フレグ家の通婚関係にみ られる交換婚
宇 野 伸 浩
は じめ に
1,ギブ・ア ン ド・テイクの交換婚 の特徴
2.フレグ家 とオイラ ト族 テ ンギズ家 との交換婚
3 交換婚 の政治的背景 結論
は じめ に
筆者 はこれまでに、チ ンギス・カンか らモ ンケ・カアンまでのチ ンギス・カン家の通婚 関係、お よびクビライ・カアン以降の元朝皇帝の通婚関係 について介筑 し、チ ンギス・カ ン家 と最 も通婚関係 の密接 なコンギラ ト族アルチ・ノヤ ン家、オイラ ト族 ク ドカ・ベキ家 との通婚 関係が、ギブ・アン ド・テイクのパ ター ンをもつ互酬的な縁組みシステムに基づ いていることを明 らかに した。 この研究成果は、すでに2本の論文 にまとめて発表 した1。
しか し、 これ ら論文では、 フレグ家 については十分 に論 じることがで きなかった。 フレグ とその息子 ジュムクルについて、オイラ ト族のク ドカ・ベキ家 とギブ・アン ド・テイクの 通婚関係があることを論証 したが、アバ ガ以降のフレグ家の通婚関係 については言及 しな かった。それは、 フレグ家の通婚関係 に独 自の特徴があ り、当時はそれ を十分 に論ずるだ けの用意が なかったか らである。今 回、あ らためてフレグ家の通婚 関係 を取 り上げ、その 特徴 を明 らかに してみたい。
当初筆者 は、イルカン国においては、ギブ・アン ド・テイクの縁組みシステムが機能 し ていなか ったのではないか と考 えていた。なぜなら、イルカンの母方の血筋 を見てみると、
コンギラ ト族、オイラ ト族 などの名門姻族が重ん じられていない ように見 えるか らである。
例 えば、第2代アバ ガ・カンの母 イス ンジン・カ トンは、スル ドス族 出身であ り、第4代 アルグン・カンの母 カイ ミシ・エゲチは出身部族不明の側室であ り、第6代ガザ ン・カン の母 クル タク・エゲチは ドルベ ン族 出身の側室であ り、いずれ もオイラ ト族や コンギラ ト 族 などの名門姻族 出身ではない。そのため、一見、フレグ家では名門姻族 との姻戚関係が 軽視 されていた ように見 える。イルカン国のイルカン位継承 は、 フレグーアバ ガーアルグ ンーガザ ンの直系 ラインが支柱 になってお り、その直系 ラインにおいて、 この ように繰 り
―… 27 ‑―
返 し母方の血筋が名門姻族 と関係ないのであるならば、チンギス・カン以来の縁組みシス テムは機能 していないような印象を受けるのである。
ところが、『集史』 などの史料から婚姻の事例 を抽出 し、通婚のパ ターンを詳細に分析 した結果、名門姻族が軽視 されていたのではないことがわかった。フレグ家 とオイラ ト族 との間では、連続的なギブ・アンド・テイクの通婚パターンが一度途切れるが、その後ギ ブ・アン ド・テイクの交換のパ ターンに基づいた交換婚が新たにスター トしていた。なぜ 一度途切れた通婚パターンが再開したのか、イルカンが名門姻族 とどのような関係を維持
していたかについて、その背後にある政治状況を含めて本稿で論 じてみたい。
イルカン国の姻成関係については、志茂碩彼氏の詳細な研究がある2。 また、イルカン国 のカ トンについては、ラム トンの若干の分析がある3。 本稿では、ギブ・アンド・テイクの 通婚パ ターンの抽出という独 自の方法でイルカン家の通婚関係の分析を行 うことにより、
新たな事実を解明 してみたい。
1.ギブ・ ア ン ド・ テイクの交換婚の特徴 まず、これまでに筆者が発表 した論文4におい て明 らかに したチ ンギス・カン家 に見 られる縁 組 システムについて説明 してお きたい。
チ ンギス・カン家 と名 門姻族 との間に見 られ る縁組みシステムは、図 1の ように、「ある男性 自己
が妻を要ったお返 しに、自分の娘を妻の兄弟の 息子に嫁がせる」 というギブ・アンド・テイク の交換婚である。チンギス・カン家だけでなく、
相手の姻族 も同 じルールにそってギブ 。アン 図1
ド・テイクの交換婚を行 うことにより、世代 を 超 えて姻戚関係が形成 され続 ける。
この ように同一の家系 と女性 を交換 し合 う (妻を警 り、娘 を嫁がせ る)こ とにより2重 の姻成関係が形成 されるが、 さらに理想的に機能 した場合 は、それに母方の親族関係が加 わ り、3重の姻戚 ・親族関係が同一の家系 との間に形成 される。ただ し、母方の親族関係 によつて二つの家系が集団 として結び付 け られるためには条件があ り、婚入 して きた女性 か ら生 まれた息子が、父の跡 を継いでその家系 を代表す る当主 となることが必要である。
その条件が満た された場合、二つの家系 は、集団 として母方の親族関係 によつて結 ばれ、
その関係 を世代 を超 えて持続す ることがで きる。
例 えば、図2で言 えば、チ ンギス・カンの娘チチェゲ ンが ク ドカ・ベキ家の トレルチ に 嫁いだことによ り、二人か ら生 まれたブカ・テムルにとってチ ンギス ・カンは母方の祖父 となる。さらに、 トレルチ とチチェゲンか ら生 まれた娘 クイクが フレグに嫁 ぐことにより、
妻の兄弟の息子 チ ンギス・ カン家の交換婚の基本パ ターン
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フ レグ家 の通婚 関係 にみ られ る交換婚
二人 か ら生 まれたジュムクルに とって、今度 は トレルチが母方 の祖 父になる。 このように交互 に相 手の母方の親族 にな りなが ら、世代 を超 えて一定の母方の 親族 関係が、二つの家系の間で 維持 される。
この母方の親族関係が二つの 家系 を集団 として結 びつける絆 と して機能す るためには、婚入 して きた女性か ら生 まれた息子 が父 の跡 を継いで当主になるこ と、す なわちブカ・テムルが ト レルチの跡 を継 ぎ、ジュムクル
Quduqa Beki
Buqa‐ temiir
