• 検索結果がありません。

正 義 を め ぐ る 信 念 と 知

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "正 義 を め ぐ る 信 念 と 知"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

正 義 を め ぐ る 信 念 と 知

篠 崎 榮

熊 本 大 学 教 養 部 紀 要 人 文 ・社 会 科 学 編 第20号113‑124(1985)

、  

人が幸福に生きることができるか否かは︑その人がどのような正

義観念を抱き︑いかなる程度その信念どおりに行為しているかと密

接な関連を有する︒﹁正しく生きる﹂ことは﹁幸福に生きる﹂ため

にいかなる程度まで不可欠なことなのか︒それは﹁幸福﹂というこ

とばにどのような意味を込めて使うかという用語法とも絡み︑単純

な答えを許さない問題であろう︒例えば︑その直接的な結び付きを

主張した最右翼に﹃ゴルギアス﹄﹃国家﹄を書いたプラトンがいる︒

彼は︑正しい生こそ幸福な生に他ならないことを証明するために︑

先ず﹁正義とは何か﹂を探求し︑そうして得られた正義として同定

される魂のあり方が︑通常︑我々が﹁幸福﹂と呼んでいる生のあり

方を十分に掬いとっているものであることを示そうとした︒そうす

ることで彼は︑﹃ゴルギアス﹄でのカリクレス︑﹃国家﹄でのトラシュ

マコスが﹁幸福﹂と呼ぶ生き方は︑偽りの幸福観念に他ならず︑真

の幸福とは彼自身が発見したとする正義にこそ見出されるという仕

方で︑我々の﹁幸福﹂観念に真・偽の区別を持ち込むことによって︑

正義と幸福の結び付きを証明しようとした︒

そのやり方の当否はいま措いて︑少くともプラトンの採ったこの

証明の途では︑日常人々が使う﹁幸福﹂ということばの内実からあ

る意味内容(例えば︑欲求の無際限の充足︑他者の権利を踏みにじつ

てまでの自己利益の追求)を落すことによってしか証明は完結しな

い︒従って﹁幸福﹂ということばが︑彼の主張するように︑なんら

か客観的な意味を持つことばだということを︑最後まで認めない人 にとっては︑このプラトンの採ったやり方に不全感がつきまとうこ

とは否めない︒

他方で︑人生の意義は︑第一に正しい生き方をすることにあると

いうより︑ともかく幸福を達成することにあると考える人は︑自分

の幸福観念を基準にして︑正義を規定しようとするだろう︒そのよ

うに正義の理念を幸福に従属させることで両者の調和を見出そうと

する人々は︑現代とみにその勢いを増していると思われる︒その一

つの大きな原因は︑正義の実現を人生の第一の目的とする個人や集

団の生き方が︑平和よりはむしろ争い・流血の惨事を招いてきたと

いう︑人類の歴史が示す苦い経験を勘考してのことである︒確かに

人類は︑それぞれの集団の信ずる正義の理念のために︑戦争・流血

を数え切れないほど経験し︑それがために正義を守ったつもりが︑

幸福よりも不幸・悲惨を産み出す結果となってきたというのは︑歴

史の示す通りである︒そこから現代多くの平和主義者は︑キケロの

﹁最も正しい戦争よりも最も不正な平和を私は選ぶ﹂という言句に

含まれる知恵に共感を示し︑正義理念が至高の価値となる個人の生

き方や集団・国家のあり方に警戒を発するのである︒

それでは︑プラトンの途とは逆に︑﹁幸福﹂を基準にして正義と

いう理念にもそれ相応の席を与えようとするこのような探求は︑ど

ういった途を採ることになるだろうか︒この場合︑﹁正義﹂それ自

体を一切の幸福観念を前提せずに問うということはしないのだか

ら︑結局のところ﹁正義﹂とは﹁人々が平和共存し︑それぞれに満

足して(その意味で幸福に)生きているときに︑そこに実現され︑

()

(2)

篠 崎 榮

123

今、これらの問題を横に措いても、この途には、次の難問が生じ る。それは、もしも幸福な生が、本人が「幸福だ」と思っているそ の思い込みだけでは決まらないことだとすれば、つまりその思い込 みはその人が幸福な生を送っていると客観的に言える(Ⅱその人の 生き方を見ている周囲の人々が皆納得して「あの人は幸福にやって いる」と承認できる)ための十分な条件でないとすれば、ここに大 きな問題が待ち構えることになる。 それは、人々の幸福観念が人間の尊厳・品位にふさわしいもので なく、歪んだ自己意識につり合うものでしかないような、不適当な 観念を多く含んでいる場合、そういった幸福観念を基準に先の定義 によって同定されることになる正義の理念とは本物なのか、という 問題である。我々がプラトン、アリストテレスの知見を尊重するな らば、人々の「幸福」ということばに込められた考えは、相当な歪

みを負っていると考えるのが賢明であろう。

そして人々がそのような生き方をすることで暗黙裡に維持しようと しているところの、人々の間柄を支配しているなんらかの秩序」と いうことになろう。この正義観念は、対人関係の場面では、万人に 平等に適用される法の支配としての正義に直結する。 無論、この暫定的定義の中には、關明さるべき、いくつかの論争 的ことばが入っている。「平和共存」「満足」「支配」といったこと ばがそれに当る。例えば、人々が憎しみ合っていても実力行動に訴 えていなければ「平和共存」していると一一一一口えるのか。人は、どの程 度、どの類の欲求を満していれば「満足している」と言えるのか。 人ができれば実力に訴えてでも現状を変革したいと思っているが、 情勢の不利からしぶしぶ従っている法・社会規範があるとき、それ らの法や規範は人々の間柄を「支配している」と正当に言えるのか。 少し考えただけでも、これらのことばには以上のような問題がつき

