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思 想 史 と 軍 事 史 の 架 橋

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Academic year: 2022

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思想史と軍事史の架橋 はじめに   西周はヨーロッパの近代的学問を学んだ啓蒙的知識人として知られ︑﹃明六雑誌﹄にも多くの論考を寄稿している︒一方︑彼は新政府からの命に応じて︑明治三年から兵部省︑陸軍省︑参謀本部で勤務し︑軍人訓誡や軍人勅諭の草稿を書くかたわら︑五カ国語︵英仏独蘭日︶の﹃五国対照兵語字書﹄を編集・刊行するなど︑軍事面でも活躍していた︒

  西は﹁兵家徳行﹂と題する講演を︑明治一一年︵一八七八︶二月一九日︑三月一九日︑四月一六日︑五月二一日の四回︑偕行社の燕喜会で行った 1

︒将官のエトスに関する彼の主張を要約すれば︑次のようになろう︒

将官は戦時において知勇にすぐれるだけでなく︑平時において 仁愛を尽くし︑平素の徳行で部下の心をとらえ︑その信頼を得ていなければならない︒従命法は将官の率先の徳行︑平素の徳行とセットになっているからこそ意味がある︒軍隊秩序が平常社会と比べて厳しいのは︑万人を統率して一身のごとく動くためである︒それを実現するエトスが︑日本固有の性質にもとづく﹁忠良易直﹂︵まめ︑おとなしい︑すらり︑すなお︶なのである︒

  西はこの三年前︑﹁国民気風論﹂を﹃明六雑誌﹄三二号︵明治八年三月刊行︶に投稿し︑日本人の気風としての﹁忠良易直﹂は無気力の人民を生み出すおそれがあるとして︑主体的にものを考え︑自己を鍛える必要性を強調した︒しかし︑﹁兵家徳行﹂では反対に﹁忠良易直﹂と従命法を求めている︒従来の研究では︑上官の命令を素直に聞いて一方的に服従するよう求める当時の軍人社会は︑太平洋戦争へつながる軍隊の専制性をすでにはらんでいると前提し︑従命

││

 

西周

兵家徳行

をめぐって

 

││

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法を主張した西周について︑﹁近代﹂との矛盾を見いだすか︑あるいは陸軍省に勤務する者として︑意に沿わない主張をしたと考えられてきた 2

  ﹁兵家徳行﹂の前年に起きた西南戦争では︑旧士族を多く含む西郷軍を徴兵軍が鎮圧したが︑徴兵制成立期については︑血税一揆や徴兵忌避に注目が集まり︑﹁徴兵にとられる﹂側面が強調されてきた︒明治五年一一月二八日太政官布告第三七九号として出された徴兵告諭は︑新暦では一八七二年一二月二八日にあたるので︑徴兵告諭から二週間足らずの明治六年︵一八七三︶一月一〇日に徴兵令を迎えた当時の国民が︑徴兵制に反対したのは想像に難くない︒それまで二五〇年以上にわたって︑身分制社会のもとで武士が担ってきた治安維持・国防の任務が︑男子国民から選ばれた徴兵に委ねられることになったからである︒このように徴兵制軍隊を急いで編制しなければならなかったのは︑世界情勢によるところが大きい︒当時の世界の軍事力がどれほどであったのか︑その中で日本の徴兵制軍隊を動かすために︑将官には何が求められたのかなど︑軍事的背景を明らかにすることではじめて︑西の主張の真意が理解できると考える︒

  ﹁兵家徳行﹂は︑偕行社での主な聴衆たる陸軍将校に向けた言葉である︒兵卒が服従するのは︑将官が日頃からその徳行で部下の心を引きつけ︑戦時には率先して戦う気概を示すからであり︑将官は日常的に仁愛の心で兵卒に接し︑その信頼を得なければならないという考え方は︑実は西独自のものではなかった︒   本論では︑西が﹁兵家徳行﹂を講演する前の時期︑特に西南戦争前後の明治九年〜明治一一年を中心に︑﹁内外兵事新聞﹂と﹃陸軍年報﹄を主たる資料とし︑①当該期の世界の軍事力と日本の軍事力︑②当時の軍事演習の実態︑③将官が求められた﹁率先の徳行﹂を検討する︒グローバルな軍事史的観点からみたとき︑西の主張はきわめて常識的な考えであったことを明らかにし︑思想史を歴史の中でとらえる重要性を指摘したい︒

第一章  西南戦争前後の世界の軍事力と      日本の軍事力 第一節  ﹁内外兵事新聞﹂にみる軍事的世界の一面

︵一︶﹁内外兵事新聞﹂の概要

  ﹁内外兵事新聞﹂は明治九年三月一二日から刊行された︒その編集意図が一号の冒頭に述べられている︒それによると︑兵は国家の大事で強国では兵事専門新聞があり︑陸海軍人は勿論︑国家のために志を同じくする国民も読んで世界情勢を知っているが︑日本では西洋諸国と同じく新聞が盛んであるにもかかわらず︑兵事専門新聞がないので︑﹁陸海軍ニ係ル公報行事及制度ノ沿革等一切緊要ノ事﹂

﹁海外各国陸海軍ノ形勢沿革及器械ノ発明等﹂﹁内外興軍宣戦ノ景況及得失成敗ノ始末等﹂﹁陸海軍ニ係ル学術及論説等﹂を掲載した兵事新聞を刊行することにしたという︒毎月四回〜六回︵実際は週刊︶

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思想史と軍事史の架橋 発行し︑定価は五銭︑東京で発行するが地方にも郵送するとある︒   現存し︑マイクロフィルムに収録されている﹁内外兵事新聞﹂は︑一号︵明治九年三月一二日︶〜四四四号︵明治一七年二月一七日︶の一部である︒本論が対象とする時期についてみると︑一号︵明治九年三月一二日︶〜五〇号︵明治一〇年二月二五日︶︑号外︵明治一〇年二月二七日︶︵西南戦争勃発で情報を早く伝えるため︑隔日で一枚摺の体裁に改めるとの社告が載っている︶︑一三三号︵明治一一年三月三日︶〜一四五号︵明治一一年五月二六日︶で︑西南戦争勃発以後︑明治一一年二月末までの五一号〜一三二号が欠本である︒

  一号あたりのページ数はその時々で異なるが︑ほぼ二〇数頁で収まる範囲である︒陸軍省記事︑海軍省記事︑陸軍新報︑海軍新報︑陸海軍雑報︑外報︑論説などから構成されている︒

