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文 虚偽の社会的価値と源泉問題

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(1)

母必

自冊

虚偽の社会的価値と源泉問題 文

i

小林茂教授の著書﹃農業経済学基礎理論﹄に寄せて││

井 上 周

/ に

はじめに問題の所在と戦後の﹁流通関一と一生崖説﹂

差額地代論争上の究極の問題点

1

1

生産

説﹂

1

﹁強められた労働説﹂の限界││

はじめに

地代論が農業経済芋に占める位置と意義については︑ここでは改めて取り上げることはしない︒ただ次のこと︑す

虚偽の社会的価値と源泉問題

(2)

虚偽

の社

会的

価値

と源

泉問

なわち本来の孟味での地代論が近代経済学には存在せずーーーというのは︑﹁地代﹂とは﹁価値﹂

であ

り︑

剰余伺値の

一形

態で

あり

そして近代経済学には本来の価値論は存在しないからである

I1

iマルクス経済学においてのみ存在︑

すること︑この地代請は﹃資本論﹄の最終部分を構成し︑かつ経済学の最頂点を占めており︑それがまと同時に農業

経済学の出発点をなしていること︑地代論はまたマルクスの価値論11lぞれは﹃資本論﹄の全巻を貫徹して展開され

ている

l

のテスト・ストーンとしての役割を果たすものであること︑そして︑同じマルクス経済学陣営の内部にお

いて

も︑

マルグスの地代論理解にあたって多くの論争があったし︑現在も進行中であることなどは︑地代論に関心の

ある人たちのよく知るところであろうQ

さて︑小林茂教授の近著﹃農業経済学基礎理論﹄(成文堂︑昭和四九年六月︑コ三六ページ)も地代論論争に各所でふ

れているが︑この著書は前篇﹁農業経済学の体系﹂後篇

寸風

辰業

経済

学基

礎理

論﹂

とからなっており︑後篇の

E

つ地代理論と農産物師格形成の理論﹂となっている︒そして︑この

E

F

で﹁虚偽の社会的価値と源泉の問題﹂が取

り上げられており︑伯説の紹介と批判ならびに教授自身の所説が一不されているωそこで教授の著書によせて︑との機

会にいま一度﹁虚偽の社会的価値﹂についての諸説を検討し︑かっ﹁私見﹂をのべてみたい︒

とい

うの

は︑

﹁﹄

虚偽

社会的価値﹂については︑私も一つの解釈を旧若﹃地代の理論﹄(理論社︑昭和二一八年二月)や﹃農業経済学の基礎理

論﹄(東明社︑昭和四二年二月)および本誌既載の詩論稿などで発表してきたが︑しかし私は︑自説が地代論専攻の諾先

(1

学によって私がのべたつもりのようには受け取られていない︑と考えているからである︒そうしたなかで︑小林教授

も﹁私見﹂にふれられ︑かつ疑問も捷芯しておられるので︑氏の著書を学ばせていただいた機会に︑極めて重要かっ

困難な課題である﹁虚偽の社会的価値﹂の本質・源泉の問題を︑教授の御労作に即して再考したいのである︒

(3)

( 1 )

たとえば本誌前々号の拙論﹁差額地代の価値的基礎﹂でふれたように︑久留島陽三教授は︑﹁井上周八氏の﹃資本的条件

ー平均原理︑土地的条件U限界原理説﹄﹂として拙論へ言及して下さったのであったが︑しかし﹁最劣等地の個別的価値が市

場価値を規制するのは価値法則と矛盾するもの﹂ではなく︑まさに価値法則が貫徹していることを一不すものであり︑マルクス

の﹁鹿偽の社会的価値﹂に関する問題提起の前提が﹁資本的条件

1

平均原理︑土地的条件

1

限界原理﹂ということだったので

あるから︑これは井上が差額地代論争の解釈にあたってとくに強調した論点ではなく︑マルクスの差額地代論そのものの︑そ

もそもの前提だった

1

1ーという点を前面に打ち出したという意味での強調であったが

li

のである︒この点小林教授の場合

は︑私えを﹁生産説﹂H強められた労働説とされている︒しかしこの要約も︑従来の山田盛太郎氏の﹁生産説﹂の解釈であっ

て︑私見ではない︒井上の解釈を一言でいえば﹁虚偽の社会的価値﹂は﹁市場価値法則の貫徹による農業独自の超過利潤説﹂

である︒そしてこの説にあっては︑市場価値をどのように把握しなければならないかが﹁虚偽の社会的価値﹂の本質解明の鎚

とな

るの

であ

る︒

なお︑ここで︑とくに指摘して置かなくてはならないのは︑この﹁虚偽の社会的価値Lという場合のS‑W(社会的価値)

の真の意味が何であるか︑ということである0マルクスが虚偽の﹁社会的価値﹂とのべている場合の﹁社会的価値﹂は︑﹃資

本論﹄の他の箇所で使用されてきた﹁社会的価値﹂とは同一の範鳴ではない︒にもかかわらず両者を同一範穏と誤解し︑この

誤解を前提として︑差額地代論争がなされてきたことは︑全く驚くべきことであって︑私はこの点を︑以前から次のように指

摘してきたのである︒念のため︑この点の私見を引用すれば次の如くである︒

﹁マルクスが﹃める虚偽の社会的価値﹄と述べているのは﹃資本論﹄中ただ一箇所であり︑しかも通常かれが個別的価値

に対比して社会的価値という場合岡町田巾

] ‑ n E E R

吋巧叩立としているにもかかわらず︑虚偽の社会的価値の場合には

Z

g N U H 2

者四三としている︒::綿谷組夫氏はこの点を価値概念の﹃市場価値

1

社会

的価

値四

冊目

︒ロ

R E

E

口百

円巧

叩ユ

と﹁

会的

何値

g N

日叩門巧叩円けとへの自己分裂﹄(﹁資本主義成立における農民層分解の古典的意義﹂﹃農業総合研究﹄八巻四号︑

E

昭和

二九

年一

O

月︑七七ページ)とのべていた︒氏の価値概念の自己分裂説は問題であろうが︑同じく社会的価値と訳されな

がら︑虚偽の社会的価値という場合にのみ

g N E

という語が用いられるのは何故かという点︑および宮町口宮吋は巧四三に

かかるのではなく凹ON

山 由

‑ 2

﹃ミ門という一言葉にかかっている点には︑特に重要な意義を見出さなくてはならない︒というの

4

は︑ことにも農産物の価値は

m G N U

‑ R

巧叩止としてみるときは

p z n v

であるが︑しかし価値としては

4 4 R γ

日間

g

a u

与え呂i

虚偽の社会的価値と源泉問題

(4)

