• 検索結果がありません。

なぜ読書をしなければいけないの?

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "なぜ読書をしなければいけないの?"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

大神田 丈 二

Because it’s there.

─ George Mallory ─

 大学で長い間文学の講義を担当してきました。定年後の現在でもありがたいことに 担当させてもらっていますが、講義の目標は今も昔も、一人でも多くの学生に文学作 品に接してもらいたい、楽しんでもらいたい、このことに尽きます。ですから、文学 史的な話は極力避け、個々の文学作品の魅力を伝えるべく腐心しています。一般教養 として、わが国の近代文学がいつどのように始まり、どのような作家がどのような傾 向の作品を発表したかというような文学史的な知識など必要ない、などとは恐れ多く て公言できませんが、コンピュータのマニュアルばかり熟読して専門用語には人一倍 詳しくなったものの、ついにコンピュータには触れずじまいだったでは困るわけです。

 いつでしたか、テレビの衛星放送でロック・ハドソンという二枚目ハリウッド俳優 が主演していたラブコメディが放映されました。タイトルは「男性の好きなスポー ツ」(1966年)といい、監督はジョン・ウェイン主演の「リオ・ブラボー」やマリリン・

モンロー主演の「紳士は金髪がお好き」のハワード・ホークスです。この「男性の好 きなスポーツ」の主人公ロック・ハドソンは釣具店に勤めており、釣具に精通してい るし、釣りに関する著書(ベストセラー)もあることから常連客たちからは絶大の信 頼を得ています。しかし、実は、彼は釣りをまったくしたことがないのです。魚も嫌 いなのです。その彼がひょんなことからフィッシングトーナメント大会に出場するは めになり、ご想像の通り、恋愛もからんであれやこれやドタバタが起こるわけです。

名匠の技量や名優たちの名演もあって、スラップスティック映画の定番ともいえるよ うな、とてもしゃれていて楽しく幸せな映画でした。

 映画を観ながら、そうか、なるほど、「男性の好きなスポーツ」とはそういう意味 かと含み笑いしている自分に気がつきました。そして英語の

sport

には日本語の「ス ポーツ」よりも広く多様な意味を含んでいますから、「恋愛」も「読書」も「スポーツ」

に含んでよいはずであり、だとすれば、ロック・ハドソンが文学の教授という設定 だってあり得えたのではないかと空想がとまらなくなりました。名著『文学入門』そ の他の著者で、古今東西の文学に通暁していると一目も二目も置かれているのだけれ

なぜ読書をしなければいけないの?

(2)

ども、実は、ほとんど小説も詩もエッセイも読んだことがない、にもかかわらず、大 講堂がいつも満杯状態になるほど学生たちに絶大な人気のある教授が、そこに専門を 同じゅうする美しい女性教授が登場したこともあり、次々と秘密が露見しかねない危 機的状況が出来し、その場を取り繕うために右往左往する。これもまた才能ある脚本 家や監督に恵まれて映画化されたならば、「男性の好きなスポーツ」以上にスリリン グで抱腹絶倒な喜劇が生まれるかも知れません。

 もしもこのような教授が実際にいたら、真実が露見した瞬間、詐欺師として断罪さ れ、社会的に抹殺されてしまうでしょう。とはいえ、私がこのようなトンデモナイ教 授を頭から否定していると思われては困ります。その教授が魅力的な講義で学生たち を惹きつけ、その結果、学生たちがそれまで興味も関心もなかった文学作品に目を向 けるようになり、実際に本を手にとって読むようになったとするならば、その教授は 教師としては間違いなく優れた教師だからです。「男性の好きなスポーツ」の主人公 も、たとえ本人が釣りなどしたことがなくとも、彼の釣り場情報や推奨したロッドや ルアーを使用した客が大いに釣果を上げたならば、釣具店のアドバイザーとしては名 実ともに名アドバイザーといえるでしょう。ですから、文学の講義を担当している教 師である私が何よりも恐れているのは、私自身のメッキが剥がれるのを恐れる気持ち もないわけではありませんが、学生に文学の魅力を伝えきれていないのではないかと いうことです。もしもそうであるならば、私は、釣りをしたことのない釣具店の店員 やトンデモナイ教授よりも、教師としてははるかに劣ることになります。

