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Vol.65 , No.1(2016)066朴 基烈「ジネーンドラブッディの心理現象」

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(1)

に認識対象になったものに対してのみ成り立つからである.つまり,彼は欲望な どは他の認識の対象になることはあり得ないから社会的約束が不可能であると述 べ,以下,欲望などが認識対象になれない場合を論証する. まず,彼は欲望などが生じる前の刹那とそれが生じる刹那に分けて説明する. 前者の場合,まだ,生じない欲望などが認識対象になることは不可能である.即 ち,欲望などが自らの認識対象がない状態なのでそれを認識することはできない から社会的約束との結びつきもないはずである.後者の場合,欲望などが生じる 刹那にも認識は言語表現(abhilāpa)と結びつくことはない.“即ち,[もし,欲望な どに言語表現が結びつくのであれば,]それ(欲望などと言語表現が結びつく認識)は 言語表現を取った後,そこ(欲望などの言語表現)に[欲望などが]結びつくので あろう.また,刹那滅であるから言語表現を取る瞬間にはそれ(欲望などと言語表 現が結びつく認識)は[まだ,生じる]ことなく,欲望なども[もう,去って,]な いことになる1).” つまり,欲望などの刹那にはそれと言語表現との結合という認 識作用はいかにしても発生しない.即ち,欲望などの自己認識は社会的約束が不 可能であるから言語表現をもたらすことはないのである. このような彼の論証のなか,下線部を欲望などとそれに関する言語表現による 認識が生じる過程であると仮定すると次のような図式が作られる. [図式 1]欲望など(の自己認識)(K1)→(欲望などの)言語表現(K2)→欲望などと 言語表現との結合(K3)*K:刹那 欲望など(K1)は欲望など,そのものである独自相(svalakṣaṇa)に対する直接知 覚,つまり欲望などの自己認識である.言語表現(K2)とは欲望などの一般相 (sāmānyalakṣaṇa)に対する分別知(1)である.また,欲望などと言語表現との結 合(K3)とは分別知(1)が欲望などを指示する分別知(2)として考えられるだ ろう.従って,K2 の分別知(1)は欲望などそのものである直接知覚(K1)を原 因とし,K3 の分別知(2)は K2 の分別知(1)を原因とする点で分別知(1)と (2)の区別ができる. 以上のように,ジネーンドラブッディは,欲望などはそれを認識対象とする分 別知と明らかに異なるものであることを示し,欲望などそのものが認識対象にな ることはあり得ないと論証する.これによって,欲望などは社会的約束が不可能 な自己認識であるという結論に達する. ジネーンドラブッディにとって楽などは知識と同じように形相をもつものであ ジネーンドラブッディの心理現象(朴) (127)

ジネーンドラブッディの心理現象

朴  基 烈

ジネーンドラブッディはディグナーガの Pramāṇasamuccaya I 6b とその自注での “欲望などの自己認識” に関して Pramāṇasamuccayaṭīkā(PSṬ)I 53, 9–56, 10 で注釈す る.このなか,1)53, 9–56, 2 は “欲望などの自己認識” に関するものであり,2)56, 3– 56, 10 はそれらを意知覚として呼ぶ理由を解説する.1)はまた,(1)自己認識(53, 9–53, 14),(2)欲望などが無分別である理由(53, 14–54, 9),(3)欲望などが知識と 同一である理由(54, 10–56, 2)にわけて論証する.本稿は 1)に関する検討である. ジネーンドラブッディはまず,“欲望などの自己認識” での認識とは自らに依る ものであるから自己認識であるという.これは認識という言葉の一般性に関する 定義で,それが心と心所に関するものである点で,NB I 10: “すべての心と心所は 自己認識である” という定義の言い換えとして捉えられる.また,彼は認識とは 形相を把握するもの(grāhaka)であると呼ばれ,直接経験(anubhava)を本性とす るので認識手段(pramāṇa)であると言う.一方,欲望なども直接経験による顕現 であると同時に,自らを認識させるので自己認識(ātmasaṃvedana)であると述べら れる. また,彼は自らの理解(adhigama)を本質とする認識の有りままのすがた,それ がその結果であると理解すべきであり,欲望などの認識対象は自らであると言う ことによって,欲望などの認識対象,手段,結果が別々のものではないと主張す る.従って,このような彼の解釈は最終的に,“欲望など” と “自己認識” が個別で はなく,欲望などが自己認識の一例に過ぎないと理解できる.一方,欲望などに 言及する理由として欲望などは他の諸認識より鮮明な(spaṣṭa)自己認識として現 れるからであるとしている. 欲望などの自己認識が直接知覚である以上,それらは 無分別性(avikalpakatva) を持つべきである.これに関するジネーンドラブッディの要旨は次のようである. 欲望などは社会的約束(samaya)が不可能である.なぜならば,社会的約束はすで (126) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 399 ─

