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戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇-一 九三九)

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戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇‑一 九三九)

著者 森 靖夫

雑誌名 同志社法學

巻 70

号 3

ページ 1049‑1075

発行年 2018‑09‑30

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000347

(2)

    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号四三一〇四九

             

          調Procurement Planning     Industrial Mobilization Planning        

(3)

    同志社法学 七〇巻三号四四戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇五〇

はじめに

  本稿は、アメリカの第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発に至るまでの戦争準備の経緯、とりわけ「国家総動員」準備の経緯を明らかにすることを目的とする。周知の通りアメリカは世界に冠たる資源大国であり、資源を求めて戦争をする必要はなかった。加えて日米開戦に至るまで国内世論は反戦的風潮に支配されていた。しかし、それらのことと、来る戦争に準備するということとは別問題である。

  第一次世界大戦が国家のあらゆる資源を動員して互いに死力を尽くす「国家総力戦」となり、勝敗にかかわらず未曽有の損害を蒙った一方で、将来戦も同様の戦争になることを想定して、参戦諸国はデモクラシー、ファシズム、共産主義といった政治体制にかかわらず、一九二〇年代から国家総動員の準備に入っていった。イギリスやアメリカもその例にもれず、戦争準備、すなわち国家総動員計画を進めていたのである。筆者は、一国史的理解を克服し、このような世界史的な視角から日本の国家総動員を再検討する必要があることを繰り返し主張してきた

  近代日本の国家総力戦や国家総動員に焦点をあてた従来の研究は、こうした当時の世界的潮流をほとんど考慮に入れず、国家総動員準備を軍国主義の萌芽として、あるいは総動員体制を軍部による政治支配の到達点として捉えてきた

。こうした見方は、「軍国主義・ファシズム対デモクラシー・自由主義」という単純化された第二次大戦の構図と良く調和するものであり、日本だけでなく海外の研究者からもほとんど疑問が付されることはなかった。しかしながら、当時の日本の国家総動員計画に関わった官僚によって、アメリカの国家総動員準備の状況は翻訳・紹介されており

、それどころかアメリカは彼らがもっとも参照した国であった

。つまり、日本の国家総動員準備の過程を世界史の中で位置づけなおすためには、少なくともアメリカのそれを明らかにした上で、比較検討する必要があるといえる。

(4)

    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号四五一〇五一   戦間期アメリカの国家総動員準備については、本書も多く依拠しているポール・コイスチネンの

Planning W ar , Pursuing Peace: The Political Economy of American W arfare, 1920-1939

が、詳細に明らかにしている

。また、コイスチネンの研究を参照し、各国の総動員準備を含む一九三〇年代の軍備拡張を世界の潮流として描いたジョセフ・マイオーロの研究も注目に値する

。しかしながら、これら最新の研究も日本の国家総動員準備を十分明らかにはしておらず、世界史の中でそれを再検討する作業は残された課題となっている。

  そもそも、日本の研究者が国家総動員という日本陸軍が初めて用いた用語をそのまま用いているのに対し、海外の研究者は自国のそれを産業動員(

Industrial Mobilization

)や経済動員(

Economic Mobilization

)と呼称するなど、用語の不統一が日本と海外の総動員準備の比較を妨げているといえる。しかしながら、日本の国家総動員立案者は、必ずしも国内のヒト・モノ・カネといった資源全てを軍需として利用しようと考えていたわけではなく、計画段階ではむしろ民需とのバランスにとりわけ配慮していた。他方、本稿で示す通りアメリカの産業動員計画のなかには、労働力、交通機関、金融、電力といったあらゆる分野の動員が含まれていた。また並行して、参謀本部が総力戦を想定した徴兵計画を立案しており、これらは日本陸軍から見れば明らかに国家総動員計画といえた。そこで本稿は、当時の日本の軍人や官僚がそうしたように、アメリカの産業動員準備(

Industrial Preparedness

)を国家総動員準備の一環とみなし、アメリカの国家総動員準備が日本のそれに与えた影響について考察する。

(5)

    同志社法学 七〇巻三号四六戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇五二

第一章  アメリカの「国家総動員」準備 第一節  陸軍次官局設置と国家総動員準備の始動   戦間期アメリカ陸軍の国家総動員準備は、一九二〇年の国防法の成立に始まる。国防法第五条a項により、陸軍次官に軍需調達と産業動員計画を主導・監督する権限が付与された

)(

。国防法のねらいは、戦時産業局(

W ar Industry

Board

)の指導に陸軍(とりわけ参謀本部)が抵抗した結果、産業動員に大きな混乱を招いた第一次世界大戦の失敗を繰り返さないということであった。すなわち、作戦本位で兵站を軽視しがちな参謀本部に対して、次官と兵站を管掌する補給兵局(

Supply Arms and Services; SA&A

)のラインを権限強化することであった。同法成立により、形の上では陸軍次官と参謀総長は同列となった。それには参謀本部の強い抵抗があったが、戦時に次官から総長に動員に関する権限が委譲されることで決着した

  国防法に基づき、陸軍次官のもとに国家総動員の計画を掌る陸軍次官局(

The Office of Assistant Secretary of W ar;

