岡山大学経済学会雑誌17(3 · 4), 1986, 131-150
蔵花徳富健次郎『み>ずのたはこと
』における東京近郊農村
神 立 春 樹
目 次
I はじめに
2 明治末期の東京近郊農村
3 『み、ずのたはこと』 における束京近郊虚村の描写 (I) 村の景観など
(2) 大都市東京との関係
ー
はじめに直花徳富健次郎の随華集rみ »ずのたはことJは, 明治40年2月27日に東 京府北多摩郡千歳村粕谷(現在は世田谷区粕谷)に居を定めて以来のその田 園風景•生活を描写したものである。神崎消氏は, この書は「移りゆく武蔵 野の四季, 屋敷に出入りする動物たち, 草花の変化, 村に起った人問くさい できごと, 遠方から訪ずれる人たちのドラマティックな話, なに一つ見落と されることなく八十七章のエッセイは綴られている。……確かなタッチの風 景画を完成した。〔『自然と人生』におけるよりも)より絵画的な作業で, よ りカラフルな自然との対話の到達点というべきであろう。 ……證花は自ら をとりまく田園地帯ーその地域社会人としての自覚も活溌であった」と記 し. また「田園生活の綿密な記録であるが. 実際は鋭い文明批評であって.(1)
(1) 神崎清「解説」 (r明治文学全集42 徳富直花集』 1966年筑ほ書房) 404ページ。引 用文中の・・・・・・は. 引用者による省略部分である。以下同じ。
490
大都市膨張と自然破壊に替告を発した。 その先見の明におどろかされるので ある」と評している。 このように文芸家によって武蔵野の農村 の風物誌と(2)
して. さらに は文明批評書として評価されるこの誓は, また歴史研究者によ っても注目されてきている。 石塚裕道氏は, 産業資本の確立期以降の東京近 郊晨村の変化についての叙述の箇所で, この書にふれ,「そこでは農村へのエ 場の進出. 住宅地の増加. 地価騰貴と土地プローカーなどの暗躍, 雑木林か ら耕地への地目転換. 園芸作物栽培の著及など. 資本主義化の波頭にさらされ る近郊農村の移りかわりが作家の立場から的確にとらえられてい」ると記し,13) また, 渡辺善次郎氏は. 産業資本 確立期の都市と農村. 都市化と農業の問題に
注目し た 文学者である として, この書について,「明治40年から, 世田谷,粕 谷の農村に住みついて. 自から晨地を 耕しつつ. 東京の都市的膨張によって急 速に変化しつつあった近郊農村の諸相を情感こめて 描出したのは. 徳富鷹花 の rみみずのたはことJであった」と述ぺている。 さらに. r東京白年史」(4)
は, この時期の農村部を検討するにあたって, この書を「文学者の眼と筆1こ よる観察と叙述」であるとして, 序文の叙述を引用している。(5)
筆者は, 産業革命の進展にともなう地域民衆生活の変容という研究課題の 一環として東京近郊農村の実態の検討を予定しているが , 本稿は, それに先 立ち, まず, この書における東京近郊農村の描写からそのイメージを得るこ とを意図するものである。 なお, 箪者は1950年代の早い時期より直花の旧居 のほど近くに居住し, やがて始まる高度成長期における束京近郊農村の変化 を目のあ たりにみ たが, このことと重ねあわせながら, この随筆集における 描写を検討していきたい。
(2) 同前 399ページ。
(3) 石塚裕道r東京の社会経済史』 1977年 紀伊国屋笞店 278-279ベージ。
(4) 渡辺善次郎『都市と農村の間一都市近郊農業史論ー』 1983年 論創社 369ページ。
(5) 東京百年史編纂委貝会編『東京百年史』 第4巻 1972年東京都617~619ページ。
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鷹花徳富他次郎rみ、ずのたはこと』における東京近郊農村 491
2 明治末期の東京近郊農村
明治初期以来首都東京は, 日本近代化の特質に規定された国家権力の主導 による過度の中央集権化と, 急速な資本主義化にもとづき, 資本と人口(そ の一部は労働力)が過度に, 無秩序に, 集中集積化し, 市街地中心部の過密 化と後背地における農業生産の変容と解体・近郊農村のスプロール化が進行 して, 都市問題が発生してきている。東京周辺農村は,(6) まさしくこの東京の
影張と隣接部のスプロール化・都市化という東京の一方的影響のもとに変容 せざるを得なかった。 多くの場合, この変容は, まず戸口の増加. 宅地化の 進行と, 労働力の吸引, 農業生産の変化などとして把握されるのである。 例 えば, 石塚裕道r東京の社会経済史Jにあっては, 産業資本の確立期の東京(7)
の近郊の問題を, 人口と住宅地の増加=宅地化, 農業生産の菓約化. 農民層 分解と農業労慟力の流出. などについて検討し(企業勃典期から日消戦争ま でを扱う第3章), さらにその後の 「都市化jの進行による, 農民の貨労慟 者化の進展. 株菜栽培を中心とする商品作物生産. 経営の集約化・多角化を 検討している(第一次大戦期とそれ以後を対象とする第5章)。 本稿でのrみ
