『主宰神の再認識詳注』の伝承について
川 尻 洋 平
0. シヴァ教再認識派写本が,その欄外にウトパラデーヴァ(ca. 925–975)の失わ れた注釈『主宰神の再認識詳注』(Īśvarapratyabhijñāvivṛti,以下ĪPViv)を断片的に含 むことは既に知られている.『主宰神の再認識偈』(Īśvarapratyabhijñākārikā,以下 ĪPK)のラクノウ写本(No. 4404,以下ĪPK [L])もそのような写本の一つである.筆 者はĪPK [L]の欄外 を調査した結果,その欄外 がカシュミールへのムスリ ムの流入以後,すなわち13, 14世紀以後に挿入され,挿入時点で大部分が散逸し ていた可能性が高いことを明らかにした1). 一方で,シヴァ教再認識派写本の欄外 に残されているĪPVivが,アビナヴァ グプタ(ca. 975–1025)の『主宰神の再認識反省的考察』(Īśvarapratyabhijñāvimarśinī,以 下ĪPV)に対する二つの注釈,すなわちカシュミールでバースカラカンタ(17世紀 末)によって著された『バースカリー』(Bhāskarī,以下Bh)と12世紀以降の南イン ドで著された作者不詳の『ヴヤーキャー』(Vyākhyā,以下Vy)に反映されているの か否かについては未だ不明な点が多い. 本稿では,ĪPViv断片に関する最新の調査状況を報告し,ĪPViv断片と上記二 つの注釈文献の関係について検討することによって,ĪPViv断片の伝承実態を解 明する手掛かりを提示する2). 1. 筆者はこれまでĪPViv断片を求めて,シヴァ教再認識派写本やそこに含まれ る欄外 を蒐集してきたが,近年写本調査に関して大きな変化が訪れた.それは ジャンムー・カシュミール州を中心にシヴァ教写本のデジタル化を試みる Chetan Pandey氏によってもたらされた. Pandey氏の調査対象は主にジャンムー・カシュミール州の図書館や研究所に 保管されているシヴァ教関連の写本群である.同氏の調査は次の二点において特 筆されるべきものである.第一に,ジャンムー・カシュミール州を中心に,従来 シヴァ教研究者によって調査されていなかった図書館や研究所を調査した点,第二に,これまで研究所等で行方不明となっていた写本やカタログに記載されてい ない写本を発掘した点である. 2. Pandey氏によっておよそ40本を越える再認識派写本が提供され,その欄外 を目下調査中であるが,提供された写本の中にĪPK [L]写本のオリジナルと 見られるシャーラダー写本は確認されていない. しかしながら,Ratié 2017に報告されているように,ĪPViv断片を写本欄外に大 量に残している写本が発見された.それはジャンムーのラグナータテンプルに保 存されている『主宰神の再認識詳注に関する反省的考察』( Īśvarapratyabhijñāvivṛti-vimarśinī,以下ĪPVV)の写本(No. 5077,以下ĪPVV [J])である.デーヴァナーガリー 写本であることから,シャーラダー写本を転写したものと考えられる.またコロ フォンはなく,誰によっていつ書写されたのかは不明である. 以下にこのĪPVV [J]写本の特徴を挙げよう.まず,この写本は,前半部分に は本文に対するごく かな訂正等を除いて欄外 を含んでいないが,202フォリ オから242フォリオにかけて欄外 を含んでいる点で特徴的である.管見の限 り,欄外 を含むĪPVV写本はこの写本以外に確認されていないからである3). 欄外 のスタイルに関しても特徴的である.他の写本では,欄外 は断片的な ものであり,ĪPVṛやĪPVやĪPVVからの引用に埋もれる形で,ĪPViv断片が混在 していた.そしてほとんどĪPVivとして明示されることなく挿入されていた.そ れに対して,このĪPVV [J]写本では,欄外 はまとまった形で提示され,ṭīkā という語によってĪPViv断片であることが明示されているからである. さらに,これまでに回収されたĪPViv断片よりも多くの,そしてより完全な
ĪPViv断片を含んでいる.すなわち,Torella教授が発見したĪPViv [D]写本が
ĪPK1.3.6からĪPK1.5.3までの13偈に対するĪPVivを含むものであったのに対して,
ĪPVV [J]写本は認識章の最終偈であるĪPK1.8.11の直前ĪPK1.8.10の最終部分から
ĪPK2.3.8までの25偈をカバーしている.この25偈に関して,ĪPK [L]写本から 回収されるĪPViv断片はĪPVV [J]写本に確認できるが,ĪPVV [J]写本に含まれ ているĪPViv断片は,必ずしもĪPK [L]写本に確認できない.特にĪPK1.8.11に 関しては,Ratié 2017に指摘されているように,ĪPVVに見られるĪPVivのpratīka
を全て含むことから,ĪPK1.8.11に対するĪPVivは断片的なものではなく完全なも のであると考えられる.このことから,他の偈に関してもより完全なĪPVivが回 収されることが期待される.