が フ レグの跡 を継 ぐことが必要である。従 って、当主の跡 を継 ぐ者の母方の血筋が重要で ある ことがわかる。 もし、婚入 して きた女性か ら生 まれた息子が当主の跡 を継がないなら ば、息子の世代では、母方の親族関係 は形成 されて も、両家 を集団 として結 びつける絆 と
しては機能 しないことになる。
2.フ レグ家 とオ イ ラ ト族 テ ンギ ズ家 との交 換 婚
フ レグ家では、図2のように、チ ンギス・カンか らフレグの次子ジュムクルまで連続 し ていた名門姻族オイラ ト族 ク ドカ・ベキ家 との連続的な交換婚が途絶 えて しまった。 しか し、 フレグの時代 に、オイラ ト族テンギズ家 との間に新たな交換婚がス ター トしたのであ る。 同 じオイラ ト族の中で新たな姻族が登場 し、姻族の交代が起 きたのは、ジュムクルが 死去 し、結果的にアバ ガがイルカンに即位 したことと密接 な関係がある。
まず、テンギズ家 との間で どの ような交換婚が生 じたかを述べ、その上で、その背景 と なった政治的文脈 を明 らかにしたい。なお、 フレグ家 とテンギズ家 との婚姻の事例 につい ては、志茂氏がすでに史料か ら網羅的に抽 出 している。併せて参照 していただ きたい5。
(1)通婚関係の始まり
テ ンギズは、史料 1に よると、ク ドカ・ベキ家 と父方の親族関係があった とい うが、詳 しい関係 は不明である。テ ンギズは、史料1に述べ られているように、は じめオゴデイの 息子 グユ クの娘 を要 って、オゴデイ家 と姻成関係 を持 っていた。そのため、 トルイ家がオ ゴデ イ家 との帝位継承争いに勝 ち、1251年に トルイ家のモ ンケが即位 した とき、テ ンギズ は杖刑 に処 されたが、彼が要つたグユ クの娘 の懇願 により助命 された。
図2 チンギス・カン家とクドカ・ベキ家の通婚関係
(↓ はレヴィレー ト婚を示す)
0町eiC=F
―‑ 29 ‑―
(史料1)オイラ トの部族長であるク ドカ・ベキ と親類関係 にあるア ミールたちやグ レゲ ンたちの中の一人は、テンギズ ・グレゲ ン (Tenggiz gu■gen<Telllh z kurkh) である。グユク・カンは彼 に娘 を与 え、彼 は婿 となった。グユ ク・カンが死去 しモ ン ケ・カンが王位 に即いたとき、グユ ク・カンの一族 と何人かのアミールが反逆 を謀 り、
アミールたちが処刑 された。その とき、テンギズ・グレゲ ンも告訴 され、彼の両腿の 肉がそげ落ちるほ ど棒 で打たれた。その後、彼のカ トンであったその娘が彼の助命 を 請い、彼 を彼女 に授 けた。 『集史J部族編 (Raき
=VAttИ‑3狐el‑1:p.227) それ との前後関係 は不明であるが、史料2によれば、テンギズの娘アリカン・エゲチは、
フレグの側室 とな り、 フレグが西 アジア遠征 に出発 した ときには、モ ンゴルに残 され、 コ ンギラ ト族 出身のフレグの第一カ トンであったク トイ・カ トンの宮廷 を委ね られた6。
(史料2)(フ
カン・エゲチ リ、ク トイ・
ク トイ・カ ト
レグの)第8番目の息子 アジヤイ。彼の母親は側室であ り、名前 をアリ (Ariqall Egeもi<Attqalll Tk巧
=)といつてテンギズ ・グレゲ ンの娘であ カ トンのオル ドにいた。 フレグ・カンがイランの地 に来 るとき、彼女 を (RぶこVAЛИ‑3aAe 3:p.11) ンの オル ドの長 に定 めた。
以上 は、テ ンギズが モ ンゴル高原 にい た時代 に、テ ンギズ家 とチ ンギス・カ ン家 との 間 に生 じた最初 の姻戚関係 である。 この二組 の婚姻 を 図示す ると図3のようにな り(ト ウ ドウゲチの 婚姻については後述)、 ギブ・アン ド・テイクで はあるが、図1の ような典型 的 なギブ 。ア ン ド・テイクのパ ター ンにはなってい ない。 ま た、当時テ ンギズ家は、同 じオイラ ト族のク ド カ・ベキ家 と比べれば、姻族 としてははるかに 小 さい存在で しかなかった。
図3 フレグ家 とテンギズ家の通婚関係 (1)
(2)フレグ家におけるテ ンギズ家 との交換婚の展開
ところが、フレグとともにイランに来たテ ンギズは、イルカン国で、 フレグ家の重要 な 姻族 となったのである。 まず、史料3に よると、テ ンギズ 自身が フレグの娘の トゥ ドゥゲ チ を嬰 った。
(史料3)(フ レグの)4番目の娘 トウ ドウゲチ (Tindingeもi<Tidllk菊)。 彼女の母親は ドクズ ・カ トンのオル ドの側室であ り、彼女の名前 は,…。彼女 をオイラ ト族 出身の
一‑ 30 ‑―
フレグ家の通婚関係にみられる交換婚
テ ンギズ ・グ レゲ ンに与 えた。彼 は以前 にグユ ク・カ ンの娘 を嬰 り、彼女 の名前 は,…
であ る。 テ ンギズ 。グ レゲ ンが死去 した とき、彼 の息子 のス ラ ミシが彼女 を要 った。
現在 、 テ ンギズ の孫 のチチ ェク ・グ レゲ ンが彼女 を嬰 ってい る。
F集史』 フ レグ・カ ン紀 (Rattd/AЛИ‑3朝e3:p.16)
フ レグが ドクズ ・カ トンを嬰 ったのはイラ ンに来 る途 中であったので、そのオル ドにいた 側室 の娘 の トウ ドゥゲチ をテ ンギズが要 ったのは、 フ レグ とテ ンギズが イ ラ ンに来た後 の ことである。 この婚姻 によって、 フレグとテンギズは、図3のように互いに娘 を嫁がせ合 うタイプの交換婚 を行 った。チ ンギス家の姻戚関係全体の中で、互いに姉妹 を嫁がせ合 う 姉妹交換婚の例 はい くつかあるが、娘 をたがいに嫁がせ る交換婚は珍 しい タイプである。
そ して、次の史料4に述べ られているように、テ ンギズの娘のク トルグが フレグの孫の アルグンに嫁いだ。
(史料4)アルグン・カ ンは、 アバ ガ・カンの最年長の息子であ り、 カイ ミシ・エゲ チか ら生 まれた。彼 にはカ トンたちと側室たちがいた。その全ての中で最 も上であ り テ ンギズ・グレゲ ンの娘であるク トルグ・カ トンを要 った。彼女が亡 くなった とき、
