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公立学校と良心の自由(五・完)

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公立学校と良心の自由︵五・完︶

ードイッ連邦共和国における国家の教育任務・

   親の教育権・子どもと親の良心の自由1

西 原 博 史

  目 次序章問題提起

第一章 国家の教育任務と親の教育権

第二章 公立学校と宗教第三章学校における世界観的間題

 第一節 二つの具体的問題

 第二節 教育目標・授業内容の決定

  一 憲法上の教育目標規定

  二 授業内容の決定に対する憲法上の制約

  三 授業内容の決定手続に関する保障

終章 問題解決の手がかり

  一 ドイツ憲法学の成果

  二 我が国における問題状況と良心の自由 ︵以上︑四〇号︶︵以上︑四一号︑︵以上亀四三号︶

︵以上︑本号︶ 四二号︶

早稲田社会科学研究 第44号  92(H4).3

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第二節 教育目標・授業内容の決定

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 ノルトライン・ヴェストファーレン政治教育指針で典型的に問題になったのは︑公立学校の授業がどこまで価値指

向性を伴い得るかであった︒学校教育の受け手である子どもが良心の自由を亨具し︑特定内容の価値観が学校で一面

的に伝達された場合に子どもの良心形成の自由が侵害されることを考えれば︑授業の枠内でも生徒に対する信条的な

働きかけは原則的に許されない︒この原則は︑客観法次.兀では国家の世界観的中立性の原理から︑また主観的権利の

次元では子どもの良心の自由︑子の良心形成に貴任を持つ親の教育権および良心の自由から︑要請される︒それでも

授業の中で一定程度の価値指向性が認められるなら︑高度な憲法上の正当化が必要となる︒

 本稿では一貫して︑教育目標の確定や授業内容の決定が︑憲法制定者︑立法者︑学校行政官庁︑教師などを主体と

した公権力内部で行われるという理論的擬制を前提にし︑その前提を採って初めて問題とし得る授業の領域での子ど

も・親の基本権的保護を問題にしてきた︒この視点から見れば︑授業の価値指向性に関する上の問題は︑教育目標.

授業内容の決定権を包括する国家の学校任務が実体的・手続的にどのような憲法上の制約に服するかに関わる︒ドイ

ツにおける公立学校と子ども・親の良心の自由との関係に関する考察の最後に︑こうした問題を考える必要がある︒

        一 憲法上の教育目標規定

 a ラント憲法の規定  前節で見たノルトライン・ヴェストファーレン憲法のように︑いくつかのラント憲法は

教育目標に関する明文の規定を置いている︒この規定がそうした目標を実現するために学校で子どもに対し信条内容

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公立学校と良心の自由(五・完)

に関おる直接の強制を授権するのかがまず問題になる︒

 ヴァイマール憲法は︑︸四八条で﹁すべての学校でドイツの国民性と国際協調の精神による︑倫理的教育︑公民的

信条︑人格的・職業的能力を追求するものとする﹂と定め︑連邦レヴェルで教育目標に関する規定を置いていた︒し

かし基本法は︑学校教育に関わる事項がラントの文化悪態に属するとの立場を採るため︑教育目標に関する規定を持

たず︑国家の学校監督に関する七条の簡単な規定を置くに留める︒教育目標の設定は文化高権に基づき学校教育を管

轄するラントの事務となり︑この任務はいくつかのラントではラント憲法に規定を置く形で実現されている︒

 教育目標に関する規定をラント憲法に置くラントは︑旧西ドイツ地域でも︑バーゲン・ヴュルテンベルク︵憲法一

二条︶︑バイエルン︵二一二条︶︑ブレーメン︵二六条︶︑ ヘヅセソ︵五六条︶︑ ノルトライソ・ヴェストブァーレソ

︵七条︶︑ラインラント・プファルツ︵三三条︶︑ザールラント︵三〇条︶の七つのラントにのぼる︒内容に関しても︑

前節で引用したノルトライソ・ヴェストファーレン憲法の規定は一つの典型と言え︑ヴァイマール憲法のいわば形式

的な目標設定とは対照的に︑各ラント憲法とも実体的価値に入り込んだ形で教育目標を定式化している︒この背景と

して︑基本法制定より早い時期に制定されたラント憲法に︑ナチズムの過去に対して訣別するために相対主義を批判

してキリスト教的な正義観や秩序観に頼ろうとする当時の思想的傾向の影響が存在するのも想像に難くない︒ノルト

ラィン・ヴェストファーレソ憲法に登場する﹁神への畏敬﹂という定式も︑そうした背景を考えれば突飛なものでは

なく︑また実際に類似の要素は信仰の自由との緊張関係が意識されることもなく複数のラント憲法で教育目標に採用

されている︒この傾向を代表するのが︑教育目標としての﹁キリスト教的隣人愛﹂を強調するバーデソ・ヴュルテン    ︵1︶ベルク憲法であろう︒それに対し︑ ﹁独立の思考︑真実の尊重︑それを表明する勇気﹂等も教育の課題とするプレー

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メン灘が対極にあると言える・底本的傾向として︑キースト教的萎が色濃く出ている南ドイ・を中心とするぞ      ︵3︶リック地域と︑自由主義・民主主義的な要素が前面に出るプロテスタント地域との対比が可能であろう︒

 シュタルクはこうした教育目標を︑自己認識︑他老への寛容︑社会的・政治的責任の三つの﹁基本目標﹂へと分類       ︵4︶し︑そこからラント憲法の教育目標が基本法の理念に問題なく接合するとの結論を引き出す︒しかしこの議論には詫

弁が潜む︒様々な実体的内容を持つラント憲法の教育目標を基本法から演繹可能な三つの類型に分けたところで︑制

憲議会の構成の違いを反映し允教育目標規定の思想的基盤の差を超越できはしない︒また︑教育目標とされる個々の

実体的価値が無条件に学校で拘束的な理念とされていいのか︑この教育目標が学校における強制の対象となり得るか

は︑別途考察を必要とする︒

 b 教育目標規定の効力  シュタルクの議論は︑ノルトライン・ヴェストファーレン政治教育指針などに見られ

るSPDが政権を持つラントにおけるカリキュラム改革の動きを批判する狙いで︑ ﹁国家は︑直接に指導計画によっ

ても︑間接的にこの教育目標に従う意思のない教師の任命によっても︑この憲法上の目標をくぐり抜けてはならな

匝と主張することに主眼を有していた・レあ考え方は︑ラント憲法の教育目標を︑ラントの学校行政に対する制約

としての消極的側面で捉える︒しかし︑ラント憲法の条文を見る限り︑教育目標規定は授業に対する外枠として学校

行政官庁の権限を制限するものと言うより︑実際の授業の中への具体化を委託する積極的な目標設定規範としての構

造を持つ︒

 にもかかわらず︑教育目標規定のこうした効力に関してはドイツでも十分に議論が蓄積されておらず︑教育目標規

定が具体的に何をラント打政府や教師に授権するのか必ずしも明らかになっていない︒この原因の一つに︑現在のド

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公立学校と良心の自由(五・完)

イッの学説状況を前提とした場合︑いずれにしてもラントの学校行政官庁が基本法七条を根拠に国家の教育任務の枠      ︵6︶内で教育目標確定権限を持つことが挙げられよう︒基本法による包括的授権の一環としてこの権限がすでにラント行