OASW

)が設置された。とはいえ、次官局は設置当初から国家総動員を主導できるほど指導力を発揮できたわけではなかった。次官局はあくまで、執行機関としてではなく、監督・調整機関としての役割に限定されていた。また局長は大佐だったのに対し、参謀総長は少将以上、その筆頭補佐役も少将か准将であり、明らかに参謀本部より見劣りがした。加えて、次官の下に置かれた七つの補給兵局は第一次大戦まで伝統的に陸軍の軍需動員を担ってきたという自負があり、新設の上位機関に干渉されることを嫌った。つまり補給兵局も「弱い」次官となることを望んでいたのであった。また、短い任期と高い回転(異動)率が、こうした伝統的官僚組織を改革する足かせともなっていた

  順風満帆な船出とはならなかったものの、次官局は一九二一年末より発足した。局の下には調達監督部門と調達・経

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号四七一〇五三

表1 アメリカ陸軍省の関係組織図(各組織名称の邦訳は、陸軍省『欧米列強 の国家総動員』((((()に依拠した。)

表2 次官局の組織図(OfficeAssignmentsPlanningBranch,OASW,Revised Feb(,((((”NARA をもとに作成)

“ 陸軍長官

参謀総長

陸軍次官 兵器局

工兵局 化学戦局

医務局 通信兵局 航空兵局 次官局

参謀本部 補給局 陸軍産業大学

陸軍大学校

陸軍次官 調達局長 総務課 物資課

調達統制課 産業課

庶務・法整備・会計・訓練・軍需集約促進班 54 の物品委員会

優先権・割当・価格統制・契約・対外関係班 電力・労働・輸送通信・資源保育・設備・燃料班 済動員計画部門が置かれた。平時の軍需調達は小規模であり、重要部局は後者であった。一九二五年に組織再編を経て四課一六班と五四の物品委員会を束ねることとなり、これが基本構造となった(表2参照)。ちなみに、産業課のなかには戦時産業局の流れを汲み、資源の浪費や無駄な使用の削減を指導する資源保育班(

Conservation Section

)があった ((

。資源保育は日本の国家総動員準備機関を考案する際に内務官僚の松井春生がヒントを得

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    同志社法学 七〇巻三号四八戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇五四

た発想である ((

。次官局は七名の将校からスタートし、一九三九年までに五〇名へと拡大、一九四一年には計画機関から動員機関となり、約一二〇〇名の将校と民間人が働くまでになった。

  他方で陸軍省は、軍需調達や産業動員には海軍との協力が不可欠と考え、陸海軍軍需委員会(

Army -Navy Munitions Board

)を設置した。しかしながら、海軍は、国家総動員よりも独自の戦略(例えば対日オレンジ計画)を重視し、陸軍に対して非協力的だったため、一九三〇年代末まで同局はほとんど機能しなかった。陸海軍連携の必要が見直されるようになると、陸海軍軍需委員会は一九三九年七月から戦時生産委員会(

W ar Production Board

)に引き継がれる四二

歴代陸軍長官

1921.3-1925.10 John W. Weeks

(民)

1925.10-1929.3 Dwight F. Davis

(民)

1929.3-1929.11 James William Good

(民)

1929.12-1933.3 Patrick J. Hurley(民)

1933.3-1936.8 George Dern

(民)

1936.9-1940.6 Harry H. Woodring(民)

歴代陸軍次官

1921.3-1923.3 J. Mayhew Wainwright(民)

1923.3-1925.10 Dwight F. Davis

(民)

1925.10-1928.1 Hanford MacNider

(軍)

1928.1-1929.3 Charles B. Robbins

(軍)

1929.3-1929.12 Patrick J. Hurley

(民)

1930.1-1933.3 Frederick Huff Payne

(軍)

1933.3 -1936.9 Harry H. Woodring

(民)

1937.6-1940.12 Louis A. Johnson

(民)

年まで、大統領直轄の動員機関として機能することとなった ((

  一九二四年、ドワイト・デイビス(

Dwight F. Davis

)陸軍次官(後述)のもと、参謀本部管轄の陸軍大学校に対抗して、陸軍産業大学(

Army Industrial College

)が設立され、調達・産業動員に特化した将校の養成が始まった。初年度こそ九名のみの入校だったが、一九三〇年代末には約六〇名に達した。一九四〇年までに合計八〇四名の卒業生が輩出され、後に陸軍次官局や各補給兵局を支

表3 歴代陸軍長官・次官(1921-40)

   ※(民)はシビリアン、(軍)は軍人をさす。

(8)

    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号四九一〇五五 えることとなった。講義は、知識と経験のある軍人だけでなく、著名な実業家や第一次大戦で産業動員に関わった人物が担当した ((

  こうして、陸軍が戦間期アメリカの国家総動員の準備をリードした。陸軍が大きな変動なく安定して準備を行えたのは、一九二一年から四〇年の二〇年間に陸軍長官六名・陸軍次官八名と入れ替えが比較的少なく、この中に次官からそのまま長官に昇任した者が三名もいたことも大きいだろう。

第二節  軍需調達計画(

Procurement Planning

)   国家総動員といっても計画は困難を極めた。未曽有の将来戦を想定した場合の軍需の全体像すら明確になっていなかったため、陸軍次官局は一九二〇年代の一〇年間のほとんどを不慣れな産業動員計画ではなく軍需調達計画に費やした。軍需調達計画は参謀本部の起案を待たなければならなかったが、参謀本部が自らの作戦計画に基づいて「陸軍省総動員計画(