う.それによれば,8本のĪPV写本が欄外 にĪPViv断片を含む4).それらの ĪPV写本がĪPViv断片以外にも多くの欄外 を共有していることから,欄外 に は共通の祖が想定され,そこからコピーされていたと考えられる.その相互関係 については未だ明確ではないが,この内,スリナガルのĪPV(No. 838,以下ĪPV [S3])写本がおそらく最も古い. この最も古いと思われるĪPV [S3]写本には,デーヴァナーガリーで書かれた サンスクリットの記録が附されている.新しいものなので,おそらく図書館員が コロフォンをもとに記録したメモと考えられる.その記録からは,その図書館に はĪPV [S3]写本よりも古い再認識派写本はなく,ĪPV [S3]写本はシャー・ジャ ハーン治世下(r.c. 1628–1658)にカシュミールで生活していたシャンカラカンタ (Śaṅkarakaṇṭha)によって書写されたものであることが理解される.写本本文と欄 外 の筆跡が同一人物によるものと考えられることから,シャンカラカンタがこ のĪPV [S3]写本の欄外 を著したと考えてよい.このシャンカラカンタは,写 本筆記者としても著名なラトナカンタ(Ratnakaṇṭha)の父である.そしてラトナカ ンタは,Bhの著者バースカラカンタの師である5). 4. Ratié (2017, 168)に,ĪPV写 本 の 照 合 作 業 の 経 過 と し てĪPK1.3.5よ り 前 と ĪPK1.5.9より後の偈にはĪPViv断片を見出していないことが述べられている.し かし,実際には,ĪPK1.5.9以降にもĪPViv断片はある.ĪPV刊本の注にĪPViv断片 が見られるからである.ĪPV刊本の注は,ĪPV [D2]写本など4本の写本欄外 をそのまま附したものであり,少なくともそれらのĪPV写本にはĪPK1.5.9以降の ĪPViv断片が含まれている6).いずれにせよ,ĪPV [S3]写本を写したシャンカラ カンタの時代にはすでに完全なĪPVivが失われ,断片的になっていたと考えられ る. 5. ĪPViv断片を含む写本の相互関係について,現状明らかな点をまとめよう. これまでに,ĪPViv断片を含む写本として報告されているものは,ĪPViv [D]写 本,ĪPK [L]写本,ĪPV [S3]写本を始めとする8本のĪPV写本群,そしてĪPVV [J]写本である.この内,ĪPV写本群は既に述べたように同じ系統に属するもの と考えられる.ĪPK [L]写本は,断片的であるという点でĪPViv [D]写本や ĪPVV [J]写本よりもĪPV写本群に近い.ĪPK [L]写本はĪPV写本群にはない ĪPViv断片を豊富に含むことから7),ĪPK [L]写本のオリジナルのシャーラダー 写本には,ĪPV [S3]写本を写したシャンカラカンタよりも古い時代に,すなわ ち17世紀前半よりも前にĪPViv断片が挿入された可能性が高い.ĪPViv [D]写本
とĪPVV [J]写本は,まとまった形でĪPViv断片を保持しているという点で,ĪPK [L]写本やĪPV写本群とは別系統にあることは明らかである. 6. 以下にこれらのĪPViv断片と後代の注釈文献との関係について検討しよう. バースカラカンタが,断片的な形であれ,ĪPVivを知っていたとは現状では考え にくい.バースカラカンタは,ĪPVivを明示的に引用せず,『タントラーローカ』 などのアビナヴァグプタの著作やヴィシュヌ教徒ヴァーマナの『サンヴィットプ ラカーシャ』 (Saṃvitprakāśa) などを専ら引用するからである.そして管見の限り, バースカラカンタが引用する唯一のĪPViv断片は,ĪPVにも言及される偈である8). バースカラカンタは,ĪPVivだけではなく,ĪPVVやウトパラデーヴァの『シ ヴァドリシュティヴリッティ』(Śivadṛṣṭivṛtti,以下ŚDV)についても十分な知識を 持っていなかった.というのも,ウトパラデーヴァがŚDVでĪPVivに言及して いるにも関わらず,BhではŚDVをĪPKよりも先に著したと述べ9),アビナヴァ グプタがĪPVivの中でĪPVに言及しているにも関わらず,ĪPVVをĪPVよりも先 に著したと述べているからである10). 一方でシャンカラカンタがĪPViv断片を含む欄外 を書写していることから も,バースカラカンタにĪPVivが伝承されていた可能性は排除できない.しか し,たとえバースカラカンタが知っていたとしても,シャンカラカンタ以上に 知っていたということはないだろう. 