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真宗教学史の転轍点

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はじめに

  親鸞(一一七三~一二六二)の主著『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)の本論は、次の言葉に始まることは周知の通りである。

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真 実の教行信証あり。

親鸞は浄土真宗と名付けた仏道が往相と還相という二種の回向によって成り立つことを、その主著の冒頭に宣言する。後に詳説するが、往相・還相とは曇鸞(四七六~五四二)『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』)が、回向門の解釈として提示した言葉である。簡単に言えば、往相は自ら修めた功徳をもって一切衆生と共に往生しようとするすがた、還相は浄土に生まれ菩薩としての修行を完成させた 1

《研究論文》

真宗教学史の転轍点 ──相伝教学批判たる香月院深励の還相回向論──

大谷大学真宗総合研究所東京分室PD研究員

          

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後に穢土に還って一切衆生を教化して仏道に向かわせるすがたである。この曇鸞の解釈を、親鸞は自身の思想の骨格として受容したのであるが、その際に回向の主体を阿弥陀如来としたところに親鸞独自の了解がある。この如来回向という了解において往相・還相が何を表すことになるのかは、親鸞思想の解明における最も重要な論点である。

  ところで、近年この親鸞の、特に還相回向理解について積極的発言をしているのが末木文美士であり、例えば次のような発言を行っている。

近代的な解釈は、この他力主義に基づいて、現世の衆生は往相しかなく、それも阿弥陀仏の他力の回向で成り立つものであるから、他の衆生の救済など考えるべきではないと主張する。まして還相回向は往生してから後のことであるから、そんなことは現世で考えるべきことではないとされてきた。

末木は、還相回向に関する近代的解釈が死後のこととして現世では無関係とされていると批判的に指摘し、死後に限 定されない還相回向理解を模索する。さて、今末木の言葉を取り上げたのは、その還相理解の是非を問うためではなく、ここで言われる「近代的な解釈」とは何なのかを問題にしたいからである。ここで末木は、具体的に誰のどのような説を念頭に「近代的な解釈」と述べているのかを明示していない。そのため、この末木の指摘が妥当かどうか検証することは不可能である。

  末木が指摘する「還相回向は往生してから後のこと」という典型例として筆者の念頭に浮かぶのは、後述する近世後期の真宗東派(大谷派)を代表する学僧の永臨寺香月院深励(一七四九~一八一七)の理解である。この深励の影響力は当時だけでなく、近代以降にも波及している。例えば、深励による『教行信証』の講義録が明治二八年(一八九

五)から刊行されるが(~一八九八)、その序文を記した小栗栖香頂(一八三一~一九〇五)は、深励の仕事を「真宗之教相、拠是而確立、往生之安心、依之自皎白、洵本山之柱石、而宗門之泰斗也」と絶賛している。また、大正五年

(一九一六)には雑誌『布教界』で深励の百回忌記念の特集が組まれるが、そこでの次のような発言に注目したい。 2

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・佐々木月樵(一八七五~一九二六)私共が初めて宗学に志した時は、経論釈何れの講義も、殆んど皆な香月院によつたものである。そこで、私は教校に入つた時などは初めのうちは、宗学といふことはつまり香月院の講義を知ること、覚ゆることの様にまで思ふた。…中略…今から思ふて見ると、不思議な様にも思ふ。

・舟橋水哉(一八七四~一九四五)香月院や宗乗、宗乗や香月院と申してよかろう、私共が学校で宗乗を教へて貰ふ時分に、多くは香月院の義を採用したものだから、香月院といふ名が一番深く頭にきざみ込まれてある。

同号には同趣旨の発言が散見され、百回忌記念という贔屓目を差し引いても、近代の大谷派にあって真宗の学問とは深励の解釈を学ぶことだという認識が広く共有されていたと見ていい。それは要するに、近世の深励の解釈が近代以降において繰り返し再生産されたことを意味する。末木が 「近代的な解釈」と批判的に述べたものは、実はこうして再生産された「近世的解釈」だと考える。  近代の親鸞研究は、こうした前近代の受容・再生産という面を持つが、他面においてそれの克服という面も持つ。還相回向に即せば、例えば近代真宗教学を代表する曽我量深(一八七五~一九七一)は「還相回向という言葉を知っていても真実は誰も知らぬ」といった批判をしばしば口にするが、それは当時受容された深励を代表とする解釈を超え出ようとするものと位置付けられる。「近代的解釈」というなら、そのような問題意識に支えられた思索をこそ取り上げるべきであろう。  それを受容するにせよ、克服せんとするにせよ、近代の研究者にとって所与の前提として近世的解釈は強い影響力をもって存在した。ここで想起したいのが、先の小栗栖による真宗の教相は深励の講義によって確立したとの指摘である。これは裏返せば、深励以前の東派には、深励的理解とともにそれとは異なった様々な解釈が存在したことを意味する。深励の仕事は、そのような理解を一元化したところに求められよう。しかしながら、深励以前にどのような 6

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解釈が行われていたのかについての十分な検討はなされてきてはいない。

  近代における還相回向理解を考えるに当たっては、まず深励に代表される理解がいかに生み出され定着したのかを検討する必要がある。そのことが、近世の親鸞研究の一つの在り様と、それを受容または克服しようとした近代以降の親鸞研究の意義を明確にするとともに、今後の研究を切り開くことに繫がるだろう。

  そこで、まず深励に至るまでの還相回向理解について概観する。その上で、深励の主張が当時のどのような状況を踏まえてなされたのかを検討する。それをもって、近代以降の親鸞研究が持つ意義を考え直す手掛かりとしたい。本稿はそのささやかな試みである。

一、深励に至る還相回向理解の種々相

 

1、議論の前提としての親鸞

  まず議論の前提として、親鸞の回向論の特徴を簡単に押さえたい。二種回向は、天親(生没年不詳)『無量寿経優婆 提舎願生偈』(『浄土論』)の回向門に対する曇鸞の『浄土論註』の解釈に出る。・『浄土論』云何回向不捨一切苦悩衆生心常作願回向為首得成就大悲心故

・『浄土論註』回向有二種相一者往相二者還相往相者以己功徳回施一切衆生作願共往生彼阿弥陀如来安楽浄土還相者生彼土已得奢摩他毘婆舎那方便力成就回入生死稠林教化一切衆生共向仏道若往若還皆為抜衆生渡生死海是故言回向為首得成就大悲心故

『論註』が語る還相の意とは、浄土に生まれ終えた者がそこで方便力を成就することにより、この娑婆世界に現れて、衆生を教化して仏道に向かわせることと理解できよう。 9

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  この文章に、親鸞は『教行信証』「信巻」で次のように訓点を付した。

