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見えない力と眼の力能 ̶̶

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Academic year: 2021

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はじめに

フランス現代思想は構造言語学の発展とともに展開された,とする教科 書的な説明があるが,実はもう一つの源流としてイメージ論の深化があっ たことを指摘しなければならないだろう.それぞれの哲学者によって様々 な形でイメージ論が展開されていることは至るところで指摘され,その特 異性や類似性については数々の言及がある.もちろん,哲学の歴史におい てイメージ論は常に重要なトポスであり続けており,決して現代に特有な 目新しいものではない.しかし,大局的な視点から見た場合,フランス現 代思想のイメージ論においてひとつの特徴が浮かび上がるように思われ る.それは,いわば「眼の力の擁護」とでも言い表すことができるもので ある.こうした態度は,機械の発達によって拡張された近代の視覚経験,

またそれに比例して,アルベルティ以来発展してきた遠近法主義的知覚論 に対するアンチ・テーゼとしてひとまず理解することは可能であろう.こ のような近代的視覚の体制に対して,眼の力を文字通り開眼させるのは,

複製芸術の誕生以後の画家の役割でもあった.ジル・ドゥルーズもまたこ うした問題の交錯点に位置していると言えるだろう.そこで本稿では,ド ゥルーズにおける見えないものとは何かを明らかにすることで,彼のイメ ージ論の一端を明らかにすることを目的としたい.これまで,ドゥルーズ のイメージ論は映画論として語られたり,ベルクソンのイメージ概念の影 響の指摘にとどまることが多かった.しかし,イメージ論の大きな流れの 中にドゥルーズを位置づけつつイメージ概念を考察することは,ドゥルー ズ哲学におけるイメージ論の重要性を再考する上でも,イメージ論全体の さらなる深化の上でも欠かせないように思われる.

まずは,なぜ眼の力が称揚されることになったのか,この20世紀のイ メージ論の前提となる問題の背景を探りたい.こうした準備作業の後に,

ドゥルーズにおける芸術家像の特異性をあぶり出し,言説の秩序に基づい

見えない力と眼の力能

̶̶ ジル・ドゥルーズとイメージをめぐって ̶̶

黒 木 秀 房

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て概念を利用しながらイメージを説明するというよりはむしろ,イメージ のただ中で螺旋を描くように深化する思考の記述といった呈をなすドゥル ーズの『感覚の論理』の分析を通じて,フィギュールという語に結晶する

「見る」という経験について考察したい.

1

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見えない力を見えるようにすること

ドゥルーズがイメージについて語るときでも哲学をしていたとするなら ば1),フランシス・ベーコン論においても単にベーコンの絵画を語ってい るのではなく,ベーコンが問題としていたことをドゥルーズもまた別の仕 方で問題にしている,ということができるだろう.実際,『感覚の論理』

でドゥルーズは,「自由間接話法的」にまるで画家になったかのようにし てベーコンの絵を語る.たしかに,彼は自らの経験について明示的な仕方 で語るわけではない.しかし,哲学が絵画について語るのではなく,まる で哲学者が画家になったかのようにして語ることで,ドゥルーズは画家の 問題系に自らを接ぎ木しているように見える.その問題系とは画家にとっ て最も根本的な問題であるように思われる「見る(voir)」という問題で ある.

芸術において,音楽と同様絵画において問題となるのは,形式を再生産した り,発明したりすることではなく,力を捉えることである.まさにそのことに よって,いかなる芸術も具象的ではないのである.クレーの有名な言葉である

「見えるものにするのではなく,見えるようにすること」というのはまさにこ のことを意味している.画家の仕事は見えない力を見えるようにする試みとし て定義される2)

ここで提起される「見る」という問題は,単に画家という主体がどのよう に事物を認識するのか,ということでも,絵画をどのように解釈するの か,ということでもない.描かれたもののテーマや背景,そしてその元と なっている物語が問題なのでもない.「見えないものを見えるようにす る」ということは,見えない何かを前提とし,それが画家における何らか の媒介によって可視化されるということである.したがって,タブローの 上で表現されているものに対して現実における可視的な参照項を探しても 無意味である.また,画家が描くタブローのうちに,既存のイメージを見

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出すこともナンセンスである.作品は画家が見たものの表象ではなく,画 家の作業の効果として見えるようになったものである.鑑賞者は作品を眼 差すことによってタブローの上に表現されているものから画家の経験をた どり直し,画家が表現しようとした見えないものを探らなければならない だろう.ドゥルーズは画家の仕事のプロセスを「見えないものを見えるよ うにする」と規定することで,「見る」という経験の発生,言い換えるな らばイメージの発生そのものを問うていると言えよう.