︵二︶﹁内外兵事新聞﹂の寄稿者

  ﹁内外兵事新聞﹂には︑アメリカ︑フランス︑ドイツ︑ロシア︑オーストリア︑イギリス︑エジプト︑トルコ︑中国などをはじめとする世界情勢が記されている︒書籍だけでなく︑フランス語・英語・ドイツ語・中国語・ロシア語の新聞などからも軍事関連情報が大量に集められているが︑世界各国に及ぶため︑﹁外報﹂欄の情報分析は後考にまちたい︒本論では︑どのような人物が論説の執筆や翻訳にあたっていたのか︑その性格を探るために寄稿者のうち何人かの履 歴を紹介しておく︒

  一号︵明治九年三月一二日︶で︑フランス語の原書をもとに徴兵論を論じているのは︑曽我祐準︵一八四三〜一九三五︶である︒明治一四年の開拓使官有物払下げ事件で︑谷干城・鳥尾小弥太・三浦梧楼とともに︑議会開設と憲法制定を訴える建白書を提出した人物として︑高校の日本史教科書にも名前が登場する︒曽我は幕長戦争に従軍したあと︑上海・香港・シンガポールに航海して航海術を学び︑明治二年に海軍参謀として箱館戦争に参加後︑陸軍に転じた︒七年〜一一年陸軍士官学校長をつとめている間に︑西南戦争に出征した︒その後︑熊本鎮台・大阪鎮台の司令長官となり︑一五年に参謀本部次長︑一六年に陸軍中将となるが︑一九年に陸軍省と参謀本部の権限問題で対立し︑まもなく軍職を去った︒その後は宮中顧問官︑貴族院議員︑日本鉄道会社社長︑枢密顧問官などをつとめた 3

  四号︵明治九年四月二日︶に﹁コロンスタット港魯西亜艦隊整列ヲ観ルノ記﹂を寄稿したのは︑榎本武揚︵一八三六〜一九〇八︶である︒昌平坂学問所︑中浜万次郎︵ジョン万次郎︶の塾︑長崎の海軍伝習所で学び︑文久二年︵一八六二︶にオランダ留学生として渡欧︑ハーグで航海術・砲術・造船術・機関学・国際法などを学習した︒慶応二年︵一八六六︶︑幕府がオランダに注文した軍艦開陽丸を廻送して帰国する︒明治元年︑海軍副総裁となるが︑軍艦を率いて箱館に入り︑蝦夷島政府を樹立︑翌二年に降服して禁固︑五年に特旨で罪を赦され︑開拓使に出仕し北海道各地を踏査した︒七年︑

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海軍中将兼特命全権公使露国公使館在勤を命じられ︑八年五月にペテルスブルグにて︑榎本とロシア外務大臣ゴルチャコフの間で︑日露樺太・千島交換条約が調印された︒一一年に帰国し︑一三年〜一四年海軍卿︑一五年駐清特命全権公使︑一八年逓信大臣︑二二年文部大臣︑二三年枢密顧問官︑二四年外務大臣︑二七年農商務大臣を歴任した 4

  二九号︵明治九年九月二五日︶の﹁水交社ニ於テ英国海軍史ヲ講スルニツキ演説ノ略説﹂│水交社は一八七六年創設で︑海軍将校の懇親︑研究︑共済のクラブ│に登場するのは︑近藤真琴︵一八三一

〜一八八六︶である︒蘭学・航海術を学び︑軍艦操練所翻訳方︑同測量算術教授方を経て︑明治二年に海軍操練所に出仕︑攻玉塾│のちの攻玉社で︑測量術・航海術を教える学校として発展した│を開いた︒六年ウィーン万国博覧会に派遣され︑帰国後﹃澳行日記﹄などを出版した︒のちに海軍兵学校教務副総理・海軍一等教官となる︒一方︑かな書きの普及につとめ︑かな書き辞書﹃ことばのその﹄を出版するなど︑多彩な才能の持ち主であった 5

  四八号︵明治一〇年二月一一日︶で﹁陸軍ノ将校ハ隣国ノ語学ヲ通習スルヲ要スル論﹂を書き︑﹁魯西亜ハ論ナク支那満州朝鮮等ノ緊要ナル隣国語学﹂を︑在職の将校も寸暇を惜しんで学ばなければならない情勢にあると述べたのは︑小沢武雄︵一八四四〜一九二六︶である︒慶応二年の幕長戦争では軍議役兼陣馬奉行をつとめ︑慶応四年に越後・会津へ出征︑西南戦争には征討軍本営の参謀として出 征し︑一二年〜一八年陸軍総務局長︑陸軍士官学校長も兼務する︒その後陸軍参謀本部次長︑二一年からは参謀本部長をつとめた︒二三年貴族院議員に勅選されたが︑翌年軍職を依願免官︑のち日本赤十字社副社長となった︒大正一五年︵一九二六︶まで貴族院議員をつとめた 6

  一四二号︵明治一一年五月五日︶から﹁弁堡爾︵ベホール︶守城記﹂│ベホールは︑普仏戦争で鉄壁の守りをみせたフランスの要塞│を連載しているのは︑大久保春野︵一八四六〜一九一五︶である︒淡海国玉神社祠官の長男で遠州報国団で戊辰戦争に参加後︑大阪兵学寮幼年学舎を経て︑明治三年一〇月からフランスへ留学し︑八年陸軍省七等出仕︑一〇年第二局第五課長︑一二年第二局第一課長となる︒戸山学校長︑陸軍士官学校長をつとめたあと︑日清戦争︑日露戦争に出征した︒四一年︑薩長出身者以外では初の陸軍大将となった︒招魂社︵靖国神社︶の創立につくし︑初代宮司をつとめている 7

  実に錚々たるメンバーが︑﹁内外兵事新聞﹂に論説を投稿したり翻訳を出したりしていたことがわかる︒彼らはいずれも︑軍人としての経験を持つ一方で︑政治︑外交︑教育に力を尽くした︒武士が軍事に従事する一方で︑政治や文化の面でも活動していた︑江戸時代からの連続性がみられる︒本論で扱う明治九年〜一一年︑彼らは何をしていたのだろうか︒曽我祐準は陸軍士官学校長で西南戦争にも出征し︑榎本武揚は明治七年からロシア公使館在勤で︑一一年に