The W ar Department General Mobilization Plan

)」(三年毎に更新)を完成させたのは一九二四年であった。この計画は、総力戦をも想定して約四〇〇万の将兵の動員を予定していたが、問題は開戦後四カ月で一四〇万人を動員するという、およそ供給能力の限界を考慮したとは言い難い点にあった。兵士の養成にすら少なくとも一年を要するにもかかわらず、参謀本部は開戦後一カ月に最も多い軍需を要求していた ((

。参謀本部にとってはあくまでマンパワーが最も重要であり、兵站は二の次であった。

  他方、陸軍次官の推定によれば、一九二三年時点であらゆる装備・備品の総需要量を算定するのに五年の歳月を要した。また、第一次大戦期に陸軍が必要とした備品の種類は約七五万点にも及び、それぞれにつき計画をたてなければならなかった。備品リストは大戦前夜までに七四〇〇点にまで精選されたとはいえ、産業動員計画が後手に回るのも無理

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    同志社法学 七〇巻三号五〇戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇五六 図1 アメリカ全土を14に区分する軍需調達管区制度(W.S.Pearce,‘The

Ordnance District System’,“ArmyOrdnance”,Vol.(,No.((,May-Jun.,

((((. より引用。)

はなかった ((

  次官局は

M-Day

Mobilization Day

)と呼ばれる総動員発動日を設け、それに基づいて各補給兵局に個別の動員計画を起案させていた。もっとも、実際には一九三八年頃から徐々に計画から実施へとシフトしていった。

  陸軍の軍需調達計画を補うために採用されたのが、軍需調達管区システムである(

The Procurement District

System

)。これは、第一次大戦中に兵器局(

Ordnance

Department

)が考案した備品購入の分権的システムを元にしていた。全国を一一(後に一四)の管区に分け、代表的都市に本部を置き、著名な実業家たちが各管区の軍需調達を主導するというものである(図1参照)。それにより、過剰な契約や重複契約を避け、企業の生産能力をより正確に把握したうえで調達計画を立案することが出来た。各企業は平戦時を通じて五〇%の生産を民需にあて、戦時は平時の二五〇%生産が予定され、そのうち二〇〇%が軍需にあてられることとされた。契約企業は一九二七年時点で二万社を数えたが、第二次大戦まで

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号五一一〇五七 に一万二〇〇〇社に絞られた。各企業は軍の要求に応じ、工場の拡大生産、転用、新設備の設置といった計画を立て、自らの資産を投じ国家総動員準備に参加した。軍需生産量全体の九五%を民間に依存していた上、陸軍の限られた予算(一九二二年から四〇年までの総予算が六・四億ドルであった。四一年の第一四半期で六・六億ドル)では、産業界の協力なしに国家総動員準備を進めることは困難を極めたといえる ((

  次に、次官局が計画のために設けたのが物品委員会(

Commodity Committees

)である。軍需に含まれる原料、半製品、完成品について、巨大企業から中小企業まで、無数の同業組合・産業との協同の場を設けるのがねらいであった。物品は、重要度の高いものから戦略的(

strategic

)・重要(

critical

)・不可欠(

essential

)の三つに分類し、優先順位をつけ選定を行い、個別に委員会が立ち上げられた。一九三九年までに戦略的物品は一七、重要物品は二〇、不可欠物品は三五に絞られ、委員会は一九三六年時点で四三を数えた。以上の物品委員会は、軍人を経済に精通させた点、軍と産業の関係を密にした点等で、大きな役割を果たしたといわれる ((

  こうして、設立当初こそ参謀本部に対する見劣りが憂慮された次官局であったが、軍需調達管区制度や物品委員会を通じた産業側のバックアップや、後述するような第一次大戦の産業動員経験者の支持を通じて、産業動員を切り盛りする部局としての地位を軍内に徐々に確立していった。

第三節  産業動員計画(

Industrial Mobilization Planning

)   次官局が管掌することとなった産業動員計画は、一九三〇年に至るまで遅々として進まなかった。それは先述した通り、産業動員の前提となるべき軍需調達計画が丸一〇年の歳月を要したからであった。また、産業動員を通じて民間の領域に軍が踏込むことに、次官局がしり込みしていたからでもあった。

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    同志社法学 七〇巻三号五二戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇五八

  そうした中で、次官局以上に大きな役割を果たしたのが、バーナード・バルーク(

Bernard M. Baruch

)やフランク・スコット(

Frank A. Scott

)ら第一次大戦の産業動員指導者たちであった。前戦時産業局長で「軍需動員計画のシビリアン・ゴッドファザー」の異名を持つバルークは、次官局の仕事ぶりに業を煮やし、参謀本部管轄下の陸軍大学校で講義をしつつ参謀本部に働きかけたり、上下院に働きかけたり、出版・新聞業界に宣伝を行い、産業動員の必要を広く訴えた ((

。バルークが強調したのは、軍事だけでなく経済も戦争の「準備」が必要であるということ、軍ではなく民が主導すべきこと、実施は社会的公正に基づかなければならないことであった(戦時利得の抑制など)。