こうしたドゥルーズによる芸術家の仕事の定義は,その一節を引用して いることからも明らかなようにパウル・クレーの多大な影響の下に行われ ている.クレーは,ドゥルーズのみならず戦後のフランス思想家がこぞっ て引用する画家であり,ドゥルーズが引用している言葉は,イメージ論の 分水嶺となっているといっても過言ではない.そこで,クレーの言葉の背 後にはどのような問題が隠されているのかということを確認しておくこと は,決して遠回りではないだろう.クレーは『造形思考』の中で,造形論

Lehre von der Gestaltung)と「フォルムの理論(Form-Lehere)」の差異 を強調しながら,以下のように述べている.

造形論は,形態(フォルム)に通じるさまざまな過程を論ずる.それゆえ造形 論はとりもなおさずフォルムの理論であるが,しかしここで特に強調したいの はフォルムにいたるさまざまな過程である.造形(Gestaltung)という言葉 そのものが,その語尾によって今いったことを特徴づけている.これに反して

「フォルムの理論」では,とくにフォルムの前提となるもの,もしくはフォル ムへ通じる過程をさほど重視していないと一般にいわれている.つまり,造形 論の方がひどく特殊な性格をもっている.そのうえ造形は明らかに広い意味 で,ある種の運動の性質の基本的な前提の概念に結びつくから,いっそう重要 だと見なされる3)

こ こ で, ク レ ー は 微 妙 に 言 葉 を 使 い 分 け て い る. つ ま り,Form

Gestaltungの違いである.Formはリジッドな線によってすでに存在する

静的な形や形相を示すとするならば,Gestaltungは動的かつ生的な線によ って生まれつつある形を意味する.クレーはFormを一つの到達点と考え ており,Formに至るまでのプロセスを問うことを造形論と呼んでいるの だ.このように,一見すると同義的な二語の差異を明確にすることで,新 しい仕方で形に関する問いを立てることを試みていたと言えよう.つま

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り,何が形態を生み出すのか,あるいはどのようにして形態が生み出され るのか,ということである.何かを見た,ということができるのは,なん らかの形を見出すことであり,形なきものを見ることはできない.しかし このとき,形とは,必ずしも抽象的な外枠でも,凝固した型でもない.む しろ,形を生み出す線は可塑的で運動的なものである.伝統的な美学にお いては,芸術作品を把握する際の最初のフィルターとして形式と内実を措 定している.だとするならば,クレーの革新性とは,伝統的で静的な二項 対立的思考から逃れる動的な「造形思考」であると言えるだろう.この

「造形思考」によって描かれる作品は,事物が画家においてイメージ化さ れ,画家の手によってそのイメージが再現前化されるというプロセスを取 るものではない.クレーが目指すのは,形態発生のイメージであり,イメ ージのイメージと呼べるものである.つまり,クレーはいかなる参照項を も持たずにイメージそれ自体として成立するようなイメージの自律性の獲 得を目指したのである4)

クレーにとっては,形態を生み出す何らかの力が言語化不可能な「創造 の力」であったのである.この力はあらゆる物質に宿っていると考えら れ,この力の内在的探求こそがクレーにおける創造の源泉だったと言え る.ところで,このような見えないものを見えるようにするという考え方 の背後には,アリストテレス的な自然観,すなわちデュナミスとエネルゲ イアが透けてみえないだろうか.

この根から,芸術家に向かって樹液が流れ,さらに樹液は彼の体内をめぐ り,やがて芸術家の眼を通っていきます.ですから,芸術家は,樹木の幹にあ るわけです.

芸術家は樹液の強い流れに攻め立てられ,揺り動かされて,眼が捉えたもの を作品の中に導入していきます.ちょうど,樹冠が時間的かつ空間的に,あら ゆる面に向かって眼に見えて生育していくように,芸術作品も同じく時間的,

空間的に生育して行きます5)

ここでクレーは,芸術家の「仲介者」としての役割を樹木にたとえながら 説明している6).すなわち,芸術家はその透徹な眼の力能によって,自然 に内在する形態発生のエネルギーを見出す7).そして,このエネルギーに 突き動かされつつ,作品にそのエネルギーを注ぐのである.クレーが強調 するのは,自然の形態を模倣することではなく,エネルギーを抽出し,作

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品に注入するという画家の役割である.したがって,クレーの芸術は,自 然の模倣ではなく,単に既存のフォルムにエネルギーが注入されていると いうことでもない.自然に内在する形態発生の力に促されつつも,あくま でキャンバスの上で形態発生の現場を生で捉えることこそが,クレーの芸 術である.だとするならば,クレーにおいて問題となる芸術家における見 えないものから見えるものへのプロセスは,デュナミスとエネルゲイアの

「間」に位置づけることができよう.

芸術作品が作品足る理由が,その主題にも,形式にも求められず,作品 の外部にあるとするならば,芸術家の役割とは何か.それはおそらく,イ メージの発生,すなわち「見る」という経験の条件を思考することではな いだろうか.というのも,見るという経験の対象となるものは質料に形相 が与えられたエネルゲイアにおいてであるが,クレーにおいては,デュナ ミスからエネルゲイアへの移行,すなわち事物の生成状態が問題となるか らである8).このようなイメージの発生の問題は,真理を「隠れなさ」と 定義するハイデガーや,見るものであると同時に見られるものであるとい う両義性の身体の哲学を展開したメルロ=ポンティとも共振するだろう.