政府にあるなら︑カリキュラム策定に際して教育目標を規定する法的根拠はそこに求めればよく︑ラント憲法を解

釈・適用する権限を主張する必要はない︒

 ラント憲法の教育目標規定の法的意義が唯一問題になり得るのは︑教育目標が純粋な知識・技能の伝達に留まら

ず︑価値の問題に踏み込む場合の評価に関してである︒仮に国家の教育任務を教養的教育の領域に限定し︑憲法上の       ︵7︶価値決定に基づく憲法核心の伝達のみを学校に可能な価値観の領域での活動と捉えるなら︑ラント憲法の教育目標規

定は憲法上の価値決定の内容を知る手がかりとなる︒それに対し︑国家の世界観的中立性を原則として前提とせず︑       ︵8︶寛容の枠の中で学校での価値伝達も可能であると考えるなら︑価値が憲法から直接導き出される必要性は否定され︑

特定の価値観に結び付く教育目標の確定も行政府の裁量の枠内の問題となる︒

 良心の自由という観点から生徒に対するイデオロギー的教化の防止策を考える本稿の立場から見れば︑学校行政の

裁量で民主的コントロールなく学校が自由に価値観の領域で教育を引き受けられると考えることは妥当ではない︒学

校行政を主体とするイデオロギー的教化を予防する方策が必要で︑仮に人格的教育の領域に学校教育が関わらざるを

得ない場合があっても︑そこでの教育目標や授業内容に関しては実体的・手続的な観点から憲法上の特別な正当化が

必要となる︒      ︵9︶ しかしそうした考え方を採っても︑抽象度が高く︑解釈に際して再度の価値決定が必要となる教育目標規定をもっ

てしては︑学校行政や教師の決定に一義的な指針を提供できない︒再度そこで憲法上の価値決定に頼ろうとするなら

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ぽ︑結局は基本法を手がかりにするほかなくなる︒もともと人格的教育任務の領域における教育目標確定の正当性付

与にラント憲法以上に基本法がコンセンサスの基礎として役立ちやすいため︑学説上・実務上の議論においては基本      ︵︶︹1︶法から直接に人格的教育の指針としての価値が導き出される傾向がある.︑

 ラント憲法の教育目標規定が法的な意味で目標設定的意義を持つものとしてはあまり問題にならず︑せいぜい学校

行政による現実の教育目標決定に際して価値決定の幅に実体的な枠をかぶせるものとして注目されるに留まる背景に

は︑こうした構造があると推察できる︒そして︑こうしたラント憲法の教育目標規定の意義は︑法的な授権と制限の      ︵H︶問題よりも︑むしろ教育政策的な正当化根拠としての政策論レヴェルに炭かれる︒

 c 教育目標としての﹁神への畏敬﹂  ラント憲法の教育目標規定が人格的領域における教育昌漂の確定に利用

できる価値決定を含んでいるにもかかわらず︑現実の議論でさほどの比重を占めない理由としてさらに考えられるの

が︑この教育目標規定がかなり強い思想的な拘束を受けている点である︒これを典型的な形で示すのが︑前章で触れ

︵12︶た教育目標としての﹁神への畏敬﹂である︒ ﹁神への畏敬﹂が拘束的な教育目標として生徒に強制され得るなら︑そ

こで言う神が特定宗派の理解に基づく具体的な神でないと強調されようとも︑神の存在を前提とした特定宗教が強制

されることになる︒就学義務に基づき通学が強制されている公立学校でこうした特定宗教の強制が行われるなら︑こ       ︵3■︑1︶れは信仰の自由に対する明白な侵害を意味する︒

 ラント憲法は︑基本法に反しないよう解釈されなけれぽならず︑教育目標としての﹁神への畏敬﹂も宗教の強制を      ︵14︶可能にする構造を持つものとは解釈できない︒同様のことは︑特定宗派の思想体系を前提にすることを文言上明確に

示す︑パーデン・ヴュルテンベルク憲法における教育目標としての﹁キリスト教的隣人愛﹂にも妥当する︒

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公立学校と良心の自由(五・完)

 しかしそれなら︑ ﹁神への畏敬﹂などが教育目標とされることの意義はどこに存在するのであろうか︒これらの教

育目標が実際に授業の目標とされ︑成績評価の基礎として不利益付与の原因になれば︑直接に憲法違反となる︒これ

らの目標が意義を持ち得るのは宗教の授業においてのみであるが︑そこでは基本法上﹁宗教団体の諸原則との一致﹂

が確保され︑特定宗派の神に対する畏敬が伝達されても問題ないため︑わざわざラント憲法でこうした教育目標を置

く意味はない︒

 こうした点から︑ラント憲法で実定化された教育目標すべてが学校で拘束的なものとして生徒に伝達され得るわけ

ではないことが明らかである︒ラント憲法の教育目標規定も︑それを授業や学校における活動の拘束的基礎として生

徒に強制することを学校行政や教師に授権するものではない︒

 d 教育目標としての﹁寛容﹂  ラント憲法の教育目標規定がイデオロギー的教化を授権するものと解釈されて

はならないという理解は︑同じくラント憲法の教育目標規定に含まれる寛容の要素からも導き出される︒ ﹁他者の意

見に対する寛容﹂︵ブレーメン憲法二六条一号︶︑﹁寛容と他者の信条に対する尊重﹂︵ノルトライン・ヴェストファー

レン憲法七条二項︶などといった要素はラント憲法の教育目標規定に多く含まれ︑またヘッセン憲法は五六条二項で

﹁あらゆる授業の原則は寛容でなけれぽならない﹂と定める︒

 教育目標としての寛容は︑ノルトライン・ヴェス㍗ファーレン政治教育指針に対する批判の中でも持ち出されてい

た︒社会の中で対立がある政治的・世界観的な問題に関して特定の態度を授業目標とする政治教育指針に対して寛容      ︵15︶を行う国家に可能なものを踏み越えているとの批判がなされる際に寛容原理の法的根拠とされるのは︑この原理がノ

ルトライソ・ヴェストファーレン憲法で教育目標とされていることであった︒

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 教育目標としての寛容は︑このように学校で伝達されるべき価値としてより︑むしろ授業のあり方に関する原則と

して学校法の議論に登場する︒これを典型的に示すのがプロイスの議論である︒彼は﹁イデオロギー的に寛容な学校

を求める権利﹂に対する批判の中で︑ラント憲法の教育目標規定が﹁学校での教育を特定の方向に義務づける﹂こと

から出発しつつ︑特定の寛容思想の理論的基礎づけを義務づけることが憲法の役割ではないとし︑寛容をむしろ学校

における﹁コミュニケーション原理﹂と捉える︒寛容の原理は﹁学校・授業における社会生活﹂に関連づけられ︑内      ︵16︶心の問題に関係せずに︑ ﹁学校に関係する者の社会的行動に対してのみ作用しようとする﹂ものとされる︒結局彼の

議論でも︑教育目標としての寛容は一面的働きかけにより実現されるべき価値に結び付いた態度として理解されては

いない︒ 寛容原理の意義と射程については︑後に再度触れる︒ここでは︑ラント憲法の教育目標規定の中で最もよく取り上

げられる﹁寛容﹂も︑イデオロギー的な働きかけを通じてでも実現されるべき目標として生徒に強制され得ると理解

されることはなく︑むしろ授業の形態に関する教師や学校行政を拘束する指針とされていることを指摘するに留めた

い︒ e 基本法上の教育目標  ラント憲法の教育目標規定は︑こうして七〇年代まで学校で価値観に関連する授業が

行われる場合の一つの政策的な正当化根拠として適用されるに留まり︑教育目標規定を離れた価値的態度の伝達を目

標とするカリキュラム指針などの憲法上の許容性が問われる場面で法的効果が問題になるに過ぎなかった︒そして︑

ノルトライン・ヴェストファーレン政治教育指針に関する議論に明らかなとおり︑こうした憲法上の価値カタログか

らの演繹関係についての判断には常に高.度の主観的要素が入り込み︑法的な議論が成立しにくい構造になっている︒

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公立学校と良心の自由(五・完)