、ずのたはこと』 もこのような問題状況を前提とすることはいうまでもない。
ところで, この頃の束京近郊農村の状況を研究した当代の研究沓に, 小田 内通敏『帝都と近郊』 (1918年)がある。 この苦は, 大都市の囲饒地帯の研究 の重要さにもとづき, 「東京市の囲緩地帯, 即ち都市的地域たる特殊晨村に 就きて地理学的考察を遂げ, 以て東京の都市的発達に伴へる外延的発展が,
如何に其囲続地帯の農村を都 市化しつ>あるかを類はんとするもの」であ
` (8)
る(同杏3ペーゾ, 以下同じ)。このような課題のもとに, 緒説において
(6) 以上. 石塚裕道『「東京史」 研究の方法論序説』 1979年 (7) (3) と同一書 137-148,272-281ページ。
(8) 同由 1974年 有雌告店版による。
国際連合大学 15ベージ。
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92束京市の都市的発達を概観した後, 特説において近郊地域のうち,
郊地帯について, 東京の影響・都市化の状況を詳細に検討している。 その方 法は, 日本橘を中心とする1里区分の周圏を措定し, その地帯ごとの状況を 検討するというものである。東京市域は日本橋を中心とするほぼ1里半の圏 内におさまり,東京の影響 ・都市化の状況1む この1里から2里の第一帯の 縁辺部から,2-3里の第二帯,3ー 4里 の第三帯,4•~5里の第四帯という 遠方に及ぶものとして, 考察されていく。
まず, 著しく密集的な人口分布, 来住者の激増による増加, そして男女別 割合の顕著な差異という人口構成における都市的色彩は西部町村にも認める ことができるとして, それらを検討している。 東京市に接続する第一帯にあ る町村は概ね密集せる住宅区域, 第二帯は工業区域などの密集的生活もある が総じて密度が滅ずる。第三帯は密度はいっそう下るが,ここはほとんど純晨 業地帯である。第四帯は, 農業地帯としても東京市との距離も遠く, 萩菜の 運搬に難点があり, その栽培が少ないというところであり, 人口の密度は郊 外地域中の最小である。 第一帯, 第二帯の密集的生活は東京市の都市的発遠 にともなう住宅地区・工場地区の拡大による来住者の激増による。 それは現 住人口中の入寄留人口の比率によって明らかとなるとしている.。そしてまた,
この第一帯, 第二帯は都市的発達の影響により. 男女別では男子の割合が, 年 齢別では壮年層の割合が大きいであろうとしている(68~73ページ)。
郊外地帯における人口の構成上にかかわって,「都市的発展が郊外農村の 労力を牽引するのみならず, 其社会的生活はた経済的活動が, 彼等を刺撃し誘 惑して都市移住を促すに至らしめし結果に外ならず」(73ベージ)として,農 民の東京市集中の傾向に注意を喚起している。東京市への移住には, そこの出 生男子にして健全に東京市に一家を創設する者の多いことを一村についてあげ (26戸中,その職業の3分の2が農業に縁があるとしている), また 「されど 農民の東京市に集中するもの、中, 小作農が労銀の関係上, 自動的に農業労 働を棄て工場労慟を始め, あらゆる都市的労慟に赴く結果集中し移住するも
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直花徳富健次郎rみ、ずのたはこと」における東京近郊農村 493 硫決して少なからざるべし」(74ページ)としている。そしてこの都市集中
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して,小学を卒へたるものは桂庵の手を経て東京に下婢に赴くもの多く,養 蚕季には自家の手伝の為に帰村し,・養蚕を終るや更に新なる桂庵によりて下 絆に赴くもの多し」(神代村絵堂),「他村1・こ赴ける女の雇人十名,概ね東京市 iへの女中奉公」(井荻村)などの例によりながら,下婢・女中奉公などの「都 I市的労働」として東京市に集中,また嫁入先を隣接町村に求めて集中,とい うことをあげている。これらは,「労慟忌避と都市文明の憧憬によるもの」と している(74~75ページ)。
職業別では,第一帯にある隣接町村では職業の多岐をみるが,第三帯, 第 四帯になるほどに職業は単純で.農作戸数が多くなる(75~79ページ)。
以上につづき,住居の状態が検討されている。束京市との遠近と宅地の広 狭,職業と住居状況を検討しているなかで,細民地区について,細民戸数は 3万1,000戸に近く,束京市と郡部とにほぼ半数ずつで,郡部では最も多いのは 王子,内藤新宿,南千住,板橋,千 住,品川などの接続諸町で.郡部全体の約 6割を占めるという。そして,踏査した内藤新宿南町について, それは新宿 御苑西隣の低湿地で,戸数244戸と木賃宿22軒の94家族で,「職業は概ね市内 の屑拾なれど,実は掻浚をなすもの多Jい,という