  同じく前戦時産業局長で、工作機械生産で著名なワーナー・アンド・スウェイジー社(

W arner & Swasey Company

)副社長のスコットは、次官局を鼓舞する一方、軍需調達管区(スコットは一九二四~二八年、クリーヴランド州軍需調達管区長)や陸軍軍需協会(

Army Ordnance Association

)を通じて、次官局と全国の産業とを結び付ける大きな役割を担った ((

  次官局は一九二二年、一九二四年、一九二八年、一九二九年と四度にわたって産業動員計画を作成・修正した。計画上、次官局は電力・労働(マンパワー)・燃料の統制だけでなく、優先権付与、価格統制、国際関係なども管掌することが想定された。また戦時産業局のような上位機関を設置するための法案(次官局はあくまで平時の過渡的な機関とされた)が準備された。

  この間、国家総動員の法整備に積極的な米国在郷軍人会(

The American Legion

)が積極的に議会に働きかけ、将来有事の際、徴兵、資本・労働統制、賃金・価格統制の権限を大統領に付与する、いわゆる「リージョン法(

The Legion

Bill

)」を繰り返し議会に提出した。大統領が国家存亡の時と判断すれば、自らの権限で経済を統制することは憲法上可能であったが、議会の承認を得ておくことは必要と考えられた。また彼らは、法案内容を細部にわたって具体的にしな

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号五三一〇五九 いでおくことで、あらゆる規模のいかなる政治経済状況にも即応可能になると考えた。それは、徴兵や労働統制、経済動員を含む本法案が議会の批判にさらされることが予想されたためでもあった。それでも実際に開戦まで法案が議会を通過することはなかった。次官局は、方針を切り替え、リージョン法の支持を控えるかわりに修正に時間をかけ、有事の際に迅速に通過させる道を選んだ。そもそも、リージョン法が謳う「総動員」の用語は誤解を招きやすく、少なくとも次官局は資本や労働の「全て」を動員できるとは考えていなかった。あくまで経済統制とは、インフレや不当利得を防ぐための価格統制や租税措置と併せて、産業、金融、商業を「利用する」ことであった ((

  法案こそ支持しなかったが、次官局はアメリカ鉄道協会(

American Association of Railway

)と協議し、交通機関の戦時統制に関する委員会を立ち上げ、一九二四年春にカルヴィン・クーリッジ政権の承認を得た。そこでは政府の統制は極力控えられ、統制の主体はあくまで民間の手に委ねられることになった。一九二七年には電力会社と協力の下に電力統制を実施する計画を完成させ、全国電灯協会(

National Electric Light Association

)に手交した。以上の様に、一九二〇年代の産業動員計画を通じて、戦時に新たな機構を立ち上げるのではなく、既存の経済社会に基いて実施しなければならないという認識が次官局に定着していった ((

  産業動員計画はハーバート・フーバー政権期、すなわちパトリック・ハーレー陸軍次官(一九二九)・長官(一九二九

。たれ グ総謀参ーサーカマ・スラ、ダがれさ夫工どなるい用く長ッス説さなポ力努のどなるす明がでン会ースマクとして委員 めえ、全一〇〇頁を越表る計画書は、や図を多たたい公が一般開された。軍てに権力人偏をけ受重に前事判批のとるす 二〇年一た月に完成し三三九一。たし化格本に期)業産方動時、れらけかに会員委策戦員たし置設が会、議は画計 - 三

  その特徴は第一に、戦時産業長官の指揮の下、戦時産業の調整役(供給サイド)と軍需の調整役(需要サイド)とに

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    同志社法学 七〇巻三号五四戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇六〇

別れて、産業動員を切り盛りするという点である。他方で労働省・徴兵省・広報省を設置し、それらの長官が陸海軍長官と共に大統領の戦争諮問委員のメンバーとなることが定められており、戦時産業長官の権限はその他の長官と同等程度とされた。これは、過度の中央集権化をすれば法案が批判されることを立案者が恐れたためであった。第二に、大統領に官庁を再編し、戦争遂行を妨げるような法を停止する権限を付与した点である。第三に、配慮されたものの、やはり軍の役割の比重が大きいことであった。とりわけ、徴兵システムや広報機関の計画は参謀本部が管掌していたし、一九三〇年の産業動員計画において需要(軍需調達)と供給(産業動員)のうち需要サイドの主導権を軍(参謀本部や補給兵局)が握っていたため、組織の間で大きな紛糾が起こることが予想されたのである。とはいえ、一九三〇年の産業動員計画により、次官局がいまや戦時経済動員当局として公に認知されることとなったことは何より大きな進歩であった ((

  一九三三年の産業動員計画は大枠を踏襲しつつ、三つの大きな変更が加えられた。すなわち、主要動員機関の構造、陸海軍軍需委員会(ANMB)、そして法案制定に関する付属書である。まず、三〇年の計画ではその他の上位機関と並列に位置づけられていた戦時産業機関を筆頭の動員機関とし、集権化することとなった。その際、需要と供給の両機能を統合し長官の指揮下に置くこととなった。次に陸海軍軍需委員会であるが、海軍が経済動員に対して関心を強めたことを受け、陸海軍の軍需調達・産業動員計画を調整することを主な役割とし、法案に関する付属書にも明記された。こうして同委員会は、戦時産業機関の中核として機能し、民間人主体の上位動員機関が設置されるまでの間、その代役を務めることとなった。最後に、大統領権限に関する法的整備である。前回の計画とは異なり、経済動員の法案は、具体的なものを議会に提出すべきとの結論に達した。むしろ、議会の委員会において定期的に修正される方が得策だと考えられたからであった。そのなかで、経済動員、既存の官僚機構の再編といった大統領権限は、議会が戦争の終結を宣