7. ĪPVivは南インドに伝承されていただろうか.南インドにはĪPVVの写本伝 承があることから,ĪPVivの存在が知られていたことは間違いない.しかし南イ ンドにおいても,ĪPViv写本は発見されていない. それでは注釈が作成された段階ではどうであっただろうか.南インドで著され たVyには,vivṛtauあるいはṭīkāyāmなどĪPVivからの引用を明示するものはな い.典拠に言及することなく引用している可能性も考えられるが,管見の限り VyにĪPViv断片は確認されない. 興味深いことに,Vy作者は,アビナヴァグプタが引用する偈をウトパラデー ヴァに帰している11).アビナヴァグプタはその偈を「師によって述べられた」 (uktam ācāryeṇa)と述べるだけであり,典拠については明言していない12).ĪPVV にその偈は引用されず,ĪPVVからはĪPVivの一節であるのか否か不明である. さらにĪPK2.2.3に対するĪPVivや13),他のĪPViv断片や現在刊行されているウト パラデーヴァの他の著作にも確認できない.Vy作者がその偈をウトパラデー ヴァの偈として注釈した根拠は不明であるが,アビナヴァグプタにとってācārya
「師」は通常ウトパラデーヴァを指すから,ウトパラデーヴァの偈と理解してい たか,典拠不明ながらウトパラデーヴァの偈として伝承されていたか,あるいは 典拠を知っていたかのいずれかである.そしてVy作者が典拠を知っており,そ の典拠がĪPVivであった場合にのみ,ĪPVivは南インドにおいても伝承されてい たといえよう.しかし,そのような証拠はなく,現状では伝承されていたとは考 えられない. 8. シャンカラカンタが活躍した17世紀前半には,ĪPVivが断片的になっていた ことは確かである.そしてバースカラカンタは,断片的にさえĪPVivを知らな かった可能性が高い.一方,南インドのVyにはĪPVivが伝承されていたという 証拠は見出せない.再認識派写本が南インドに伝承された時,ĪPVivは伝承され なかった可能性が十分に考えられる. ĪPViv断片を多く含むĪPK [L]とĪPVV [J]はデーヴァナーガリー写本である. オリジナルのシャーラダー写本の発見が期待される. 本稿で使用した写本の使用および複写の許可をいただいた各関係機関には,ここに記して 謝意を表したい. 1)川尻2015を見よ. 2) Formigatti 2011は,ĪPV写本を資料として写本欄外 を扱っ ているが,その範囲はĪPK1.1のみに限られ,ĪPViv断片には触れていない. 3)他の ĪPVV写本については,川尻2015を見よ. 4) 8本の写本についてはRatié 2017参照. 写本の略号についてはそれに従う. 5)三者の系譜についてはRatié (2017, 166)を見 よ. 6) ĪPK [L] 写 本 か ら 回 収 さ れ るĪPViv断 片 と 併 せ てKawajiri 2016を 見 よ. 7) Ratié 2017に校訂されているĪPK1.8.11を例に挙げれば,ĪPV写本群にはĪPViv 断片は含まれないが,ĪPK [L]写本にはĪPK1.8.11に対するĪPVivの約半分が含まれ る. 8)この偈がウトパラデーヴァ自身の偈なのか先師のものか検討が必要である が,確かにĪPVivにおいて言及される.ĪPVV [J11] f. 226v: pūrvopadarśitaṃ / yathā / prasiddha āgamo loke yuktimān athavetaraḥ / vidyāyām api vidyāyāṃ pramāṇam avigāṇataḥ / prasiddhir avigītā hi satyā vāg īśvarī matā / tayā yathā yadā diṣṭaṃ tad grāhyam aviśaṃkitair iti / 9) See ŚDV 14, 16 and Bh I p. 2. 10) See ĪPVV III p.230 and Bh I p. 3. 11) See Vy p. 318 (=Bh II p. 45):ata eva hetor ācāryaiḥ śrīmadutpaladevapādair uktam / 12) See ĪPV II 41. 尚,ĪPViv
を 含 むĪPV写 本 の い ず れ に も「師」 が ウ ト パ ラ デ ー ヴ ァ で あ る と す る 欄 外 は な い. 13) See ĪPVV [J11] f. 216v–217v.