虚偽の社会的価値と源泉問題

ny

巾 門戸 司

叩 片付

H Z 3 E

J

叩吋

円で

ある

とい

7マルクスの理解が示されているからである︒

なお

宮田

刊日

目的

門町

田吉

山口

F 2

巧叩立と印CNM丘四円巧叩ユを邦訳では﹃社会的価値﹄と訳して︑原語が異なっている点にふれてい

ないのであるが︑英訳と仏訳も邦訳の場合と同様に問︒円目白

‑4

E

O

および4

丘四

巳門

的︒

門戸

田ぽ

とし

て訳

語上

の区

別は

ない

︒ま

中国語訳も﹃社会価値﹄となっている︒しかしロシヤ語訳では

o a E 2

吋切

巾呂

認出

口吋

Q国民O

口 民 主 円

OH

向 田

g v

g

口叶

O出 雲

0 2 r

と区別して訳されている︒同一訳語を使︑7場合は原語が異なる点を注記すべき一であろう︒﹂岳地代の理論﹄一八四│五ペー

ジ)右の指摘のもつ意味が︑どのように大切なものであるかは︑次のことを考えてみても容易に理解がつこう︒すなわち︑もし

マルクスが﹁虚偽の社会的価値﹂の場合の﹁社会的価値﹂を﹁価値

1

社会的価値目市場価値Lの場合の﹁社会的価値﹂として

いるなら︑六

00

シリングは虚偽の市場価値である︑となってしまうのである︒だが︑マルクスばそうではなく真実の価値広

場価値として︑農産物の六

00

シリングを規定しているのであり︑三六

0

シリングについては工業の超過利溺と本質上全く同

一性

質の

もの

であ

る︑

と後

述の

よう

に確

一一

一一

目し

てい

るの

であ

る︒

この点は本稿の結びで再論したい︒

問題の所在と戦後の﹁流通説﹂と﹁生産説﹂

問題の所在については︑あらためて指摘するまでもなく有名なところである︒しかし︑問題の所在を全く省略する ことも行論上不便なので︑小林教授の著書によって以下示しておこう︒

﹁マルクスは資本論の差額地代第一形態を解明する章で︑差額地代に転化する超過利潤を﹃虚偽の社会的価値﹄であると述

てその﹃虚偽の社会的価値﹄の意味については何らの説明をほどこさなかった︒このことが︑その言葉の解釈をめぐって論

争を引き起こし︑地代に転化する超過利潤の源泉は農業部門内部にあるのか農外部門にあるのかといういわゆる﹃源泉問題﹄

の論議を引きおこしいまだに定説をみないのが現状である︒

そこでまずマルクス自身はこの虚偽の社会的価値の発生をどのように説明νているかを検討すろことから︑この問題の論評

(5)

地 代

ク ォ ー タi│シリン夕、

60  120  1  2  マルクスの表一

土地種類 利 潤 │

ク ォ ー タ

I

シ リ ン グ 投 下 額 ク ォ ー タ

I

シリング│ 

A  1  60 

B  2  120  50 

P / ι  

70 

C  3  180  50  21/6  130 

D  4  240  50  31/6  190 

第11表

虚偽の社会的価値と源泉問題

180  3 

l I   1 

青木文庫(12)918頁

600 

1

マルクス「資本論」邦訳 計

メ 』 3

を始めよう︒つぎに掲げる第口表は︑﹃資本論﹄第三部第六篇第三九章﹁差額地代

の第一形態﹂に掲載された表一そのものである︒ここでは最劣等地Aおよび優等地B

C‑Dの同一面積の各土地にそれぞれ印シリングの資本が投下され︑それぞれ

小麦を1︑2︑3︑4クオーダーずつ収穫している︒いま資本の平均利潤率が却が初

であり︑小麦の市場価格は最劣等地Aにおける個別的需産価格で規定されるとすれ

ば︑小麦の市場価格は1クオーダー当たり印シリングとなる︒したがって︑各等級

地の生産物(小麦)の売上げ価格は︑最劣等地Aから順にそれぞれ問︑問︑問︑加

シリングとなり︑総計側シリングとなる︒しかし︑各土地に投下された資本はすべ

て同等の印シリングであり︑平均利潤率は却

M m なのであるから︑現実的な生産価格

はクオーダー当たり

μ

シリングであり︑総合計で加シリングにすぎない︒この計算

はつぎの表の通りである︒

ロ の ヒ ロ 〉

同比

可斗

lu

11

mo

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︑斗 ーは 可 1

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山 ︑ 品冷 斗ー は可

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H由︒マ亡て︑

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山¥ 唱父

呂︑斗l︑!日程ロマヨ

υ ¥ u y o H

ω回︑斗l︑11EV4

だから却シリングという現実的生産価格しかもっていない小麦が実際には側シリ

ングで販売されているわけでありその差額の抑シリングは︑差額地代に転化する

超過利潤の内容をなすものである︒これは︑自然的豊一健闘度を異にする土地に資本が

投下されて競争が行なわれた結果であり︑資本制的生産様式の基礎の上での競争を

媒介として貫徹された市場価値規定にもとづくものである︒ここでマルクスば﹃こ

〔注〉

(6)

虚偽の社会的価値と源泉問題

ノ、

の規定は︑ある虚偽の社会的価値を生みだす︒この虚偽の社会的価値は︑土地生産物を支配する市場価値の法則から発生す

る﹄(﹃資本論﹄邦訳青木文庫倒九三

0 1

九三一頁﹀と述べている︒

平均原理の適用する非農業部門の世界では個別的価値の総和は社会的価値の総和に︑したがって市場価値さらには市場価格

の絵和に等しかった︒一般的平和利潤率の形成後も全部門合計でみれば︑やはり個別的価値の総如と市場価格の総和は等しか

った︒これが価値通りに売られろという関係の唯一の表現であると考えられていた︒したがって上記の表に示されたよう

に︑差額地代の場合︑個別的価値の総和が制シリングの小麦が総計制シリングの価格で売られるわけであるから︑却町均一局す︐さ

ることになる︒この差額をマルクスが﹃虚偽の社会的価値﹄であると呼んだのであるから︑それは﹃価値なき価格﹄を意味す

ることになるのかという疑問が提起されて当然である︒この疑問から端を発して︑論議は差額地代源泉論争にまで発展し︑い

まだに泥試合の様相を呈しながら継続している︒﹂

Q

農業経済学基礎理論﹄三

C

i

三ペ

ージ

﹀ ところで小林教授も右の箇所で﹁個別的価値の総和と市場価格の総和は等しかった﹂とのべており︑

マルクスもま た﹁市場価格がクォ

IタI

あたり六

C

シリングという

A

の生産価格によって規定されている﹂とのべている︒さらに マルクスは同じ問題の箇所で︑六

C0

シリングを﹁総生産価格﹂とも表現している︒他方マルクスは︑この六

OO

シ リングを﹁市場価値による規定﹂﹁土地生産物を支配する市場価値による

L

ものである︑としている

G

だから︑

グォ

lタl

の小麦が﹁六

00

シリングで販売される﹂とマルクスがのべていることは︑市場価値(市場生産価格)通り

で一

O

クォ

i

l

の小麦が販売されるということを意味しているのであって︑六

00

シリングの市場価値ではなく二

0

シリングの価値しかない小麦が六

C0

シリングの市場価格で価値以上に売られるということではない︒

次に小林教授が差額地主‑事を﹁泥試合﹂と表現している点であるが︑しかし‑泥試合﹂ということばは何かこの 論争が不生産的な無駄な論争といった印象を与えかねない││そして﹁﹄虚偽の社会的価値しの本質を解明するととの 意義を認めることのできない人には︑無駄な諸争とみえることも事実なのだーーが︑実はまえにもふれたマルクス価

(7)