 同様の状況は︑学校で伝達可能な価値観を基本法から引き出す試みにも妥当する︒国家の世界観的中立性という原

則の例外として学校における世界観的働きかけを可能にする基本法の価値秩序という考え方は︑七〇年代後半の基本

   ︵17︶価値論争の中で発展する︒      ︵18︶ この議論に一石を投℃たのが︑一九七七年のイーゼンゼーの著作である︒彼はそこで︑ ﹁憲法は倫理的カノンを含

んでおり︑国民の基本的コンセンサスを作り出す︵qD.逡︶﹂ことを前提に︑憲法が公民教育に関し自己責任ある能動

的市民を指向した模範像を含んでいる︵ω・コト︒︶とする︒さらに︑基本法が二条で基本権の限界として挙げる﹁道徳

律﹂を社会全体のコンセンサスにより支えられている規範を包括するものと理解し︑これが教育プログラムの正当な

基礎であることを認める︵ω●=9︒h.︶︒もっとも彼も︑この道徳律を手がかりにして生徒に特定の倫理観が強要される

ことを認めばしない︒まず彼は︑自由主義の憲法が国民に共通する倫理の最小限の基準しか保障できないことを前提

にし︑またコンセンサスとしての﹁道徳律﹂と特殊な集団で共有される倫理観を区別して︑ ﹁国家が学校高権を媒介

に︑ある社会的集団の特別の模範像を国家道徳に高めようとし︑一般に押しつけようとするなら憲法違反になる︵oD.

一お︶﹂とする︒さらに彼は︑この文脈でラント憲法の教育目標規定がキリスト教倫理やヒューマニズム倫理の受容

を通じて道徳性をも指向することを確認する︵ω﹂置︶が︑これが意味するのは同一化ではなく︑あくまで国家の教

育制度の枠内での尊重であるとし︑教育目標規定が世界観的中立性の原則に従って解釈されるべきことを要求する

︵oげら・︶︒その際︑この解釈に関する学校行政の単独管轄が否定されるが︵ω・崔ohh・︶︑この点は後に触れる︒

 このように憲法を仮想的コンセンサスの対象と考え︑また法外の倫理的観念に関するコンセンサスが基本法の道徳

律条項を通じて国家の教育任務の行使に入り込むことを認めるイーゼソゼーの議論も︑そうしたコンセンサスの押し

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つけを許容するわけではない︒こうした彼の議論の意義は︑現実に存在する社会の倫理的コンセンサスあるいはコン

センサスであるべき憲法上の倫理的諸原則が学校で伝達されることに正当性を与え︑なおかつそのコンセンサスの内

容の探知を公の討論のプロセスに服させようとする点にあ・る︒

 f 憲法の教育学的意義  このようなコンセンサスの基礎としての教育目標という問題意識を受けて教育目標の      ︵19刃政策的正当性に関する理論を提示するのが︑一九八一年のヘーバーレの著作である︒彼はそこで︑明文で教育目標を

規定するラント憲法の条文や隠れた教育目標を含む基本法の条文︵ω.ミよ㊤︶の解釈を﹁憲法解釈者の開かれた社会﹂

という彼の理論枠組の適用領域と見る︵ω.鳶︶︒この考え方では︑教育目標は国民の文化遺産たる基本的コンセンサ

スの結果であり︑同時に将来に対する構想となる︵ω●誤h︷・︶︒そこで問題になるのは︑憲法の純粋に法学的な意義では

ない︒彼はこのような憲法上の教育目標を︑法的妥当性やサンクションを典型としない.︑ωoh二p︒≦..と理解し︵ω・刈O︶︑

法律家と教育者が協力して憲法を解釈した上で︑教師の持つ特殊な手段を通じて実現されるべきものと考える︵ω・

お︶︒ このような形で教育目標に関して展開される憲法の教育学的解釈は︑もはや法的な授権と限界設定の枠組で理解で

きるものではない︒確かに︑民主制とか人間の尊厳の尊重といった憲法の基本的価値決定が国家に対する限界である

のみでなく︑現実の社会生活の中で意味を持つべきならば︑教育の中での憲法の意義は重要な問題となる︒そうした

文脈の中では︑へーバーレのような﹁決定﹂よりも解釈作業に重点を置いた憲法の理解のしかたが必要で︑その枠組

の中で教育目標としての憲法が扱われる必要があるかも知れない︒

 しかしまた彼の理論は︑憲法上の教育目標や社会生活中の憲法実現に関する法学的考察の限界を示すとも受け取れ

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公立学校と良心の自由(五・完)

る︒ ﹁教育学的憲法解釈﹂の中で憲法は国家による﹁申し出︵QD.お︶﹂の位置を占めるに留まり︑具体的決定は議論

の結果に委ねられる︒法的な意味での規範は︑そこでは問題になり得ない︒彼自身が教育目標として人間の尊厳や民

主制を重視するのも彼の理論枠組の中では個人的見解に過ぎず︑議論の結果として出てくる教育の指向性は討論に参

加する者の主観性に基づく偶然に支配される︒確保されるのは教育目標に関する憲法学者の発言権だけである︒換言

すれぽ︑ ﹁教育学的憲法解釈﹂の理論は︑学校を法的に拘束する特定の憲法上の教育目標の存在を否定しており︑問

題になり得るのは政策的な議論の中での憲法の意義でしかない︒

 9 教育目標としての憲法の基本価値  こうしたへーバーレの議論は︑学校で基本法の中心的意味内実を伝達す

ることを政策論的な次元で正当化することを狙ったものであった︒しかし︑彼自身が述べるように︑ ﹁立憲国家は︑

自らの前提である開放性のために︑教育目標の拘束的規範化に際しては行きすぎが試みられてはならない︵ω.認︶﹂

のである︒

 第一章で確認したとおり︑憲法の基本価値は国家の世界観的中立性の例外とされ︑人間の尊厳や自由︑民主制︑さ

らにはそうした観点に直接結び付く他者の意見の尊重などが正当な教育目標とされることが多い︒肚裏ヴァースはこ

うした教育プログラムへの基本価値の取り込みを︑基本法の基本価値への信仰を強制できない国家が自らの存立を維      ︵20︶持するために学校を通じて行う本質的な貢献と理解し︑正当化する︒ここからも明らかなとおり︑憲法の基本価値へ

の教育は︑憲法の基本価値を子どもに強制することまで許容してはいない︒特定の価値観・信条の強制は子どもの良

心の自由を直接侵害し︑国家の教育任務からも正当化され得るものではない︒その点を考慮してエーヴァースは憲法       鵬核心をめぐる教育任務に関し︑ ﹁基本法の基本価値の肯定に向けた教育が生徒に期待可能なのは︑この教育任務が絶

(12)