(2)

に認識対象になったものに対してのみ成り立つからである.つまり,彼は欲望な どは他の認識の対象になることはあり得ないから社会的約束が不可能であると述 べ,以下,欲望などが認識対象になれない場合を論証する. まず,彼は欲望などが生じる前の刹那とそれが生じる刹那に分けて説明する. 前者の場合,まだ,生じない欲望などが認識対象になることは不可能である.即 ち,欲望などが自らの認識対象がない状態なのでそれを認識することはできない から社会的約束との結びつきもないはずである.後者の場合,欲望などが生じる 刹那にも認識は言語表現(abhilāpa)と結びつくことはない.“即ち,[もし,欲望な どに言語表現が結びつくのであれば,]それ(欲望などと言語表現が結びつく認識)は 言語表現を取った後,そこ(欲望などの言語表現)に[欲望などが]結びつくので あろう.また,刹那滅であるから言語表現を取る瞬間にはそれ(欲望などと言語表 現が結びつく認識)は[まだ,生じる]ことなく,欲望なども[もう,去って,]な いことになる1).” つまり,欲望などの刹那にはそれと言語表現との結合という認 識作用はいかにしても発生しない.即ち,欲望などの自己認識は社会的約束が不 可能であるから言語表現をもたらすことはないのである. このような彼の論証のなか,下線部を欲望などとそれに関する言語表現による 認識が生じる過程であると仮定すると次のような図式が作られる. [図式 1]欲望など(の自己認識)(K1)→(欲望などの)言語表現(K2)→欲望などと 言語表現との結合(K3)*K:刹那 欲望など(K1)は欲望など,そのものである独自相(svalakṣaṇa)に対する直接知 覚,つまり欲望などの自己認識である.言語表現(K2)とは欲望などの一般相 (sāmānyalakṣaṇa)に対する分別知(1)である.また,欲望などと言語表現との結 合(K3)とは分別知(1)が欲望などを指示する分別知(2)として考えられるだ ろう.従って,K2 の分別知(1)は欲望などそのものである直接知覚(K1)を原 因とし,K3 の分別知(2)は K2 の分別知(1)を原因とする点で分別知(1)と (2)の区別ができる. 以上のように,ジネーンドラブッディは,欲望などはそれを認識対象とする分 別知と明らかに異なるものであることを示し,欲望などそのものが認識対象にな ることはあり得ないと論証する.これによって,欲望などは社会的約束が不可能 な自己認識であるという結論に達する. ジネーンドラブッディにとって楽などは知識と同じように形相をもつものであ ジネーンドラブッディの心理現象(朴) (127)