『浄土論』曰云何回向 タマヘル   不  捨

一切苦悩 衆生

作願 スラク  回向 エタマヘルカ   成コトヲ大悲心 ニトノタマヘリ

回向

二種 往相二 還相 ナリ

往相者 オノレカ  功徳 タマヒテ   一切衆生 作願  共 メタマフナリ    彼 阿弥陀如来 安楽浄土

還相者 ハリテ  得 奢摩他毘婆舎那方便力成就 スルコトヲ 生死 稠林

 一切衆生

メタマフナリ

    仏道

往若 還皆為 ニトノタマヘリ   抜 衆生 セムカ 生死海 コノノタマヘリト

回向為首得成就大悲心故

〈已上〉

親鸞の独自性は、通常願生の行者の実践行として語られた回向門の内容を、「回向したまえる」(回向門)、「回施したまいて」「往生せしめたまう」(往相)、「仏道に向かえしめたまう」(還相)とそれぞれに敬語を付けて、如来の回向と理解した点にある。また、それと共に他の著作における親鸞の発言も、当然考慮に入れなければならない。例えば、 親鸞が晩年に著した『浄土三経往生文類(広本)』には次のような言葉が記される。

如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は…

この文章は、信心獲得の契機としての二種回向と読むことができる。それは、一般に往生後と理解される還相と矛盾するように見え、このような親鸞の発言をどのように整合性をもって読むことができるのかが問題となる。

  このように、親鸞が敬語を付けて如来の回向として読んだとはいかなる意味か、また他の著作との整合性をどう考えるかが問われることになる。では次に、特に還相について、親鸞が何を述べようとしたかではなく、それを後の者がどのように理解したかを検証する。

 

2、初期真宗における理解―唯円と了海―

  親鸞の還相回向論について、まず比較的近い時代の門弟がどのように理解していたかを見てみたい。その代表は唯 12

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円(生没年不詳)『歎異抄』である。ここには「還相」という言葉はないが、第五条にそれに相当する理解はある。

たゞ自力をすてゝ、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々

『歎異抄』は、自力をすてて、浄土のさとりを得ることにより、他の衆生を思うとおりに利益することになると述べる。これは還相を表現したものと考えられる。親鸞が門弟にあてた手紙には「浄土にまいりてのち衆生利益にかへりてこそ…」という言葉がある。ここにも還相という言葉はないが、内容は『歎異抄』と軌を一にする。『歎異抄』の主張はこのような親鸞の理解を受けたものと評価でき、親鸞の還相理解の一面が確かに示されていると言えよう。

  ただ問題は、この『歎異抄』の理解が親鸞の思想のすべてを示しているのかどうか、である。『歎異抄』はやはりあくまで親鸞の一側面を一人の弟子が聞き取った限りのものと考えるべきであろう。   では初期真宗で、これと異なる還相理解を示すものはあるのか。そこで、阿佐布了海(一二三九~一三二〇)の『還相回向聞書』と『他力信心聞書』を見たい。この二つは、十八世紀半ばから東西本願寺の学僧により親鸞の曽孫覚如(一二七〇~一三五一)の『改邪抄』(一三三七)の所破として、多く邪偽書だと評される。確かにそのように評されるべき内容(真言・天台本覚思想・西山・時衆などの思想の混

在)を多分に含むが、しかしその中に親鸞の思想が全くないと理解することは逆に問題である。上記判定がなされるまで、この二つは真宗の聖教と位置付けられ、大きな影響を与えていたのであり、その内容は検討されねばならない。

  『還

相回向聞書』は正安二年(一三〇〇)に著されたものであり、親鸞没後約四〇年頃で、面授の弟子もまだ存命の時代である。本文には還相という言葉はないが、教化地という還相の菩薩を示す語は多くある。その根本にある観念は次のようなものである。

教化地ノ諸大菩薩ハ、カノ弥陀法王ノ使者トシテ、娑婆界ニイテヽ本願ノ宣旨ヲ帯シテマシマセハ、イカナ 14

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ル四重ノ鉄囲山ヲモ、ウチクツシテコヽロサス衆生ヲ化度シタマフニサワリナシ。

コノ教化地ニマフアヒタテマツリテ、オシヘノコトク、願力ノ不思議ヲ信シテ、即得往生住不退転スルヲ、一念発起住正定聚トイフ。

ここで我々に弥陀の本願を教える存在を、浄土から娑婆に出た菩薩、つまり還相としてとらえていることが分かる。

  また、著述年は不明だが「思想的には『還相回向聞書』と同じ」と言われる『他力信心聞書』には次のようにある。

コノ二種ノ回向トイフハ、本願他力ノ名号ナリ。コノ本願ニヨリテ衆生往生スルヲ往相トイヒ、コノ本願衆生ニ往生ヲアタフルヲ還相トイフナリ。

  意味は取りにくいが、本願によって衆生が往生することそのものを往相とし、その往生を与える本願の間接的働きを還相とするということであろう。同書には「知識ト申ハ 他力ノアラハルヽ使者ノ名也。モシコノコトバナクハ、劫ヲフルトモ念仏ノ信アルベカラズ」などとあるから、往生を与える還相とは『還相回向聞書』と同様に菩薩の教化を意味すると考えられる。  ではこのような観念を了海はどこから得たのか。例えば『還相回向聞書』の「教化地ノ諸大菩薩ハ、カノ弥陀法王ノ使者」という表現は、親鸞『尊号真像銘文(広本)』の「源空聖人は釈迦如来の御つかいとして、念仏の一門をひろめたまふ」を受けたものと考えられる。また『他力信心聞書』には「形ヲミレバ法然、コトバヲキケバ弥陀ノ直説ナリト云々」という言葉があるが、これは『西方指南鈔』所収「源空聖人私日記」に依ったと指摘される。要するに了海は、親鸞が師法然(一一三三~一二一二)を讃えて「弥陀の化身」「如来の使い」などと述べたことを根本とし、そのような法然の位置付けを親鸞の還相論の具体相として想定しているのである。了海は当然自己の主張は親鸞から正しく受け継いだものと理解していたはずである。  梯實圓は「智慧光のちからより  本師源空あらわれて」といった『高僧和讃』を典拠に、親鸞が七高僧、特に法然 21

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を還相の具体相と見ていたとし、了海の理解と親鸞とを比較して次のように言う。

親鸞聖人も、善知識を還相の菩薩、教化地の大菩薩と仰ぎ、その本地は阿弥陀仏であるとまで尊敬されていたといえる。ただ親鸞聖人は、自身を善知識の位置においたり、師位に立つことを厳しく自戒されていた。