半一生.』」宅『ノ。

要するに、正義と幸福の結び付きを示すのにいずれの観念を基準 にして探求に乗り出すにせよ、問題は、人々が「幸福」ということ ばにどれだけの意味内容を込め、それをそのことばの本義として承 認しようとするかに懸かっていると思われる。というのも筆者のみ るところ、正義の理念を、人々の幸福への欲求を度外視する仕方で 性急に同定しようとする「正義派」の陥り易い誤りは、仮りにその 提唱する正義観念が誤りとは言えない場合でも、そのような正義を 守って生きることこそ人間にふさわしい生き方だということを強調 するあまり、その生き方がどのような仕方で人間本来の幸福に直結 するのかを示す努力を怠る点にある。彼らは最悪の場合、自らの信 ずる正義観念を人々に押し付けることによって、人々の幸福への正

当な欲求を踏みにじる愚をおかす。

逆に、正義の何であるかは人々が考える幸福な生の確保という視 点から見出されるべきだとする「幸福派」の陥り易い誤りは、先に 結局、この途においても、プラトンが一一一一口うょうに幸福の本義を単 なる欲望の満足ではなく、こころの調和、平安、喜び、生の充実と いったことに求めるのでなければ、正義は、人々が他人と衝突しな い限りで自分の欲望充足を計る、そのための謂わぱ交通ルールのよ うなものとして理解きれてしまうことになろう。だが、このような 欲望充足の功利的手段が正義の実体というのであれば、我々はもは や正義の理念などといったことを語る必要はなかろう。歴史的にそ れがあまたの戦争を産み出した愚を勘考した上でも、やはり正義は、 その実現のためにはときに、人間は己れの欲望を抑制することを辞

さないような、すぐれて理念と言えるものではないだろうか。そし

て確かに、もし我々が生存とか欲望の満足のみにかかずらって生き、 そのような理念に関与することがなければ、我々は「人間であるこ

と」の最も大切な要素を放棄したと一一一一口えるだろう。

〆 ̄へ _

、--

(3)

122

正義をめぐる信念と知

この小論の目標は、その関連を可能な限り解き明かすところに設 定されている。そのことを通して、我々にとって正義の理念の探求 と、幸福な生を生きたいという欲求との調和は、どのようにすれば 達成可能なのかということを考察してみたい。人生が全くの不条理 であるとの立場に立たない限り、この正義と幸福の調和は探求する に値する課題であるのだから。 論述の形として、筆者は最近出版されたわが国の一人の論者の著 作を取り上げ、その論旨及び結論の検討・批判を通して、上の課題 に向うことにする。それを筆者は、プラトン研究の一環として行っ たつもりであるが、この小論の範囲では、取り敢えず今述べた著作 との取り組みに限られることになろう。その著作が一人のプラトン 研究者に突きつけている問題の切迫性と大きさが、筆者に以下の論 のスタイルを採ることを止むなくさせた。 述べたように、人々が現に抱いている幸福観念の中から掬いとるに 値するものとそうでないものとを人々が納得する仕方で区別するこ とをせずに、そのすべてを承認してしまう結果、正義を、欲望充足 のための功利的手段ないし調停装置を超えるような、人間としての 生を形成する核心的理念として見出すことができないという点にあ

る。

それにしても、人々がそれぞれの正義観念を力でもって互いに押 し付け合う歴史上繰り返されてきた愚行(と言っても、当事者にし てみれば、その押し付けはなすべき義務と思い込まれているのだか ら実に厄介なことだが)と、いま指摘した、「幸福な生とは何か」 を真剣に模索する人々の知的努力の不足T知的怠惰)とは、実の 所、密接な関連を有する現象なのではないだろうか。

■■■■■■

■■■■■■■

この著作は、松原正『戦争は無くならなど(地球社一九八四年) である。この著作を筆者が取り上げるのは、総じて平和運動などの 市民・政治運動を支えるべきロゴスが、それが真に説得力をもつに は、「人間とは何か」という根本的問題に答え人とする知的営みを その基礎にもつ場合のみであることを如実に示しているからであ る。その意味でこの松原氏の著作は、反核平和ないし核の均衡によ る平和のいずれを唱えるにしろ、そういった議論がどのレベルから 行われねばならないかを見事に示している。 さて、氏がこの著作において立証しようとする論点は、次のしば しば繰り返される言い方に端的に表われている。 M「人間は正邪善悪を気にせずにはいられず、それゆえ戦争は無く ならないのだが、愚鈍なる平和主義者にはそういう事がどうして も理解できない。」(本書、印、伽、剛ページ。尚、原文での旧字 旧仮名を引用に際して、新字体に改めた。) 氏の著作では、この後半部の主張である平和主義者批判が分量的 にも過半を占め、その部分も氏の分析力の鋭さを示して読みごたえ のあるものになっているが、哲学的にみてより興味を惹くのは、こ の主張Mの前半部「人間は正邪善悪を気にせずにはいられない存在 だから、そのような人間がいる限り、この地球から戦争は無くなら ない」という主張である。つまり氏は、人間が動物から区別される 最も大事な特徴は「正邪善悪を気にせずには生きていけなどとい う点にあるとする。すると、もし今引いた氏の主張がただしければ、 人間は人間である限り、この地球から戦争は無くならないというこ とが現実的には不可避となる。そして、この「正邪善悪を気にせず には生きていけなどという人間の人間たる所以を、我々は認めざ るを得ないと思われる。「倫理学」にかかずらう人は特に、氏の指 摘するこの人間の「特質」志ページ)を否定できない立場にある と言えよう。とするなら、氏の主張がもしただしければ、倫理学を