(loo
ページ)。このような 縁辺地域における細民地域の形成が指摘されている。ついで土地利用について検討し.そのなかで土地価格についてつぎのよな に記している。農業地帯では田畑森林の価格の高低はその地味の肥痩にある のだが,「東京市の外延的発展に伴ひ,其隣接町村が住宅地区として市外土地 需要の切なる結果,其地目が田たると畑たると森林たるとを問はず,農業用 地以上の価格を有するに至れる事は,之を西郊にも認むる事を得」るが,それ は「東京市と交通の便よき第一帯より第二帯に限られ.梢々遠き第三帯よ り第四帯に於ける農業地帯にては.特殊の事情の生じたる地区のみなるが如
し」(122ページ)である。 第三帯の井荻村の場合, 明治40 年頃までは田が・、
畑
より高価であったのは, 当時はなお郊外住宅地としての価格を有せざること を示すが. 大正4年末には. 畑は農家の売買価格としてすでに田1反歩600円 の2倍の1,200円となっている。 荻窪駅のある中央線によるものであり.「京 京人の希望するが如き眺超の好適地は. 一坪五円乃至五円五十銭に上」 った (123~125ページ)。 京王電鉄の笹塚は起点追分停留場より約7分ごとに電 車が発著する市内への往復が便利なところなので来住者多く, それは現在100 戸中70戸に及ぶというが, この笹塚は8 ~10円, 代田橋5円, 下高井戸3円 である(127~128ページ)。
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農業についてはつぎのようである。
東京市の外延的発展にともない, 農業地帯の東縁は漸次西方に後退しつつ あるが, 東京市より放射状に出ている主要道路の沿域などの例もあるものの,
束縁の位誼は, 日本橋より直径2里にあたる恩線とみなしている{134ペー ジ)。 その外縁である直径3里の圏線上は若干の例外を除いて,「大部は純然 たる農業地帯と称すべき所にして, 大都市東京及其隣接町村の居住民に対し,
日々新鮮なる蔽菜を供給する関係上, 其栽培を集約に経営する萩菜農の活動 舞台」(135ページ)である。 この萩菜の市内市場への搬入は手車であり(荷 重限度約100貫目),4, 5時間のうちに新鮮なる萩菜を運搬し得るところがそ の限界となる。 それは, 日本橋より直径5里の圏線上に出入りする地点とし ている(136ページ)。 このような5里を外圏とする第四帯にいたる萩菜栽培 地帯は, それに要する人糞尿が東京市域より搬入せられるところでもある。
ところで, この祓菜栽培地帯の限界は移動してきている。 その西縁に位置 する農村が今日のように薩菜栽培にいたったのは. 「何れも十数年来の事」
であり. 将来道路およぴ運搬期間の改善」によって遠距離の村で可能になる かもしれないとしていくつかの村について検討している。 第四帯に位置する 神代村での萩菜栽培地区は東京市に近い東部の下仙川・入間にみられるが,
それは十数年前からである。 入間は94戸の半数が東京向の森菜栽培に従事す -136-
直花徳富徳次郎『み、ずのたはこと」における東京近郊農村 495
るが, 5年前までは20戸内外にとどま っていた。 その西部の山谷のごときは 疫蛮業がさかんである(136~137ページ)。 同じく第四帯の大泉村も, 東京に 近い東部の橋戸,上支田はもとは萩菜中の胡蹄萄. 牛努の栽培が盛んであった が, 今は薩萄となっている。村内の中央の小拇付近では没菜の栽培はいまださ かんでない。第二帯の高井戸村の西部を占める大宮前新田は,萩菜が農家の全 収入の7割を占めるようになったのは最近十年来のこと, 高井戸村の西隣の武 蔵野村ば神代,大泉二村とともに第四帯に位置しているが, その東部の吉祥 寺は近年になってようやく茄子, 甘藍等を栽培するにいたった. という(137 l' ページ)。 このように萩菜栽培地帯の縁辺に位謎する大泉, 石神井,井荻, 高 井戸, 千歳神代, 狛江などの諸村は, ー半は東京市及びその隣接町村の需
・要に応ずべき萩菜の栽培とともに, 他の一半では殻寂の栽培を主とし, 養蚕 を副とする経営状況にあ ったのである(137-138ページ)。
この萩菜栽培地帯の存立には, これを消費する多大な戸口と, 必要とする 多抵の肥料を比較的庶価で得易いことが必要条件であるとして. 肥料の検討 を行なっている(162ページ)。 そもそも祓菜類に最も必要な窒素を主要成分 とする人糞尿は, 萩菜栽培の最も低廉, かつ有効な肥料である がそれは1反歩 の裁菜栽培に平均25荷を要するとして, 1年3毛作であれば75荷が必要となる (165ページ)。東京近郊晨村における涯菜栽培は隣接町村をあわせて約250万 人に達する束京(I人1ヵ年3荷の糞尿を排泄するとすれば, その総且750万 荷となる)によって供給される(162~163ページ)。 この重量の大きい人糞尿 の運搬であるが, 道路がより悪く, 荷車がまだ利用されなかった頃は, 市?
