午叩‐岻川盟川−9歩Bi。■宅叫0日冊12畑Ⅲ0口Ⅱ』□弧。 校札の康棄
曾ては不
思議の一識與の照 會
ポスト設立年月
腓‐川叩刈rIllⅡ0.町wI1ir』■』Ⅲ》いⅡ恥‐兇Ⅲ4叱洲偲珂、民!、今般本校中門西側にポスト設置候一一付今後寮生ノ書状各自該ポスト一投函スルヘシ
の記録が遣ってゐる。在寮生は、二十一一年移蒋以來、既に満十箇年の長い間、不便を忍んで來仁わけである。
七力シヅ−来る
明治二十八年を以て端艇會の成立を見た本校には、翌一一十九年の早春、新艇の進水式も行はれ、十年の春に
は、第一一同の端艇倉が暴行せられた。然るに三十年、本校は、佐世保鎮守府より、日清戦争の戦利品たる十餘艘
を官公私立の學校に譲與すべき由を聞き、鎭遠銃艦載のカッターニ艘を譲受けた。その経緯はかうである。本校
長は、六月十二日付を以て、該鎮守府長官宛、左の如き照會を爲した。
十四榛パーヂ |艘(長三十一一一尺幅八尺五寸)
第一章補
遺
四六七り生徒宛掲示したものに、 年数を経過してゐた答ではあるが・改祷後僅に三年にして朽歴するもCだらうか。掲げて置いた校札は⑪麿棄前 のものとも老へられず、且その後に入學した人々の中に峰懸けてあったやうにも記憶するとのことであれば、 麿止は取替の意味たらうか。新調の記録もなく、依然として不可解である。嶌眞の裏には、正門より教室を望む と書いてあるが、門内の襖も見えないのは、樫の樹はその後に植付け士ものであることだけは確かである。工事 部もなかった頃なので、今と異って、正門の前より元分に撮影することが出来たものと見える。
中門外の西側に立てられてゐる郵便ポストも、その頃より始まったものである。三十二年一一一月九日、生徒課よ 六門札とポスト
漱石の所謂「いかめしき門を這れば蕎麥の花」
第一章補ポスト設立
世
の堂々たる正門を這入ってや同じく漱石の「粟みのる畑を借し
て敷地なり」の校舎に向って進み、右に東光原、左にプー
ルと檜の森とに挾まれてゐる道を通って、禰酒たる中門と
東西に通用門も開いてゐるのに、その何れにも校札を懸け
ないことも、本校特徴の一つで、曾ては七不思議の一つに
中数へられてゐた。小さなことではあるが、この際その由来 門を明かにして置きたいと、色々調査して見たが、古城時代外や第五高等中學校時代に懸けてあったか否かは判然しな
の
ポい。然るに改孵後一時は確かに懸けてあつだことか、嶌眞
スに示す通りである。記録を案ずるに、十年七月十日の起
卜案には、次の如く記してある。
校札ハ最早朽艤||付今般夏期休業ト共一一御慶止相成候テ
可然哉此段相伺候也
右の起案は、即日許可を得、十一日を期して遂に魔棄して
了ったものである。而して文中朽歴云々とあれば、相當の
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四六六、