として
著者 鈴木 敏弘
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 52
ページ 55‑67
発行年 1999‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011368
絵画資料は、美術および美術史研究の対象としてだけではなく、文献史学の研究対象としても主要な一分野を形成しつつある。特に、古代・中世の絵巻を歴史資料として研究対象としたのは、一九八○年代以降のいわゆる社会史盛行の影響が大きい。この段階の絵巻研究は、主にビジュアルな面を対象として、そこから民衆生活の復元を目指したものであった。近年においては、そこに描かれた画像を解釈するだけではなく、古文書・古記録との併用によって対象となる絵画資料が製作された時代の背景を探る試みもな
されてい(邸・
絵画資料の中でも、歴史研究の対象として特に注目さ はじめに絵画資料と雁史研究(鈴木)
絵画資料と歴史研究
l『梅若権現縁起絵誉を例としてIれたのは絵巻であった。それは、絵巻の基本的な構成が、詞書とそれの絵画化によって表現された部分とによって構成されていることによる。確かに絵巻の描写自体に価値があり、そこから歴史的に貴重な情報を与えてくれることは、いうまでもないが、詞書もまた、我々が歴史を探求する際に貴重な手掛かりを与えてくれるからである。このような、絵巻研究の第一は、描写自体の研究、第二には、描写と詞書の研究、第三には絵巻の製作された背景の研究がなされている。そして、絵巻にある地域が描かれている場合には、描かれている地域景観から地域的特質を探る研究もなされている。そのような意味で、絵巻という文化財を歴史研究の対象として考察した場合、そこに何が見えてくるのか。また絵巻自体が、文化財として貴重な資
鈴木敏弘
五五
東京都墨田区堤通に所在する木母寺は、元来梅若寺といわれ、能『隅田川』で知られる梅若九を祀った寺院である。この木母寺には、創建の由来を絵巻にした『梅若権現縁起絵巻』全三巻が所蔵されている。『梅若権現縁起絵巻』は、すでに昭和六三年(一九八八)に墨田区登録有形文化財(歴史資料)として登録されているが、傷みも激しく、さらなる保護の必要性と、墨田区の古の風光を伝えているという絵画的重要性から、平成九年二九九七)改めて墨田区指定有形文化財(絵画)に指定された。まず、『梅若権現縁起絵巻』の概要を記しておきたい。指定名称は、「紙本着色梅若権現縁起絵巻付漆箱二厘」である。員数は、全三巻(上巻・中巻・下巻)であり、各々の法量は、上巻は長さ一二七二・八センチメートル・幅一一一一・九センチメートル、中巻は長さ一二八四.八セン 料であり、その保護と活用についても考慮する必要があろう。そこで、本稿においては、東京都墨田区堤通に所在す
る木母寺所蔵『梅若権現縁起臘趨』を素材に、地域景観と
その描かれた意味を考えるとともに、絵巻それ自体の保護と活用について論じたい。 法政史学第バト.一号『梅若権現縁起絵巻』 チメートル・幅三一・九センチメートル、下巻は長さ一四五一一一・○センチメートル・幅三一・九センチメートルである。形状および材質は、表紙は紺地に金欄唐草模様のある錦。見返しには金布目地紙。押え竹(銅製)は中巻のみに残存し、各巻に焦げ茶色の平打ち紐が付されている。題篭は金砂子散らしの蝋菱で、それぞれに「梅若権現御縁起上」・「梅若権現御縁起中」・「梅若権現御縁起下」と墨書し、各巻の表紙左一肩に貼付されている。料紙は金切箔や砂子を散らした泥間似合紙に、草木模様や霞の下絵が金泥によって描かれ、紙背には金銀切箔を散らしている。各巻の料紙枚数は、上巻一八枚、中巻は一九枚、下巻は一三枚を継いでいる。なお、絵巻の画家および書家については、絵巻中に記載
はなく、ともに不詳で込鼬。また、製作年代であるが、本 絵巻は安藤対馬守重胤が、延宝七年(’六七九)’’一月中旬