〆 ̄、

~=〆

(4)

篠 崎 楽

121

仕事にし、人よりもいささか「正邪善悪を真剣にしかも知的に気に かけている」手合いは、世間に対して常に「あなたがたは戦争を回 避できると思っているかもしれないが、決して戦争は無くなるもの ではありません」と公言していることになる。筆者自身が、松原氏 の指弾する「愚鈍なる平和十王莪者」であるか否かは別として、筆者 はこのような論理的帰結を受け入れ難いものとみている。氏は、し かし、一読すると、誰もが承認せざるを得ない前提からこの結論を 引き出しているかにみえる。その説得力豊かなレトリックの前に、 多くの読者は氏の論理の不備に気付かないのではないか。しかし、 レトリックと論理の筋とは区別しなければならない。敢えて氏の著 作に限定して一文を草する所以である。 そこで筆者は以下、いかなる前提から氏は先の主張Mをなしてい るのか、それらの前提はどういうことを言っているのか、さらにそ の内容を我々は納得することができるのか、論をすすめていきたい。 M1「人間は正邪善悪を気にせずにはいられない存在である」 この前提は、氏の全論述の礎石に据えられている前提である。筆 者もこの前提を共有する。氏は、人がもしこの前提を否定しようと するならば、その人は『キャッチ皿』の主人公たる、ただ自分の生 命の保全だけを計って、一切の道徳規範をこの次にして百七十歳ま でその老醜をさらして生き続ける女郎屋の亭主の如く生きねばなら ないと説く。そして、我々はそのような生を敢えて選ぼうとするだ ろうかと氏は問う。氏のみるところ答えは「否」である(弧~弱く- 》ン)。 この前提M1は、論理必然的に真ではないにしても、氏にとって、 事実上の必然性をもって万人に妥当するものである。「いかな悪党 もおのが行為の正当・不当を気に懸けずにはいられない、それだけ は疑い様のない事実なのだ」(田ページ)。実際、「正しと「べきだ」 「よい」「わるい」ということばでもって、自己の行為や生き方を 氏のみるところ、前提M2は個人についてのみならず、或る正義 観念を共有する人間集団にも(というより、それだけ一層)妥当す るので、そのような集団のうち最も力あるものとしての国家は、結 局、おのれの正義を旗印にして、他国の正義を誤りと決めつけ、そ れを修正・廃棄させるべく力による押し付けを行うことになる。そ の結果、戦争は避けられないということになる。氏は、これらM1 IM3の三つの前提から「戦争は無くならない」との結論を、それ を裏付ける歴史的事実および人間性への洞察に基づいて、論旨明快

に導き出している。

語り、それなりに現在の自分の生き方を「これでよいだろうか」と 反省したり、正当化している以上、我々は「正邪善悪を気に懸けず に」生きているとは一一一一口えない。また他人の行い・生き方についても、 その行為の基準が自分のそれと食い違っているとみえればそれだけ 一層、我々は他人の行為の正・不正を気にかける傾向にある。特に その人が自分とかかわりが深ければ、尚更である。総じて、我々は 正邪善悪を様々な程度で気にせずには生きていないと言えよう。こ の前提M1に言われている人間観を、以後「人間は道徳的存在であ る」と表現しておこう。(これは無論、「道徳的にすぐれた」の意味 でなく「道徳を意識せざるを得ない」の意味である。) では、松原氏はこの前提からどのような論理で「戦争は無くなら ない」との結論を導いたのか。氏の著述から看て取れる次の段階の 前提として次の二つがある。 M2「人は、自分の正義観念を共有せずにそれと食い違う正義観念 をもって生きている他者に対して、自分の正義観念を押し付けよ うとする」 M3「その押し付けによる衝突を解決する手段として、人間はこれ まで力に頼ってきたし、これからもそのやり方は変らなど

〆■~

、-〆

(5)

120

正義をめぐる信念と知

事が無い。つまり人間はおのが正義を絶対視したがるし、また不 正をなす際にも、正・不正の別に頓着せずして不正をなすという 事が無い。」(傍線篠崎) 更に乃頁から乃頁にかけて次のように述べる。 引用⑧「それゆえ、私は、正義の相対性に甘んずべきであるなど という事が一一一一口いたいのではない。断じてそうではない。『人間か さて、筆者はこのような氏の論を、これまでの人類の歴史経験の 分析としては、少くとも氏が論の土俵とする西洋文化圏について言 えば、大旨否定することができないと考える。けれども問題は、そ れぞれの正義観念が食い違い、正・不正の何かについての合意が得 られない状況の中で、人間が事実的に採り得る途は、争いや戦争に 帰着するカヘの訴えしかないのであろうか、という点である。氏に よれば、正義という理念の崇高さはあらゆる力の行使を正当化する、 と人々は信じてきた。しかし、そうは信じないで、しかもある確固 とした正義観念を持つことは充分考えられるし、それはある人々に は事実上可能なことでもある。筆者のみるところ、松原氏の結論の 導き方には、何点か断りなしの独断の助けを借りているところがあ るので、以下その検討を行いたい。 氏は言う、「なぜ『正義は論議の種になる』のか。正義が相対的 だからである」元頁)と。その正義の相対性を説明して、印頁か ら帥頁にかけて氏は次のように述べる。 引用w「しかしながら、厄介な事に『不正をなすという事が悪で あり醜であるという事』を吾々すべてが認めるとしても、何が正

するに、

ⅡⅡⅦ日川川引劃刻Ⅱ刎引。一げかるに人間は正義の相対性に甘んずろ (中略)そして、久野、大江、アンドロポフ、レーガンの諸氏も この私も、おのが『思想信条』は正しいと思っている。これを要 で何が不正であるかについて吾々の意見が一致する訳ではない

■.

