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英語力は日本語力

著者 花岡 郁安

雑誌名 英語英文学研究

巻 9

ページ 89‑96

発行年 2003‑09

出版者 東京家政大学文学部英語英文学科

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009649/

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英語力は日本語力

花 岡 郁 安

 英語を勉強した期間は長いが話せない、相手の言っていることがさっぱり わからない。日本人の多くはこうしたことが当たり前のように思っている。

非常に残念なことだと思う。正直なところ私もこういう日本人の一人でした。

英語を勉強したのは中学から大学の教養課程までの8年間。受験勉強のため 英語の原書を読んだり、文通したりしたことはあるが、ただそれだけ。他の 教科に較べ特に好きだったわけでなかった。成績は悪くはなかったが。

英語であわやその1

 私が最初に英語の大きな壁にぶち当たったのは、1981年の夏だったと思う。

NHKのロサンゼルス支局長になった時である。それ以前に75年の天皇訪米、

76年のロッキード事件などでアメリカや香港での取材経験はあったが、特に 英語で苦労した記憶はなかった。ところがアメリカでの駐在となった途端に 英語が難しくなった。最初の仕事、宇宙探査衛星ヴォイジャーが土星に接近 した時の取材である。確か月曜から金曜まで連日記者会見が開かれ、それを 聞いて私が生で日本に向けてリポートするというものだった。私の前任者が 中継車の手配などは全て済ませていた。場所はロサンゼルスの郊外にある NASA(米航空宇宙局)のジェット推進研究所で会見は月曜日の午前10時か

ら始まった。10時は日本時間の午前2時。午前7時の朝のメインニュースに は十分すぎるほど時間があった。記者会見の会場には記者団が300人ほど詰 掛け、壇上にはカール・セーガンら名前だけは聞いたことのあるような著名

な学者が約10人が並んでいた。

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 ところが、ところがである。会見が始まったもののNASAの説明も、そ れに対する記者側の質問もさっぱりわからない。わからない程度も大変なも ので、普通なら何にっいて話をしているのかぐらいはわかるのに、この時は それすらわからなかった。

 さあ困った。こういう時記者は本能的に誰か日本人はいないかと探す。し かし、会場には日本人どころか東洋人らしき人もまったくいなかった。あと にして思ったが日本のプレスはこういった科学的なニュースは原則的に外電 を利用し科学に強い記者を特派員として出してはいなかった。1時間の会見 が終わったけれど私が何を話されたかもわからずただ呆然とするばかり。放 送まで十分余裕があると思ったが、とんでもない。頭の中が真っ白パニック になった。たまたま会場の中でニューヨークタイムズのプレートを見つけた。

座っていた記者に思わず話しかけた。「日本から来たばかりでさっぱりわか らない。何がニュースか教えてくれないか」。こういうときにアメリカ人は 本当に親切である。しかもその次のNYタイムズの記者の言葉に救われた。

「俺も良くわからないんだ。これから補足の取材をしてくるが君は時間があ

るのか」。あるある時間などいくらでもある。地獄に仏とはこのことだ。30

分ぐらいしてその記者が帰って来て記事を打ち出した。送信技術が当時の日

本よりかなり進んでいてワープロをたたくとすぐ脇に置かれた小型のモニター

に文章がでてくる。それがニューヨークの本社に直結している。そんなもの

を見たのも初めてだったが、記者は、どうせ明日の朝刊にでるものだからと

私に見てもいいと言う。書かれている文章ならばそんなに難しくはない。辞

書を片手に読んでいったがとんでもない内容だった。例え日本文で書かれて

いても多分理解するのには時間がかかったと思う。初めて聞くような元素の

名前や、何かが土星の輪の周りを螺旋状に回っていたとか、 宇宙嵐 とい

う初めて聞く現象の音をキャッチした等等。わからないことはNYタイムズ

の記者に聞き、その記者がさらに別の人に聞いてくれたりしてなんとか全体

像がわかるまで、たっぷり2時間。イライラのしどうしで、実はそれまで5年

間やめていたタバコが思わず復活してしまった。しかし私のリポートは自分

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で言うのも何ではあるが素晴らしかった。なにしろ米国一の高級紙NYタイ ムズとほとんど同じ内容、しかも時間的にははるかに早く日本の視聴者に伝 えたからである。翌日以降も私は当然のごとくNYタイムズの記者にくっっ き、何とか急場を凌いだ。ロサンゼルスで寿司をご馳走したが安くっいたと