に当時の木母寺寺主典海へ寄進しているので延宝七年一一一月以前の製作と推定される以外は不明である。内容および構成であるが、上巻は、第一段から第五段までで構成されている。巻頭には、「和光同塵は結縁の初、八相成道利物の終といへり、神や佛の結縁利益、いつれも衆生の為なれは、誰人かその誓願をあふかすしもあらむ」五六
とあって、絵巻全体の序文としての位置付けがなされている。この詞書きに続いて、武蔵国と下総国の間を流れる隅田川のほとりで亡くなり神となった梅若丸の生涯を尋ねると父は洛陽北白川に住む吉田少将惟房、母は美濃国野上の
長者の一人娘である花御前で私矼という話の導入が続き、
第一図〔吉田少将邸〕が描かれる。第二段では、世継ぎの誕生を願い比叡山の麓に鎮座する日吉社の拝殿に詣でる吉田少将と花御前が第二図〔日吉社頭〕として描かれている。この場面の描写は、随従する家臣や日吉社の山王鳥居などが三巻中で最も長い画面に描かれている。この場面は、当絵巻が山王信仰Ⅱ天台宗との関わりを表現する出発点の意味として受け取れる。第三段では、梅若九の父吉田少将が三五歳で病没し、母が父の菩提を弔うためにせめてお経のひとつでも読めるようにと七歳になった梅若丸に郎党の中山次郎をつけて比叡山月林寺に登らせる場面が、第三図〔比叡山月林寺師弟対面〕である。第四段では、梅若九が修行をしている様子が、第四図〔比叡山月林寺修学三昧〕として描かれている。第五段では、梅若丸が一二歳の春に、同輩との和歌の争いが発端となり、中山次郎らが防ぎ戦っている第五図〔山内闘争(こ〕が描かれている。中巻も第一段から第五段までで構成されている。冒頭絵画資料と歴史研究(鈴木) は、上巻第五段・第五図〔山内闘争(ご〕の続きで、中山次郎が身をもって梅若丸を守り山法師と戦っていたが、いつしか梅若丸と中山次郎が離れ離れとなっている場面が、第一図〔山内闘争(二)〕として描かれている。中山次郎は討ち死にし、梅若丸は道に迷い琵琶湖のほとり、大津の浜へとたどり着く。そこに奥州白河の人買い信夫の藤
太が出現土馳・これが、第二図〔大津の浜藤太出現〕であ
る。信夫の藤太に連れられて奥州へ向う梅若丸は、武蔵と下総の国境を流れる隅田川の東岸関屋の里までたどり着く、梅若丸は長い旅の疲れから重い病にかかり、船からあがったが、|歩も歩けない状況になってしまった。信夫の藤太は梅若丸を見捨ててこの場を去ってしまう場面が、第三図〔隅田川関屋の里〕である。第四図〔昇天〕は、日吉山王権現の使者である二頭の猿が梅若丸を迎え天に昇る場面で、関屋の里に梅若丸が日吉山王権現の分身としてこの地に鎮座する因縁が生じた場面である。この場面は、上巻第二段・世継ぎの誕生を願い吉田少将と花御前が日吉社に詣でる第二図〔日吉社頭〕と関連する場面であり、宗教的要素の濃い部分である。わが子の失院を知った花御前の姿が第五図〔吉田少将旧邸〕に描かれている。下巻も上・中巻同様に、第一段から第五段までで構成さ五七
れている。第一図〔女もの狂い〕は、能の『隅田川』でよく知られている場面である。短冊型の紙片のついた小笹Ⅱ四手(幣)を手にして町をさまよい歩く狂女となった花御前が東へ向かう場面が描かれている。第二段では、東国へ向った花御前が、隅田川を渡る船の中で岸から聞こえる念
仏と鉦の音に対して船頭が去年の三月一亙則に幼い子供が
岸辺で亡くなったという話をし、これを聞いた花御前が、自分の子供のことであるのに気がついて驚き嘆き悲しむ様子が第二図〔悲母渡河〕に描かれている。第三図〔塚前回向〕は、第二図〔悲母渡河〕に描かれている描写とほぼ同様ではあるが、第二図〔悲母渡河〕が昼間であるのに対して、第三図〔塚前回向〕は月が描かれており、夜間の描写となっている。花御前が梅若丸の塚の前で菩提を弔っている場面である。花御前は悲しみのあまり隅田川対岸の橋場にある鏡ケ池に入水したところ、大きな亀が花御前の亡きがらを背に乗せて現れたことから、妙亀大明神信仰がおこったという話が、第四図〔妙亀塚由来〕である。第五図の〔権現社頭〕は、日吉山王権現の分身として《梅若山王権現》として信仰の対象となる場面である。下巻の最後には、「此寺の縁起、破壊に及ひ、画図文詞正しからさる故、安藤対馬守重治、再興して、画工能書に命し、縁起一一一 法政史学第五十二号巻に事生、当寺主典海へ寄進して、永く此寺の什物とな
