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ヴェネチア幻想 ──サルトルにおける“水”をめぐる思念

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(1)

ヴェネチア幻想

──サルトルにおける 水 をめぐる思念

稲 村 真 実

はじめに

ヴェネチアをモチーフにして,ジャン−ポール・サルトル

(Jean-Paul Sartre, 1905-1980 )

1953

年,雑誌

Verve(N

os

27-28 )

に「ヴェネチア,

私の窓から」

(Venise, de ma fenêtre)

と題する短い文章を発表しているが,

死後,

1991

年にガリマール社より出版された『アルブマルル女王あるい

は最後の旅行客』

(La reine Albemarle ou le dernier touriste)

という長いタ イトルを持つテキストによれば,著者自身によって公表された方のテキス トに至る以前に,実は構想されていながら最終的には反古となった一連の イタリア旅行を巡る断片と草稿が存在していたことがわかる。1) このテキ ストにおいては,ヴェネチアに関する部分のノートが分量的にも最も多い とはいえ,これに次ぐローマについてのノートのほかにも,若干カプリや ナポリについても書かれていた形跡がある。冒頭にあげた方のヴェネチア についての文章の少し前に,ローマのカプチン会修道院(通称・骸骨寺)

の訪問を描いた「ノウゼンハレンの花壇」(あるいは「カプチン会修道女 たちの土間」,

Un parterre de capucines

)というテキストが

1952

年に雑 誌

France-Observateur (N

os

115 )

に掲載され,ヴェネチアに関するテキス トとともに後に『シチュアシオンIV』

(1964)

に収められており,この 二つの短い文章だけが生前の作者自身によって認められた,イタリアの風 土にまつわるテキストとなったわけであるが,本小論においてはとりわけ ヴェネチアに関わるものにしぼり,先にあげた公表された方のテキストと それ以前に書かれていたヴェネチア滞在中のノートの断片と草稿を扱いな がら,主としてサルトルにおける 水 をめぐる思念を中心に考察を行っ てみたい。特異な地理的条件を持つヴェネチアという町を彷徨しながら書 き留められた,スケッチという体裁で構成されているノートのほうは,同 一箇所についての複数の記述や反復があり,また発表された方のヴェネチ

(2)

アに関するテキストに比べると,はるかに粗描的で草稿の色彩が強く,半 自伝的な記憶をめぐって書かれた一節や,分析にまで至らないような感覚 的なエクリチュールで成り立っている。最終的には著者自身によって完成 を放棄されたこれらの断片から,一貫した思念を導き出すことは非常に難 しいと思われるが,一方で,公にされたほうのテキストと照らし合わせる ことにより,またもう一方で,これらのノートや草稿が書き始められた頃 の構想やヴェネチアに特有の 水 という存在が引き起こす思考の断片か ら,サルトルにおいて固有の幾つかのテーマを考えることはできるように 思われる。言うなればそれは,通常目にするサルトルの表向きの思考から 故意に省かれてしまったとも考えられる,思考の裏側に相当する部分であ り,そこでは決して十分とはいえないまでも,〈狂気〉や〈死〉というモ チーフが垣間見られ,一種その脅威に侵蝕されるようにして書かれたので はないかと思われる節があるからである。それでは以下,断片のまま残さ れたほうのヴェネチアについてのノートと草稿(『アルブマルル女王ある いは最後の旅行客』所収)が構想段階において持っていたいくつかのモチ ーフの紹介から始め,そこから主としてヴェネチアにおける 水 をめぐ る思念がどのように姿をあらわしてくるのかを見てみたい。

1) 構想の時期と概要

この断片集の編者であり註釈者であるアルレット・エルカイム──サル トルが冒頭の紹介のなかで引用しているミシェル・ヴィアンへのサルトル 自身の手紙によれば,『アルブマルル女王あるいは最後の旅行客』と名付 けられたイタリア旅行をめぐる一連の断片は

1951

9

月以降のものであ ると推定される。2) この時期,サルトルは

2

年来取りかかっていたジャン

・ジュネ

(Jean Genet, 1910-1986 )

に関しての著作をほぼ終え,自由に何 かを書き記したいという意図でイタリアに向かったが,とりわけ

10

21

日からのヴェネチア滞在によるノートが,それ以前のローマ,ナポリ,カ プリについて書かれた旅行記とを合わせた断片全体の中核となり,後に一 連なりになる際の表題を決定する契機となったという。他方,ボーボワー ルの証言によれば3)

1950

年代に入ってからサルトルは実際的には政治的 活動を断念し,一方で長大なジュネについての序文を書きながら,もう一 方で壮年期の『嘔吐』という趣を持つイタリアに関する本を計画していた ことがわかる。そして雑誌公開のヴェネチア論は

1953

2

月に発表され ているが,この前年の

5

月にローマに滞在中のサルトルは,反リッジウェ

(3)

イ・デモの際,共産党指導者ジャック・デュクロが逮捕されたことを知り,

急遽パリに戻り『共産主義者と平和』

(Communiste et la paix)

を書き始 め,再び政治的動きの中へ入って行くことになる。反古にされたほうの

1951-1952

年に準備されていたとみられるヴェネチアに関わるテキスト群

とその後公表されたテキストとの時代的背景はこうしたものであるが,現 存する断片を用いて構成されたガリマールから出版されたテキストの巻末 には構想されていた ヴェネチアについてのテーマのリスト が収められ ている。それは以下のようなものである。

ヴェネチアについてのテーマのリスト

1)

攻撃性の無さ

(Pas d’agressivité)

2)

平らな正面

(Façades plates) 3)

眼の消失

(L’œil se perd)

4)

レーシングカーの速度

(La vitesse du bolide) 5)

反省性の無さ

(Pas de réflexivité)

6)

ナルシシスム

(Narcissisme) 7)

水の思念

(Pensée de l’éau) 8)

深さ

(La profondeur)

9)

私の狂気の思い出

(Le souvenir de ma folie)

このリストの最後に挙げられている 私の狂気の思い出 とは,ヴェ ネチア到着をめぐって書かれた断片の冒頭にも具体的に現れているのだ が,これは註にも指示されているように4)サルトル自身の記憶,即ち実際 には

1935

年にイマージュの考察のために行ったメスカリン注射による実 験の後に起こった幻覚症状に陥っていた時期のことを示していると考えら れるが,ノートと草稿においてこの<狂気>というテーマは単に自伝的な 記憶にとどまらず,ヴェネチアにおける 水 の存在にもむすびついて,

そこからさらに幾重にも幻想が展開されてゆく一つの大きなモチーフとな っている。

1934

年,私はここ[ヴェネチア]で気が狂っており不幸だった。

一晩中,私は自分のすぐ後ろを走ってくる巨大なウミザリガニに追い かけられてこの町を歩きまわった。私は今まで本当に自殺を考えたこ とは無かったが,この夜はそれを思って恐ろしくなった。