梯は、善知識を還相の菩薩と仰ぐ点では、了海と親鸞は同じだと述べる。その上で、了海が自分をその善知識に位置付けているようだとし、そこに相違点を指摘するのである。

  この了海の主張が、江戸期には知識帰命計(善知識だの

み)の異義として批判された。その批判の根拠は『改邪抄』だが、そこにも「願力不思議の仏智をさづくる善知識の実語を領解せずんば往生不可なり」といい、また「大聖権化の救世観音の再誕本願寺〈親鸞〉」などとある。少なくとも、善知識の重要性を強調し、その善知識の代表たる親鸞の本地を浄土の仏・菩薩と見做なしているのであり、その点では了海と覚如は同じことを言っているのである。   知識帰命計という批判には、自身を善知識と位置付ける場合と、善知識に盲目的に帰依する場合との二通りの批判が見受けられ、それらが問題であることに異論はない。けれども、そのことと自己に弥陀の本願を教えた存在を弥陀の化身と仰ぐこととは似て非なるものであり、厳密に区別されねばならない。そうでなければ、師法然を弥陀の化身と讃えた親鸞自身が異義を述べたことになる。その意味において、了海の理解は多くの問題をはらみつつも、その還相観念の根本のところに限定すれば問題ではないと考える。  これまで、初期真宗における親鸞の還相論に対する受け止め方を見てきた。親鸞の言葉に対する具体的な検討が行われていたわけではないが、そこには二通りの理解があることが明らかとなる。第一は我々が往生後に此土に応化身を示現し他の衆生を教化するという理解であり、第二は浄土の仏・菩薩が此土に応化身を示現して我々を教化するという理解である。単純化すれば、私が他者を教化するという方向と、他者が私を教化するという方向との二種である。この二種の理解は、江戸期には「機辺」と「仏辺」といった表現で議論されることになる。 30

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3、後代の規範となる覚如・存覚・蓮如   親鸞研究上、後代に強い影響力をもった人物として、親鸞の曽孫で本願寺の事実上の創始者たる覚如、その覚如の長男存覚(一二九〇~一三七三)、その後本願寺の第八代に数えられる蓮如(一四一五~一四九九)の名は挙げられるべきであろう。けれども、彼らの著作に還相という言葉が主題的に述べられることはない。しかし後の議論に繫がる注意すべき点として、二点挙げておきたい。

  第一点目は、覚如や蓮如の主張にいわゆる知識帰命批判が見られることである。覚如『改邪鈔』の第十八条は、「本願寺の聖人の御門弟と号するひと〴〵のなかに、知識をあがむるをもて弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもて別願真実の報土とすといふ、いはれなき事」という標題に始まるが、先に挙げたように、この所論が江戸期になって『還相回向聞書』『他力信心聞書』批判として受け取られるようになる。けれども、同条には「善知識において本尊のおもひをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しか るべし…」とも述べられ、善知識を讃仰して本尊すなわち阿弥陀仏だとの思いをもつことは当然だとされており、覚如自身も親鸞を大聖の権化と見做していることは先に指摘した通りである。では具体的に何が問題かといえば、「仏身仏智を本体とおかずして、たゞちに凡形の知識をおさへて如来の色相と眼見せよとすゝむらんこと」が指摘される。つまり、根本の弥陀の本願に思いをいたすことなく、目の前の宗教指導者を仏そのものと見做して、それ以外に仏はないとすることが問題視されているのである。法然浄土教の流れにおいて、弥陀の本願をないがしろにするような考えが批判されるのは当然である。先の了海が示す教化地の菩薩も、「本願ノ宣旨」を第一義としていることは言うまでもない。  蓮如において注意されるのは、『御文』第二帖第十一通での次の言葉である。

善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずば往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をす 34

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てゝ、たゞ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこゝろうべきものなり。

ここに知識帰命批判が見えるが、問題が「帰するところの弥陀をすて」る点にあることは、『改邪鈔』と同様と言えよう。対して「阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひ」とは、『還相回向聞書』における「教化地ノ大菩薩ハ、カノ弥陀法王ノ使者」と同様の表現であり、存覚・蓮如が『還相回向聞書』を書写していることから、その影響が指摘できる。また『蓮如上人御一代記聞書』第一二四条には「形をみれば法然、詞を聞ば弥陀の直説といへり」という言葉があるが、これも先に挙げた『他力信心聞書』からの引用である。蓮如やその周辺でこれらの表現は受容されており、批判されるべきものではなかった。

  第二点目は、『教行信証』研究の先駆けたる存覚『六要鈔』(一三六〇)での還相回向の扱いである。これも江戸期に議論の焦点となってくるのである。そこで問題になるのは次の二箇所である。

  一つ目は、『教行信証』全体における還相回向の位置付 けである。「浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり」と、浄土真宗の一翼を担うとされる還相だが、『六要鈔』は『教行信証』全体の構成を述べる際などに還相に言及しない。そのため、上記親鸞の言葉にも関わらず、『教行信証』解釈中に還相は非常に矮小化された扱いとなっている。二つ目は、「教巻」で示された二種回向について、それが如来回向であることの説明として、『論註』他利利他の深義の文を引用することである。

おおよそこれ、彼の浄土に生ずると、および彼の菩薩・人・天所起の諸行と、みな阿弥陀如来の本願力に縁るが故なり。…中略…今家特に如来他力回向の義を立つこと専らこの文に依る。

中略以前が『論註』の引用であるが、「浄土の菩薩・人・天の諸行が如来の本願力に縁る」というこの『論註』の文を、存覚は如来回向の証文とした。この存覚の解釈自体は奇異なものではないが、後の深励は、弥陀の還相という理解に対し、この点を繰り返し強く言及することになる。 37

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4、近世初期東派の堂僧―円智・噫慶―

  蓮如の時代以降、石山合戦を経て、江戸期に入り本願寺は東西に分派する。そして西派(本願寺派)では一六三九年に学寮が創設される。初代の能化(学僧最高位)は、出口光善寺准玄(一五八九~一六四八)であった。東派ではそれに遅れて一六六五年頃に学寮が創設される。これら学寮などを中心に、その後学問が研鑚されていくことになる。

  東派教学史上では恵空(一六四四~一七二一)が初代講師と語られるが、まず恵空以前の東派の堂僧(御堂衆)における還相理解を見ていきたい。一つは誓源寺円智(?~一

六六九)、二つは長覚寺噫慶(一六四一~一七一八)である。

  まず円智は「当時一派の学界及び講堂に対し、総括的地位にあった」と言われる重要な人物であり、恵空が師事した人物でもある。その還相理解として寛文三年(一六六

三)に刊行された『浄土文類聚鈔試解』(大谷大学図書館所

蔵、宗大四七〇五)を見たい。その中で直接的な還相の定義としては「還とは還来穢国、相とは利他教化の相なり。大 悲の妙果を名けて還相とす」(原漢文、上巻七丁オ)、「還相回向等とは、彼土の菩薩、穢国に還来して人天を度ふ、皆この願(第二十二願:筆者註)成就力に依るが故に」(原漢文、