隣接町村でも1荷を梶棒で荷い, 第三帯, 第四帯の諸村は馬によらざるを得 なかった。 その後荷車の利用とそれにともなう道路の改良によりつぎのよ うになっている。 第二帯と第三帯との間に位浬する松沢村, 高井戸村, 練馬 の諸村な どでは,「手車にて大概三荷を搬入するを常とす」る。松沢村はも とは麹町区, 赤坂区等へ赴いた頃は馬車によるものが少なくなかったが, 近 年は約1里の四谷, 新宿方面であるので‘, すべて手車であり, 馬車運送はな
496
1i-
、やすの 多 < い。た だし, この第二帯と第三帯との間に位置する諸村においても,
耕地を自作する大農, あるいは運送業と肥料の運搬請負を兼業とするものは,
運送馬車にて, 平均8荷, 多きは9荷を搬入するという。 例えば第三帯の高 井戸村久我山には運送によって肥料を 運ぶもの8戸あるが, いずれも3町歩 内外を耕作するものである(164~165ページ)。東京の人糞尿の使用限界は,
第四帯より帯外に出入する新倉, 白子, 大泉, 保谷, 武蔵野, 三隈, 神代の 諸村とみてよいであろう(165ページ)。さらに集約化すればそれだけ肥料を 要するのみでなく, 春から夏にかけての播種・植付の時期には人糞尿価格が あがるので, 備えよき農家は廉いときに多歴に買い込み肥溜に蓄えおく者が 少なくないが,「是萩菜 栽培地帯に於ける農家の肥溜が漸く規模の大を致す 所以」である。いずれにしても,萩菜栽培農家が,「其肥料の為に黄す時間と 労力とは実に多大にして, 日々萩菜の栽培及其販売に費す努力と相侯ちて,
其家庭生活を多忙に且余裕なからしめ, 為に物質的収得の多きに似ず, 其品 位の粗野なる所以なりといふ」(166ページ)。
ところで, 東京の人口増大にともなう糞尿総最の増大によって, 糞尿の偵 格は下落している。 明治28年頃には大人1ヵ年35銭, 小人1ヵ年17銭5厘と いう下掃除契約であったものが, 大正4年には大家1ヵ年 1円, 小家1ヵ年 60銭に下落している。需要者である農村からみると, 比較的隣接町村が都市 化した結果, これを得るの便益々大きくなった。 山の手の諸区に対しては農 家は1ヵ月1人につき掃除料2銭を払うものの, 束京市の中心である日本橋 区,京橋区等は掃除人が乏しい結果,却って下掃除料を出す傾向にある(163 ページ), という。
3 『み>ずのたはこと』 における東京近郊農村の描写
以上は小田内氏によって明らかにされた東京西郊農村の状況であるが, 以 下,本節では蔵花の 『み、ずのたはことJにおける描写をみていきたい。本稿
-138-
直花徳盆健次郎rみ、ずのたはことがこおける束京近郊農村 497 では『明治文学全集42 徳富眩花集』(1966年 筑床苦房)収録のものによる。
(1) 村の屎観など
腋花の居所束京府北多靡郡千歳村大字粕谷は, 東京市の西約3里に位讃し ている。 干歳村は北多摩郡の最東部で, 後の1935年に, 南隣村の砧村ととも に世田谷区に編入されて東京市の一部となった。 臆花は, この魯のなかで,
この千歳村は, この村のちょうど中央にあたるこの粕谷のほか上祖師ヶ谷. 下 祖師ヶ谷,船橋, 廻沢, 八幡山, 為山. 給田の8字からなる, 烏山. 給田は甲 州街道に沿ってあり, その他はいずれも街道の南北1里余の間にある, 烏山 が一番戸数が多く200余戸, 一番少ない のが八幡山の19戸, ついで粕谷の26 戸, そしてその他は大抵50-60戸である, と記している(208ページ)。 ある いは戸数550戸, 畑555町歩としている(342ページ)。 蔑花の住居は, この千(9)
歳村粕谷の南耕地にある。 そこは, 徳川の御林を明治になってから拓いた新 開地で, 古くて30年, 20年前に株を分けてもらった新家の集落で, 粕谷のな かでも一番新しく, かつ人家がことに疎であるが, 蓋花の居宅はその最南端 である(262ページ)。
この武蔵野の千歳村ではあるが, 後の一書によると,「地勢は概ね乎坦で あり, 起伏に乏しく. 南方砧村に接する台地から一眸の間に展開した所謂 武蔵野平原を表現し, 只僅かに束部を烏山用水, 西部を三麿村, 新川丸池 より発する給田川が流れ, 其の両岸が低地で多少の水田があるに止まり其 の他は大体梢々高い広澗な畠地であつて甚だ単調なる憾なしとしない」 と あり, 蔵花自身も「千栽村にはあまり気がなかった。近い と聞いた玉川は(IO
(9) r東京府統計書』 によると, 明治44年12月31日の同村は, 戸数551戸, 人口3,757人
(男1,735・女2,022), うち入寄留117人(男53・女64), 本箱人口3,970人(男1,871・
女2.099). うち出寄留283人(男143・女140) を含め他出人口330人(男189・女141)。
なお, 田92町4反6畝, 畑566町2反2畝, 宅地205,203坪(68町4反), 森林153町5 畝. その他とも合計885町1反7畝。
(10)東京市監査局都市計画謀『東京市域拡張史一干歳村・砧村編入ー』1937年35ページ。
図.旧干歳村概略図
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至綱布方面
