靉光《眼のある風景》をめぐって(上)
著者 大谷 省吾
雑誌名 美術研究
号 410
ページ 38‑54
発行年 2013‑09‑13
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006028/
美 術 研 究 四 一 〇 号 三八
靉光《眼のある風景》をめぐって (上)
大 谷 省 吾
はじめに 一、これまでの研究では何が問題とされてきたか
(一) 《眼のある風景》研究史
(二)何が描かれているか
(三)シュルレアリスムとの関係は 二、今回の調査からどのような考察が可能か(以下、次号)
(一)制作のプロセス
(二)日本のシュルレアリスム絵画と言ってしまってよいか
おわりに
はじめに
得体の知れない肉の塊のような物体の中央で、こちらを鋭く見つめる
一つの眼。靉光の《眼のある風景》は、謎に満ちた作品である。ここに
描かれている塊は、何なのか。発表当初は単に「風景」と題されていた
が、風景を暗示させる地平線は、画面右端にわずかに覗くばかり。果た
してこれは風景といえるのか。この眼は誰の眼なのか。何を見つめてい
る の か。 「 日 本 の シ ュ ル レ ア リ ス ム 絵 画 の 代 表 作 」 と し ば し ば 言 わ れ る
が、具体的にはどのような影響を受けて描かれたのか。そもそも、本当 にシュルレアリスムといえるのか……。疑問はあとからあとから湧いて く る
)(
(
。
靉 光 の 生 誕 一 〇 〇 年 を 記 念 す る 回 顧 展 ( 二 〇 〇 七 年 ) の カ タ ロ グ 冒 頭 で、
私 は 右 の よ う な 問 い を 列 挙 し た。 実 際 の と こ ろ、 《 眼 の あ る 風 景 》 ( 挿 図
()
は、日本近代美術史の上で重要な作品に位置づけられつつも、その具体的な
作品分析・解釈が行われるようになったのは比較的近年のことであり、右に
挙げたそれぞれの問題に対しても、これまでにさまざまな研究者が多くの解
釈を示してはきているものの、定説は確立していない。かくいう私も、回顧
展の際には、謎を謎のままにすることを是とし、明確な解を示さなかった。
それは、この作品が多義性をこそ本質としていると判断してのことではあっ
たが、だからといって、問いに対して考えることを放棄していいわけではな
い。右の問いは永遠の宿題と思い定めつつ、回顧展の後も折に触れてはこの
絵を眺め続け、幾年かが経過した。
そ の 後、 東 京 文 化 財 研 究 所 の 田 中 淳 氏 よ り、 《 眼 の あ る 風 景 》 の 赤 外 線 撮
影調査についてご提案いただいた。これは作品の謎を解き明かす上できわめ
て有効であろうと東京国立近代美術館の学芸スタッフ一同も賛同し、ちょう
靉光《眼のある風景》をめぐって(上) 三九 ど作品修復も必要であったため、修復家の斎藤敦氏の協力も得て、二〇一〇 年一月一八日に、東京文化財研究所の城野誠治氏によりまず反射近赤外線撮 影が行われ、 そのあと四月二七日には透過近赤外線撮影が行われた。 本稿は、
こ の 撮 影 調 査 に よ っ て 新 た に 判 明 し た 事 実 を も と に、 《 眼 の あ る 風 景 》 に つ
いての再解釈を試みようとするものである。具体的には、まず第一章で、こ
れまでどのような研究が重ねられてきたのか、何が問題とされてきたのかを
まとめ、そして第二章で、今回の調査をふまえて、新たにどのような解釈が
可能かを検討していきたい。
一、これまでの研究では何が問題とされてきたか
(一)
《眼のある風景》研究史
第 一 章 で は、 《 眼 の あ る 風 景 》 に 関 す る 先 行 研 究 を 整 理 し、 問 題 の 所 在 を
明 ら か に す る。 ま ず、 作 品 の 基 本 的 な 情 報 を ま と め て お き た い。 《 眼 の あ る
風 景 》 は、 靉 光 ( 本 名、 石 村 日 郎、 一 九 〇 七 ~ 一 九 四 六 ) が、 第 八 回 独 立 美 術
協 会 展 ( 一 九 三 八 年 三 月 一 三 日 ~ 四 月 三 日、 東 京 府 美 術 館 ) に 出 品 し、 独 立 賞
を 受 賞 し た 作 品 で あ る。 大 き さ は、 縦 一 〇 二・ 〇 × 横 一 九 三・ 五
cm で、 号 で
表すならば
M一二〇号ということになる。キャンバスに油彩で描かれ、画面
の右下に 「 ai 」 というサインが入っている。発表当時の題名は、 単に 「風景」
であった。現在の題名に変更されたのは、戦後になってからである。靉光は
一九四四年に戦争で召集されて中国に渡ったが、一九四六年一月に上海の兵
站病院で病死し、一九四九年に東京および彼の郷里の広島で遺作展が開催さ
れ た。 こ の と き 友 人 の 画 家、 井 上 長 三 郎 ( 一 九 〇 六 ~ 一 九 九 五 ) に よ っ て 本
作は《目のある風景》と改称された
)(
(
。
その後、 しばらくはこの表記が続くが、 あるときから作品の表記として《眼
挿図 ( 靉光《眼のある風景》(((( 年 東京国立近代美術館
美 術 研 究 四 一 〇 号 四〇
のある風景》という書き方が見られるようになる。私が確認した範囲では、