甲の正義は乙の正義ならずという事、正義とは相対的な

o(3)

引用㈲は、傍線部(b)を除けば、ただしいと思われる。この引用 部分は、「なぜ『正義は論議の種になる』のか。正義が相対的だか らである」との氏の基本的考えを説明する文章に当っているが、こ こで氏は、正義という理念そのものが相対的である(つまり、「正 義とは何か」について一つの絶対的な答えはなく、民族、集団、個 人の価値観に応じて、共通でないそれぞれの答えがある)というこ とと、人々の正義についての認識が相対的であるという事実とを区 別していないと思われる。それが傍線部(a)から傍線部(b)に直行 する氏の書き方に現われている。しかし、人々の信念の中でそれぞ れ食い違った正義観念が絶対のものとして信じ込まれているとい う、人々の信念のあり様についての事実の記述(傍線部(a))から、 その信念の対象たる正義という理念そのもののあり様が相対的とか (傍線部(b))絶対的とかいうことは、論理的に導出されない。言っ てみれば、論議の種になって、一つの解答がみつからないというそ のこと自体は、|っの解答がその問いにはないということを正当化 しない。ただ人々が、その一つの解答をみつけるだけの認識力や忍 耐心を持ち合せていないだけかもしれないのだから。「正義が相対 的だ」という氏の主張は、それゆえ、人々の信念のあり様について の経験的記述とは全く身分を異にする別の主張である。それがただ しいか否かは別として、氏がその主張を正当付ける論拠なしに導入 している限り、その主張は「独断」と呼ばれて然るべきだろう。 それに、氏自身が引用wの後半で述べている通り、むしろ人々は、 正義の理念そのものが相対的であるとは信じていない。無論、人々 らどんなものでも抹消する事が出来ようが、絶対への欲求だけは 消す事が出来ぬ』とE・M・シオランは書いている。そのとおり であって、絶対善を求めて足掻く事をやめるなら、その時人間は 人非人になる。百七十歳の女郎屋の親方になる。」

(五)

(6)

篠 崎 榮

119

のそういった信念が間違っていて、実際、正義が相対的であるとい うことはあり得る。ただ、引用日にもあるように、人々が自分の正 義観念を絶対視したがり、「正義」ということばに相対性を認めま いとするこの希求は示唆的である。というのも、もし人々が本当に 正義は相対的だと信じているとすれば、むしろ正義は論議の種には ならないからである。つまりその場合には、「趣味の違いは論議す るに当らず」の格言が当てはまることとなろう。人々が時に自分の 生命を賭してまで、その正義観念を他者に納得させようとして、氏 の言う通り、しばしば力に訴えることも辞さないのは、人々の信念

の中では、はっきりと正義は相対的でないと信じられているからで

ある。人々は正義の理念は絶対的だと信じ、自分の正義観念こそが

それに当ると思い込むのである。

だが無論、人々が正義の理念を絶対的だと信じていることは、そ れが絶対的だということの証拠にはなんらならない。反面、松原氏 の言うようには、人々の信念上の食い違いから、正義が相対的だと いうことは帰結しないことも、論理的必然である。論理を重んずる 氏としては、このことは認めないわけにはいくまい。 では、ある集団・国家の内部で、正義とは何かについて一つの認 識が共有されることは起こり得ても、歴史的に、地球的超国家的規 模でそのような共通認識が少くともこれまで得られなかったという 事実をどう考えたらよいのだろうか。それは、民族・国家間の相互 理解の欠如、各国指導者の対話への忍耐心の欠如といった原因をそ れとして考察すべき問題であろう。現実をみる限り、アインシュタ インの「我々が歴史から学べる唯一のことは、人間が歴史から何,| っ学んでこなかったということだ」との手痛い指摘が今も当たって

いると思われ、人類に残された途は、各陣営の間での力の解決しか

ないのではとの悲観的な思いを抱かせるに十分である。ただ、筆者 がいま論じていることは、人間に将来何が事実的に可能かを論理的 そこで第二の検討に移ると、氏はM3で、正義観念の衝突を解決 する手段として人間が力に頼るのは、これからも変らないというこ とを前提している。8頁に曰く「二千八百年昔のアッシリア時代こ のかた、軍縮会議が実を結んだ例しは無いが、それはつまり二千八 百年もの間、人間が平和を『よい事に決っている』とは考えなかった という事である。そしてそれが何とも愚かな所業であったとしても、 二千八百年も愚かだった人間が、どうしてこの先賢くなるであろう かと、『正気の人間ならば』そう考えるのがとうぜんではあるまい か」。もしこの引用文が真ならば、そして氏はそう断定してはばか らないのだが(Ⅲ頁に曰く「二千八百年経とうと二万八千年経とう と、人間はついに人間たる事の限界を越えられぬからである。」、 確かに「戦争は無くならなどは不可避な結論となるだろう。 だが、M3の前提は、人々が自分の正義観念を絶対だと信じてそ れを他者に押し付けようとするその行動の中に、次の二つの欲求が あることを区別して見ていないと思われる。つまり「おのが正義を 或いはおのが価値を何としてでも他者に認めさせようとの執念二町 頁)の中に、次の二つの欲求が混在していることを我々は看てとら

ねばならない。

Ⅲ「共有への欲求」 自分の正義観念を、特にかかわりのある他者にも共有してもらい たいという欲求。 伽「カヘの欲求」 他者を自分の考え通りに支配したいという支配・力への欲求。 氏がM2からM3ヘの移行を簡単に想定してしまうのは、人々が 自分の正義観念を他者に「押し付け」ようとするときに、それは必 らず伽の「力への欲求」による行動となってしまうと考えているか に考察する論理の問題である。 (