実際,この二人の哲学者はクレーに強く影響を受けていた9).このように 真理の探求もまた,見ることの条件そのものと関わっているのである.と はいえ,哲学が視覚優位主義であることや,光の隠喩にあふれているとい う事実をここで再確認したいわけではない.重要なのはむしろ,哲学が真 理の探求を開始する際,芸術が真理を見させるという点である.ただし,

芸術作品がイメージであるというよりは,芸術作品が見させるのであり,

芸術作品への眼差しによってイメージが立ち上がるのである.

ここでドゥルーズに再び戻るならば,イメージの発生の問題は,単に芸 術家の定義との関わりだけでなく,真理の探求の問題と直接関わっている と言えるのではないだろうか.プルースト論においてドゥルーズは,積極 的意志による合理主義哲学的真理探求に対する記号との出会いの暴力によ る真理探求を「思考のイメージ」と呼んでいたからである10).ところで,

この思考を起動させる記号とは,端的に言えば,単なる認識の対象ではな く,いわば思考への呼びかけの印である.だとするならば,「思考のイメ ージ」における「イメージ」を,「全体的な印象」といった語の持つ最も 曖昧な意味ではなく,より積極的に,見えないものの感覚的表現として理 解することは可能であろう.絵画を例にとり具体的に述べるとするなら ば,画家は力を記号に置き換え,哲学はその記号に促される限りにおいて

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真理を探求する.したがって,ドゥルーズにおいて合理主義的哲学のイメ ージに対して対置される「思考のイメージ」とは,表象としてのイメージ ではなく,常に生起するイメージのことであり,イメージの発生の問題に おいて,ドゥルーズ哲学は芸術に接ぎ木されていると言えるだろう.

2

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ドゥルーズにおける「見えないもの」

ここまで,ドゥルーズ哲学の根底にイメージの発生論があることを見て きたが,より具体的にイメージの発生の問題を取り上げたい.その際,ド ゥルーズにも見出すことができるアリストテレス的なデュナミス/エネル ゲイア的な自然観を検討することで,ここまで見てきたクレーの芸術論と の相違を強調しつつ,いかにしてイメージが発生するのか見ていきたい.

ドゥルーズの場合には,類種関係を前提とするアリストテレス的生気論 よりはむしろ,「横断的な」自然観があると言える.このドゥルーズの自 然観を端的に示すのが,ドゥルーズ=ガタリが好んで用いる雀蜂と蘭の挿 話であろう.

蘭は雀蜂を模倣し,有意的な仕方(ミメーシス,擬態,擬似など)によって雀 蜂のイメージの再生産を行っていると言うことができるかもしれない.しか し,それは地層の次元,つまり一方における植物の有機体が他方における動物 の有機体を模倣するといったような二つの地層間の平行論においてしか,正し くないのである.これと同時にまったく別なことが問題になる.すなわち,も はやまったく模倣行為などではなく,コードの捕獲,コードの剰余価値,誘発 性の向上,真の生成変化,蘭の雀蜂への生成変化,雀蜂の蘭への生成変化が問 題となるのであり,これらの生成変化の各々が,二項のうちの一方の脱領土化 と他方の再領土化を保証するのであり,二つの生成変化が絡み合い,互いに交 替するのは,脱領土化をつねによりいっそう推し進める諸強度の循環に従って いるからである.そこには模倣や類似ではなく,意味するものにはどんなもの にも帰属せず,従属もしないひとつの共通のリゾームからなる逃走線における 二つの異質なセリーの突発的な現れがあるのである11)

ドゥルーズは,ここで引用した箇所の直前に,まず蘭と雀蜂の間で起こっ ていることに関してあえて人間主義的な祖述をした上で,これに対抗する ようなドゥルーズ独自の自然観を提出している.一般的に,蘭と雀蜂の関 係は,すでに知覚され,知の地層に堆積している雀蜂に関するイメージと

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蘭に関するイメージを元に説明される.雀蜂の側からみれば,雀蜂は自己 のイメージを蘭の花の上に「見る」ことによって,蘭によって誘惑され,

事実上,蘭の花粉を運ぶことによって,蘭の生産の循環サイクルに入る.

一方で,蘭からみれば,蘭は雀蜂のイメージの「模倣」を行って雀蜂を誘 惑する.あたかも一つのシステムがうまく説明されているかのようであ る.ところが,ドゥルーズの自然観において蘭と雀蜂の関係を考察する際 にまず前提とされるのは蘭と雀蜂のイメージではない.イメージはあくま でもなんらかの作用によって結果として現れるものである.逆に前提とさ れるのは蘭と雀蜂の関係そのものであり,ドゥルーズにおいてなぜ蘭と雀 蜂なのか,どのようにして蘭と雀蜂が出会うのか,という問いが立てられ ることはない.ドゥルーズにおいて関係は偶然によって築かれるのであ り,常にすでに無数に存在するものであるからである.問われるのは,蘭 の雀蜂になるというイメージ,雀蜂の蘭になるというイメージである.言 い換えるならば,蘭と雀蜂という類種関係を超えた生成であると同時に,

イメージの発生でもあるのだ.