最初に「眼」の表記を使ったのは針生一郎氏で、一九五八年一一月の『美術
手帖』掲載の「靉光 論
)(
(
」でのことである。このあと一九六〇年代前半にかけ
ては、過渡期的に「目」と「眼」の両方の表記が使われるが、一九六六年に
東京国立近代美術館が購入した際に、現在の《眼のある風景》という書き方
で登録され、 その後は次第に、 この表記に落ち着いていっ た
)(
(
。いずれにせよ、
《眼のある風景》 という題名が作者本人によるものではなく、 本人は単に 「風
景」としか名づけなかったということを確認しておきたい。本稿では以下、
原則として《眼のある風景》の表記を用い、引用文中ではそれぞれの表記に
従うことにする。
この作品の評価は、どのように形成されてきたか。第八回独立美術協会展
で独立賞を受賞したとはいえ、発表当時それほど一般の注目を集めたわけで
はない。独立賞を受賞したにもかかわらず、当時の主要な美術雑誌には図版
掲載されなかっ た
)(
(
。靉光という画家自身、生前は知る人ぞ知る存在で、仲間
うちでは一目置かれていたとしても、一般的な知名度は決して高いものでは
なかった。 その存在が認知されるようになるのは、 戦後になってからである。
一九四八年の日本美術会主催第二回日本アンデパンダン展における「戦争犠
牲美術家の特別陳 列
)(
(
」や、前述した一九四九年の東京と広島での遺作 展
)(
(
、一
九五五年の国立近代美術館での「四人の作家」 展
)(
(
、そして一九五八年の「異
端の画家たち 読売アンデパンダン十周年記念」 展
)(
(
などを通して、靉光はま
ず、戦争の犠牲となった個性的な画家のひとりと位置づけられていった。そ
し て、 こ う し た 画 家 自 身 の 評 価 の 形 成 期 に お い て は、 《 眼 の あ る 風 景 》 は、
ま だ そ れ ほ ど 彼 の 代 表 作 と し て は ク ロ ー ズ ア ッ プ さ れ て い な か っ た。 む し
ろ、戦争へ行く直前に描かれた三点の自画像や、一九四〇~四二年頃に描か れた、東洋的な幻想をたたえた細密な油彩画のほうが、取り上げられること が多かったように見受けられる。 《
眼 の あ る 風 景 》 が 彼 の 代 表 作 と 位 置 づ け ら れ て い く 過 程 は、 戦 後 に た び
たび刊行されてきた美術全集に、彼がどのように取り上げられるようになっ
て い っ た か を た ど る と、 よ く わ か る ( 表
() 。 こ の 掲 載 の 変 遷 か ら、 《 眼 の あ
る風景》が靉光の代表作と位置づけられるようになるのは、主に一九七〇年
代に入ってからということが読み取れる。しかも、本作を日本のシュルレア
リスム絵画を代表する作品と位置づける傾向が強くなっていく。
このような位置づけを進めていったのが、ほかでもない東京国立近代美術
館であった。前述の通り、東京国立近代美術館は一九六六年に《眼のある風
景》を購入している。しかしそれ以前より、何度か本作を日本のシュルレア
リスム絵画として位置づけていた。まず一九六〇年の「超現実絵画の展開」
展 ( 四 月 一 日 ~ 二 四 日 ) 。 こ の 展 覧 会 は、 シ ュ ル レ ア リ ス ム の 影 響 を 受 け た 日
本の画家たちの作品を、戦前から戦後にかけて包括的に展示した最初の機会
であり、靉光の作品は《眼のある風景》と《鳥》の二点が展示された。続い
て 一 九 六 二 年 に 開 館 一 〇 周 年 を 記 念 し て 刊 行 さ れ た『 近 代 日 本 の 絵 画 と 彫
刻』では《眼のある風景》について「この奇怪さはエルンストの博物誌的な
幻想の世界に通ずるものであり、この頃から靉光は、それまでのフォーヴィ
スム的な表現からぬけ出して、超現実的な傾向を濃厚に示しはじめるのであ
る
)((
(
」という記述がなされた。
一九六六年の購入後も、東京国立近代美術館は一九六八年の「ダダ展」に
併 設 し た 特 集 展 示「 日 本 に お け る ダ ダ イ ス ム か ら シ ュ ル レ ア リ ス ム へ 」 ( 六
月 一 日 ~ 七 月 一 四 日 ) や、 一 九 七 五 年 の「 シ ュ ル レ ア リ ス ム 」 展 ( 九 月 二 七 日
~ 一 一 月 一 六 日 ) に お い て、 《 眼 の あ る 風 景 》 を 展 示 し て い る。 ま た、 同 館 の
靉光《眼のある風景》をめぐって(上) 四一 本間正義氏は、 一九七一年に 『近代の美術』 三号 「日本の前衛美術」 の中で、
この作品について「超現実的な想念が強烈に打ち出されたもの」と記してい
る
)((
(
。
このように、一九五〇年代には言及されることの少なかった《眼のある風 景》は、東京国立近代美術館が購入した前後から、靉光の代表作として、そ して日本におけるシュルレアリスム絵画の代表作として、近代美術史の中で クローズアップされていくのだが、しかしそれでは、具体的にどのような点 がシュルレアリスム的なのか、あるいはフランスのシュルレアリスムと、ど
書名 出版社 刊行年 掲載作品
世界美術全集 平凡社 一九五一年 (掲載されず)
近代日本美術全集 東都文化交易 一九五四年 《自画像》
世界美術全集 平凡社 一九五五年 《鳥》