す、神は敬によって威を増の謂歎千時延宝七暦紀弥生中
旬」とあって、絵巻全体の結びとなっている。このような『梅若権現縁起絵巻』の各々の場面と詞書からは、以上のような内容が読み取れるが、これらの情報からどのような地域景観を復元することができるのか。また、絵巻の製作された背景には、どのような意味があるのか。前項で紹介したような、『梅若権現縁起絵巻』上巻は、梅若丸が比叡山と結び付く前提として、父の洛陽北白川に住む吉田少将惟房と母の美濃国野上の長者の一人娘である花御前が、世継ぎの誕生を願い比叡山の麓に鎮座する日吉社の拝殿に詣でている。そして、吉田少将の死後梅若丸に比叡山月林寺に登らせることによって、梅若丸が山王信仰Ⅱ天台宗との関わりを有するようになる。これによって、木母寺が天台宗の寺院であるということと関連付けているものと考えられる。なお、梅若丸の父吉田少将惟房という人物や比叡山に月林寺という寺院は存在しない。では、なぜ存在しない人物や寺院を登場させることまでして、山王 一一『梅若権現縁起絵巻』に見る中世隅田の地域景観 五八
信仰Ⅱ天台宗が描かれているのであろうか。本絵巻が製作された経緯は、下巻末に「此寺の縁起、破壊に及ひ、画図文詞正しからさる故、安藤対馬守重治、再興して、画工能書に命し、縁起三巻に事生、当寺主典海へ寄進して、永く此寺の什物となす、神は敬によって威を増
の謂歎千時延宝七札暦弥生中旬」とあって、延宝七年
(一六七九)’一一月中旬、安藤対馬守重治より当時の寺主である典海へ寄進され、現在に伝わる。そして重治が寄進した理由を「此寺の縁起、破壊に及ひ、画図文詞正しからさる故、安藤対馬守重治、再興して」と記している。これについて『新編武蔵風土記稿』には「寺伝に此縁起は昔大猷院殿の御旨を受て重治の祖対馬守某撰へる処なり」とあって、もともと伝来していた縁起を改めて作製したと伝えてい誕・その理由としては、現存の縁起絵巻は、上巻・中巻
の画面・詞書の構成の根幹に天台宗Ⅱ山王信仰が存在しており、木母寺が天台宗寺院として寛永寺の直末に編成されたことと関連して現存の縁起絵巻が作製されたものと考えら、靴・
そのような理由から、上巻および中巻には、天台宗Ⅱ山王信仰が色濃く描かれ、木母寺と天台宗を結び付けるために、吉田少将惟房と花御前が世継ぎの誕生を願い日吉社に絵川資料と歴史研究(鈴木) 詣で、梅若丸が比叡山月林寺で修行を行っているのである。そして、上巻と中巻をむすびつけるのが、上巻第五図〔山内闘争(ご〕と中巻第一図〔山内闘争(二)〕であり、奥州白河の人買い信夫の藤太が、前半部と木母寺Ⅱ隅田が登場する中巻第三図〔隅田川関屋の里〕以降を結び付ける役割を担っている。この奥州白河の人買い信夫藤大の出現の意味と中巻第三図〔隅田川関屋の里〕から、中世隅田の地域的特質がどのようなものであったのかを明らかにしてみたい。信夫の藤太が重い病にかかった梅若丸を見捨てて去ってしまう場が、関屋の里である。関屋の里とは、木母寺の背後に位置する隅田川の河岸に面した地域を指す地名のことであり、この付近に『吾妻鏡』に見える「隅田宿」が存在していたと推測される。隅田宿の初見は、この『吾妻鏡』治承四年(二八○)’○月二日条の頼朝の乳母であった小山政光の妻寒河尼が末子朝光を伴い隅田宿に在陣中であった頼朝のもとへ参向
した記事であ麺・|般的に中世の宿の原型が平安末期に形
成されていたことを勘案するならば、隅田が宿として形成されたのは、平安時代に遡ることが推測できる。隅田が古五九
くより交通の要衝であったことを示す史料として、承和二
年(八一一一五)六月二九日付「大政官獅」がある・
大政官符応造浮橋布施屋井置渡船事(中略)一加増渡船十六艘尾張美濃両国堺墨俣河四艘。枕川棚腓。尾張国草津渡三 艘。航朏卿附参河飽海矢作両河各四艘。机川休柵囎遠 江駿河両国堺大井河四艘。机川棚剛駿河国阿倍河一一一 艘。航叶捌囎下総国太日河四艘。枕爪捌卿武蔵国石瀬 河三艘。侃卜捌畔武蔵下総両国堺住田河四艘。枕肌捌畔