思う。

英語であわやその2

 っいでにもう一っあわやという事例を書いてみる。これもやはり宇宙もの スペースシャトルの取材であった。82年のスペースシャトルの3回目か4回 目の打ち上げだったと思う。今ではすでに打ち上げも100回を超えているた め、今春の事故や日本人宇宙飛行士が乗り込む時しかニュースにならないが、

当時はスペースシャトルのミッションが始まったばかりで毎回日本でも大き く取り上げられていた。NHKでもアメリカにいる特派員を総動員して取材 をした。フロリダ州のケープ・カナベラルから打ち上げ、カリフォルニア州 のエドワーズ空軍基地に着陸していたため打ち上げは東海岸の記者たち、着 陸は西海岸の私が取材していたが、私がどうしても一度は打ち上げを見たかっ たため、その時は私もフロリダに飛んだ。日本からの応援要員も含め取材陣 は十数人。NHKでは中型のバスを借り、ケープ・カナベラル近くのプレス センターに陣取った。取材計画では全員で打ち上げを見届けた後、私一人が 保安要員で現地に残り、あとの全員は3っにわかれ、一っはNASAセンター があるテキサス州のヒューストン、二っ目は着陸カバーのためロサンゼルス に行き、残りはニューヨーク・ワシントンに帰任した。順調にスペースシャ トルが飛んでいることを確認し、取材班がヒューストンにっいた後私はロサ ンゼルスに戻る予定だった。全員が出発し、数百人にのぼった米内外の取材 陣もほとんどが帰り辺りは静かになった。私もすることがなくバスの中でコー ヒーを飲んでくっろいでいた。プレスセンターではその辺りにいる人たちに も聞こえるようにシャトルとヒューストンとの間の交信を常時流していた。

あのアポロの月着陸の時、世界中が興奮した宇宙と地上が無線交信する独特

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なトーンと同じようなものである。打ち上げから2時間ぐらいたった時だろ うか、ポーッとしていた私の耳に交信の音声がなにやら慌しいものに聞こえ だした。無線の音は雑音もあってあまりよく聞き取れない。なんとなく胸騒 ぎのようなものを感じてプレスセンターの事務所に向かった。その時日本時 間は午前6時45分。東京では7時からのニュースで15分ほどスペースシャト ル関連にあてる予定で、スタジオには東大教授など宇宙の専門家2〜3人が スタンバイしていた。我々はケープ・カナベラルから私の同僚の記者が「順 調に飛行しており、現在はどこどこの上空宇宙を飛んでいます」という内容 のリポートを事前に収録し、すでに衛星中継で日本に送り済みで、ニュース の冒頭で使用する予定だった。

 私の予感が的中してしまった。広報の人に聞くとなにやらバッテリー関係 に異常が発生したらしい。飛行予定の日数を減らし、明日かあさってにも帰 還させるかもしれないという。これは順調どころではない。慌てて近くの公 衆電話から東京にコレクトコール。一報を吹き込み送り済みのリポートの使 用を止あさせる。ここまですでに約10分。ニュースが始まるまであと5分し かない。スペースシャトルにっいては第1回から携わっていたので勉強はし たっもりだが、シャトルがどういう構造だとかどんな実験をやるか等が中心 でバッテリーのことなど重要視していなかった。受話器を持ったまま広報の 人に大声でバッテリーのことを聞いていたら、またここで地獄に仏が現れた。

たまたま科学雑誌「サイエンス」の記者が私のただならぬ様子を見て近寄っ てきてくれた。取材先で何度か会ったこともある髭もじゃの小柄な男だった が、彼も宇宙との交信を聞きっけてプレスセンターに駆けつけてきていた。