現代日本美術全集 角川書店 一九五六年 《静物》 《画稿》 《目のある風景》
世界美術全集 角川書店 一九六一年 《鳥》
近代世界美術全集 社会思想社 一九六四年 《梢のある自画像》
日本の名画 洋画
100選
三一書房 一九六六年 《馬》
日本絵画館 講談社 一九七一年 《静物 (魚の頭) 》《鳥》
原色日本の美術 小学館 一九七一年 《眼のある風景》 《梢のある自画像》
ほるぷ日本の名画 ほるぷ出版 一九七五年 《目のある風景》 《鳥》
世界の美術 世界文化社 一九七七年 《眼のある風景》
日本美術小辞典 角川書店 一九七七年 《眼のある風景》
原色現代日本の美術 小学館 一九八〇年 《眼のある風景》 《自画像》 《鳥》 《静物》
昭和の美術 毎日新聞社 一九九〇年 《眼のある風景》 《雉と果物》 《自画像》
昭和の洋画
100選
朝日新聞社 一九九一年 《眼のある風景》
日本の近代美術 大月書店 一九九二年 《眼のある風景》
日本美術全集 講談社 一九九三年 《眼のある風景》 《鳥》
日本美術館 小学館 一九九七年 《眼のある風景》 《自画像》
(0世紀の美
昭和の絵画
100選
日本経済新聞社 二〇〇〇年 《眼のある風景》 表
( 戦後の美術全集における靉光の取り上げられ方
美 術 研 究 四 一 〇 号 四二
のような影響関係にあるのかといった踏み込んだ論考は、実のところ、長い
間なされてこなかった。もちろん、画家としての靉光を高く評価しようとす
る動き自体は、この間にもヨシダ・ヨシエ、菊池芳一郎、宮川寅雄、朝日晃
の各氏を中心に、着実に進められていくが、こと《眼のある風景》に関する
かぎり、本稿冒頭に掲げたような「謎」が実証的に解き明かされたとは言い
がたい。
こうした状況に変化が生じるのは、時代が昭和から平成に移る頃のことで
ある。一九八八年に練馬区立美術館 (九月二三日~一〇月二三日) と広島県立
美 術 館 ( 一 〇 月 二 九 日 ~ 一 一 月 二 〇 日 ) で 回 顧 展 が 開 か れ、 広 島 の 大 井 健 地 氏
と練馬の土方明司氏が、作品分析の端緒を開いた
)((
(
。続いて一九九二年に出原
均氏が論文「靉光〈目のある風景〉とその周辺」を発表し
)((
(
、同年、水沢勉氏
が、 や は り 詳 し い 作 品 分 析 を『 日 本 の 近 代 美 術
(0 不 安 と 戦 争 の 時 代 』 ( 大
月書店) の中で行った
)((
(
。
さ ら に、 徳 島 県 立 近 代 美 術 館 の 江 川 佳 秀 氏
)((
(
や、 広 島 県 立 美 術 館 の 藤 崎 綾
氏
)((
(
など、靉光について実証的に研究する学芸員が増えてきた。二〇〇七年に
は生誕一〇〇年の回顧展が東京・宮城・広島で開催されるに至り
)((
(
、私も本稿
冒頭で触れた通りこれに関わった。これらの研究を通じて、 《眼のある風景》
について踏み込んだ分析や解釈が行われるようになってきたが、とはいえ結
論は出ていない。それでは、これまでの研究で何が明らかにされ、何が問題
とされてきたのか。
(二)何が描かれているか
まずは作品に描かれているモティーフの特定、とりわけ画面の大部分を占
める肉のような岩山のような不定形の物体が何であるかという問題である。 これについては前述の出原氏および水沢氏の論文が整理している通り、これ まで大きく分けて、ライオン説と木の根説の二つが唱えられてきた。 靉 光 は 一 九 三 六 年 以 降、 上 野 動 物 園 に 通 っ て さ ま ざ ま な 動 物 を ス ケ ッ チ
し、とりわけライオンをモティーフに多数の作品を描いていた。一九三六年
四月の第六回独立美術協会展に二点、同年五月の中央美術展に一点、同年一
一 月 の 芸 州 美 術 協 会 展 に 一 二 点 ( う ち 一 点 は 中 央 美 術 展 出 品 作 ) 、 一 九 三 七 年
三月の第七回独立美術協会展に一点の出品が確認できる。このうち現存が確
認 で き る の は 中 央 美 術 展 出 品 の《 シ シ 》 ( 挿 図
() お よ び 三 点 の 小 品 の み で
挿図 ( 靉光《シシ》(((( 年 個人蔵(東京国立近代美術館寄託)
靉光《眼のある風景》をめぐって(上) 四三 あるが、いずれもライオンの姿を説明的に描写するものではなく、闇の中か ら体の一部が浮かび上がるような特異な描き方がなされており、また白黒図 版 の み 確 認 で き る 独 立 美 術 協 会 展 出 品 作 も、 仰 向 け に 転 倒 し て い た り ( 第 六
回 展 / 挿 図
() 、 横 た わ っ て 内 臓 を 露 出 さ せ て い た り ( 第 七 回 展 / 挿 図
() す
るなど、きわめて奇妙なイメージとなっている。これらのライオンのイメー
ジの延長線上に《眼のある風景》が描かれたと考える研究者は多い。
出原氏によれば、ライオン説の嚆矢は一九五八年の針生一郎氏による「靉
光論」で、その中には「三八年の『眼のある風景』は、おそらくライオンの
モチーフから出発してもっとも遠い地点に達した作品だろう
)((
(
」という記述が
ある。続いて一九六五年に、菊池芳一郎氏が「この図の右端中程に、少しく ライオンの顔がのぞけている。キエ夫人が彼のために、ライオンの古キャン を二枚合せて、ミシンがけにしてやったものだ