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思想史と軍事史の架橋 ロシアのペテルスブルグから帰国している︒近藤真琴は九年一二月に海軍省翻訳課兼務︑一〇年には内国勧業博覧会審査官をつとめ︑一一年に勲六等単光旭日章を授与されている 8

︒小沢武雄は九年にアメリカへ出張し︑帰国後陸軍省第一局長代理をつとめ︑西南戦争に出征し︑一一年に第三局長︑ついで第一局長になっている︒大久保春野は一〇年に第二局第五課長になっていた︒

  近藤は一八三一年︑榎本は一八三六年︑曽我は一八四三年︑小沢は一八四四年︑大久保は一八四六年生まれで︑近藤と大久保は一五歳離れている︒彼らは二二〜三七歳のとき︑明治維新を迎えたが︑近藤は鳥羽藩士次男︑榎本は西の丸御徒目付次男︑曽我は柳川藩士次男︑小沢は小倉藩士︑大久保は神社祠官の長男で︑それぞれ出自は異なっていた︒彼らは蘭学・洋学を学び︑留学や条約調印・万国博覧会などによる海外派遣︑あるいは実戦を経験した軍人であった︒外国語を駆使して世界を股にかけ︑あるいは日本にいても世界情勢を考えながら︑日本の国力を高めるために︑それぞれが全力を尽くしている︒そして︑このあと八面六臂の活躍をするに至るのである︒

第二節  一八七五年時点の世界の軍事力と日本の軍事力

︵一︶一八七五年時点の世界の軍事力

  ︻表1  一八七五年時点の各国兵力一覧︼は︑﹁内外兵事新聞﹂五号︵明治九年四月一〇日︶﹁外報﹂で報じられた︑一八七五年時点の各国兵力を一覧にしたものである︒これは﹁桑港︵サンフランシ スコ︶ウイクリーボーレチン﹂に掲載された統計数字で︑厳密なものではないが︑当時の傾向を読み取ることはできるだろう︒表は総軍数の多い順で並べた︒欧州の軍兵は総数九三三万三〇〇〇人︑一年間の軍資金は一億三六八〇万四〇〇〇ポンドに達する︒表からフランス︑ドイツ︑ロシアの軍人数と軍資金の額が圧倒的に多いことがわかる︒ロシアはフランス・ドイツと比べると︑総軍数は少ないが一年あたりの軍資金が多い︒興味深いのは︑一八七〇年に普仏戦争で負けたフランスの方が︑ドイツより軍資金が多いことである︒

  この点に関しては︑一八七四年二月二六日︑ドイツ議会におけるモルトケの兵制論│宰相ビスマルクも聴いたという│が︑﹁独逸大元帥モルトケ氏兵制ノ議﹂というタイトルで︑すでに二号︵明治九年三月二〇日︶と三号︵明治九年三月二七日︶に連載されている︒モルトケ︵Helmuth Karl Ferdinand, Graf von Moltke  一八〇〇〜一八九一︶︵甥のモルトケと区別するため︑大モルトケとも呼ばれる︶はプロイセン陸軍参謀総長として︑普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き︑一八七一年に陸軍元帥となった人物である︒

  二号では︑フランスが兵制の大改革を行って全国の徴兵制を定め︑兵役期間を二〇年│ドイツは一二年│としたこと︑兵役を終えた者を非常時に動員する法律を定めたことなどにふれている︒三号では︑フランスの歩卒は三六聯隊増加して一五二聯隊になり︑騎兵隊は新たに一四聯隊︑砲兵隊も一五九隊増えて︑普仏戦争前の八軍団は一八軍団となり︑軍備定額費も増加していると指摘している︒フラン

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スでは国家財政や政党の別にかかわらず︑軍備拡張論が主流で︑一般社会においても報国心が深く︑練兵場や士官の遊会所を設けているとした上で︑ドイツとしては︑常徴兵四〇万一〇〇〇人を維持し︑兵役年限や軍備費を減らすことなく︑このようなフランスの状況に対峙したいと主張している︒普仏戦争で勝利したドイツでさえ︑軍事力をめぐる緊張が存在していたのである︒

  ︵二︶日本の軍事力とその構成   それでは一八七五年の各国兵力と比較して︑日本の軍事力はどれほどだったのだろうか︒陸軍省の年報に掲載された軍人軍属総員数のうち︑明治九年︵一八七六︶六月三〇日と明治一二年六月三〇日時点の統計数字を示したのが︑︻表

2  軍人軍属総員比較表︼である︒﹃陸軍省年報﹄は第一年報︵明治八年七月一日〜九年六月三〇日︶から第一二年報︵明治一九年一月一日

〜一二月三一日︶まで存在するが︑第八年報までは各年の七月一日から翌年六月三〇日︑第九年報は一六年七月一日〜同年一二月三一日︑第

【表1】 1875年時点の各国兵力一覧

国名(漢字)国名(カタカナ) 総軍数 軍資金 内   訳 備 考

仏国 フランス 170万人 2660万ポンド

歩兵152聯隊、(チャースセウル)騎 兵隊36大隊、騎兵77聯隊、砲兵40聯 隊、工兵聯隊、戌兵25大隊、その ほか予備兵・海兵

独乙 ドイツ 170万人 2000万ポンド

歩兵459大隊、騎兵465大隊、野戦砲 兵300小隊、守城砲兵29大隊、工兵 18大隊、戌兵18大隊、そのほか予備 兵・民兵・海兵

騎兵大隊 は 150 騎な いし200騎

魯西亜 ロシア 155万人 2720万ポンド

歩兵188聯隊、施条銃手82大隊、辺 境戌兵48大隊、騎兵56聯隊、砲兵 310小隊、工兵14大隊、そのほか不 定兵・予備兵・海兵

意太利 イタリア 76万人 984万ポンド

英国 イギリス 53万5000人 2480万ポンド 海陸軍・民兵義兵 澳国 オーストリア 53万5000人 1080万ポンド

土耳基 トルコ 30万人 568万ポンド

西班牙 スペイン 27万人 640万ポンド 1870年の規

則による

瑞士 スイス 18万人 36万ポンド

瑞典 スウェーデン 16万人 112万ポンド

和蘭 オランダ 10万人 112万ポンド

葡萄牙 ポルトガル 万3000人 18万ポンド 嗹国 デンマーク 万4000人 36万6000ポンド 希臘 ギリシア 万1000人 36万ポンド 比利時 ベルギー 万3000人 165万200ポンド 出典:「内外兵事新聞」号(明治月10日)「外報」掲載記事。