 誤解を恐れずに言えば、知識の伝達は相手がそれを受容しようという意欲があれば 簡単です。釣りをしたことのないアドバイザーでも、小説を読んだことのない文学教 授でも可能です。ロック・ハドソンの釣りアドバイザーが認められていたのは、釣り 人たちの多くがフィッシングをスポーツとして、趣味として楽しんでいるアマチュア たちで、もちろん初心者もいたはずですが、偽釣り師であるハドソンの情報や知識を 受容する意志や能力があるばかりでなく、それら情報や知識を創造的に活用すること ができたからでしょう。文学の教授についても同じことが言えます。しかし、もう一 度言いますが、やはり彼らを詐欺師として断罪する気にはなれません。やはり彼らは 情報や知識を与えただけではなく、釣り人や学生にフィッシングや文学に対するさら なる興味を引き起こしたのですから、立派なアドバイザーであり教師だったわけです。

 ですから、問題は情報や知識を必要としない、関心のないものを相手にしたときに、

どこまで立派なアドバイザーや教師になれるか、そのためにはどうすればよいのかと いうことになります。仮にそのような相手に知識だけ伝達したところでむなしいばか りでしょう。読書に対する関心など薬にしたくてもない学生が、単位が欲しい、それ も良い成績が取りたいというだけで、明治大正時代に活躍したメジャーな作家の名前 や作品名ばかりか、上司小剣、近松秋江、広津柳浪といったマイナーな(ここで言う

(3)

「マイナー」とは価値判断を含んでいません。鴎外や漱石に比べれば一般的な知名度が低いと いう意味で使っています)作家の名前も代表作も、加えて彼らについての文学的な評価 までも言えたとしたら、それは言祝ぐべき出来事でしょうか。教師冥利に尽きると感 涙にむせぶべきでしょうか。もちろん、最初にも書きましたが、このような文学史の 講義を行っているわけではなく、あくまでも譬えとして極端な例をあげただけなので すが、ここまでも極端ではなくとも、文学の講義を担当していながら、私の取り上げ た作家の名前や作品名は覚えたけれども、誰一人として作品を手にしようとしないの ならば、情けなく恥ずかしいことです。『不思議な国のアリス』が書棚にありますが、

私もアリスに続いて穴に入るべきかも知れません。

 昔、予備校で知り合った各受験種参考書のことにやたら詳しいのに一向に成績が上 がらなかった学生のことを思い出します。成績が上がらなかったのは、言うまでもあ りませんが、教師の推薦や宣伝文句に踊らされて参考書を次々に買い換えるもののま ともに参考書を開いて勉強することがなかったからでしょう。文学の講義においても このような学生は生みたくありません。作家の名前はよく知っている、古今の名作の タイトルも言える、しかし、本を手に取ろうとしない学生は生み出したくないのです。

知らないよりも知っている方がましだろうという意見もあるでしょう。少なくとも、

地方公務員試験等では役に立つわけですから。しかし、私から言わせれば、豊富な文 学の知識を頭に詰めこんだ学生よりも、成績はふるわないけれども、講義終了後に やって来て、先生、先生が先週話してくれた小説読んだよ、と嬉しそうに言う学生の 方が、好ましいというと贔屓になりますが、本心では好ましくありがたく思っていま す。