値論理解の試金石として︑﹁差額地代論争﹂の意義は極めて重要であり︑

だからこそ︑

小林教授御白身もこの問題を 取り上げておられるわけであり︑論争のもつ意義は大きいのだが︑

にもかかわらず︑この論争が﹁泥試合﹂的な混迷 した都分を含む論争であったことも事実であった︒その理由の最大の原因は︑個別的価値の裏付けのない三六

0

シリ

ングの部分がマルクスの考えているように価値日市場価値であるといえるなら︑なぜぞういえるのかという点の積極 的解明の前段階で︑論争が足ぶみしていたからである︒

この論争J問題への解答には︑﹁流通説しと﹁生産説﹂とよばれる二つの主要な見解があったら

と の 二 説 に つ い て は︑これまでしばしば紹介がなされており︑私自身も﹁社会全体の剰余価値の一部説﹂を加えて一二つの解釈として既 発表の論稿で取り上げてきたので︑ここでは︑その説明は省略し︑

ただ小林教授が戦後の論者として論及された先学 の所説にのみふれてみよう︒教授は︑戦後においてつ流通説﹂を継承し展開させた最初の人として酪王夫教授を取り

上げ︑次のようにいわれる︒

﹁硲教授は︑﹃当面の課題である地代論は︑いわば全体的資本運動の具体的形態論としての分配の問題の領域に属する﹄ハ硲

正夫﹁差額地代論上の一解釈

i l

所謂﹃虚偽の社会的価値﹄について﹂大阪市立大学﹁経済学雑誌﹂問巻2号一九四八年︒

裕正夫﹁日本農業の諸問題﹂一九四八年季節社版三一七頁)として︑だから﹃ここでは剰余価値がどこで︑誰によって︑

いかにして生産せられるかという問題はすでに解決されたものとして前提せられる﹄(向上三一七頁)のでレめり︑司剰余価値

の転化形態﹄だけが問題になるというように︑源泉問題への接近の方法論上の反省の上に立って︑差額地代に転化されるべ

き﹃より優等な諸土地に充用された資本並びに労働から生ずる剰余価値を︑字義どおりに︑必ずしも当該資本ないし部門にお

いて生産せられたのでない︑虚偽の社会的価値としてうけいれる﹄(同上三一四:一三五頁)べきであるというように﹃流

通説﹄を主張している︒しかし︑この説は︑鈴木鴻一郎教授の批判にもあるように︑分析視角の斬新性はす川く評偏されるべき

であろうが︑﹃これで一虚偽の社会的価値﹂のいかなるものかが疑問の余地のないまでに明快に説明され得たということには

虚偽の社会的価値と源泉問題

(8)

虚偽の社会的価値と源泉問題

j¥ 

ならない﹄(鈴木鴻一郎﹁地代論論争﹂一二二頁)と

z =

ノこ

とが

でき

よう

︒し

(﹃

農業

経済

学基

礎理

論﹄

O

五│六ページ)

小林茂教授による硲説の紹介は以上のように極めて簡単なものであり︑しかも硲説批判として鈴木鴻一郎教授の結 論的引用の一旬をあてているだけである︒しかし硲教授の﹁虚偽の社会的価値﹂にたいする解釈は教授の長い思索の 結論的産物であると同時に︑その分析視角は︑向坂教授や鈴木教授と同様の﹁流通説﹂に立つ精綾なものであり︑前 掲︑硲教授の論文﹁差額地代論上の一解釈

│l

所謂﹃虚偽の社会的価値﹄について

1

i﹂は︑差額地代論争上の重要

文献の一つである︒そこでこの機会に教授の所説をやや詳しく紹介︑検討しよう︒教授は右の論稿でまず﹃資本論﹄

全巻で展開されているマルクスの価値論を要約的に整理されたうえで︑問題を﹁農業生産部門全体についてみると き︑現実的生産価格(個別的価値)総額と市場価値総額とは︑分量的に一致しなくなり︑その差額に相当するところ の︑恰かも差額地代部分だけが︑いわゆる虚偽の社会的価値となる

Q

この虚偽の社会的価値の経済学的性質を吟味す

ることは︑差額地代の本質如何の問題に答えることになる﹂(三一一ページ﹀とし︑続いて次のようにのべられる︒

﹁﹃虚偽の社会的価値﹄である差額地代は︑直接に生産過程で生産される価値と︑或いは剰余価値と・いかなる内部的関連を

もつか︑両者の関係如何ということである︒差額地代は︑何れの生産部門で︑誰れによって生産せられた剰余価値が︑いかな

る経路をたどって転形せられたものであるかということである︒

この問題に対しては大体一一とおりの考え方が成りたちうる︒

第一の考え方はこうである︒工業部門においては市場価値総額(仮りに総価格とする)は︑個別的価値(現実的生産価格﹀

総額(仮りに総価値とする)に等しいから農業と工業とを一緒にした社会全体について︑形式的に総価格イクオル総価値なる

関係を成立せしめるためには・農業生産部門内部において総価格"総価値なる等式関係を固執しなければならぬ︒いいかえれ

ば﹃虚偽の社会的価値﹄の虚偽性を否認しなければならぬ︒そのためには︑差額地代部分もまた農業部門において生産せられ

た剰余価値であることを論証しなければならぬ︒ここで援用されるのはかの高次労働の理論である︒﹃例外的な生産力を有す

(9)

る労働は高次の労働として作用する︑すなわち同じ時間内に同一種類の社会的労働よりも大なる価値を創造する︒﹄︿第一巻二

九七頁)かくてB︑

c

︑D等より優良な土地において働く農業労働は︑かかる意味での高次労働であるからたとえばD

地の

労働は六司ではなく二四

O

の社会的価値を現実に創喧したというのである︒D地の差額地代たるべき一八つは︑虚偽な︑何ざる

現実の社会的価値であり︑超過利人示価値として剰余利潤となり︑地代に転化寸〆るという︒そして三こで一ゴ商品の現実的価値

は︑それの何別的価値ではな︿︑ぞれ行社会的価値である﹄(二九六頁)という一節が援用せられる︒

これは一見はなはだ巧妙な論塑めごとくみえるが︑われわれはこれを採用することができない︒右の高次労働の理論は︑或

る資本家が例外的に高められた労働生産力を︑たとえば新しい高度な労働方法なり︑技術(労働手段)なりを︑逸早く採用す

ることによって︑資本生産力として転用する場合にみられるところであって︑結局において資本によって造り出され︑これに

従属する経営的(資本的)生産条件に関するものである︒それは人為的終過的原因にもとづくものであるから︑資本聞の自由

競争によってやがて平準化され︑かくすることによって︑労働生産力の一般的増進がもた︑りされる︒いわば生産力の社会的増

進の具体的形態であり︑終過的なる一過程︑一段階をなし︑やがて平準化し︑消滅する︒現実的価値は社会的価値だという意

味も︑それは個々の場合に事実土それぞれの生産に必要とされる労働時聞によってはかられるのではなく︑同じ種類の商品の

生産上社会的に必要とせられる労働時間によってはかられるということであり︑競争による資本の発展とともに︑社会的に必

要な労働時間の水準自体が︑生産力の発展につれて推移することを含意している︒労働による価値規定が固定的ではなく︑可

動的な人間相互聞の関係を云いあらわし︑本来生産条件なり生産方法なりの変化につれて可動的経過的な過程たる事実を証示

するのである︒しかるにより優良な土地に投ぜられた労働の主産力が高いのは︑資本から独立せろものとしての土地的条件︑

すなわち前述のごとく︑土地面積の制限怯と品質的空異とに立脚するのであって︑いわば自然的画定的原因じもとづくもので

あって︑ここでは商品価値は労働便座力に逆比例するものと解すべきであろう︒そのより高い生産力は資本に外来的なる原因

にもとづき︑資本の発展とともに克服平準化されることがないからである︒それは消滅せず︑固定的に残存する︒

なお又市場価値論ないし地代論は︑後述するごとく︑価値分配論の領域に属することがらであって︑ここではすでに剰余価

値の生産を前提し︑既に生産されている価値が︑土地の制限性のゆえに︑資本主義的価格決定機構に媒介せられて︑いかに再

分配されるかが直接の課題である︒よって剰余価値の生産過程そのものにまで遡及して論じ返す必要はない︒この点からいっ

ても右の見解は採用しがたい己(﹃日本農業の諸問題﹄二一一一ーー四ページ)