イデアとそれを模倣するミメーシスの理論においては,おそらく実体は 類種関係を超えることはない.ドゥルーズはこのようなイデア論に対して 生成論を対置させているのだが,その差異はイメージの問題においてより 強調されることになるだろう.というのも,イデア論は,つねにすでに見 ることができるものが問題となるのに対し,生成論においては,「見えな いものが見えるようになること」が問題となるからである.言い換えるな らば,見ることができるもの同士の関係においては,模倣や表象が問題と なるが,見えないものと見えるものの関係においては,生成や発生が問題 となるからである.ここで強調したいのは,見えるもの/見えないものが デュナミス/エネルゲイアという古めかしい二元論に還元されてしまうわ けではない,ということである.いうまでもなく,デュナミス/エネルゲ イアは,潜在的なもの(virtuel)/現働的なもの(actuel)に翻訳可能で ある12).ドゥルーズは,これらの概念をベルクソン経由で利用している.

そして,しばしばドゥルーズは,現働化した世界に対する潜在的なものを 称揚する哲学者として認識されている.しかし,ドゥルーズにとって重要 なのは,むしろ現働的なものから潜在的なものへ,あるいは潜在的なもの から現働的なものへのプロセスであり,さらに言えば,現働的なものと潜 在的なものの「間」であるのではないだろうか13).イメージの単なる表 象としての指示的な性質ではなく,イメージの発生を問題とするとき,潜

(8)

在的なものから現働的なものへ,あるいは現働的なものから潜在的なもの へのプロセスが問題となっていることを確認しておきたい.

クレーにおいて,自然界における形態発生のエネルギーは,芸術家を通 してエネルゲイアとしての現実態に変換されることはすでに見てきた.そ の際,クレーは芸術家を樹木に例えて語っていた.それとは対照的に,ド ゥルーズはこの潜在的関係を「リゾーム」,すなわち,根茎をモデルとし て語っていることは象徴的である.ここに,イメージの発生の問題におい て,まったく異なる二つの方向性を見出すことができよう.クレーが芸術 家の仕事をフォルムに至るプロセスの探求と規定するならば,ドゥルーズ が芸術家に見るのは,むしろ脱形式(déformation)である14)déformation は歪曲という意味を持つが,ドゥルーズは,事実をねじ曲げるという意味 において,オリジナルな形態から偽の形態を捏造するという否定的な用い 方ではなく,むしろ形態から逃れることに積極的な意味を見出しているの である.ドゥルーズにとって形態は,いわば生的で動的なものを堰きとめ るものであり,déformationという語の使用のうちには,形態からの潜在 的な力の解放が念頭に置かれているのだ.具体的に画家において脱形式が どのように行われるかという点については後述するが,ここではイメージ の発生のプロセスの違いに注目したい.クレーにおいては,自然の形態発 生を芸術の創造力に一致させることが主眼にあり,デュナミスの中からあ る種の構造を現出させることが問題であった.これに対し,ドゥルーズは むしろ現働化したもののうちに「裂け目」としての潜在性を見ているので ある.実際,ドゥルーズは「画家は白い表面の前にいると信じることは誤 りである」として,空白のキャンパス,いわば絵画の零度を措定すること に注意を促しつつ,画家の頭の中や画家の周りには絶えず多くのイメージ に囲まれていることから,まず最初に「具象的な所与(donnés figuratives)」

があることを指摘している15).イメージの発生に関して言えば,既存の イメージを引き裂くことで,新たなイメージが出現する場を創出しなけれ ばならないのである.

その一方で,新たなイメージの出現には,最低限の形象が求められるだ ろう.というのも,なんらかの形なしには見ることができないからであ る.見えないものから見えるものへの移行は,見ることなしには把握でき ない.こうした微妙なニュアンスは,ドゥルーズがリオタールから引用す る具象的(figuratif)/形象的(figural)という語彙にも見てとることが できる.常に既に存在する紋切り型の形態ではないにせよ,イメージがイ

(9)

メージとして認識されうるためには,何らかの形象が必要である.この形 象こそが,ドゥルーズにおいてフィギュールと呼ばれるものであった.

3

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見えないものとフィギュール

それでは,具体的にベーコンの絵にドゥルーズは何を見ているのか,追 って見ていくことにしよう.ドゥルーズは,クレーの「見えないものを見 えるようにする」という問題提起に対する最良の応答として,まさにこの ベーコンのフィギュールを挙げている16).フィギュールは,ドゥルーズ がリオタールの影響を受けつつ,再創造した概念であると言えるが,この 語それ自体が持つ多義性ゆえに定義し難い概念である.ここでは,このフ ィギュールという概念を主題的に取り上げるよりはむしろ,フィギュール の視覚的経験の意味を問いたい17)

まずは,ドゥルーズがベーコンの絵のうちに見た特徴を確認したい.そ れは三つの要素とひとつの印(marque)である.三つの要素とは,具体 的には構造(structure)または骨組み(armature),フィギュール,外縁

contour)であり,ひとつの印とはダイアグラム(diagramme)である.