一ハ

(7)

正義をめぐる信念と知

118

らではないか。けれども、その「押し付け」ようとする行動は、も ともと自分の考えを共有してもらいたいという「共有への欲求」に その端初があるのではないだろうか。経験的にみて、確かにこの欲 求は、わずかの忍耐と議論の後で、なおも自分の考えを変えようと しない相手に対する力による押し付け、支配への欲求にその席を 譲ってしまう。しかし粘り強く、相手との議論を続行し、なお、合 意された結論に至らないときに、自分の考えとは相並び立たないよ うな考えの持ち主も、自分と同様この地上に人間として生きていく 権利があることを承認し、その人間が近くに居ることを許容する寛 容の精神こそが、人間の品格にふさわしいものではあるまいか。そ してその寛容の精神を備えた人々がこの世界に存在していることも また確かである。また、これまで集団としてかかる寛容を実践する 例がごく僅かであったとしても、教育によってはこれからの人類に 寛容の精神を備えた集団が形成されることを期待するのは、非論理

的なことではない。

ところが氏はn頁で「即ち、人間は本質的に善なのだから、人間 の邪悪な面は努力によって矯正出来る筈だと、彼等Tヒューマニ ズムを信奉する手合)はそう信じて疑わない」と論難し、人間が教 育によって、寛容や残酷さとは対極の温厚さを全体として戦争を抑 止できるほどに身につける可能性を認めていない。だが少くとも、 教育によって幾人もの人々が自己の内なる非寛容や残酷への傾きを 克服していることも事実であり、このような教育の効果が戦争を抑 止できるほどには決して大きくならないと断ずるのは、筆者には独 断と思われる。我々がなすべきことは、初めから結果を決めてかか らずに、そのような教育を焦眉のこととして心がけることであろう。 氏も少くとも当為命題としては、剛頁で「吾々は論敵に対して寛容 でなければならず、他人に残酷であってはならないのだが」と認め ている。しかるに氏はその直後で「吾々は敵に対して『残酷になら ざるをえない』のだ」と主張してしまう。どうしてそう主張するの か。氏自身の一一一一口葉を借りれば、「百七十歳の女郎屋の亭主の様に振 舞わぬ限り」我々は敵に対して寛容にはなれないからと氏が信じて

いるからである。

だが氏のその信念は誤りではないだろうか。何故なら『キャッチ 皿』の女郎屋の亭主は、|切の正義観念を放棄して、おのが生命の 保全のみを計って生きているのだが、正義の理念を探求しながら、 論敵に対して寛容であることは充分に可能であるのだから。また氏 は、この個所で、我々は結局実際問題として女郎屋の亭主の如く振 舞えないのだから「残酷にならざるをえない」と説いていると思わ れる。しかし氏自身が乃頁で「だが、実は私には、腰抜け憲法を戴 いて三十数年、吾々日本人は今、『百七十歳の女郎屋の親方』よろ しく生きているとしか思えない」と言って、そのような生き方を事 実として我々ができることを認めてしまっている。更に別頁では「正 義なんぞは一一の次三の次にして、長い物に巻かれたがるのは、事に よると吾々の情けない習性なのかも知れぬ」とまで言っている。 氏はおそらくこの指摘に対して、「我々白身いつかこのような.生 き方に我慢できなくなるだろう」と応じることで首尾一貫性を守ろ うとするだろう。その点を一歩譲っても、では我慢できなくなった ときに我々が選択しうる生き方が戦争に向うそれだけであるという のは、筆者には将来の事実に対する独断と思われる。 ここで付言すれば、筆者のい、㈹の欲求の区別とパラレルな区別 を、松原氏自身、ジョージ・オーウェルを引いて、ナショナリズム と愛国心に関して述べているのである。即ち「オーウェルによれば、 ナショナリズムとは『自己を国家もしくはその他の単位と一体化し、 それを善悪の彼岸に置き、その利益を推進する事以外の義務は認め ようとしない習慣』だが、愛国心とは『自分では世界中で最もよい ものだとは信じるが、他国民にまで押付けようとは思わない、特定

(七)

(8)

篠 崎 榮

117

さて松原氏は、この区別を認めても、恐らく「戦争は無くならな い」との主張は崩れないと考えるだろう。というのも、氏がこう主 張するのは、M1、M2、M3による正義観念の相対性からの論と は別に、もう一筋の論をもっているからである。それは、長く続く 平和の時代においては人々は生甲斐を喪失していく、という観察か らの論である。つまり、平和が長く続けば続くほど、そのぬるま湯 につかった国民は道徳的に自堕落になっていく。「戦争は何のため か」と問われれば「それは来るべき平和のため」と答えられるが、 「平和は何のため」と問われるならばそれには容易には答えられな の地域と特定の生活様式に対する献身』であって、愛国心が『本来 防御的なもの』であるに反し、ナショナリズムは『権力欲と切離す 事が出来などという」(棚頁)と論じている。このようにオーウェ ルの区別を認める以上、氏は、先のⅢと伽の区別をも認めることが できる筈である。しかるに氏は、続けて「だが、厄介な事に、とか く人間は『最もよいものだと信じる』物を、何としてでも他人に押 付けようとする」と述べて、いつもの性急な結論へと急いでしまう。 要するに氏の論述は、人間が「力への欲求」に、特にそれが正義 という大義を旗印にした場合、容易に身を任せるという強い傾向を、 殆ど変え難い人間性そのものとみることで成立している。だが、た とえ正・不正という人間が最も熟しやすいことが論議の種となって いる場面にあっても、我々が力への欲求を抑制することは事実的に 可能である。個人のレベルであっても、国家のレベルであっても。 以上、これまでの筆者の論点は、我々の行動への動因となる欲求 をよく見てみるならば、Ⅲと⑪の区別を立てるのは理に適ったこと