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号五五一〇六一 言するまでに限ることが明記された。また徴兵については、大統領から参謀本部に移管され、参謀本部が徴兵システムを立ち上げるものとされた。もっともこうした大統領権限の明記でも、独裁と解釈され、強い反対が起こることが予想された ((

  一九三三年の計画でもう一つ重要な変化は、軍需調達に関する事項がほとんど省略されたことである。それにより、軍需調達計画(需要サイド)と産業動員計画(供給サイド)が全く切り離され、軍需調達計画は産業動員計画の一部ではなくなった。こうして、産業動員に対する参謀本部などの影響力を排し、次官局が産業動員と軍需調達という二つの機能を調和する役割を果たすことがますます期待されるようになった。

  次に一九三六年の産業動員計画を見てみよう。前回ほどの大きな変化はなかったが、一九三四年に作成された移行計画(

T ransition Plan

)を下敷きに、陸海軍の軍需の調整機能、過渡的な動員機関としての役割が具体化された。その一方で、民間人である長官が就任しなければ始動しないことが明記されるなど、軍の過度の影響力をおさえる試みもなされた。移行計画で次官局は、

M-Day

から産業動員が稼働するのに少なくとも三カ月はかかると見ており、しかも

M-Day

まで総動員関係の法案は何も議会で承認されていない状況を想定していた。つまり、いざ戦争が始まれば世論を喚起し、国民の積極的支持のもとで諸法案を滞りなく通過させなければならなかった ((

。そのためにも次官局は、産業動員は民需にできるだけ配慮し、国家による統制はあくまで国民福利を守るためであると説明して産業側の協力を得ようとしていた ((

  また、世界恐慌後のニューディール政策を反映してか、政府の金融統制やその他の経済動員における役割が増大した。こうした修正をうけて、戦争資源管理局(

W ar Resources Administration

)と改称された戦時動員機関は、議会の承認を経ない大統領権限によって設置されうるとした。このことは、議会が決定を引き延ばすなら大統領が強硬手段を行使

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    同志社法学 七〇巻三号五六戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇六二

する可能性を残したことを意味した。

  三六年の計画のうちもっとも大きな変化は、法案に関する付属書である。それまでの項目のほとんどが削除され、下院が一九三五年に通したHR5529が記載された。HR5529は、戦時利得を削減し、戦費を調達するための厳しい租税制度を定めたもので、ジェラルド・ナイ(

Gerald P. Nye

)共和党議員が主催する委員会によって立案され、上院の軍事経済委員会で修正された。また、同法案は価格操作、許認可、配給、徴発、優先権付与など産業動員を指揮・統合する権限とそのために必要な機関を設置する権限を大統領に与えることが記された ((

  一九三九年の産業動員計画は、一九三〇年のものから完全に一新された。立案者はこれが最終版になることを意識して、可能な限り簡潔かつ明快になるよう整えられ、分量も一二二頁から二五頁に縮められ、広く周知されることを目指した。まず、早急にWRAを設置し、それまで過渡的に陸海軍軍需委員会が代行し、設置後は速やかに本来の陸海軍間の調整業務に戻ることを説いた。また、一般世論を考慮して民間人の役割を強調する一方で、「徴用」といった戦時統制を指す用語を抑え、婉曲化し、民需、経済のバランス、中小企業の活用、動員解除後のための計画の必要などを先に強調した。参考までに、目次のみを以下に紹介する。

「一九三九年修正版産業動員計画―戦時におけるアメリカ合衆国の産業資源の効率的かつ公正な活用法の研究(一九三九年一〇月四日成立)」前言はじめに第Ⅰ部  大戦争(

Major W ar

)時における国家資源の利用と産業動員

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号五七一〇六三   A.調整のための方策    1.優先権    2.価格統制    3.対外貿易統制    4.政府機関の設置   B.組織計画   C.戦時資源管理局(

W ar Resources Administration

)    1.総論    2.執行部および幕僚部    3.調整課   D.その他の有事機関    1.広報機関    2.徴兵機関    3.戦時財政機関    4.戦時貿易機関    5.戦時労働機関   E.軍事服務委員会   F.戦後の復員(

Post-W ar Readjustment

(17)

    同志社法学 七〇巻三号五八戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇六四

第Ⅱ部  平時における陸海軍調達計画   A.方針   B.平時計画のための組織   C.陸海軍軍需局    1.執行委員会    2.幕僚課    3.渉外課    4.調整課   一九三九年の計画の重要な変更点は、第一にWRAが他の上位機関を指揮し、それらを調整する機関として位置づけられたことである。すなわち、WRAが動員全体の統制を行うことになる。WRAは「愛国的」な財界人を構成員とし、WRAの主要課と他の上位機関の代表、国務長官、陸海軍長官、陸海軍参謀総長らからなる諮問委員会によって支えられるという。第二に動員が既存の官僚機構からなる新しい、一時的な機関によって実施されるという点である。これは、各官庁からの批判をおさえるための配慮であった。第三に、付属書が非公表とされたことである。これは、チェコスロヴァキア共和国解体の危機が迫る国際情勢を受けて、F・ルーズベルト政権が