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ii.花公園 (ii.花旧宅)
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直花徳富健次郎乃ヽずのたはこと』における東京近郊農村 499
ー里の余もある」と記し, この多摩川の遠いことを繰り返し残念がってい るが, なお「風娯も平凡である」としている(206ページ)。 しかし, のどか
岬園風景が展開していた。村の眺望は, 後に見る京王電鉄が墓地敷地予 定地として買収にかかった所に建てた 「霊場敷地展望台」 からの描写があ る。「望台を中心としてほゞ大円形をなした畑地は, 一寸程になった麦の 岬, 甘藷を掘ったあとの紫がかった黒土, ぺったりと緑青をなすった大根畑,
,明るい緑色の白菜畑, 白つぽい黄色の晩陸稲, 入乱れて八方に展開し, 其周 囲には霜に染みた雑木林, 人家を包む樫木立, 丈高い宮の赤松などが遠くな り近くなりくるりと取巻いて居る。北を見ると,・・・・・・鳥山 の木立の間に見え 隠れ,……。 西を見れば, 茶褐色に焦れた雑木山の向ふに, 濃い袋色の低い 山が横長く出没して居る。 多窄川の西岸を縁どる所謂多摩の横山で, 川は見 ぇぬが流れの筋は分明に指さ入れる。 少し西北には, 青梅から多摩川上流の 山々が淡く見える。 西南の方は, 富士も大山も低った空に潜むで見えない」
(344ページ)。なお, この日は母ったため見えないが, 富士山の眺望はすば らしい。
当時京王電鉄もなく, 東京との往来は10丁ほど(262ページ)北にある る甲州街道を徒歩によるのである(調布行きの馬車がある)。瓶花も歩いた。「束 京へはよく出た。最初の一年が間は,甲州街道に人力車があることすら知らな かった。調布新宿間の馬車に乗る すら稀であった。 彼等が千歳村に越して間 もなく, 玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが, 彼等 は其れす ら利用する
ことが稀であった。 田舎者は田舎者らしく徒歩主義を執らねばならぬと考へ 99 た。 彼も妻も低い下駄, 草珪ある時は高足駄をはいて三里の路を往復した」
(213ページ)。 もっとも, 京王電鉄 は蔑花の 「居村から調布まで已に土工を 終へて鉄線を敷きはじめた」(204ページ) ということで, まもなく開通とな るのである。
この村の四季・村人の生活は本書の随所に記されているが.「麦の穂稲穂」
中の「村の一年」(238-247ページ)における 1ヵ年 12ヵ月の月々の記述が
500
四季と村人の生活を季節を追って 記した箇所である。そのほかにももちろんf 多く,例えば,「村芝居」(258-259ページ)には深夜に及ぶ村芝居の模様,
平索は暗くて淋しい八幡社の界隈の夜店のにぎわいが描かれ,「葬式」(25h 255ページ)には葬儀の模様が描かれているなど,人々の風俗,習俗が描写 されている。また,「草葉のさ、やき」のなかの 「潰瘍」(219-223ページ)
はある一家の推移 ・ 命運を記したもので,典味深い記述である。
(2) 大都市束京との関係
この村の昔ながらのものであろうが,東京との関係をみょ この点については, 「東京が大分攻め寄せて来た。束京を西に距る唯ミ 以上の描写は,
フ。
里,東京に依つて生活する村だ,二百万の人の海にさす潮ひ
<i夕
の余波が村に響いて来るのは自然である」(201ページ), 「……然し此の数年来賭博風は 吹き過ぎて,遊人と云ふ者も東京に往つたり,比較的堅気になったりして,
今は村民一同真面目に稼いで居る。其筋の手入れが届くせいもあるが,第一 遊んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである」 (201-202ページ), 「+年 前の此村を識つて居る人は, 皆稼ぎ様の猛烈になったに驚いて居る」(201ペ ージ)などという記述が示している。以下,個々のことがらについての描写 をみよう。
(イ)下肥とり
「此辺の若者は皆東京行をする。此辺の 『束京行』 は匝ちにr不浄取り』
を意味する」という書出しで始まる「不浄」において「奨尿汲取り』 の様子 を描く。 「東京を中心として,水路は別,陸路五里四方は東京の『掃除』 を 取る。荷車を引いて,H帰りが出来る距離である。荷馬車もあるが,九分九 厘までは手車である。ずツと昔は,細長い肥桶で,馬に四桶附け,人も二桶 担つて持つて来たが,後,輪の大きい大八車で引く様になり,今は簡易な荷
車になった。彼の村では方角上大抵四谷,赤坂が重で,稀には麹町まで出か けるのもある。弱い者でも桶の四つは引く。少し力がある若者は,六つ,甚 しいのは七つも八つも挽く。 一桶の重最十六貫とすれば,六桶も挽けば百貰
-142-
直花稔富健次郎rみ、ずのたはこと』における東京近郊農村 501
からの重荷だ。あまり重荷を挽くので,若者の内には眼を悪くする者もある」
{274ページ)。 その出立・ 姿格好はつぎのようである。
