『婆沙論』における中有
阿 部 真 也
はじめに
「中有」は仏教において,全面的に認められている概念ではない.『異部宗輪 論』(T49, no. 2031)によるならば,それを認めていた学派は,説一切有部,正量部 等である.認めていなかった学派は,上座部,大衆部,一説部,説出世部,化地 部等である.そして,それが教理上の概念として使われたのは,『集異門論』と 『法蘊論』が最初期と考えられる1).すなわち,中有に関する教理が確立された のは,部派仏教時代の初期であろう,とされている.中有について言及した文献 を多数残しているのは,説一切有部であり,中でも,本発表で扱う,『婆沙論』 において詳細に,他学派の説を挙げつつ論じている.初期の部派仏教論書におい ては,それほど詳しく論じられてはいない.『婆沙論』にいたって,飛躍的に発 展したのである.『婆沙論』の中有説について,教理的な面と関連させつつ論じ るものである. 中有に関する最もまとまった記述があるのは巻69と巻70である.中有の有無 についての議論から始まるのであるが,それに先立って,巻68で三界での輪 転生について論じられる.まず,そこの部分について概略を見ておく(『婆沙論』 352b–355b). 最初に三つの説が紹介される.第一に,三界のどこにも中有は無いとする説. 第二に,欲界,色界と同様に無色界にも中有があるとする説.第三に,欲色界に のみ中有があるとするが,業猛利な者には中有が無く,業遅鈍な者には中有があ るとする説である.いずれの説も毘婆沙師の説とは異なる説である.以下,欲界 において死し生じる者の場合,色界において死し生じる者の場合,無色界におい て死し生じる者の場合,あるいは,それら各の数について,等を論じている.こ れらは,輪 の様々なケースについての記述である.輪 する主体を考えるにあ たって,中有が重要なものとして位置づけられている2).1.
中有の有無
中有の有無についての議論は,分別論者と応理論者との対論の形式で進む.分 別論者が無中有論,応理論者が有中有論の立場をとる. まず,分別論者が二つの経証を挙げる. ①若有一類,造作増長五無間業,無間必定生地獄中.(『婆沙論』356c17) ②再生汝,今, 過盛位.至衰將近琰魔王.欲往前路無資糧,求住中間,無所止.(『婆沙論』356c21) ①には「五無間業をなしたものは,無間に必ず地獄に生じる」とあり,②は 「死して閻魔王に近づくときに,前に進もうとしても資糧が無く,中間に止まろ うとしても,止まるところは無い」とある.この二文によって中有が無いことは 説かれていると分別論者は論じ,他方,理証として,光と影の間に中間が無いよ うに,死有と生有の間にも中間は無いとする(『婆沙論』356c24). この二経証に対する応理論者の反論は次である. 余趣に生じることや余業によることを無しとするのであって,中有を無しとするものでは ない.すなわち,無間業を為せば必ず地獄に生じるのである.もう一つの経証も同じ意味 であり,余趣に生じることや余業によることを無しとして中間が無いとするが,中有が無 いとしているのではない.また,光と影は有情ではなく,有情である死有と生有の比喩に は相応しくない.光と影は同時に存在することができるが,死有と生有は前後して起こる ので理屈に合わない.さらに,死有から中有,中有から生有へと行くときに 間が無いか ら.光と影の間には 間がない,という比喩は,中有が有ることの論拠となる(『婆沙論』 356a14–b9,要約). 分別論者の二経証に対して,応理論者は三つの経証を挙げる. ①入母胎者,要由三事倶現在前.一者母身是時調適.二者父母交愛和合,三健達縛正現在 前.(『婆沙論』356c28) ②有中般涅槃.(『婆沙論』357a1) ③此身已壞,餘身未生,意成 有情依止於愛,而施設取.(『婆沙論』357a3) ①は三事和合の文で,中有について論じる時頻繁に引かれる受胎の条件につい ての文である.「母胎に入るには三事が共にそろうことが必要である.一には母 身の状態が良いこと.二には父母の交愛和合.三にはガンダルヴァがその場に存 すること」とあり,ガンダルヴァが中有であるとする.②の「中般涅槃3)」は中 有無しには成り立たないとする.③は「この身が滅し,他の身がまだ生じない時,意成の有情は愛に依って止まり,取を施設する.」とあり,「意成の有情」 は,中有が無かったら何によってこれを立てるのかという.また,理証として, もし中有が無かったら,我々の住む世界で没し,他の世界,たとえば北倶盧洲等 に生じる時の形態の変化等をどう説明できるのか(『婆沙論』357a6–8),として中 有はあると論じる. そして,応理論者の挙げる三つの経証に関する両者の議論が以下に続く(『婆沙 論』357b9–358a8,要約). ①について,ガンダルヴァは音楽を司る神格であることから,分別論者はこの 経にあるガンダルヴァは蘊行である,と言う.また,四生のうち胎生と卵生は三 事の入胎があり得るが,湿生と化生にはない,としてこの経証は理に合わないと 述べる.これに対して,応理論者は,入胎の三事は四生各々に応じて説かれるの であって,これによって中有が無いことにはならないと論じている. ②の中般涅槃についても分別論者の論から始まる.中般涅槃とは中天において 入滅する者,また,欲界を出て色界にたどり着く前に入滅する者,色界の衆同分 を受けて長く経たずに入滅する者,色界に生じたが寿命が尽きる前に入滅する 者,等を言うのであって,中有が存在することを言うものではない,と論じる. これに対して,応理論者は経には四大王衆天から非想非非想處天に至る二十八天 が説かれているのみで,中天は説かれていない,と中天の否定から反論を始め る.これに関連して,中般,生般,有行般,無行般,上流般の五種不還各々が分 別論者の理解でいくと矛盾を生じてしまう,と非難する.欲界を出て色界にたど り着く前に入滅する者は中有なくしてどのように般涅槃するのか,と述べて応理 論者の見解は間違いであると断じている.さらに色界の衆同分を受けて長く経た ずに入滅するのは生般涅槃と言うべきであるとする.また,この場合無色界で中 有となることになり,理に合わないと説く.色界に生じたが寿命が尽きる前に入 滅する者については色界のみではなく理に合わないとする. ③の意成の有情の経証に対する反論は次の通りである.意成の有情は無色界の ものである,と分別論者は述べて論拠として経を挙げる.これに対して応理論者 は,「意成」は,中有,化身,劫初人,上二界など多くの意味を表すが,なぜ, それを中有でなく無色界のものと考えるのか,と聞き返している.分別論者はこ れに対し,なぜ無色界ではなく中有なのかと問い返すが,応理論者は,③に「未 生」とあることを指摘して,無色界を未生とするのは理に合わないとして結論と している.