M-Day

のようなリジッドなものではなく、段階的、部分的、あるいは秘密裡の動員を求めていたことを反映していた。その八九頁に及ぶ付属書には、価格統制、電力・燃料、輸送、労働、戦時貿易、施設(

facilities

)、物品(

commodities

)の動員が含まれており、前回の計画にあった優先権や動員機構の移行の問題も修正を加えられつつ掲載された ((

。こうして最終的には、細部の論争を呼びそうな

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号五九一〇六五 部分は再び非公表になったとはいえ、二〇年の歳月を経て完成し、国家総動員準備がいよいよ体系化されるに至ったのである。

  もっとも、ルーズベルト政権は一九三九年の産業動員計画が求める強力な動員機関を設けることに極めて慎重であった。それは、大統領選を翌年に控えていたことや、WRAの構成員になることが予想された財界人たちこそが民主党のニューディール政策の反対者だったことと無関係ではなかった ((

。それでも陸軍次官局による動員計画は、生産管理局設置(一九四〇年一二月)、戦時生産局設置(一九四二年一月)へと結実すると、連合国の「武器庫」の役割を果たし、やがてドイツや日本を圧倒していく原動力となった。

第二章  一九二〇年代における国家総動員プランナーのねらい 第一節  ハーレー・B・ファーガソンと国家総動員   陸軍大学校で講師を務めていたハーレー・B・ファーガソン大佐(工兵局出身)は、一九二一年三月にJ・メイヒュー・ウェインライト陸軍次官の下で、軍需供給とその調達のプログラムを確立することを命じられた。以来、一九二七年に至るまでファーガソンは次官局長官として、陸軍省の産業動員計画を指揮した ((

。はじめにで述べた通り、産業動員は、日本の国家総動員に相当する。いわばファーガソンは、一九二〇年代のアメリカの国家総動員準備を最もよく知る人物であった。

  ファーガソンは、第一次世界大戦終結時に、経済戦争を指導するためのこれほど能率的な組織を有している国は他にはないと自負していた。それは伝統的な国内産業の強さ、産業リーダーたちの意識の共有、議長(バルーク)のリーダ

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    同志社法学 七〇巻三号六〇戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇六六

ーシップ、それら全てに起因していると考えていた ((

。それでもアメリカは産業動員の準備を必要としていた。

  一九二二年四月、上院予算委員会小委員会の陸軍予算案に関する公聴会において、ファーガソンが産業動員について説明を行っている。ファーガソンは次官局の業務内容を説明した後、産業動員の必要について次のように語った。ファーガソンによると、第一次大戦でアメリカはおよそ六〇〇万人が雇用され、軍需生産を行い、その総支出額は約一四〇億ドルにのぼった。それは、アメリカが再び参戦すれば、民間を巻き込む形での軍需生産の拡大(

expansion

)、すなわち産業動員を行う必要があることを意味していた。重要なのは、平時からそうした産業動員への準備を行うことが、かえって第一次大戦のような「混乱」「浪費」「タイムロス」を防ぐことになるということであるという。そして、産業動員の研究は軍だけの仕事ではない。軍と民が垣根を取り払うことで、現役将校が経済の研究を行い産業に精通するようになり、他方産業側が軍の特質について理解することになり、より良い準備ができるという。ファーガソンは加えて、軍だけでなく産業側も平時から軍需の備蓄をしておく必要を訴えた ((

  同年五月に陸軍大学校で行った講義でも、ファーガソンは産業動員の準備の必要を訴えている。ファーガソンは、一時間につき一〇〇万ドルの割合で戦費を支出した第一次大戦における産業の果たした役割が過小評価されていると強調する。ただし、産業はただ軍需を生産すればよいわけではない。企業間の競争、規格の不統一、価格の高騰、刻一刻と進化する軍事技術への対応の遅れによって混乱が起こるため、民間産業の軍需生産には「計画」、「指導」、「統制」が必要なのである。その役割、すなわち計画と統制の準備こそが次官局に与えられたものであった。次官局は軍と産業の接点となって両者を平時から調和させる役割を担っているのである。もっとも、統制とはいっても全ての生産を軍需に向けるというのではもちろんない。産業への軍需負担が過重になることで原料、電力、労働力などの不足が起こるのを防ぐためにも、民需に対してとりわけ配慮が必要であることもファーガソンは強調した ((

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号六一一〇六七   こうした考えは、次官局の任を解かれた後も変わっていない。二七年一二月に陸軍大学校において産業動員計画の現状と題して行った講義のなかで、ファーガソンは二つの危機を想定した。一つめは開戦一~八カ月で発生するもの、二つめは二年目以降に起こるものである。一つめは第一次大戦でアメリカが経験した動員の混乱をさす。これには事前の産業動員計画が重要となる。二つめは、長期戦に突入した場合、資源の一部が枯渇する時期をさす。二つめの危機に陸軍省はどのように準備すべきか。取り組むべき課題としてファーガソンは、代用資源の研究、資源の備蓄、動員の地方分権、軍需への規格転用、教育注文、などを挙げた。民間産業との協働も重要性は変わらない。産業動員は軍の命令ではなく国民全般の熱意によらなければならないとファーガソンは力説する。それゆえ、今後の課題として最も反対が予想される価格統制と労働統制は慎重に進める必要があるとの考えを示した ((

