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―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―

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旧北ベトナム・西北地方在住少数民族のベトナム戦争参加

―ムオン族とターイ族への聞き取り調査から―

今井 昭夫

はじめに

1. ムオン族に対する聞き取り調査 1.1. 教育の普及状況

1.2. ラオスでの駐屯 1.3. 軍隊生活の感懐 1.4. 銃後の社会 1.5. 除隊後の境遇

1.6. インタビューした12人のムオン族・退役軍人たちのまとめ

2. ターイ族に対する聞き取り調査

2.1. 学校教育とベトナム語の普及

2.2. ラオスへの関与 2.3. 銃後の社会 2.4. 軍隊生活の感懐 2.5. 除隊後の境遇

2.6 インタビューした7人のターイ族・退役軍人のまとめ おわりに

はじめに

現在、ベトナムには54の民族が国家から認定されており、主要民族であるキン族が総人口の 9割弱を占めている。1999年の人口調査によれば、総人口7632万人のうち最も人口が多いの はキン(Kinh)族の6580万人、ついでタイー(Tày)族の148万人、ターイ(Thái)族の133 万人、ムオン(Mường)族の114万人、クメール(Khơ-me)族の106万人などの順となってい る 1)。旧北ベトナムで主に少数民族が居住しているのは中国と国境を接する越北地方とラオス と国境を接する西北地方の山間部である。かつてこの2つの地方には、「越北自治区」と「西北 自治区」の2つの民族自治区がベトナム戦争終結時の1975年まで存在していた2)

本稿は、旧北ベトナムの少数民族がどのようにベトナム戦争に参加し、動員され、国民化し

(2)

ていったのかを明らかにする目的で、2007年に西北地方のホアビン省とディエンビエン省で実 施したムオン族とターイ族の退役軍人を対象とした聞き取り調査をまとめたものである。従来 のベトナム戦争研究やベトナムの少数民族研究において、少数民族がいかにベトナム戦争に参 加していったのかを、単なる民族政策論ではなく少数民族の側から内在的に研究したものはほ とんどなかった。本稿はその初歩的な試みである。

1945年にベトナム民主共和国が独立して以来、抗仏と抗米の2つの戦争と中越戦争、カンボ ジア紛争まで、ベトナムには戦死者約110万人、負傷兵約60万人、病兵210万人以上、敵に殺 害された人200万人近くなどの戦争被害者がいるとされるが、この中には相当数の少数民族も 含まれている。正確な数字は不明であるが、たとえばベトナム戦争の激戦地だった南中部の戦 死者15万5900人のうち、少数民族が主に居住する地域であるダクラク省出身の戦死者は4078 人であった 3)。またベトナム戦争中の旧北ベトナムにおいては、タイー族、ムオン族、ターイ 族などの少数民族においては、数万人の青年が出征した。サンジウ(Sán Dìu)族でも数千人の 青年が出征し、人口の3~4%に達したところもあった。ムオン族居住地区では、出征者の人 口に対する割合は旧ハーソンビン省4)で3.4%、タインホア省で8.68%(とくにゴックラク県ミ ンソン社では16%)、ヴィンフー省で15.4%もあった。タイー族、ヌン族などが多数居住する 越北地方では、合計で30万人以上が戦場に赴いたと推計されている。カオバン省だけで3万人 以上が出征した。西北地方の旧ホアンリエンソン省5) では数千人が、旧ライチャウ省6) は7000 人以上が出征した。旧ライチャウ省のマン(Mảng)族とコムー(Khơ-mú)族はきわめて小規 模の民族である7) が、数百人が出征した。ライチャウ省における少数民族ごとの人口に対する 出征比率は、ル(Lự)族5.3%、ターイ族4.6%、ラオ(Lào)族4.02%、ハーニー(Hà Nhì) 族3.8%、ザイ(Giáy)族3.5%、コン(Cống)族3.25%、コムー族2.8%である8)。このように 旧北ベトナムの少数民族もベトナム戦争に相当数参加し、動員されていた。

次に少数民族の参加・動員状況を顕彰面から裏づけてみよう。ベトナムにおいて「英雄」の 称号はたいへんな名誉とされているが、この称号には「人民武装勢力英雄」と「労働英雄」の 2種類がある。「人民武装勢力英雄」は軍隊や公安などで卓越した功績をあげた人に対して授与 される称号である。1975年までの「英雄」宣揚者をみてみると、1945~1954年が155人で、そ のうち「人民武装勢力英雄」が150人を占め(97%)、1954~1975年では1284人中1131人(88%)

を占めている。主要民族であるキン族が「英雄」のうちで占めている割合は、1945~54年で122 人(79%)、1954~75年で1139人(89%)となっており、キン族が8割から9割を占めていて、

ほぼ総人口の人口比とほぼ見合う数字となっている。1945~54年の時期は、少数民族の「英雄」

はタイー族(9人)など北部山間部の少数民族が多いのに対して、1954~75年の時期における

「烈士(戦死者)」の「英雄」では、中部高原に分布する少数民族が相対的に増えている9)。1995

(3)

年までの時点で少数民族の「人民武装勢力英雄」の数は、タイー族25人、ヌン(Nùng)族14 人、ターイ族14人、ムオン族10人、フレ(Hrê)族10人、ザライ(Gia-rai)族8人(そのう ち女性1人)、タオイ(Tà-ôi)族6人(そのうち女性1人)、モン族(Hmông)6人、クメール 族5人(そのうち女性1人)、ラグライ(Ra-glai)族5人、バナー(Ba-na)族3人、そしてジ エトリエン(Giẻ-Triêng)族、カオラン・サンチー(Cao Lan – Sán Chỉ)族、チャム(Chăm)族、

ソダン(Xơ - đăng)族、コトゥー(Cơ-tu)族などが2人、スティエン(Xtiêng)族、コー(Co)

族、チョロ(Chơ-ro)族、ザオ(Dao)族、コムー(Khơ-mú)族、ブル・ヴァンキュウ(Bru –

Vân Kiêu)族などが1人となっている10)

また戦死者の子供が複数いるなどの「英雄的ベトナムの母」11) の人数を第1回認定時(1994 年末)で見てみると、タイー族42人、ムオン族35人、クメール族31人、ザライ族25人、ヌ ン族19人、バナー族16人、ターイ族11人、ソダン族8人、フレ族7人、トー族とチョロ族が 4人、そしてジエトリエン族・エデ(Ê-đê)族・コトゥー族・ハーニー族が3人、スティエン 族・ラグライ族・モン族・ザオ族・コホ(Cơ-ho)族・ムノン(Mnông)族が2人、コー族・ブ ル・ヴァンキュウ族・タオイ族・ホア(Hoa)族・フーラー(Phù Lá)族・コン族・チャム族・