右河等崖岸広遠不得造橋。佃増件船。(後略)この中に「武蔵下総両国堺住田河四艘。枕川棚卿」と見
え、隅田川の渡船が一一艘から四艘に増船されている。この「太政官符」に見える増船地は、いずれも古代の官道上の渡河点であると考えられ、同様に増船されている。「太日河」は、現在の江戸川であり、大日何の渡河点は、下総国府の所在した千葉県市川市国府台と対岸に位置する「下総国葛飾郡大嶋郷戸翻」に記載の見られる「甲和里」の比定
地である東京都江戸川区小岩と考えられる。そして、下総 法政史学姉尺トーニリ国府から小岩・葛飾区立石を経由し、隅田に至るルート
は、古代の官道の存在が認められてい率さらに、東京都
墨田区墨田には、荒川放水路開削以前に、隅田川河岸の木母寺から通じている「奥州街道」と称される道が存在しており、『雨の割』には、「(前略)東鑑に見へたり、隅田の
宿は木母寺の前、隅田川の岸に有しとぞ、其跡今は田と成て、士手の内にかすも町残り、奥州道のかわりし時、隅田の宿は千住へ移りて、今の千住の宿也と、里の翁の語り侍れば、彼書に見へし隅田の宿は是なるべし(後略)」とあり、『江戸砂弼』にも「○隅田川の渡橋場の渡し共云、
隅田村木母寺へわたる所、此わたしむかしの奥州街道と云、伊勢物語の、日もくれぬはや船にのれといひしも此所也とそ」と、近世地誌類にもこのような記述が見られる。すなわち、本絵巻を所蔵する木母寺付近は、古代より中世にいたるまで『吾妻鏡』に記載のある隅田宿が所在し、下総国府へいたる官道と隅田が奥州へ通じる街道との分岐点となっており、陸上・海上交通の要衝であった。ここに、人買い信夫の藤太が登場する必然性があり、藤太の存在が、木母寺と梅若丸を結び付ける要素となるとともに、『梅若権現縁起絵巻』の製作された近世の初期の段階においても「隅田関屋の里」が奥州への経路として認識-8--
/、
○
されていたのである。そして近世以降の木母寺周辺は、明暦三年二六五七)五月には、木母寺境内、本堂の背後に将軍の隅田川御殿が
建築され、四代将軍家綱が度々訪れてい率家綱の治世頃 成立したとされる『江戸名所江』巻一一一「角田川」には、
「此川の岸ちかく梅若丸の墓ありしるしの木は柳なり三月十五日は縁日也」とあって、隅田川を象徴するものとして梅若塚Ⅱ木母寺という認識がみられるとともに、庶民の参詣による賑わいの様子が想像される。一方、『葛西志』によると、五代将軍綱吉の生母桂昌院が木母寺に参詣、本絵巻を見学するとともに絵巻を借り受けて後日返却したとの記載が見ら枢、将軍家の信仰も続いていた。隅田
川御殿は、天明頃二七八一~一七八八)消滅したと推測される。それ以後この地は庶民の憩いの場となり、安藤(歌川)広重も「関屋の里」を描いている。『梅若権現縁起絵巻』の製作段階においては、「関屋の里」は、隅田川御殿や庶民の憩いの場としてのイメージではなく、奥州への経路上の地点としてイメージされていたのではないかと思われる。以上のように、『梅若権現縁起絵巻』を通して、登場人物や地域について考察をおこなった。『梅若権現縁起絵絵側資料と膝史研究(鈴木) 前節で述べたように、『梅若権現縁起絵巻』は、中世の景観を視覚的にとらえることができるとともに、製作された背景に存在する意味を理解する必要がある。そのためには、絵巻という形態をとっていること自体にある種の意義があって、描かれている内容を把握するには、原本を広げて通覧することが最も理解しやすい手段であることに、間違いないしかし、『梅若権現縁起絵巻』は、その上・中・下巻のすべての巻の本紙に折が無数に見られ、これを原因として絵具が剥落している。そのため、各巻すべての修復が急がれ鬘るが、特に上巻については、昭和二○年(’九四五)三月一五日夜半、米軍機による空襲をうけた際に爆弾の破片が外箱・内箱を貫通し、上巻につきささった結 巻』は、単に絵画資料としての価値に止まらず、そこから、無数ともいえるような様々な情報を提示してくれる。さらに、単なる視覚的に中世の景観を訴えるだけの素材としてではなく、隅田関屋の里が、近世初期の人々にどのように認識されていたのか、そして絵巻が製作された背景にある見えない意識が何を意味しているのかを理解する必要があろう。