ではないか、という点にある。

■■■■■■■

■■■■

I■■■■■■

い。人々は平和の中でただ生きていくだけである。しかしそれでは

心の内で求めている生甲斐は見つけられない。人々は生甲斐という ものを、自己の信ずる正義観念への献身に求めているからである。 ところが平和主義者T平和が戦争より無条件によいとする人々) は、平和の中で生きることが人々が幸福であるための必要条件であ ると無邪気に想定している。それは、しかし、人間性への無知から くる想定である。と言うのは、人間は自分の信ずる正義観念のため には争いも辞さないし、正義という大義のために戦っているという 意識は、人々に充実した生甲斐を与えるからである。そして人々は、

ぬるま湯の平和の中での生甲斐のない生涯よりは、たとえ戦争の中

にあっても生甲斐のある生のほうを善しとするものだ。「国家も個 人も常に価値相対主義に甘んずる訳にはゆかず、時には対立する価 値観に対し、利害を無視して『徹底抗戦』する事に生甲斐を見出さ ずにはいられないからである。」(Ⅲ頁)。そこにこそ、M1で言わ れていた道徳的存在としての人間の証しはある、と。 だが、大旨以上のような氏の推論には、平和の中での生甲斐の有 無に関してある見落しがあるように思われる。確かに、平和時に生 甲斐を見出せない人々のうちある一群が、正義の大義による戦争に 充実した生甲斐を感じるであろうことは否定できない。そして氏が 指摘するように、人間には自らの生命を守ることよりも大事ななに か、それを守るためには厳しい状況ては生命を犠牲にせねばならな いような価値があることも、歴史上多くの人々の生き方が示すとこ ろである。もし平和主義者がそのことに思いをめぐらさず、死ぬこ とより生命を存続させることが人間にとっては無条件に善いことだ と思い込んでいるとすれば、氏も引用する(肥~閲頁)『ソクラテ スの弁明』の中の「死ぬことはもしかすると人間にとって最大の善 であるかも知れぬ。いずれにしろ我々は死が善か悪か知っていない。 しかし不正をなすことは醜であり悪であることを知っている。とす

グーヘ

、=〆

(9)

正義をめぐる信念と知

116

れぱ、人間は確実な悪をこそ避けねばならぬ」というソクラテスの 論理によって反駁されるであろう。なお、このようなソクラテスの 一一一一口葉を引くからには、氏は、知にしたがって生きるというソクラテ スの姿勢に共鳴しているということだろうか。更に、氏の平和主義 者批判の文章を引用してみよう。 「今、日本人が平和を願うのは『生き続ける事』を願うからだが、 生き続ける事はそのまま『よい事』であろうか。生存は人間にとっ ての『中核価値』であろうか。いや、そうではない、生存自体が 至高の価値なのではないと、昔から人間は思いたがったのである」

(刈頁)。

この典型的人物としてソクラテスを氏は挙げ、続けて次のよう

に論じる。

「吾々は意味のある生を望むのである。そう考えない限り、な ぜ人は自殺するのかを説明する事は出来まい。生甲斐とは間違い 無く生きている間にしか感じられぬ物だが、生きていさえすれば 生甲斐が感じられるという訳ではない。今日、世人は人類の存続 自体が最高善であるかの様に考えている。(中略)けれども、人 類の存続が最高善なら、人間そのものが至上の価値を持つもので なければなるまい。が、果して人間そのものが最高善か。そうで はない。人間は悪を拒み善をなさねばならぬ存在である。それは 誰しも承認するであろう。だが、それを承認するならば、人間そ のものが最高善なのではないという事をも承認せねばならなくな る。なぜなら、完全に善なる存在ならば、『悪を拒み善をなさね ばならぬ』などと力む筈も必要も無いからだ。」 これは氏の文章の中でも、その論理的説得力の点で白眉の一節で ある。ここに示された論理にしたがって自己の信ずる正義のために 生命を犠牲にした人々の生き方を、間違いと断定することはできな い。そして氏にとっては「正義は相対的である」のだから、その正 義観念がどのようなものであれ、本人に信じられているもののため の殉教という行為を、そのまま無差別に肯定することになろう。(こ こで「肯定する」とは、氏のために補足すれば、「賛成する」とい う意味ではなく、「その行為を人間性の然らしむるところ、避け難 いものとして容認する」の意である。) だが、もし氏が、「不正とは何か」の知があるとして、たんなる 思い込みT主観的には真として信じられているが、それがなぜ真 なのかを本人が説明できない信念)にしたがって生きることを厳し く警戒したソクラテスを自説の擁護者として引き合いに出すのであ れば、同じく自分の信念に殉じたといっても、その信念が客観的に ただしいものであるか否かによって、その行為に内在的価値の違い が出てくると当然考えるべきではあるまいか。つまり、もし正義に ついての信念にかんし、誤っているものとそうでないものの区別が 立てられるとすれば、誤った信念に殉ずる行為は、厳しく言えば、 知的怠惰の結果の独善的行いとみられないことはない。ソクラテス を引用する松原氏が、ソクラテスの哲学の核となっている、正義に ついての知と信念の区別を勘考せずに、「正義は相対的」というい ささか単純な思考ですべてを割り切ってしまうのは、納得できない

ことである。

この正義についての知と信念の区別は、いかなる形の相対主義に 対しても最も基本的な反駁の支点となるものなので、ざらに後に論 じることにして、今引用した氏の平和主義批判の文章を検討してみ