構造または骨組みとは,ベーコンの絵における一色塗りの部分を,フィギ ュールは人物像を,外縁は人物像が描かれる場をそれぞれ指している.ダ イアグラムと呼ばれる部分は,刷毛や布やスポンジでぬぐい去られた部分 である.したがって,「要素」とはベーコンのタブロー上に,画家の操作 の結果として現れるものであり,「印」とは画家の操作そのものを指し示 すような部分であるということができるだろう.ベーコンの絵を見れば明 らかなように,これらの各部分は明確に区別されるわけではなく,互いに 交じり合っている.したがって,視覚の経験という観点からすれば,ひと つひとつの概念の機能を分析するよりはむしろ,一挙に概念布置のうちに 入り込む方が良いように思われる.

その際,これらの特徴の中でも重要なのは,ベーコンの絵画の技法的側 面でも,図像的側面でも特徴的と言えるダイアグラムである.というの も,このダイアグラムこそが,表象としてのイメージではなく,イメージ の発生を眼に促す印であるからである.

線と斑点がフィギュールをわれわれに与えるように差し向けられているだけ より一層,それらは具象化との関係を断たなければならない.だからこそ,線 と斑点はそれ自身だけでは十分でないのであり,「利用」されなければならな

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いのである.つまり,それらは諸事実の可能性を跡付けているのだが,ひとつ の事実(絵画的事実)を構成しているわけではない.事実へと変わり,フィギ ュールへと進展するために,それらは視覚的総体において再循環しなければな らない.しかし,そのとき正確には,これらの印の作用によって視覚的総体は もはや光学的組織体ではなくなり,いまや具象的ではなくなったひとつの対象 と同時に,別の力能を眼に与えるだろう18)

ここで語られている線と斑点は,ダイアグラムを構成するものである.ダ イアグラムを印づけるベーコンの絵画的技法は,視覚とは関係なく,手の 運動によって現出させられる(ドゥルーズ自身このダイアグラムを「触覚

haptique」と形容している).具象的なものから切り離されているこの

ダイアグラムがタブローのうちにあるがゆえに,このタブローを単に具象 的な絵画として見ることはできなくなる.まさに脱形式がイメージ発生の ひとつの条件となっているのだ.ダイアグラムは潜在的な関係性の束を現 出させる裂け目であり,「諸事実の可能性を跡づけている」.しかし,視覚 に現れる現働的なものを構成しているわけではない.ベーコンの絵画は,

例えばアクション・ペインティングのような,こうしたダイアグラムがタ ブロー全体に広がっているものではないがゆえに,ダイアグラムは視覚的 総体のうちの一部分として機能しなければならないのである.とはいえ,

この視覚的総体において,視覚的効果が問題となるわけではない.つま り,スペクタクルを前にした観客のように,眼の受動的使用による光学的 効果が問題となっているわけではない.むしろ,眼にイメージの発生を促 すような視覚的総体である.

それでは,視覚的総体とは一体,何か.ここでは,これまでみてきた視 覚の問題に美術史の立場から与していると思われるジョルジュ・ディディ

=ユベルマンを手掛かりとしたい.ドゥルーズと同様,Figureという語を 用いながらフラ・アンジェリコを解読しつつ美術史の盲点を突くディディ

=ユベルマンは,美術史的知の枠組みの中であまり特徴的でない,あるい は何もないとされる部分に注目しながら,キリスト教文化圏においては周 知のテーマに絵画を従属させることで見過ごされがちな部分を積極的に解 読することで,フラ・アンジェリコに新たな光を当てている.ここで問わ れる「見る」という経験は,主体に十全に見ることができるという能力が 備わっていることを前提とすることなしに,ディディ=ユベルマンが「視

覚的(visuel)」なものと呼ぶ印に促されて行われる能動的な眼の使用であ

(11)

る.これによってキリスト教絵画のありきたりな一枚のタブローが特異な ものとして浮かび上がる.ディディ=ユベルマンは,フラ・アンジェリコ が描いたフレスコ画があるドミニコ会のサン・マルコ修道院の図書館にあ ったアルベルトゥス・マグヌスのアリストテレス『自然学』への注釈を参 照しながら以下のように述べている.