( r. A p.66)

(4)

確かに後年,自伝『言葉』

(Les mots, 1964 )

において語られるように,

幼少期のサルトルにとっては水や木とともに恐怖の対象であった,水陸と もに生息可能な甲殻類が,ここでも現れ,二つの世界に同時に所属する両 義的な存在として,非人間的で無気味なものを象徴しているのであるが5), これは断片の他の箇所において,ヴェネチアにおける水が眠りの底へと繋 がっていく深さ

(profondeur)

を持つものとしてとらえられていることに も関連しており6),夢やいわば無意識という意識の外の領域へと導く<水

の狂気>

(la folie de l’eau)

というテーマに連なっていくものである。こ

れについては以下で考察するが,ノートや草稿では繰り返し現れるこの<

水の狂気>というテーマは公表されたほうの「ヴェネチア,私の窓から」

では殆ど姿を消している。

それに代り後者では,<狂気>ではなく,むしろ ここ

(ici)

ではな い むこう

(là-bas)

を形成する 他

(l’autre)

あるいは もうひとつの ヴェネチアをめぐる<視線>の問題へとテキストの中心テーマは移行して いる。確かに<視線>というテーマに関しては,先にあげたリストからも わかるように,草稿においても,ヴェネチアという町の持つ地理的特異性 から生じる 視界 の限定による<不安>というかたちで7) 繰り返し考察 がなされている。これはまた一方で,ローマやニューヨーク,パリのような 陸に位置する町が可能にするパノラマ

(panorama)

を欠き8),群島と見通 しのきかない小さな通りによって決して全体を把握できない<部分>から 構成された,迷路のようなヴェネチアの構造から起きる,<可視性>

(visibilité)

への脅威として現れながら9),同時にもう一方で,こうした見

る者に距離

(distance)

をとらせないこの町の<視線>の条件が, ナルシ シスム や 反省性の無さ というテーマを生み出し,またそこからこの 町に特有の<なめらかさ>

(douceur)

という感覚や一種の女性的な側面を 見出だしてゆく契機ともなっている。ここからまた,リストにある 攻撃 性の無さ というテーマやヴェネチアの建物に特徴的な 平らなファッサ ード の問題も出てくるのであるが,いずれにしても,ふたつのヴェネチ アに関わるテキストにおいては,<視線>の問題は異なる位相を持つもの であり,テーマの次元では,水をめぐる<狂気>を主軸とする断片群から 他 をめぐる<視線>の問題を扱った

1953

年のテキストへと大きく変 化したと考えられる。それでは以下において,草稿とノートの中に現れて くるヴェネチアという町と水について具体的に考察を行ってみたい。

(5)

2) 動かない水 (l’eau morte) とヴェネチア

ヴェネチアにおける水は,まず動きのない水

(l’eau morte)

,言い換え れば流れていない水としてとらえられている。同じ水でも流れる水に関し ては,『存在と無』において意識としての<対自>存在のひとつの象徴と して用いられているが10),内海である潟(ラグーナ)の水はむしろ文字ど おり生気のない<死んだ水>として現れる。断片集のタイトルにある,ア ルブマルル女王の

Albe

とはラテン語で 濁った白 を示す語であるが,

しばしば 月のような水

(l’eau lunaire)

とも言われるヴェネチアの水は 同時に,単なる背景としての 水 にはとどまらず,そこから様々な幻想 を紡ぎ出す,変幻自在な媒体でもある。

ヴェネチアにおいては,水は単に水であるのではない。それは同時 にいくつものものでもあるのだ。それはいぼのある一匹の獣であり,

また毒を持つひとつの植物でもあり,汚らわしい闇の上にのった一枚 のガラスの表面でもある。それはまた膿であり,秩序の中に囲まれた 全くの無秩序であり,そしてまた 存在 の断崖の間への無のゆるや かな滑り込みでもある。

( r. A p.77 )

ノートの方では,ヴェネチアへの到着から始まり,水の上を滑るゴン ドラに乗って散歩をする旅行者のまなざしから,ヴェネチアの風物が色彩 感豊かにスケッチされてゆくが,水上から観察されたグラン・カナル(大 運河)に面するゴチック様式の建築物を通してなされる考察は,水と石に おける形態上の変形をめぐって繰り広げられる。

結局,きらめくこうしたオジーブ11)から円への,また円からオジー ブヘの絶えざる変形やこれらの破片や切れ込みは,動かないものの中 に水の持つ絶えざる動きを再び作り出しているのだ。言うなれば,水 こそが壁の上にその反映を映し,それらに開口部をもたらしているの だ。ある観点から見れば,石が水のイマージュになっていることにな る。こうしたことはヴェネチアがそれを習わしにしているやりとりな のだ。

( r. A p.74 )

水の持つ効果は建物ばかりではなく,次第にこの上を滑って風景を見 詰める者の視点にも作用を及ぼし, 水の視点

(point de vue de l’eau)

(6)

と呼ばれるものを生み出しながら,悪や死の方へと旅行者を引き寄せる。

道筋が見えなくなった。あるのは,黒ずんで悪臭を放つ水の現実で あり,圧縮もできず,還元もできず,建築も不可能な,全くの無秩序 としての水なのだ。私たちは全くの無秩序の側に,悪

(le Mal)

の側に おり,少し不吉なこの灰色の空の下で,軽く吹きぬけるこの風ととも に,善は死んでいて,その亡骸しか残っていない。人間は死

(la mort)

の側へ移り,生は混乱する水とともにわなないている。非常に軽い不 安が走る。

( r. A p.77 )

これらのノートや草稿が着手される少し前に書きあげられた,戯曲

『悪魔と神』

(Le diable et le bon dieu, 1951 )

や『聖ジュネ』

(Saint Genet, 1952 )

において深く考察された 悪 をめぐるテーマの残響のようにもと らえられる一節であるが,こうした幻想は再び,水から生まれ出てはその 底に飲み込まれる巨大なネズミや運河のうえに湧く蚊というヴェネチア特 有の生き物のイマージュを呼び起こし,そうした動物が病原となってもた らされたであろう,伝染病や生命の崩壊の記憶を喚起する。ひたひたと,

石やレンガや木の杭を取り巻きながら,徐々に蝕んで行く水のゆるやかな 力は,じつは腐食作用としての 時間

(le temps)

そのものであり,時に 浸蝕される石の病は,緑色をした苔へ,そしてまた風に散る儚い花である アネモネや泥に塗れたムラサキイガイなどの植物や貝のイマージュをさら に紡ぎ出し,「見る見るうちに

(voir

à vue d’œil)

,老いて

(vieillir)

,緑 色に変わって行く

(verdir)

ヴェネチア

(Venise)