なにしろ時間はない。電話口で東京は今の状況をこのまま電話でリポートし

ろという。リポートするにしても内容がない。小声でその記者に何がどう起

こったのか聞いた。4っあるバッテリーのうち3つまでが働かなくなってし

まった。原因はわからない。バッテリー1っでも飛行は可能だが、万万が一

のことを考えて早めに地球に帰還させると言う。彼は親切にもノートに図ま

で書いて説明してくれてたが、それが終わった時電話からはすでに7時のニュー

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スのテーマ音楽が聞こえてきいた。音楽が終わると同時に緊張したアナウン サーの声が聞こえ、「現地で取材している花岡特派員に聞いてみます」と渡 された。こちらも緊張していて何をどのようにしゃべったか全く覚えていな いが、リポートというのは原稿をきちんと書いて話すより、何も持たず目の 前で起きていることを伝えるほうがはるかに充実感があると思った瞬間であ

る。

 苦労話というか、テレビの舞台裏というか体験談を書いてしまったが今で も世界中に散らばっている後輩たちは同じようにどたばたしていると思う。

突然サブデスクに

 特派員というと以前はどの社も「外国語」で採用していた。NHKでも英 語の出来る人は将来のアメリカ・イギリス要員、ロシア語が出来る人はソビ

エト要員、中国語は当然ながら中国要員とされていた。ところが、各社間で の取材競争が激しくなるとともに、記者の本来業務である取材が出来なけれ ばだめだという声が強まり語学採用者以外を特派員要員にするようになった。

もともと社会部記者で特派員など縁もないと思っていた私だが社会部時代、

何回かの海外取材をしたこともあって、ある時突然外信部に行けと言われた。

 当時のNHK外信部のドンはキャスターで有名になっていた磯村尚徳さん。

私より一回り以上の先輩記者だが、挨拶にいった私に「君は何語だっけ?」

私「……日本語です」 これで最初からバッテンをもらった。外信部での私 の立場はサブデスク。途切れなく入ってくる外電に目を通し必要なものとい らないものを振り分ける仕事。AP、 UPI、ロイター、 AFP、タスなどのチッ カーが並び、坊やが適当にまとまったところでロールを切って持ってくる。

30分もぼ一っとしているとこうしたロールが10本ぐらいたまることもある。

先輩記者を見ているとパイプを煉らせながらロールをいとも簡単に読んでい

る。私にはそんなに芸当は出来なかった。なにしろ次から次に知らない単語

ばかりがでてきた。それをいちいち辞書で調べていたらとてもじゃないが時

間が足りない。が、すぐコッがわかった。先輩記者たちも決して全ての記事

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を読んでいるわけではなかった。ありがたいことにニュースで取り上げるよ うな大きな事件や出来事は全ての通信社が打ってくる。複数の通信社が打っ ているニュースにっいてはさっと目を通しどちらの方のが中身が濃いか、わ りと簡単にわかるようになった。記者の勘のようなものである。長いロール からその部分を引きちぎって若手の記者に日本語のニュースにするように命 じる。私の選択に抜かりがなかったか、何か大事なニュースを見逃していな かったか、担当したときは夕刊や朝刊を見るのが実は怖かった。そんな仕事 を2〜3ヶ月続けた後、特派員の見習としてソウル支局に派遣された。韓国 では日本語も通じるという暖かい配慮もあったらしい。光州事件の後、韓国 は混乱が続いており戒厳令と夜間外出禁止令が出ていた。金大中の死刑判決、

政治犯で詩人の金芝河の釈放など次々に取材するネタが続き、記者冥利に尽 きるような1年だったが、この話はまた次回にしよう。

英語教育の戸惑い

 ひょんな縁から家政大学で教えることになった。英語英文学科と聞いてま ずのけ反ったのが娘だった。小学校から中学にかけてアメリカの公立校にい た為か特にリスニングやスピーキングは私よりはるかに出来る。帰国後英検

1級を取ったがこの娘とあるとき英語のニュースを見ていたことがあった。

アメリカ・ニューメキシコ州のニュースだったが私の耳にはNew Mexico のNewが全く聞こえなかった。メキシコで何故こんなニュースがあるのか ななどと非常に不思議に思いながら見ていて、しばらくして字幕がでて、あ あニューメキシコの話かと納得したが娘の耳には初めからNewが当たり前 のように入っていた。言葉というのは若いうちに学ぶものだとっくつくと思っ

た。

 話は飛ぶが是非言いたいことがある。ローマ字に関してである。「え」を どうして「e」といっまでも表現しているのだろう。日本円の円は誰でも黙っ て「yen」と書くではないか。明治の人は偉かった。外国人でもちゃんと