 さて、一冊の書物は人に読まれて初めて書物になります。書物は、そこにどれほど 深い智慧や哲理が刻まれていたとしても、読まれることがなければ、単なる場塞ぎで しょう。人が本を読む、「読書する」ことが書物に書物としての価値を付与している のです。当たり前ですが人の「読む」という行為が前提になければ、本は単なる部屋 のお飾り、もっと悪く言えば、ゴミに過ぎません。誰も利用しない図書館は巨大なゴ ミ屋敷と同じです。以前読んだ誰かのエッセイに、私は**出版の本はきらいだ、な ぜならば決して読まれることないからだとありました。私もその出版社の本には同じ 印象を持っていましたから、そうだ、まさしくその通りだ、よくぞ言ってくれたと快 哉を叫んだことがあります。確かにその出版社の本は日本文学の名作などを出版当時 の古風な、しかもいかにもしゃれた装丁でセット販売しており、居間の調度品にぴっ たりだったのです。いや、調度品とは日常に用いる道具類のことを指しますから、調 度品というべきではなく、あってもなくてもよい体裁のよいお飾りだと言うべきでし た。家を新築して広く居心地の良い居間も作った、お客様を呼ぶのに本ぐらい並べて

(4)

おかなければ体裁が悪いだろうというわけです。実は、18世紀に英国で生まれた近代 小説も、あるいは明治以降の日本の小説も、すぐれた風俗小説はみな人間の度し難い 虚栄心をテーマにしています。人間の虚栄心を肯定しているというと語弊があります が、人間は、どのような人であっても、虚栄心を免れない、その真実を描くことを目 的のひとつにしています。ですから、この新築家屋を自慢したくてならない御仁が、

ある日ふと、居間に飾ってあった小説の一冊を取り出して読んだならば、そこに誰あ ろう、成金趣味で見栄坊な自分自身を見出して、書物を飾りものにした愚に気がつい たかも知れません。

 居間のお飾りになっている本、誰にも読まれない書物は哀れで悲しいものです。し かし、それよりも悲しく寂しいのは、そこに書物があるのに読もうとしないことで しょう。とはいえ、「読 者」になるということ、本 を「本」たらしめることは、実 際 にはなかなか大変なことなのです。読書とは大変な集中力と持続力が必要な行為で す。端から見れば、愛書家はただ楽しく本を読んでいるように見えるかも知れません が、スポーツですから体力勝負という面もあります。気力や集中力も欠かせません。

一昨年中里介山の『大菩薩峠』を通勤の車内などで数ヶ月かけて読み通しましたが、

このある時期まで世界最長の小説と謳われていた巨篇を読破するのは、いかな小説好 きの私でも並大抵のことではありませんでした。だいぶ前に新入生に読書を勧めるた めに書いた文章の中で、『大菩薩峠』を読むということは、南アルプスの山々を縦走 するようなものだと、せいぜい高尾山ぐらいしか登ったことのない私があたかも登山 経験者であるかのようなふりをして思わず筆を滑らせてしまったのにも理(ことわり)

があったわけです。これは大長編小説にトライした場合の話ですが、しかし、それが 短篇小説であっても、一語一句も疎かにせず、いわゆる行間をも読もうとするならば、

集中力の持続が必要です。いずれにしても、読むという行為にはどのような場合であ れ負荷がかかっているわけです。

 もちろん、音楽を聴くことも、絵画を観ることも、本当にそれらを鑑賞しようと 思ったら、持続力と集中力が必要なことは言うまでもありません。しかし、音楽の場 合ならば「聞く」と「聴く」の区別があります。絵画であれば「見る」と「観る」の 区別があります。どちらの場合でも、前者が自然に耳入ってきたり、ぼんやり物事を 眼にしていたりという意味です。一方、後者は集中して物事を聴いたり、また観たり していることです。しかしながら、「読む」にはそのような区別はありません。現実 には、考 えごとなどをしながら 文 字 を 目 で 追っているだけということがあるでしょ う。しかしその場合はやはり、読んでいるというよりも、文字を目に入れているだけ だと言うべきでしょう。つまり、読むという行為には、音楽でいうところの「聴く」、

絵画でいうところの「観る」しかなく、受動的な読むという行為はありえないわけで す。「乍ら族」と言えば、ラジオや音楽をかけながら仕事をする人のことですが、逆に、

(5)