上巻十九丁ウ)という程度で、『論註』の文面に沿った理解といえよう。ただ注目したいのは、親鸞『浄土文類聚鈔』で「証」について「利他教化地の果」とあるに対し、還相回向について「利他教化地の益」とあることについての解釈である。

これ正しく還来穢国の利益を示す。上に教化地の果と言は、自利利他の極果に約して、以て涅槃の異名とす。今教化地の益と云は、応化身の利益を示ふを顕す。果益の両字、請ふ、意を著して看よ。

ここで円智は「果」と「益」との二文字を区別せよと強く言うが、その教化地の益とは「還来穢国する応化身の利益」だとするのである。

  では円智が想定した応化身とは何か。それを『文類聚鈔』で往相還相について説き終わった直後の解釈に見たい。 43

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まず参考に『文類聚鈔』の親鸞の文を挙げよう。

ここをもって、浄土縁熟して、調達・闍王、逆害を興す。濁世の機を憫みて、釈迦、韋提、安養を選ばしめたまへり。つらつら彼を思ひ、静かに此を念ふに、達多・闍世、博く仁慈を施し、弥陀・釈迦、深く素懐を顕せり。…中略…聖権の化益、偏に一切凡愚を利せんがため…

これについての円智の解釈であるが、「調達、闍王」などについては、「調達闍王等とは、調達等還相回向の現証と為ふを示す」(原漢文、上巻二十丁ウ)とある。さらに「つらつら彼を思ひ」以下について次のように述べる。

「彼」とは『観経』を指し、「此」とは盖、還相回向の願を指す。「博施仁慈」とは、権よく実のために逆罪を造り、浄教を発起して、大悲逆罪を摂するの願意を彰す。故に施慈と云う。「深顕素懐」とは、二尊の大悲、偏に逆悪を愍むにあり。 円智は、親鸞はここで『観経』と還相回向の願を合わせて考えているのだと指摘する。そして『観経』の登場人物は、みな逆悪を摂取しようとする大悲を示すために仮に姿を現した権者であると言う。それが、円智が「還相回向の現証」と呼んでいる事柄である。円智が「彼土の菩薩、穢国に還来して人天を度ふ」と述べたのも、この文脈で理解されるべきである。彼土の菩薩とは「往生後の我々」ではなく、また「応化身の利益」とは権者によって我々に大悲が顕示されること、つまり親鸞の言う「聖権の化益」だとされているのである。  ただし、円智は同年の『推験鈔』で、『歎異抄』第五条を挙げて「浄土に生まれて還相回向の大悲に住して平等に一切衆生をたすけんとおもふべし」と、上記と異なった理解を述べている。円智においては、浄土の菩薩が還相回向として我々を教化し、またその我々は往生後に還相回向として他の衆生を教化するというように、二つの理解が何等の矛盾なく了解されていると言えよう。  次に噫慶は、恵空が講師になる前の講堂で「元禄の初頃より、直接指導監督に従事した」人物である。当時地方で 47

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の諍論に本山の命で使僧として下ることもしばしばであり、また各地御坊輪番も務めた。その噫慶の『浄土論註聞書』の還相回向理解を見よう。

  まず注目されるのが、その講義が「誠に『六要抄』の謬解に依りて『教行証』の御祖意隠れて古今の学者誤る事」と、存覚『六要鈔』への批判から始まることである。では何を批判するのかというと、『教行信証』における還相回向の位置付けがはっきりしていないという点である。またその他にも「真身観仏」理解など種々の点を挙げた上で噫慶は、覚如が存覚を「附仏法の外道」として勘当したことはもっとも至極だと述べていく。

  ではその噫慶の還相理解はどのようなものなのか。

「回向有二種」等とは、古来の義に、「往相」は此土の益、「還相」は得生已後の浄土の益と云々。今云わく、往還の二種は自利と利他となり。然れば、文に顕わして説くに、暫く自利々他と次第すといえども、往還の二種は両輪両羽の如く相離れざる故に得る時に至りて全く前後なし。…中略…今日往相回向に依り彼の 土に往生して捨此穢身の後、還相の利益を得ると云える古来の義、甚だ誤れり。夫れ還相の欠けたる往相は実の往相に非ず、故に往生すること叶わず。…中略…故に在家無智の輩は往還の名をも知らず、本より小慈小悲のなければ、利他教化の心は更になけれども、往相の信心を得れば此の得るところの信即ち利他円満の大悲心なる故に、信ずる立ち処に知らずして還相の利益を得る、他力自然の益なり。誠に平生に報土の証果を満足する事、自利々他円満の信心なる故なりと云々。

まず噫慶は「「往相」は此土の益、「還相」は得生已後の浄土の益」という古来の義を挙げつつ、これを「甚だ誤れり」と強く批判する。噫慶の理解では往相と還相の二種は「自利と利他」を意味し、そこに時間的前後はない。そして往相と還相の二つは離れないため、利他の心はなくとも、往相の信心を得る時に知らずして自然に利他の実現が与えられるというのである。こうした自利利他円満の信心であるから、平生に報土の証果を満足すると噫慶は結論する。これは、往生を願った法然をして、弥陀の化身だと親鸞が 51

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讃えたことを念頭に置けば、当然出てくる発想であろう。ともかく、こうして「往相即還相」的な理解を噫慶は示していくのである。近い時代とはいえ、円智とはかなり趣を異にする理解であると言えよう。

 

5、相伝の『深解科文』

  次に相伝教学における『教行信証』理解を示す『深解科文』を見たい。相伝教学とは、本願寺歴代が口伝で伝えたとされる教えである。そして、その教えに断絶が起こることを憂えた蓮如が、近親の家柄の寺院五家に分け伝え、断絶の際にはこの相伝家から次代門主に伝授(返伝)するというシステムが作られたとされる。草野顕之は、この相伝の形式の確立は本願寺の一門一家制と関わり永正十七年

(一五二〇)頃と推測しつつ、その時代は「『教行信証』の伝授自体は一家衆・坊主衆・御堂衆など全ての教団構成員に対して行われている」とし、その教学内容自体が特殊なものとしてあったわけではないようである。この相伝家も東西分派でそれぞれに分かれるが、やがて西派では、元禄 八年(一六九五)に相伝家の出口光善寺寂玄(一六五五~一

七二六)と名塩教行寺寂超(生没年不詳)が異義とされる事件があり、光善寺寂玄は東派へ帰参することになる。少なくとも、以後の西派に相伝教学は存在しない。

  東派では、末寺最高位寺格の五箇寺が相伝家に由来するとされるが、その相伝家は箸尾教行寺などがあるも伝統は断絶していたという。歴代の門主には相伝の伝授がなされていたと伝わるが、真如(一六八二~一七四四)から従如