ラハ(La Ha)族・カオラン・サンチー族・ザイ族が1人となっている 12)。以上、顕彰面から

見てみると、北部の少数民族においてはタイー族、ヌン族とならんで、ムオン族やターイ族が 戦争への参加貢献度が高かったことが見て取れる。

北部の少数民族地区は、単に兵士や物資を戦場に供給したばかりでなく、北爆の対象ともな った。ソンラ、ライチャウ、ギアロ、タインホアとゲアンの西部など、北部の少数民族地区は 大きな被害を受けた。ホアビンでは1968年3月31日までに92の社(省全体の46%)が爆撃 され、ライチャウでは1968年11月1日までに6県67社が6162発の各種爆弾により破壊され た。ホアンリエンソンでは1965年12月だけで300発以上が投下された13)

本稿では、北部の少数民族のうちで比較的人口が多く、また解放勢力側としてベトナム戦争 への参加貢献度が高いこと、北爆を受けている地区であること、調査者がラオスと少数民族と の関係を調べたかったこと、および調査の便宜上などの点から、ムオン族とターイ族を聞き取 り調査の対象とした。本稿をまとめるにあたっては、戦争を通して少数民族の政治的・文化的 統合がどのように進んでいったのかを見るため、 少数民族の教育普及と幹部養成、 ラオスへの

関与、 銃後の社会、 軍隊(生活)に対する感懐、 復員後の境遇などの諸点に着目した。なお、

聞き取り調査はベトナム国家人文社会研究センター・社会学研究所の協力をえて実施した。イ ンタビュー対象者の選定は現地の省・県・社の退役軍人会の紹介によっている。インタビュー は原則的に対象者の自宅においてベトナム語によって自由質問形式で行い、録音した。録音し たものはベトナム語のままトランスクライブされ、録音テープと書き起こし原稿はすべて筆者

(4)

の手元に保管されている。閲覧希望者は筆者までご連絡いただきたい。

1. ムオン族に対する聞き取り調査(2007 年9月4日~8日)

ムオン族は人口が約120万人(1999年)で、ホアビン省、タインホア省などに分布している が、最も集中しているのはホアビン省である。ホアビン省は首都ハノイの西の方角に位置し、

ラオスと国境は接していないが、国境までは比較的近い。人口は75万6713人(1999年)で、

約30の民族が居住しており、そのうち最も多く占めるのはムオン族(49万7197人、63.3%)

である。キン族は20万9852人で27.73%を占めている14)。調査地であるホアビン省タンラッ ク(Tân Lạc)県は県庁所在地ムオンケン(Mường Khến)がハノイから約100キロ余り。ムオ ン族の揺籃の地で、ムオン族のうちムオン・ビーの人々が居住している。調査は、ドンライ社 とチュンホア社の2つの社で実施した。ドンライ(Đông Lai)社は幹線道路沿いにあり、人口

(5627人)の約9割はムオン族で、社の指導部はすべてムオン族で占められている。退役軍人 は239人(そのうち共産党員36人。社全体の党員数は160人)で、戦死者は12人、傷病兵は 25人である。

もう一ヶ所の調査地である同県チュンホア(Trung Hòa)社は、ドンライ社より幹線道路から さらに奥まった山間部にあり、電気が通じるようになったのは2002年からで、6つの集落のう ち3つはまだ電気がきていない。この地方では最も貧しい所である。人口2149人の98%がム オン族。退役軍人は66人(そのうち共産党員が8人。社全体の党員数は58人)、戦死者は8人 で傷病兵は3人である。ムオン族の話すムオン語はベトナム語と言語系統的に近い関係にある が、ムオン語には固有の文字はない。現在、学校教育はベトナム語で行われており、看板など もすべてベトナム語である。ムオン族はキン族化が最も進んでいる少数民族の一つといってい いであろう。ムオン族の伝統的住居は高床式であるが、ドンライ社ではその数は少なくなりつ つあり、せいぜい2割程度しかない。チュンホア社ではまだ8~9割が高床式である。

以下の表はインタビューしたムオン族の一覧表であるが、1番~5番がドンライ社在住で、

6番~12番がチュンホア社在住である。名前は姓およびミドルネームを省略した。表の12人 中、1番のヴェンだけが抗仏世代で、あとは抗米世代である。

(5)

名前 生年 学歴 出征期間 所属 主な駐屯先 最終階級15)ほか

ヴェン 1932 5年生 1947~1954

(7年間)

ゲリラ、青 年突撃隊

ディエンビエン フー

なし

ヒエウ 1943 7年生、

社会主義労働 青年学校

1965~1974

(9年間)

高射砲部

クアンニン、ク アンビン、ラン ソン、ラオス(66

~74年)

上士

ターン 1945 2年生 1964~1972

(8年間)

第304 団、第9中 団、高射砲 部隊

ラオス(65~68 年)、コントゥ ム、ハティン

中士

ゴット 1949 6年生 1968~1976

(8年間)

第5師 団、第33 中団、通信

カンボジア、タ イニン、ドンナ イ・バーリア

ギア 1951 6年生 1970~1978

(8年間)

第3軍 団、第670 中団、衛生

中部高原、ニャ チャン

中士、

本人と2人の子供 が枯葉剤被害者

ズー 1945 7年生? 1965~1980

15年間)

国境防衛

ラオス(68~70 年)、クアンビ ン、クアンチ、

ダナン、ホイア ン、カンボジア、

ホーチミン市

少尉

ヴァンザ

1948 3年生 1968~1978

10年間)

クアンナ ム省隊、第 84小団

クアンナム、チ ュオンソン山脈

中士、

枯葉剤被害者

トゥア 1950 7年生、社会

主義労働青年 学校

1968~1976

(8年間)

訓練部隊 北部 中士

コンザン 1950 4年生 1971~1975

(4年間)

第308師団 クアンチ 中士、

枯葉剤被害者

10 タング 1951 4年生 1969~1971年、

1972~1977

(8年間)

歩兵 ラオス(69~70 年)、クアンチ

下士

11 ルイ 1951 6年生、社会

主義労働青年 学校

1971~1976

(5年間)

第308 団、通信大

クアンチ、ホア ビン

中士、

枯葉剤被害者

12 ウオック 1954 4年生 ?~1981年 クアンチ

省隊→第 318師団

クアンチ、ヴン タウ

上士、

枯葉剤被害者

(6)

1.1. 教育の普及状況

総じて、未就学者はいないが学歴は低い。しかしインタビューしたムオン族の人々が特に同 時代のキン族と比べて格段に低いとは思われない。当時、キン族でも6・7年生まで学校に行 けば標準以上であった。ヒエウによれば、その頃は10年生を終える人はごく少なく、ホアビン 省には高校が2校あるだけだった。ギアが出征中に駐屯していた兵站基地には兵士が4人いた が、自分の学歴が一番高く(6年生)、ほかの人は2年生までだったという。1932年生まれの ヴェンは、独立前、フランス語で教育を受けている。証言からは、50年代・60年代の当地にお いては、まだ学校が十分には整備されていなかったことが窺える。ゴットは、ドンライ社には 当時学校がなかったので、3キロあまり離れた学校に6年生まで徒歩で通った。タングは中学 校が11キロ離れていたので、中学校への進学を断念し4年生まででやめた。復員後、彼は文化 補習学校で7年生まで学んだ。ベトナム戦争後、学歴はより問われるようになり、一般的に学 歴の低いベトナム戦争世代は悲哀を味わうことになった。ヴァンザンは1978年に復員したが、