噂引草珪.夏は経木其田の軽い柑,冬は釜底の9Bを阿弥陀にかぶり.魚茶毛糸の襟 怨,中には樺色の食い毛糸の手袋をして.雨天には蓑笠姿で.車の心榛に油を入れた竹 筒をぶらさげ.空の肥桶の上に,馬鈴塙甘状の二簡三籠焚付疎桑の五把六束,季節 によつては宮蒲や南天小菊の束なぞ上積みにした車が.甲州街道を朝々幾百台となく東京 へ向ふて行く。午後になると.両腕に力を入れ.前1免みになつて,揉みあげに汗の珠をた らして,重さうに挽いて妍つて来る。 ……其等の車が陸絞として1暦つて来る。東京楊末 の飯屋に寄る者もあるが.多くは車を街道に片よせて置いて,木陰で麦や稗の弁当をつ かふ。夏の日ざかりには,飯を食ふたあとで,杉の木陰に伯々焉と哀て居る。荷が重い か.跨が悪いかする時は,弟や妹が中途まで出迎へて.後押して来る。里道にきれ込む と,砂利も入って居らぬ路はひどくぬかるが,路が悪い悪いとこぼしつヽ.格別路をよ くしようともせぬ。其様な暇も金も無いのである。 ……甲州街道の新宿出入口は.町幅 が狭い上に,馬,車の往来が多いので, 時々肥料単が怪我をする。•9,...」(274ページ)。
この糞尿取りが農家すべての仕事であることは小田内氏の書にもみたとこ ろである。 「衆議院議員の選挙権位は有つて居る家の息子や主人が掃除に行
,.〈」のである。 「東京を笠に被て, 二百万の御威光で叱りつくる長屋のかみ さんなど, 掃除人の家 に往ったら, 土蔵の二戸前もあつて, 喫整する様な立 派な住居に魂消ることであろう」が, しかし東京人は, これら汲取人を叱り つける。 「束京住居をして居た時, ある日隣家の御阻居婆さんが rーぱいにし なつて こぼる、 様になつてるものを, せつせと来てくれンじや困るぢやない かJと疱廂声で百姓を叱る声を聞いた」し, 鷹花自身も 「東京住居中は, 昼 飯時に掃除に来たと云つては叱り, 門前に肥桶を並ぺたと云つては怒鳴ったりし たものだ」と記している。もし,「東京界隈の農家が申合せて一切下肥を汲ま ぬとなったら, 束京は如何様に困るだろ」, しかし「叱られた百姓は黙つて 其糞尿を掃除して, それを肥料に穀物涯菜を作つては, また東京に持て往 つて東京人を養ふ。 不浄を以て浄を作り,廃物を以て生命を造る」のである
502
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循 環 構 造 と 農 作 物 の
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(274-275ページ)。薦花は,
(口)農作物と土地利用
ページ)という養蚕,このような記述は東京の影響や時代の推移を示すもの といえよう。
土地利用における変化は,「東京で瓦斯を使ふ様になつて,薪の需要が減 った結果か,村の雑木山が大分拓かれて麦畑になった。道側の並木の楳楢な ぞ伐られ掘られて,短冊形の荒畑が続々出来る」 (201ページ)にみることが できよう。
濃き近村の松の梢に,何時の程からか紅臼染分の旗が翻つた」 (341ページ)で 王電鉄が沿線繁栄策の一つとして,先々東京市内の寺院墓地を移転することを
(ハ)土地買収・地価上昇
都市化の影響は土地買収・地価の上昇となってあらわれる。 「京王電鉄が 出来るので,其等を気構へ地価も騰貴した。{農が最初買うた地所は坪四十銭 位であったが,此頃は壱円以上二円も其l:もする様になった。地所買ひも 追々入り込む。……洋服,白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍 見する毎に,儀は眉を盟めて居る」 (201ページ),
すさまじいのは京王電鉄の寺院塞地移転用地買収である。
と記している。
意図して買収し始めた敷地20万坪を仕切る目印の一つである。京王電鉄は東京 の寺院や墓地を誘致して沿線に活気をつけるとともに,なによりも買った敷地 を売却して一儲け しようとしているのである。20万坪の関係地主は53名 1
―-144-
これについての叙述は「余の書窓から西を眺むる甲斐の山脈を破して緑色 始まる。この紅白染分の旗は「機動演習の目標」かと思ったが,なんとそれは京
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直花徳富健次郎rみ、ずのたはことJにおける東京近郊農村 503 人あた り3,773.58余坪= 1町2反5畝余である。そのうち,8万坪19地主が
(11)
亮渡承諾の契約帯に調印した。買収に応じないのは34地主,12万坪である。
I前者は 1人あたり4,210坪余=1町4反余,後者は3,529坪余= 1町1反7畝 余となる。「田舎はもとより金が無い。比較的小作料の低廉な此辺の大地主 I
は,地所を荷厄介にして居る。また大きな地主で些派手にやつて居る者に借 金が無い者は殆んどない。二十万坪買収は,金に渇き切つた其或人々にとつ
,て,旱田に夕立の福音であった。財政整理の必要に迫られて居ると知られた i某々の有力者は,電鉄の先棒となつて,盛に仲間を造りはじめた。金は無論 欲しい。脅嚇も勿論利く」(342ページ)。蜘糊する者もあったが,かくして
I
19名の地主が売渡契約書に調印したのである。l 土地買収に応じないものは,53名中34名,20万坪中の12万坪である。その I言い分として鷹花はつぎのように記している。「東京が段々西へ寄つて来て,