「場は何ものかであり,またそれはある一定の潜勢力(dynamis)をもつ」と いうアリストテレスのかの有名な言葉にもとづいて,アルベルトゥス・マグヌ スは,十三世紀に,形態の生成(inchoatio formarum)に関する正真正銘の 理論を展開した.その理論では,場というのは,多かれ少なかれ中性的で不確 定な,形象の「容器」としての単なる役割を演じるどころではなかった.アル ベルトゥス・マグヌスは逆に,場が形象に何も「もたらさない」とか,あるい は形にとって「外在的な」ものだと主張する人々を激越な調子で非難してい る.形象,形態は,ある場に住まうにとどまらず,場によって生み出されるの だ.したがって,アルベルトゥス・マグヌスは場のことを「産出の能動的原理

locus est generationis principium activum)と名付けている.場というの は,通常の意味で,地形の意味で理解される空間以上のものである.それは,

形態を生成させる力であり,ものを作り出すし,ものに作用し,ものを構成す ることのできる「力」である.[中略]このようにして,場や地̶そこで,

それによって形態が形成され,形象が浮かび上がるところ̶とは,聖なるも のの潜在的な作用なのである.アルベルトゥス・マグヌスは言っている,「場 は存在の形成そのものに働きかける0 0 0 0 0」(locus igitur ad esse operatur)と19)

ここで「場」とよばれているのは,いわば地と図の関係における地の部分 である.フランス語のfigureという語はドイツ語のGestaltに翻訳可能で あるが,地と図の関係が表裏一体であるように,形象とそれが浮かび上が る「場」と表裏一体である.この「場」をディディ=ユベルマンは,アル ベルトゥス・マグヌスのアリストテレス解釈を援用しながら,デュナミス として解釈しているのである.ここで地と図の関係は単に二つの区域では なく,「場」は形象が浮かび上がる背景でもない.「場」は形象が形象とし て立ち上がる力そのものである.時間を直接的には表現することができな いがゆえに,例えば,時計の針の運動など,時間の経過を示す目印によっ て時間を間接的に表現するように,空間もまた直接表現することはできな い.そこで,しばしば遠近法的な錯視が用いられるのだが,人物と人物の

(12)

背景という配置を取る絵において,背景は人物が住まう空間を表している にすぎない.いわば,人物の「容器」としての空間しか表現できないので ある.一方で,ディディ=ユベルマンがフラ・アンジェリコの絵に見るの は,形象が浮かび上がる「場」である.彼が繰り返し言及するフラ・アン ジェリコの『受胎告知』に描かれるのは,聖書で書かれている「受胎告知」

の物語の表象ではなく,「受胎告知」という出来事そのものであろう.こ の出来事を現出させる潜在的な力に満ちた「場」からこそ,形象が立ち上 がるのである.ここにもまた,一度,言うことから見ることを解放し,眼 の力を称揚するディディ=ユベルマンの「見る」という経験を見出すこと ができるだろう.

ドゥルーズもまた,一見すると何もないように見える部分を見ている.

それはドゥルーズが構造または骨組みと呼んだ部分,つまり一色塗りの部 分に相当するだろう.そして残りの二つの要素のうち,一つは出来事が起 こる空間を示す機能を持つ外縁であり,もう一つはフィギュールであっ た.一色塗りの部分は一見何もないようにみえるが,この部分との関係に おいてしかフィギュールは意味を持たない.実際,ドゥルーズは人間の形 象といわば地と図の関係になっている部分に動物の形象を見出している.

これらは人間と動物として区別される二つの形象ではなく,ひとつの「共 通の事実(fait commun)」であるとしている20).ベーコンのタブロー上 に描かれているもの,つまり画家の操作の効果としてあるものは,人間の イメージと動物のイメージという二つのイメージではない.そこに描かれ ているのは一つの事実だが,そこに潜むのは人間の動物への生成変化であ り,一つのイメージの発生である.先に述べたようなダイアグラムによっ て形象にまつわる物語を排除する一方で,「場」が開示する力によって起 こる生成変化のイメージが描かれる.そして,見るということは絶えずそ の都度イメージの発生に送り返されるのである.視覚的総体とは,まさに この循環構造のことであり,ダイアグラムとは眼の能動的な使用へと促す 印である.

だとするならば,この視覚的総体によって表現されているものは何なの か.ドゥルーズは,ベーコンにおいて繰り返し現れるテーマの一つとして

「叫び」を挙げつつ,『ベラスケスの教皇インノケンティウス10世の肖像 による習作』を解読しながら,以下のように説明している.

インノケンティウス10世は叫ぶ.だが,まさにカーテンの背後で叫ぶのであ

(13)

る.それは単にもはや見られない誰かとしてではなく,見ない誰かとして,も はや見るべきものは何もない誰かとしてであり,もはや彼を叫ばせるこれらの 見えないものの力,すなわち未来の力能を見えるようにすることしか務めをも たないのである21)

この絵からベーコンの狙いを,恐怖を前にして歪んだ顔を描くことで,こ の絵を見るものに恐怖の感情を呼び起こそうとしたものである,と考える ことができるかもしれない.しかし,そうした考えには,見ることのうち に受動的な側面しかみていないということになる.というのも,タブロー に描かれた人物の外で恐怖を呼び起こす出来事が起こり,しかしながらこ の出来事そのものを描かないことで,この恐怖の表情を見ることで,恐怖 を呼び起こす出来事を鑑賞者に想起させるという一連の構造のうちに,観 客の移入やタブローへの同一化が暗に前提とされているからである.ドゥ ルーズがこのベーコンの作品に見るのは,この同一化を徹底的に排除した ものである.なぜならば,出来事が描かれる空間を示す外縁であるカーテ ンは,叫ぶインノケンティウス10世のフィギュールをもはや見られない ものとしてだけではなく,見るものが何ものもないものとして立ち上げる からである.