ジネーンドラブッディの心理現象

朴  基 烈

ジネーンドラブッディはディグナーガの Pramāṇasamuccaya I 6b とその自注での “欲望などの自己認識” に関して Pramāṇasamuccayaṭīkā(PSṬ)I 53, 9–56, 10 で注釈す る.このなか,1)53, 9–56, 2 は “欲望などの自己認識” に関するものであり,2)56, 3– 56, 10 はそれらを意知覚として呼ぶ理由を解説する.1)はまた,(1)自己認識(53, 9–53, 14),(2)欲望などが無分別である理由(53, 14–54, 9),(3)欲望などが知識と 同一である理由(54, 10–56, 2)にわけて論証する.本稿は 1)に関する検討である. ジネーンドラブッディはまず,“欲望などの自己認識” での認識とは自らに依る ものであるから自己認識であるという.これは認識という言葉の一般性に関する 定義で,それが心と心所に関するものである点で,NB I 10: “すべての心と心所は 自己認識である” という定義の言い換えとして捉えられる.また,彼は認識とは 形相を把握するもの(grāhaka)であると呼ばれ,直接経験(anubhava)を本性とす るので認識手段(pramāṇa)であると言う.一方,欲望なども直接経験による顕現 であると同時に,自らを認識させるので自己認識(ātmasaṃvedana)であると述べら れる. また,彼は自らの理解(adhigama)を本質とする認識の有りままのすがた,それ がその結果であると理解すべきであり,欲望などの認識対象は自らであると言う ことによって,欲望などの認識対象,手段,結果が別々のものではないと主張す る.従って,このような彼の解釈は最終的に,“欲望など” と “自己認識” が個別で はなく,欲望などが自己認識の一例に過ぎないと理解できる.一方,欲望などに 言及する理由として欲望などは他の諸認識より鮮明な(spaṣṭa)自己認識として現 れるからであるとしている. 欲望などの自己認識が直接知覚である以上,それらは 無分別性(avikalpakatva) を持つべきである.これに関するジネーンドラブッディの要旨は次のようである. 欲望などは社会的約束(samaya)が不可能である.なぜならば,社会的約束はすで (126) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 398 ─

(3)

い.その根拠としては欲望などは知識と異なるものではないから両者の認識の仕 組みは同一であるはずだ.即ち,楽などは青色などと同じように形相を持つとい う点で,外界対象に対する意知覚の発生の仕組みは楽などの自己認識の意知覚の 発生にそのまま適用できると思われる.まず,この定義では外界対象の相続(A) と知識の相続(J)は本質的に異なるものである.また,外界対象に対する意知覚 とはそれが生じる直前の刹那の A をその意知覚の共同因(sahakārin)とし,同じ相 続の意知覚の直前の感官知を等無間縁(samanantarapratyaya)にして生じるものであ る.一方,自己認識は J の相続の流れのなか,現刹那ごとにで行われるので,実 際には A は J の直接的な認識対象になることができない. 従って,[図式 1]の(欲望などの)言語表現(K2,分別知 1)は K1 の欲望などの 自己認識(=直接知覚)を共同因とし,想起(smṛti)を等無間縁にして生じると考 えられる.また,欲望などと言語表現との結合(K3,分別知 2)は言語表現(K2) によって欲望などに向かわせ,それに到達させる分別知として想定できる.最後 として,このような直接知覚と分別知との連係する認識の仕組みをダルモッタラ の知覚判断(adhyavasāya),即ち,直接知覚の直後の刹那に生じ,正しい知識 (saṃyagjñāna)に向かわせる分別知の原因になる分別知に適用されるとしたら,K2 での言語表現は知覚判断として考えられるだろう.この試みは各刹那での一切の 認識は唯識学派の自己認識によるものであり,直接知覚から分別知への変換にお いては一応,経量部の認識の仕組みによるものであるということを表している.  1)PSṬ I 54, 4–5: tathā hi sā abhilāpam ādāya tatra yojayet/ abhilāpagrahaṇe ca kṣaṇikatvān na

sā, nāpi rāgādaya iti[/].

 2)NB I 9: svaviṣayānantaraviṣayasahakāriṇā indriyajñānena samanantarapratyayena janitaṃ tan manovijñānam//.

〈略号〉

PSṬ Jinendrabuddhi’s Pramāṇasamuccayaṭīkā, Chapter 1. Ed. Ernst Steinkellner, Helmut Krasser, and Horst Lasic. Beijing: China Tibetology Publishing House; Vienna: Austrian Academy of Sciences Press, 2005.