当時はバオカップ(国家丸抱え)時代で、5年生以上の学歴があれば、軍隊から他部門に異動 できたが、3年生までの学歴しかなかったので、帰郷して農業に従事せざるをえなかったとい う。学校教育におけるムオン語の扱いについては、遺憾ながら、聞くことができなかった。た だムオン語には固有文字がないこともあり、学校教育でムオン語はほとんど使われてこなかっ たのではないかと思われる。

現在の民族寄宿学校の前身と思われる学校も存在していた。ヒエウ、トゥア、ルイの3人は、

社会主義労働青年学校で学んでいる。この学校はホアビン省の少数民族の子弟を対象とした寄 宿学校で、主には5~7年生を対象としていた。少数民族の幹部養成を目指したもので、学費・

寄宿費は無料であった。彼らはこの学校の在学中あるいは卒業直後に出征した。

1.2. ラオスでの駐屯

12人中4人がラオスに駐屯した経験をもっている。ヒエウはサワンナケートに8年間(1966

~74年)いた。兵営の建設などに従事し、戦闘は少なかったという。戦闘相手は主にタイ国の 特殊部隊だった。サムヌアではラオスの国家中央機関を防衛した。ラオスの一般庶民との接触 は簡単なやりとりだけだった。一般庶民の間に特殊部隊がまぎれているのを警戒していたから である。出歩く時は、単独ではなく、2・3人で行動した。上ラオスには多様な民族がいて、

風景も郷里ホアビンと似ており、馴染みやすかった、とヒエウは述懐する。ターンは1965年に ラオスに入った。解放軍とパテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)軍の2つの軍装を用意し、行 軍でラオスの人々と接触のある時はパテート・ラーオの軍装をした。ラオスでの任務は解放軍 が南部に行くルートを切り開くことであった。3年間ラオスにいたが、ジャングルに駐屯して

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いたので、ラオスの一般庶民との接触は少なかった。ヴァン・パオ16) 軍からは何度も夜襲を 受けた。米軍の戦闘機と交戦したこともあるが、地上で戦闘したのはラオスのプーマー軍とサ イゴン政府軍であった。ズーは1968年に国道9号線からラオスに入り、シェンクアンに3年間 駐屯した。任務は匪賊討伐とベトナム人専門家集団の防衛であった。ジャングルに駐屯してい たので、ラオスの一般庶民との関係は薄かった。タングは1969年にニンビン省のニョークアン

(Nho Quan)から自動車でラオス入りした。シェンクアンに駐屯し、任務は戦闘と米の輸送で

あった。4人とも1960年代なかばから73年2月のラオス和平協定(ラオスにおける平和回復 と民族和合の達成に関する協定)締結前後までラオスに駐屯しており、戦闘相手はラオス戦線 の複雑さを反映して多様であった。4人の話から、北ベトナム軍がラオスでは目立たないよう に配慮していたことが窺われる。

1.3. 軍隊生活の感懐

インタビューの中でよく出てきた話題は、空腹の話と軍隊内の人間関係の話であった。

1.3.1. 衣食の苦難

ヒエウはラオス駐屯中、米不足ではなかったが、新鮮な野菜や肉が食べられず、缶詰ばかり 食べていたという。ターンは1966・67年頃が最も熾烈な時期で、その頃は飢えることもあった が、疲労や弾薬の臭いのむせ返り、戦闘による極度の緊張で頭痛がして食べれなかったことも あったという。ゴットは1968年6月にベトナム南部に入ったが、その際、部隊から兵士一人ひ とりに、どの植物が食べられるのかを記した冊子が配られたという。途中のカンボジアでは平 和で酒も飲めたが、ベトナム南部のタイニンでは空腹で、落花生や青カボチャを食べて凌いだ。

ギアはホーチミン・ルート上の兵站基地(20~30キロごとに1つあった)で衛生兵をしていた が、1966年から1972年まで当地では兵士に衣服の支給がなかった。食事は、通常の日は150 グラムの米と数グラムの塩で、戦闘時には米が300グラムに増量された。副食は主にジャング ルで取れた筍や野草であった。部隊ではキャッサバの栽培なども試みられた。現地での食糧自 給政策が推奨されたが、十分な食糧を生産することができず、病死した兵士も多かった。ホー チミン・ルート上では、マラリア、飢え、疲労などで亡くなった兵士が多数いた。1972年に国 家の高級指導者であるトー・ヒュウとドー・ムオイが中部高原に視察に来てから、缶詰の肉と 衣服の支給が十分になったという。ヴァンザンは1968年後半にベトナム中部のホイアン周辺に 駐屯していたが、米の供給がなく、一日中、水と野菜だけで過ごす日もあった。一方、タング は1969年に出征し1977年まで軍隊生活を送っているが、食事は家より軍隊の方がよかったと いう。ご飯そのものは変わりはないが、軍隊では毎食、肉がついたからで、当時の家では旧正

(8)

月と法事の時ぐらいしか肉を食べることができなかった。

1.3.2. 少数民族と軍隊

ヒエウの部隊の兵士はほとんどが少数民族であったが、民族差別はなく、部隊編成は混成で、

兵士たちの生活・訓練・報酬(一般兵士はだれでも月に5ドン)は一律であった。優遇制度も なく、少数民族も激戦地の南部に行った。ヒエウは、「軍隊に入れば一つの民族のようなもの。

それは多民族ではなく、ただ一つのベトナム民族である」と語っている。ターンも「山間部の 人と平野部の人との差別はなく、ともに一つの家の子孫であった」と述べている。ちょっとユ ニークな経験を語ってくれたのはゴットである。ゴットの部隊は東南部の軍区の機動部隊で主 力中団17) であった。部隊は全員北部の人であったが、後に南部の出身で北部に「集結」した 人も加わった。とくにゴットの中団は少数民族の兵士から成る中団(ほとんどがタイー族)で、

中団長もタイー族の人であった。そのためタイニンでの戦闘の時にはタイー語で命令が下され た。その時、敵のサイゴン政府軍はゴットの中団を中国兵だと勘違いし、恐れたという。ギア は、戦場にいる時は軍隊の階級のことなどあまり気に掛けることはなく、大隊長は大隊長だと 知っているだけで階級が何かは知らず、軍隊内は比較的平等だったという。また軍隊内には少 数民族蔑視はなく、共通語によるコミュニケーションもとくに問題がなかったという。1957~

62年の時期にアメリカと南ベトナムは北に特殊部隊を潜入させようとしていたので国境防衛 隊は重要であったと力説したのは国境防衛隊に所属していたズーである。彼は、国境防衛隊は 山岳部や島嶼部で駐屯しなければならなかったので、少数民族の兵士が多く選ばれていたと指 摘する。タングも、軍隊では差別はなく、喧嘩もなかった、とても団結していて、今とは違い、