の姿」12)を水の上に映し 出す。この部分のパッサージュでは,単なる意味のレベルでの変形にとど まらず,音のレベルにおいても,

“ v ”

の子音が立て続けに重なって緊密 な連鎖を生み出している。これは一方で,前文において繰り広げられた意 味のレベルでの,視覚における色彩感豊かなイマージュの展開が,音のレ ベルにおいても,それに呼応するようにして組み立てられているというこ とであり,<視覚>,<瞬間>,<老い>,<緑>,<ヴェネチア>,と いう多様に分岐するイマージュが,聴覚的には一つの同じ音素を内に保ち ながら,同時に変形されているのである。

幻のような漣,潮,流れや渦,そして突如として起こる壊れた水柱 の普遍的な崩壊。それは,時そのものなのだ。

( r. A p.78 )

(7)

こうして見出だされた,水と 時間 による変形の過程は,また一方 で,魔術

(sorcellerie)

のように13)ヴェネチア自体の過去を映し出す「死者 の水」

(l’eau mortuaire)

を呼び覚ます。

水は異民族の到来した未開の時代に差し向ける。潟(ラグーナ)の 上に浮かべば,この全く忘れられ見捨てられた,動かない,完全に平 らな水の上に,同じようにして浮かんでいる,無生気でスポンジのよ うな砂や粘土質の洲が見える。(…)この死者の水は,その切り離す力 ゆえに選ばれたのだ。それは即ち空間からの切り離しであり,四方に 散り散りになるのは,ひたひたという音だけである。それは逃走であ り恐怖だ。地面擦れ擦れに顔を出しているこれらの群島は,腹を仰向 けにした死んでいる魚たちであり,それはまた,運に恵まれなかった 幾つかのヴェネチアなのだ。水はローマ世界の解体と恐怖と逃走を映 し出している。ヴェネチアに話を戻せば,これらの未開の暗いイメー ジからグランカナルの水をとらえられる。それは恐怖であり,分離であ り,大地に対しての防御のままであり,そのガラスのような幾多の輝 きによる絶え間ない滑走によって,自らが揺さぶっている,今日では 石ですっかり覆われてしまった非常に昔のひとつの死を,そしてまた 幾つもの部分になった帝国の分裂とそこで異民族の群がさすらったで あろう人気のない原野を反復しているのである。

( r. A p.79 )

このようにそれがまた過去

(passé)

でもある,動きのない平らな 水 は,今度はそれ自身が未開の異民族にも比すべきひとつの脅威となり,ヴ ェネチアという傷口に流れ込むリンパ液として,その 自然

(Nature)

という側面を露にしてくる。この自然とは非人間的な

(inhumain)

領域に 属するものであり,この町の石を蝕みながら自らをも蝕んでゆくものとな る14)。常にこれらのテキストにおいては,水という媒体の絶え間ない変形 が行われ,イマージュが次から次へと置換される。水は女性を示す代名詞

“elle”

として現れながら,複合し重ねられる息の長い文章の中で無数に

姿を変える。これと同様に,いつの間にか幻想の中の水陸両性の動物に変 身したかのような旅行者のまなざしは,次第に 水 から這い上がり,ヴ ェネチアの地上の構造に向けられる15)

陸上の交通手段を持たず,小さな入り組んだ通りで迷路のように構成

(8)

されたこの町においては,空間は決してベクトルのような働きを持たず,

等質で特徴のないものとして把握される。16) これは速度という点から見て も,全く独自な様相を持っている。緩やかな歩行の速度で時間が過ぎるヴ ェネチアで,旅行者が見出だすものは,未来

(l’avenir)

を持たない,奇妙 に完結した感覚であり17),それは交通網が敷かれて組織化され,太陽によ って象徴されるような中心を構成する父や神や王を持ったローマのような 町に見られる,互いが戦い合うという攻撃性を欠いた,一種の 女性的な 世界である18)

父のない子供である旅行者は,母性的な粘膜の中で行き場を失う。

彼は妖精の住む洞窟の,暗くて甘美な思い出を再び見つける。町が私 を隠す。それで私は自分の視界を失った。この不安は私を視線の集中 攻撃のもとに直立させる。これらの路地は私を覆い,この薄暗がりは 私を目立たなくさせる。それでは誰が私を見るのであろうか。私は足 音を聞く。振り返るが誰もいない。ひとりの人間が見られずにいる時,

その人間について何が残るというのだろうか。ただ慣れ親しんだ味わ いがあるばかりだ。私が飽き飽きしているのは,おそらく自分の味に 対してなのか。旅行者である私達は,離乳前のごく幼い頃の,無言の 幼少期に戻るのだ。そこではわれわれは,甲殻もコルセットも無く,

少し湿ったある肉体的な混同の中で,自分たちの母親とともに暮らし ており,誰に対しても対象としては存在していなかった。ヴェネチア は町としての距離を,礼儀上の距離をとることがない。言い換えれば それは,私達に体をぴったりとつけて,軽く触れる,女性的なこもっ たにおいであり,母性的なまぜこぜの状態なのだ。

( r. A pp.93-94 )

母性的な粘膜

(des muqueuses maternelles)

という言葉から,『存在 と無』において言及された,意識に常に付き纏う反価値

(Antivaleur)

と しての ねばねばしたもの

(le visqueux)

を思い出す条りであるが19) , 気をつけなければいけないことは,ここで一見 母性的 あるいは 女性 的 として現れているヴェネチアの特性は,これ以下の文章の中で言われ るように,本当の意味での 母 ではなくむしろ一つの罠

(piège)

であり,

身体の覚醒を催眠状態に導き,単に建築上のレリーフばかりではなく,攻 撃性

(agressivité)

や逆境

(adversité)

という,本来はそれに抵抗すべきで あるはずの突出したものを削り取って,知らず知らずのうちに<視線>を

(9)

飼い慣らしては組み込んでゆく,操作の極めて行き届いた,冷ややかで平

らな

(plat)

世界に固有のものであるということだ。 これはさらには一方

で,速度

(vitesse)

という要素を決定的に欠いているために,目前の視野

しかもたぬ 近視眼

(myopie)

の状態に<視線>を陥れながら20),一見 全てに対して安心感を与えるところの なめらかさ

(douceur)

という毒 にみちた操作を行使するものなのである。こうしたなめらかな操作の生む

幻想

(illusions)

が,次第に現代の新聞やマスメディアや遠距離通信に

結びつき,どんどん加速する情報のシステムの現状と,

16

世紀以来時間 が止まり,歴史

(Histoire)

を今でも緩やかに保持するヴェネチアとの間を 行きつ戻りつして,市

(foire)

の迷宮のなかで旋回する高速のレーシング カーのイマージュを呼び起こし,現代文明の<速度>と<可視性>への欲 望とその狂気の問題が考察されている21)。通常はこうした 速度 と 可 視性 の享受者である 旅行者 としての語り手は,それゆえヴェネチア におけるこれらの要素の喪失を,自らへの不動性