読書に集中しながら音楽も「聴く」ということは不可能でしょう。読書はあくまでも 主体的な行為なのです。

 ですから、ここに読書を勧めることの困難が潜んでいます。普段読書をしない人に、

一冊の本を手に取らせる、そして本を開かせる、読書を好まない人にとってはこの最 初の一歩を踏み出すのにも膨大なエネルギーが必要です。飛行機はその離陸のときに 燃料のかなりの部分を消費するということを聞いたことがありますが、まさにそれと 同じです。いや、読書にはもっと膨大なエネルギーが必要です。なぜならば飛行機で あれば乗客は座席に座っていれば飛び立って目的地まで運んでくれますが、読書の場 合には読者自らが羽撃いて飛び立たねばならないからです。しかも、目的地まで自分 の力と意志で飛行を継続しなければならないからです。このように考えてくると、そ のような腰の重い、わざわざ苦難を求めない、読者以前の人をどのようにして読書の 世界に巣立ちさせたらよいのか、考えるだに絶望的な気分になります。最初から匙を 投げたくなります。「読書論」とは、「読書のススメ」とは、読書が好きな人のための ものだったのだ、最初から本など読む気のない人のものではなかったのだと今更なが ら思います。読書の興味など薬にしたくてもない者にいかにして本を取らせるか、こ れには有効な処方箋はないのかも知れません。

 しかし、諦めるつもりはありません。結局のところ、最後にはやはり匙を投げて、

すみませんと謝ることになるかも知れませんが、運が尽きるまで進みたいと思いま す。そこで、この解決が容易ではない永遠の課題に直接アタックする前に、それ以前 の問題として、「なぜ読書をしなければいけないの?」について考えてみたいと思い ます。世の中には本を読まない人、読書を好まない人が数多います。最近は読書離れ が進んでいると言われますが、実は今も昔も、読書を本当に好んでいる人はほんの一 部であり、その割合には多少の変動はあるものの、少数者であることには変わりがな いと主張する人もいます。つまり、逆に言えば、今も昔も本を読まない人、読書を好 まない人が大多数だったわけで、そのような人たちに読書を勧めることが可能なのか 不可能なのかを考える前に、そもそも「なぜ読書をしなければいけないの?」につい て考えてみたいと思います。なぜならば、読書を好まない人は、読書は楽しいよ、役 に立つよ、だから本を読むべきだよと人から言われたら、「なぜ読書をしなければな らないのか」と問い返してくることがまず考えられるからです。問い返さないまでも、

「うるさいなあ、しつこいなあ、なぜ本なんか読まなきゃあいけないんだよ」と思い ながら顔を背けるのではないでしょうか。

 しばらく前にインターネットで偶然興味深い記事を見つけました。「なぜ読書をし なければいけないの?」というタイトルの記事でした。読書離れが進行していると言 われる今だからこそ、「なぜ読書をしなければいけないの?」という本質的な疑問を 避けて通るわけにはいきません。記事の内容は、読書をしない息子と読書好きの母親

(6)

との会話で進行します。読書をしない息子が読書好きの母親に「なぜ読書をしなけれ ばならないの?」という質問を恐る恐る発します。息子は読書をしないものですから、

そのような質問をしたら叱られるのではないか、馬鹿にされるのではないかと恐れて いるわけです。ところで、その質問に対して母親は「そんな馬鹿な質問をしないため よ」と軽くいなします。これだけでも母親が只者ではないことがわかりますが、彼女 は続けて「何故読書をしなければいけないのか、それは本を読んだ人にしかわからな い」と答えるのです。さすがに読書好きの母親です。この言葉も読書の本質をついて います。人は時に何事かに情熱を傾けている人を目の当たりにすると、「なぜ~する のですか」と訝しげに、あるいは興味深げに尋ねるものです。誰でも多かれ少なかれ 思い当たることだと思いますが、人からそんな質問をされたり、人にそんな質問をし たりした覚えがあるはずです。もっとも有名なのはイギリスの登山家ジョージ・マロ リーが「なぜエベレストに登るのか」と記者に問われて、「そこに山があるからだ」

と答えたという逸話でしょうか。母親の息子への返答を読んでこの逸話を思い出しま した。

 この「そこに山があるからだ」は英語では

Because, it’s there.