ス ラミシの娘であ り (ク トルグの)姪のオルジタイを求めた。彼女の母親は トゥ ドゥ ゲチである。彼女はまだ子供であったので、彼 と夫婦 にはならなかった。
『集史』アルグン・カン紀 (RaきTVAЛИ‑3朝e3:p.196)
以上の二組の婚姻 (テ ンギズ と トゥ ドゥ ゲチの婚姻、 アルグンとク トルグの婚姻)
を図示すると図4のようにな り、図1のギ ブ・アン ド・テイクのパ ター ンにそった交 換婚であることがわかる。ただ し、テ ンギ ズの娘 ク トルグは、 トゥ ドゥゲチの娘では な く、上述のグユ クの娘 とテ ンギズの間に 生 まれた娘であった7。
G品
の娘
Tudilgeもi Abaγ a
Otitai
→
図4 フ レグ家 とテ ンギズ家 の通婚関係 (2)
(3)交換婚の展開
では、この交換婚は、アルグンとク トルグの婚姻以後、どのように連続 したのであろうか。
まず、テンギズの妻 トゥドゥゲチは、前掲の史料3、 史料 4に よると、図4のように、
テンギズの死後、レヴィレー ト婚により、テンギズの息子スラミシに嫁 ぎ、スラミシとトゥ ドゥゲチの間に娘オルジタイが生まれた。一方、アルグンに嫁いだク トルグが、次の史料 5の ように1288年に死去すると、史料4に述べ られているように、アルグンはそのオルジ
‑31‑
タイを要 った。
(史料5)その年 (イスラム暦687年)のサフアル月の 7日 に (1288年3月13日)、 オイ ラ ト族出身のテ ンギズ・グレゲ ンの娘で、王子カタイ'オグルの母親であるク トルグ・
カ トンが死去 した。 F集史』アルグン・カン紀 (Rattd/AЛИ‑3頸e3:p.207)
オルジタイはク トルグの姪 (兄弟の娘)にあたるので、アルグンが、妻ク トルグの死後、
妻の姪オルジタイを要ったという点からすれば、これはソロレー ト婚であるといえる (図
4参照)。 また、 これを交換のパターンとしてみれば、図5のように、スラミシが妻 トゥ ドゥゲチを要ったお返 しとして、妻の兄弟アバガの息子アルグンに、娘のオルジタイを嫁 がせ た こ とにな り、 ギ ブ・ア ン ド・テイクのパ
ターンにそった交換婚 になっている。従 って、左 右対称 に連続 した交換 婚 ではないが、交換 のパ
ターンは維持 されていたことがわかる。
さらにその後、スラミシが死去すると、 もう一 度 レヴイレー ト婚 を行 い、 トウ ドゥゲチはスラミ ンの息子チチェグに嫁いだ。チチ ェグと トゥ ドゥ ゲチか ら生 まれたのが、史料6に述べ られている ように、ハ ジであ り、ハジはアルグンの息子オル ジェイ トゥに嫁いだ (図6参照)。
(史料6)(オルジェイ トウ・カンの)第4呑
目の カ トンは、ハ ジ・カ トンであ り、 フ レ グ・カンの娘である母親 トゥ ドウゲチか ら生 まれた。彼女は、テ ンギズ・グレゲンの息子 チチ ェ グの娘 で あ り、彼女 か らアブー・サ イー ドとい う名の皇帝になった好逗な息子が いた。
『オルジェイ トゥ史』(Qaき孤コ町amb巨:p.7)
この婚姻 も、チチェグが妻 トゥ ドウゲチのお返 し として娘ハジを妻の一族 に嫁がせたという点では、
ギブ・アン ド・テイクの交換婚 になっているが、
チチェグが、妻の兄弟 アバガの息子 にではな く、
妻の兄弟 アバ ガの孫 オルジェイ トウにハジを嫁が
Aryun
コ ュ
卒
︱
︱ 小
︱
︱
▲
﹈ 鰤
︶晩
Oもltai
図5 フレグ家 とテンギズ家の通婚関係
(3)
フ レグ家 とテ ンギズ家の通婚関係
(4) 図6
―‑ 32 ‑―
フレグ家の通婚関係にみ られる交換婚
せた とい う点では、典型的なタイプよリー世代ず れている ことがわかる (図7)。
このように、フレグ家 とテンギズ家 との間で生 じた新たな姻戚関係はギブ・アン ド・テイクのパ ター ンにそった交換婚 になっていた。従 って、
イルカン国のフレグ家において も、チ ンギス家の 通婚関係 に特有のギブ・アン ド・テイクの縁組シ ステムが浮鮪としていたことがわかる。ただ、ク ド カ・ベキ家 との交換婚がおよそ左右対称 に連続 し ていたの に対 し、テンギズ家 との交換婚はレヴイ レー ト婚 を挟 んで著 しく左右アンバランスになっ ていた。
TlidilgeLi
図7 フレグ家 とテ ンギズ家の通婚関係
(5)
では、 フレグ家が、オイラ ト族テンギズ家 との間に交換婚を展開・継続 したにもかかわ らず、イルカンの母方の血筋が名門姻族 と関係が薄かったのはなぜであろうか。この点に ついて、次章でイルカン位継承をめぐる政治的背景 と関連づけながら論 じてみたい。
3.交換 婚の政治的背景
(1)第 2代アバガ・カンの即位一アバガ・カンの母方の血筋
フレグの長子アバガは、1265年にイルカン国の第2代イルカンとして即位 した。このア バガの即位に関してまず検討すべ き点は、なぜ、フレグの次子ではあるが嫡長子 (第一カ トンの長子)であるジュムクルが、第2代イルカンにならなかったかという点である。ジュ ムクルは、フレグの最初の第一カ トンであるクイク・カ トンの一番上の息子であ り、クイ ク・カ トンは図 2の ように、名門夕因族オイラ ト族ク ドカ・ベキ家の出身であった。従って、
ジュムクルはフレグの後継者 として申し分のない条件がそろつていた。実際、次の史料7 に述べ られているように、フレグが、イランに出発する前に後継者候補 として選んだのは ジュムクルであった。
(史料7)(フ レグは)ジュムクル王子を、母親が他のカ トンたちより上であったので、
自分の後継者 として、オル ドと軍隊の上に定めた。息子たちの中から、年上のアバガ とヨシュム トを自分の連れとして指名 した。
『世界征服者の歴史』(J■lwttIIL/Qa輔、pp.96⇒7)
しか し、従来の研究では、フレグの死後、アバガがイルカン位を継承 したのは、アバガが 長子であつたからだと考えられてお り、この点について疑間がもたれたことはあまりなかっ た。確かに『集史』には、