(immobilité)

の侵入と 感じ,それは同時に一つの小さな<死>の体験ともなっているのである。

こうして, 自らにとっての雄を貪り食うアドリア海のバラ色の蜘蛛 に喩えられるヴェネチアは22),その なめらかさ という女性的な特徴を,

この町と切っても切り離せない 水 の持つ,絶えず変形し動き続ける姿 の中に<水の狂気>という形で反響させ,また同時に,その水がもたらす 特有の雨や霧や湿度によって,大気と水とが常に交換される 沈みゆく町 としての顔を露にし始めるのである23)。とりわけ,空

(le ciel)

と 水 と の共犯関係から生じる,ヴェネチアにおける 現実性の欠如

(manque

de réalité)

という独特の不吉な印象は,この町に一種 見捨てられた 感

じをもたらす。そこでは 水 はその逆さまのイマージュである空よりも 過剰であり,空は水に対して余分であり,空は水の中にあり,水は空の中 にある。こうした状況は,増殖し散乱してはまた繁殖し解体する<多>の イマージュを生み出すことになる。

まるで水の中にある空の,青白いきらめきから生まれたひとつの幻

(mirage)

のようだ。そして,私は非常にしばしば自分自身をも幻影

であるかのように感じるのだ。すべては消えてゆくのだろう。そして,

水だけは残るのであろう。

( r. A p.105 )

(10)

以上のように,ヴェネチアを取り巻いている動かない 水 の存在は,

その上を滑る様々の夢想にしたがって,無数の変形を行う媒体となり,イ マージュからイマージュを紡ぎ出しては,最終的にはそれらの幻想を飲み 込んでしまい,ヴェネチアという町自身も,そしてまた,これを見る者 の<視線>をも吸収してしまうものとなる。言わば<ねばねばしたもの>

としても把握される,こうした動かない 水 が<思念>

(pensée)

を持 つとすれば,それはいったいどのようなものなのか。次節において考察す るのは,まさしくその問題である。

3) ヴェネチアにおける<水の思念>とその狂気

先にも少し触れたように,ヴェネチアはその地理的な条件から,ロー マやニューヨーク,あるいはパリのような町とは異なり,パノラマに相当 する全景を把握できない,迷路のような町として描かれている。それは同 時に,これを捕らえようとする者の視線から絶えず逃れるものであり,視 線は<細部>

(détail)

の中に失われることになる。ここにヴェネチア特有

の 非反省性

(irréflexivité)

ともいうべき側面が生まれてくる。

しかし,ヴェネチアは,まさしくあらゆる反省

(réflexion)

を避けて いるのであり,それは自らを判断することを好まず,自らが何である のか,そしてまたなぜそこにいるのかを自問することも欲しない。そ こには,少しも自分を判断することを望まず,何一つ問題にしないこ とで楽になっているに違いない,呪われたいくつもの狡猾な幽霊がい るのだ。これは,明晰な高さとは逆のものだ。

( r. A p.106 )

こうした,反省性の欠如はまた, 水 という存在とむすびついて,固 有のナルシシスムを作り出す。 盲従的で気の狂った水はこの町を映しだ し,それに追従し,突然,異議を唱える

( r. A p.107 )

と,ヴェネチアと その反映を作る水の関係を考察しながら,旅行者の夢想は時間を遡って,

憎悪と共犯に満ちた,若い主人に仕える黒人奴隷の青緑色の眼を思い起こ す。見かけと反映が作り出す奇妙な世界が,ここにはある。

私達にはもはや,ヴェネチアが自分の見かけ

(apparence)

の上に身 をかがめているのか,あるいは見かけの虜になっているのかわからな い。私達は,もはや反映

(reflet)

がささいな邪悪な存在であるのか,あ

(11)

るいは動かない水から突然現れたこの町さえも見かけの見かけであり,

反映の反映であるのかわからなくなるのだ。何という静寂であろう。

根も無く,それを取り囲む大地もないこの町は,ひとつの夢想から生 まれ出たかのように見える。

(Ibid.)

水の効果である反映に取り囲まれて,その中で,旅行者は自らもまた 幻影となっているのを発見するのであるが,こうした水はまた,同時に反 発を抱かせながらも,<深さ>

(profondeur)

という秘密の次元をこの町 に与えていることによって,旅行者をひきつける。ヴェネチアにおける隠 された<水底>

(fond)

とは 獣たちのいる生きている泥 であり,水が 導く特異な世界である。

予見のできない,こうした水の底は,奴隷や捕虜や大衆たちの持つ 深さに似ているのだ。目に見える底もある。よその人間たちはみな生 理的欲求を隠そうとする。うわべは清潔だ。ここでもそれは同じだ。

しかし,眠りや生理的欲求や化け物たちのいる水底もある。ひとは汚 物を出す。ヴェネチアではひとはそれを隠すことができない。いくつ ものハンモックが揺れる,薄い反映の下には,これらのガラスや眼の 下には,家庭のゴミや死

(mort)

があるのだ。ヴェネチア,それは世界 の町の中で,最も心地よい町でありながら,最も危険な町であり,最 もよく人間の持つ不可能性を露にする町なのである。

( r. A p.108 )

初期に書かれたと推測される草稿のほうでは,こうしたヴェネチアの 運河の水底は, 粘つく底

(le fond gluant)

24)と呼ばれているのであるが,

これは先にも言及した<ねばねばしたもの>の領域とも重なって,意識が そこから逃れる不断の危険として,絶えず意識に付き纏うものとして捕ら えられていると考えられる。同様に,こうした意識のねばつきは,身体の 領域においては,例えば性的欲望という他者の身体へ向かっての欲求が自 己の身体の前における意識の めまい として体験されることにも通じて おり25),このように考えれば,ヴェネチアの 水 の持つ<深さ>という 次元は,通常,水面に喩えられる 視線 や 意識 に象徴される 人間 的なもの の後ろに隠されてしまっている, 眠り や 自然 あるいは 死 というそれを限界づける 非人間的なもの を象徴した次元であり,

そしてまた, 水 自体は,あたかもその両者の間を満たしては行きつ戻

(12)

りつする 生命 そのもののうねりとしてとらえることができる。実際,

こうしてうねって泡立った水は,旅行者の目前で,気体としての大気と固 体である無機物

(minéral)

の間で,絶えず姿を変え,広がっては収縮し続 けている。

ゴンドラから降りて,私は長いこと,リオ

(rio)

の表面にある,緑色 の泡立ったクリームがある時は花のように広がり,ある時は収縮し,

ある時は緩やかにジュデッカの運河に向かって流れ,ある時は後退し,

ある時は止まるのを眺めて時を過ごす。

( r. A p.109 )