(一七二〇~一七六〇)へは伝授されなかった。そのため従如は延享二年(一七四五)に、西派より帰参した寂玄の子の光善寺一玄(一六八三~一七四六)より返伝を受けることになる。なおこの際に、一玄の子の真玄(一七〇九~一七五

二)、そして琢如(一六二五~一六七一)の孫であり常如(一

六四一~一六九四)・一如(一六四九~一七〇〇)の甥にあたる八尾大信寺真智(一七一一~一七四五)と堺真宗寺真覚

(一七一五~一七六一)が、御相伴をして同じく相伝を受けている。その後、この真覚から長男で真宗寺を継ぐ実厳院真昭(超尊、一七三一~一七八三)が相伝を受ける。この真覚・真昭がさらに射和本宗寺に入る光尊院真詮(超弘、一 56

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七二五頃~一八〇二)に伝授し、また安永七年(一七七八)には従如から伝授を受けられなかった乗如(一七四四~一

七九二)の希望により、真昭から乗如への返伝が行われた。その伝授の模様は、真昭の日誌『還源録』に詳しい。

  このように見ると、十八世紀半ば以降の東派で「相伝」といえば光善寺伝統を指すことがわかる。現在翻刻されている『真宗相伝義書』『真宗相伝叢書』も、その多くは一玄・真玄の手に成るものであり、発想の基づく所は古く遡るとしても、一玄・真玄の著作自体は十八世紀前半の彼らの思想と見ねばならない。むしろ、この頃に彼らが口伝を文章化しなければならなかった必然性こそ問題であろうが、それは措いておく。ともかく、それが光善寺帰参以前の東派における「相伝」と、系統は異なるとしても、同質か否かは検討が必要である。ただし、当時の東派が光善寺を受け入れたのは事実であるし、寂玄の手控えには帰参後に噫慶と談合し「相承の口授符節をあはするがごとし」であったとされ、その後に一玄が噫慶の下で学んでいることは注意が必要であろう。一玄『論註講記』(一七四四)に「往還は不二」「往相即還相」といった表現があるのは、噫慶の 影響とも考えられるのである。

  さて相伝教学で、『教行信証』伝授の規範に据えられるのが『深解科文』である。「解題」によれば、蓮淳(一四

六四~一五五〇)、蓮芸(一四八四~一五二三)、実順(光善寺

兼珍、一四八九~一五四九)の三師等が作成されたものと伝えられているという。『深解科文』は、まず冒頭に『教行信証』全六巻全体の科文(惣科)として二種回向と六巻の関係を記し、その次に総序以下本文の具体的な科文を示す。この惣科に示される二種回向理解が、極めて重要なものとされており、これを確認したい。

  『深解科文』は『六要鈔』と異なり、

『教行信証』全体の内容を往相と還相に二分し、「証巻」の途中「二言還相回向者」以降、「化身土巻」の終わりまでを還相の内容とする。その基点になるのが「証巻」冒頭の自釈の「弥陀如来従如来生示現報応化種種身也」である。そこで「顕真実証」の内容を二分し、「従如」の内容を往相回向の真実証とし、「来生」の内容を「二言還相回向者」以下としつつ、その還相回向の具体相として報身土が「真仏土巻」、応化身土が「化身土上巻」(本)、種々身が「化身土下巻」(末) 63

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として展開していくとする。『教行信証』の一々の内容まで今は立ち入れないが、弥陀が如より来生しさまざまにその身を示現するという親鸞の記述をもって還相回向を示したものとするという理解である。これは先に示した『還相回向聞書』などと親和性のある理解であろう。そして、この理解こそ後に深励が問題視することになる。

 

6、東派初代講師恵空の理解の変遷   円智や噫慶などの堂僧は、御堂の勤仕など用務多端であったが、その役務を離れ学問研鑽に専念することを許されたのが恵空である。次に彼の理解を見ていこう。

  寛文七年(一六六七)、恵空二四歳の著作として『浄土釈疑集』がある。その「往還回向他力事」という段で、還相に関する次の問答がある。恵空の還相理解の基本は「往生後の利他行」とする。その上で、ここでは「二種の回向によりて一心を獲得する」といった親鸞の言葉を挙げて、「還相はこれ出門、果後の一事なり。何ぞ還相に依って生を得と曰うや。」と、還相が因のように説かれることへの 疑問を提出する。  それに対し恵空は次の五義で答える。第一義は、往相還相は自利利他の意味であり、利他心がなければ往生できないという意味。第二義は、仏の還相利他の大悲施化によって、衆生は今往相の心行を得るという意味。第三義は、往生というより成仏の実現について往相還相を語っているという意味。第四義は、往相を誓う願と還相を誓う願を信ずるところに一心が生じるという意味。第五義は、往相還相はその体が名号であり、その名号によって信心を得るという意味。この五義の中、第一義は噫慶の理解と同じであり、第二義は『還相回向聞書』などに近いと言える。そして恵空自身は、第四義と第五義を穏便と評するのである。  その後、元禄十一年(一六九八)恵空五十五歳の著作として『叢林集』がある。その中の二種回向の段でも『浄土釈疑集』と同様に、果後の利他たる還相について親鸞の和讃などに「入門に属するに似たり」というべき言葉があることを疑問視する。これについて五念門はすべて入の因であるとしつつ、恵空自身は次の解釈を示す。まず還相利他は、二利円満の仏果に対して因であると押さえる。そして、 76

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仏の回向の中に往相と還相があるのであるから、その二種の回向に依って往生を得るといい、また浄土の菩提も得ることになるという意味だ、と結論付けるのである。これは先の『浄土釈疑集』の五義で言えば、第三義と第四義を合わせた解釈だと言えよう。

  問題にしたいのは、『浄土釈疑集』での第二義、すなわち如来の還相によって心行を得るという理解が全く消されていることである。この三十年の間に恵空に何があったのかは想像しかできないが、『還相回向聞書』と『他力信心聞書』の問題ではなかろうか。恵空は、年代は不明であるが、『仮名聖教目録』を作成している。そこでこの二つの書は「以上十部ノ類。或全篇。或少分。不審多。難信者也」という一群に入れられている。上記の第二義はこの二つの書と近い理解であり、これらが不審多しと判定されることにより、この第二義も恵空の理解の外に追いやられたのではないだろうか。  

7、高倉学寮の初期―恵然・恵琳―

  宝暦五年(一七五五)、東派学寮は高倉魚棚の地に移転拡充される。その後、講師・嗣講・擬講といった職制などが整備され、いわゆる高倉学寮が誕生する。ここから教団教学が、堂僧の手を離れ、高倉学寮によって担われていくことになる。その初めに学頭たる講師の地位に就いていたのが、堺専称寺恵然(華蔵庵、一六九三~一七六四)とそれに続く勢州西弘寺恵琳(仏乗坊、一七一五~一七八九)である。そこで高倉学寮初期の理解として、恵然『浄土論註顕深義記』(一七五〇)及びその解説である恵琳『伊蒿鈔』(一七五