虚偽の社会的価値と源泉問題九

(10)

虚偽の社会的価値と源泉問題

こ の よ う に 硲 教 授 は 土 地 的 生 産 条 件 に 起 因 す る 例 外 的 生 産 力 と 資 本 的 条 件 の 優 秀 性 に も と づ く 生 産 力 の 相 違 を 強 調し︑﹁強められた労働﹂説による寸生産説﹂を全面的に否定される

G

そして次のように﹁流通説﹂を支持されろ︒

﹁考えうる第二の見解は次のごとくである︒それはまずより優良な諸土地に充用された資本並びに労働から生ずる剰余利潤

を︑{子義どおりに︑必ずしも当該資本ないし部門において生産辻られたのでない︑虚偽の社会的何値として︑コけいれる︒しか

るのちそれがいかに実現せられるかを問題とするのである︒したがってそれは︑社会全体としてみて剰余価値の生産を前提

し︑その一部がいかに土地生産物における剰余利潤として実現され︑再分配せられるかを問うのである︒これが豆しい問題の

立で方であり︑受け入れ方である︒われわれはこの立場を採らなければならぬ︒よってこの線に沿うて問題をもう一歩立ち入

って考察してみよう︒

大切なことは︑議論を自我流にこじつけることではなく問題の箇所をすなおに読みとることである︒かくすれば問題はそ

のまま行論の簡で解決されている︒よって少し長いが問題の箇所をあらかじめ引用しておくこととしょっ︒すなわちさきに引

用せる箇所にすぐ引き続いてこう書かれている︒﹃かくのごときが資本主義的生産様式の基礎の上で競争を媒介として自らを

貫徹するところの︑市場価値による決定であってそれは一つの虚偽の社会的価値を創り出す︒この虚偽の社会的価値は︑土

地の生産物が支配されているところの︑市場価値の法則から発生する︒生産物の︑したがってまた土地生産物の市場価値の決

定は︑必然的に生産物の交換価値に立脚し︑土地や土地嬰‑鏡性の差異ゃには立脚しないところの一つの託会的行為である︒

尤もこの社会的行為は無意識的かつ無意図的に︑社会的に遂行されるものではあるが︒若し社会の資本主義的形態が止揚せら

れ︑社会が意識的なかっ計画的な協同体として組織されるに至ったと考えろならば一

O

クオーダーはこ四

0

シリングに含

まれるところのものに等しい独立的知働時間量を代表することになる︒したがって社会はこの土地生産物をば︑それに含まれ

る現実的労働時間の二倍半で購買することはないであろう︒かくして土地所有者という一階級の基礎は破壊せられる︒(中略﹀

同じ種類の諸商品には等一なる市場価値が成立するということは︑資本主義的生産様式の基礎の上に︑また一般に諸個人間の

商品交換に立脚する生産の基礎の上に価値の社会的性質が自己を貫徹するところの様式である︒消費者として観察された社

会が土地生産物に対して過分に支払うところのものが︑すなわち社会がその労働時間を土地生産において実現する場合にマイ

ナスとなるところのものが︑他方では社会の一部たる土地所有者に対してプラスを形成する︒﹄(資本論︑改造社版︑第一二巻

(11)

下 ︑ ニ

OO

頁)

すなわちこれを虚心に読めば︑虚偽の社会的価値はこれを文字通りに受けとらざるをえず︑市場価値による決定ないしこれ

を媒介とする地代の問題は︑生産せられた剰余価値の実現︑転形︑または社会諸階級間における分配の問題にほかならないこ

とが明らかである︒﹂(阿上コ二四!六ページ)

しかし︑マルグスの文章を﹄虚心に読めば︑﹁﹄虚偽の社会的価値しはこれを文字通りに

1

iこ

の 文 字 そ の も の が 実 は 問 題 だ っ た の で あ る が

│ 受 け 取 ら ざ る を え な い と し て も

︑ ぞ れ が な ぜ 最 業 内 部 で 生 産 さ れ な い こ と を 意 味 す る の か︒虚偽といっているから農業内部で生産されていない︑というのであれば説明にはならない︒この点の教授の立ち 入った考えは次の通りである︒

﹁経済学はまずその生産論においては︑理想型においてとらえられた資本主義的経済の過程を︑直接的生産過程として︑外

来的諸事情からくる一切の副次的諸影響を捨象して沌枠に考察する︒すなわち資本主義生産の断面において考察する︒資本

はいかにして剰余価値を生産し同時にまた逆に剰余価値はいかに資本に転化されるか︑すなわち資本はいかに生産しかっ生産

されながら再生産をつづけてゆくかという問題を生産の観点から考究する︒したがってそこでの中心課題は︑最も純粋な形に

おいてではあるが︑資本主義的経済構造の基本的関係︑生産的︑階級的諸関係の究明におかれる︒それはたとえば資本主義的

安川積の一般的法則として一不された︒これにたいして流通論は︑剰余仙値の生産︑資本の免産関係階級関係を前提し︑これら

の諸関係が流通部面においていかなる運動の形態をとるか︑また形態を転形するかを問題とする︒と同時にそれはまた︑全体

として考察された資本の運動過樫から発生する具体的諸形態把握への媒介をなすのであって︑たとえばリカアドの経済学はこ

れを欠いたがゆえに︑剰余価値の利潤への転化︑ャ︑価値の生産価格への転化の問題を正しく理解することができなかったので

当面の課題たる地代論は︑いわば全体的資本通勤の具体的形態論としての分配の問題の領域に属する︒地代は剰余価値の転

化形態として理解せられる︒当然ここでは剰余価値がどこで︑誰によって︑いかにして生産せられるかという問題はすでに解

決されたものとして前提せられている︒そして更らに︑資本家と労働者とによって第一義的に構成せられる資本主義社会の内

虚偽の社会的価値と源泉問題

(12)