こうした 水 が瞬時に生み出す無数のイマージュは,ヴェネチア を,<多なるもの>

(le multiple)

と<生成>

(devenir)

の町にするのであ るが,それは実のところ,馬鹿げた,取り留めのない,いくつもの逸話を 引き起こし,それを無数に増殖させることになるばかりで,決して記され るべき<歴史>

(Histoire)

や残るべき<芸術>

(Art)

には至らない。今日,

われわれにとっての<美>

(Beauté)

とは作られては壊されて行く渦中に あるものではないかという問いが,ここで生まれてくる。語り手である旅 行者は,それゆえ,ヴェネチアで一つの選択を行うのであるが,それは 女 性的なもの

(le féminin)

から 男性的なもの

(le masculin)

への移行 であり,またそれは 魂

(l’âme)

から 精神

(l’esprit)

への移行でもあ り,そのためには,視線

(regard)

を少し逸らすだけで十分であると結論

する。26) こうして,水に触発された旅行者の夢想は次第に,鏡のうえにお

かれたかのように,反映からあらわれたヴェネチアや,絶えず揺れ動いて はすばやい動きで瞬時に変わり続け,様々な曲線のなかに投影されては,

引き伸ばされ凝縮される反映そのものを追いながら,バラ色に輝く石でで きた大建築物と緑色をした水という,ふたつの 相反するものの論理

(logique du contradictoire)

という<水の思念>を見出だすに至る。

不条理で無益な,緑色とバラ色で,

500

年以来,この宮殿は作られ ては壊れ,現れては消え,少し左に寄り過ぎたり,少し右に寄り過ぎ たりし,小船が通る際には飛び立ち,再び注意深く身をおいて,緑色 とバラ色で,果てしなく繰り返される形成のなかにあり,常に仕上が ることはなく,最後の瞬間になって,あるささいな出来事が再び問題 になるような作品のように,偶然と人間的な失敗のイマージュなのだ。

(13)

水に浸されて,青白い,あるいは突如として鉛色の輝きによって青ざ めた,石という石は爆発し,謎解きは近づいてくる。私は魅惑されて,

自分の足許にある,ほとんど人間のような一つの思念を凝視する。そ れは常に,相反するものに巻き込まれた,水でできた思念であり,明 確になるために自らを否定するひとつの意志なのだ。私は欲する,私 は欲しない,私は欲する,私ハ欲スル,私は欲しない,私はバラ色で はなく存在することを欲する,バラ色

(je veux, je ne veux pas, je veux, JE VEUX, je ne veux pas, je veux être n’être pas rose,

ROSE,)

,緑のヴェールが自らの波で全てを再び覆う,私は欲する

(je

veux)

,全ては再び始められなければならない,私は欲する,私は私が

存在を欲することを欲しない,私は欲しない

(je veux, je ne veux pas je veux être, je ne veux pas)

,一つの白い穴,私ハ,バラ色デアルコト ヲ欲スル,バラ色で,バラ色で

(JE VEUX ÊTRE ROSE, ROSE,

ROSE,)

,我々のものではないひとつの思念のゆるやかな歩みであり,

それは はい と いいえ を,また現実のものと可能なことを区別 することがない。いや,私は知っている。それはそれ自身に当惑した,

われわれの夢の思念であり,永遠に虚しく動揺しており,それが思念 するところのものを存在するのだ。自閉症という悪夢が,私の足許で ひたひたと音をたてている。狡猾な,熟達した狂気。水は狂っている。

足許で増殖した反芻のなんと魅惑的なことか。私はそこに

20

年前の,

私自身の狂気の反映を見たのだ。

( r. A p.112 )

緑色とバラ色

(Vert et rose)

という,それ自体が補色の関係でもある,

水 と 石 でできた宮殿という相反するふたつの存在を示す単語をと おして,ここではヴェネチアにおける<水の思念>が,単に意味のレヴェ ルにとどまらず,それ自体が見事にテキストの次元においても作り出され,

実践されている。初期草稿においては,ここでの<バラ色>

(rose)

という 言葉に代わって,<踊る>

(danser)

という動詞の不定形が使われており,

同時に水の形成する<思念>の絶え間ない<振動>

(oscillation)

としての 側面が強調されているのだが,そこではヴェネチア特有の なめらかさ

(douceur)

とも繋がる,自然の事物のおだやかなためらいや水のためらい

がちの苦悶や軽く甘ったるい吐き気

(écœurement)

が引き起こされ,『嘔 吐』

(La Nausée, 1938 )

において描かれたような世界を彷彿させている。27) ノートのほうではむしろ,<水の思念>が次第に現れてくる緊密な過程や

(14)

言語レヴェルでの操作のほうに,『嘔吐』の反響があると思われるが,緑 色とバラ色の色彩イメージで展開されているこのパッサージュに挿入され ている, 一つの白い穴

(un trou blanc)

という部分は,まさしく『嘔吐』

において,同じ表現を用いて言われたところの 鏡の罠

(piège de la

glace)

であり28),意識がそこに陥るまいと警戒するからくりの一つである。

これはすなわち,ノートのこれ以下の箇所で言われるように,ヴェネチア

における 水 が 否定観念

(Notion Négative)

としてとらえられてい

ることにも繋がり,こうした<水の思念>が作り出す,散乱する無秩序や 絶え間ない正体不明の動揺

(agitation)

は, 断固とした肯定のまわりをは しゃぎまわる だけのものであり, この永遠性は移動欲を持っており,

否定するためにのみ,それ自身のうちにありとあらゆる輪郭を引き寄せる も の 29) な の で あ る 。 そ れ は ま た 同 時 に , こ の 町 に お け る < 生 成 >

(Devenir)

であり,<時>

(Temps)

でもあるのだ。ここでは<水の思

念>は <死>に向かって逃走するような<永遠の真理> 30)を作り出す のみである。引用した部分の最後に現れている,作者であるサルトル自身 にも重ねられる,過去の<私自身の狂気>の姿とは,このように,思念

(pensée)

が 水 というイマージュ

(image)

に吸い込まれてしまうよう

な想像界の持つひとつの危機を現しているとも推測できるが,冒頭でも言 及した例のメスカリン注射によるイマージュのための実験の時期に執筆さ れていた,『想像界』(邦訳『想像力の問題』,

L’imaginaire, 1940

)の中 で,サルトルはこうした思念とイマージュの関係が孕む,意識におけるあ る種の危機を 非反省的な水準における思念 のレヴェルから考察してい る。そこでは,想像的態度をとった場合の思念とイマージュの関係が問題 になっており,二つが明確に切り離せないような次元が現れてくる。