九)を取り上げたい。

  恵然は、親鸞が回向を如来の本願力の回向と解したことについて「今試解之。祖意復有二義」として、『教行信証』「証巻」の「大悲往還回向」と、『文類聚鈔』での「往還大悲回向」という二つの言葉の違いで二義があり、この区別をはっきりさせないといけないという。その二義について恵琳の簡潔な説明を見よう。 79

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証巻ニ大悲往還回向ト云フハ往還ヲ法蔵ノ大悲ニモタセテ大悲ノ往還ノ回向ト云フコヽロ。文類ハ往還ノ二ツトモニ衆生ニモタセテ其往還共ニ如来ノ回向トイフ意ナリ。

つまり、前者が法蔵菩薩の往相還相であり、後者は衆生の往相還相を意味するという。後者は衆生の往相還相が如来の回向によって成り立つという理解であるが、問題は前者の『教行信証』に示されているという法蔵の往相還相とは何を意味しているのか、である。

  恵然は次のように述べる。

この功徳を以て遂に光寿無量の勝報を成じ、「我世において速やかに正覚を成り、諸の生死勤苦の本を抜かしめん」との大願を満足し、さらに報応化種種の身を現じて「常に大衆の中にして説法獅子孔せん」との誓いを成就す。

これは、法蔵の願行により光寿無量の勝報を成ずることが 往相であり、「常於大衆中  説法獅子孔」の成就として報応化種種の身を現ずることが還相だと述べているものと考えられる。この還相について、恵琳は次のように解説する。

衆生ヲ無上正真道ニ教化安立セシムルハ。コレ法蔵ニトリテハコレ還相回向ノ相ナリ…中略…一如ヨリ形ヲアラハシ。報応化龍鬼非仏ノ種種身ヲ示現シテ名声超十方ノ利益ヲ施シタマフ相ナリ。

恵琳は、衆生を教化し仏道に安立させることが法蔵の還相であり、その為に報応化種々の身を示現して名号を十方世界に響かせるのだという。恵然・恵琳は、『教行信証』で示される還相を、法蔵菩薩が衆生教化のために報応化種種の身を現ずることとして、つまり「証巻」の「弥陀如来従如来生示現報応化種種身也」の上に見出していると言えよう。これは、先に見た相伝の『深解科文』とまったく同一の理解である。

  ところで恵琳はその後『教行信証文類六要鈔補』(一七

八八、以下『六要鈔補』)を著す。『六要鈔補』での回向につ 83

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いての基本的理解は、上記と異なり衆生の往相還相に限定されるようであるが、興味深いのは「証巻」の「従如来生」以下の言葉についてである。これについて恵琳は、「すなわちこれ祖師、真化二土の真実証より示現することを顕すにあらずや。何の疑いこれ有らん。」と記し、ここに「真仏土巻」「化身土巻」を位置付けている。この点もまた『深解科文』と同様の理解であることを指摘しておきたい。

 

8、その他の近世中期の理解

  恵琳と同時代として慈敬(生没年不詳)『浄土真宗往還二種回向弁』(一七八四)を挙げたい。慈敬は美濃国の人で、彦根西覚寺了雲(一七一〇~一七六〇)に師事したという他は詳らかではない。恐らく高倉学寮系ではないであろう。その了雲も、若年に西派法霖(一六九三~一七四一)に学んだという以外、どのような学系にあるか不明であるが、相伝家とも一線を画するようである。相伝教学・高倉教学とも異なる当時の東派の学問として興味深い。   慈敬は二種回向を論ずるに、「論主註家の所説」(曇鸞の

所説)、「今家聖祖所立」(親鸞の理解)、「問答料簡」と三段に分ける。問題は、曇鸞の所説と区別される親鸞の理解である。それについての慈敬の端的な定義を見よう。

往相は本師本仏弥陀願王の大悲に名け、還相は分身散影の弟子の諸仏菩薩の化他の名なり。

こうして慈敬は、弥陀の直接的な救済力としての往相に対し、還相は娑婆に身を分けたる諸仏菩薩の教化のはたらきであると述べていく。慈敬はこの理解を基本として、親鸞の著述を読み解いていく。『教行信証』では、「証巻」の「二言還相回向」以下を証果に属するものではなく、証法の外だとして、「「証巻」の中に明かすが故に還相も証果の用と謂へるが祖意を得ざることの甚だしきなり。」と述べる。『深解科文』と同じ理解だろう。『文類聚鈔』では、往還について論じ終わった後、「是以」として『観経』の序分の内容が出されてくるが、その意義について「『観経』発起衆聖、皆是還相所作也」と述べ、さらに『大経』序分 86

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の来会衆徳や『小経』の十方諸仏の証誠もみな還相の大悲だとしていく。これは円智『文類聚鈔試解』と同様の理解と言えよう。こうした理解を示した上で、慈敬は「還相は行者生後の徳とするものは謬の甚しきなり」といった批判を加えていくのである。

  さて、慈敬は問答料簡において、親鸞の『和讃』などを見ると明らかに行者生後の徳として還相を語っているではないか、との問いを出す。その答えとして、親鸞の還相論には親鸞独自の説、曇鸞に準じた説、曇鸞と合した説との三つの説があるとする。そして、曇鸞に準じた説を語ることもあるけれど、それをもって親鸞独自の説を非難してはいけないとして、この問いを退ける。また、曇鸞と合した説については「行者の用意不用意を論ぜず、自然に化益の人に及ぶものは如来大悲のしからしむるところなり。これを常行大悲の益と曰へるなるべし」と述べ、念仏者にはおのずからなる他者への化益という意味があるとして、それを常行大悲の益に確認する。常行大悲を還相と見做しうるかは意見が分かれる所だろうが、ともかくこれは噫慶とほぼ同様の理解と言える。ただし、続けて「自信教人信の心 あるは即ち還相回向と云ふべきにあらずや」と問いを出すが、これに対しては「甚だあやまりなり…中略…自らほこり一益の邪坑に陥る恐るべし」と厳しく否定している。衆生の意識的教化活動というものは、あくまで往相の範疇だと言うのである。このように見てきたとき、慈敬はそれまで東派で語られていた様々な還相理解を統合するような議論を展開させていると言えよう。

 