上下の区別もなく平等であったという。このようにインタビューした人たちは一様に、軍隊内 には民族差別はなく、平等であったと主張した。軍隊の編成は基本的には民族混成であったの であろうが、地域、兵種によっては少数民族に偏った構成となったケースもあったと思われる。

1.4. 銃後の社会

ヴェンは抗仏戦争期の1947年から地元ゲリラとなり、1954年のディエンビエンフーの戦 いでは青年突撃隊として米の輸送、道路建設、負傷兵の搬送などに従事した。ベトナム戦争期 は再び地元のゲリラとして活動し、敵戦闘機への攻撃に参加した。銃や弾薬は県隊を通して国 から支給された。ゲリラは食糧を自前で調達し、現金や衣服の支給はされなかった。ベトナム 戦争中、米は不足し人々は飢えていた。食べるものはイモなどとの混ぜご飯だった。空爆が激 しかったので、昼間はジャングルなどに疎開し、耕起などの農作業は夜間にした。

ヴェンによれば、ベトナム戦争中、社の農業合作社は食糧について決定権を持っていたので

(9)

社の人民委員会よりも重要な役割をもっていた。各戸は1年に40キロの豚肉、4キロの鶏肉、

12個の鶏卵を合作社に納入するのが義務であったが、各戸ともノルマを越えるようにすすんで 奮闘したという。ゴットによれば、戦争中すべては戦場のためにで、飼っている鶏も管理され ていて勝手に売ることはできず、豚肉・鶏肉・鶏卵を規定量納めなければならなかった。そう しなければ布など他のものの配給を受けられなかった。それは強制だけれども自発的であり、

自発的だけれども強制であったという。しかし当時、みんなはそれから逃避せず自らすすんで 行い、このような納入競争をすることは抗米精神がある証しだとされた。

ズーは戦死者の通知と追悼について語っている。追悼式は県の軍事指揮委員会によって行な われるが、実際には社の人民委員会が取り仕切った。儀式は簡素で、祭壇をたて線香を手向け るだけで、遺族に戦死者名、出征日、戦死日、戦死場所が通知された。父母と子供のみ見舞金 が支給されたが、年若い妻には支給されなかった。戦争中、夫が出征していた妻には忍従の日々 が続いた。ターンによれば、一般兵士は未婚・既婚の区別なく一律で毎月5ドン支給されてい たが、家族に仕送りする手立てがなく、夫の家族と暮らしている妻を経済的に支援することは できなかったという。コンザンは南部出征中に両親が妻との結婚式を挙行していたが、当時は 花婿不在の結婚式も多く行われた。ルイも出征中の1974年に両親が妻との婚約を済ませていた。

ベトナム戦争中、自転車や魔法瓶はまだ贅沢品だった。タングは小学校4年生まで就学した が、中学校は家から11キロ離れているので通学を断念した。自転車があれば通学可能であった が、当時、自転車はまだ普及しておらず、県の幹部クラスでようやく持つことができた。たと え配給で買えたとしても水牛2頭分の価格だった。ズーによれば、魔法瓶を買うのにも水牛2 頭分のお金がかかったという。

1.5. 除隊後の境遇

インタビューしたすべての人は除隊後、地元の人民委員会、党支部、農業合作社などで要職 を歴任している。ヴェンはゲリラだったので、軍人恩給などは受給していない。ヒエウは軍人 恩給が月に50万ドン。ターンは負傷兵手当てで月に33万ドンを支給されている。ゴットは病 兵手当てで月に100万ドン近くと退役軍人会の給料約20万ドンの収入がある。ギアは軍人恩給 が月に150万ドン、枯葉剤被害者手当てが49万ドン、同じく枯葉剤被害者の子供2人がそれぞ れ47万ドンで、親子合わせて月に約300万ドンを受給している。ズーは唯一の尉官であるが、

さまざまな事情で恩給・手当てを受けていない。ヴァンザン、コンザンは枯葉剤被害者手当て を月に49万ドン受け取っている。トゥアは負傷兵であるが、それを証明する書類を自宅の火事 で焼失してしまい、負傷兵手当てを受けていない。恩給もなしで、現在は社の祖国戦線副主席 の手当てが月に17万5000ドンあるだけである。タングは軍人恩給を受給していないが、病兵

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手当てを月に40万ドンもらっている。ルイは枯葉剤被害者手当てで月に49万5000ドンと第一 子の枯葉剤被害者手当て23万8000ドン、集落の党支部書記の手当て17万5000ドンを受け取 っている。ウオックも枯葉剤被害者の手当を受給されているが、負傷兵であるにもかかわらず 書類を紛失してしまったために負傷兵手当てをもらっていない。12人中5人もの枯葉剤被害者 がいるのが特徴的である。5人はいずれも1970年代前半に中部高原やクアンチに駐屯していた。

また恩給や手当てを支給される権利を持っているのに、証明書類を紛失するなどして、権利を 享受できない人がいることも窺える。

1.6. インタビューした 12 人のムオン族・退役軍人たちのまとめ

一口で言って、北部デルタのキン族とそれ程の違いを感じない。ラオス駐屯経験者と枯葉剤 被害者の割合が高いのが特徴といえば特徴である。

①学歴が低い。未就学者はいないものの、高学歴者もいない。少数民族を対象とした社会主 義労働青年学校に3人が学んでいる。

②ラオスに駐屯している人が多い。ベトナム戦争世代11人中で4人がラオスに駐屯している。

また南部に出征している者は10人である。

③階級が低い。尉官は少尉のズーだけで(ゴットは不明)、あとの人はそれ以下である。軍隊 在籍期間もそれなりにある割には低い。これが少数民族のハンディキャップによるものなのか どうかは不明である。ただ彼らの受け止め方としては、軍隊内には民族差別はなく、平等で一 体感があったという。

④復員後はみな地元の役職などを歴任している。退役軍人に対する復員後の措置(地元役職 の給料・手当ては除く)として、軍人恩給を受給していると明言しているのは2人、負傷兵手 当て1人、病兵手当て2人、枯葉剤被害者手当て5人であり、何も受給していない人は3人で ある。ちなみに復員後の措置規定に、キン族と少数民族の違いはない。

2. ターイ族に対する聞き取り調査(2007 年 12 月 20 日~28 日)

ターイ族は人口が約133万人(1999年)で、ライチャウ、ディエンビエン、ソンラ、タイン ホア、ゲアンなどに分布している。ターイ族は白ターイ、黒ターイ、赤ターイなどに大別され る。ディエンビエン省はベトナムの西北部の端にありラオスと国境を接し、人口は49万1046 人(2009年)で、省内には21の民族が居住し、主要民族はターイ族(約38%)、モン族(約 30%)、キン族(約20%)18) である。ここは1954年のディネンビエンフーの戦いの主戦場と なったところである。