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(史料8)フ レグ・カンが死去 した とき、彼 らの慣例 に従 って、諸道 を閉鎖 した。 い かなる者 も移動 してはならない とい うヤサが発せ られた。す ぐに使者がアバ ガ・カン の もとへ、ホラーサー ン方面へ派遣 された。 なぜ なら、彼が年長であ り後継者であっ たか らである。 また官職にあってアバガ・カンに仕 えていたアルグン・アカ も召喚 さ れた。アバガ・カンは、その ときマーザ ングラーンの冬営地にいた。ユシュム トは、
彼 に属 していたデルベ ン ドとアラー ンの領地 にいたが、父親の死後 8日 後に (フレグ のオル ドに)到着 した。 『集史』アバガ・カン紀 (Ra諏協翫И…3錮C31p.101)
とあ り、アバ ガが「年長」であること、すなわち長子であることが後継者 となった正当な 理 由であるかの ように書かれている。 さらに、次の史料9に よれば、 フレグがアバガを後 継者 とす るとい う遺言 を残 していたのであ り、それ をセク トル・ノヤ ンらが証言 したこと に よって、アバガの即位が決定 した。
(史料9)哀悼の儀式 を挙行 した後、すべ てのカ トンたち、王子たち、甜馬たち、 ア ミールたちが集 まり、彼 (アバガ)の即位 について相談 した。その とき、昔か らの大 ア ミールたちが出席 していた。た とえばイルカ・ノヤ ン、ス ンジャク・ノヤ ン、ス ン タイ 。ノヤ ン、サマガル・ノヤ ン、セク トル・ノヤ ン、アルグン・アカ。その他の者 は冗長になるので省略す る。その中か ら、イルカン (フレグ)が遺言 を与 え、 ビリク を委ねていたセク トル・ノヤ ン、お よびス ンジャク・アカが、その他のア ミールたち の前で、後継者はアバ ガ・カンであると証言 した。
[集史』 アバ ガ・カン紀 (Ra側氏ЛИ‑3朝e3:pp.100101)
アバ ガの死後に第3代イルカンとして即位 したのは、アバ ガの弟テグデルである。その 後、 イルカン国では、 この ように兄が先に即位 しその後 に弟がイルカンの地位 を継承す る とい うパ ター ンが繰 り返 された。すなわち、アバ ガの長子 アルグンが即位 した後 にアルグ ンの弟 ガイハ トウがその地位 を継承 し、アルグンの長子 ガザ ンが即位 した後 にガザ ンの弟 オルジェイ トゥがその地位 を継承 した。従 って、長子 には、弟 より先 に即位す る正当性が 認め られていたかのように見える。
しか し、モ ンゴル帝国におけるチ ンギス・カン以来の帝位継承か らみると奇異であるの は、 アバ ガ、アルグン、ガザ ンの母親たちはみな第一カ トンではな く、血筋が他の弟たち の母親 に比べて劣 り、地位が低い ことである。 アバ ガの母 イス ンジンは、スル ドス族出身 の側室であ り、 もともとオイラ ト族出身の第一 カ トンのクイク・カ トンのオル ドにいた。
彼女 は、のちにカ トンとなったが、第一 カ トンではなかった。 また、アルグンの母 カイ ミ ン ・エゲチは、出身部族不明であ り、恨1室であった。ガザ ンの母クルタク・エゲチは ドル ベ ン族出身であ り、側室であった。
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フレグ家の通婚関係にみられる交換婚
それに対 して、チ ンギス・カン以来、モ ンゴル帝国の帝位継承 は、常 に第一 カ トンの息 子たちの間で争われてきた。まず、チ ンギス・カンの第一カ トンのボルテの息子たち (ジョ チ、チャガタイ、オゴデイ、 トルイ)および彼 らの子孫の範囲内で帝位が争われ、次にオ ゴデイ家か ら トルイ家へ帝位が移 った後は、 トルイの第一 カ トンのソルカクタニ・ベキの 息子たち (モンケ、クビライ、 フレグ、アリク・ブケ)の範囲内で帝位が争われた。元朝 成立以後 も、クビライの第一カ トンのチヤブイの息子たち (ドルジ、チ ンキム、マ ンガラ、
ノムガン)の範囲内で帝位が争 われた。従 って、モ ンゴル帝国の帝位継承者 は、ほとんど の場合、第一カ トンの息子であ り8、 母親の血筋によって後継者候補の範囲が絞 られていた
と考 えられる。
イルカン位の継承が、この原貝Uから大 きくはずれているのはなぜであろうか。 しか し、
フレグの後継者の場合、はじめか ら母親の血筋が問われなかったのではない。1253年にフ レグが西アジア遠征 に出発 したとき、フレグは次子のジュムクルに自分の後継者 としてモ ンゴル高原のユル トを委ね、長子アバガと第二子ヨシュム トを連れて、イランヘ向かった。
このとき、次子ジュムクルを自分の後継者 とみなした理由は、前掲の史料 7に 明確に述べ られているように、ジュムクルの母親が「他のカ トンより上であったJから、すなわち第 一カ トンであったか らである。
ジュムクルの母クイク・カ トンは、名門姻族のオイラ ト族ク ドカ・ベキ家の出身であっ た。一方、長子アバガの母イス ンジン・カ トンは、次の史料10に「クイク・カ トンのオル ドから要った」 とあることから分かるように、 もともとクイク・カ トンのオル ドにセヽた側 室であり、スル ドス族出身であったので、血筋の点ではクイク・カ トンの方が明らかに上 であつた。
(史料10)もう一人のカ トンのイスンジン・カ トンはスル ドス族の出身であ り、彼女 もモンゴル地方でクイク・カ トンのオル ドから嬰った。彼女は、ク トクイ (正しくは ク トイ)とともにモンゴルの地に残つていたが、その後 こちらへ来た。
『集史』フレグ・カン紀 (RattAЛИ‑3朝e3:p.8)
従って、1253年の時点では、フレグは、自分の後継者候補の条件 として、長子であるこ とよりも、母親が第一カ トンであることを重視 していたのである。
次に、このジュムクルは、フレグが死去 した1265年2月 8日の前年の1264年まで生 きて いたことを確認 しておきたい。まず、次の史料11によると、ジュムクルは、クビライとア リク・ブケの帝位継承争いに巻 き込まれ、アリク・ブケ側について戦っていたが、アリク・