第二節  ドワイト・F・デイビス陸軍次官による議会・産業界への説明   ドワイト・デイビス(共和党員)は、一九二三年三月から二五年一〇月まで陸軍次官、二五年一〇月から二九年三月まで陸軍長官を務めた。デイビスはシビリアンでありながら、一九二〇年代の七年間アメリカ陸軍のナンバー1またナンバー2として君臨し続けた、いわば一九二〇年代における国家総動員準備の最高責任者であった。デイビスは、デビス・カップを創設した元テニス選手として良く知られているが、国家総動員準備の推進者としての一面はほとんど知られていない。では、ファーガソンらが立ち上げた次官局の国家総動員準備をデイビスは陸軍の責任者としてどのように議会に説明したのだろうか。

  デイビスは一九二四年一月に、下院の予算委員会において、産業動員についての答弁にあたった。ファーガソンと同様、デイビスは第一次世界大戦で得た教訓、すなわち軍需生産の開始が遅れたこと、なおかつ生産が一部過剰になるな

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    同志社法学 七〇巻三号六二戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇六八

どバランスを欠いたことから、産業動員準備が必要不可欠であると説く。第一次世界大戦の場合は、幸運にも同盟国によって救われたが、次期戦争では「多くの命が失われる」であろう、また無計画はかえって「数百万ドルの浪費」につながるだろうと警告した。それゆえにデイビスは、国防法を成立した議会の英断を「数百万ドルの節約になる」「多くの人命、あるいは国家そのものを救う」と評価し、「現時点では産業動員準備に関していかなる国よりも先んじており」、議会はその卓見を示したといえると賛辞を送った。

  その上でデイビスは、次の課題として備蓄の問題をあげた。デイビスによれば、兵員を戦地に送るよりも、軍需物資を輸送する方が時間がかかるという。概してそのタイムラグは一二カ月を見積もらなければならない。このようなタイムラグをできるだけ少なくするためには、原料・資材の備蓄が不可欠となる。また、開戦より前に製造を開始することも重要となる。さらに、民間の軍需生産能力を高めるため、かつ備蓄を補うために教育注文制度の採用も必要となる。こうしてデイビスは、備蓄政策をとらなければ、せっかくの産業動員準備も台無しになるだろうとまで強調した ((

  一九二四年四月に行われた委員会でも、デイビスは産業動員について説明を行っている。デイビスはまず、公の場で(

publicly

)戦争準備の問題を議論することが委員会の望みでもありデイビス自身が繰り返してきた大原則であると断ったうえで、戦争の最高司令官たる大統領に、開戦前に広範な産業統制の権限を付与すべきことを主張した。例えば、公定価格の設定などは論争を呼ぶ問題の一つであるが、開戦後議会で二、三カ月かけて審議をして制定していては間に合わないという。公定価格にとどまらず、大統領には原料統制、輸送機関の統制、電力の統制、食糧の統制などが権限として与えられるべきとデイビスは述べる。さらに、どこまでそれらを実現させるかは「議会がきめるべきこと」と断ったうえで、デイビスは個人的見解として、最高司令官に無制限の権限を付与することが、それを制限するよりもより効率的であると念押しした ((

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号六三一〇六九   一九二五年三月、鉄道輸送関係の役員や実業家を集めた陸軍長官主催の会議においても、デイビスは「産業動員準備は価値があるか?」と題した講演を行っている。ここでもデイビスのねらいは、陸軍の計画に民間人の支持を得ることにあった。デイビスによれば、産業動員準備計画はビジネスの世界にも相通じるという。すなわち、ビジネスの世界において売り上げは販売員(

sales force

)の能力と経済状況の見積もりにかかっており、前もって調達計画をたて、それに従って発注をかけるのと同様、産業動員も国内産業力とそれを調達しうる能力を事前に計算した計画にかかっているという。議会への説明と同様、こうした計画はかえってカネと時間の節約につながるという点も力説した。これも実業界の理解を得られやすいように施されたデイビスなりの工夫だった。

  さらにデイビスは、計画の究極の目的は、能率的な行為(

efficient performance

)にあるという。計画が完成されれば、我々の準備が攻撃的でないことは世界に明らかにできるし、敵に攻撃する機会を与えないという、平和を維持する効果も期待できるとデイビスは説明する。もちろん、戦争に勝つためでもあるが、「国民の平和主義的感情と政府の方針と完全に調和する形で、あくまで慎重な国家として万が一に備え、母国を護り、アメリカの理念を守り、平和を促進する」のであった。

  以上見たように、デイビスは戦時に動員の主役となる産業界に、軍の計画に対する抵抗感をなくすことで、やがては計画に精通し軍と協働することを期待していた。それゆえ、「計画に関する建設的な批判や指摘は常に歓迎する」と堂々と述べたデイビスには、むしろ産業界が軍需動員を理解し、習熟し、軍との間の対話が促進することにねらいがあったとみてよいだろう ((

。いずれにせよ、ファーガソン大佐の意を汲む形で、シビリアンの陸軍次官が産業動員の要を説いたことは、アメリカの国家総動員準備を推進する軍や産業界にとって大きな力となったであろう。

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    同志社法学 七〇巻三号六四戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇七〇

むすびにかえて――日本の国家総動員準備への射程

  以上、本稿は戦間期アメリカ、とりわけ陸軍省の国家総動員準備のプロセスを概観しつつ、計画推進者たちのねらいについて明らかにした。それでは、戦間期におけるアメリカの国家総動員準備の動向から、何が見えてくるのか、むすびにかえて考察したい。

  第一に、アメリカが一九二〇年に産業動員計画のための法整備をすませ、計画をスタートさせている点に注目すべきである。これは日本が国家総動員準備施設として資源局を設置する七年も前のことであった。しかも、「産業動員」のなかには、価格統制、電力統制、交通輸送統制、労働統制などが含まれており、事実上の「国家総動員」といえた。