ディエンビエン省における調査は、省都ディエンビエン市内と郊外のタインルオン(Thanh

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Luông)社で実施した。市内では、キン族の退役軍人7人とターイ族の退役軍人1人(下表3 番のクン)にインタビューした。本稿では、そのうち市内のターイ族1人とタインルオン社の ターイ族6人の退役軍人のインタビューを紹介する。ここでインタビューしたターイ族の人た ちはいずれも白ターイに属している。タインルオン社は人口が6282人(1452世帯)で、ター イ族が3465人(55.1%)、キン族が2647人(42.1%)、コムー族が102人(1.7%)、タイー族が 68人(1.08%)である。タインルオン社の退役軍人は会員が234人(女性が11人)で、そのう ちターイ族が85人、タイー族が16人を占め、残りはキン族である。退役軍人会員のうち党員 は77人19)。士官だった人のほとんどが党員である。以下はインタビューしたターイ族7人の 一覧表である。6番のタンと7番のスアンはベトナム戦争以後の世代で、ベトナム戦争には参 加していない。

名前 生年 学歴 出征期間 所属 主な駐屯先 最終階級

ソン 1942 4年生、

省の財政初級 学校

1967~1976

(9年間)

歩兵、

通信兵

ラオス(67~73 年) ソンラー

中士

ゾット 1946 7年生 1968~1975年 1978~1982年

11年間)

歩兵 ラオス(68~75

年) 中越国境

上士

クン 1947 5年生、

省の財政初級 学校

1971~2003

32年間)

西北軍区・

27小団

ラオス(71~73 年) ライチャウ

大佐

ウー 1947 7年生、

タイグエン財 政中級学校

1972~? 316師団 ラオス(72~73 年)

中部高原、メコン デルタ、中越国境

佐官クラス

(?)

パン 1953 6年生 1972~1981

(9年間)

316師団 ラオス(72~73 年)

中部高原、メコン デルタ、中越国境

中尉

タン 1958 7年生 1977~2003

26年間)

省・国境防 衛隊

ライチャウ 少佐

スアン 1964 5年生 1985~1988

(3年間)

省・国境防 衛隊

ライチャウ

2.1. 学校教育とベトナム語の普及

1942年生まれで一番年上のソンは、1954年以後に学校に通うようになったが、学校に行く前 はベトナム語を知らなかった。一方、1946年生まれのゾットは、学校に行く前からベトナム語 を知っていたという。1947年生まれのクンは、学校に入学した時点では、ベトナム語を話せな かった。地域や家族によってベトナム語の浸透度にも違いがあったのがわかる。クンは学校で はターイ語で教わり、ターイ文字を学習した。彼は1957年の10歳の時に、ターイ族の村人に

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ターイ文字を教えたので、ターイ・メオ自治区主席から表彰されている。1959年から学校でベ トナム語を学び始めるようになったが、その時まではターイ語しか知らなかった。県の役所に 勤務してから、ベトナム語が上達した。当時、ターイ族は学校に行っている人はベトナム語が できたが、学校に行っていないとベトナム語をほとんど知らなかったという。1947年生まれの ウーは1957年から学校に通ったが、それまではベトナム語を知らなかった。彼によれば、当時、

入学してしばらくはターイ語とベトナム語の2言語で学習した。1960年(1959年か?)からは ベトナム語に一本化されたという。1953年生まれのパンも学校に行く前はベトナム語を知らな かった。パンは地元の村で1962年から4年生まで学校教育を受けたが、ベトナム語による教育 を受けている。入学当初だけはターイ族の先生がターイ語をまぜながらベトナム語を教えた。

したがってパンは、ターイ文字を習っておらず、知らない。1958年生まれのタンは、父が社の 幹部だったこともあり、学校に行く時にはすでにベトナム語を知っていた。しかし1964年生ま れのスアンは、学校に行く前はベトナム語を知らなかった。このように多くのターイ族は就学 前にはベトナム語を知らなかったが、1959年から学校では本格的にベトナム語による教育が進 められるようになり、ベトナム語を修得していくことに拍車がかけられた。そして学校を出て、

役所や軍隊に入ることによって、ベトナム語を上達させていった。一方、辺鄙なところに住み、

学校教育もほとんど受けたことがなく、外部との交流が少なく、農業に専従しているような少 数民族の女性はベトナム語能力が低い場合がまま見られる。実際、ゾットの90歳になる義母は いまだにベトナム語ができないという。

経理担当の地方幹部養成のための財務学校にソン、クン、ウーの3人が学んでいる。ソンは 1964年に通算で1年間、ライチャウ市のデオ・ヴァン・ロン(Đèo Văn Long)20) の館がかつて あったところで学んでいる。修了後、1967年に出征するまでディエンビエン県の幹部として経 理を教えたり、食糧関係を担当した。クンは財政初級学校を修了後、1964年8月に県の財政室 勤務になった。4ヶ月勤務し、1965年1月に県の青年団副書記。翌年、共産党入党。1967年、

県党委・宣教副委員長21)。1969年、22歳の時に同委員長と順調に出世し、1971年5月には県 の人民議会副主席に就任した。県の高級幹部として、農業合作社の管理改善工作や総動員の準 備に従事した。同年、総動員準備の雰囲気の中でクンは最年少の県高級幹部として血書をした ためて出征を志願した。ウーは7年生を終え、西北自治区財政局に8年間勤務した後、タイグ エンの財政中級学校で4年間(1967~71年)学んだ。この学校では少数民族の子弟が優先され ていた。同校を卒業した後、2年間近く勤務したが、1972年12月に総動員で出征した。ベト ナム戦争期、正式な出征年齢は18歳であったが(実際には多くの人が17歳で応召)、この3人 のような幹部は通常の出征年齢より遅れて出征した。クンのように、ベトナム戦争末期の総動 員では、高級幹部であっても若年であれば参加し、動員されたのである。

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2.2. ラオスへの関与

ターイ系の諸民族が国境を越えて分布しているため、ディエンビエンのターイ族はラオスと の縁が深い。ディンビエンフーの戦いやベトナム戦争はディエンビエンのターイ族がラオスに 出かけて行く契機となった。

2.2.1 ディエンビエンフーの戦いとターイ族の疎開

上表3番のクン以外は、現在、ディエンビエン市郊外でラオス国境のタインルオン社在住で あるが、よそから移ってきた人が多い。ソンは元々、ディエンビエンフーの戦いで仏軍カスト リ将軍の指揮所があったあたり(現在のディエンビエン市内)で生まれた。小さい頃、彼は、

第二次大戦中に駐屯していた日本軍の話を父親から聞いたことがある。1952年に仏軍がディエ ンビエンに進駐してきて、家族はタインルオン社の地に逃げてきた。ゾットによれば、ディエ ンビエンフーの戦いの戦闘が激しかったので、当地のターイ族の多くの人が戦火を逃れてラオ スに疎開したという。そのままラオスに居ついた人もいて、ゾットの叔母はラオスに今もいる という。それらの人の多くはポンサリーに居住している。ラオス側の国境の社とタインルオン 社は姉妹社の関係を結んでいる。交易のほかに通婚関係もあり、国境を越えた往来はビザなし で、許可証のみで可能である。1947 年生まれのクンは、5歳の頃はまだ仏軍が駐屯していて、