ブケ側が敗北 して、アリク・ブケがクビライに投降するためにクビライのもとへ向かった とき、ジュムクルは病気のため離脱 した。
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(史料11)アバ ガ・カ ンはホラーサー ンヘ向かい、セラフス まで来 ると、冬 はマーザ ンダラー ンとその周辺で冬営 した。 フレグ・カンのアウルクが到着 した とい う知 らせ が届 くと、彼 は彼 らを出迎 えた。カブー ド・ジャーメの周辺 に、ク トイ・カ トンが、
二人の息子テクシンとテグデル、ジュムクルの息子ジュシュカーブとキ ンクシュ、 タ ルカイの息子バ イ ドウ、アバガ・カンの母親のイス ンジン・カ トンとともに到着 した。
彼 らの話 は次の如 くである。 フレグ・カンが イラン国へ出発 した とき、 自分のアウル クをモ ンケ・カアンの もとに残 した。アリク・ブケの乱の時、ジュムクルは彼の仲 間 であった。(アリク・ブケが)アルグとの戦いに敗れ、(ク ビライ・)カアンの もとヘ 向かった とき、ジュムクルは、病気 と治療 を理 由に して後 に残 り、その地方に留 まっ た。 この知 らせが フレグ・カンに届 くと、662年 (1263H4‑12641023)にアバ タ イ・ノヤ ンをジュムクル とアウルクを呼び寄せ るために派遣 した。ジュムクルは病気 であったため、途中で死去 した。 アバ タイ・ノヤ ンは、彼 らをサマルカン ドの周辺に 残 してフレグ・カンの もとへ帰 った。状況を申 し上げると、アバ ガ・カンは彼 を有罪 である として80回の杖刑 に処 し、「彼 をよく警護せず、 また飲食物への権力の行使、
カ トンたちへの監督の点で行 き過 ぎていた」 と仰せ になった。
結局、上述の時に、あるイン ド人が彼 らを案内 し、ある道か らうま く彼 らを脱出さ せ、アム河 を渡 らせ、666年ジュマーダー・アルウーラー月の19日 (1268年2月 7日)
にカブー ド・ジャーメの周辺で、アバ ガ・カンの もとへ到着 した。アバ ガ・カンは彼 を慰撫 し、 タルカンに した。 ク トイ・カ トンは、フレグ・カンが死 んだ とい う知 らせ をバ ダクシャンの周辺で聞 き、 目が見 えな くなるほどひどく泣いた。アバガ・カンは 彼 らの到着 を喜び、彼 らの到着 を称 え、多 くの財宝 を与 えた。
『集史』 アバガ・カン紀 (Rattd/AЛИ‑3狐e31 pp.105106)
ジュムクルが アリク・ブケか ら離れた時期 は、次の史料12から、1264年であることがわか る。
(史料12)フ レグ・カ ンの息子のジュムクルは、突然軽い病気 にかか ると、治療のた めにサマルカン ド方面へ行 くとい う理由で、 アリク・ブケに暇乞 いを求めた。662年 のラビー・アルアッワル月 (1264年 1月)が年頭 にあたるqt1lqllfla yllす なわちネズ ミ 年 に、彼 (アリク・ブケ)から別れた。
『集史」クビライ・カン紀 (RaЫ d/Topkapl 1518:fol.202a)
ジュムクルがアリク・ブケから離れたことを知ったフレグは、史料11に述べ られている ように、使者アバタイ・ノヤンを派遣 してジュムクルを呼び寄せようとしたが、結局、ジュ ムクルは病死 した。アバタイ・ノヤンは、ジュムクルが連れていたカ トンや他の王子たち
‑ 36‑一
フレグ家の通婚関係にみられる交換婚
を残 して フ レグの もとへ 帰 り、 フ レグにジュムクルの死去 を報告 した。
このように、フレグが死去する前年まで、フレグが最初に後継者とみなしたジュムクル は生 きてお り、フレグは彼 を呼び寄せようと努力 していたのである。一方、『集史』の中で、
アバガをフレグの後継者候補 として記 している箇所 (史料8、 史料9)は、あ くまでジュ ムクルが死去 した後の記事である。従って、アバガは、長子であつたという理由だけで、
ただちにフレグの後継者候補であったわけではなく、最初の後継者候補のジュムクルが死 去 したことによって、初めて後継者候補になりえたのである。
なお、『集史』 は、アバガの孫のガザ ンとオルジェイ トゥの治世に編纂 されたものであ るので、アバガの即位の正当化に有利な事実は積極的に記 しているが、ジュムクルが最初 後継者候補であったというアバガにとって不利な事実は、あえて記 さなかったということ は、『集史』の史料的な性格からして、十分に考えられることである。
ところで、フレグの第一カ トンの地位は、クイク・カ トンが早 く死去 した後、次の史料 13に述べ られているように、コンギラ ト族出身のク トイ・カ トンに引 き継がれた。
(史料13)も う一人のカ トンのク トイ・カ トン (Qutui Qatun<Q Vttm)は、コ ンギラ ト族の王の骨 (血筋)出身の一―の娘である。クイク・カ トンがモンゴル地方 で亡 くなったとき、彼女を要 り、彼女 (クイク・カ トン)の牧地 (ytlrt)を彼女 (ク
トイ・カ トン)に授 けた。 『集史』 フレグ・カン紀 (Ra鵡\ЛИ‑3弧e3,p.8)
フレグ家 とコンギラ ト族の姻戚関係については、史料から網羅的に婚姻例を抽出した志 茂氏の研究があ り9、 それにもとづきフレグ家 とコンギラ ト族のムサ・グレゲンー族 との通 婚関係を系図にしたものが図8である。この通婚関係にもギブ・アンド・テイクの交換婚 のパターンがあることが確認できる。フレグは、モンゴル高原にいた時代に一時期コンギ ラ ト族 との姻戚関係 を重視 し、オイラ ト族の第一カ トンが亡 くなった後、コンギラト族出 身のムサの姉妹 ク トイを要 って第一カ
トンの地位 につけ、自分 の五女のタラ カイをムサに嫁がせた。 しか し、フレ グが西アジア遠征 に出発す る頃には、
再度オイラ ト族 との姻戚関係 を重視す る方針 に転換 したようであ り1°、上述 のように、後継者 としてモ ンゴルの初 封地に残 されたのはオイラ ト族出身の 母か ら生 まれたジュムクルであった。