です。このシンプルな マロリーの答えを、シンプルに「そこに山があるからだ」と訳したのは誰だか知りま せんが、誤訳であるという人もいるようです。というのも ’it’ を「山」と訳している わけですが、正確にはそれは「エベレスト」のことであり、「山」と一般化すべきで はなかったというのです。なるほど、そうかと私も思いました。マロリーの答えは、

読書好きの母親の答えと同じだったのではないか。なぜエベレストに登るのかは、エ ベレストに登らなければわからないといっていたのです。では、なぜ「山」と訳した のが誤訳かと言えば、後で説明する理由で私は必ずしも「誤訳」(カッコつきではあり ますが)だとは 思っていないのですが、「山」と 訳 したことでエベレスト 登 頂 という マロリーの歴史的偉業が一般的な登山の話に薄められてしまったからです。さらに言 えば人生論になってしまったからです。質問した記者がマロリーから聞き出したかっ たのは、命を賭けてまでエベレストに登頂しようとした理由や、登山の素晴らしさ楽 しさ、そして 困 難 にチャレンジすることの 素 晴 らしさといったことではなかったで しょうか。マロリーから人生論のような答えを期待していたのです。実際、多くの 人々がこの「そこに山があるからだ」というシンプルな言葉から、シンプルゆえにか えって含蓄のある言葉と響き、人生論を導き出してきたのだと思います。つまり、私 が必ずしも「誤訳」ではないというのは、「山」と訳したことで質問した記者の質問 の意図、どのような答えを期待していたかが期せずして顕になってしまったからで す。穿ち過ぎでしょうか。

 人は何事かに情熱を傾けている人や困難な挑戦をしている人に向かってともすれ ば、「なぜエベレストに登るのか?」、「なぜそんな困難な挑戦をするのですか?」な

(7)

どと理由を聞きたがります。このような質問に対しては他にマロリーの絶妙な答え以 上の答えは思いつきません。というのも、これ以上のことを言おうとすると嘘になる からです。たとえば私が「なぜそんなにたくさん本を読むの?」、「なぜそんなに本を 買うの?」と問われたら、質問者の眼差しが真剣であればあるほど、私は内心大いに 当惑し、答えに窮するばかりでしょう。そしてもしもこの窮地を脱しようと、そのよ うな不躾な(と敢えて言いますが)質問に対して、「読書にはこうこれこういう良い事 があり、こういうことにも役にも立つし、生きる上で必ず為になるのだよ」と答えた としたら、私は答えた後で深く恥じ入ることでしょう。質問者に私自身が信じてもい ないことを聞かせたことになるからです。もう一度アリスに続いて穴に飛び込みもう 二度と地上に顔を出さないことにしたいと思います。

 読書は為になるとか役に立つとか、そのような後から取ってつけたような理由で始 めるものではありません。私の個人的な経験からしても、そのような理由で本を読ん だことはありません。いつどのように本を読み始めたかについては言えても、理由は 説明できません。ある日気がついたらどっぷりハマっていたというのが最も事実に近 いといえます。仮に、たとえ最初誰かから、両親から、教師から、友人知己から、読 書は為になるよと奨められて読書を始めたとしても、読書に深く親しむうちにそのよ うな理由はどうでもよくなりました。忘れてしまいました。読書が為になるかどうか は結果であって、前提理由ではありません。そこで、このことをもう少し詳しく説明 するために、もう一度「なぜ読書をしなければならないの?」という記事に戻ってみ ましょう。

 読書家の母親はさらに言葉を続けます。「本の嫌いな人や本を読んだことのない人 に『本を読むことが如何に素晴らしいか』を説いたところで理解してくれない。そも そも本に興味がないのだからその解説が苦痛でしょ。でも、これだけは言える。読書 が必要か不必要か。その答えは読書をした人しか答えられないのよ。貴方の答えは貴 方の読んだ本の中にだけ存在する。」そして母親は息子に次のように釘を差します。

「人類の多くが(なぜ)『本を読め』と言うのか、その答えが知りたいなら本を読みな さい。あなたの答えは誰ももっていない。他人にその答えを求める人は馬鹿と思われ てもしかたがない。あなたのように」。マロリーに「なぜエベレストにのぼるのか」