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思想史と軍事史の架橋 一〇年報からは各年の一月一日〜一二月三一日︑という変則的編集となっている︒これは陸軍省の会計年度にもとづいているためである︒  明治九年は最初の徴兵が満期を迎える時期にあたる︒同年六月三〇日の在職・非職・隊外・上長官と士官の海外留学も含んだ数字として︑軍人軍属総員は三九三一五人︑そのうち軍人は三七三五八人である︒内訳は将官及び相当官二一人︑上長官一四九人︑士官一五八五人︑准士官一〇人︑下士官五〇七三人︑諸卒二八六二〇人︑生徒一八八九人︑海外留学生一一人であった︒軍属は一九五七人である︒  明治一二年六月三〇日になると︑軍人軍属総員は六二八六九人︑そのうち軍人は六一二三三人となっている︒三年間で軍人が二三八七五人も増えているのは︑後備軍│三年間の常備軍兵役後︑第一・第二後備軍を二年間ずつつとめる︒ただし表中の数字は一一年一二月時点のもの︒なお一二年一〇月の改正により︑常備軍三年︑予備軍三年︑後備軍四年の合計一〇年の服役制が定められる│が二〇二九一人含まれていること︑諸卒が三九四五人増えていることによる︒逆に︑下士官以上将官及び相当官までの合計は︑六八三八人から六四七二人へ三六六人減少している 9

  先にあげた︻表1︼とこれらの数字を比較してみよう︒一八七五年の各国兵力は︑最低のベルギーでも四万三〇〇〇人なので︑翌年の明治九年六月時点でも日本はベルギーに達していない︒しかし︑

【表2】 軍人軍属総員比較表(明治9年6月30日と明治12年6月30日)

明治月30日 明治12年月30日 備  考

軍人 将官及び相当官 21 25

上長官 149 204

士官 1585 1438

准士官 10 38

下士官 5073 4767

諸卒 28620 32565

(後備軍) 20291 明治11年12月時点

生徒 1889 1905

海外留学生 11 0

軍人合計 37358 61233

軍属 1957 1636

軍人軍属合計 39315 62869

注)   明治月30日の数字は『陸軍省第一年報』(P39〜P40)、明治12年月30日の数字は『陸軍 省第四年報』(P25〜P28)の「軍人軍属総員」を元にした。「軍人軍属総員」には在職非職・隊外・

上長官と士官の海外留学も含まれている。

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明治一二年六月時点では軍人は六一二三三人なので︑四年の時差はあるが︑ベルギー︑ギリシア︑デンマークよりやや多い所に位置していることになる︒もっとも︑フランスとドイツは一七〇万人︑ロシアは一五五万人なので︑人数だけで比較すれば︑日本の軍事力はフランス・ドイツの三・六%︑ロシアの四%弱にすぎなかった︒

  この数少ない軍事力のうち︑近衛と各鎮台︵東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本︶にどのように配置されていたのか︑その人員構成を次にみる︒兵種別︵歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵︶に示したのが︑︻表3  近衛各鎮台諸隊人員比較表︵明治九年六月三〇日

〜明治一二年六月三〇日︶︼である︒煩雑さを避けるために︑以下明治九年六月三〇日を①︑明治一〇年六月三〇日を②︑明治一一年六月三〇日を③︑明治一二年六月三〇日を④と略称して説明する︒

  明治一〇年二月〜九月の西南戦争の影響は随所にみられる︒まず大阪鎮台︑広島鎮台︑熊本鎮台では①から②の時期にかけて歩兵が減少しており︑東京鎮台・大阪鎮台のみに置かれていた輜重兵は︑明治一〇年六月には熊本鎮台にも置かれている︒次に②と③を比べると︑近衛騎兵︑東京鎮台の砲兵︑名古屋鎮台の歩兵以外は︑すべての鎮台のあらゆる兵種が増加しており︑仙台鎮台・名古屋鎮台・広島鎮台には新たに砲兵がもうけられていることがわかる︒

  また︑③から④にかけてみると︑近衛砲兵が三一一人から二六一人に減少しており︑明治一一年八月二三日に︑二百数十人の近衛砲兵隊兵卒が西南戦争の恩賞遅延を理由に決起した︑竹橋事件の影響 と考えられる︒熊本鎮台が総人員で一割以上の増加をみているのは︑明治一二年三月に内務大書記官松田道之が熊本鎮台二個中隊を率いて首里城を接収し︑四月に琉球藩を廃して沖縄県を置く旨が布告されたことと無関係ではないだろう︒

  以上から︑①と④の時期を比べると︑総計が三五〇三人︵歩兵二四三二人︑騎兵四三人︑砲兵五七三人︑工兵二七五人︑輜重兵一三六人︶増えて︑三三六〇一人から三七一〇四人になり︑中でも砲兵が名古屋以西│名古屋鎮台で九八人︑大阪鎮台で一一〇人︑広島鎮台で九二人︑熊本鎮台で二一〇人│で増強されていることがわかる

︵逆に近衛砲兵は三六人減となっている︶︒

  このように︑日本国内の事情もふまえつつ︑世界の軍事力をみすえながら︑徐々に徴兵制軍隊が形成されていったのである︒

第二章  当時の軍事演習の実態   圧倒的に兵力で劣る日本は︑アジアに食指を伸ばす西欧列強から独立を保持するために︑質の高い軍隊の整備を急務とした︒兵卒を手足のごとく動かせるよう指揮するとは︑具体的にはどのようなことなのだろうか︒本章では︑まず軍隊の基礎をなす歩兵の演習に関する文献を説明し︑実際の演習がどのように行われていたのか︑明治八年〜九年と一一年〜一二年の例をあげる︒

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思想史と軍事史の架橋

【表3】 近衛各鎮台諸隊人員比較表(明治9年6月30日〜明治12年6月30日)

所 管 兵種

統計時点

年間 の増減

備     考 明治

月30日明治10年 月30日明治11年

月30日明治12年 月30日

(略称①)(略称②)(略称③)(略称④)

近 衛

歩兵 3083 2612 3022 3099 騎兵 179 176 174 173 砲兵 297 287 311 261 工兵 184 163 173 176 合計 3743 3238 3680 3709 ‑34