ク トイ・カ トンか らは、テクシン、
テグデルの二人の息子が生 まれた。フ
Qatai
→
図8 フレグ家 とコンギラ ト族の通婚関係
一‑ 37 ‑一
レグは、 このク トイ・カ トンを二人の息子 と共 にモ ンゴルに残 してイランヘ向かった。 フ レグは、イランヘ向か う途中で、新 しい第一カ トンとして、ケ レイ ト族 出身の ドクズ・カ
トンを要 ったが、 ドクズ・カ トンか らは男子 は生 まれなかった。
ジュムクルが死去 した時を点で、 フレグの後継者 として、アバ ガ以外 に、 フレグの二代 目 の第一 カ トンであるク トイ・カ トンか ら生 まれたテクシン、テグデル も候補 に考えられて いた可能性が十分 あ りうると思われる。 しか し、実際には後継者 にな らなかった。おそ ら く、 この二人はジュムクル とともにイランに向かったが、フレグが死去 した とき、まだイ ランに到着 していなか ったことが、理由の一つであろう。
また、 もう一つの理 由 として、フレグが コンギラ ト族 との姻戚関係 を軽視するように変 わったことが考 え られる。 フレグが西アジア遠征 に出発 した1253年には、2年前 に即位 し たモ ンケ・カアンがオイラ ト族支持 に変わつていたため、 コンギラ ト族 は姻族 としての勢 力 を失いつつあった。 フレグもコンギラ ト族 との姻成関係 を軽視 し、前述の ように、 コン ギラ ト族出身のク トイ・カ トンのオル ドをオイラ ト族の出身の側室 ア リカン・エゲチに委 ねて しまった。以後、 フレグはオイラ ト族テ ンギズ家 との関係 を強めたので、 コンギラ ト 族の血 を引 くク トイ・カ トンの息子たちを自分の後継者 とす ることを望 まなかった とい う 可能性が考 え られる。
(2)アパガと名門姻族 との関係
上述 した ような経緯 を経て、アバガは元来 フレグの後継者候補ではなかったが、結果的 には1265年に31歳で第2代イルカンとなった。
フレグ家 にとって名 門姻族 とは、チ ンギス ・カン、 トルイ、 フレグの第一カ トンの出身 部族である。すなわち、 コンギラ ト族 (ボルテ、 ク トイの出身部族)、 ケ レイ ト族 (ソル カクタニ ・ベキ、 ドクズの出身部族)、 オイラ ト族 (クイクの出身部族)の3部族が最 も 有力 な姻族である。歴代 イルカンは、この3部族 と何 らかの形で姻戚関係 を持 っていた。
アバ ガ も、 この3部族 出身のカ トンを嬰 った。ケ レイ ト族か らは トクタニ・カ トン、オ イラ ト族か らはオルジェイ・カ トンを要った。次の史料14に述べ られているように、この 二人のカ トンを要 ったのは、父 フレグの死後 に父の寡婦 を警 るレヴイレー ト婚 によつてで あつた。ただ し、 この二人は第一カ トンにはな らなかった。
(史料14)アバ ガ・カンはフレグ・カンの死後、オルジェイ・カ トンを要 った。 また、
フレグ・カンの側室であった トクタイ (正しくは トクタニ)・ カ トンを自分 に要 り、
彼女 は ドクズ・カ トンの代 わ りにブクタクを頭 に被 り、カ トンになった。
F集史」 アバ ガ・カン紀 (Raud/AЛИ…3狐e3:p.96)
アバ ガは、 コンギ ラ ト族か らは、次の史料15に述べ られているように、マルタイ・カ トン
―‑ 38 ‑一
フレグ家の通婚関係 にみ られる交換婚
を要 った。図8から分かるように、 この婚姻 はギブ・アン ド・テイクの交換婚のパ ターン にそ った婚姻であったが、彼女 も第一カ トンではなかった。史料15によれば、バヤウ ト族 出身の大 ブルガン・カ トンの方が彼女 より地位が上であったので、マルタイ・カ トンはあ ま り重視 されていなかった らしい。
(史料15)(アバ ガ・カンは)その次に、 コンギラ ト族出身のマルタイ・カ トンを嬰 っ た。彼女 はチ ンギス・カンの娘の息子であるムサ ・グレゲ ンの姉妹であ り、ムサの母 はク トイ・カ トンの母で もあった。彼 らは従兄弟だった・ 。マルタイ・カ トンはアル グン・カンの時代 に亡 くな り、アルグン・カ ンはやは リコンギラ ト族 出身であつた ト ダイ・カ トンにブクタクを被 らせ、彼女の地位 につけた。
その次に、ノカイ・ヤルグチの親族であった大ブルガン・カ トンを要 った。彼女 を非 常 に愛 していたので、マルタイとデス ピナ よ り上位 に置いた。アバガ・カンが死去 し た とき、アルグン・カンが彼女 (大ブルガン・カ トン)を嬰 った。彼女が亡 くなった とき、ブルガン・カ トンを彼女の地位 につけた。
『集史』 アバ ガ・カン紀 (Ra諏脇翫И‑3朝C3:p.97)
アバ ガの第一 カ トンは、史料16によれば、一代 目は ドルジ・カ トンであった。彼女の出 身部族 は 『集史』 に記 されてお らず不 明である。 アバガは、 ドルジ・カ トンの死後、 タタ ル族 出身のノクダン・カ トンを二代 目の第一 カ トンとして警 り、史料17によれば、彼女か ら次子 ガイハ トゥが生 まれた。史料18によれば、ガイハ トゥより先 に、側室のカイミシ・
エゲチ (出身部族 は不明)から、長子アルグンが生 まれた。
(史料16)(アバ ガの)全ての (カ トンの)長は、 ドルジ・カ トンであった。彼女が亡 くなった とき、 タタル族出身のノクダン・カ トンを嬰 り、彼女の地位 につけた。彼女 が死去 した とき、 コンギラ ト族出身のタルカイ・グレゲ ンの姉妹であ り、ク トルク・
テムルの娘であるイル トズ ミン・カ トンを嬰 り、彼女の地位 につけた。
『集史』 アバ ガ・カン紀 (Raミ\ЛИ‑3躯C3:p.96)
(史料17)ガイハ トウは、 アバ ガ・カンの久子であ り、 タタル族のノクダン・カ トン か ら生 まれた。バ クシたちが彼 にイリンジ ン・ ドルジとい う名前 をつけた。
F集史』 ガイハ トウ・カン紀 (Raき
=VAЛИ‑3狐e3:p.231) (史料18)アルグン・カンは、 アバ ガ・カンの最年長の息子であ り、 カイ ミシ・エゲ チか ら生 まれた。 『集史』 アルグン・カン紀 (Ra諏協翫И‑3駆e3:p.196)
