﹄一九八一 ↓四六頁 愛媛県立今治北高︵今治高女︶﹃創立七十五周年記念﹄一九七三︵思い出の学舎︶ 奈良県立御所高︵御所高女︶﹃奈良県立御所高等学校七十年史﹄一九七四 一一六頁 個に同じ。 四四頁 千 葉県立千葉女子高︵千葉高女︶﹃創立八十周年記念誌﹄一九八二 五頁 兵 庫県立第一神戸高女﹃創立三十周年記念誌﹄一九三二 三六頁の次の折込み ⑥ に同じ。 一五五頁 栃木県立宇都宮女子高︵宇都宮高女︶﹃九〇年史﹄ 九六六 一九六頁 茨 城県立下館第二高︵下館高女︶﹃創立八十周年記念誌 恵幸﹄一九八〇 一八頁 ㈹ に同じ。 六頁 香川県立高松高︵高松高女︶﹃年輪﹄一九七三 六九頁 京 都 府 立綾部高︵何鹿高女︶﹃創八六十周年記念誌﹄一九七五 一二九頁 七 ノN
(56) (55) (54) (53) (52) (51) (50) (49) (48) (47) (46) (45) (44) (43) (42) (41) (40) (39) (38) (37) (36) (35) 群馬県立沼田女子高︵沼田高女︶﹃沼女五十年﹄一九七二 二五−二六頁 埼 玉県立熊谷女子高︵熊谷高女︶﹃鈴懸とともに﹄↓九七↓ 八二ー八三頁 群馬県立渋川女子高︵渋川高女︶﹃渋女六十年誌﹄二五ー二八頁 島根県立益田高校︵益田高校︶﹃益高創立七十周年記念誌﹄一九七二 一九七頁 秋 田県立花輪高︵花輪高女︶﹃創立五十周年記念誌﹄ 石川県立大聖寺高︵大聖寺高女︶﹃七十年史﹄一九八〇 五四六頁 千葉県立安房南高︵安房高女︶﹃創立六十周年記念誌﹄一四六頁 福島県立福島女子高︵福島高女︶﹃福女八十年誌﹄一九七七 四〇頁 OD に同じ。 二一九頁 熊本県立第一高︵第=局女︶﹃創立三十年﹄一九三五 三四頁 山形県立酒田西高︵酒田高女︶﹃有燐 創立八十周年記念誌﹄↓九七八 一九頁 徳島県小松島高︵小松島高女︶﹃五十年史﹄一九八 五八頁 ⑬ に同じ。 二二七頁 北 海 道庁立札幌高女一覧﹃高等女学校資料集成 第九巻﹄所収 岡山県和気閑谷高︵和気高女︶﹃創立三百年﹄一九七三 一四〇頁 栃 木県立宇都宮女子高︵宇都宮高女︶﹃百年史﹄一九七六 一六〇頁 ⑲ に同じ。 =二頁 00 に同じ。 一〇八頁 ㈲ に同じ。 三三三頁 00 に同じ。 二三七頁 埼 玉県立浦和第一高女一覧﹃高等女学校資料集成・第九巻﹄所収 栃 木県立鹿沼高︵鹿沼高女︶﹃四十年誌﹄一九六五 一七九頁 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 七 九
(78) (77) (76) (75) (74) (73) (72) (71) (70) (69) (68) (67) (66) (65) (64) (63) (62) (61) (60) (59) (58) (57) 和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 山口県厚狭高︵厚狭高女︶﹃沿革写真小史−厚狭高百拾年のあゆみ﹄一九八三 一五頁 山形県立谷地高︵谷地高校︶﹃六十周年記念誌﹄一九八一 四七頁 三 重県立上野高︵阿山高女︶﹃七十年のあゆみ﹄一九六九 七三頁 静岡県立吉原高︵吉原高女︶﹃嶺明﹄一九八四 七四頁 ㈱ に同じ。 一九六頁 00 に同じ。 折込み。 