三『梅若権現縁起絵巻』の活用とその方法
一ハ一
果、上巻に二○数ケ所の損傷が見られる。そのようなことから、さらなる保護を目的として墨田区指定有形文化財(絵画)に指定されたのであって、公開がされるべきであるとはいいつつも、保存の方向で考えるべきである。無論、公開を前提とした修復も考えられるが、その場合でも基本的には保存のための修復であって、公開する場合においても最低限の公開に止めるべきである。また、建設が予定されていた郷土文化資料館において、この絵巻を通して中世の隅田に「宿」が置かれていた理由と木母寺が存在する意味などを理解してもらうために何らかの形で展示する必要性を感じていた。しかし、『梅若権現縁起絵巻』は寺宝であり、木母寺において所蔵されているからこそ、意味がありむやみに資料館において展示できる性格のものではない。さらに、傷みも激しく、原本を広げて通覧することが実質的に困難な状況にある。そこで、選択肢としては、写真の展示やレプリカの作製などが考えられたが、絵巻はそれ自体の形態と広げて通覧することに展示する意味があるのであって、部分写真を展示してもどこまで展示の意図を理解してもらえるのか、という問題が生じる。最終的な結論としては、レプリカの作製ということとなった。そこで、レプリカ作製の方法など 法政史学節五I一一号
について述べておきたい。複製物の種類については、紙・建造物・金属製品・土器などがあるが、「梅若権現縁起絵巻』を例にその工程を記して見たい。まず複製物の製作にあたっては、絵巻の全部を複製するのか、部分複製にとどめるのか、という問題が生じる。部分複製の場合には、展示を行った場合、複製物自体の劣化が生じることと基本的には、複製物自体も史料的価値を有するようになるため、全巻の複製を行うべきであるが、最終的には予算との兼ね合いとなる。『梅若権現縁起絵巻』の場合は、史料的価値と展示効果を鑑み、予算の許す最大の範囲でおこなうこととなった。その結果、直接墨田区に関わる下巻のすべて一四五三・○センチメートルと中巻の一部約二○○センチメートルの複製を行うこととした。それと同時に、所有者に複製許可を得る必要がある。今回は、墨田区で最初の指定文化財になったということと、資料館における展示の重要性を理解していただき、御協力いただけた。複製の許可を得ることができたからといって、ただちに作業に入れるわけではない。今回の全工程に掛かった期間は、約二年間かかると予想され、また資料館の開館期日も不明確であったため早目に、所有者・複製物製 一ハーー
作業者との打ち合わせや調整を行い、はじめて実際の製作に入ることができた。では、実際の製作工程をみてみたい。製作の第一歩はH所有者(又は管理責任者)立会いの下に現物の状態の事前調査を行うことである。この段階で、料紙の枚数や使用する絵具の種類や表装の確認を行う。次ぎに、口資料の写真撮影を行う。写真撮影といっても、版下作製用に五三○ミリメートル×四三○ミリメートルのモノクロフィルムを使用して原寸大の撮影を行い、別に、彩色技術者による色彩りと仕上げ時の参考資料のために、八×一○インチのリバーサルカラーフィルムで撮影を行う。ちなみに、絵図など実物が特製フィルムのサイズより大きい場合は、原寸大撮影を基礎とするので分割撮影を行う。また、色彩があまり関係のないような文書などの場合は、彩色技術者による色彩りと仕上げ時の参考資料用に、四×五インチのリバーサルカラーフィルムで撮影を行う。このようにして撮影された原寸大フィルムをもとに、日製版lコロタイプ製版が行われる。原寸大に撮影した原版から、各々の色版を必要に応じて製作し、これを製版用板ガラスに張り込み作業を行なったのち、念入りなネガ修正をする。現在通常の印刷を行うと、網点が出るが、コロタイプ