一‑ 39 ‑―
以上か ら明 らかなように、アバガは名門姻族出力者のカ トンも要ってはいるが、第 1代 、 第2代の第一カ トンは名門姻族以外の都族出身者であ り、名門姻族が重視 されていなかっ たのである。これは、フレグの後4匹者候補であったジュムクルが、名門姻族のオイラ ト族 ク ドカ・ベキ家の娘をカ トンとして要 り、名門姻族 と関係が深かつたことと対照的である。
(3)アルグンのライバルたちの母方の血筋 と姻戚関係
モ ンゴル帝国では、カアンが自分の息子の一人に帝位を継がせようとした場合、その後 継者候補の息子に、名門姻族からカ トンを嬰 らすことが多い。例えば、オゴデイは息子の クチュを後継者 として選び、彼にはコンギラ ト族か らカタカシュ (ボルテの兄弟の孫)を 嬰 らした12。
フレグ家で も、前述のように、フレグが最初に後継者に選んだジュムクルは、オイラ ト 族のク ドカ・ベキ家から、母親クイク・カ トンの姪ノルン・カ トンを嬰った (図2)。 一方、
アバガは、後継者候補でなかったため、最初は名門姻族から第一カ トンを要 らなかった。
それに加えて、即位以前に要った側室カイミシ・エゲチとタタル族出身の第一カ トンのノ クダンからしか男子が生 まれなかったという偶然 も重なった。その結果、アバガの息子は 二人とも、父アバガと同様、母親が名門姻族の出身ではなく、イルカン位継承には不利だつ たのである。
アルグンのイルカン位継承にとつて彼のライバルは、叔父たち、すなわちアバガの弟た ちであった。 とくに、名門姻族を母親に持つ叔父たちが、最大のライバルであった。
アバガの弟は13人いたが、そのうち9人は側室からの生まれであ り、イルカンの後継者 として不利であつた。13人のうちカ トンか ら生まれた者は、ジュムクル、テクシン、テグ デル、モ ンケ・テムルの4人であ り、ジュムクルはすでに死去 していたので、残る3人が アルグンにとって最大のライバルとなった (表1参照)。
とくに、ジュムクルとともにイランに向かい、アバガの即位後にイランに到着 した第四 子テクシンと第七子テグデルは、フレグの第一カ トンのク トイ・カ トンの息子であ り、母 方でコンギラ ト族の血を引 くという点で、最 も強力なライバルであった。この二人のうち、
第四子テクシンは、ジュムクルの死後、ジュムクルのカ トンであるノルン (オイラ ト族ク 表1 フレグの息子13人の うちカ トンから生 まれた息子の母親の出身部族
息子の名前 続 柄 母親の名前 母親の出身部族 備 考
アバ ガ 長 子 イス ンジ ン スル ドス族 1265年即位。1282年死去。
ジュム クル 次 子 クイク オイラ ト族 1264年イランに向かう途中で死去。
テ ク シ ン 第四子 ク トイ コ ンギ ラ ト族 1268年イラン到着、1271年死去。
テグデル 第七子 ク トイ コンギ ラ ト族 1268年イラン到着、1282年員口位。
モ ンケ ・テムル 第十 一 子 オルジェイ オイ ラ ト族 1265年には10歳、1282年に死去。
一‑ 40‑―
フレグ家の通婚関係にみられる交換婚
ドカ ・ベ キ家 出身)をレヴィ レー ト婚 に よって要 り、 オイラ ト族 との姻戚 関係 を作 り、 イ ル カ ン位継承 に とつて有利 な条件 を整 えていた。 しか し彼 は、 アバ ガ在位 中の1271年 に病 気の ため に死去 して しまった。 一 方 、第七子 テ グデルは、次 の史料 19に 述 べ られ てい る よ うに、 コ ンギ ラ ト族 出身の カ トンを3人も要 り、 コンギ ラ ト族 との姻戚 関係 で固めていた。
(史料19)アフマ ド (・ テグデル)は、 フレグの7番目の息子であ り、 ク トイ・カ ト ンか ら生 まれた。彼 には多 くのカ トンたちと側室たちがいた。
彼のカ トンたちの中の最上位は、 コンギラ ト族 出身のテクズ ・カ トンであった。彼 女の次に、やは り、 コンギラ ト族出身のアルマニ・カ トンを嬰 った。彼女の次 に、フ セイ ン・アカの娘のバ イテキ ンを要 った。彼女の次 に、(コ ンギラ ト族の)ムサ・グ
レゲ ンの娘の トダク・カ トンを要 った。彼女の次に、キンシュの娘であ り、 トガチ ャ クの母親であるイル・ク トルグを嬰 った。人々が、彼女 を流行 している妖術の嫌疑に かけたが、彼が王位 についた とき、彼女 を要 り、ブクタクを被 らせた。最後 に、 トダ イ・カ トンも要った。 [集史』 テ グデル紀 (Ra d/AЛИ‑3駆e3:p.166)
第十一子のモ ンケ・テムルは、母親がオイラ ト族 ク ドカ・ベキ家出身のオルジェイ・カ トン (ク イク・カ トンの妹)である。前述の ように、アバ ガはこのオルジェイ・カ トンを レヴイレー ト婚 により自分のカ トンに した。従 って、モ ンケ・テムルが 自分の息子 にとっ てライバルであるとは考 えてお らず、モ ンケ 。テムルにイルカン位 を4匹承 させ、モ ンケ・
テムルか らアルグンにイルカン位 を継承 させ るとい う案 も考 えていた らしい13。 しか し、
モ ンケ・テムルは、次の史料20によれば、アバガが死去 した1282年 4月 1日の25日後 に急 死 して しまった。暗殺 された とす る説 もある14
(史料20)(モンケ 。テムルはイスラム暦)681年ムハ ッラム月16日の 日曜 日 (1282年 4 月26日)に死去 した。彼 の生涯の期間は26年と2カ 月であった。
[集史』 フレグ・カン紀 (Raき
=VAЛИ‑3a/1e3:p.13) その結果、アバ ガが長子 アルグンにイルカン位 を継承 させ る上で最大のライバル となるの は、母方で コンギラ ト族の血 を引 き、 コンギラ ト族 との姻戚関係 も築いていた弟テグデル だけになったのである。
(4)アルグンの姻戚関係の政治的意図