虚偽の社会的価値と源泉問題

部において︑剰余価値がいかに具体的な諸形態をとって分配されつくしたかという問題も前提せられている︒そして分配論の

最後に︑資本主義社会の第三階級としての土地所有者(これは生産に直接的積極的に参与せず﹀がはじめて現われ︑これに対

して地代がいかにして再分配されるか︑すなわち資本家と賃労働者(実質的にはもちろん後者の労働による)とによって生産

せられた剰余価値がこれら両階級へ分配され終わったのちに3さらに剰余価値はいかに地代に再分配され︑再転化せられるか

ということに答えるのが地代論の課題である︒したがってそれはより抽象的な︑より純粋な段階における分配の修正であり︑

変更でなければならぬ︒もちろん差額地代と絶対地代とでは再分配の仕方は異るとはいえ︑ひとたび完成せる分配の修正であ

るという点では一致している︒だからこう書かれている︒地代分析上の﹃困難は︑寧ろ相異った諸資本に依って造られる利余

価値が平均利潤に均等化した後に︑即ちこれらの諮資本がそれぞれの相対的大小に比例して総剰余価値からの︑社会的総資本

が一切の生産諸部面において造り出した剰余価値からの︑配当をうけた後に︑尚残るところの︑土地に投じられた資本が地代

の形で土地所有者に支払う剰余価値超過分なるものは︑そもそも何処から来るかということを論証する点に存している︒けだ

し︑剰余価値がかく均等化された後に於いては︑いやしくも間分しうべき一切の剰余価値はすでに配分し尽されたかの如く見

えるからである︒﹄(第三巻下︑三二二頁)﹃資本主義社会においては︑この剰余価値又は剰余生産物は︑各資本家が社会的総

資本の上に占める持高に比例してそれぞれの間に配分される︒かかる姿において︑剰余価値は資本の手に帰属する平均利潤と

して現われる︒而してこの平均利潤それ自身はまた︑企業利得と利7丁とに分割せられ︑これらの両範鴎として︑極類の異った

資本家たちの手に帰属しうる︒が︑資本による剰余価値または剰余生産物のかかる占有及び配分は︑土地所有の上にその制限

を有する︒機能資本家が労働者の手から剰余労働を︑したがって利潤なる形態の下に剰余価値及び刺求生産物を汲み取るごと

く︑土地所有者はまた︑この剰余仙値若しくは剰余生産物の一部をば︑さきに展開せる諸法則にしたがい︑地代として資本E

の手から汲み取る︒﹄(三五九頁)

と同時に地代論につき注意すべきは︑それが資本主義的生産関係の︑したがってまた剰余価値の著しく転化せられた具体的

形態であり(というのはそれが理論の領域を出たという意味では勿論ない)︑またそれが一般的にいって具体的形態論に属す

るという意味ではそれが社会の表面において相異れる詰資本相互間の行動や︑競争ぬ¥生産当事者自身の遇例の意識などの上

に現われてくる形態﹄(第三巻上︑五百一)に著しく接近しているがゆえに︑それらの具体的転化形態と基本的な生産関係との

内部的脈絡は媒介的中間頃は︑著しく不明瞭化されている︒剰余価値生産の基本的階級関係は隠蔽され︑歪曲され︑暖妹化

(13)

されている︒﹃直面的生産過程と流通過程との統一としての現実的生産過程ば︑内部的関連の脈絡をますます見失わしめると

ころの︑生産上の諸関係を相互独立化せしめ︑価値構成諸部分を相互独立化した形態に化骨せしめるところの新たなる諸形

態を造り出すものである︒﹄(三六六頁﹀剰余価値が利潤に転化するというただそれだけの事実によっても︑前者の真の性質と

したがってまた資本の現実的機構とはおし隠されることとなろ︒いいえれば︑根源形態からの内部的媒介的関連を切断占される

とき︑﹃土地││地代﹄という謂わゆる物神化形態が完成せられることとなる︒このことはすでに︑まず流通過程に匪胎し︑

(﹃流通過程は︑関連をすでに抹殺し︑すでに濁している︒ここでは剰余価値の量が同時に資本の流通時間によって決定される

から︑労働時間とは縁のない一要素が介入するようにみえる︒﹄(剰余価値学説史第三一巻邦訳五四六頁﹀︑それに媒介せられて

Cプ

ラス

Vが費用価格となり︑何備が市場価値となり︑生産価格となり︑剰余何値が利潤となるとき顕著に現われてきたが︑

︑︑

︑︑

地代において最高に達するのである︒﹃最後に︑剰余価値の独立した源泉としての資本と相並んで︑また平均利調の制限とな

るところの︑かつみずから労働することもなく︑労働者から直接搾取することもなく︑利子附資本のなす如くには資本貸付上

の冒険及び犠牲という如き遁降に道徳上の慰安を見出すこともできぬ一階級の手に剰余価値の一部を移転せしめるところの︑

土地所有なるものが現われてくるQこの場合剰余価値の一部分は直接的に︑社会的詰関係にではなく︑自然的要素たる士地に

結びつくかの如く見えてくる故︑剰余価値の相異った諸部分を相互に疎外し化骨せしめるところの形態はここに完成せられ

て︑その相玄関の内部的関連は終局的に裂断され︑剰余価値の源泉は全く埋没されてしまう︒これ正に︑生産過程の種々なる

素材的諮要素に結びついている生産詰関係が相互に独立化した結果なのであるo

﹄ハ

第三

巻︑

下︑

一一

一六

七頁

)

なお虚偽の社会的価値における虚偽の意味は︑もちろん︑現実的価値を伴わない社会的価値という意味であるが︑同時にま

た︑地代においては︑資本主義的生産閣係が神秘化され︑物神化され︑顛倒され︑﹃虚偽の外観﹄をとるに至っていることを

も併せ意味するものと解することができよう己(向上一一二六二

0

ページ)

以上の硲教授の所説を箇条書して要点を示すなら︑次のようになろう︒

①経済学は生産論で資本主義的経由治構造の基本関係︑生産的︑階級的諸関係を究明する︒これにたいし︑流通論はこ の生産諭を前提とし︑資本の流通過程および全体として考察された資本の具体的諸形態を把握する︒

虚偽の社会的価値と源泉問題

(14)

虚偽

の社

会的

価値

と源

泉問

①地代論は全体的資本運動の具体的形態論としての分配問題の領域に属する︒だから地代となる剰余価値の生産の問

題は解決されている︒問題は士地所有者の出現により︑地代はどのように再分配されるかということである︒

①地代分析の困難は︑諸資本によって生産された剰余価値が平均利潤に均等化されたのちに︑土地に投じられた資本

が地代の形で地主に入手される剰余価値超過分がどこからくるかという点を論証することである︒

④地代は具体的形態論に属するので︑基本的生産関係が不明瞭化され︑隠蔽される︒つまり﹁土地

Lという

i

地代

物神化が完成される︒

①﹁虚偽の社会的価値﹂におけろ﹁虚偽﹂の意味は︑現実的価値を伴わない社会的価値という意味と同時に︑物神化

‑神秘化ぎれて﹁虚偽の外観﹂をとるという意味でもある︒

このうち①については異見はない︒周知のようにマルクスの﹃資本論﹄の一巻︑二巻︑三巻の副題がこのことを明

示している︒また①も︑﹁流通説﹂的視点からではないが︑マルクスの指摘の通りである︒だが②については賛成で

きない︒諸資本によって生産された剰余価値が︑平均利潤として均等化される︒しかも農業ではこの平均利潤以上の

農業独自の哲過利潤が生産され士地所有者に収納される︒この点からみると︑地代論は単なる分配領域の問題ではな

ぃ︒差額地代は農業内部で生産されてはいないという流通説を前提としてのみ︑分配領域の問題だ︑と主強できるに

すぎない︒円資本論﹄の第三巻は︑資本の具体的運動の諸形態を一巻︑二巻の理論を前提として展開されており︑こ

の意味でそれは﹁資本の総生産過程﹂であった︒地代論が第一二巻で取り扱われているが︑それは単なる分配領域の問

題としてではない︒③については﹁土地物神﹂として︑物神化の完成であることは何人にも異論のないところであろ

ぅ︒しかし⑦の﹁虚偽﹂とは他面﹁物神化﹂を意味するという点になると︑納持できない︒﹁物神化﹂

lま

商品物

(15)