応理論者は中有の有無についての議論を次のように締めくくる. 分別論者は,死有から生有に到る時,まず生有に到ってから死有を離れる.先に前足を出し て安定させてから後ろ足を出すように.この故に,死有と生有の間には断滅がない.これに 対して,応理論者は論難する.その説に従えば,人は死して地獄に生じる時,先に地獄の諸 蘊を得て,その後に人の諸蘊を捨することになる.そうなると,人と地獄の両趣に属し,両 方の身を持ち,また,一有情身に死有と生有との二心を生じることになるという大きな間違 いを犯すことになるとして,分別者の説を難じる(『婆沙論』358a9–29,要約). 最後に,両者の論のうち応理論者の説が正しいという結論を出す.経証も理証 も応理論者が勝れている,と言う. 以上が中有の有無に関する議論である.分別論者と応理論者の対論の形式で進み, 最後にどちらの説が正しいか決定している.そして,中有有無の対論の最後を,諸法 の正理を顕示して学者を開悟させるためにこの論をなすのである,と締めくくる. 基本的に経証による論述であるが,理証による議論もかなりあることが注目さ れる. 2.
中有と趣
次に,『婆沙論』は中有と趣の関係について論じている.まず,次の三論書の文 を引いている. ①爲五趣攝四生,爲四生攝五趣.答,四生攝五趣,非五趣攝四生.不攝何等,不攝中有. (『婆沙論』358b5)(『施設論』) ②云何眼界.答四大種所造清淨色,是眼,及眼根,眼處, 眼界,地獄傍生鬼天人眼,修所成眼及中有眼.(『婆沙論』358b8)(『法蘊論』T26, 498b) ③云何眼根.謂,四大種所造淨色,能視,能見,眼界眼處眼根所攝,地獄,傍生,鬼, 天,人眼,或復,所餘中有等眼.(『婆沙論』358b10)(『品類足論』T26, 692b) この文を参照しつつ,中有が諸趣の摂である説と,中有が諸趣の摂でない説を 順に説く.そして結論として,中有は趣の摂ではないとする.その理由として, 趣は安住するが中有は安住しない,趣は果であるが中有は因である,中有は二趣 の中間にある,等を挙げる. 3.中有のある場所
『婆沙論』は次の四説を挙げる.①業猛利者,即無中有,業遲鈍者即有中有.由此,地獄及諸天中,皆無中有.業猛利故. 人,傍生,鬼,或有中有,或無中有.業不定故.(『婆沙論』358c19) ②化生有情即無中 有.業猛利故.三生有情,或有中有或無中有.業不定故.(『婆沙論』358c22) ③若,用順 定受業而招生者,即無中有,若用順不定受業而招生者,即有中有.(『婆沙論』358c24) ④ 欲色界生定有中有.連續處別死有生有,令不斷故.無色界生,定無中有.(『婆沙論』358c26) ①は「業の強弱によって,地獄と天には中有が無く,人,傍生,餓鬼には中有 がある.」,②は「業の強弱によって,四生のうち,化生には中有が無い.」,③は 「一定期に異熟果を受ける業が生を引けば中有が無く,不定の業が生を引けば中 有がある.」,④は「欲色界には中有があり,無色界には中有が無い.」とあり, 第四説が正しい説であるとする.以上については特に議論は無い.欲・色界では 死有から生有へ断続しないように中有があるとするものである. 4.
無色界に中有が無い理由
先の正しい説とした中にある,無色界には中有が無い,という説についての論 証である.ここでは様々な理由を挙げている.そのうち,いくつかを以下に示し ておく. 色法が中有の器であるのに無色界には色が無い. 処が別の死有と生有の連続のために中有があるが無色界ではその必要が無い. 界と地と処において二種類の業の異熟果を受けるなら中有があるが,無色界においては一 種のみなので無い.十数種類の業を挙げている.例えば,有色業と無色業の二種のうち, 無色界は無色業の異熟果のみである(『婆沙論』358c26–359b6,抄訳). 以上,様々な理由により,無色界には中有が無いとする. 5.中有の可転不可転
ここは比喩者との議論になっている. 比喩者は中有可転を主張する.一切の業は可転であるから,中有も可転であるという.な ぜならば,最善である有頂の業が可転であるのだから,五無間業も可転である.故に,中 有も可転であるとする.これに対して毘婆沙師は,中有を引く業が極めて強大であるから 不可転であるとする.そして,最終的には,比喩者の主張する中有の可転は,中有に到る 前の本有時にあるもので,中有の時にあるものでは無い(『婆沙論』359b20–360c16,抄訳). このように不可転を結論としている.いったん次に生じる趣が定まったら,変 更されることはない,とする.6.