とりわけ重要なのは,ここで描かれている存在が,見ることができない 存在であるということである.というのも,インノケンティウス10世の 叫びは見えないものを見えるようにする叫びであると同時に,見えないも のが見えるようになることによる叫びであるからである.まるで,見えな いものを見えるようにすることがある種の衝撃や恐怖とともにあるのに対 し,見えないものが見えるようになることが喜びとともにあるかのように して,この叫びは両義的なのである.見えないものが見えるようになると いう,見ることの経験の構造において,ドゥルーズとインノケンティウス 10世に位相的同一性を見出すことは見当はずれなことではないだろう.

ドゥルーズは,このインノケンティウス10世のフィギュールに,まるで 眼の力を称揚する彼自身の姿を見出しているかのようである.しかしなが らそれは,現象学的な眼差しの鏡像関係においてではない.すでに示した ように,ドゥルーズのインノケンティウス10世への同一化によるもので もない.それは,ベラスケスのインノケンティウス10世への生成変化で あり,ベーコンのベラスケスへの生成変化であり,ドゥルーズのベーコン への生成変化であると言えよう.「見る」という経験の場において,ひと

(14)

つの「共通の事実」において,二つのイメージすなわち,見る者と見られ る者が前提としてあるのではない.イメージの発生の場に,「見えないも のを見えるようにする」という循環構造が潜んでおり,この循環構造が反 復されるのである.

まとめにかえて

ロゴスから切り離された眼の力能は,イメージの発生の問題と深く関わ っており,この問題は20世紀の哲学の主要な問題の一つであった.眼は

「見えない力」に促されて初めて見るのであり,見えない力を見えるよう にした画家の行為は眼の力を肯定する哲学者の営為と通底するのである.

この見るという行為のうちそれ自体にイメージの発生があるのであり,ま ずイメージがあってそれを見るのではない.このように再発見された眼の 力能は,スペクタクルを前にした眼の受動的な力能とは全く異なるのであ る.徹底して,主体を前提とせずにイメージの問題を語るドゥルーズは,

見るという行為それ自体を直接的に語ることはしない.しかし,見えない 力を見えるようにした絵画を前にしたドゥルーズの経験は,「見えない力」

に促される限りでの,眼の能動的な使用と規定することができよう.ドゥ ルーズによるベーコンの絵画の地政学的解読を辿って行き着いたのは,潜 在的な力に促されて可能になる眼の未来の力能であると同時に,「見えな いものを見えるようにする」という循環構造の反復であった.ドゥルーズ は,思考はある種の暴力によって開始されると述べているが,フィギュー ルは眼を能動的使用へと促す記号であると言える.このような記号に促さ れて開示されるものこそ,イメージの真理ではないだろうか.そのとき,

イメージの真理は,物自体の次元にも,知解可能な次元にもなく,感覚さ れるしかないものの次元にある.絵画の問題に即して述べるならば,描か れた物質としてのタブロー上の画材の次元にも,解釈と称し絵画に当てが われる物語や既知の形態の次元でもなく,画家の手によって初めてみえる ようになる次元にある.こうした次元は,タブローを見ると同時に,「見 る」ということを問うことでしか到達できない超越論的場であると言える だろう.

思考はときにイメージに縛られ,ときにイメージから触発を受けて新た な思考に導かれる.こうしたイメージの両義性は,ドゥルーズの「思考の イメージ(image de la pensée)」のうちにも見出すことができる.このタ ームが意味するのは,端的に言えば,思考の前提となるものである.しか

(15)

し,ドゥルーズが「思考のイメージ」という語によって提起したかった問 題は,少なくとも新しい仕方で行われる思考に関する概略といった漠然と した意味でのイメージではないだろう.むしろ,「見る」ということない し,「感じる」ということはどういうことなのか,これを問う思考と超越 論的経験によって生み出される「思考の新たなイメージ(nouvelle image

de la pensée)」が問題になっているのである.したがって,ドゥルーズの

超越論的経験論において,感性論はいわば思考論の前提となる部分であ り,本論で明らかになった「イメージの真理」はまさにその中心に位置し ているのだ.本論は,視覚論的観点からイメージの発生の問題,それから フィギュールの機能を見てきたが,言語論的観点からのフィギュールの考 察については稿を改めたい.