絵画資料と歴史研究(鈴木) 印刷は、印刷用板ガラスに感光材を塗布し、その上に製作した原版をカーポンライトにより、焼き付け処理を行うため、文字や絵柄の部分が、そのまま綺麗な線で印刷される。そして、四印刷。ロにより製作された印刷用原版(板ガラス)をコロタイプ印刷機にかけ、特漉和紙又は絹に色別に印刷をかさねていく。このようにしてできるのが、いわば下地の段階である。この下地は、極めて薄く印刷されており、彩色技術者(日本画家)による彩色が必要である。そこで田仕上げの工程として、専門技術者による細密な色修正により、原本の質感を十分に反映する。そして、作業の途中で、原本と照合させる㈹校正(中間検査)を行う。その結果、より綿密な微調整を行い、絵画・詞書の部分が完成する。そして他表装を行うわけであるが、原本の表装に使用されている布等は、全く同じものが現在残っていることは希なため、実物に近い(同程度の)表装を行う。最後に、㈹所有者(又は管理責任者)に承認を受け、完成・納品とする。以上は、コロタイプ印刷の場合であるが、オフセット、その他併用の場合の作製方法もある。異なる点のみ記しておこう。オフセット、その他併用の場合には、ロ写真撮影は、原資料を八×一○インチ又は四×五インチのカラーポ
一ハーーー
ジフィルムに撮影し、日製版は、現像したポジフィルムより印刷に必要とする各々の色版を原寸大に製作し、製版を用意する。囚校正は、完成した刷版により校正機にかけて必要度数の色版を刷り重ね、ポジフィルムと対照して厳密な色合わせを行い、更に色版の訂正を施す。田印刷は、校正の終わった刷版を本機にかけ、原本の用紙と同質の特漉和紙又は絹を用いて本刷を行う。㈹仕上げは、専門技術者による細密な色修正を行い、原本の質感を十分に再現するようにする。このように作製されたレプリカは、レプリカとはいえ原本の質感を伝えるものであって、展示品の中でも、目を引く存在であり、展示の目玉のうちのひとつとなった。そしてまた、原本を忠実に伝える模本ともいうべき存在ともなった。
文化財は保護されるべきものであるが、文化財を調査。研究することによって、史・資料は破壊の第一歩となる。しかし、研究の結果、よりよい保存方法等が明確となる利点があり、現状以上の保護が可能となる。さらに保存処置を行うことによって、文化財保護のもう一つの目的である むすびにかえて 法政史学館五’二号
公開が可能となる。そして、史・資料の公開により、|般人に周知・認知され、それは文化財への興味をもたらし、結果的には、保護の認識が生じる可能性があるといえる。『梅若権現縁起絵巻』のレプリカ製作は、その一つの方向性を示しているのではないかと思われる。そして『梅若権現縁起絵巻』のレプリカ製作の意図は、第一に単に絵画それ自体の展示にとどまらず、絵巻という形態をも理解してもらうこと。第二に地域に直接関わる部分をすべて製作することによって、地域景観のイメ1ジを豊かにしてもらうこと。そして第三に、下巻のすべてを製作したことにより、絵画資料を対象とする研究は、基本的に原本を対象とする必要性が高いのであるが、レプリカ自体が研究資料としての性格を有するようになり、原本が破壊される危険性を少しでも回避できる、という点の三点に要約できよう。
註(1)絵巻の視覚的研究や製作年代・作者などの研究は、江戸時代から見られ、詞書の研究も『群書類従』に多数収められるなど、江戸時代からなされている。美術史や文学からの研究は多大な蓄積がなされているが、歴史学からの研究としては、網野善彦『週刊朝日百科日本の歴史別冊歴史の読み
六四
方1絵画史料の読み方』(朝日新聞社、一九八三年)、黒田日出男「絵巻をいかに読むか」(『岩波講座社会科学の方法Ⅸ』岩波書店、’九九三年)などがある。(2)『梅若権現縁起絵巻』の絵画部分については、『絵と写真で見る梅若塚・木母寺物語』(木母寺、’九九一年)に掲載されている。また詞書の部分については、慶応義塾大学国文学研究会編『梅若縁起の研究と資料』(桜楓社、一九八四年)の資料編に収載されている。『梅若権現縁起絵巻』および木母寺については、真宗光隆著『梅若塚物語』(梅柳山木母寺、’九九五年)が詳しい。(3)『絵巻』自体には、書・絵ともに作者に関する情報は記されていない。