      ︵21︶対化されず︑生徒の自己展開を助けるという︑より包括的な任務に服す時のみである﹂との原則を設定する︒教育プ

ログラムとしての憲法の基本価値も︑へーバーレの言葉を用いれば一つの﹁申し出﹂に過ぎず︑それ以外の選択を許

さないものとして提示されれぽイデオロギー的教化となり︑良心の自由を侵害すると評価せざるを得ない︒

 h 教育目標としての倫理的規準  それでも政策論の次元で憲法上の直接の正当化に依拠できる憲法核心の伝達

に関しては︑イデオロギー的な強制が行われない限り問題は少ない︒問題になるのは︑憲法から間接的にしか引き出

せない価値をめぐる周辺領域である︒

 その関連では︑倫理的規準がどの程度学校で教育目標とされ得るかが問題になる︒教育プログラムの基礎としての

﹁道徳律﹂を強調するイーゼンゼーの見解や︑ ﹁共同体内で基本法上一致が存在すべき事項﹂をも憲法核心として国

家の世界観的中立性の例外とするエーヴァースの立論も︑国民の間でコンセンサスとなっている倫理的規準の伝達を

正当化し︑その限りで学校の統合的機能から出発する︒

 この統合的機能を前面に出せば︑社会の中で支配的な倫理的規準を伝達することにより子どもを社会の一人前の構

成員へ教育する任務が学校に帰属する︒エーヴァースは︑基本的には倫理的規範︑文化的・宗教的価値の伝達が学校

の任務となるのはこうした価値の理解を指向する限りでしかなく︑生徒自らの価値に拘束された自己決定への援助に

留まるとしつつも︑学校の統合的機能から二般的に承認されており︑守ることが共同体の構成員に要求される倫理      ︵22︶的規範﹂を拘束的な目標とした教育が基本法二条・七条から正当化されるとする︒

 にもかかわらず︑社会の中で支配的な倫理的規準は存在し得ても︑その点に関する完全な事実上のコンセンサスは

ない場合が多い︒行動の善悪に関する評価に関しては︑様々な社会規範に由来する様々な考え方が個人ごとに内面化

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公立学校と良心の自由(五・完)

されており︑良心の自由はそうした個人の倫理的観念の保護を目的とする︒そうした状況の中で多数者の信条︑また

は行政府あるいは教師の一方的な判断に基づいて特定の倫理的観念が学校で伝達されるなら︑少数者との関係で良心

の自由の侵害が生ずる︒

 イーゼンゼーやエーヴァースも︑倫理的規準が学校行政によって認定され︑それにより一部の者の倫理的規準がコ

ンセンサスとして学校で強制されることを容認するわけではない︒両者とも︑教育プログラムの本質的要素が議会に       ︵23︶よる決定を経るべきことを要求し︑教育目標とされる倫理的規準に関する公の議論を確保しようとしている︒教育内

容に関する法律の留保に関しては後に触れるが︑倫理的規準に関し実際のコンセンサスを想定することが困難で︑現

実には多数派・少数派が存在するという状況を考えれば︑議会の決定によっても良心の自由に対する侵害は排除でき

ないことはここで確認できる︒憲法の基本的価値決定として憲法から直接に正当化できる価値の伝達はともかく︑基

本法二条で基本権の限界とされる道徳律条項といった内容に関する明確性を欠いた暖愚な規定を手がかりに︑良心の

自由の観点から見てほとんど必然的に問題の生ずる倫理的規準の伝達を国家の教育任務に含める考え方は︑憲法上の

限界に突き当たると考えざるを得ない︒

 i 総括  以上の考察から︑公立学校で特定の価値観に結び付いた信条や善悪の判断を拘束的なものとし︑一面

的なイデオロギー的教化をもって実現しようとする教育目標がいずれの場合も国家の教育任務からは正当化されず︑

良心の自由に対する侵害になることが明らかになった︒ラント憲法が明文をもって定める一連の教育目標も︑子ども

自身の自己決定に基づく価値選択を排除するような形で実現されるなら︑基本法に反することになる︒このことは︑       餅教育目標としての﹁神への畏敬﹂と基本法四条で保障された信仰の自由の対抗関係を考えれば明らかになる︒

(14)

 同様のことは︑基本法の価値決定を手がかりに憲法核心を学校で実現されるべき教育目標と考える構図にも妥当す

る︒国家は教育任務の枠内で︑基本法の価値秩序を紹介するような形で︑国家を構成するコンセンサスの伝達と維持

に向けた活動を行うことができる︒しかしこれは︑一面的なイデオロギー的働きかけにより基本法の核心となってい

る価値を子どもに強要することの授権を含まない︒憲法といえども憲法に対する忠誠を国民に義務づけられず︑学校

で憲法の基本的価値決定が生徒に強制されることは許されない︒

 それでもラント憲法の教育目標規定や基本法の価値秩序は︑学校政策論的な観点で︑国家の学校制度において価値

観に関連した人格的教育の領域に立ち入ることに対する正当化根拠となる︒イデオロギー的な価値強制とならない範

囲で憲法上の価値を理解することに向けた教育は行われ得るし︑また人間の尊厳︑基本的自由︑民主制といった憲法

に支えられた社会の基本的ルールを受容する機会を子どもに保障する上でも必要であろう︒ただここでも︑社会内部

で様々な考え方が対立しているような場面においては︑それぞれの見解が並列的に紹介されるなど︑授業が特定の価

値観を一方的に伝達するイデオロギー的教化にならないための措置が必要である︒

 こうした憲法上の直接の正当化根拠を持たない倫理的規準の領域では︑より慎重な態度が必要となる︒この個人の

倫理的観念こそ︑まさに良心の自由が国家の干渉からの自由を保障している領域であり︑国家が学校教育を通じて個

人の道徳観に関する判断に介入するなら良心の自由の侵害が問題になる︒この領域では︑性教育に関して基準として

設定された﹁特定の行動を擁護したり否定したりする目的でイデオロギー的教化を行ってはならない﹂という原則が

妥当すると考えられる︒

 ここでは︑教育筆立としてイデオロギー的教化の目的を追求する権限が国家の教育任務には含まれず︑良心の自由

188

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という観点から見ても正当化される余地がないことを確認した︒しかし︑こうした点は授業における﹁自制と寛容﹂

の問題に密接に関わり︑教育目標よりも授業内容の問題となる︒次に︑授業内容の決定に関する憲法上の制約につい

て考察していきたい︒

公立学校と良心の自由(五・完)

        二 授業内容の決定に対する憲法上の制約

 特定の信条を教育目標とすることによりイデオロギー的教化の目的を追求することが良心の自由という観点から見

て憲法上許されないことは確認できた︒しかし︑それによっても授業の中での良心の抑圧は完全には防止できない︒

教育目標は単に学校における授業・教育の目標を定めるに過ぎず︑実際の授業のあり方を全般的にコントロールする

ものではない︒授業の内容は︑部分的には学校行政官庁により指導計画の形で︑また部分的には教師の日々の授業実

践の中で具体化されている︒信条の強要が教育目標とされなくとも︑こグした日常の授業の中でイデオロギー的教化

が可能であるなら︑子ども・親の良心の自由は日々侵害の危険にさらされている︒

 この授業内容の決定に関する憲法上の問題としては︑実体的な次元と手続的な次元を区別できる︒後者は︑誰がど

のような手続的準則に基づいて授業内容を決定するかの問題で︑我が国で﹁国民の教育権﹂論が教師の授業内容決定

権を主張するのもその文脈に位置つく︒しかし本稿でむしろ関心があるのは︑前者︑誰がどのように授業内容を決定

していようと授業の中で侵害されてはならない憲法原理の問題である︒良心の自由という観点から公立学校における

信条の強制︑イデオロギー的教化が許されないとするなら︑この原理は日常の授業の中に具体化されなければならな

い︒本稿のように教師を含めた国家の教育任務を前提とすれぽ立法府・学校行政官庁・教師の間における権限配分の

189

(16)