)((
(
」と述べた。これは具体的な
指摘のため、宮川寅雄氏をはじめこの説を踏襲する論者が続いたが、しかし
一九七八年にヨシダ・ヨシエ氏はこれに反駁し、実際のキャンバスには継ぎ
目がないこと、画面右端のライオンの顔に見えるようなイメージは印刷画面
上の錯覚にすぎないことを指摘した
)((
(
。
出 原 氏 は こ の ヨ シ ダ 氏 の 指 摘 を 紹 介 し た 上 で、 《 眼 の あ る 風 景 》 が「 古 キ
ャンバスに描かれた可能性、あるいは、そこにライオンが描かれていた可能
性 が 直 ち に 否 定 さ れ た わ け で は な い 」 と し、 「 実 際、 こ れ ら が 解 明 さ れ る に
は、赤外線や
X線による科学的な調査を待たなければならないだろう」と述
挿図 ( 靉光《ライオン》(((( 年 第 ( 回独立美術協会展出品
挿図 ( 靉光《ライオン》(((( 年 第 ( 回独立美術協会展出品
挿図 ( 靉光《ライオン》(((( 年 個人蔵
美 術 研 究 四 一 〇 号 四四
べた
)((
(
。まさにその赤外線撮影調査が今回行われたわけだが、その結果は第二
章 で 報 告 す る。 出 原 氏 は ま た ヨ シ ダ 氏 の 説 を 受 け な が ら、 《 眼 の あ る 風 景 》
が「ライオンの連作と形態的な関連があることについても決して否定された
わ け で は な い 」 と し て、 原 田 光 氏 に よ る、 第 七 回 独 立 美 術 協 会 展 出 品 作 ( 挿
図
() と の 類 似 の 指 摘
)((
(
を 紹 介 し、 さ ら に 自 身 の 考 え と し て、 第 六 回 独 立 美 術
協 会 展 出 品 の 二 点 の ラ イ オ ン の う ち、 仰 向 け の 姿 勢 の ラ イ オ ン ( 挿 図
() の
下半身と、 《眼のある風景》画面右半分の形態上の類似を指摘した
)((
(
。
水沢氏も、原田、出原両氏の説を整理した後、やはり第七回独立美術協会
展の《ライオン》の腰の部分や、現存する小品の《ライオン》のうち横長の
プ ロ ポ ー シ ョ ン の 作 品 ( 挿 図
() と の 類 似 を 指 摘 し た
)((
(
。 以 上 の よ う に《 ラ イ
オン》連作と《眼のある風景》とを関連づける論者は多く、ライオンの描写
から制作をスタートさせながら、描き進めていくうちに、次第に変形してい
って、最終的に現在のような謎めいた形になったのではないか、と考えるの
が、これまでの有力な説であるといえるだろう。
一方で、木の根をもとにしているという説も存在する。この説が見過ごせ
ないのは、靉光に近しい友人による、きわめて具体的な回想として述べられ
て い る か ら で あ る。 そ れ は 日 本 画 家 の 森 鵄 光 ( 一 八 九 三 ~ 一 九 八 五 ) に よ る もので、森は一九三一~三三年頃、靉光と同じ池袋の培風寮というアパート に住んでいた。大井健地氏によれば、 森は次のような手稿を残している。 「寮
の横は雑草が茂る相当広い空地で、その奥まった所に植木屋があった。大樹
の切り倒した後の切り株を掘り起して、捨ててあったのを私と靉光とで靉光
の部屋に担ぎ上げて持ち込んだのである。根の一部分に泥と小石が詰まって
いたので、私が小刀で除けたので、その時靉光がここに眼を入れたら絵にな
らないかと言った。培風寮時代に『眼のある風景』の構想が出来た
)((
(
」。
二〇〇七年の「生誕一〇〇年 靉光展」の際に、私も森鵄光のご子息より
話を伺う機会があり、森鵄光の書き残した図入りのメモを見せていただいた
(挿図
() 。 ここには 《眼のある風景》 を左右二つの塊で示した略図が記され、
「目のある風景の右側は、森と一緒に近所の植木屋の垣根の所にほってあっ
た根っ子を靉光の部屋へ運ぶ」とある。
大井氏は基本的にライオン説に立ちながら、この森による木の根説も否定
せず、次のように結論づけた。 「『眼のある風景』の山塊はライオンであり同
時に枯木でもあった。ということは動物でもあり植物でもあるということに
なる。じっさい、ライオンだ、枯木だのと限定しなくても、たとえば中央の
眼のすぐ右の皺文は、生き物のネロネロした内臓の皺を思わせるし、そのま
た右の部分は、同年の制作になる『かりん』や以後の静物画に描かれたジャ
ガイモ、柘榴、梨の類の野の果実の変則的な球体を連想させもする。動物的
性格と植物的性格の両方をこの山塊風景が妊みこんでいるとしてよい
)((
(
」。
土 方 明 司 氏 も、 《 眼 の あ る 風 景 》 の 画 面 右 下 の、 暗 い 丸 い 穴 の 周 囲 の 形 に
ついて「巨大な魚の化石が虚無の深遠を窺わせる眼窩を晒し、尾びれを捩じ
曲げて横たわっている」と指摘し、そのイメージの由来について「靉光のア
トリエには、鳥の死骸や魚の干物、石ころなどがいつも散乱し、ときには何
挿図 ( 森鵄光による《眼のある風
景》に関するメモ
靉光《眼のある風景》をめぐって(上) 四五 日も人に会うことを拒み、これらのものと対峙したという。密室に生起する イメージの変貌がこの作品であ る
)((
(