しかしながら,思念は,如何に私たちが,その思念がその中にあら われるイマージュを斟酌しないでその思念そのものについて言表出来 るとしても,もしひとたびその思念を形成するさいに想像的態度をと ったとしたら,それに直接近づくことは私たちには決して許されなく なる。私たちはいつまでもイマージュからイマージュへと移り行くこ とになるであろう。理解とはいつまでも果しのつかぬ運動になり,そ れはあるイマージュに対するに別のイマージュを以てし,更にそのイ マージュに対するにまた別のイマージュを以てする精神の連鎖反応と なり,かくて無限につづくべき可能性を蔵する。このような無限の退

(15)

行に,露わな思念の端的な直観をとって替らせるためには,意識の根 本的変更,真正の革命,を実践することが必要であり,すなわち,非 反省的次元から反省的次元へと移行することが必要である。31)

ここで,先にも述べたようにヴェネチアがいわゆる 反省性 を欠い たむしろ 非反省性 を持った町として現れていたことや今まで見てきた ヴェネチアを描いたテキストにおける,次から次へと繰り広げられていた イマージュの連鎖を思い起こすならば,過去の<狂気の思い出>と共に哲 学的な次元において考察されていた<思念>と<イマージュ>の問題が,

この未完のヴェネチア論においては,一方で,テキストの詩的レヴェルに おける一つの実験として肯定的に現れながら,他方,現実のうえではそれ を破棄しあるいは書き直すという形をとって,この難問を乗り越えるため に,いわゆるテキストにおける非反省的次元から反省的次元への移行をサ ルトル自身が選択したのではないかということである。というのも,想像 的世界においては常に,こうした 非反省的次元における象徴による漸近 法 の 無 限 的 な 観 念 と 反 省 的 次 元 に お け る 知 解 作 用 は 相 関 者

(corrélatif )

の関係にあるものであり,ふたつは認識を構成するうえで切

っても切り離せないものであるが,同時にまた意識に与えられつつある思 念の対象が,本質そのものであるものとして現れる場合には,この非反省 的思念は憑移現象として

(possession)

現れてくるからである。ヴェネチア における<水の思念>とは,まさしくこの水準における思念に近いもので あり,そこでは 思念はイマージュの中にとじこもり,そのイマージュは その思念と同義のものとしてあたえられる のであり,そのために, あ らゆる瞬間にその可能性はひそむのであるが―その後の意識の流れの歪 みが生じる ような思念の形態なのではないだろうか。ヴェネチアの 動 かない水 が生み出すところの<狂った思念>とはこうしたイマージュで ある 水 のなかに閉じこもり,この町そのもののように沈んで行く思念 の姿なのではないだろうか。同時にそれは,イマージュに閉じ籠りそこに 沈んで行く 言葉 の姿でもある。とすれば,そこからどのようにして,

脱出する途があるのか。それが以下,最終節で考察されるべき問題であ る。

結びにかえて ― 脱出 のための一つの試み

すでに,第一節においても少しふれたように,ヴェネチアをめぐるノ

(16)

ートと草稿による断片群から

1953

年に作者自身も認めたうえで公表され たほうの「ヴェネチア,私の窓から」に至る過程において見られる,最も 大きな違いは,ひとつには,前者においては主要テーマであった,前述 の<水の狂気>の部分の削除であり,もう一方では,後者のタイトルその ものにも現れているように, 窓

(fenêtre)

という枠のある<視点>を導 入したことによる,ヴェネチアに対しての<視線>の限定と,この視覚上 の装置によって形成される こちら

(ici)

と むこう

(là-bas)

という空 間的な分節から発生してくる 他

(l’autre)

という領域の出現であり,こ うして問題の中心は 水 をめぐる<狂気>というテーマから,こちらで はない 他 をめぐる<視線>

(regard)

自身への考察へと変えられてい る。言うなればこれは,断片群においては,そこから幾つものイマージュ を生み出しては同時にそれをのみこんでいた 水 の持つ,変幻自在で多 面的な形態を, 視線 がそれに耐えうるところの,目に見えるレヴェル である<反映>

(reflet)

や<時間>

(temps)

という要素に絞りこむ作業で もあり,これはまた,<視線>が対象としてのヴェネチア自体を変形する ことでもある。冒頭は以下のようにして始まる。

水があまりにもおとなしすぎる。何の音もしない。おかしいなと思 って,私は身を屈める。すると,中に空が落ちている。水はほとんど 動こうとはせず,その無数の皺が漠然と,断続的にきらめいている陰 気な聖遺物を揺さぶっている。むこうの,東の方では,運河が中断す る。それはキオッジャまで広がる,乳色の巨大な水溜まりの始まりな のだ。けれども,あちら側では外に出てゆくのは水なのだ。私の視線 はガラスの上を横滑りして,リドを目指して,どんよりとした明るさ の中をすべって行き,今にも失われそうになる。

( r. A p.186 )

ここでは,<視線>は失われそうになったとしても, 窓 という装置 のために,前節で見たような, 水 そのものに<視線>が対面した際に 襲われるような<水の狂気>に直接立ち会う恐れはない。こうした静止し た<視点>を確保した旅行者は,例えばヴェネチアにおける 水 や 空 ,あるいは 石 や 火 が混ざり合っては性質を交換するというか らくりに驚くような経験のない旅行者と自らを区別しているのだが,実際,

このテキストにおいては,ヴェネチアとは様々な 装置 や システム という一種の 罠 のはりめぐらされた,中心を持たない場所として姿を

(17)

現している。ここにおいて耐え難いのは,水の持つ<狂気>ではなく,

<視線>がしばしばそれによって裏切られるところの,<反映>によって 引き起こされる<鏡の罠>や,中心を形成するはずの 太陽 が不在のた めに生じる,平衡の破壊による<空虚>

(vide)

や,群島であるというヴ ェネチアの条件から由来する 多 の発見とそれによる 他 に対する妬 ましいほどの<視線>の<狂気>なのだ。

もっぱらこういうことなのだ。ヴェネチアにおいては単純なものは 何もない。というのは,それはひとつの町ではないからだ。そうでは なくて,それは群島なのだ。どのようにして,それを忘れることが出 来ようか。あなたは,あなたの島から,真向かいにある島を羨望を持 って見詰める。あちら側

(là-bas)

にはなにがあるのか。あなたが,こ ちら側には

(de ce côté-ci)

ないと断言するような,孤独,純粋さ,そ して沈黙があるのだ。本当のヴェネチア,そこにあなたがいるであろ うそのヴェネチアを,あなたは常によそに

(ailleurs)

に見出だすのだ。

私にとっては,少なくともこんな風な具合なのだ。

( r. A p.189 )

こうした状況は,<視線>の担い手を絶えず 他 への妬ましいほど の<狂気>に陥れるものでありながら,同時にこうした 他 を探す視線 が見出だすのは,増殖する 多 のイマージュであり, 他 は 多 へ と繋がって行くのであるが,それは決して捕らえることのできない 他岸 の隠されたヴェネチア を求めて彷徨っていたこの旅行者が,今では自分 はヴェネチアに存在していないと感じて,事物の存在感さえも徐々に喪失 し,幽霊のような まぼろし