問題として現れる手続的問題に関しては︑実体的次元においてどのような形でこの原理が実現できるのかをここで考

えた後に︑あらためて触れたい︒

 a 国家の世界観的中立性と寛容  授業内容に関する憲法上の制約としてまず聞.題になるのが︑国家の世界観的

中立性や寛容といった客観法的な拘束である︒これらの原理は︑授業の中でイデナロギー的教化が行われることによ

り子ども・親の良心の自由が侵害されることを客観法レヴェルで予防する機能を担うものとして︑学説・判例上︑一

定範囲で承認されている︒問題は︑この世界観的中立性と寛容がそれぞれどのような法的意義を持ち︑どのような領

域で妥当するかである︒

 上で確認したように︑学校で世界観に関係した素材を扱うことが不可能なわけではない︒特に憲法の価値決定の伝

達に関わる場面では︑イデオロギー的教化にならない限り人格的教育の領域における学校の活動が正当化される︒そ

のため︑国家の世界観的中立性が学校に妥当するとしても︑あくまで原則でしかあり得ず︑絶対的な効力は要求でき

ない︒そこに中立性に付きまとう厳格さを緩和した寛容原理の意義が存在する︒そこで︑世界観的中立性と寛容とい

う二つの原理がどういう関係に立つかが問.題になる︒現実にはこの二つの概念は︑同じことの言い替えとして内容に       ︵21︶関する省察を経ずに不用意に用いられる重合がある︒しかし︑ドイツ憲法史の伝統の上に成立する概念として︑特定

の信条を自らの前提とすることを拒否する中立性の観念と︑特定の信条を前提としながら考えの異なる他者の存在を       ︵痴︶容認することに向かう寛容の観念の間には︑内容上かなり大きな差がある︒      ︵%︶ こうした寛容と世界観的中立性の歴史的意味内容に忠実に両者の関係を理論化したのが︑エーヴァースである︒彼

は︑世界観的中立性を学校に課された原則と捉えながら︑基本法の藍本決定︑人間の尊厳・基本的権利・自由等︑基

190

(17)

公立学校と良心の自由 五・完)

本法上共同体内で一致が存在すべき事項の三者を中立性の例外とするが︵ω9り覧h・︶︑寛容の意義はこうした中立性の

例外として国家が特定の世界観と同一化できる領域にあると主張する︵ω・㊤o︶︒同様の用語法上の区別は︑逆に世界

観的中立性の原理が学校に及ぶことを否定しながら︑学校で妥当するのは多様性の維持に向かう寛容の原理のみであ       ︵27︶るとするピュットナ!も提示する︒

 このような概念枠組を前提にした場合︑問題は︑世界観的中立性が原則として妥当した上で例外となる領域で寛容

が意義を持つのか︑あるいはそもそも世界観的中立性が学校に対しては妥当せず︑特定の見解との同一化を前提とし

た寛容のみが意義を持ち得るのかという点に置かれることになる︒

 b 世界観的中立性と授業内容  学校における国家の世界観的中立性が問題とされる轟轟︑この原理はクリュー      ︵82﹀ガーが提唱した︑国家を﹁一般性﹂の領域と捉えて﹁特殊性﹂との同一化を禁じる﹁非同一化の原理﹂によって敷衛

される︒そうした中立性理解を前提とした場合︑国家の運営する学校の中で生徒に伝達される授業内容が特定の世界

観的な方向と同一化することは許されない︒社会の中で見解が対立している論点について特定の見解を前提に授業を

構築することはできず︑授業内容が党派性を帯びることは許されない︒ ﹁一連の様々な精神的立場が自由に選択でき

るような形で提示される﹂ことが必要になり︑対立する見解は対立するままに並列的に︑即物的に紹介されなけれぽ

ならな噂こうした国家の世界観的中立夏・指導計画を策定する学校行政官庁にも実際の授業を行う教師にも妥

当する︒授業で並列的に取り上げるべき見解は指導計画で列挙されている必要があるし︑また教師は実際に授業の中

で教育公務員として生徒に接する場合には価値中立的な伝達者として活動しなければならない︒

 こうした原理を厳格に解釈した場合︑授業が社会内部で世界観的・信条的に見解が対立している領域に立ち入るこ

191

(18)

と自体が問題になり得る︒この点に関し世界観的中立性の妥当性を主張する見解は︑この原理が要求するのが社会内

部で対立のある素材を扱わないことでなく︑扱った場合に特定の立場と同一化せずに様々な見解を幅広く紹介するこ        ︵30︶とであると強調する︒しかしこのような考え方に対しては︑中立的即物的な素材の伝達に限定された場合に教育活動       ︵31︶が本来の任務を果たせないとする反論が提起される︒中立性論にとって中立性の例外としての基本法の価値秩序が意

義を持つのは︑まさにこの文脈においてである︒基本法の価値決定に由来する人格的教育の指針を利用することによ      ︵32︶り︑学校や教師が精神的な根なし草となったりすることはないとされる︒

 しかし︑宗教が問題となる文脈で﹁墓本法の倫理的規準﹂を指向した共同学校の教育という構図に対してなおも反

    ︵紛︶論があったのと同様の枠組で︑世界観的中立性が学校を支配する原則となることを否定する見解は︑基本法の価値決       ︵M︶定では学校教育の基礎としては不十分であると反論する︒この反論を真剣に受け止めた場合︑世界観的中立性を擁護

する見解は苦しい選択を迫られる︒基本法の価値秩序によりカヴァーされる領域を広く取り︑社会的コンセンサスの

維持をもこの領域に含める形で多数派状況を参照し︑それにより支配的道徳律を前提とした学校・教師の働きかけの

余地を認めるか︑そうでなけれぽ基本法の価値秩序として同一化可能な領域をあくまで基本法七九条で憲法改正の限

界として列挙されている価値を代表とする﹁憲法核心﹂に限定し︑それ以外の領域における学校教育の任務を知識伝       ︵35︶達に厳密に限定していくかの︑二つの選択肢しかないからである︒前者の方向を採るのがエーヴァースやイーゼンゼ

︵お︶   ︵舘︶

一てあり︑後者の道を進むのがシュミット・カムラーである︒

 ここでコンセンサスを得ている道徳律も基本法の価値決定に含めれば︑コンセンサス状況を認定して授業の基礎と

tての倫理的規準を確定する国家の権限を肯定することになり︑.国家の世界観的中立性を棟則とした意味が失われ

192

(19)

公立学校と良心の自由(五・完)

る︒理論的︸貫性という点から評価すれぽ︑世界観的中立性の原理を授業にも貫徹させようとする場合︑中立性の例

外は﹁憲法核心﹂に限られる必要があることになる︒

 c 世界観的領域における授業の可能性  ただ︑世界観的中立性の原則を厳密に理解し︑憲法核心に関わる領域       ︵詔︶以外では知識伝達しか可能でないとするシュミット・カムラ1の構図にも︑実際上の難点がある︒国家の教育任務を