」と推察した。土方氏も言及しているよう
に、靉光のアトリエには、さまざまなガラクタがあふれていて、それらが絵
のモティーフになっていたことが、多くの関係者によって伝えられている。
いくつかの証言を挙げてみよう。
花岡謙二「その部屋がまた頗るつきの乱雑さで、木の 枯ぼく
000がでんと真
ン中にがんばっていたり、その周辺に すがれた
0000草花や、魚のミ
イラなどがころがっていたりし た
)((
(
」
鶴岡政男「小石川白山神社裏の二階、十畳位の画室には彼のモチーフで
ある枯れた草木や、黒い石ころ、目刺や目の出た馬鈴薯などが
テーブルの上に転がっていてその上には天井から日乾びた雉が
下っている。西日のあたる窓の外には鷺がつるしてあって骨に
付いている羽がふわりふわり動いてい る
)((
(
」
伊賀上茂「うす暗い画室には、ひからびた花や魚の骨や、天井からつり
下げた山鳥の死骸などが、画架の間にひしめいていて、何か異
様な空気が漂ってい た
)((
(
」
このような、アトリエに散乱していたさまざまなガラクタ=オブジェをモ
ティーフとして制作が開始され、描き進めていくうちに次第に不思議な物体
へと変容していった、と考えることも不可能ではない。大井氏は前述の文章
において「ライオンであり同時に枯木でもあった」と言い、さらにこれらガ
ラクタのイメージも「妊みこんでいる」として、元となるモティーフをあえ
て単一に絞っていないが、出原氏は同じような立場をとりつつ、以上に見て きたように複数のイメージ源が想像できることを、シュルレアリスムの画家 サルバドール・ダリが用いた「ダブル・イメージ」の手法と関連づけて、む しろ積極的に評価した。シュルレアリスムとの影響関係については次節で詳 しく考察するとして、もし本当に靉光がダリの影響を受けながら「ダブル・ イ メ ー ジ 」 を ね ら っ て 描 い た の だ と し た ら、 「 何 が 描 か れ て い る の か?」 と
いう問題については、複数の解答があり得るということになる。そして実際
の と こ ろ 、大 井 氏 、出 原 氏 の 他 に も 、同 様 の 考 え 方 を と る 研 究 者 は 少 な く な い 。
水沢勉氏は「隠された形態のたね明かしの妥当性を問うことよりも、その
よ う に さ ま ざ ま な 自 作 か ら の 形 態 の 記 憶 が 利 用 さ れ な が ら、 し か も、 そ れ
が、すぐにそれとは知られないように、巧みに消去され、まったく未知の造
形へと、靉光が、この作品で断固として歩を進めたという一事を確認するこ
とのほうがはるかに重要だろ う
)((
(
」と結論づけている。他にも山梨俊夫氏は 「こ
の絵の『風景』が、もとはどんな形から発生したのか詮索するのは、あまり
意味がない」として「明確な物の形を結ばない」ことの重要性のほうを強調
し
)((
(
、同様に多木浩二氏は「この絵の面白さは、むしろこうした形の曖昧さ、
不安定さ、ダイナミズムにあると思う」と述べ「不定形の塊が形をなそうと
するような変容、あるいは逆に、形のあるものが形を失って崩壊していくよ
うな過程」に注目してい る
)((
(
。この指摘はひじょうに重要で、あとで改めてこ
の問題に立ち戻りたいが、ここではひとまず、この作品の不思議な塊の部分
が何に由来するかについて、これまでライオン説と木の根説があり、そして
木の根と一緒に靉光のアトリエに散乱していたガラクタの類も、モティーフ
として考慮に入れてもよさそうであるということを確認しておきたい。
続いて、画面の中で唯一、はっきりと描かれている眼についてはどうか。
これが誰の眼を表したものかという問題についても諸説あるが、主なものを
美 術 研 究 四 一 〇 号 四六
列記すると次のようになる。
瀬木慎一「異様な目やライオンのイマージュは、他ならぬ、ファシスト
の正体であったかもしれぬ
)((
(
」
原田 実「真ん中に見ひらくひとつの眼こそ、こうした非条理と自己と
の不可避的な出会いの劇を見とどけようがため、ひとつの視点
と化した靉光のうちなる“画家”ではなかったか
)((
(
」
本間正義「この真中に開いた目は、自由な幻想を見極める窓として、作
者自身の目をはめこんだもののように思えます
)((
(
」
山下菊二「この〈眼〉は靉光を監視する体制の眼であると同時に、外部
がどんなふうに動いていっても自分はそれにのみこまれまいと
する作家主体の決意が投射された、スパークするようなからみ
あいの反映でもある
)((
(
」
原田 光「虹彩に緑色をためた爬虫類の目が、薄気味悪くこちら側をう
か が っ て い る ( 中 略 ) そ れ は お そ ら く 靉 光 の 自 意 識 の、 そ れ ま
での抑圧にたいする反発的な表現だが、この目の生ま生ましい
効果のために、かえって絵の全体は現実からはなれ、虚構にな
っていっている
)((
(
」
土方明司「対象の変容を見届ける靉光自身の眼であろうか
)((
(
」
粟津則雄「画家は、限りない変身の運動の総体である自分自身と、それ
を眺める自分のまなざしとを共に描いているように思われるか
らです。そういう意味でこれは一種独特の自画像であると言っ
ていいでしょう
)((
(
」
窪島誠一郎「そこに光る眼光は靉光自身の光
000000である