豊多床荏原の諸郡は追々市街宅地や工場等の場所になり,以前専ら穀作と焚 蚕でやつて居た北多摩郡が豊多摩荏原に代つて裁菜や園芸品を作る様になり,
土地の価は年々上つて来て居る。然るに北多摩郡でも最も東京に近い千歳村 の僅か五百五十五町歩の畑地の中,地味も便利も屈指の六十余町歩,即ち畑 地の一割強を不毛の寺院茎地にして了ふのは,惜しいものだ。殊に寺院墓地 の如き陰気なものに来られては,9易気な人間は来なくなり,多くなるものは 農作物の大敵たる鳥雀の類ばかりだ。廿万坪の内には宅地もある。貧乏
111
を I弓I当てた者は,祖先伝来の家屋敷や畑をすて.'代地と云へば近くて十丁以 I内にはなく,出でて他郷に流離するか,地所が不足では晨をよして他に転業'しなければならぬ。千歳村五百五十戸の中,小作が六割にも上つて居る。大 面積の寺院墓地が出来て耕地滅少の結果,小作料は自然騰貴する。小作料の 騰黄はまだ好いが,中には小作地が不足して住み馴れた村にも住めなくなり,
(11)原文では,30地主となっているが,関係地主総数53,買収に応じたもの19を正しい ものとみなして,34とした。
504
東京に流れ込んだり,悪くすると法律の罪人が出来たりする。それから寺餡 墓地は免租地だから,結局村税の負担が増加する。何も干歳村の活気ある赫 地を潰さず共,電車で五分間及至十分も西に走れば,適当の山林地等沢山あっ て,其辺の者は墓地を歓迎して居る」。以上を反対の理由のおおよそとしで いる。そして,「尤も中に多少の魂胆もあらうが,大部分は本当に土に生き土に 死んで居る自作農の土に対する愛着からである」(342ベージ)としている・ぐ 薩花は,京王電鉄が建てた袋地敷地展望台に登った。それは「茶と桑に二 方を劃つた畑の一部を無遠虚に踏み固めて,椋梱縄索縄で丸太をからげ組み 立てた十数間の高櫓」である。その四囲の見睛らしはすばらしい。しかしこ のわれを忘れるよう な眺望のなか,ここが墓地敷地展望台であることを思い 返してあたりを見廻すと, 「此望台を中心として,二十万坪六十余町歩の 耕地宅地を包囲して,南に東に北に西 に規則正しく間隔を薗いて高く樹梢1こ 闊つて居る十数流の紅白旗」 があるが,それは「戦わ ずして已に勝を宣する 占領旗かと疑はれ.中心に突立つてあたりを見下ろす展望台は,荘爾とし てこ>に耕す人と其住家とを呑むでかかつて威嚇して居る様」である(344ぺ' ージ)。京王電鉄の土地買収攻勢はすさまじい。すなわち,先棒をかつぐ村内 有力者某々等をして運動せしめるとともに,「関係地主の過半数は反対であ るにも関せず,会社は村長の奥印をもつて東京府庁に宛て、慕地新設予定地 御臨検願を提出して了ふ」。先の雹場敷地展望台を建てる。そして挙句の果て 土地収用法の適用をちらつかせる。そして 「電鉄の手で双へば 一反五百七十 円から五百五十円まで 3買ふが,土地収用法がものを云へば一反三百円か高 くても三百五十円は越さない,其でも好いか,好ければ今に見ろ。斯様な調 子でのしか、つて来た」(343ページ)。
このような京王電鉄の高を括った高圧的手段に,「売る者は売れ,俺等は 売らぬ,と澄まして居た反対側の人達も,流石に怒り出した。腰弁当,提灯 持参,草桂がけの運動がはじまつた。村会に向つて,墓地排斥の決議を促す 申請苔を出す。村会に於いてはまた,大多数を以て墓地排斥の建議案を通過
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鷹花徳京他次郎『みゞずのたはこと」における束京近郊農村 505
するぞと意気込む。 それから連判の陳情書を東京府庁へ出すとて, 余にも村 民の一人として賛成を求めて来た」(343ページ)。
この問題についての蔑花の考えは, 上述の引用にも明らかであるが, より 鮮明につぎのように述べている。「余はある人に斯う云ふた, 不急の地所が あるなら兎も角, 恰好の代地があつたら格別, でなければ農が土を手放すは 魚の水に離れるやうなものだ, 金なんか直ぐ泡の様に消えて了ふ, 今更農を やめて転業するなぞは十が十堕落の原だ」(342ページ)。「都会が頭なら, 田 舎は臓腑ではあるまい乎。頭が臓腑を食たなら, 終には頭の最後ではあるま ぃ乎。 田舎はもとより都会の恩を被る。 然しながら都会を養ひ, 都会のあら ゆる不浄を運び去り, 新しい生命と元気を都会に注ぐ大自然其のま、 の役目 を勤むる田舎は, 都会に貢献する所がないであろう乎。 都会が田舎の意志と 惑情を無視して吾儘を通すなら, 其れこそ本当の無理である。 無理は分離で ある。 分離は死である。 都会と田舎は一体である。農が濫りに土を離る、日 は農の死である。 都が田舎を潰す日には, 都自身が潰れるのである」(334ペ ージ)。薩花は農村と都市の調和を一方的に破る都市の横暴に抗議している。
蔽花をして「都会と田舎の此争は, 如何に解決せらる�であらう乎。京王 は終に勝つであろうか。村は負けるであろうか。 資本の吾儘が通るであらう 乎。労力の嘆きが聴かる、であらう乎」(344ページ)と言わしめたこの京 王電鉄の土地買収事件の結末は定かではない。 現在, 京王線千歳烏山駅から 北lキロメートルのあたりから先に烏山の寺町がある。 関東大裳災後に市内の' 寺院の移転によってできた 寺町であるが, 蔑花の記す袋地敷地として買収してr.