  ともすれば、豊富な資源を持つアメリカは日本ほど準備を急ぐ必要はなかったと考えがちであるし、「民主的国家」「国際平和の主唱者」たるアメリカは国家総動員準備とは無縁だと思いがちであるが、現実は正反対であった。他方、日本は軍需局(一九一八)、国勢院(一九二〇)を設置したにもかかわらず、アメリカ国防法成立と同時期に廃止しており、それと共に軍需工業動員法(一九一八)も空文化し、準備は中断を余儀なくされた。はじめにでも述べたが、国際平和を推進することと、来る大戦争に備えることとは決して矛盾しないのである。

  第二に、アメリカの産業動員計画は、一九二〇年代こそ遅々として進まなかったが、何度も修正を加えては議会に諮っていた点も注目すべきである。日本の国家総動員法が成立したのは一九三八年四月とアメリカの最終版産業動員計画完成(一九三九年一〇月)より一年半ほど早かったが、唐突に、しかも議会への十分な説明もなく提出された法案に、議会は色を成して抵抗し無用の混乱を招いたことを想起すれば、アメリカの方がはるかに周到緻密な計画だったといえる。アメリカのプランナーが世界で最も先を行く計画と自賛したのもうなずけよう。

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    戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)同志社法学 七〇巻三号六五一〇七一   第三に、アメリカが国家総動員の準備を国民感情や議会の強い反発を受けることを想定した上で、国家総動員とりわけ産業動員が軍事本位の目的でなく、「効率性」や「公正」といったより一般化された目的を提示し、実業家や国民一般の理解を得ようと努めていたことも興味深い。というのも、筆者が別稿で明らかにした通り、日本の資源局創設を主導した内務官僚の松井春生は、国家総動員の目的を資源の保育と捉えており、まさに同じ手法を用いて、国民の福利(民需)を保護することに重点を置いていたからである ((

。松井がアメリカの総動員準備から強い影響を受けていたとみて間違いないだろう。

  第四に、産業動員計画における民間人の役割を強調し、実際に彼らの積極的な参加を促した一方で、アメリカ陸軍省は陸軍産業大学(一九二四年)を設立して、産業に精通する軍人を育成した点も興味深い。日本では、一部の軍人が東京大学などに派遣され、後に企画院などに入り産業統制に関わったが規模は圧倒的に小さい(鈴木貞一や池田純久などはその典型であろう)。それでも、軍人が経済・産業政策に関わり、その分野の責任ある地位を占めることは、日本史研究において「陸軍の政治関与の拡大」「軍部(陸軍統制派)の台頭」「高度国防国家建設推進」などとみなされてきた ((

。その日本陸軍と比べ、アメリカ陸軍は公然と、より体系的に統制経済に習熟しようとしていたのである。もっともアメリカの軍人が、議会の承認を重んじ、大統領の決断を最重視していたことにも留意すべきであろう。

  第五に、アメリカの国家総動員のプランナーは、第一次大戦の失敗経験から、軍の主導性を否定し、物品委員会(

Commodity Committees

)やアメリカ軍需協会(AOA)のように、計画段階から第一次大戦の戦時産業局に関わった経験者や有力な実業家といった民間人にアドバイスを求める場所を確保し、計画に関与させていたことも括目すべきであろう。また軍需調達管区制度(

Ordnance District System

)を設けて動員業務を地方分権化し、平時は区のトップに民間人を配置させた点も興味深い。日本の資源審議会も同様の役割が期待されたが、不徹底に終わった。

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    同志社法学 七〇巻三号六六戦間期アメリカの「国家総動員」準備(一九二〇―一九三九)一〇七二

  軍人も含めた日本の総動員プランナーも軍の主導性をアピールしないことで国民の理解を得ようとした。しかし、実業家の協力を仰ぎ、国民主体の総動員体制の実を挙げるには、統帥権独立の伝統という大きな「障害」を克服しなければならなかった。結果的に、イギリスの駐日武官が批判した通り、総動員計画の実態は厚いベールに覆われ続け、国家総動員法に対する強い反発につながった ((

  最後に、日本の資源局と同様にアメリカ陸軍省次官局は平時における産業動員の計画を掌るにすぎなかったが、大統領の強い統制権、それを支える産業リーダーによって構成される一元的補佐機関(WRA)を法案に盛り込み、さらに陸海軍の軍需調整機関(ANMB)を設けて平時から陸海軍対立の解消を目指していた点も重要である。日本の企画院(資源局の後身)の軍に対する指導力が弱く、陸海軍の間すら対立が解消されなかったことを考えると、責任と決定権とを明確にした点はアメリカの国家総動員計画の最も際立った点ともいえよう。

  以上の様に、日本はアメリカの国家総動員準備から学び、取り入れたことが指摘できる一方で、準備の五年に及ぶ中断、議会との対話欠如、産業界との連携不足、軍による産業へのアプローチ不足、責任の所在が不明確など、準備に遅れをとっていたことも見逃せない。いずれにせよ日本は、圧倒的な産業力と豊富な天然資源を誇るだけでなく、戦争準備の点でも日本よりはるかに優れたアメリカに無謀にも戦争を挑んだと言えるのかもしれない。

) 稿

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参照

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