(apparitions)

という次元においてのみ,

存在の出現と消滅を目の当たりにするような,視覚イマージュに固有の 幻想 の領域を生み出すものなのだ。そこから,<分身>

(double)

や触 覚から切り離された<視覚>というテーマも現れてくるのであるが,いず れにしてもヴェネチアにおいては,<視線>は ずれ や 距離 を伴い ながら 罠 にかかる宿命を免れ得ない。このような 罠 の一つとして,

結びつけるふりをしながら実は引き離す<運河>の機能があげられている が,眼にとってのまやかしとして

(trompe-l’œil)

現れる,このヴェネチ アの水には, ある軽やかな悪夢の色彩 32)があるとされてはいるが,こ こにはもはや,前節で見たような,<視線>を飲み込み,思念をイマージ ュの中に閉じ込めるような<水の狂気>はなく, 罠 である<運河>に

(18)

よって切り離されることにより, 他 とのコミュニケーションがまった く不可能となるような,悪夢にみちた場所にいることから起こる別の<亀 裂>が問題になっているのであり,こうした地点においては,<視線>は 時には,人間的な世界を<外>

(dehors)

から 天使か猿の目で眺め 33), またそれが常にその上をすべると感じる,止まった水の表面

(surface)

が 作り出す ガラスのような一つのまなざし

(regard vitreux)

になったり するのである。

ヴェネチアにおいては,光がまなざしになるためには,些細なこと で十分だ。この島と島とのあいだの知覚し難い距離,この恒常的なず れをひとつの光が包むだけで十分に,その光はひとつの思念のように 見えるのだ。光は,水の上の花束のような家々の束のうえに撒き散ら された意味をかきたてたり,かき消したりする。今朝,私はある他者 の目の中にヴェネチアを読む。ガラスのまなざしが偽の植え込みの上 に固定された。そのまなざしは,砂糖菓子でできたバラや,ミルクの 中に浸されたパンの身でできた百合を萎れさせる。すべては球形のガ ラスの下にあり,私はある陰気な思い出の目覚めに立会っているのだ。

(r. A p. 196 )

このようにして,断片においては 水 でできていた<思念>は,こ ちらの方のヴェネチアでは 光 という<まなざし>を構成するものによ く似ており,このような ガラスのまなざし が引き起こすものは,自分 のものではない過去の<まなざし>であり,あるいは他者の過去の<記 憶>であり,これらが旅行者に付き纏って,すべてを 一般性 の中に沈 めようとする。前節で考察した<水の思念>の持つ<狂気>から,<窓>

という固定された視点を設けることで,ヴェネチアの持つすべてを飲み込 んでしまう<ねばねばした>脅威から距離をとったはずの経験豊かな旅行 者は,ここで再び,<視線>を構成している 光 においても侵入してく る<過去>という<時>の脅威を見出すことになる。それは,<水の思 念>のところで,バラ色の 石 の建築物として緑の 水 に飲み込まれ ていったヴェネチアの邸宅が,ここにおいては 忘却 という<時間>の 深淵のなかに沈められ,消滅してゆくことになるからである。

次第に忘却するこうした記憶の中に,何が一体残るというのだろう。

(19)

バラ色と白の長い壁とそれからあとには,もはや何も残らない。忘却 の途上にある,これらの邸宅はもはや私の期待の外にあり,もはや水 のあちら側にではなく,すぐ近くの過去の中に,おそらくは昨日か,

たった今,それらは動かずに遠ざかり,すでにもう,存在の気取りの ない荒々しさや,そこにあって否定することのできない事物の持つ,

愚かしくも断固としたうぬぼれを失ってしまったのだ。好きになる時 には人が好きになれるすべてのもの,偶然や傷跡,切り傷,苔や水や 老いの毒のあるなめらかさ,全てはこの圧搾された表面的な光によっ て,圧縮され削除されて,もはやそれらのうちには空間がなく,部分 のないいくらかの拡がりがあるだけだ。それはもろもろの知

(savoirs)

であり,物質は透明になるまですり減らされ,存在の喜びに満ちた粗 雑さを不在にまでやわらげるのだ。それらのものはそこには存在しな い。そこではそのものとしては存在していないのだ。私はそれらを作 った建築家たちの図面や粗描を見ているのだ。死のくすんだ偽りのま なざしは,これらの愛らしいシレーン(海の精)を凍りつかせ,彼女 たちを最後のねじれた状態の中に凝結してしまったのだ。

( r. A p.197 )

こうした<非人称の記憶>

(mémoire impersonnelle)

といわれる,

<時間>や<死>は,ヴェネチアにおいて,最後に現れる<視線>に対し ての 罠 であり,ここにおいて視点は<現在>

(le présent)

という唯一 自らが操作できる<時間>を失ってしまっているがゆえに,無数の<過 去>に侵蝕されてしまう。このようにして, 他 をめぐる<視線>を窓 枠越しに展開した,後に書かれたほうのヴェネチア論においてもまた,最 終的に語り手は,言葉を持たない<沈黙>

(silence)

によって言葉を失っ てゆくという脅威に直面するのであるが,そこではまた同時に,ヴェネチ アを保存するための別のひとつの可能性が見出されるのだ。それは<絵

画>

(tableau)

という,<思念>としての 言葉 を脅かされてもまだ尚

残る,<視線>と<イマージュ>によって構成される別の表現形態の次元 であり,そこで,言葉は自らの夢想を 言葉 による<絵画>を試みるこ とで刻みこもうとする。

岸の上では,光線

(rayon)

が再びすべての建築物を,それらの一般 性の中に沈めながら,消えてしまった。高慢な沈黙が,この無力なさざ めきのうえに,バラ色のレンガとなって聳え立つ。遠くで汽笛が鳴り,

(20)

それも消える。これこそまさに,旅行者むけの一枚の絵画

(tableau)

だ。

すなわちそれは<生成>

(Devenir)

に縁取られた<永遠性>

(Éternité)

であり,物質のうえを夢想している,知性によってのみ認識される

<世界>

(Monde)

なのだ。私の窓の下で,まだ少し耳障りな音がする

が,たいしたことではない。沈黙がその凍った鎌であらゆる騒音を刈 り取ってしまったのだ。ヴェネチアでは沈黙が目に見える。それはも う一つの岸からの

(Autre Rive)

無言の挑戦なのだ。突然,あらゆる海 の行列が溺れ,水は夢のようになり,一貫したものではなくなる。今 やそれは平らになって,私は無気力でできた巨大な束のうえに屈み込 む。水が自らを取り巻くいくつもの邸宅の死後硬直に嫉妬しているか のようだ。警戒心の強い空は,天球から再び降りては来なかった。そ れで,この偽りの死んだ女は岸の間で,緑になり青ざめる。すでに私 は,右手で,ダリオ館の青白い反映が生まれるのを見るのだ。私はま た目をあげる。すべては再び同じ様になった。私には,頑丈な重苦し