と問うた記者は、その理由を本当に知りたければ、自らエベレストにアタックしなけ ればならなかったわけです。ところが、記者は質問する前に、エベレスト登頂は素晴 らしい偉業であり、登山は素晴らしいスポーツなのだとレディーメードの答えを用意 していたのです。その意味ではこの記者は、読書をしない息子よりも質が悪いといえ ます。読書をしない息子は、読書をしないくらいですから読書には幻想を抱いていま せん。だから息子は読書する母親をいつも近くで見ながら、なぜ読書をしなければな らないのか単純に疑問を覚えたのでしょう。しかし、マロリーに質問した記者が読書

(8)

好きの母親に質問するとしたら、記者は読書好きの母親が読書の素晴らしさ、本を読 む意味について語ってくれるものと信じて質問するはずで、その時母親が、「ほら、

そこに本があるからよ」と素っ気なく答えたなら、記者は失望し、そこで質問を打ち 切るかも知れません。

 さて、エベレスト登攀は誰もができるわけではありませんが、読書であれば文字が 読めれば誰でも楽しめます。誰もがよき読者になる可能性があるということです。し かし先の読書好きの母親が「本の嫌いな人や本を読んだことのない人に『本を読むこ とが如何に素晴らしいか』を説いたところで理解してくれない。そもそも本に興味が ないのだからその解説が苦痛でしょ。」と言っていたように、読書嫌いの者、読書に 関心のない者にいくら理屈を説いても無駄かも知れません。また夏目漱石がどこかで 書いていた記憶がありますが、自分が正しいと信じる主義主張を押し付けようとすれ ばするほど相手の反発を招くものです。そこで何よりも注意すべきは、読書の価値を 理詰めで説き聞かせることは間違ってもしないことです。ましてや、強制的に読ませ るなどは愚の骨頂です。読書好きの母親は読書をしない息子に対して決してそのよう なことはしませんでした。しかし、息子は読書に親しむ母を身近に見ているうちに、

「なぜ読書をしなければいけないの?」という疑問がふと浮かびました。この息子が 母親のように読書好きになったかならなかったかそれはわかりません。それはわかり ませんが、読書をしない息子がこの質問を発した瞬間、彼は「小さな一歩だが、彼自 身にとっては大きな飛躍」を遂げる可能性のある質問をしたのかも知れません。母親 は辛抱強くこの瞬間を待っていたのではないでしょうか。

 読書に限らず、何事であれ、このように一歩が踏み出されるのがもっとも自然なこ とです。人から人へ何かが伝わってゆくのは、そのものに価値があるからではなくて、

ましてや、その価値が言葉で説明できるからでもなくて、読書で言えば、息子の存在 を尻目に無言で読書する母親の姿でした。理屈を千言万語費やしても伝わらないもの も、熱中している様子や楽しんでいる様子を見せていれば、人は、少なくとも母親に

「なぜ読書をしなければならないの?」と質問するような息子であれば、自ずと読書 に関心を寄せるようになる可能性があります。ここでは敢えて「情熱」という曖昧な 言葉を使わせてもらいますが、人から人へ伝わるのは「情熱」だと思います。私の個 人的な経験でも、志賀直哉の短編を直接読んだときよりも、文芸評論家の小林秀雄が 志賀直哉について書いた文章を読んだときの方が志賀直哉に強く惹きつけられまし た。小林秀雄の志賀直哉に対する情熱、その振る舞いが私に伝わり、小林秀雄が志賀 直哉の短篇に肉薄したように私も志賀直哉に肉薄したいと願ったのでした。また、高 校時代にニーチェに気触(かぶ)れたときは、若いニーチェがいかにショーペンハウ エルに熱中し影響を受けたかを知り、俄然、受験参考書も放り出して『ツァラトゥス トラ』に読み耽りました。私たちは「学(まね)び」、つまり真似して学ぶのです。

(9)