鎮台 東京

歩兵 6168 6435 6674 6781 騎兵 242 229 306 291 砲兵 533 636 587 562 工兵 318 288 306 293

輜重兵 152 148 155 162 輜重小隊は明治月近衛と合併し中隊となる 合計 7413 7736 8028 8079 666

仙台

歩兵 2314 2874 2949 3092

砲兵 57 0 58 103

函館砲隊 58 53 77 82 合計 2371 2927 3084 3277 906

名古屋

歩兵 4285 5118 4532 4462

砲兵 0 59 98

合計 4285 5118 4591 4560 275

大阪

歩兵 6261 5862 5949 6244 砲兵 448 474 576 558 工兵 175 202 277 289

輜重兵 35 37 82 82

合計 6919 6675 6884 7173 254

広島

歩兵 4258 4071 4280 4675

砲兵 0 52 92

合計 4258 4071 4332 4767 509

熊本

歩兵 4155 4136 4178 4603

砲兵 354 303 510 564 長崎砲隊は明治月に解散した 工兵 99 104 264 293 明治月設置

輜重兵 30 51 79

合計 4608 4573 5003 5539 931

総 計

33601 34338 35602 37104 3503 歩兵 30524 31208 31584 32956 2432

騎兵 421 405 480 464 43 騎兵は近衛・東京鎮台のみ 砲兵 1747 1753 2230 2320 573 箱館砲隊含む

工兵 776 757 1020 1051 275 工兵は近衛・東京・大阪・熊本鎮台のみ 輜重兵 187 183 288 323 136 輜重兵は東京・大阪・熊本鎮台のみ

出典 :「近衛鎮台諸隊総員」(明治月30日時点)『陸軍省第一年報』(P49〜P56)、「同」(明治10年月30日時点)『陸 軍省第二年報』(P47〜P54)、「同」(明治11年月30日時点)『陸軍省第三年報』(P24〜P26)、「近衛各鎮台諸隊人員表」

(明治12年月30日時点)は『陸軍省第四年報』(P52〜P54)。

注) 原史料には各鎮台の合計数、並びに兵種別の合計数の記載は無く著者が計算した。

(10)

第一節  ﹃仏国歩兵陣中要務実地演習軌典﹄の導入   歩兵操典は陸軍の歩兵を対象とし︑行軍︑攻撃・防禦による戦闘時の陣形など︑歩兵に必要な技術を図解も入れて解説したものである︒一八七〇年の普仏戦争でフランスは敗北を期したが︑日本は一八七二年〜一八八〇年に第二次フランス軍事顧問団を招聘した︒これにともない︑フランスの歩兵操典の導入も時を移さず行われたようで︑一八七二年式のフランス歩兵操典の一部は︑二年後の一八七四年一一月一二日︑翻訳本﹃歩兵操典  第二版  大隊之部﹄四部が定価三七銭五厘で出版された旨が届けられている 10

︒明治九年︵一八七六︶七月三日には︑同年に出された﹃新式歩兵操典﹄を学生に教えたいという希望が︑戸山学校長の陸軍少将東伏見宮嘉彰から出され︑併行してその翻訳も進められている 11

︒﹃新式歩兵操典  生兵之部﹄が陸軍省から印刷されたのは︑明治一一年一二月のことであった 12

︒﹃新式歩兵操典  生兵之部﹄︵国会図書館所蔵︶は四二〇条から構成され︑教官は的確な内容を明瞭かつ簡潔な言葉で説明し︑自ら手本を示すよう書かれている︒兵卒は立つ姿勢からはじまって︑銃の構え方から地形の認識に至るまで︑兵卒として必要な知識を学び︑命令に従って動けるように訓練されるのである︒

  そして実地での訓練が実地演習で︑これは﹃仏国歩兵陣中要務実地演習軌典﹄にもとづいて行われた︒明治九年︵一八七六︶九月〜一〇月に内外兵事新聞局から刊行された︑酒井忠恕訳﹃仏国歩兵陣中要務実地演習軌典﹄三巻︵国会図書館所蔵︶には︑第一章で紹介 した陸軍少将曽我祐準が序文を寄せている︒酒井の附言によれば︑原書は一八七五年にフランス政府が刊行した﹃歩兵陣中要務ノ新式﹄で︑酒井は偶然これを読み︑五月〜八月に翻訳したという︒

  原書は﹁Instruction pratique sur le service de l’infranterie en campagne ﹂で︑四部作︵総則︑歩兵︑騎兵︑砲兵︶のうちの歩兵篇にあたる︒酒井忠恕は外国奉行︑堺奉行︑田安家家老などをつとめた鳥居越前守忠善の養子で︑文久三年︵一八六三︶に一四歳で開成所の優秀生徒に選ばれ︑慶応元年に横浜語学所でフランス語を学び︑フランス公使館秘書として通訳の仕事をした︒明治二年に兵部省に出仕し︑六年︑陸軍卿山県有朋の伝令使︵陸軍大臣秘書官のような役職︶をつとめたあと︑官房御用と兵学寮御用を兼務︑参謀本部文庫課長︑翻訳課長となり︑一三年に酒井清と改名︑二二年に病気で陸軍省を退職している 13

  原書は諸隊に統一した教習が必要であるという緊急性にかんがみて書かれたものである︒歩兵戦法の進歩が著しく︑兵卒・伍長・軍曹であっても︑将校と同じく戦闘中に遭遇するさまざまな事柄に対して指揮する方法を知っておくべきであり︑実地演習の目的もそこにあるとしている︒前哨勤務︑行軍勤務︑偵察勤務︑舎営と露営︑輸送隊と小方策が解説されている︒①演習を容易にするため︑まず

﹁半隊﹂│セクション︒明治一四年版では訳語が小隊に変更│単位で練習し︑その後︑大隊や中隊レベルで演習すること︑②敵を仮定するには︑その方向と位置を想像するだけの﹁想像敵﹂︑少数の兵

(11)

思想史と軍事史の架橋 を仮設する﹁仮設敵﹂︑相互に兵隊を実際に設ける﹁実設敵﹂があるが︑なるべく﹁設敵﹂で陣中勤務の教習を行うこと︑③相互の位置や目的を明確にし︑前もって決めた方法に従い演習すること︑④地形の識別︑距離の測定︑方位などを知る能力を高め︑地形に応じた訓練に対処すること︑⑤兵種混合の教習も行えれば望ましいこと︑などが書かれている︒