〈略号表〉
Bh Bhāskarī by Bhāskarakaṇṭha. In Īśvarapratyabhijñāvimarśinī of Abhinavagupta. Ed. K. A. Subramania Iyer and K. C. Pandey. 2 vols. Delhi: Motilal Banarsidass, 1986. ĪPK Īśvarapratyabhijñākārikā by Utpaladeva. The Īśvarapratyabhijñākārikā of Utpaladeva
with the Author s Vṛtti: Critical Edition and Annotated Translation. Ed. Raffaele Torella.
ĪPK[L] Īśvapratyabhijñākārikā/vṛtti manuscript. Akhila Bharatiya Sanskrit Parishad, Lucknow,
no. 4404. paper; devanāgarī script.
ĪPVṛ Īśvarapratyabhijñāvṛtti by Utpaladeva. See ĪPK.
ĪPViv Īśvarapratyabhijñāvivṛti by Utpaladeva.
ĪPViv [D] Īśvarapratyabhijñāvivṛti manuscript. National Archives of India, Delhi, no. 30, paper,
śāradā script.
ĪPV Īśvarapratyabhijñāvimarśinī by Abhinavagupta. The Īśvarapratyabhijñā of Utpaladeva, with Commentary by Abhinavagupta. Ed. Mukund Rām Shastri. 2 vols. Kashmir Series
of Texts and Studies 22, 33. Bombay: Nirnaya Sagar Press, 1918–1921.
ĪPV [D2] Īśvarapratyabhijñāvimarśinī manuscript. National Archives of India, Delhi, no. 5, paper,
śāradā script.
ĪPV [S3] Īśvarapratyabhijñāvimarśinī manuscript. Oriental Research Library, Srinagar, no. 838,
paper, śāradā script.
ĪPVV Īśvarapratyabhijñāvivṛtivimarśinī by Abhinavagupta. The Īśvarapratyabhijñāvivṛtivi-marśinī by Abhinavagupta. Ed. Madhusudan Kaul Shastri. 3 vols. Kashmir Series of
Texts and Studies 60, 62, 65. Bombay: Nirnaya Sagar Press, 1938–1943.
ĪPVV [J11] Īśvarapratyabhijñāvivṛtivimarśinī manuscript. No. 5077, Sri Ranbir Institute, Raghunath
Mandir Library, Jammu, paper, devanāgarī script.
ŚDV Śivadṛṣṭivṛtti by Utpaladeva. In The Śivadṛṣṭi of Srisomānandanātha with the Vriti by Utpaladeva. Ed. Madhusudan Kaul Shastri. Kashmir Series of Texts and Studies 54.
Poona: Aryabhushan Press, 1934.
Vy Īśvarapratyabhijñāvimarśinīvyākhyā. Government Oriental Manuscripts Library,
Chen-nai, no. 4353, paper, devanāgarī script.
〈参考文献〉
Formigatti, Camillo. 2011. Sanskrit Annotated Manuscripts from Northern India and Nepal. PhD diss., Universität Hamburg.
川尻洋平 2015 「シヴァ教再認識派の欄外 について」『印度学仏教教学研究』63(1): 232– 237.
Kawajiri, Yohei. 2016. New Fragments of the Īśvarapratyabhijñā-vivṛti (3). Saṃbhāṣā 33: 17–46. Ratié, Isabelle. 2017. In Search of Utpaladeva s Lost Vivṛti on the Pratyabhijñā Treatise: A Report on
the Latest Discoveries (with the Vivṛti on the End of Chapter 1.8). Journal of Indian Philosophy 45(1): 163–189.
(本稿は,平成28年度科学研究費補助金[若手研究(B)](研究代表者: 川尻洋平,課題番 号16K16702)による成果の一部である.)
〈キーワード〉 Īśvarapratyabhijñāvivṛti,ウトパラデーヴァ,欄外 ,Bhāskarī,Vyākhyā