知識・技能の伝達を中核に理解し︑国家の人格的教育任務を原則として否定する本稿の立場から見た場合︑この難点

は社会の支配的道徳の伝達が不可能になり︑学校が統合的機能を十分に果たせなくなる所にあるわけではない︒子ど

もの良心の自由を出発点に据えれば︑学校における支配的道徳の強制は本来あってはならず︑道徳的同質性は国家が

権力的手段を投入することにより維持されるべきものではない︒

 むしろ問題は︑知識・技能の伝達と世界観的働きかけが一義的な法的評価を可能にするほど厳密に峻別できるか否

かに存する︒シュミット・カムラーの考え方は︑一方において宗教・世界観などの信条に関わる領域で国家が不当な

干渉を加えることを防ぎ︑自由な良心形成や精神的領域における自己決定の保障を目的とし︑他方で知識伝達の領域

において親が偏狭な宗教的偏見に基づいて干渉することにより学校の任務が十全に果たせなくなり︑子どもの人格形

成が歪曲されることの防止を狙う︒確かに︑性教育の文脈で純粋な知識伝達が問題になる領域でも異議を唱える親が

いたこと︑あるいは︑目をドイツ以外に転ずれば学校で進化論を教える場合に同時に聖書の天地創造も扱わなければ      ︵田︶ならないと考える勢力があることを考えれば︑この後者の方向設定も無意味とは言えない︒

 しかし︑普遍的真実は存在せず︑存在するのは特定の歴史的状況で共有された前提としての文化的コンセンサスの

上に成り立つ﹁事実認識﹂のみである︒また︑性教育の場面で問題になったように︑どのような事実をどの段階で伝

193

(20)

達するかの決定には教える側の価値観が混入する場合が多い︒現在の状態では自然科学的知識に関し﹁確立した知

識﹂を想定できるとしても︑歴史解釈などの場面では知識伝達なるもののイデオロギー性に関する疑念を払拭するこ

とが困難な場合も考えられる︒また︑連邦行政裁判所が一九八八年の教科書訴訟判決で指摘するように︑社会関係に      ︵ω︶対する評価・批判といった要素もある程度は授業に取り込む必要がある︒学校教育が体制維持だけのためのものでな

いと考えるなら︑既存の関係を無批判で受け入れることを指向した学校教育も世界観的中立性の観点から問題とし得

る︒世界観的中立性を現実の授業に適用した揚合に直面するこうした問題は︑意見の対立がある論点に関し複数の見       ︵41︶解を並列的に紹介することにより克服可能であるとされる場合がある︒しかし︑対立するすべての見解を余す罪なく

すべて同じ比重で提示することは︑授業という限られた時間の中では可能ではない︒      ︵42︶ すでに第一章で確認したように︑授業の枠内では国家の世界観的中立性という原理を厳格な形で実現することはで

きず︑この原理のみで問題が解決できると考えるのは現実を無視した楽観論とならざるを得ない︒世界観的中立性を

原則として承認することなしには授業における子ども・親の良心の自由が確保できないが︑この原理はあくまで原則

あるいは目標としての意味を持つに留まる︒

 d 学校領域における世界観的中立性の意義  国家の学校教育任務の根拠となる知識伝達がこのように子どもの

人格形成・良心形成に対する働きかけから厳密には区別できないなら︑国家の世界観的中立性という原理が学校に関

係する領域で有する意義は必然的に限定されざるを得ない︒しかし︑そのような現実上の困難にもかかわらず︑中立

性論の中で展開された問題意識は重要性を持ち︑この世界観的中立性という考え方から撤退することは適当ではない

で協めゆ汐

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(21)

公立学校と良心の自由(五・完)

 完全な形で実現できないにもかかおらず︑原則としての国家の世界観的中立性が公立学校における授業.教育にも

妥当すると考えて初めて︑学校で道徳的同質性を生じさせることにより実現できるとされている学校の社会的統合機

能という考え方の憲法上の正当性が否定でき︑人格的教育が学校の本来の任務でないことが強調できる︒この原則と

しての国家の世界観的中立性は︑良心の自由など精神的自由に関する基本権規定に条文上の根拠を有し︑その限りで

倫理的観念の側面については良心の自由という主観的権利の客観法レヴェルにおける裏面であるとも言える︒ただ︑

主観的権利としての良心の自由が侵害と救済という観点から権利主体と権利内容に関する具体的確定を必要とするの

に対し︑客観法的原則としての国家の世界観的中立性は︑特定個人に対する効果の問題から﹂応は独立して︑特定世

界観との同一化を禁止するという形で国家行為の態様を︑またそれを前提に子どもの人格・倫理観・良心の形成に対

して働きかけることを禁ずるという形で国家行為の目的を規律する意義を持ち︑主観的権利に解消し得ない効力を持

つ︒ ただ︑こうした行為態様・行為目的に関する厳密な基準は存在しにくい︒そのため︑世界観的中立性は学校領域で

はあくまで原則であるに留まらざるを得ない︒この原則を持ち出すことによって裁判上直接に排斥できるのはイデオ

ロギー的教化の意図が見え透いた極端な場合に限られ︑この原理は通常は学校領域における国家の任務のあり方を考

える前提として︑法理論的な出発点として機能し得るに過ぎないであろう︒それでも︑国家の教育任務が向かうべき

方向を規定する原則の持つ意義は︑過小評価を許すものではない︒.そのような意味において国家の世界観的中立性の

原則は︑国家の教育任務に対する憲法上の制約として維持される必要がある︒

 e 授業内容と寛容の原理  世界観的中立性の原理による問題解決が一定の限界に直面するという現実を見た場

195

(22)

合︑授業内容に対する憲法上の制約としての現実的重要性が高まるのが寛容の原理である︒ドイツの判例・学説の中

では︑この寛容の原理が︑授業が人格的教育の領域に立ち入る場合に学校行政・教師に対して課される憲法上の制約       ︵43︶であることは一致して認められている︒連邦憲法裁判所は性教育判決で︑ ﹁寛容と自制﹂という原則から学校におけ

るイデオロギー的教化の禁止を導き出し︑ ﹁特定の性的行動の擁護あるいは否定﹂というイデオロギー的教化を識別      ︵44︶する基準を設定している︒ここからも明らかなように︑寛容の原理は学校におけるイデオロギー的教化を排除する方

向性を持つ︒学説上もこの寛容の原理は︑一面的な影響力行使を禁じ︑授業の中で様々な考え方に配慮する義務を課

すものと理認れ︑承認されている︒・の点は︑教科書訴訟連邦行政裁判所判準もあらためて確認された・

  ﹁授業においても教科書においても︑いわぽ伝道的な傾向を持ち特定の目標に向けて政治的︑イデオロギー的︑

  世界観的な方向のために偏った形で口を利いてやるということがあってはならず︑公共性に関わる争いのある問

  題に関して一方を悪者に仕立てて他方を賛美することがあってはならない︒⁝⁝決定的なことは︑授業も教科書

  も︑生徒を政治的︑イデオロギー的︑世界観的に教化するために用いられてはならないという点である︒教育に

  おける国家の中立性と寛容の命令は︑その目標と目的に無関係に︑イデオロギー的教化を許さないものである︒

  この意味で︑ ﹃学校は特定の性的行動を擁護したり否定したりする目的で生徒のイデオロギー的教化の試みを行

  ってはならない﹄とする性教育に関する連邦憲法裁判所の言明は︑国家の教育権力の濫用としてのイデオロギー

  的教化の禁止が学校教育すべての領域に妥当するという方向で一般化できる︵しd<①ヨO国↓PにG︒︒︹︒︒o昌︶﹂︒

 こうしたイデナロギー的教化.一面的働きかけの禁止という意味での寛容原理は︑世界観的中立性の原則と異な

り︑素材に関する評価の伝達を不可能にはしないと理解されている︒教師が単に事実の伝達者であるばかりでなく︑

196

(23)