第二節  明治八年度と明治一一年度の      野営演習・射的演習・長途行軍の比較   この種のテキストにもとづいて︑実際に行われた行軍︑実地演習の実態はどのようなものだったのだろうか︒次に陸軍省の年報から考察してみよう︒

  ﹃陸軍省第一年報﹄︵明治八年七月一日〜明治九年六月三〇日︶をもとに作成したのが︑︻表4  明治八年七月〜明治九年六月実施の野営演習・射的演習・長途行軍一覧︼である︒表からわかるように︑砲兵は射的演習︑それ以外の歩兵・騎兵・工兵は野営演習・実地演習を行い︑一部の砲兵・歩兵が長途行軍を実施している︒

  近衛︑東京鎮台︑陸軍士官学校︑戸山学校︑教導団の野営演習は千葉県下下総国千葉郡習志野原︑砲兵の射的演習は同じく千葉県下下総国印旛郡下志津原と決まっていたようで︑四週間から五週間︑行っている︒それに対して名古屋・大阪・熊本鎮台は︑歩兵による野営演習を実施したにとどまっている︒大阪鎮台歩兵第九聯隊第二 大隊の二七日間を除けば︑いずれも六日間〜一三日間と短い︒

  長途行軍を実施しているのは︑近衛と東京鎮台だけで︑明治九年六月一四日から始まった近衛歩兵第二聯隊中一大隊の長途行軍は︑一二〇里余り│一里=約三・九キロメートルで換算すると四六八キロメートル│に達する︒

  近衛と東京鎮台の諸隊は︑明治八年一一月一九日に天覧名代有栖川宮熾仁親王の出場を得て︑三兵対抗運動を実施している 14

︒五週間にわたる野営演習の成果をみせるもので︑甲乙両軍に分かれて行う模擬戦を︑午後一時半から二時間ほど実施した︒九年五月三〇日に行われた対抗運動もまた︑五月一日からの野営演習・射的演習の成果発表で︑やはり有栖川宮が出場している︒

  以上から︑この時期は近衛と東京鎮台が軍事演習の中心であったと考えられる︒

  次に﹃陸軍省第四年報﹄︵明治一一年七月一日〜明治一二年六月三〇日︶をもとに作成した︻表5  明治一一年七月〜明治一二年六月実施の野営演習・射的演習・長途行軍一覧︼を検討する︒野営演習は︑撤兵︑行進︑対抗運動︑砲台築造︑偵察︑哨兵︑野営内務︑風紀衛兵︑暗号布達など︑屯営では学習が難しい事柄を実地で行っており︑近衛と各鎮台は︑前節で紹介した﹃仏国歩兵陣中要務実地演習軌典﹄や﹃新式歩兵操典﹄などを参考にしている︒前者については︑明治一二年二月二〇日に東京鎮台が参謀本部総務課にあてて︑歩兵隊の野営・行軍演習などに必要な書籍なので︑一中隊に一部ず

(12)

【表4】 明治8年7月〜明治9年6月実施の野営演習・射的演習・長途行軍一覧

所 管 隊   数 演習の種類 場   所 里程(里=

3.9kmで計算) 日  数

近衛

騎兵第大隊、工兵第小隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治年10月14日よ

週間

砲兵第大隊 長途行軍 足柄県下相模国足柄下郡箱根 明治年11月14日よ

歩兵第聯隊第大隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治日よ

週間 砲兵第大隊 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治日よ

週間 歩兵第聯隊 実地演習 東京府下第第区小区池上本

門寺 明治年11月17日か

ら11月19日 歩兵第聯隊中大隊 長途行軍 甲州街道から中山道諏訪駅 120里余

(約468km) 明治月14日出

東京鎮台

歩兵第聯隊第大隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治年10月13日よ

週間 騎兵第大隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治年10月14日よ

週間

工兵大隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治年10月14日よ

週間 輜重兵第小隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治年10月12日よ

週間 砲兵第大隊、予備砲兵第大隊 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治年10月15日よ

週間

東京府下屯在の各隊 実地行軍・

露営演習

神奈川県下武蔵国多摩郡府中 駅近傍と大和田河原にて実地 抗敵運動

明治日出

東京府下屯在の砲兵 長途行軍 上に参加後、山梨県下甲州都

留郡猿橋 明治日出

歩兵大隊(第聯隊の中隊、

聯隊の中隊) 長途行軍 甲信両州、群馬県下上州高崎

碓氷河原 明治月18日出

歩兵第聯隊第大隊 野営演習 屯営(高崎)近傍 上の高崎での演習に 合同

東京鎮台宇

都宮営所 歩兵大隊 野営演習 屯営近傍 明治年11月中

東京鎮台高

崎営所 歩兵大隊 野営演習 屯営近傍 明治年11月中

名古屋鎮台 歩兵第聯隊第大隊 野営演習 岐阜県下美濃国各務郡各務野 明治年11月中

大阪鎮台

歩兵第聯隊第大隊 野営演習 滋賀県下近江国蒲生郡長谷野 明治月中13日

歩兵第聯隊第大隊 野営演習 飾磨県下播磨国美囊郡三木 明治月中10日

歩兵第聯隊第大隊 野営演習 飾磨県下播磨国栗木郡金勝寺

明治月中

歩兵第聯隊第大隊 野営演習 飾磨県下播磨国栗木郡金勝寺

明治月中より

月中まで27日間

熊本鎮台

歩兵第13聯隊第大隊 野営演習 三潴県下筑後国御原郡小郡野 明治月中13日

歩兵第14聯隊第大隊 野営演習 佐賀県下肥前国基肆郡田代駅 明治月中12日

(13)