い現存

(présence)

が必要だ。私はガラスのうえに描かれた,これらの

手のこんだ羽毛のような外観を前にして,自分がからっぽになるのを 感じる。私は外に出る。

( r. A p.200 )

以上からもわかるように,これらふたつのヴェネチアをめぐるテキス トを決定的に分かつものは,著者自らが,そのタイトルに付したように,

「ヴェネチア,私の窓から」とされているところの, 窓 という固定した 視点の導入であり,これはまたヴェネチアそのものを額縁に嵌め込む

(encadrement)

という一つの操作によって,ノートや草稿においては絶え

ざる振動として,それを捕らえようとする<視線>と<言葉>を巻き込み,

また意識のレヴェルにおいては<ねばねばしたもの>という反価値の姿を とってこれを転覆させようとし,またイマージュそのものとしては,常に 次から次へと増殖しては最終的にすべてを飲み込んで,全体像を消滅へと 導く,ヴェネチアと 水 の持っていた<狂気>を,テキストのレヴェル で分節化して,見られている 水 が形成する無数のイマージュの連鎖と 変形を,これを見ているほうの<視線>が被るさまざまな<罠>として置 き換えることによって,実は同種の危機を内に孕みながらも,無限に反転 する<視線>に対しての<イマージュ>の脅威を言語のレヴェルに回収し ようとする過程を示しているように思われる。これは,運河の持つ作用 が,<視線>に対して 他なる

(Autre, autre)

向こう岸を形成して こ

(21)

(ici)

から切り離すものでありながら,同時にそれが,一見これをむす びつけるように見せる 罠

(piège)

でありまた 仕掛け

(dispositif )

で あると捕らえなおされていることからも明らかなように,ここに描かれた ヴェネチアは, 他 という別の新たなる脅威に満ちたものとして,見事 に作り直され,これに加えて 窓 という<内>にいながら<外>を対象 化することを可能にする<視点>の採用によって,額縁の中におさめられ た絵画に匹敵するような,テキストのうえでの一種の<絵画性>を獲得す るのである。

しかし,ここで気をつけなければならないことは,こうして試みられ た<絵画性>とは,<視線>を常に 罠 にかけ続けるヴェネチアという 場所を,今度は<視線>自体が同じような 罠 や 仕掛け によってと らえようとして作られた,一種の<だまし絵>

(trompe-l’œil)

なのであ り,これはすなわち,それ自身に常に幻想を与え続けるヴェネチアへ の,<視線>のひとつの復讐,あるいは,<イマージュ>への報復ともい うべき類いのものなのである。これはもはや,以前の<水の狂気>に巻き 込むヴェネチアではなく,<眼>から距離を保ったところに位置する,

<だまし絵>における対象としてのヴェネチアを,言語による一つの肖像

(figure)

をもった 幻想 として書くということが敢えて選ばれたという

ことであり,そこではかつて<夢の思念>にも喩えられていたような,

果てしなく繰り返される形成のなかにあり,常に仕上がることはなく といわれた<水の思念>のもつ,欲望の無定形で無限の反復からは完全に 距離がとられている。そしてこれはまた, 言葉 を飲み込んでしまう 様々な 幻想 との訣別の予兆でもあり,同時にそれはもうひとつの別の

(Autre)

という領域の生み出す, 装置 や システム という 罠

に満ちた世界との新たなる戦いの始まりでもあったのではないか。

それをまさしく暗示するかのように,「ヴェネチア,私の窓から」の末 尾においては,この窓からとらえられた<だまし絵>としてのヴェネチア からさえも脱出しようとする 意志 が現れている。このテキストの最後 に置かれた

“Je sors”

という一言は,絶えず付き纏っては離れぬ,解体と 沈下の狭間にあるヴェネチアの引き起こす,<死>や<時間>,<老い>,

<忘却>,そしてかつてそれにとりつかれていた<狂気>に彩られた,視 線と思念を巻き込むイマージュの持つ脅威と幻想を断ち切る一つの選択で あるのだが,<ねばねばするもの>という存在関係の持つ脅威が,実は 私自身 であるのと同様に,このように書かれては破棄され,そしてま

(22)

た作り直されたヴェネチアという名の幻想は,恐らくは,サルトルの意識 を常に襲い続けたもののひとつの姿であり,それを乗り越えるために,こ れ以降,サルトルが選択し,また書き進めたテキストを見直して行くため にも,このふたつの,白濁した 水 に喩えられる幻影に満ちた断片群 と<だまし絵>である短いテキストは,ひとつの貴重な証言となるのでは ないかと思われるのである。

本文中,引用において用いられる略号は以下のとおりである。

r. A = La reine Albemarle ou le dernier touriste

(Gallimard, 1991) 尚,本テキストに,Venise, de ma fenêtreも収録されているので,ここでは,そ ちらの頁表示に拠っている。

1) イタリアに関して計画された本がありながら,放棄されたことは,シモーヌ・

ド・ボーボワールの証言を引用しながら,以下の資料においても言及がある。

M. Contat, M. Rybalka, Les Écrits de Sartre, pp. 248-249 2) r. A Présentation, II

3) S. de Beauvoir; La Force des choses, Gallimard, coll. blanche, 1963 4) r. A p.112

5) これについては,『嘔吐』にも現れている 蟹 のイメージの例もあり,それ がサルトルの幼少期の記憶にもさかのぼることは『言葉』(Les Mots, 1964 pp.125-126) を参照。

6) r. A p.108 7) Ibid. p.95 8) Ibid. p.106 9) Ibid. p.93

10) L’être et le néant, Gallimard, 1943, renouvelé 1970 p.672

11) オジーブとは建築学上の用語で,この場合は円から作りだされる半円アーチに 対しての 尖頭アーチ を意味していると考えられる。

12) r. A p.78 13) Ibid.

14) Ibid. p.80 15) Ibid. p.84 16) Ibid. p.87

(23)

17) Ibid. p.90 18) Ibid. p.92

19) L’être et le néant, pp.670-673 20) r. A p.96

21) Ibid. p.98 22) Ibid. p.93 23) Ibid. p.101 24) Ibid. p.140

25) L’être et le néant, pp. 437-439 26) r. A p.111

27) Ibid. p.140

28) La Nausée, Gallimard Pléiade p.22, p.39 29) r. A p.113

30) Ibid.

31) L’imaginaire, Gallimard folio/essais 1940, 1986 pp.223-224邦訳『想像力の問 題』(平井啓之訳pp.158-159)

32) r. A p.194 33) Ibid. p.195

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