ディエンビエンフーの戦いの時は7歳だった。クンの兄たちは親仏的なターイ自治連邦の王で あったデオ・ヴァン・ロンの兵士だった。ディエンビエンフーの戦いの直後、仏軍とデオ・ヴ ァン・ロン軍の残党を掃討するベトミン軍を見たのが最初のベトミン軍との出会いであった。

その時は仏軍やデオ・ヴァン・ロン軍はこわくなく、ベトミン軍がこわくてジャングルに逃げ 込んだ。というのは、ベトミン軍が村に入ってきて、男の子を見れば殺してしまうと宣伝され ていたからである。その後、ターイ族から成るベトミン軍部隊がやってきて大衆工作を行い、

クンの村のターイ族もベトミンに従うようになった。ウーとパンは兄弟で、ソンと同様、元々 の家はカストリ将軍の指揮所のあたりにあった。仏軍の落下傘降下が1952年から始まり、第2 回目の時に家族は避難して各地を彷徨った末に現在の居住地まで来た。追い立てられた避難民 はノオンニャイ(Noong Nhai)の兵営に集められて400人以上が虐殺された。ウーの父親もそ の時に負傷し、ハノイで3年近く治療した。1954年からウーの家族はラオスのポンサリーに疎 開していた。多くの人がラオスに疎開していたが、1957年10月に西北軍区は代表団をラオス に送り、疎開していた人々に帰国を促した。その時に父親は家族と再会した。しかし一部の人 はそのままラオスに残った。ウーの叔母と姉もラオスに残り、現地の人と結婚した。姉の2人 の息子は現在、ラオスの軍人になっているという。

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2.2.2. ベトナム戦争中のラオス駐屯

タンとスアン以外のベトナム戦争世代5人はいずれもラオスに駐屯した経験をもっている。

ソンは1967年にタイチャン(Tây Trang)経由でラオスに入り、ルアンパバーンに駐屯した。

最初は歩兵で、後に通信兵となった。ラオス和平協定締結後の1973年末に帰国した。ゾットも 1968年にタイチャン経由でラオス入りしている。ポンサリーに3年間いた。爆撃が激しかった ので、ジャングルで寝起きした。ゾットは歩兵で、配属部隊の任務はヴァン・パオ軍の攻撃だ った。ラオスにいる時、ターイ語がかなり通じたという。クンは1971年に徒歩で1ヶ月かけて ルアンパバーンに到着した。クンの部隊はベトナム志願部隊・第8小団で、ラオス革命の支援 が任務であった。具体的にはヴァン・パオやプーマーなどの傀儡勢力の打倒であった。1973年 2月のラオス和平協定締結後に帰国した。その間、クンはタイ国のチェンマイまで偵察に行っ ている。ラオス語の会話も70%理解できたという。ウーは1972年にラオスに入り、シェンク アンに駐屯した。部隊は第371戦線・第6大隊・第4中隊の偵察分隊で歩兵を務めた。6ヶ月 程いて、1973年にラオス和平協定が締結された後、ベトナムのゲアン省に撤退した。パンは1972 年にゲアン省からラオスのシェンクアンに入った。毎日、夜間に3時間徒歩で行軍し、目的地 に到着するのに1ヶ月かかった。配属部隊は第326師団で、シェンクアン解放区の防衛と敵の 浸透を阻止するのが任務であった。交戦相手はヴァン・パオ軍とタイ国軍であった。1年余り ラオスで戦闘し、1973年のラオス和平協定後、ゲアン省に撤退した。以上のように、ベトナム 戦争世代の5人全員がラオスに駐屯した経験をもっているが、これは偶然ではなかろう。ラオ スと隣接し、コミュニケーションもとりやすいターイ族の兵士を意図的にラオス戦線に投入し たことは十分に考えられる。

上記の人たちはいずれも1973年のラオス和平協定で帰国している。ここで番外ではあるが、

ディエンビエン市内でインタビューしたキン族の退役軍人トゥアンのラオス駐屯経験について 若干触れておきたい。トゥアンは1951年生まれで、家族は1961年にディエンビエンに移住し てきた。1968年に出征し、西北軍区の第428小団に配属され、1971年からラオスに駐屯した。

西北軍区には2つの直属小団があり、志願部隊の第6小団と第4小団でラオスの支援を行なっ た。軍区の主力中団である第335中団は、乾季にはラオスで戦闘し、雨季には帰国した。第4 小団は兵士不足だったので、第428小団から兵を補充した時、トゥアンも第4小団に移った。

トゥアンの部隊はナムバック川以南の地域に駐屯し、ラオス傀儡軍やタイ国軍と戦った。米軍 機T28 による爆撃もあった。ラオスでの戦闘はベトナム南部でのゲリラ戦に似ていたという

(ただし逆の立場であるが)。ヴァン・パオ軍はより手ごわかった。トゥアンの部隊はジャング ルに駐屯し、絶えず移動した。1973年のラオス和平協定で「志願軍」は帰国したが、トゥアン の部隊はベトナム戦争終結後の1976年3月まで残った。ただし軍隊のかたちではなく農場の従

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事者というかたちで。つまりラオス和平協定後、北ベトナム軍はすべての軍隊がラオスから撤 退したのではなく、一部は残されていたのである。

2.3. 銃後の社会

ウーによれば、ディエンビエンフーの戦い後、第316師団はディエンビエンから撤退したが、

1959年に戻り、国営農場に従事する経済建設部隊に生まれ変わった。ディエンビエンに一大国 営農場が誕生したのである。これ以降、キン族のディエンビエンへの流入が加速した。タイン ルオン社では1957・58年に互助組が組織されるようになり、1959年に土地改革が始まった。

当地では、合作化と土地改革が並行して行なわれた。土地改革中、この地方の人民裁判で処刑 されたのは、デオ・ヴァン・ロンの弟で知州だったデオ・ヴァン・ウン(Đèo Văn Ún)だけだ った。1960年に農業合作社(初級)がつくられ、それからターイビン省出身のキン族がやって 来て一緒に仕事をするようになった。1964年に社レベルの農業合作社(高級)となった。合作 化が終わった後、1962年に土地改革の「誤謬修正」が行なわれた。ウーの家は「雇農」に分類 され、土地の支給を受け、自留地も持てたが、水牛はなかったという。