)((
(
」 以上のように、これまでの多くの論者は、靉光という画家個人と社会との 関係、つまり戦争という時代の中で彼が社会との間で感じていた抑圧感に着 目しながら、この眼の主体を、靉光本人としたり、自由な表現を抑圧しよう とする体制の監視の目だったりと解釈してきた。いずれにせよ、定説は確立 していないのだが、そうした中で、出原均氏と新関公子氏が具体的なイメー ジ源を推測しており興味深い。 出 原 氏 は、 『 み づ ゑ 』 三 九 〇 号 ( 一 九 三 七 年 八 月 ) に 掲 載 さ れ た、 ル ネ サ ン
ス 時 代 の 彫 刻 家 グ ウ ジ ョ ン に よ る 天 空 に 眼 が 浮 か ぶ 版 画 作 品 ( 挿 図
() を 靉
光が参考にした可能性を指摘している
)((
(
。出原氏はまた《眼のある風景》の空
の部分に、杏のような形を塗りつぶしたような痕跡があることに着目し、も
ともとは空中に眼が描かれていて、そのあと現状のように変更されたのでは
ないかとも推察している
)((
(
。
一方で新関氏は、ゲーテの『光学論考』の付録図版集表紙に掲載された、
雲の中に見開かれた眼の描かれている図版との関連を指摘している
)((
(
。雲とい
挿図 ( 出原均氏が《眼のある風景》のイメージ源の
可能性を指摘したグウジョンの木版画 (((( 年
靉光《眼のある風景》をめぐって(上) 四七 う不定形な塊と眼とのとりあわせは、たしかに《眼のある風景》とたいへん よく似ており興味深いのだが、しかしこれによってただちに、靉光がゲーテ を参照したと結論を急ぐのは避けたほうがよいだろう。というのも新関氏も 論文中で認めている通り、 この図版は当時日本で刊行されていた改造社の 『ゲ
ーテ全集』には掲載されておらず、また靉光はあまり読書家ではなかったこ
とを考えあわせる と
)((
(
、靉光がこのゲーテの図版を見ていた可能性はきわめて
低いと言わざるを得ないのであ る
)((
(
。
で は 出 原 氏 の 説 が 妥 当 な の だ ろ う か。 空 の 部 分 の 眼 ら し き 痕 跡 に つ い て
は、出原氏は慎重に「問題提起にとどめ、以後の調査を待つことにしたい」
としていたが、今回の赤外線撮影の結果は第二章で見ていくとして、本章で
は以下、出原氏がこの眼のイメージ源と関連して、シュルレアリスムとの関
係に触れている点について検討しておきたい。
(三)シュルレアリスムとの関係は
出 原 氏 は、 『 み づ ゑ 』 に 掲 載 さ れ た グ ウ ジ ョ ン の 作 品 図 版 が、 ニ ュ ー ヨ ー
ク近代美術館の展覧会「ファンタスティック・アート、ダダ、シュルレアリ
ス ム 」 展 ( 一 九 三 六 年 ) か ら の 転 載 で あ っ た こ と、 そ し て「 人 間 の 目 を そ れ
とは無関係に岩塊の中に配置するというコラージュの手法」が用いられてい
ることから、 《眼のある風景》にシュルレアリスムからの影響を認めている。
さらに、 前節でも触れた、 「ライオンの形態を岩塊のような風景に見立てる」
ダ ブ ル・ イ メ ー ジ の 手 法 や、 《 眼 の あ る 風 景 》 画 面 右 端 に わ ず か に 見 え る 地
平線についても、 ダリの影響を指摘している。これらを総合し、 出原氏は「自
己の表現世界を追及していく過程で独自にシュルレアリスムを消化していっ
た点において、靉光の〈目のある風景〉は、日本のシュルレアリスムの代表 作ということができるのではないだろう か
)((
(
」と結論づけた。
ただし出原氏は、その後の別の論文で、靉光が《眼のある風景》を発表し
た際には、彼をシュルレアリスムの文脈で捉える批評がなされていないこと
に 注 意 を 向 け て い る。 美 術 雑 誌 に 掲 載 さ れ た 第 八 回 独 立 美 術 協 会 展 評 の う
ち、 《眼のある風景》に言及しているのは次の通りである。
高畠達四郎「靉光氏は何時も立派な仕事をする。立派な技術の所有者で
ある事も大いに認め 様
)((
(
」
山口 薫「古典の技術の持つ魅力の豊富さに改めて驚かざるを得ないも
のを見せてゐる作者に靉光氏の存在がある。最も印象の中に深
く刻まれた作である。只フオルムの整備が欠けてゐたやうだ。
前面的飛躍の精神とを期待するものであ る
)((
(
」
林 達郎「靉光氏の『風景』は暗鬱だがしつかりした鋭い感じを示して
ゐ る
)((
(
」
松島一郎「靉光君は毎年一点であるが、完成した技巧、優 作
)((
(
」
出原氏はこれらをふまえて「当時の評論から窺われるように、この時期、
靉光の作品は、シュルレアリスムの中心にも、ましてや最先端にいたわけで
もなかっ た
)((
(
」と述べている。つまりこれは、当時の一般的なシュルレアリス
ム理解と、靉光がやろうとしていたこととの「ずれ」を示すものと言えるだ
ろう。
この時期の靉光の仕事を、同時代においてシュルレアリスムの文脈から評
価 し た の は、 広 島 在 住 の 先 輩 画 家、 山 路 商 ( 一 九 〇 三 ~ 一 九 四 四 ) た だ ひ と
りであっ た
)((
(
。山路は、広島で発行されていた雑誌『實現』の一九三八年四月
美 術 研 究 四 一 〇 号 四八