よう。

氏は、そこで、生存自体が最高善であるとする立場に注目するだ けで、戦争よりも平和を望み、その中で生き続けたいとする、ごく 普通の人々の否みがたい欲求の背後にある願いを見分けていないよ うに思われる。それを見分けるならば、平和主義者が生存を望むの は、それが最高善であると考えるからでは必ずしもなく、むしろ多

グーヘ

、-〆

(10)

篠 崎 榮

115

くは、その願いの故にであるということがみえてくる。実際、ただ 生きることを目的にして平和を望むという人は稀であろう。人が平 和とその中での生存を望むのは、要するに生きていなければ経験で きないこと(例えば、仕事の完成、子供の成長を見ること)を経験

したい、それまでは死にたくないと思うからであって、その意味で

は、人それぞれ生甲斐をもって平和を望むのである。氏自身、川~ 川頁で「……平和主義の社会において、|寸の虫が『五分の魂』を 存分に発揮する事は難しいのである。平和も民主主義も絶対善では ない」と述べながら(そして実際、その通りである)、続けて「平 和とは戦争が無いという消極的な状態に過ぎず、平和の環境にあっ ていかなる価値を実現しようとするのかが問題なのである」(傍点 篠崎)と書いている。 従って、氏自身の一一一一口葉からしても、戦争を憎み平和を願う人たち が、生存を最高価値と考えているというのは当らない観察である。 しかるに氏が、平和主義者は生存を最高価値と考えていると見倣す 性急な結論に向うのは、「しかも、平和と民主主義という、ともに 消極的なるものは必然的に道徳的怠惰を齋す」愈頁)と断定する

からである。

総じて氏の論述は、「正義の貫徹対生命の尊重」といういささか 単純な二律背反的な図式を前提にしているように見受けられる。確 かに厳しい状況で、人はそれらからの二者択一を余儀なくさせられ る。そしてそこが、道徳的存在としての人間がその輝きを最大限発 揮する場面であることも確かである。氏が引くように、ソクラテス

やトーマス・モアはその典型であった。

だが、そのような謂わぱ厳しい状況での特殊事例をモデルとして、 普通の状況での普通の人々の生き方を、この「正義対生命」の二者 択一という図式だけで考えるのは、実情に即したことではないと思 われる。何故かと言えば、先ず我々は通常、正義というものを、人々 の生命や財産が不当に脅かされるときに発動されるべき価値と考え ているからである。その意味で、我々は通常、正義と生命を対立す る価値とは考えていない。 また氏は、平和主義について、その立場はいやしくも平和主義と して徹底されるときには、平和よりもむしろある種の正義理念を標 袴することになり、なんらかの自己矛盾は避け難いと指摘する記 ~田頁)。しかし、平和を第一の価値とする平和主義者が、その価 値を守るためにある種の実力行使を余儀なくされ、その行動を正義 の名の下で正当化することは、自己矛盾であろうか。平和主義者は、 そのことによって平和よりも正義の理念を重んじる自己矛盾に陥っ たわけではない。彼は第一の価値である平和を守るために正義に訴

えているにすぎない。

ともかく正義は、法のすべての国民への平等な支配という形を

とって、なによりも人々が生命・財産などへの脅威を感じることな

く平和に暮していけるための条件を維持する価値と考えられてい る。その意味で、正義は、一国内において人々の生命を保全するは

たらきをしている。そして国家のなす善の最大のものは、その主権

の届く範囲に、この法の支配としての正義を維持することによって、 人々に安全な生を確保することにある。 だが、「戦争は無くならない」のは、このような一国の内部に成 立する法の支配としての正義が、地球規模で、即ち国家間において 成立していないからである。そこで、自らがよしとする法支配の形 態を他国にも拡張しようとするときに、一国が他国に自らの正義を 押し付けることになり、それがまた戦争を引きおこす。とすると、 戦争は、一国が「自国の平和」を他国に押し付けんとするところに、 その意味では平和を意図するが故に起ると言えよう。そうみるなら ば、この場面でも、正義は、平和という価値を守ろうとして発動さ

れているのである。

--,

、=〆

(11)

正義をめぐる信念と知

114

ところで、松原氏は、国内で平和が長く続けば、人々は道徳的に 退廃していくと言う。確かにその面は否定できず、逆に自国が他国 との戦争状態に突入して初めて、青年たちは勇気とか決断力といっ た男らしい徳を身に付けるようになる。だが、それは事の半面で、 戦時にあっては、勇気は残酷さに、決断力は無謀へとたやすくその 場を譲り、平和時にないほどの道徳的逸脱が起こることも事実であ る。また平和時には道徳的な退廃が起こる反面で、人々の間の友愛、 協力、こころの穏かざなどの徳性が育成され易いことも事実として 認められよう。総じて氏の論は、人間の徳性というものを、正義観 念がぶつかり合う、争いの場面で発揮されるものとして考えるきら いがある。だが、包容力や相互理解といつたこころの穏かさに発す る徳性も、人間の豊かな生のためには必要なのである。 筆者の思うところ、平和時において、人々が人間としてバランス のとれた徳性を陶冶できるかは、つまるところ教育の問題であり、 戦争にならなければ発揮できないといった徳性はないのではない か。もし、人間が自らの分際を弁え、この地球において自然の恵み を享けてのみ存在できるとの事態を直視するならば、我々は自らの 母体である自然の徒に服従しなければならないと考える筈である。 それが「知恵」と呼ばれる徳性であろう。自然は、同種の間でのい のちの尊重を命じているのであり、戦争はこの碇に最も反する行為 と言わなければならない。本来、人間としての徳性に、戦争になら なければ発揮できないものなど無いのである。