戦争によって伝統的な慣習が変容せざるをえなくなった場合もあった。ターイ族の結婚前の 婿入り制度もそのケースである。タインルオン社のターイ族の伝統的慣習によれば、正式な結 婚式の前に花婿は花嫁の家に3年間婿入りしなければならない。ソンによれば、その間、花婿 は花嫁の家族同様に扱われるが、大声を上げたり義父母と口論することはできず、また寝る時 は一人で寝なければならなかった。実際にゾットは1回目の出征と2回目の出征の間隙を縫っ て3年間婿入りをしたという。しかし戦争中にゾットのようなケースは稀で、出征中の兵士に 3年間の婿入りをする時間的余裕はなかった。ソンは1973年のラオス和平協定後、一時休暇で 帰省して5日間だけ婿入りし、1975年に正式に結婚した。パンは1979年に婿入りしたが、ま だ軍隊にいたため、慣習通りにまっとうできず1980年に結婚した。このように戦争の影響で伝 統的な慣習は変容させられ、この戦争中の変容は戦後にも及んでいる。スアンは1988年に除隊 し、翌1989年に結婚したが、婿入りしたのは1週間だけだった。ソンは、まだ結婚していない 末娘の結婚相手には1週間の婿入りしか求めないと語った。

2.4. 軍隊生活の感懐

ゾットは、「あの頃、誰も軍隊の階級のことなど考えなかった、任務を全うすることだけを考 えていた」と語った。クンによれば、民族間の関係は、同じ部隊で共に戦った戦友であり、困 難な軍隊生活や戦闘過程を通じて団結精神が醸成され、実の兄弟のようになったという。ディ エンビエン省には21の民族が居住しているが、軍隊にも21の民族がいる。風俗習慣に多少の

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違いがあっても、軍隊の基本的原則は第1に軍隊の決まりを遵守しなければならないことにな っており、第2に同じ地域で共に生活していて、民族間で文化交流があり、互いに学びあって 近似してきているので障壁がなくなりつつあるという。ウーの考えでは、戦争はベトナム領土 内の各民族を近づける要因になり、戦争を通してベトナム人は互いにより団結するようになっ たという。ベトナム戦争中の北ベトナム軍においては、概して、軍隊の階級に対する兵士たち の意識はあまり強くなかったようである。したがって階級の昇進による兵士たちのモチベーシ ョン強化という手法はあまり採られなかったのかも知れない。それを代替するのが共産党への 入党ではなかったろうか。ベトナム戦争中は比較的容易に党員となっているケースが散見され る。パンの場合はその一例である。パンは師範学校在学中の1972年に出征したが、当時、「英 雄レ・マー・ルオンに学ぶ運動」などがあって抗米の気勢が沸騰していたため、自ら志願書を したためて応召した。戦争中は戦功をたてると、履歴の審査なく直ぐに党員になれた。パンは それで1973年に入党できたが、戦争が終わってからは、あらためて審査を受けなければならな かったという。

2.5. 除隊後の境遇

ソンは復員後、社隊に入るなど、1998年までさまざまな職務を歴任した。恩給制度は受けて いない。ゾットは復員後、社の役職を歴任し、現在は社の党支部書記で月に13万ドンの手当て をもらっている。クンはライチャウ省軍事指揮部指揮長を1994年4月から2003年11月まで務 め、翌年、大佐で退職した。現在、ディエンビエン省退役軍人会副主席で、軍人恩給を月に450 万ドンと退役軍人会の給料250万ドンを受け取っている。ウーも退職後、ディエンビエン省退 役軍人会の副主席を務めている。パンは復員後、社の党支部執行委員、社隊長などをへて、現 在は社の退役軍人会副主席に就任している。タンはライチャウ国境防衛隊・機密委員長を最後 に2003年に少佐で退職し、恩給270万ドンを受給し、現在は集落の退役軍人会支部会長をして いる。スアンは軍事義務法による兵役で1985~88年の3年間、いわゆる「義務の部隊」に在籍 した。したがって何の恩給も受給していない。また今のところ地元の役職にも就いていない。

このようにベトナム戦争世代は復員後、さまざまなかたちで地元の役職に就任している。また 佐官クラスの軍人恩給が手厚いことがわかる。退役軍人は経済的には比較的恵まれているとい える。クンによれば、ディエンビエン省全体の貧困率は33%で、退役軍人のそれは6.14%のみ であるという。

2.6. インタビューした7人のターイ族・退役軍人のまとめ

① 学校に入学してから、ベトナム語を修得した人が多かった。幹部養成のための財政学校には

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3人が学んでいるが、クンとウーは見事に立身出世し、佐官にまでなり、ディエンビエン省の 軍隊と行政の重鎮となった。

② ベトナム戦争世代の5人全員がラオスに出征している。ウーとパンは南部でホーチミン作戦 にも参加した。中越戦争にも出征した人が5人いる。

③ 佐官クラスが3人おり、前述のムオン族の場合と比べると、階級が高い。しかしムオン族よ りターイ族の方が軍隊で昇進度が高かったと直ちに一般化することはできない。インタビュー したのは、ターイ族の場合はディンビエン省の省都とその郊外で高級退役軍人にインタビュー する機会があったのに対し、ムオン族の場合は片田舎であったからである。

④ 復員後、ポスト・ベトナム戦争世代で直接戦闘を経験していないスアンを除いて、ほかの人 は各級の退役軍人会などの役職を歴任している。佐官クラスの軍人恩給は高額である。クンは 高額の軍人恩給と退役軍人会の給料をもらい、裕福な暮らしをしている。

おわりに

1.戦争は、学校教育とならんで、少数民族のベトナム国民化を助長した。学校教育で注目 されるのは、ベトナム語の修得と少数民族の幹部養成である。1950年代後半、民族自治区にお いては「機関の民族化」22) が図られた。1960 年にファム・ヴァン・ドン首相が提唱した「ベ トナム語の純粋さを守る」運動は中国文化の浸透に抵抗しベトナム文化を守ろうとする運動で あるとともに、少数民族にとってベトナム語の修得を容易にする狙いもあったのではなかろう か。そのような下地の上に、戦争は多民族から成る人々を団結させ、一律化して国民化する坩 堝の役割をはたしたと考えられる。

2.一方、少数民族の国民化の阻害要因もあった。1954年のディエンビエンフーの戦いに勝 利後直ちに少数民族地区において北ベトナム政府の支配が貫徹したわけではなかった。1960年 に北ベトナム政府・民族委員会はこう述べている。「最近の1956年、1957年、1958年において、

各民族人民は匪賊に従って道を誤った6000人余りの人に投降を呼びかけ、各種の銃4000丁余 りを押収し、敵が引き起こした山間部国境における偽装匪賊である『王を称し、王を迎える』

多数の事件を粉砕した」23) と指摘しているように、まだ混乱は続いていた。最終的に西北地方 の「匪賊」を一掃できたのは1968年だとされる 24)。ディエンビエンでは、ターイ族はラオス に多数避難しそのまま居つく人もいて、国境・国民を越えた紐帯が根強く存在していた。また かつての白ターイ族の領袖デオ一族の記憶も残っていた。1950年代なかばに創設された「民族 自治区」の意識は十分には浸透していなかったと推測される。ムオン族のヴェンは、「自治区に なってもちょっとした変化しかなかった。当時のホアビン省の主席の名前は覚えているが西北 自治区の主席の名前は覚えていない」と語り、自治区がいつ廃止になったのかも記憶していな

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いという。

3.ベトナム人の「西方関与」については古田元夫氏25)が、少数民族を含めた多数の北ベト ナム正規軍兵士がラオスの戦場に出征していたことについては鈴木真氏 26) がつとに指摘され ているが、ベトナム戦争をベトナム民族解放のための戦争と規定するにしても、この戦争をベ トナム領内のことだけにとどめて見るならば十全に把握することはできないことが、本稿であ らためて確認された。

1) Khong Dien, Population And Ethno-demography In Vietnam, Silkworm Books, Chiang Mai, 2002. pp.171-174.