神︑貨幣物神︑資本物神︑利子生み資本物神として存在するが︑硲教授のように物神化が虚偽の意味を他面でもっと されるなら︑商品︑貨幣︑資本︑利子生み資本もそれぞれ虚偽性をもつことになってしまう︒しかし︑商品︑貨幣︑

資本のいずれをとってみても︑それらは真実の﹁価値物﹂

であり︑﹁虚偽の社会的価値﹂として問題にされる性格は

ない︒レ虚偽性と物神性は別のことがらなのである︒

さて簡単に指摘してみても硲説には以上のような疑点があり︑そもそも硲教授のこれまでの引用をみても︑差額地 代となるべき剰余価値が︑いっ︑どこで生産されたかの積極的説明はない︒この点の解窓口は上記の引用に続く硲教授

の次の所説によって与えられている︒

﹁さきの表によれば︑二四

O

の現実的価値をしかもたない農産物(穀物)が︑競争を媒介として自らを貫徹するところの市

場価値決定の機構によって︑六

OO

の価格(市場価値﹀を以って販売せられる︒これは土地利用の制限すなわち土地経営の独

占にもとづくところの一種の独占価格である︒もちろん差額地代は﹃独占地代﹄(三七

O

頁)ではない︒本来の意味における

独占価格とは﹃総じて生産物の一般的生産価格に依って決定される価格からも︑価値に依って決定される価格からも独立し

て︑単に購買者の購買欲と支払能力とだけに依って決定されるところの価格を指すのであ﹄(一二五頁)り︑差額地代は︑さ

きに述べたごとく︑最劣等地における個別的価値による市場価値決定を前提するがゆえに︑明らかにこれと異る︒ただそれ

は︑資本から独立せる土地の利用に関するかぎりにおいて︑独占の影響を受けるがゆえに︑一種の独占価格をなすのである︒

したがって虚偽の価値なる差額地代部分(三六

O

に相当﹀は︑農産物と交換される他の諸商品の剰余価値の一部分が平均利

潤からの再控除として(工業のみならず農業等をも含む)移転することによって実現せられる︒これによって本来ならば他の

商品生産者のうべき平均利潤(それはもちろん第一次的には剰余価値の転化せるもの﹀の一部分が︑農産物の売買を通じて︑

ひとまず農業資本家の剰余利潤に移転され︑転化されるのである︒﹂(向上三二一ページ)

ここで硲教授は︑﹁一一四

O

の現実的価値をしかもたない農産物が六

OO

の価格(市場価値)を以って販売される﹂と

虚偽の社会的価値と源泉問題

一 五

(16)

虚偽の社会的価値と源泉問題

一六

のべているが︑そうするとこの六

OO

は価格なのか市場価値なのか︒﹁マルクスが市場価値としているから︑

﹂れ

を 否定はできない︒しかし二四

O

が現実的価値だから︑価値以上の価格で販売されているにちがいない﹂という苦心の 表現がそこには結実していると考えられる︒

そして農・工聞の﹁不等価交換﹂を考え︑﹁農産物と交換される他の商 品の剰余価値の一部分が平均利潤からの再控除として移転することによって差額地代部分は実現される﹂と無理な解

決に到達されるのである︒

両教授はこの無理な﹁流通説﹂的解釈を次のように具体的にのべられる︒

﹁いま農産物を︑原料農産物と食糧農産物とに分って考祭しよう︒

第一︑原料農産物は︑たとえば綿花は︑これを原料として生産的に消費すべき紡績資本によって︑その不変資本部分を以っ

て買いとられる︒この資本は︑その必要とする原料をその現実的価値以上の価格をもって購買し︑以って不変資本の物的一要

素に転形したのであるから︑不変資本費用は不当に大きくなり︑費用価格が増大する︒かくして紡績諸資本の得べき利潤率は

それだけ削減されることとなる︒しかしここでも生産諸部門間に於げる資本の白由競争が行われるから紡績誇資本が不当に高

い原料を買うことから生ずる利潤上の負担は︑競争を通じて他の諸部門の諸資本に転嫁せられ︑結局においては︑社企の平均

利潤がそれだけ押し下げられることとなる︒ここで注意すべきは個別特定の紡績資本が例外的にそうなるのではなく︑いやし

くも綿花を原料として使用する紡績資本はすべて一様に︑現実的価値以上の価格を有する棉花を購買せざるをえず︑不変資本

費用は部門全体として高められるということである︒これは実質的には︑この部門の平均的価伯構成(技術的情成から区別せ

られた)が高まったと同じことになる︒かくして剰余価値の転化せる平均利潤の一部は差額地代へ再分配せられたこととな

る︒この例でいえぽまず紡績資本の利潤の控除によって地代が支払われるが︑それはやがて社会の総資本の利潤負担となる

ので

ある

第二︑食績農産物の場合︒食糧農産物︑たとえば穀物は︑資本家並びに労働者の食糧として個人的に消費せられる︒まず前

者についていえば︑資本家はその利潤のうちの消費基金部分の一部を以って︑現実的価値の二倍半に高められた穀物を貿わな

(17)

ければならず︑利潤はそれだけ削減をうけざるをえない︒すなわち利潤はそれだけより小さな穀物量で表現せられるわけであ

る︒いいかえれば穀物を買う資本家(それは当然全資本家に及川むの利潤の一部は穀物取引を通じて︑農業資本家へ移転せ

られ︑その剰余利潤となる︒かくて資本家の個人的消費が節減されるか︑または者積基金部分の縮減となる︒

次に労働者が二倍半高価な殺物を買うときはどうなるかについてみるに︑もし彼れがその労働力に対して価値通りに支払わ

れるものと仮定すれば︑労賃は昂騰し︑剰余価値はそれだけ減少を来たすであろう︒それは了度社会全体からみて必要労働部

分の短縮による相対的剰余価値増進の逆行程であって︑資本主義社会において土地所有が社会にとって負担たる川川孟実が︑あた

かも︑土地生産物価格決定の特殊機構を通じて︑社会全体の生産力をそれだけ不当に低下せしめたこととして託示せられるの

である︒かくて一定且一塁の商品生産に社会的に必要なる労働時間が増大する︒かくていいかえれば︑地代は資本利潤からの削減

によって補償せられる︒またもしその全部が利潤に転嫁されえず︑実質労賃の庄縮を来たすとすれば︑この場合には﹃労働者

の実質賃銀と他の資本家たちの獲べき利潤ーとの両者からの探除﹄(第一二巻下︑三九七頁)によって農業剰余利潤は支払われる

であろう︒だからもし資本家と労働者との実質的消費が不変であれば蓄積基金が減じ︑後者が不変ならば前二者の何れか一

つ︑または両者が共に減少するであろう︒これ地代は﹃社会が剰余利潤の姿で地主たちの手に納める貢賦﹄(二六六頁)とし

て資本主義社会の負担とみなされ︑土地所有者は資本主義的生産方法においてはまったく余計なものと見なされる所以であ

る︒事実上土地所有者は刺余労働または剰余価値の支配と創出とにはなんら寄与することなくしア︑しかもその一部をふとこ

ろに入れるのであって︑この社会の生産に対してなんら必要な生産一代理人ではない︒したがって﹃衝突の場合には︑資本家は

土地所有者を資本主義的生産の単なる痛︑賛肉︑寄生虫︑資本家の皮膚に巣喰う武と見る﹄(今説史︑第二巻第一部二九九頁)