 エリック・サティの『乾からびた胎児』という三曲のピアノ曲集の第一曲「ナマコ の胎児」には「歯の痛いナイチンゲールのように」というわけのわからない指示が楽 譜に書かれてあるといいます。昔何かの本で、この指示はたとえばベートーヴェンの ピアノソナタなどにある「情熱的に」という指示を揶揄したもので、ピアニストがい くら情熱を込めたつもりでピアノの鍵盤を叩いたところで観客にその情熱が伝わるか どうかわかったものではないという、サティ一流の皮肉なメッセージがこめられてい るとありました。「情熱」とはまことに曖昧なことばです。自分は情熱を持って事に あたっていると思っても空回りしているだけで「歯の痛いナイチンゲール」のような ものが伝わっているだけかも知れません。ですから、情熱が伝わっているかどうかは、

コンサートであれば終了後の観客の熱狂ぶりから判断せざるをえませんし、講義であ れば学生たちが図書館へ走ったか、書店へ足を運んだかで判断せざるを得ません。し かし、先述した私自身の個人的な経験からも、伝わっていくのは情熱であり、いやし くも教師であれば、読書の意義を得々と語るだけでなく、読書する姿を見せたいもの です。

 実は、このことについて、私には特別な思い出があります。それは私がまだ三十歳 の頃、ある大学で英語の非常勤講師をしていたときの話です。前期の最終日、試験を 終えて帰り支度をしていると一人の男子学生がやって来ました。いつも後ろの方の席 に座っている目立たない学生でした。試験について何か質問があるのかと思っている と、学生は「ぼくは先生が授業中に話した本を全部読みました」と思いがけないこと を口にしたのです。「えっ!何冊ぐらい読んだの?」ときくと、「百冊ぐらい読みまし た」というのでさらに驚いたのですが、その百という数字もさることながら、私が英 語の時間にそんなに多くの小説の話をしていたのかと思ってわが事ながらびっくりし たわけです。考えてみれば、その頃の私はもっとも読書に熱中していたときでしたか ら、徹夜して払暁まで読んでいた小説がいかに面白かったか、いかに感動的だったか、

英語の授業そっちのけでついつい熱弁を振るってしまったようです。「面白かったか い」?ときくと、「どれもこれも面白かったです」と学生が答えたので嬉しくなりまし た。英語を勉強したかった他の学生たちにとっては迷惑なことだったかも知れませ ん。しかし私はこのとき、ああ、このようにして物事は伝わっていくのだなと実感し たわけです。この私にとって何よりも貴重な宝物のような体験が、今回の読書に関す る一文を草することになった背景だといってもよいかと思います。

 知り合いのある編集者が「大学の先生たちは、最近の学生は本を読まないと嘆くけ れども、教師のすべきことは嘆くことではなく、読書の楽しみを学生に伝えることだ ろう」と憤っていました。今ここでは、知り合いの編集者が云々と書きましたが、こ れはもちろんその編集者だけの言葉ではなく、日々良書を出版しようとしている日本 中の、いや、世界中の編集者の抱いている不満であり願いでしょう。私は、読む自由

(10)

があるのならば、読まない自由もあってしかるべきだと思っています。ですから、読 書を好まない、読書をしない学生を非難しようなどと考えたこともありません。しか しながら、文学を担当している以上、学生たちには読書に親しむようになって欲しい と心から思っていますし、読書を知らない学生が「なぜ読書をしなければいけない の?」と質問しに来てくれたならばこれ以上嬉しいことはないでしょう。

 (本稿は2018年 4 月 3 日FM甲府で放送した「生涯学習の時間」の原稿を修正・加筆したも のである)

参照

関連したドキュメント

なぜ、窓口担当者はこのような対応をしたのかというと、実は「正確な取

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

なお、相続人が数人あれば、全員が必ず共同してしなければならない(民

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

本判決が不合理だとした事実関係の︱つに原因となった暴行を裏づける診断書ないし患部写真の欠落がある︒この

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな

のニーズを伝え、そんなにたぶんこうしてほしいねんみたいな話しを具体的にしてるわけではない し、まぁそのあとは