小林忠氏の御教示によると、「作風からするならば、狩野派主流の画家が大和絵の手法を加えて描いたものと推測される。ただし、具体的な画家個人については不明である」とされる。しかし、「葛西志』(東京地誌史料第二巻、地誌刊行会、’九三一年)’八九~一九○頁。および『新編武蔵風土記稿』(大日本地誌大系八、雄山閣、一九九六年)五頁には「梅若権現縁起三軸土佐家彩色絵人なり」とあって、土佐派の画家の手によることが示唆されている。たしかに本絵巻は、縁起絵巻という性格上大概は大和絵の様式を踏襲して描かれており、この点から、『葛西志』および『新編武蔵風土記稿』に、「土佐家彩色絵入なり」と記されたものと考えられる。(4)安藤家は代々三河松平家に仕え、重治の四代前の祖基能
絵阿資料と脈史研究(鈴木) は徳川家康に属し三方ヶ原の戦いにおいて戦死した。基能の長男直次は、紀伊徳川家の付家老として紀伊田辺三万八千石を領し、直次系の子孫は明治維新に至るまで紀伊徳川家の付家老を勤める。本絵巻の寄進者重治は、基能の次男重信の系譜を引き、重信の曾孫にあたる。重治は、重博・重貞・重孝などの別名がある。寛永一七年(一六四○)に生まれ、承応一一一年(一六五四)従五位対馬守に叙任。父重之が寛永一八年(一六四一)に没していたため、明暦三年(一六五七)祖父重長の遺領を継ぎ高崎六万石を領す。元禄八年(一六九五)備中松山に転封となり、五千石を加増される。元禄二年(一六九八)八月九日、五九歳で没した(『寛政重修諸家譜』第一七、続群書類征完成会、一九六五年)一七七~八頁。真泉光隆氏によると、安藤重治は、「出生の翌年に父を喪い、長じてのち一・八歳で祖父の遺領・上州高崎六万石を継ぐという、武家貴族の環境下ながら一種の母子家庭の育ちであった。伝聞によれば重治は、隅田村内の某寺に縁故があって梅若塚に詣でる機縁が生じ、絵巻寄進の端緒が開けたというが、奏者番という殿中の要職にあって将軍に近侍する身であると共に、家庭環境にも似たところがあり、絵巻物作成の動機の裏側を知る何かの手掛かりが、この辺にありそうである」とされている。前掲註(2)『梅若塚物語』三一一一頁。(5)梅若流離謹の原形ともいうべき謡曲『隅田川』(日本古典文学大系四○謡曲集上、岩波書店、’九六○年)三九○頁。では、「梅若丸は一二歳、命日は三月一五日、父は吉
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田何某、母は都北白河に年経て住める女」とあるのみであ る。(6)信夫の藤太が登場するのは、『梅若権現縁起絵巻」が初見である。また、福島県には、信夫の藤太の屋敷跡と伝えられる場所があるという。前掲註(2)『梅若塚物語』’八八~一八九百参照。(7)梅若丸の命日が、三月一五日であることの意味について棚橋光男氏は、人身売買文書の日付が一○月から三月に集中しており、冬季はその年の凶作によってただちに生活の資が欠乏するときであり、二月を中心とする時期は年貢の納期であり、春季は前年からの飢饅状況がもちこされて食料が払拭した上、春時の耕作開始のための農料準備などが焦日の急となる時期である(人身売買文書と謡曲隅田川」、『日本史研究』一一○三号、’九七九年、後に同氏著『中世成立期の法と国家』、塙書一房、’九八三年)、とされ、樋口州男氏は、棚橋氏の指摘のみではなく、人身売買は交通の要地である市・宿といった場で行われ、その取引きには問丸らの港湾業者などが深く関わっており、西国からの船が多数航行し、隅田宿や問丸の存在が確認されている隅田川一帯は、人身売買が語られるにふさわしい場であった(「語り継ぐ民」、佐藤和彦編『中世の民衆』、東京堂出版、一九九七年)、とされ宿・市といった梅若丸の話が伝えられた場の問題を指摘された。三月一五日の意味は、棚橋氏の指摘される通りであるが、奥州の人買信夫の藤太が登場し、梅若丸をかどわかす場が大津であ 状政史学第ハーーュリ