号で、 ちょうどこの頃、 広島で開かれた靉光の個展 (中国新聞社、 四月五日、
六 日 ) を 評 し て「 『 開 こ ん 』『 大 地 』『 化 石 』『 飛 躍 』『 化 木 』『 肖 像 』 な ど の 偏
執狂批判的方法、異常性、不可解性は、サルバドル・ダリ、マックス・エル
ン ス
(ママ)、 等 へ の 肉 薄 を 示 し 」 と 指 摘 し て、 「 な る べ く 早 く、 ダ リ、 エ ル ン ス ト
を踏みにぢつて前進してくれ給へ」と述べている
)((
(
。たしかに、この個展のと
き の 靉 光 自 筆 の 展 示 図 面 ( 挿 図
() を 見 る と、 山 路 が 挙 げ た 作 品 の 略 画 に は
いくぶん《眼のある風景》に通じる雰囲気が認められる。これらの多くは残
念ながら戦災で失われてしまっているが、山路が言及した作品の中で唯一現
存している 《肖像 (貴婦人) 》 (挿図
() を見ると、 やはり再現描写を逸脱した、
解体の途中にあるようなイメージとなっており、この時期、靉光が集中して
《眼のある風景》と同傾向の探求を進めていたことが窺える。
《 眼 の あ る 風 景 》 発 表 当 時 の、 靉 光 と シ ュ ル レ ア リ ス ム の 関 係 を 示 す 証 言
は、この山路の文章以外には見当たらない。しかし生前の靉光と交流のあっ
た人物たちの、戦後になってからの回想の中に、いくつか認めることができ
挿図 ( 靉光 中国新聞社での個展会場図面(部分)(((( 年
挿図 ( 靉光《肖像(貴婦人)》(((( 年頃 個人蔵
靉光《眼のある風景》をめぐって(上) 四九 る。
瀧口修造「シュルレアリスムからかれが聴きとった声も実に靉光独特の
ものであった。ほんとうのところ、かれのエルンストの受けと
り方には唐突なものを感じたのをおぼえてい る
)((
(
」
井上長三郎「超現実派のセリグマンの硝子絵に負うとこ ろ
)((
(
」
前述の山路の言及も含めれば、具体的に靉光との影響関係が指摘されるシ
ュルレアリスムの画家はダリ、エルンスト、セリグマンである。以下、これ
ら三人と靉光との影響関係を具体的に検討してみたい。
ダリについては、すでに触れているように出原氏が具体的に影響関係を指
摘している。出原氏は、 瀧口修造 「サルウァドル ・ ダリと非合理性の絵画」 (『み
づ ゑ 』 三 七 六 号、 一 九 三 六 年 六 月 ) 、 同「 超 現 実 造 型 論 」 (『 み づ ゑ 』 三 七 九 号、
一 九 三 六 年 九 月 ) な ど を 通 し て 靉 光 が ダ ブ ル・ イ メ ー ジ を 学 び、 ラ イ オ ン の
形態を岩塊のような風景に見立てるなどの応用を《眼のある風景》で行った
と推測している。ただし出原氏はダリのダブル・イメージと靉光のそれとの
違 い に も 目 を 向 け て い る。 す な わ ち、 「 ダ リ の よ う に 二 重 像 ( ダ ブ ル・ イ メ ー
ジ ) を 観 客 に 見 せ る た め の も の で は 決 し て な く、 む し ろ、 マ チ エ ー ル の 上 で
自己のイメージを膨らませるという作画の方法とし て
)((
(
」このような描き方を
したというわけである。たしかに、ダリのダブル・イメージは、あるものが
別のものに見えてしまうという認識のあり方の中に、見る者の隠された欲望
や不安が反映していると考え方に基づいているから、○○であるのに○○に
も見える、というそれぞれが、見る者にはっきり認識できてはじめて成立す
る手法である。それに対して《眼のある風景》の場合は、描かれているもの が何であるか、はっきりと断言することができない。ライオンだったかもし れないし、あるいは木の根だったかもしれない、そうしたものを描き進めて いるうちに、次第に「風景」になってしまったという、制作上のヒントとい うわけだ。 出 原 氏 は ま た《 眼 の あ る 風 景 》 画 面 右 端 の 地 平 線 に 注 目 し、 「 ダ リ に 影 響
を受けた日本の多くのシュルレアリストがしばしば同様の地平線を描いてい
る。靉光が 〈目のある風景〉 においてめずらしく地平線を描いていることは、
ダリの直接的な影響と考えて間違いないだろう」とし、水沢勉氏もこの説を
支持している。この地平線の問題についても、赤外線調査をふまえて第二章
で検討したい。
続いて山路商や瀧口修造が言及しているエルンストについてだが、具体的
には森を描いた連作との影響関係を指摘できる。エルンストの実作が日本で
初めて公開されたのは、 一九三二年の 「巴里東京新興美術展」 (東京府美術館、
一 二 月 六 日 ~ 二 〇 日、 以 後 各 地 巡 回 ) に お け る《 森 と 太 陽 》 ( 挿 図
(0) と《 花 》
であったが、それまで白黒図版でしか知られていなかった彼の作品は、当時
の若い画家たちに驚きをもって受け止められたらしく、例えばその数ヶ月後
の第三回独立美術協会展には、靉光の友人の井上長三郎が、さっそく《森と
太陽》を下敷きにしたとおぼしき《森と煙突》を出品している。ただし、エ
ル ン ス ト の 作 品 に お い て は、 グ ラ ッ タ ー ジ ュ ( 凹 凸 の あ る 物 体 の 上 に キ ャ ン バ