9、講師深励の登場

  親鸞が提示する如来回向としての還相をどのように理解するかについて、近世半ばまでを見てきた。まとめるならば、大きく分けて四つの理解があったと言えよう。一つは『論註』の当面を基本とした、往生を遂げた後の我々による教化が弥陀の回向によって実現するという理解。二つは、親鸞が「聖権の化益」と言うような、浄土の仏・菩薩の応現による我々に対する教化という理解。この場合、弥陀自身が示現するという理解と、浄土の菩薩が弥陀の本願力を背景に現れるという理解があるが、これは弥陀を強調する 93

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か、現れた人を強調するかの違いであり、本質的な差異ではないと考える。ただし後者の強調は、次の三つ目の理解に繫がる。すなわち、往生を願うその人の上に弥陀の回向がはたらき、おのずと他者への感化が広がる。そこに還相を見る往相即還相的なる理解である。四つには、その還相を現在の利他の実践に見る理解である。以上のような理解のどれか一つを取るか、または複数を統合的に理解するといった違いはあるものの、近世中期までの東派の中でこの四つは広く見出されるのである。

  そしてこの次の時代の寛政六年(一七九四)に、はじめに述べた深励が東派学寮講師に就任する。この深励の講師拝命をもって「宗学隆盛の時期に入る」と言われ、その影響は近現代にまで及ぶ。そこで深励の還相回向理解について、考察を進めていきたい。

  ただその前に、深励と同世代で当時嗣講の正行寺鳳嶺

(皆往院、一七四八~一八一六)の発言を一瞥しておきたい。取り上げるのは享和三年(一八〇三)に記された『教行信証報恩記』巻第七である。後述するように、鳳嶺は善知識を還相と見る理解は取らないが、「証巻」の結釈について 次のように記している。

祖意を推するに、論主宗師の化導を還相回向の利益とするに似たり。…中略…また『文類』は前に『観経』興起の人を列し、次にこの釈あり。その結文に云く「聖権の化益、偏に一切凡愚を利せんがため」…中略…今、能造の論主もまた還相の化導なること明らかなり。おのおの弥陀の本願の弘通のため、出世せらるる権人なるを顕す。…中略…『和讃』に云く「大心海ヨリ化シテコソ、善導和尚トオハシケレ」。鸞師あに還相回向の人に非ずや。

鳳嶺は、「証巻」結釈を『文類聚鈔』や『高僧和讃』と重ね、その意を『観経』の登場人物や天親・曇鸞・善導らを還相回向の人だと顕すことにあると記す。これは円智『文類聚鈔試解』を引き継ぐものとして理解できよう。

  さて、問題にしたいのは同時期の深励の発言である。まず深励の二種回向についての定義を見よう。次の文は享和三年の「教行巻」会読での発言である。 98

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往還二相は衆生に約して名を得るなり。回向の言は弥陀に約して、衆生が娑婆より浄土に往生する往相も、浄土から立ち還りて、衆生を済度する還相も、皆な弥陀の他力回向なり。それを二種の回向と云ふ。

往相は往生する衆生の姿であり、還相は往生し終えた後に娑婆へ還って他の衆生を教化する姿である。その還相の実現は「尋常ニ云フ次ノ生」、つまり死後来世である。そしてその衆生の二相が弥陀の回向によって実現される。これが深励の基本的な理解である。そしてこの立場から強烈な批判が行われる。それが最も現れたのが文化二年(一八〇

五)八月二日から十二月二一日までの「信巻」会読である。

異解者ノ類ハ往相回向ト云フハ阿弥陀如来ノ自利円満ノ相還相回向ハ阿弥陀如来ノ利他円満ノ相ノ様ニ心得ドモソレハ一向ナイ事ナリ。…中略…古来七高僧ヲ始メ当流ノ祖師聖人モノコラズ還相回向ト致スノハアタラヌコトナリ。…中略…ナンデモ十方世界カラ一返極楽浄土ヘ往生シテソレカラ還リタノデ ナケレバ還相トハ云ハレヌ。極楽ノ阿弥陀如来祖師聖人ノ如クニ相ヲカエテ娑婆世界ヘ出デサセラレタノハ還相ト云フモノデハナイ。コレラガ取違ヘルト大キナ間違ノ出来ル処也。…中略…深解ノ科文ト申スモノニハ。弥陀如来報応化種々ノ身ヲ示現スト云フノヲ弥陀ノ還相回向ニシテ。下ノ真仏土巻化身土巻ヲミナ還相回向ノ下ヘ科ガツリテアル。アレハ御相伝ガアルカハ知ラヌガ。此六巻ノ御本書ニハナイコトヂヤ。…中略…深解ノ科文アタリノハ大取違ヘナリ。

ここで深励は、異解者・古来の説・相伝の『深解科文』の三つを挙げて批判を向けている。これに従えば、これまで確認してきた学寮の先輩の恵然や恵琳、また同僚の鳳嶺までも断罪されることになる。そのような尋常ではない基準を深励は提示しているのである。何故このような発言を深励は行ったのか。

  恐らく、深励にとって具体的に問題となっているのは、初めの弥陀の利他としての還相を説く異解者の存在ではな 102

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いか。そしてその異解者の思想的根拠として、『深解科文』の弥陀の還相という観念があるからこれを批判せねばならず、その弥陀の還相の具体相として七高僧や親鸞の存在が語られるから、翻って古来の説をも批判しなければならない。そうでなければ、古来の説や『深解科文』などわざわざ取り上げる必要はないのではないか。この考えが妥当だとしたら、問わなくてはならないのは、深励が問題にしている異解者とは具体的に誰なのかであり、何故そこまでして異解者を断罪せねばならなかったのかである。それにより、深励の還相論がいかなる歴史的状況の中で形成されたものなのかを明らかにするのが次の課題である。

二、深励における還相回向論の確立

 

1、深励以前の学寮と相伝との反目

  深励による還相回向理解を中心とした批判は、どのような状況から生み出されてきたのか。そこで、深励が相伝の『深解科文』を批判していることを踏まえ、まず深励以前に学寮と相伝家がどのような関係にあったのかから確認し たい。結論から言えば、学寮の恵然・恵琳と相伝家の真昭などとは、互いに反目し合う関係にあった。  恵琳による相伝家批判の文書として、十時文雄は『琳師護法編件書』を紹介している。そこには、「かの相伝伝授を立つる者流、浄土真宗の正意たる法門の外に、別に法義につきて、ことようなる義を談じて、これを法主へ御返伝したりとののしって…」とあり、またその法義を伝えた人物として南溟寺樹心(生没年不詳)・噫慶がいると恵然が語っていたとも記されるという。その他に、明和五年(一七

六八)での恵琳による「越後了専寺久唱寺御教誡」での次の発言は重要である。

近年諸方に於て、御本廟御相伝の義と申して異義を構へ、人をえらび申伝へ候輩流布致候様に相聞へ候。今般御示し被下候安心の外、御当家に於て口決伝授の法門無之義に候。よく〳〵可相心得也。