NB Paṇḍita Durveka Miśra’s Dharmottarapradīpa: Being a Sub-commentary on Dharmottara’s Nyāyabinduṭīkā, a Commmentary on Dharmakīrti’s Nyāyabindu. Ed. Paṇḍita Dalsukhbhai Malvania. Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, 1955. 〈キーワード〉 rāgādi,sukhādi,svasaṃvitti,mānasapratyakṣa (東国大学校非常勤講師,哲博) ジネーンドラブッディの心理現象(朴) (129) る.まず,彼は反論者の主張を次のように想定する.知識と楽などは互いに異な るものである.即ち,たとえ,知識と楽などが一つのアートマンに内属していて も,楽などは一つの知識によって把握される認識対象に当たる.従って,それは 認識主体になれるものではない.いわんや,自らを認識するということはあり得 ない.一方,ジネーンドラブッディは他の反論者の見解として楽などは内的なも の(antāra)でもなく,心的なもの(cetana)でもない.即ち,楽などは内的及び, 心的とは反対のものを本性とする認識対象にすぎないという主張を紹介する. このような他学派の楽などは知識と異なるものであるという主張に対するジネー ンドラブッディの答論の要旨は次のように纏められる.楽などは嬉(hlāda)など の形相を随伴する.まるで,青色の知識が青色という形相を持つように.従って, 楽などは知識と同一である.即ち,一切の知識が自己認識であるように楽などは 他のものによって把握されることはないものである. 要するに,彼は二種類の反論の想定を通じて,認識の内部と外部でのそれぞれ の認識対象としての楽などをあげ,各々の論理の矛盾を指摘することで,楽など が他のものの認識対象として成り立つことはあり得ないと論証する.最後に,彼 は楽などの自己認識での楽などというものは反論者たちの楽などと異なるもので はないことを示す.しかし,彼の視点からは反論者達の楽などとは楽などそのも のではなく,それらを認識対象とし,言語表現に基づく分別知に他ならないので ある. 以上のジネーンドラブッディの論証のなか,筆者が注目する一つは前述した[図 式 1]での K1 と K2 がどのように繫がるかということである.即ち,K1 の欲望 などの自己認識は直接知覚としての無分別知である.理論的には直接知覚は分別 知が生じる直前の刹那まで相続(sañcita)を続ける.また,各刹那ごとに対象形相 (viṣayākāra)=認識対象=認識手段=認識結果の構造で自己認識が行われる.この 時,直前の刹那の認識対象と認識手段,両者が直後の刹那の認識対象になる.こ れによって,各刹那の対象形相は直前のものと異なるものとなる.この仕組みは 分別知の生じる刹那からでも適用され,分別知の相続も同様に説明できる.さら に,分別知の各刹那でも自己認識の仕組みが直接知覚の刹那のように働く.それ ならば,分別知が生じる直前の刹那の直接知覚がその直後の分別知の生起のため, いかなる役割をもち,一つの心相続で直接知覚から分別知への変換ができるので あろうか. 筆者は NBⅠ9 の外界対象に関する意知覚の定義2)の構造を借りて説明を試みた (128) ジネーンドラブッディの心理現象(朴) ─ 397 ─

(4)

い.その根拠としては欲望などは知識と異なるものではないから両者の認識の仕 組みは同一であるはずだ.即ち,楽などは青色などと同じように形相を持つとい う点で,外界対象に対する意知覚の発生の仕組みは楽などの自己認識の意知覚の 発生にそのまま適用できると思われる.まず,この定義では外界対象の相続(A) と知識の相続(J)は本質的に異なるものである.また,外界対象に対する意知覚 とはそれが生じる直前の刹那の A をその意知覚の共同因(sahakārin)とし,同じ相 続の意知覚の直前の感官知を等無間縁(samanantarapratyaya)にして生じるものであ る.一方,自己認識は J の相続の流れのなか,現刹那ごとにで行われるので,実 際には A は J の直接的な認識対象になることができない. 従って,[図式 1]の(欲望などの)言語表現(K2,分別知 1)は K1 の欲望などの 自己認識(=直接知覚)を共同因とし,想起(smṛti)を等無間縁にして生じると考 えられる.また,欲望などと言語表現との結合(K3,分別知 2)は言語表現(K2) によって欲望などに向かわせ,それに到達させる分別知として想定できる.最後 として,このような直接知覚と分別知との連係する認識の仕組みをダルモッタラ の知覚判断(adhyavasāya),即ち,直接知覚の直後の刹那に生じ,正しい知識 (saṃyagjñāna)に向かわせる分別知の原因になる分別知に適用されるとしたら,K2 での言語表現は知覚判断として考えられるだろう.この試みは各刹那での一切の 認識は唯識学派の自己認識によるものであり,直接知覚から分別知への変換にお いては一応,経量部の認識の仕組みによるものであるということを表している.  1)PSṬ I 54, 4–5: tathā hi sā abhilāpam ādāya tatra yojayet/ abhilāpagrahaṇe ca kṣaṇikatvān na

sā, nāpi rāgādaya iti[/].