ス を 置 い て、 そ の 上 に 絵 具 を の せ て ヘ ラ で 擦 り と る こ と で、 凹 凸 模 様 を 浮 か び 上
が ら せ る 技 法 ) が 採 用 さ れ て お り
)((
(
、 そ れ に よ っ て 浮 か び 上 が っ て き た 模 様 か
らイメージを連想・展開させて、そのあと空の部分を塗りつぶすことで森の
輪郭を決定しているのに対して、井上の場合は、単純にエルンストのイメー
ジを表面的にまねて筆で描くにとどまっている。
美 術 研 究 四 一 〇 号 五〇
これに対して、靉光の《眼のある風景》の場合は、グラッタージュこそ使
われていないものの、画面の大部分を占める不定形の塊は、絵具を何度も塗
っては削るという作業の繰り返しによって複雑な絵肌となり、結果的にグラ
ッタージュと似たような効果が生み出されている。そして空の部分の色を後
から塗ることによって、塊と空との境界線を決定しているという点でも、エ
ルンストの描き方にきわめて近いことがわかる。さらに、共通するのは境界
線の塗り方にとどまらない。エルンストの作品ではしばしば森の中にうごめ
く鳥や怪物の眼が、空と同じ色の絵具で塗られ、それにより穴があいたよう
に空虚な眼として表されるが、 《眼のある風景》の中央の眼のすぐ左脇にも、
それとひじょうによく似た小さな円形が描かれているのである。こうしたエ
ルンストの森の連作と 《眼のある風景》 の類似については、 二〇〇七年の 「生
誕一〇〇年 靉光展」の際に出原氏が指摘し
)((
(
、私も同様の指摘を同展カタロ グで行った
)((
(
。
なお、エルンストの森の連作は、一九三二年の「巴里東京新興美術展」以
後も、たびたび紹介されている。一九三七年に瀧口修造と山中散生によって
企画された「海外超現実主義作品展」 (六月九日~一四日、銀座 ・ 日本サロン、
以 後 各 地 巡 回 ) で グ ワ ッ シ ュ の 小 品 が 展 示 さ れ、 ま た 瀧 口 修 造「 マ ッ ク ス・
エ ル ン ス ト 」 (『 み づ ゑ 』 三 八 七 号、 一 九 三 七 年 五 月 ) で は、 複 数 の モ ノ ク ロ 図
版が掲載されている。この瀧口の文章は一九三七年にフランスで刊行された
雑誌『カイエ・ダール』エルンスト特集号に基づくもので、掲載図版もすべ
てここから転載されている
)((
(
。上述の、鳥や怪物の空虚な眼の表現も、例えば
ここに掲載された 《西方に行く蕃人達》 (挿図
(() などに認めることができる。
挿図 (0 マックス・エルンスト《森と太陽》
挿図 (( マックス・エルンスト《西方に行く蕃人達》(((( 年
靉光《眼のある風景》をめぐって(上) 五一 続 い て セ リ グ マ ン と の 関 係 に つ い て は ど う か。 ク ル ト・ セ リ グ マ ン ( 一 九
〇 〇 ~ 一 九 六 二 ) は、 厳 密 に は シ ュ ル レ ア リ ス ト で は な く
)((
(
、 ま た 今 日、 ダ リ
やエルンストに比べると、それほど知名度は高くないが、一九三〇年代のパ
リにおいて岡本太郎と親しく交友し、また一九三六年に来日して個展を開い
て お り ( 三 月 二 六 日 ~ 三 一 日、 銀 座 三 越 ) 、 日 本 と の 関 係 と い う 点 で は 重 要 な
画家のひとりといえる。この個展にはガラス絵とエッチングが展示されてお
り、 靉 光 の 友 人 の 画 家、 寺 田 政 明 ( 一 九 一 二 ~ 一 九 八 九 ) に よ れ ば、 二 人 で
この個展を見に行った帰りに、靉光は「ああ、あれぐらいやれるわいのお」
と 感 想 を 漏 ら し、 そ の 後、 《 二 重 像 》 ( 一 九 四 一 年 ) を は じ め と す る 面 相 筆 に
よる細密な作品を描いたという
)((
(
。しかしここで注目したいのは、エッチング
の 線 の 描 写 で は な く、 ガ ラ ス 絵 ( 挿 図
(() の ほ う で あ る。 い う ま で も な く、
ガラス絵はガラスの裏面から絵具を透明に何層も重ねて描くことによってニ
ュアンスに富んだ色調を表すことが可能な技法である。実際のところ、セリ
グマンの個展も「硝子絵は黒いバツクの中に黄赤碧がパツと美しくさまざま のフオルムを形作つてをり、 『ドンキホーテ』 『死の舞踏』など極彩色の感じ
があつた。版画よりはこの方に親しみが感ぜられる
)((
(
」と評されている。これ
に対して靉光も、当時の日本の油彩画家の中では例外的に、油彩画の古典技
法であるグレーズ、つまり薄めに溶いた絵具を透明に何層も重ねていく描き
方をしているということが、すでに小林俊介氏によって指摘されている
)((
(
。小
林氏によれば、この時期に靉光の他にも難波田龍起、松本竣介など何人かの
画家がグレーズ技法に関心を持つようになっており、そのきっかけが、一九
三 四 年 に 開 催 さ れ た 福 島 繁 太 郎 の フ ラ ン ス 絵 画 コ レ ク シ ョ ン の 展 覧 会 ( 国 画
会主催/会場 : 有楽町 ・ 日劇、 二月二日~一一日) に展示されていたジョルジュ ・
ルオーの作品だったのではないかという
)((
(