2) 越北自治区は1955~1975年。西北自治区は1956~1975年で、55~62年の時期は「ターイ・メオ自治区」

と呼ばれていた。

3) GS. Bế Viết Đẳng chủ biên, 50 Năm Các Dân Tộc Thiểu Số Việt Nam (1945 – 1995) , Nhà Xuất Bản Khoa Học Xã Hội, Hà Nội, 1995. p.268.

4) ハーソンビン省は1975年にハタイ省とホアビン省が一緒になってできた。1991年に再びハタイ省とホアビ ン省に分割された。

5) ホアンリエンソン省はそれまでのラオカイ省、イエンバイ省とギアロ省の一部が197512月に合併して成 立。1991年8月にラオカイ省とイエンバイ省の2つに再び分割された。

6) 2004年1月、旧ライチャウ省は新ライチャウ省とディンビエン省に分割された。

7) マン族は、1999年の調査でベトナム領内に2663人。同じくコムー族は5万6542人。

8) Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.98-99.

9) 拙稿「ホー・チ・ミン時代の『英雄』たち ベトナムにおける『英雄宣揚』と人民動員 」『東京外国語大学 論集』第70号、2005年。159~160頁。

10) Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.271-276.

11) 「英雄的母」の詳しい規定については、今井前掲論文、156~157頁参照。

12) Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.276-285.

13) Bế Viết Đẳng, op.cit., pp.97-98.

14) ベトナム民族委員会HPより(http://cema.gov.vn. 2009年9月23日アクセス)

15) ベトナム人民軍隊の階級は下から次のようになっている:二等兵、一等兵、下士、中士、上士、准尉、少尉、

中尉、上尉、大尉、少佐、中佐、上佐、大佐、少将、中将、上将、大将。

16) パテート・ラーオに対抗するラオス・モン族のヴァン・パオ将軍に率いられた「ケネディの秘密部隊」。ヴ ァン・パオ軍については、竹内正右『モンの悲劇 暴かれた「ケネディの戦争」の罪』毎日新聞社、1999 年。および同『ラオスは戦場だった』めこん、2005年、などを参照。

17) 軍隊の単位について、一般的には次のように相当するものと考えられる(カッコ内がベトナム側の単位)

「小隊」が分隊、「中隊」が小隊、「大隊」が中隊、「小団」が大隊、「中団」が連隊。本稿ではベトナムでの 呼称をそのまま用いる。

18) http://vi.wikipedia.org 2009年9月23日アクセス。

19) ディエンビエン省全体の退役軍人会は、省退役軍人会によれば、会員数が約1万2000人(女性は300人以 上)で、民族別にはターイ族が一番多く約40%、ついでキン族の20%以上、モン族10%余りとなっている。

会員のうち約3割の4000人ほどが党員である。

20) デオ・ヴァン・ロンはフランスの保護下にあったターイ族指導者で、モン族と組んでアヘンの販売を行い、

かなりの富を得ていた。1948年にターイ族の王位に就き、ベトミンを援助した時もある。ディエンビエン フーの戦いの後、フランス人によってハノイに送られ、その後、避難民としてフランスに渡り、まもなく亡 くなったとされる(http//vi.wikipedia.org/wiki. 2009年9月22日アクセス)。デオ・ヴァン・ロン(1890

(19)

生まれ)は、19世紀後半から20世紀初頭のターイ族の有名な領袖であったデオ・ヴァン・チ(Đèo Văn Trị:

1849~1908年)の息子で、父親が1890年にフランスによって安堵された支配地域を継承して、1948年にタ

ーイ自治連邦の王となり、ターイ系諸民族を結集して、ベトミンに対抗しようとした。しかし黒ターイやモ ン族はアヘン交易などをめぐってロンと対立し、ベトミンと手を結んだ。以上については、マルシャル・ダ ッセ著、福田和子訳『ゲリラは国境を越える インドシナ半島の少数民族』(田畑書店、1986年)第二部・

第一章、および菊池一雅『ベトナムの少数民族』(古今書院、昭和63年)173~174頁に詳しい。また、デ オ・ヴァン・チについては次の論文を参照のこと。武内房司「デオヴァンチとその周辺 シプソンチャウ タイ・タイ族領主層と清仏戦争」塚田誠之編『民族の移動と文化の動態 中国周縁地域の歴史と現在』(風 響社)2003年。645~708頁。

21) クンによれば、当時、省の党委書記や県人民委員会主席でも4・5年生修了レベルの人が多かったという。

22) Ủy Ban Dân Tộc, Các Dân Tộc Thiểu Số Trưởng Thành Dưới Ngọn Cờ Vinh Quang Của Đảng, Nhà Xuất Bản Sự Thật,

Hà Nội, 1960. p.53. 「機関の民族化」について、次のように述べられている。「ターイ・メオ自治区において

は、少数民族幹部の養成は越北自治区より困難にぶつかっているが、現在、少数民族の幹部数は自治区の幹 部総数の半分を占めている」。なお本資料と註3の資料は伊藤正子氏より提供していただいた。ここに記し て、謝意を表す。

23) Ibid.,p.51.

24) GS.TS. Phan Hữu Dật chủ biên, Các dân tộc thiểu số Việt Nam Thế kỷ XX, Nhà Xuất Bản Chính Trị Quốc Gia, Hà Nội, 2001. p.451. これによれば、最後の「匪賊」はタオ・ア・ドア(Thào A Đóa)で1968年にサパで投降した。

25) 古田元夫「ベトナム人の『西方関与』の史的考察」土屋健治・白石隆編『東南アジアの政治と文化』(東京 大学出版会)1984年。1~32頁。

26) 鈴木真「第三章 周辺諸国にとってのベトナム戦争」中野亜里編『ベトナム戦争の「戦後」(めこん、2005 年)328頁。

参考文献

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Ủy Ban Dân Tộc, 1960.

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『ゲリラは国境を越える インドシナ半島の少数民族』田畑書店 中野亜里編 2005

『ベトナム戦争の「戦後」』めこん 竹内正右 1999

『モンの悲劇 暴かれた「ケネディの戦争」の罪』毎日新聞社 竹内正右 2005

『ラオスは戦場だった』めこん 土屋健治・白石隆編 1984

『東南アジアの政治と文化』東京大学出版会 塚田誠之編 2003

『民族の移動と文化の動態 中国周縁地域の歴史と現在』風響社

参照

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