「えん」と発音できるように表記した。ところが、地下鉄の大江戸線、表記

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は「oedo」。大井戸である。なぜ「oyedo」としないのか、外国人に対して 大変不親切である。他にもいくっもあるが日本語の発音を外国人にきちんと

させようという意志は日本にはないのかと悲しく思う。島国根性、井の中の 蛙故かもしれない。

 幼児からの英語教育がどんどん実現の方向に進んでいるが、私はあまり賛 成できない。理由は下手をすると日本語も英語も両方とも中途半端になって しまう恐れがあると思うからである。大学にきて何百人もの学生と接したが 驚くことに当然知っているだろうと思う日本語が意外と通じない。本を読ま ない、友達や家庭での会話に使われる語彙数が減っているなどといわれてい るが、大雑把に言えば日本の戦後の教育、特に日教組が華やかなりし頃のし こりが今に影響を及ぼしていると思う。決して戦前の教育がいいわけではな い。どころか、悪かった。が、戦後の教育も悪かった。日本民族の言葉をもっ と大事にするような教育が何故なされなかったのか不思議である。言葉も知 らない、政治や経済や社会の仕組み、ましてや世界の動き等にはほとんど関 心を示さず友達などと単純な言葉でメールをやり取りする。こうした人たち が次世代の中核になっていくのである。

  Violence tests peace efforts これはCNNの今年6月12日の見出しで ある。英語ジャーナリズムの時間この中身を勉強させたが、これが学生には わからない。中東和平にっいてアメリカやロシアがっくったロードマップに 関して授業では何度も取り上げた。ロードマップが実施にうっされる段階に なった途端イスラエル、パレスチナ双方の殺し合いが皮肉なことに拡大した。

このニュースだが、あまりにも平和な日本ではやっぱり理解を求めるのは無 理かなとやや落胆している。

 Mr.Blair has now arrived in Kuwait on the first leg of his Gulf visit.(BBC May 28−03)。 the first legは黙っていても第一歩と訳して欲

しい。決して最初の足ではない。Prime ministerはいかなる時でも総理大

臣、首相と訳して欲しい。決して大臣の中のいちばん偉い大臣などと訳さな

いで欲しい。

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 かって、アメリカ軍が兵士の語学力を調査したことがある。はっきりと記 憶しているわけではないが、米海兵隊の最下級の黒人兵士が知っている英語 の平均語彙数はわずか500ぐらいであった。これだけ知っていれば映画も見

られるし、トークショーで笑い転げることもできる。仲間と話をするのも買 い物をするのも何不自由ない。日本では中学生でも500ぐらいの単語は軽く 学ぶ。要は、応用力の問題である。最近思うことだが、ひょっとすると我々 が使っている辞書が悪いのではないのかとも思う。辞書を作った人は大変な 思いで、こういう意味もあるだろう、ああいう意味もあるだろうと考えなが ら日本語の単語を書き込んだのだろうが、所詮違う言語である。意訳を考え たらとてもじゃないが英語の単語一っに場合によっては何十もの日本語が当 てはまる。こういう英文の中ではこういう日本語がぴったり当てはまるので はないかということは日本語の力がなければ出来ないことである。そのため には、日本語による教養の裏付けが必要である。常識問題集を抱えて就職試 験のために一生懸命暗記している上級生をよく見かけるが、そんなものは大 学に入る前にたくさんの本を読んだり新聞を毎日読んだりしていれば自然に 身にっくものである。そのためにも私は英語の前に日本語ありきと声を大に して言いたい。幼児からの英語教育は役に立たないことはないだろうが、多 分英語関係業者を喜ばせるだけのものだと思う。流暢に喋れるにこしたこと

はない。しかし私の長い経験でいかにも日本語的な発音でも相手は一生懸命 聞いてくれようとする。日本でも外国人がたどたどしい日本語で話しかけて きたら、この人は何を言おうとしているのか一生懸命聞いてやるではないか。

話せる、聞ける。大いに結構。だが、要は中身である。日本人としてきちん と自分の考えを日本語で持っているか、英語はあくまでそれを伝える手段で

ある。

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