ので

ある

何れにしても虚偽の社会的価値の市場価侭決定機構に上る実現は︑剰余価値の分配変更の問題であり︑或いは第二次的分配

であって︑この差額地代に相当する価値量は︑或いは直接に利潤の削減として︑或いは迂図的に労賃昂騰ないし不交資本の膨

張として結局においては剰余価値を以って梢償せられる︒つまり剰余価値の再分配が行われるだけであって︑平均利潤と地代

との総額は剰余価値総額に等しいという法則は貫かれるのである︒﹂(向上三二二四ページ)

ここで教授は棉花を購入する紡績資本は価値以上の価格で︑すべて一様に棉花を購買するのだから︑この部門の不

虚偽の社会的価値と源泉問題

(18)

虚偽

の社

会的

価値

と源

泉問

/1

変資本は増大し︑実質的には価値構成が高まったと同じことになる︑といわれている︒そして︑棉花の含む差額地代

部分は︑農産物(ここでは棉花)と交換される他の商品の剰余価値の一部分が︑平均利潤からの再控除として移転する

ことによって実現される︑といわれるο果たしてそうであろうか︒棉花が価値以上の高何拾で購入されるため︑有機

的構成(価値構成)が高くなることによって︑剰余価値が少なくなることにしよう︒

この

ばあ

い︑

有機的構成の高度

化はその部門の生み出す剰余価値

E J

一減少させることそれr円体は玉しい︒しかし︑このととと︑農産物が差額地代部

V

分どけ価値以上に高く売られて︑農業部門へ差額地代部分が流入する︑ということとは︑どう関係するのか︒この二

つのことは差し当り無関係のはずであるG棉花を使用する製品のなかには︑すでに棉花のふくむ差額地代が含まれて

いるのであるQ硲教授によれば︑この差額地代をあらかじめ含む工業生産物がさらにに農産物と不等価交換されて︑

差額地代部分がさらにもう一度農業へ流入することになってしまうのである︒だから差額地代部分が工業から農業に

流入する以前に︑棉花の含む差額地代部分が︑棉花使用の工業製品に含まれているのである︒この関係は︑不変資本

にコいてだけでなく︑教授のいわれるように可変資本についても同様である︒このようなことが資木制社会の現実に

おいてありえょうか︒まヮたくの観念的な︑紙上の理論操作であることは明白であろう︒

さらに教授は土地所有者が資本主義社会の負担である古川をも指摘される︒この指摘はもちろんそれ自体として正し

い︒しかしこのことは何も差額地代が農業内部で生産されないことを意味しない︒土地が固有化されるなら絶対地代

は消滅する︒しかし差額地代は消滅しない︒農産物が商品として生産される限り︑差額地代は存在する︒商品生産が

廃止される完全な組合社会では差額地代も消滅し︑農産物がその現実的価値以上の市場価値となることはない︒しか

L

︑そうだからといって︑資本制社会で││そして商品生産においてすり││農産物の市場価値(例えば六

00

シリン

(19)

グ)が価値以上の価格であるとはいえない︒

この点は旧著﹃地代の理論﹄で述べてある(九六頁以下参照)ので︑この 程度に止めるが︑要するに︑資本制社会の市場価値法則の貫徹によって成立する六

00

シリングという市場価値を完 全な共産主義社会と対比して︑そこに不等価交換を認める︑という考えが根本的に誤謬なのである︒

最後に硲教授は﹁平均利潤のなかに地代が未分化の状態で合まれている﹂として︑次のようにのべられる︒

﹁消費者として観察された社会の中にはもちろん工業の外に農業もはいる︒したがって当然農業利潤からの控除がなされる

のである︒総剰余価値額イクォル総利潤額は︑まず工業部門について行われるとみるよりもむしろ︑土地所有と土地生産とを

捨象した産業一般(工業と農業とをを未だ区別せざる段階)について論ぜられたとみるべきであろう︒したがってそこでは平

均利潤の中に地代が未分化の状態で含まれているとみなければならぬ︒すなわちこの抽象段階では穀物等の農産物もまたその

現実的価値通りに売買せられると仮定して︑かかる仮定のもとに平均利潤が論じられた︒当然に土地所有と地代とが問題とな

れば︑また農産物価格決定の特殊事情が考慮にはいることとなれば︑地代は利潤から分化し︑かくてこの段階での平均利潤は

地代控除を前提しなければならぬ︒そして平均利潤からの地代控除の影響を受けるのは︑農業資本家も工業資本家も異るとこ

ろは

ない

この間の事情はこう説明せられている︒日く﹃それ故︑この場合︑資本の手に帰属する剰余価値部分としての利潤について

語るとき︑その利潤と謂うのは総利潤(旦一患に於いて総剰余価値と等しきもの)からの地代控除によって予め制限されていると

ころの平均利潤(企業利得プラス利子)を指す︒それには︑地代の控除を前提している︒されば資本利潤(企業者利得プラス

利子)と地代とは︑剰余価値の特殊部分以外の何物でもない︒これらの諸範鴎の下に︑剰余価値は資本に帰属するか︑それと

も土地所有に帰属するかの如何にしたがって区別されるとはいえ︑その本質の上には何ら変化を受けない︒両者を合計したも

のは︑即ち社会的剰余価値の総量なのである︒資本は︑剰余価値及び剰余生産物に表現されるところの剰余労働を︑直接に労

働者たちから汲み取る︒この意味に於いて資本は剰余価値の生産者とみなしうる︒しかるに︑土地所有なるものは︑現実的生

産過程の上になんら関係するところがない︒その役割は︑生産された剰余値価の一部を︑資本の懐ろから自分自身の懐ろに移

転す

ると

いう

こと

に限

られ

てい

る︒

﹄合

一一

五九

頁)

﹂(

上向

三二

l

五ページ)

虚偽の社会的価値と源泉問題

(20)

虚偽の社会的価値と源泉問題二

O

硲教授は︑土地所有と土地生産を捨象すれば︑ここでの平均利潤のなかに地代が未分化のまま含まれている︑とい

われる︒しかしこのようなことが実際上あるのだろうか︒この拍象段階では農産物はその現実的価値通り︑つまり二

0

シリングで売られる︑という︒もしそうなら︑ますます︑そこでの平均利潤のなかに差額地代が含まれているは

ずはない︒そして土地所有と地代が問題となれば︑地代が利潤と分化する︑といわれる︒つまり農工聞の不等価交換

による農業部門への差額地代の流入を考えておられるのであろうが︑これが不合理なことは前にみた通りである︒し

かし教授は前掲文でみたようにマルクスの所説を引用して自説を

E

当化されている︒だがさきのマルクスの所説は次

のように解されるべきではなかろうか︒つまり資本の手に帰属する剰余価値部分としての利潤は︑総利潤(総剰余価値)