る点についても注目すべきであり、樋口氏が指摘されるように、人身売買の行われる場と港湾業者の存在が重要な意味をもっていたと考えられる。(8)本縁起絵巻の原本ともいうべき縁起は、『新編武蔵風土記稿』によると徳川家光の命によって重治の祖対馬守某が製作・寄進したと伝えられている。重治の祖先のうち対馬守を名乗る人物としては曾祖父の重信がいる。重治の曾祖父重信は、弘治三年(’五五七)一一一何国に生まれる。重信は父・兄と同様に徳川家康・秀忠に属し小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い(この時は秀忠に属し信濃上田城攻略中のため間に合わなかった)、大坂冬の陣・同夏の陣などに従軍し、慶長九年(一六○四)従五位下対馬守に叙任。元和五年(’六一九)上野国高崎藩五万六千石の城主となる。元和七年(’六二一)六月二九日、六五歳で没した『寛政重修諸家譜』第一七、続群書類従完成会、一九六五年)一七五~六頁。このように重信は、元和七年(一六二一)に没しているが、徳川家光が三代将軍となったのは元和九年(一六二一一一)である。そして家光が将軍であった頃の藩主は重治の祖父重長である。重治の祖父重長は、慶長五年二六○○)本多藤四郎と重信の娘との間に生まれた。重信の養子となり、重信とともに大坂冬の陣、同夏の陣などに従軍する。元和元年(’六一五)従五位下伊勢守に叙任される。元和七年(一六二一)、重信の死去によりその遺領を受け継ぐ。寛永一一一年 一ハーハ
(皿)養老五年「下総国葛飾邪東京帝国大学、一九○一年)。(旧)下総国府から小岩・葛飾 (一六一一一五)、初代の寺社奉行となる。寛永一四年(’六三七)奏者番となり、寺社奉行を兼ねる。明暦三年(’六五七)九月二九日、五七歳で没した『寛政重修諸家譜』第一七、続群書類従完成会、’九六五年)。しかし重長が対馬守を名乗った形跡はなく、家光の命によって作製・寄進されたという『新編武蔵風土記稿』の記載については不明である。ただし、現存の縁起絵巻の原本というべきものが存在し、後に重治によって改めて作製・寄進されたことは事実であろうと推測される。(9)この点について小林忠氏の御教示によると、「金泥の下絵が元和・寛永期(一六一五~一六四一一一)に見られる古い様式であり、延宝期の作品には見られない様式」であると指摘された。このことから、破壊されたと伝えられる本絵巻の原本の様相をかなり生かした作品と考えられ、『新編武蔵風土記槁』の記載を裏付けるものと思われる。(皿)拙槁「『吾妻鏡』治承四年十月二日条の解釈をめぐる一考察l隅田宿の位置を中心にl」(『日本社会史研究』三四号、一九九四年)参照。(u)承和二年六月一一九日「大政官府」(新訂増補国史大系『類聚三代格」後篇巻一六、吉川弘文館、一九七一一年)。(皿)養老五年「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」s大日本古文書』
絵阿資料と歴史研究(鈴木) ご下総国府から小岩・葛飾区立石を経由し、隅田に至る古代の官道については、木下良「立石考l古駅路の想定に関し て」(『諫早史談』八号、一九七六年)、谷口栄「下総国大嶋郷の故地」(『東京考古』八号、’九九○年)・同「東京低地と古代の道」(『かつしかの道総合調査報告」、’九九○年)、佐々木虐一「すみだ川と古代東国の交通路」(『墨田川高校堤校舎研究紀要』五号、’九九○年)など参照。(u)『雨の舎』(足立風土記資料地誌二『近世地誌史料集』足立区教育委員会、’九九三年)一五頁。(旧)『江戸砂子』(足立風土記資料地誌二『近世地誌史料集』足立区教育委員会、一九九三年)一六頁。(旧)隅田川御殿および家綱と隅田川御殿については、真宗光隆著『年表隅田川』(近代文芸社、’九九二年)六五頁以下参照。(Ⅳ)『江戸名所記』(朝倉治彦校訂、名著出版、一九七二年)。(旧)『葛西志」巻一八(東京地誌史料『葛西志』第二巻、地誌刊行会、一九三一年)一八一頁。同書には、「一同年(元録一一一)五月廿八日従桂昌院様打舗三枚御寄附被成下候御入之節梅若丸縁起其外手鑑奉入御覧御持参被為遊其後御返戻御座候」とある。
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