さて、ここで先に述べた、正義についての知と信念の区別の問題

に立ち帰乞う。松原氏の論が、この区別を立てずに、正義について の相対的信念の問での衝突という構図で運ばれていることは先に述

べた。もっとも氏に一一一一口わせれば、たとえ正義について知と信念の区 別があって、陣営Aが知を有し、陣営Bが誤れる信念を持つとして も、A・B各々は、自分の認識が絶対的にただしいと主観的に信じ ていることに変りはないのだから、基本的な対立構図に変化はない ということになろう。つまり、人間はなにかを知っている場合に劣 らず、たんに信じている場合も、確信ということでなら、同程度に 強い確信を有し得る存在である。|且、その信念内容が絶対にただ しいと納得してしまえば、そこに生れる確信は、知がもたらす確信 以上の強さを持つこともある。 だが、知の知たる所以は、信念と違って、なぜその認識がただし いのかを眼の前の相手に説明でき、そういう仕方で他者とその認識 を共有できる点にあると考えられる。即ちその意味で知は客観性を もつ。「正・不正の何か」についてこのような意味での知があると して、それを求めて議論をすることは、たとえ議論する両者の認識 がたんなる信念にすぎないとしても、正義については知は成立せず、 相対的な信念しかないとしてお互いをただ説得すべく議論に向うこ ととは、全く異なった事態を産み出すであろう。 ところでプラトンによる信念と知との区別の最大の柱は、信念に は真と偽の区別があるのに対して、知は誤り得ないという点であっ た。だが、知は自らの不可謬なることをどのようにして証明するの であろうか。結局、この証明は、どこかで絶対確実な前提を措定す るのでなければ、循環に陥ってしまう。けれども、このような前提 を措くことは、人間の「知る」という行為に、絶対不可謬という要 求を課すことである。この要求は、デカルトに受け継がれた。だが、 これは、「知る」もあくまで、「誤まり得る」ことを本性とする人間 の行為であることを考えてみるならば、人間にふさわしからぬ過度

の要求ではないだろうか。

実際、我々は普通「知っている」ということばを用いるとき、|々

グーヘ

(12)

篠 崎 榮

113

その知の第一の根拠が絶対確実な前提であることを確認しているわ けではない。確かに我々は、語用上、決して「私は誤って知ってい た」(閂乏『・后々宮の三)とは一一一一口わない。しかし、例えば「今までは これで間違いはなかったけれど(その意味でよくわかっていたけれ ど)、この場合はこう考えたほうがよりただしい理解だろう」とい うように、間違いとは言えない認識に、進展、より精確な理解を認 めるのではないだろうか。実際、我々は、同じことの認識において、 その輪郭から細部へといった進歩をとげることがある。しかし、知 というものをある段階で、「絶対に誤まり得ないもの」とみなして しまうと、知を所有していると思っている人は、事実そうであろう となかろうと、その知を相手に何としても押し付けようとするだろ

う。そう思っている人にとって、この押し付けの誘惑に対して抑制することは容易なことではない。

それに対して、自らの認識の真なることに確信がもて、現在の段 階でその真理性に説明を与える(ロゴン・ディドナイ)ことができ たとしても、尚、その認識が不可謬だという独断・ヒュブリスに陥 らないで、ある留保を付けておくことは可能であろう。つまり、認 識上の進展の可能性を考えて、知における真理性と不可謬性とを区 別するのである。その場合、「真である」とは「これまでのところ 反駁されていないで、そのただしさを説明できる」という意味にな

ろう。この知識観は、将来、ひょっとすると現在の認識では通用し

ないケースがでてくるかもしれないという、可謬性への留保を残し ている。その意味でこのような知は、「仮説」としての性格を負う ものである。そして、我々が、正義についての知を、それまで反駁 されず、その真が説明でき、相手と共有しうるという意味での、客 観的な仮説として考えるならば、力による対立を避けて、あくまで 議論の場で、互いの信念を押し付け合うことなしに、そのような仮 説の発見へと対話的探求をすすめることが可能となるのではない

か。

このように、可謬性への留保を残して、知を仮説と考えるならば、 先の二自分の認識の他者による)共有への欲求」と「カヘの欲求」 を区別することは容易になろう。と言うのも、自分がひょっとすれ

ば誤っているかもしれないとの謙虚な、しかし人間に最もふさわし

い認識は、力に頼って相手に自分の考えを押し付けようとすること を抑制せしめ、よりただしい認識を相手と共有するべく対話的探求 の場にその人を立たせることになろうからである。

参考文献井上達夫「正義論序説」『中央公論』一九八四年十月号勾・因ロョワ『C巨砲頁二○『画一の、の己〔目⑫三目□三○『四一【ロ○三一&ぬの.宛【ア]召①。 二九八四・十・二

ニーヘ

ーーー

、-〆

参照

関連したドキュメント

近年のデジタル技術を駆使したサービスにお いて、「信頼(トラスト)」が一大テーマとして

の被造物のうちに,一般法則に応じて私に働きかけるように,それを規定するいかなる

する)のであり,そのため「ルター派の基盤においては,あらゆる有限なるものに現臨する無限な

 しかしこの解決は、正義が孕んでいる問題 ―― 一方の正義の主張が他方 から見れば不正義たりうる、という問題 ――

一三 ソクラテスの﹁測り難さ﹂をめぐって 13   ︵五︶

優勢になるとき,「遊び」が出現し,調節のはたらきが

にしてぼんやりと記事を追うだけでなんとな く幸福な気分になる。あれ?

 井上円了は、﹁妖怪﹂の中でも﹁実怪﹂に分類される﹁真怪﹂の存在を疑ってはいない。真の﹁妖怪﹂すなわ