から地代部分が差し引かれたものである︑という意味においてである︒というのは地代も剰余価値の一部であり︑利

潤の一部であるが︑それはただ土地所有者へ帰属するために平均利潤の形成に参加しない︒土地所有が差額地代の生

産に無関係であるということと︑差額地代が農業内部で生産されている(農業独自の超過利潤として)こととは矛盾す

ることではない︒そこで以下硲説(﹁流通説﹂としては向坂逸郎教授・鈴木鴻一郎教授の所説と同一)と﹁生産説﹂(その代表

は山田勝次郎氏所説)とを対比して示すと以下のようになる︒

門﹁

同岡

野﹂

1

田川

田︺

H H

鴻防

同州

q﹀

務酋

4両日診糊通言誤+務

H 2

き醤

同一

神仙

糠防

同開

替臼

﹀務

言爵

リ野

明糊

通言

お+

務相

市廿

吐き

益十

仙附

捕皿

4d

常山

町匂

)務

山岡

Q)

画日

参滞

迫言

誤十

勢判

明芯

ぎ益

十同

開網

間態

4d

(神

岡ぎ

H

開芯

常識

出国

uN

滞似合

h m

円﹁

詩凶

器﹂

lE

苅・議・詠v

(21)

I工業生産物の総価値=総費用何格十総平均利潤(差額地代部分に相当する真実の価値を含む〉

E

農業生産物の総価値z総費用価格+総平均利潤

社会の総生産物の価値口総費用価格十総平均利潤〔差額地代部分を含む〕

(農産物の価格はその価値に差額地代部分に相!宣する価格がつねに加わって価値以上の市場価格となり,これと何値

どおりの工産物とが不等価交換される〉

JG

吋,>''‑2 i縫寵~思堪=縫~寵エ喜三崎-~~罷十幸司:J:.C~)G魁塑P竺潮時幸司乞)J.JJ:;"小匂~fノ-H'二""+C:小陸稲竺

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ν:

時。WJ)PZヰト担蜂-0訴{件千ノfI[~思込J{突起トの.JJ去三G--'-ií小斗-01('0

「生産説」

工業部門

農業部門

6000C

1500V

1500m=9000

160C+  40V+  40m=240X2.5=600 

9600 

4尽十l1êlO込11・同事初~I('G~'ト弐IGK 

Gm

1 V

ノ思aE;君事坦Q縫計百=R'wGl1・阿$Gi巴~思堰ベJ,--)ド世料J

ドニI('J).JJ心

1

i揺,--)\;--'ニの。ム"Ó>='-四I士金書'-21路~吋'

工業生産物の総

1dli

9000=

総費用価格

7500

十総平均利潤

1500

農業生産物の総価値

600=

総費用価格

200+

総平均利潤

40+

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360

社会の総生産物の価値

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総費用価格

7700+

総平均利潤

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差額地代

360

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(22)

虚偽の社会的価値と源泉問題

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さで以上硲教授の論点を批判的に検討したのであるが︑教授のいわれるように︑地代論が分配問題の領域に属する

ものであり︑地代となる剰余価檀部分が︑どこで︑誰によって︑いかに生産されるか︑という問題がすでに解決され

たものとして前提されているなら︑事態は極めて単純なものであって︑そもそも﹁虚偽の社会的価値の源泉問題﹂な

たしかに斬新な見解

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たとえば﹁資本的・どは問題となりえないのである︑硲教授は問題を分析する視角として︑

経営的条件﹂L﹂﹁土地的条件﹂の厳密な区別の指摘など

1 1

を提起してはおられるが︑市場価値規定の結果︑農産物

に成立する差額地代の説明を分配領域の問題であるとされ︑﹁流通説﹂的に解釈されたことは︑結論的にいって︑六

00

シリングが︑したがって差額地代の三六

0

シリングが市場価値であるとしているマルクスの説明をみても︑誤解

であることがわかる︒

次に小林教授が﹁流通説﹂のもう一人の論客として取り上げた鈴木鴻一郎教授の所説に移ろう︒

(23)

小林教授は鈴木説を次のように相介される︒

﹁これより先(戦前)に︑宇野弘蔵教授がその相対的剰余価値の研究において︑工業生産部門における相対的剰余価値の形

成は生産力の絶対的増進を生むものであるのに対して︑虚偽の社会的価値としての農業生涼における差額地代は﹃工業におけ

る相対的利余価値の如くにそのままで生産力の増進の手段として役立つものでなかった﹄(宇野弘厳﹁相対的剰余価値の概念﹂

東北帝国大学経済学会研究年報﹁絞済学﹂第5号昭和日年刊所収︒宇野弘蔵﹁資本論の研究L昭和M

年岩波書底刊に再収 録 一

O

一 一四頁)ことを指摘したが︑鈴木教授は︑この宇野教授の﹃工業における相対的剰余価値と農業における差額

1 O

地代の差別性﹄を論拠として︑﹃生産説﹄を主張する飯田繁教授(飯田繁﹁社会的価値の︿平均原理

V

と人限界原理

V

﹂大阪

商大﹁経済学雑誌﹂問巻2号一九四八年度刊所収︒飯田繁﹁社会的価値の環論と挙額地代﹃虚偽の社会的価値﹄の源泉問

題をめぐって﹂大阪市立大学経済学部﹁経済学年報﹂第1集一九五一年度刊所収)や小池基之教授(小池基之﹁地代論争の

前進のために﹂﹁社会科学﹂第

ω

号所収)の円強められた労働﹄説を否定している︒さらに進んで︑鈴木教授は︑資本論第三

部第六篇第三八章﹁蒸領地代・概説﹂の中の﹃遇例の剰余利潤﹄と司落流を利用する工場主の剰余利潤﹄の原因の違いについ

て述べたマルクスの言葉(﹁資本論﹂邦訳青木文庫倒九

O

1

O

八頁﹀を引用しながら︑﹃五口々にとってここでも重要なのは

一云うまでもなく﹁落流を利用する工場主の剰余利潤﹂が﹁独占し得ぺき自然力﹂からのみ生ずるというマルクスの指摘であ

る︒すなわち差額地代に転化さるべきこの﹁剰余利潤﹂は﹁資本および労働ぞれ白身﹂からは生ずるものではないということ

である﹄(鈴木鴻一郎﹁地代論論争﹂一八

O

頁)という点を強調し︑つづいて司かくて︑五口々はこの場合には価値の実体的基

礎たる労働が投下されていないことを知るのであって︑差額地代はその一般的社会的基礎を欠くものであることを結論するこ

とができると考えられるのである﹄(同よ一八

01

一八一頁﹀というように︑差額地代は価値としてその部門内で生産され

たものでないと断定するのである︒﹂(﹃農業経済学基礎理論﹄一二口六

ll

七ページ)

宇野教授が戦前指摘されたように﹁工業生産部門における相対的剰余価値の形成は生産力の絶対的増進を生むもの﹂

であるのにたいし︑﹁農業における差額地代は工業における相対的剰余価値の如くそのままで生産力の増進の手段と して役立つものでなかった﹂という両者間の相違は存在する︒しかし︑この点を論拠として宇野教授が差額地代部分は

虚偽の社会的価値と源泉問題

参照

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