思想史と軍事史の架橋

士官学校・

戸山学校 生徒小隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治年10月15日よ

週間 士官学校 砲兵生徒小隊 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治年10月15日よ

週間

戸山学校 学生 戦地行軍演

陸羽街道千住駅、宇都宮、日 光、館林、行田、中山道鴻巣、

板橋

明治日出

教導団

歩兵第大隊、騎兵第

隊、工兵第大隊 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治年10月14日よ

週間 砲兵第大隊 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治年10月14日よ

週間 砲兵第大隊 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治日よ

週間 出典:『陸軍省第一年報』(明治日〜明治月30日)P71〜P81。

【表5】 明治11年7月〜明治12年6月実施の野営演習・射的演習・長途行軍一覧

所 管 隊   数 演習の種類 場   所 里程(里=

3.9kmで計算) 日  数

近衛

歩兵第聯隊、工兵中隊、騎兵中

野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治12年月下旬か

週間 砲兵大隊中隊 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治12年月初旬よ

週間

東京鎮台

歩兵第聯隊第大隊 長途行軍 高崎より三国街道、長岡、高

田、信州、碓氷峠 106里余り

(約413.4km)明治11年11月上旬よ 週間

歩兵第聯隊第大隊 長途行軍 新発田より水原、長岡、高田、

新潟 78里余り

(約304.2km)明治11年11月上旬よ 週間

歩兵第聯隊第大隊 長途行軍 佐倉より茨城街道、滑川、玉 造、水戸、笠間、宇都宮、結 城、関宿

72里余り

(約280.8km)明治12年月初旬よ 週間

歩兵第聯隊第大隊 長途行軍 宇都宮より奥州街道、白川、

茨城街道、水戸、筑波 69里余り

(約269.1km)明治12年月中旬よ 週間

歩兵第聯隊第大隊 長途行軍 佐倉より佐原、銚子、東金、

千葉 41里余り

(約159.9km)明治12年月下旬よ 週間

歩兵聯隊と第後備軍 野営演習

千葉県下下総国千葉郡習志野 原及び群馬県下上野国群馬郡 山子田新井広馬場のか村と 新潟県下越後国蒲原郡新発田 近傍

明治12年月中旬よ 週間

予備砲兵第大隊 長途行軍 川崎より横浜、関村、金沢、

鎌倉、山ノ内、日野村 36里余り

(約140.4km)明治12年月初旬よ 週間

仙台鎮台

歩兵第聯隊、第後備軍若干名 野営演習 青森県下陸奥国津軽郡原ケ平

明治11年月下旬よ

週間

歩兵第聯隊、第後備軍若干名 野営演習 福島県下岩代国行方郡原ノ町 明治11年11月中旬よ 週間

歩兵第聯隊第大隊、砲兵

大隊第中隊 長途行軍 宮城より作並、野尻澤近傍 34里余り

(約132.6km)明治11年月中旬よ 週間

名古屋鎮台歩兵第聯隊(大隊)、歩兵第 聯隊(大隊)、砲兵第大隊

中隊 野営演習 岐阜県下美濃国各務郡各務ケ 原と愛知県下尾張国春日井郡 小幡ケ原

明治11年11月初旬よ 週間

(14)

つ︑合計三六部の貸借を申し込んでいる 15

︒﹃陸軍省第一年報﹄︵明治八年七月一日〜明治九年六月三〇日︶の第六﹁諸兵隊解編並ニ軍紀風紀﹂には︑六鎮台の景況報告が掲載されているが︑仙台鎮台からは以下のような報告│仙台鎮台管轄の兵営は︑他の鎮台と比べて天候条件に恵まれていないため︑年間二〇〇日しか操練が行えない︒野営演習で訓練するとはいえ︑一回や二回の演習で熟達するわけではなく︑対敵の際に哨兵・番兵・斥候・捜索など︑陣中諸般の勤務を心得ておく必要がある︒そこで︑雨の日は﹁陣中軌典﹂や﹁仏国実地演習軌典﹂などを各中隊に配布し︑営内で勉強させたい│が提出されており︑中隊レベルでの座学はすでにあったと言える

  ︻表4︼と対照させてみると︑

︻表5︼からは新たな傾向がいく

大阪鎮台

歩兵第聯隊(大隊)、歩兵第 10聯隊(大隊)、第後備軍若 干名、砲兵第大隊(中隊)、

予備砲兵第大隊(中隊)、工 兵第大隊(中隊)、輜重兵第 小隊、鍬兵若干名

野営演習 兵庫県下播磨国美囊郡三木 明治12年月下旬 日間

砲兵第大隊、予備砲兵第大隊 射的演習 堺県下和泉国泉郡信太山 明治12年月若干日

広島鎮台

歩兵第11聯隊、第後備軍若干名

野営演習 広島県下安芸国加茂郡志和村

八丈原 明治12年月初旬よ

週間 実地行軍 広島県下安芸国安芸郡温品段

原吉田街道 明治12年月初旬よ

週間 歩兵第11聯隊第大隊 長途行軍 備後尾道、福山、三次 66里余り

(約257.4km)明治11年12月初旬よ 週間

歩兵第11聯隊第大隊 長途行軍 周防岩国、室積、下松、徳山 52里余り(約202.8km)明治11年12月初旬よ 週間

歩兵第11聯隊第大隊(中隊)長途行軍 萩、須佐、石州益田、津和野 46里余り(約179.4km)明治11年12月初旬よ 週間

歩兵第11聯隊第大隊(中隊)長途行軍 萩、西市、下関、宮市 51里余り

(約198.9km)明治11年12月初旬よ 週間

熊本鎮台 歩兵第13聯隊(大隊)、歩兵第 14聯隊(大隊)、砲兵第大隊

中隊)、工兵第大隊中隊)野営演習 大分県下豊後国日田郡豆田町 明治11年月中旬よ 週間

士官学校 生徒大隊

野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治11年10月初旬よ

週間 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治11年10月初旬よ

週間

戸山学校 学生人員約300名

野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治12年月中旬よ

週間 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治12年月中旬よ

週間 長途行軍 千葉県下佐倉・成田・利根川、

茨城県下鹿島・土浦・水戸 明治12年月中旬よ 週間

教導団

砲兵大隊中隊 射的演習 千葉県下下総国印旛郡下志津

明治12年月中旬よ

週間

工兵中隊 野営演習 千葉県下下総国東葛飾郡鴻ノ

台近傍 明治12年月初旬よ

週間 歩兵大隊(中隊) 野営演習 千葉県下下総国千葉郡習志野

明治12年月下旬よ

週間 出典:『陸軍省第四年報』(明治11年日〜明治12年月30日)P79〜P84。

(15)