いる場所は,「品川堀が西へ曲る点に来た。丸太を組むだ高櫓が畑中に突立つ て居る」(343ページ)という墓地敷地展望台の位躍, 展望台からの 「北を見 ると, 最早鉄軌を 敷いた電鉄の線路が, 烏山の木立の間に見え隠れ,・・・・・・J
(344ページ)という眺望からすると,少なくともこの烏山の寺町のあたりで はない。 そして想定できるその場所あたり一帯には, そのような寺院, 墓地 はない。京王電鉄による買収は予定どおりには進展しなかったものと思われる。
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(二)労働力
小田内氏はこの時期の農業労働力の流出を記していたが,本書にはつぎの ような描写がある。
(ホ)乞食
「乞食」というなかに,つぎの一文がある。
「乞食も色々のが米る。春秋の彼磨三五月の節句,盆なンどには,服装も小ざつば りした女等が子供を負つて,幾組も隊をなして陽気にやつて来る。何処から来るの力:と 聞いたら,新宿からと云ふた。浅草紙,やす石鯰やす玩具など持て来るほンの申訳ば かりの商人実際のお貰ひも少からず来る。喰ひつめた渡り職人,仕事にはなれた土方,
都合次第で乞食になつたり窃盗になったり強盗になつたり追剥になつたりする手合も折 々来る。....9・一般的乞食の外に,特別名指しの金乞ひも時々米る。やりたくても無い時 があり,あってもやりたくない時があり,二拍子揃つて都合よくやる時もあり,ふかし 甘藷二三本新聞紙に包んで御免を蒙る場合もある。......」(236ページ)。
小田内氏は内藤新宿における細民街の形成を記していたが,束京の大都市
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「彼岸前の農家の一大事は,奉公男女の出代りである。田舎も年々人手が勘なく,好 い奉公人は引張り合だ。近くに東京と云ふ大渦がある,何処へ往っても直ぐ銭になる種 々の工場があるので,男も女も愚図々々云はれると直ぐぷいと出て往つて了ふ。寺本さ んの作代は今年も勤続と云ふが,盆暮の仕着せで九十円,彼様な好い作代なら廉いもン だ, と皆が羨む。亥太郎さんの末の子は今年十二で,篠田さんの子守に月五十銭で湿は れて行く。下唇の厚い久さんは,本家で仕事の暇を,大尽の伊三郎さん処で,月十日の きめで二十五円。石山さんが隣村の葬式に往つて居ると,娘が駈けて来て,作代が逃げ出 すと云ふので,石山さんは遠て、葬式の場から尻引つからげて作代引とめに走つて行く。
勘さんの嗣子の作さんは草桂ばきで女中を探してあるいて居る。些好さ、うな養蚕傭の 女なぞは,去年の内に相談がきまつてしまふ。メレンスの半衿ーかけ,足袋の一足,窃 と他の女中の袂にしのばせて,来年の餌にする家もある」(239~240ページ)。
雁用労働力が得にくくなっている様子が記されている。
薩花徳富健次郎rみrずのたはことJにおける束京近郊農村 507
とくに周辺部において形成された細民街の住民の生業を示唆 する興味深い叙述である。
文芸評論家佐藤勝氏は,この書について,「随所に,農村における人間葛 藤の悲喜劇や農村の四季の風景が描かれ」ているが, しかし 「ここには農民 l1)常住坐臥はあっても,農民の貧窮はない。農村の日常生活はあつても,農 村の経済構造はないのである。……ここに登場する農民は多分に江戸時代と
,少しもかわらぬ8常を過している農民であり,ここに描かれている農村は多
:分に封建制下と少しもかわっていない農村である。明治も終り近く,都会の資
ない」,そして,薩花の認識のなかには,「資本主義経済機構と半封建的土地 制度との二重の収奪に苦しむ現実の農民の姿は,入りこむ余地を見出すこと(I�
ができない」と記している。しかしながら,以上にみてきたように,この書 は,地主・小作関係の描写がないなどというような限界はあるとはいえ,資 本主義経済にまきこまれ,変貌しつつある農村や農民生活を的確に描写した ものとなっているのである。
鷹花の旧居の南の方には品川用水,水無川が.北の方には幅ー間ほどの鳥 山用水などの二つの用水が流れている。水無川はまもなく東南の地点で烏山 用水に合する。蓋花の居村粕谷はこれらの用水に三方を囲まれた所である。
この用水にそって水田がひらけていた。1960年と記憶しているが,この粕谷 の農家が共同して稲作を行い,それが 「世田谷のコルホーズ」とかという大19
きい見出しの新聞記事となった。それはまもなくたち消えてしまったが,と もかくその頃は従来と同様のどかな田園風崇にくりひろげられていた。1964 年の東京オリンピックの頃から急速に変化する。水田は埋めたてられ,都営,
(12){祖慕勝「解説」『みみずのたはこと J::巻』(1959年角川書店文庫版)226, 228ペ
ーン。
本主義経済が次第に近郊の農村に浸透して行く姿は,ここではとらえられてい
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公団の集合住宅がつぎつぎと建ち, 小学校·中学校が建設された。 その前,
1950年代のなかば頃から雑木林や竹林などが少しずつ宅地に変っていった。
鷹花の頃, たけのこが東京市中で高く売れるということで畑や雑木林が竹林 に変ったが, 50年後にはそれは宅地となっていった。 薦花のそれになぞらえ ていうと, 都市化の波によって, 竹林が宅地に変った。 この都市化の新たな 波, それはかつてのそれとは比較にならない, 大きく, 高く, そして激しい それであった。 1950年代の早い時期より蔑花の旧居のほど近くに居住し, ゃ がて始まる高度成長期におけるこのあたりの変化を目のあたりにみた筆者に とっては, このような変化と重ねあわせることによって, この随筆集におけ る描写はいっそう典味深いものとなるのである。