この恵琳の発言が、後に深励などの主張の論拠になっていくが、この点は後述する。 105

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  このような相伝に対する批判に対して、相伝家側の発言を見よう。まず真覚は「東派にては、円智・恵空より古代を取り失い…」と、円智・恵空以来の問題だと語ったことが記録されている。また真昭は次のように書き記している。

近年、本山講堂にして学徒を指授する者、相い継ぎて多しといえども、今に至りて独り恵然が徒のみ各々偏執の見解に沈んで、表には上に尊師(従如)ましまして、出口殿(真玄)・堺殿(真覚)両子の法化を重んじたまう故に、謗に云うに及ばざれども、裏には甚だ疑謗の唇を翻せり。哀れむべし哀れむべし。

このように学寮において、特に恵然一派が相伝に対し陰で謗りを行っているという。さらに明和四・五年頃の事として「近来、誠諦院・民部・恵然等、相次いで死去といえども、恵琳嗣業、その毒先輩よりも甚だしく…中略…剰え奸侫・諞諛を恣にし、相承の実義を謗貶す」と、恵然以上に恵琳の謗りが甚だしいとも書き残している。続けて、恵琳が東本願寺家臣上田織部(正久・正諄、生没年不詳)と昵懇 し、宗政を乱して、「殊に越後・越中・尾州等の法論御裁許、みなかの奸愚の意見を挙げ用い」と記しているが、先述の越後の御教誡などを指すのであろう。またその上田織部について、「故貫主御伝来の器物・書籍等、御森において焼き失い、或いは散在すと云々。逆罪の甚だしき」と、織部が東本願寺にあった相伝関係の文物を焼き捨てたとして、真昭は怒りを露わにしている。

  とはいえ、相伝家が批判されることについて無自覚だった訳でもない。真玄は「ただ筋目寺跡のみを自慢せる方、当時さかんなり。かくの如きの風情となり来る故に、他よりその家をさみせられ、あまつさえ一宗に相伝伝授と云うことはかつてなきことなりと云う輩数多これあることなり」と記し、ただその寺格を誇るだけになって他から軽蔑されるのだ、と反省を促してもいる。

  このような十八世紀半ばの状況を見ていくと、互いに相手に対し、学寮からは秘事法門だとし、相伝家からは口称募りだとするなどの批判の言辞が見られるが、実は還相回向は問題になっていない。恵然・恵琳も相伝家も、「証巻」の「従如来生」の文を弥陀の還相と位置付けることは 109

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同様であるから、その点で批判し合うことはないのである。これに対し還相を中心とした深励の批判は、上記の学寮と相伝家の関係では説明できない。そうすると、深励による批判は、深励の生きた時代環境から惹起した問題として考えねばならないことになる。

 

2、近世中期における聖教の真偽判定   恵然と深励との時代の差異として注目したいのが、依用する典籍の問題である。大桑齊は『安心決定鈔』を取り上げ、「実はこれの否定過程こそ、教団教学の成立過程でもあった」と指摘した。これは、それまで多く覚如の作として真宗の聖教と位置付けられてきたこの書を、恵空『安心決定鈔翼註』(宝永五年〔一七〇八〕)及び鳳嶺『安心決定鈔記』が西山の書と判定したことを指す。この判定が近世教団教学確立に繫がったとする大桑の指摘は重要である。

  これを還相という観点から考えた場合、問題になるのは『還相回向聞書』と『他力信心聞書』である。恵空『仮名聖教目録』がこの二つを「不審多。難信者也」と位置付け たのは、すでに述べた通りである。その後、西派で宝暦十一年(一七六一)の親鸞五〇〇回忌記念事業として『真宗法要』の編纂が行われる。その付随事業として宝暦期に泰巌(一七一一~一七六三)『蔵外法要菽麥私記』や僧樸(一七

一九~一七六二)『真宗法要蔵外諸書管窺録』といった聖教目録が作成された。そこで両著が覚如の撰述ではない、むしろ『改邪鈔』の所破たる邪義・偽書という判定が下されることになる。

  これに関わる事例として、鳳嶺による寛政九年(一七九 七)の「下総孫右衛門御教誡」を見てみよう。そこで鳳嶺は「坊間の本に『他力信心聞書』とて二巻あり、撰号に覚如上人御作とあれども偽作なり。…中略…御当家に於ては、真撰の聖教は三十六部に究る。」といった発言をしている。このように本山の学僧が異解者とされた者を教誡するときに、聖教の真偽という基準を持ち出し、それを根拠として教誡が行われていることがわかる。なおこの御教誡で問題になっているのはいわゆる善知識だのみであるが、鳳嶺は享和三年(一八〇三)の『御文』第二帖第十一通の講義においても、先の下総の御教誡を念頭に善知識だのみについ 116

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て次の発言を行っている。

善知識に法報応の三身を立て、…中略…これが他力信心聞書といふ二巻あり。それに出てある。…中略…京都の善知識や岩船等は還相回向なり、そこで釈迦牟尼仏の如くなり、釈迦の通りぢやと云ふ。

恐らく「京都の善知識」は本願寺門主を、「岩船」は如信開基の水戸岩船願入寺であり、そこに寛文十三年(一六七

三)に入寺した連枝恵明院如晴またはその子孫を指すだろう。その門主や連枝を釈迦のような還相回向の人だと拝む信仰があったというのである。それを鳳嶺は、『他力信心聞書』の真偽判定から批判するが、この講義からは書物の真偽判定が還相回向という根幹の教義にまで関わってきていることがわかる。

  問題の両著は、法然を念頭に我々に本願を教える存在を還相の菩薩と位置付けるが、これを聖教とする時代に学んだ者と、邪義書という判定の後の時代に学んだ者とでは、還相に対する考え方が全く異なったものになるであろうこ とは想像に難くない。そして恵然と深励との時代の差はここにあると言える。深励が、七高僧や親鸞を還相とする古来の説を批判する根本に、以上のことがあるのではなかろうか。

 

3、智暹『樹心録』の影響   弥陀の還相という考えは、『教行信証』では「証巻」冒頭の自釈の「弥陀如来従如来生示現報応化種種身也」という親鸞の言葉が根拠である。この点は、恵然と相伝家の共通理解であった。弥陀の還相という観念を否定するには、この言葉に対する別の理解を提示しなければならない。そして、それを提示したものとして西派智暹(一七〇二~一

七六八)の『教行信証文類樹心録』(『樹心録』)を挙げることができる。智暹は、この文章に「示同化主徳」という科を付け、「化主の徳を示し、主伴の所証の平等平等を顕す。」という解釈を提示した。そしてこの智暹『樹心録』を、全面的にではないが、『教行信証』を論じる際に依用するのが、恵琳・深励・宣明・鳳嶺である。 122

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参照

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