島根県立大東高︵大東高女︶﹃大東高女等学校六十年﹄一九八二 一六二頁 千 葉県立大原高︵大原高女︶﹃創立五十周年記念誌﹄一九七九 四五頁 大谷学園︵大谷高女︶﹃尋源 大谷学園六十年﹄一九六九 七七ー七八頁 豊島岡女子学園︵牛込高女︶﹃豊島岡女子学園九十年史﹄一九六九 六八ー六九頁 日本橋女学館︵日本橋高女︶﹃日本橋女学館史﹄一九七〇 六四ー六九頁 十文字学園︵十文字高女︶﹃十文字学園五十年史﹄一九七二 八四ー八五頁 神戸学院女子高校︵森高女︶﹃七十周年記念誌﹄一九八一 五八頁 神田女学園︵神田高女︶﹃竹水百年の流れ﹄一九九〇 五八頁 守屋教育学園︵帝国第一高女︶﹃吉祥四十年史 守屋学園﹄一九七八 一二九頁 蒲 田 女 子高校︵蒲田高女︶﹃蒲田女子高等学校四十年史﹄一九八〇 聖 霊学園︵聖霊学園七十年史﹄一九七八 一一七頁 東洋女子学園︵東洋高女︶﹃東洋女子学園六十年史﹄一九六四 一五二頁 ⑭ に同じ。 三頁 ㎝ に同じ。 一七七頁 ㈱ に同じ。 一一六頁 ㎝ に同じ。 三一ー四〇頁 八 〇
(96) (95) (94) (93) (92) (91) (90) (89) (88) (87) (86) (85) (84) (83) (62) (81) (80) (79) (99) (98) (97) 伽に同じ。 三頁 岡山県立津山高︵津山高女︶﹃母校のあゆみ 津山高校八十周年記念誌ー﹄一九七五、四三頁 ⑳ に同じ。 一四ー一五頁 ⑫ に同じ。 ニー三頁 香 川県立観音寺第一高︵三豊高女︶﹃樟樹とともに﹄一九八〇 一一六1=︼七頁 香川県立八幡浜高︵八幡浜高女︶﹃創立八十周年記念 八幡浜立案学校沿革誌﹄ 秋 田県立能代北高︵能代高女︶﹃創立七十周年記念誌﹄一九八四 八ー九頁、一八頁 高女の設立過程については﹃高等女学校の研究−制度的沿革と設立過程﹄一九九〇、大空社 栃 木県立真岡女子高︵真岡高女︶﹃七十年誌﹄一九八一 八四i八五頁 福 井県立武生高︵武生高女︶﹃武生高等学校七十年史﹄一九六九 四五五ー四五九頁 ㈲ に同じ。 ㈱ に同じ。 ⑳ に同じ。 ⑰ に同じ。 ㈲ に同じ。 60 に同じ。 成城学園 高等女学校研究会 調 査中間報告恥3﹄ 00 に同じ。 ㎝ に同じ。 60 に同じ。 第二部高等女学校の設立過程に詳述している。 二 六ー三八頁 一 三 九ー一四四頁 五 七ー五九頁、一〇六ー一〇七頁 一 九 九!二〇七頁 四〇頁 五 四ー五九頁、一〇三頁 (成城高等女学校︶﹃成城学園五十年﹄一九六七 六一九ー六二三頁 ︵代表山本禮子︶が私立高女卒業生に対して一九八七年にアンケート調査を実施し として冊子にまとめた。 一 四 二ー一四三頁 一 八 八ー一九二頁 一〇〇ー一〇一頁 施設・設備からみた高等女学校教育の一側面︵山本︶ 『高等女学校卒業生に対するアンケート ノN
alカ OlD O1Φ aog Qoab QoD OO㊦ QoO eo4 CO孕 00オ aoD OO9 和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ ㎝ に同じ。 一二〇頁 ㈹ に同じ。 五五頁 秋田県立秋田北高︵秋田高女︶﹃あげまき八十年﹄一九八一 二三頁 ⑬ に同じ。 一一〇ー一=頁 ⑬ に同じ。 ↓四二ー一四六頁 鍋 に同じ。 四六頁 00 に同じ。 七四−七五頁 福岡県立京都高︵京都高女︶﹃福岡県立京都高等学校四十年史﹄一九五九 一↓ニー一一八頁 ㈱ に同じ。 四〇頁 岐 阜県立羽島高︵羽島高女︶﹃六十年誌﹄一九八一、三二頁 福岡県立筑紫高女﹃皇記二千六百年記念号紫苑﹄一九四〇 三七−三八頁 00 に同じ。 三七頁 文 部 省 訓令第八号﹁女子教育二関スル件﹂一八一九、﹃高等女学校資料集成 第]巻 法令篇﹄一九九〇 大空社 一〇頁 八 (本学教授︶