思想史と軍事史の架橋 つか読み取れる︒

  第一に︑複数の兵種で合同の野営演習を行っていることである︒熊本鎮台では歩兵・砲兵・工兵が︑大阪鎮台では歩兵・砲兵・工兵・輜重兵・鍬兵・予備砲兵が︑合同の野営演習を実施している︒大阪鎮台の演習には対抗運動が含まれていたが︑その内容は三年前の近衛の対抗運動と比べると︑時間も長くレベルも上がっていた︒全軍を甲乙に分け︑両者の兵力を不均衡│甲軍は歩兵四大隊︑山砲一中隊︑工兵二小隊︑輜重兵三分隊に対して︑乙軍は歩兵三大隊︑山砲一中隊︑工兵二小隊︑輜重兵一分隊│に設定する︒一日目は第一期が一時間三〇分︑休戦三〇分︑第二期が一時間︑休戦一時間︑第三期が二時間である︒二日目は第一期が二時間︑第二期が二時間︑第三期は工兵の演習︑第四期が二時間の演習である︒両軍は必死に戦い︑最後は明石城内に入って整列し︑棒銃・敬礼して長官の検閲を受け︑各隊が営舎に帰る︒紙幅の関係上︑ここでは詳細に紹介することはできないが︑各隊の動きは事前に非常に細かく決められており︑その作戦通りに動くことが要求された︒

  第二に︑長途行軍が増えたことが目立つ︒東京鎮台では︑歩兵第二聯隊は佐倉・宇都宮の両屯営︑第三聯隊は新発田・高崎の両屯営から出発する︒最も長距離だったのは︑明治一一年一一月上旬から四週間にわたって行われた︑歩兵第三聯隊第一第三大隊の長途行軍で︑高崎から長岡︑高田︑信州︑碓氷峠と一〇六里余り︑四一三・四キロメートルを行軍している︒歩兵第二聯隊は第三・第二・第一 大隊の順に︑明治一二年二月の初旬︑中旬︑下旬から二週間の長途行軍を実施しており︑距離も七二里︑六九里︑四一里と大隊の経験に対応させている︒予備砲兵も三六里余りを一週間で行軍している︒仙台鎮台では歩兵と砲兵が三四里余りを一週間で行軍しているし︑広島鎮台でも歩兵第一一聯隊の第一・第二・第三大隊がそれぞれ︑明治一一年一二月初旬から二週間︑行き先も距離も別々で長途行軍を行っている︒

  第三に︑後備軍と合同の演習がみられるようになったことも興味深い︒先にあげた大阪鎮台の合同野営演習には第一後備軍若干名が含まれていたし︑東京鎮台︑仙台鎮台︑広島鎮台でも歩兵と第一後備軍若干名で二週間ないし三週間の野営演習を行っている︒

  第四に明治一一年には陸軍士官学校の演習を︑天覧名代として有栖川宮がみていることがあげられる︒明治一一年九月二一日朝七時半︑有栖川宮が千葉県習志野原に臨場し︑八時から歩兵対抗運動︑騎兵中隊の撤兵︑襲撃︑徒歩戦闘︑飛越︑露営︑歩兵の演習︑陣地攻撃を見学した︒午前一一時に将校と教師による拝謁後︑一二時に有栖川宮は同県下志津原へ移動し︑午後二時に到着︑祝砲のあと工兵による坑道掘削や点火法の講説︑坑道爆破︑地雷爆破︑野戦砲射︑攻城砲射︑夜間砲射などをみた︒休憩︑将校拝謁後︑有栖川宮は午後九時に出発して大和田駅で一泊し︑事務長や生徒に酒肴料を下賜している︒

  なお︑有栖川宮は来なかったが︑一〇月には陸軍士官学校生徒だ

(16)

けで︑千葉県下志津原にて射的演習を実施している︒一一年一〇月の射的演習では︑明治七年陸軍刊行の歩兵射的教程にかわり︑一八七七年二月にフランスで改正された最新版のフランス歩兵射的教程を導入していることが︑﹃陸軍省第四年報﹄からわかる︒士官養成学校として︑世界レベルに追いつこうとする当時の意気込みが感じられる︒

第三章  将官が求められた

率先の徳行

第一節  将官のエトスに関する意見

  前節の考察より︑徴兵された一般市民がわずか三年間で︑上官からの命令に従い︑非常に複雑な動きができるようにならなければならないことがわかった︒しかし︑将官は単に上官として部下に命令を下すわけではない︒軍隊は階級社会であり︑上下関係は明確であったが︑戦争で兵卒を率いるためには従命法の権威だけでは不十分だった︒死地に赴く軍事行動において逃亡の可能性は極めて高いため︑死への恐怖を抑え︑いざという時に将官の命令に従う精神を︑平時から養う必要があったのである︒

  この点を考えるにあたり︑浅井道博が﹁内外兵事新聞﹂一一号︵明治九年五月二二日︶﹁論説﹂欄に書いた﹁陸軍士官心得﹂は︑ひとつの参考になろう︒浅井は西周と接点があった人物である 16

  浅井道博︵一八四三〜一八八五︶は元治元年︵一八六四︶より幕 府開成所取締役︑慶応三年砲兵差図役となり︑維新後︑沼津兵学校二等教授方として測量や数学を教えた 17

︒西周は明治元年一二月から沼津兵学校の頭取をつとめているので︑西より一五歳若い浅井は︑西のもとで働く教官の一人だったことになる︒西は明治三年九月︑兵部省小丞准席︵翻訳局勤務︶と学制取調御用掛兼務となったが︑浅井は四年に同兵学校が政府に移管されたあとも残った︒

  その後︑二人は再び出会うことになる︒西は明治六年に陸軍省第一局第六課︵翻訳︑通弁︶課長となり︑さらに七年二月には第六局︵﹁測量地図︑絵画彫刻︑兵史並兵家政誌蒐輯﹂で参謀局に変わる︶兼務︑同年五月に兵語辞書編輯校正掛︑六月に参謀局第三課︵欧亜兵制課︶課長兼務︑八年三月には兵語辞書編輯校正掛から兵語辞書編輯御用掛兼務となっている︒一方︑浅井は明治七年七月から八年三月まで兵語辞書編輯御用掛の任にあった 18

︒つまり︑西と浅井はともに兵語辞書編輯にたずさわり︑浅井が辞めた編輯御用掛のあとを継いだのが西だったのである︵西はその後も辞書編纂を続け︑明治一四年三月に﹃五国対照兵語字書﹄が参謀本部から刊行される︶︒

  明治一〇年一月に︑西は参謀局第三課長と第一局第五課長を兼務していたが︑その頃︑浅井は第二局長代理だった︒西南戦争中は教導団長心得︑新撰旅団司令長官代理をつとめ︑一一年には第二局長代理に戻っている︒西が﹁兵家徳行﹂を講演したのはちょうどこの頃︵一一年二月〜五月︶だった︒さらに︑同年九月から西が﹁兵賦論﹂の講演を始めたとき︑第一章で紹介した大久保春野が提出して

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