 2)NB I 9: svaviṣayānantaraviṣayasahakāriṇā indriyajñānena samanantarapratyayena janitaṃ tan manovijñānam//.

〈略号〉

PSṬ Jinendrabuddhi’s Pramāṇasamuccayaṭīkā, Chapter 1. Ed. Ernst Steinkellner, Helmut Krasser, and Horst Lasic. Beijing: China Tibetology Publishing House; Vienna: Austrian Academy of Sciences Press, 2005.

NB Paṇḍita Durveka Miśra’s Dharmottarapradīpa: Being a Sub-commentary on Dharmottara’s Nyāyabinduṭīkā, a Commmentary on Dharmakīrti’s Nyāyabindu. Ed. Paṇḍita Dalsukhbhai Malvania. Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, 1955. 〈キーワード〉 rāgādi,sukhādi,svasaṃvitti,mānasapratyakṣa (東国大学校非常勤講師,哲博) ジネーンドラブッディの心理現象(朴) (129) る.まず,彼は反論者の主張を次のように想定する.知識と楽などは互いに異な るものである.即ち,たとえ,知識と楽などが一つのアートマンに内属していて も,楽などは一つの知識によって把握される認識対象に当たる.従って,それは 認識主体になれるものではない.いわんや,自らを認識するということはあり得 ない.一方,ジネーンドラブッディは他の反論者の見解として楽などは内的なも の(antāra)でもなく,心的なもの(cetana)でもない.即ち,楽などは内的及び, 心的とは反対のものを本性とする認識対象にすぎないという主張を紹介する. このような他学派の楽などは知識と異なるものであるという主張に対するジネー ンドラブッディの答論の要旨は次のように纏められる.楽などは嬉(hlāda)など の形相を随伴する.まるで,青色の知識が青色という形相を持つように.従って, 楽などは知識と同一である.即ち,一切の知識が自己認識であるように楽などは 他のものによって把握されることはないものである. 要するに,彼は二種類の反論の想定を通じて,認識の内部と外部でのそれぞれ の認識対象としての楽などをあげ,各々の論理の矛盾を指摘することで,楽など が他のものの認識対象として成り立つことはあり得ないと論証する.最後に,彼 は楽などの自己認識での楽などというものは反論者たちの楽などと異なるもので はないことを示す.しかし,彼の視点からは反論者達の楽などとは楽などそのも のではなく,それらを認識対象とし,言語表現に基づく分別知に他ならないので ある. 以上のジネーンドラブッディの論証のなか,筆者が注目する一つは前述した[図 式 1]での K1 と K2 がどのように繫がるかということである.即ち,K1 の欲望 などの自己認識は直接知覚としての無分別知である.理論的には直接知覚は分別 知が生じる直前の刹那まで相続(sañcita)を続ける.また,各刹那ごとに対象形相 (viṣayākāra)=認識対象=認識手段=認識結果の構造で自己認識が行われる.この 時,直前の刹那の認識対象と認識手段,両者が直後の刹那の認識対象になる.こ れによって,各刹那の対象形相は直前のものと異なるものとなる.この仕組みは 分別知の生じる刹那からでも適用され,分別知の相続も同様に説明できる.さら に,分別知の各刹那でも自己認識の仕組みが直接知覚の刹那のように働く.それ ならば,分別知が生じる直前の刹那の直接知覚がその直後の分別知の生起のため, いかなる役割をもち,一つの心相続で直接知覚から分別知への変換ができるので あろうか. 筆者は NBⅠ9 の外界対象に関する意知覚の定義2)の構造を借りて説明を試みた (128) ジネーンドラブッディの心理現象(朴) ─ 396 ─

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