公立学校と良心の自由(五・完)

       ︵妬︶教師が全人格を投入して初めて教育の使命を全うでき︑子どもにとっての人格的模範像として機能するという考え方

が前提に置かれた場合︑寛容の原理に依拠することで開かれる影響力行使の余地は重要な意義を持つ︒しかし︑寛容

の原理を踏まえれば︑こうした評価が一面的に行われ︑異なる考え方を持つ者の人格が否定されるような授業の進め

方は許されない︒このことは世界観的中立性の例外となる憲法核心の領域でも妥当し︑憲法を形造る価値観を唯一絶

対的なものとして子どもに強制することは許されない︒授業に反映する価値的要素に関する基本法からの演繹関係が

間接的になればなるほど︑そうした価値観・世界観を一面的に押し付けることのないよう注意する必要が高まると言

えよう︒ こうした意味での寛容の原理は︑教師の実際の教育活動に関する意義が大きいが︑指導計画を策定する学校行政官

庁に対しても同様に妥当する︒ノルトライン・ヴェストフブーレン政治教育指針に憲法上の問題があるとすれば︑そ

れは︑この指針が学校行政官庁に課された憲法上の制約としての寛容を十分に考慮せず︑特定の﹁能力と覚悟﹂を子

どもに植え付けることを教師に授権あるいは命令している点に存する︒確かに︑この指針の拘束力を前提としても︑

実際にこうした方向でのイデオロギー的教化が行われるか否かは最終的には授業を形造る教師の判断に依存する︒し

かし︑寛容で多元的な授業の進め方を指令することよりも特定の政治青立揚と結び付いた目標を実現することに重き

を置き︑イデオロギー的教化を奨励していると実務上解釈される余地を多分に含んでいる点で︑この政治教育指針は

寛容の原理に反し︑客観法的に違憲であると言えるであろう︒

 f 世界観的中立性・寛容の実現可能性  こうした形で︑世界観的中立性が学校教育の方向性に関する理論的原

則として︑また寛容の原理が一面的なイデオμ碧雲的教化を排除する客観法的原理として憲法上国家の教育任務に対

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(24)

する制約となるとしても︑そうした原理が現実の学校生活の中でどのように実現され得るのかに関し問題は少なくな

い︒ノルトライソ・ヴェストファーレン政治教育指針のように教師に対する指令が文章化されている場合は︑文面上

の憲法適合性を判断できる︒しかし︑授業の中での教師の活動が世界観的中立性や寛容に反していないかどうかに関

する判断は︑その主体と基準の点で問題を含む︒

 子どもの良心の自由に対する侵害が授業の中で教師の一方的なイデオロギー的教化により発生し得ると考えるな

ら︑こうした原理は授業における個々の教師の活動にも及ぶ必要が生ずる︒しかしその場合︑実際の授業に対するコ

ントロール可能性が問題となる︒少なくとも教師と同様の感度で学校行政官庁がイデオロギー的教化の主体となり得

ることを考えれば︑学校行政官庁が授業をすべてモニタリングし︑コントロールすることにより中立性・寛容の維持

が図れるという想定は︑非現実的な妄想となる︒この結論は︑教師に帰属する授業を行う上での専門的裁量を考慮し

た場合にも導き出せるであろう︒また中立性や寛容に関する判断基準が純粋客観的には内容が定まらず︑判断する者

の主観による影響を受けやすいという問題もある︒授業の中で何がイデオロギー的教化になり何が寛容かという点に

関しても︑最終的には教育の受け手の側が抱く信条・見解との関係で決らざるを得ない部分が残るのであり︑学校行

政官庁が自らの策定する基準に墓ついて授業の寛容さを一方的に判断すれば︑そうした介入により授業の多元性が縮

減される危険さえある︒

 こうした状況からも︑世界観的中立性は主として理論的原則として機能し︑教師に対する現実の法的コントロール

の基礎となりにくい︒また寛容の原理に関しても︑実際に授業を行う教師の活動の中でこの原理に対する違反が問題

になり得るのは︑主観的な信条や世界観が生徒に対して一面的に伝達され︑それにまり自由に意見や信条を形成する

198

(25)

公立学校と良心の自由(五・完)

機会が奪おれるような極端な場合に限られざるを得ないであろう︒そしてこうしたイデオロギー的教化による侵害状

況からの救済も︑行政的コントロールに限界があるが故に︑裁判上の解決に期待する部分が大きいことになる︒

 司法審査における憲法上の判断基準としては︑世界観的中立性・寛容といった原理も機能する余地がある︒学校行

政官庁による教師に対する指令が問題になり︑その合憲性が裁判上問題になる文脈では︑国家の教育任務に属し得な

い人格形成への介入やイデオ目ギー的教化の意図が存在しないかどうかを問うことにより︑一定範囲で子どもの良心

形成に対する侵害からの救済を提供できる︒また︑授業の中で教師による極端なイデオロギー的教化が行われた場合

も︑同様の裁判上の救済が可能であろう︒ただ︑侵害に対する救済が問題になるこの文脈では︑世界観的中立性や寛

容の原理はもはや客観法的原理と言い切れず︑子どもや親の良心の自由の客観法的言葉使いによる言い換えである点

が注意を要する︒

 9 教育内容の決定と親の教育権  ここでは国家による授業内容の決定に対する憲法上の制約を客観法的な原理

の考察から始めたが︑イデオロギー的教化を防止して生徒の人格形成・良心形成に対する国家の干渉を排除しようと

した場合︑そうした効果は親・子どもの主観的権利という手がかりに依存する所が大きいとの結論が導き出された︒

以下︑この主観的権利がどのように授業内容に関して効力を有するかを考えてみたい︒

 その場合にまず問題になるのが︑基本法六条二項に規定された親の教育権の意義である︒連邦憲法裁判所の性教育       ︵47︶判決でも︑イデオロギー的教化の禁止が親の宗教的・世界観的信条に対する配慮との関係で語られた︒これは︑﹁子      ︵48︶どもの教育に関する全体的計画に対する親の責任﹂の尊重を学校領域で国家に義務づける連邦憲法裁判所の立場に由

来する︒親の教育権と国家の教育任務の同列性から引き出されるこうした原則は︑防禦権的な側面では寛容という客

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(26)

観法的原理と同様にイデオロギー的教化を排除する方向に向かう︒問題は教育任務を遂行する際に国家に課されたこ

の配慮・尊重の義務が実際に提訴可能な親の主観的権利としてどの範囲で具体化するかである︒

 授業内容の確定が問題になる文脈では︑親の教育権も実体的防禦権と手続的権利という二つの側面で論じられる︒

学校領域における親の教育権の効果という主題の下で主な土俵を形成しているのはこのうち手続的側面で︑授業内容

決定のプロセスに参加する権利がどの程度認められ得るかに関する対立があるが︑この問題は後に手続的問題に触れ

る際に一緒に扱い︑ここでは実体的権利としての親の教育権に関して考察したい︒

 理論的に考えた場合︑授業における子の信条・良心の形成に関係して問題になる親の教育権に基づく具体的請求権

としては︑現実に行われる授業により生じる侵害に対抗して主張される不作為請求権としての防禦権と︑特定内容の      ︵49︶授業を求める給付請求権とが区別できる︒問題が後者の枠組の下に置かれるのは︑特定方向の見解や事実が授業から