前述 したフレグ家とテンギズ家とのギブ・アンド・テイクの通婚関係を、このようなイ ルカン位継承をめぐる争いという文脈に置いて考えてみると、どのような政治的意図があっ たと言えるであろうか。
‑41‑
アバ ガは、長子 アルグンが母親の血筋では名門姻族 と関係 ないため、名門姻族か らカ ト ンを嬰 らせ姻戚関係 を築 くことにより、アルグンのイルカン位継承 に有利 な条件 を作 ろう とした と考 えられる。名 門3姻族のコンギラ ト族、オイラ ト族、ケ レイ ト族の うち、 コン ギラ ト族はライバルのテグデルの姻族で もあ り母方の親族で もあったのでこれは除外 され、
オイラ ト族 とケ レイ ト族が姻戚関係 を築 くべ き姑象 となった。
その際に、単 にオイラ ト族か らカ トンを要 るのではな く、ギブ・アン ド・テイクの交換 のパ ター ンにそつて交換婚 を継続 させたことが重要である。かつてグユ クの娘が嫁いだ人 物であ り、またその娘が フレグの側室 になっていたオイラ ト族のテ ンギズ ・グレゲ ンの家 系が交換婚の相手 として選 ばれた。アバガは自分の娘 トゥ ドゥゲチ をテ ンギズ に嫁がせ、
そのお返 しとして、テ ンギズ とグユ クの娘 との間に生 まれすでに成長 していた と思われる ク トルグを長子 アルグンに要 らせた。 ク トルグ・カ トンは、次の史料21によれば、アルグ ンの第一 カ トンとなった。
(史料21)(アルグンは)その全ての中で最 も上であ リテ ンギズ ・グレゲ ンの娘である ク トルグ・カ トンを要 った。彼女が亡 くなった とき、スラミシの娘であ り (ク トルグ の)姪のオルジタイを求めた。彼女の母親は トゥ ドゥゲチである。彼女はまだ子供で あったので、彼 と夫婦 にはな らなかった。
『集史』アルグン・カン紀 (Ra d/AЛИ‑3朝e3:p.196)
一方、ケ レイ ト族か らは、次の史料22による と、オ ン・カンの孫サ リチ ヤの娘のオルグ (フ
レグの ドクズ ・カ トンの姪)をアルグンに要 ら
せた。ただ し、 この場合 は、交換婚の形 を取 ら なかった。チ ンギス ・カン家 とケ レイ ト族 との 通婚関係は、一度 もギブ・アン ド・テイクのパ ター ンにならず、図9のように常 に一方通行で あった。
(史料22)その次 に、ケ レイ ト族 のア ミー ル・イリンジンの姉妹であ り、サ リチ ヤの 娘 で あ る オ ル グ・ カ トン を要 っ た。
チ ャは ドクズ ・ カ トンの兄弟 である。
の死後 、ルームのス ル タ ン・ ロクン・
『集史』
サ リ 図9 チンギス・カン家とケレイ ト族の通婚 彼 女 関係
ア ッデ ィー ンの娘 のサ ルジェク・カ トンを要 っ アル グ ン・ カ ン紀 (RattJAЛИ‐3朝e3:p196)
た 。
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フレグ家の通婚関係にみ られる交換婚
このように、アバガは、弟テグデルに姑抗 し長子アルグンにイルカン位を継承させるた めに、アルグンに名門姻族 との姻戚関係を作 り、母方の血筋がよくないという弱点をカバー
しようとした と考えられる。
しか し結局、周知のように、1282年にアバガが死去すると、結果的には、テグデルが、
王族・ノヤ ンたちに支持され、第3代イルカンとなった。アルグンは、このテグデルから 実力でイルカン位を奪い、 2年 後の1284年に即位するのである。
結論
フレグ家 におけるアバガ、アルグン、ガザ ンのイルカン位の継承だけを見ると、フレグ 家においてはヨンギラ ト族、オイラ ト族、ケレイ ト族の3大名門姻族 との姻戚関係が軽視 され、母方の血筋は考慮 されず、長子であることの方がイルカン位継承に有利に働いたか のように見える。 しか し、前章までの分析か ら明らかなように、フレグ家においても、オ イラ ト族、 コンギラ ト族 との間にギブ・アンド・テイクのパターンにそった交換婚が行わ れてお り、イルカン位継承において後継者候補の母方の血筋は意識されていた。名門姻族 出身の母親 を持つ王族はイルカン位継承に有利であ り、母方の血筋が名門姻族 と関係ない 場合は、名門姻族か ら妻をめとり、姻戚関係 を作ることによって、名門姻族 とのつなが り
を作 ろうとしたのである。
注
1)宇野1993、 宇野1999
2)志茂1983、 志茂1995 3)Lambton 1988,pp.258‑296.
4)宇野1993、 宇野1999
5)志茂1995、 pp.276‑278.
6)モンケの即位 と同時に、カラコルムお よびその周辺の トルイ家では、コンギラ ト族のつ '除
が起 きた と考 え られる。詳 しくは、宇野1993、 pp.93、 96‑99参照。
7)チンギス・カン家のギブ・アン ド・テイクの交換婚の中には、このように自分の側か ら婚出 し た女性以外 の妻か ら生 まれた娘が嫁 ぎ返 して くる場合がある。チ ンギス・カン家の通婚関係 に見
られる交換婚は、交換のパ ターンとしては人類学の「父方交叉イ トコ婚 (父の姉妹の娘 との婚姻)」
に類似 しているが、夫 と妻の系譜関係 を考 えてみる と、この ように「父方交叉イ トコ婚」にはな らない場合がある。つ ま り、アルグンか らみて、妻 ク トルグは、父 アバ ガの姉妹 トウ ドウゲチの 娘 ではな く、「父の姉妹の夫の別の妻の娘」であるので、「父方交叉 イ トコ婚」ではない ことにな る。人類学 の縁組 み理論 において、夫 と妻 の系譜関係 によって婚姻 を定義することが伝統 的な方 法であるが、チ ンギス ・カン家の交換婚 を定義するには充分ではな く、チ ンギス・カン家 の交換 婚の事例 は、前章で述べ たように、交換 のパ ター ンのみによって定義す る必要がある。従 って、
交換 され る女性の母親が誰であるかは問題 にな らない。
8)『集史』 によれば、第 3代 グユ ク・カア ンの母 トレゲネは、 オゴデイ・カアンの第ニ カ トンで
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