1) Cf. Gilles Deleuze, Pourparlers 1972-1990, Minuit, 1990, p.187.(『記号 と事件1972-1990年の対話』宮林寛訳,河出文庫,2007年,275頁.なお,

ドゥルーズのテクストの翻訳に関しては既訳を参照しつつ,拙訳を用いたこと をお断りしておく.)

2) Gilles Deleuze, Logique de la sensation, 2 tomes, Éd. de la Différence, 1981 ; rééd. sous le titre Francis Bacon : logique de la sensation, Seuil, coll.

« Lordre philosophique », 2002, p. 57.(『感覚の論理*画家フランシス・ベ ーコン論』山縣煕訳,法政大学出版局,2004年,53頁,以下FBLSと略す.)

3) パウル・クレー『造形思考 上』土方定一,菊森英夫,坂崎乙郎訳,新潮社,

1973 年,60.Paul Klee, Das bildnerische Denken, Benno Schwabe, 1956, S. 17.

4) メルロ=ポンティは,このイメージの自律性を「自己形象的autofiguratif」と 呼 ん で い る.Cf. Maurice Merleau-Ponty, L’Œil et l'Esprit, Gallimard,

1964, p. 47.(モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』滝浦静雄・木田元訳,

みすず書房,1966年,288頁)

5) クレー,前掲書,132.Klee, op. cit., S. 82.)

6) ドゥルーズにおける「仲介者」の重要性については以下の拙論で論じた.「プ ラトニズムの転倒と哲学的スタイル―ドゥルーズにおける三つの「仲介者」

―」,『立教大学フランス文学』第41号,2012年,113-132.

7) 前田富士男によれば,20世紀の造形芸術におけるエネルゲイアは植物モデ ルとして考えられてきた.Cf. 前田富士男『パウル・クレー 造形の宇宙』,

慶応義塾大学出版会,2012.

8) アンヌ・ソヴァニャルグによれば,このようなドゥルーズによる質料形相論

(16)

的図式に対する批判は,シモンドンから受け継いだものである.Anne Sauvagnargues, « Lart comme symptomatologie, capture de forces et image », in Forces-figures—faire sentir les forces insensibles, Presse Universitaires de Vincennes, 2007, p. 45.

9) 加國尚志「私はこの世ではとらえられない―クレーをめぐるメルロ=ポンテ ィとハイデガー―」,Heidegger-Forum, vol. 5, 2011年,97-109.

10) Gilles Deleuze, Marcel Proust et les signes, PUF, 1964 ; nouvelle éd.

augmentée, Proust et les signes, 1970 ; nouvelle éd. augmentée, 1976, pp. 115-124.(『プルーストとシーニュ』増補版,宇波彰訳,法政大学出版局,

1977年,195-204頁)

11) Gilles Deleuze, Félix Guattari, Mille plateaux—capitalisme et schizophrénie 2, Minuit, 1980, p. 17.(『千のプラトー 上』宇野邦一・小沢秋宏・田中敏 彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳,河出文庫,2010年,29-30頁)

12) とはいえ,ここでは言及できなかったが,ヘレニズム文化のラテン化に際し てこれらの語が被った変化についても注意する必要があるだろう.Cf. マルテ ィン・ハイデガー『ニーチェ3』薗田宗人訳,白水社,1977年,175-177. 13) ドゥルーズはクレール・パルネとの「対話」である『ディアローグ』第5 章「現働的なものと潜在的なもの」において,現働的なものと潜在的なものの 交流の二つの回路について語っている.Cf. Gilles Deleuze, Claire Parnet, Diaogues, Flammarion, 1977 ; 2e éd., coll. « Champs », 1996, pp. 179- 185.(ジル・ドゥルーズ,クレール・パルネ「現働的なものと潜在的なもの」

『ディアローグ ドゥルーズの思想』江川隆男・増田靖彦訳,河出文庫,2011 年,249-256頁)

14) クレーもまた「デフォルマシオン」について語っているが,クレーのそれは 芸術家に入力されるエネルギーの元となった自然の形態は,その出力において 異なるということであり,ドゥルーズがベーコンの絵画に見る「脱形式」とは 全く異なるもののように思われる.Cf. クレー,前掲書,137.Klee, op.

cit., S. 84.

15) FBLS, p. 83.(邦訳,81頁)

16) Ibid., p. 58.(邦訳,54-55頁)

17) ドゥルーズのフィギュールについては,以下の拙論において一度分析を試み た.「ジル・ドゥルーズにおける『フィギュール』概念について」『関東支部論 集』第21号,日本フランス語フランス文学会関東支部,2012年,181-192頁.

18) FBLS, p. 95.(邦訳,95頁)

19) Georges Didi-Huberman, Fra Angelico—Dissemblance et figuration, Flammarion, 1995, pp. 34-35.(ジョルジョ・ディディ=ユベルマン『フラ・

アンジェリコ 神秘神学と絵画表現』寺田光徳,平岡洋子訳,平凡社,2001

(17)

年,30-31頁)

20) FBLS, p. 66.(邦訳,62頁)

21) Ibid., p. 61.(邦訳,57頁)

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