排除され︑生徒に知らせないことによるイデオロギー的教化の疑いが生ずる場合である︒

 親の教育権に基づく授業の内容に関する請求を裁判上実現する可能性を探り︑訴訟手続上の障害は存在しないとの

結論を引き出すヘネ・縛・この二つの方向性を意識しつつも同列に扱・ている︒確かに︑現実にイデオ・ギ的教

化が行われるなら一方で特定の信条が強制されるとともに対立する見解や事実が無視されるのが普通なため︑イデオ

ロギー的教化に対抗する場合には︑この二つの請求内容は表裏一体のものとなろう︒その限りで︑暫定の信条を生徒

に押し付けることを狙ったイデナロ君門的教化が問題となる場合は︑国家の作為と不作為が組み合わされた授業のあ

り方全体を侵害と捉え︑その侵害に対する防禦権を考えれば足る︒

 ただ︑親の教育権が給付請求権的な側面を持ち得ると考える際の問題は︑イデオロギー的教化の認定に関わる曽学

200

(27)

公立学校と良心の自由(五・完)

校における宗教的要素の問題で議論に登場した﹁積極的権利﹂は︑学校の中立性を確保して信条の強制を回避するこ

とに向けられたものでなく︑多数者の見解が学校で少数者の反対を押し切って貫徹されるべきことを主張するもので

あった︒通常の教科の授業に関する領域でもそうした﹁積極的権利﹂が親の教育権を媒介に主張できるなら︑親の教

育権は多数者の見解を少数者に強制していくイデオロギー的教化を請求する権利に転換する︒仮にそうした点を承認

するなら︑寛容の原理も無内容となり︑何が寛容かも妥協の余地のない信条的対立の場となる︒宗教の領域で国家と

教会の分離論に基づいて中立を指向する見解に対して︑そうした方向が隠蔽された世界観的圧力になり︑不寛容であ

るとの批判が提起されたことを思い出せば︑ ﹁積極的権利﹂を防禦権と同列で認めた場合に生じる寛容概念をめぐる

果てしない争いは想像に難くない︒

 こうした点を考えた場合︑寛容の原理はあくまで形式的な調整原理として特定の信条や見解をイデオロギー的に強

制することに対抗する概念と捉える必要があるし︑親の教育権もそうした寛容な授業に向かうことはあっても︑形式      ︵51︶的寛容を乗り越えることを請求する権利ではあり得ないことが意識されるべきであろう︒信条の強制に対する防禦を

求める権利と︑自らの信条に対する国家的援助を求める権利が︑憲法上は同列であり得ないことを再度思い出す必要

  ︵25︶がある︒

 L イデオロギー的に寛容な学校を求める権利  このような意味でのイデオロギー的教化に対抗する主観的権利

を理論化したのが︑第一章で紹介したオッパーマンの﹁イデオロギー的に寛容な学校を求める権利﹂である︒彼はこ

の構図の中で︑親の教育権のみに根拠を求めず︑ ﹁必要な場合には提訴可能﹂とされる﹁イデオロギー的に寛容な学       蹴校を求める生徒・親の基本権﹂を︑ ﹁子どもの展開権︑世界観の自由︑思想の自由︑親権︑その他多くのラント憲法

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上の保障をまとめて見・L・とか導き出・響﹂・した根拠委に學・考善は︑⁝の議論の中では個・の︒2      2親により内容の異なる家庭教育に沿った学校教育を求める権利という方向性を持ち︑そのため学校の領域で国家の教       ︵溺︶育任務が同列に立つことにより必然的に制限されると彼が考える親の教育権よりも︑寛容の原理を確保するための主

観的基本権を一段高い位置に置くことを狙ったものと想像できる︒

 しかし同時にこの﹁イデオロギー的に寛容な学校を求める権利﹂の構図は︑客観法的原理の裏面としての位置づけ

を持つことの中にその限界がある︒第一章でも指摘したように︑この構図では﹁イデオロギー的に寛容な学校を求め

る権利﹂の権利内容が客観法的な寛容原理の内容に依存し︑何が寛容で何がイデオロギー的教化になるかは個々の子

ども・親の信条を離れて客観的に認定される必要があることになる︒しかし実際には︑上で確認されたとおり︑寛容

原理の内容は具体的事例の中で個々の教育の受け手との関係で定まらざるを得ず︑学校行政官庁が寛容であるとする

ものに頼っていてもイデナロギー的教化は認定できない︒こう考えた場合︑やはりイデオロギー的教化を通じた子ど

もに対する信条の強制に対抗する上では︑寛容という客観法的原理から出発するのではなく︑良心の自由や親の教育

権を手がかりとしながら主観的権利としての問題設定からアプローチする必要がある︒

 i 授業内容の確定と良心の自由  そもそもイデオロギー的教化が子どもの倫理的観念の発達に影響を及ぼすな

らば︑他の基本権と﹁まとめて見る﹂までもなく︑直接に良心形成の自由の問題となり︑学校におけるイデオロギー

的教化に対抗するには︑問題が道徳的・倫理的な領域に置かれる場合︑良心の自由の基本権を問題にすれば足る︒も

ちろん良心の自由のみを問題にしても︑倫理的領域を離れた純粋に知的な領域における国家の一面的影響力行使に対

しては何の結諭も引き出せない︒しかし多くの場合︑学校におけるイデナロギー的教化は個人の行動に関する内面化

(29)

公立学校と良心の自由(五・完)

された主観的な行為規準に働きかけることを目的とするため︑こうした問題領域で良心の自由に帰属する意義は少な

くないと思われる︒

 そうした考え方を採る場合に︑まず子どもの良心の自由に対する侵害が問題となる︒さらに︑学校教育が家庭教育

による特定の信条の伝達を無意味にするような場合には︑子どもの良心形成にまず第一の責任を負う親の良心の自由

への侵害も問題とされなけれぽならず︑この点において良心の自由は親の教育権と結び付く︒

 授業に関係する領域でこの良心の自由の侵害が生じる場合には︑良心に反する法義務の強制が問題になる場合と同

様の構成による問題解決が可能であろう︒すなわち︑個人の良心を破壊するような行為義務は強制されてはならず︑

法義務と相反する内容の良心を持つが故に法義務によって解決不可能な良心的葛藤に立たされる個人は問題となる義

務から解放されなけれぽならない︒また立法者は︑こうした良心的葛藤が予想できる場面では︑事前に代替的行動選       ︵55︶択肢を用意する責務を課される︒

 これを学校における授業の問題に即して具体化すれぽ︑授業が一面的なイデオロギー的教化となって特定の信条を

強制する結果になる場合︑子どもはその授業に出席する義務から解放される必要があることになる︒こうした救済は

最終的には裁判所によって︑授業出席義務が具体的事例においては基本権侵害となることを認定し︑個別的解放を命

令することを通じてなされざるを得ないであろう︒しかし︑その救済手続に長い時間が必要なら︑子どもはその間良

心に対する侵害を甘受し続けざるを得ない︒授業への出席が良心の自由を侵害することを審査機関の前で明らかにし

た場合にはその授業から解放される可能性が制度的に設けられることが︑憲法政策上は適切な解決方法と言えよう︒      ㎜また︑仮にそのような救済が得られたとしても︑イデオロギー的教化が行われていることにより授業への出席が妨げ

参照

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