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井田洋子

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(1)

政教分離に関する判例研究(Ⅰ)−いわゆる目的効果基準を中心として−

井田洋子

目次

Ⅰはじめに

Ⅱわが国における目的効果基準の態様 1.最高裁判決の場合

(1)津地鎮祭最高裁判決

(2)自衛官合祀訴訟最高裁判決 2.下級審判決の場合

3.わが国における目的効果基準の特色(以上本号)

Ⅲアメリカにおける目的効果基準の態様

Ⅳ目的効果基準の再構成 1.政教分離原則の捉えかた

(1)従来の議論

(2)国家の世俗性と中立性 2.日的効果基準の適用範囲 3.日的効果基準の適用方法

Ⅴおわりに

I はじめに

よく知られているように,近代国家の歴史的発展過程を宗教との関連にお

いて辿るならば,それは端的にいって,宗教からの国家権力の漸次的な自立

化であり,したがって国家が自らの正当性根拠を宗教にではなく,国民主権

(2)

とか基本的人権の尊重などといった世俗的価値の実現にみいだしていく過程 として,把握できるであろう。かくして,近代国家の発展にともない,宗教 は,個々の国民にとっての極めて私的な領域に所属する事柄として措定され るとともに,宗教に国家が干与することは忌避されるべき行為として堅く禁 じられるに至った, といってよい。現在各国で,国家の最高法規である憲法 に,信教の自由や政教分離(国家と宗教の分離)の規定が,いかなる国家権 力をもってしでも侵すことのできない基本権として保障されているのも,そ の意味で偶然では決してない。それにしても,国家と宗教との関係には,各 国それぞれに固有の歴史が存する。現に政教分離原則を採用していない国(た とえばイスラム諸国など)もあれば,政教分離を承認している場合でも,国 によってその歴史的背景や現実の態様などは,千差万別といっても過言では ないほどまでに多様である。

わが国においては, とりわけ明治維新以降の段階では 国家神道"という

名の宗教が,天皇制を支える格好の基盤として強調され,それは国教として

の地位すら保障されてきたのであった。その結果, 国家神道"以外の宗教

を信じる者あるいは無神論者と目された人びとは,無惨にも国家権力による

迫害をまぬがれることができず,極端な場合には,死にまで追いやられるこ

とさえ珍しくなかったという事実は過去の歴史が示すところである,といっ

ても誇張ではないであろう。そうした悲惨な過去の歴史に引照することによ

って,日本国憲法がその

20

条と

89

条において信教の自由および政教分離の規

定を定めていることについては,もはや一般的な常識に属する事柄とさえい

えよう。すなわちそこでは,第

20

l

項で宗教への特権付与が禁止され,ま

た同

3

項では国による宗教活動の禁止が定められるとともに,さらに第

89

で財政面からの宗教にたいする援助の禁止を規定しているわけである。この

ような詳細な諸規定によっても明らかなように,わが国の採用した政教分離

原則は,比較法的にみても,国家と宗教との完全な分離を定めたものとして

評価されているのである。いずれにせよ,わが国における政教分離の問題を

考察する場合,国家権力によって信教の自由が迫害されてきたという過去の

事実を不断に,念頭にとどめておくことこそが肝要であると思われる。

(3)

にもかかわらず,戦没者遺族会の要望に応じるという理由づけによる,自 民党の靖国神社国営化法案の提出や,首相の靖国神社への公式参拝などから も察知できるように,忌わしき戦前への復帰を思わせるかのような不穏な動 きが顕著にみうけられる。それどころか,

1989

年の出来事として記憶に新た な天皇の死去と,その代替わりにともなう行事一大喪の礼と大嘗祭ーに おいては,前者は国家の主催のもとに,後者は皇室の行事にたいして国費を 支出するといったかたちで挙行された。両者が従前明らかに,宗教的行事と しておこなわれてきたという実績が厳然として存在するにもかかわらずであ る。これらの行事に際しては,国民のみならず,近隣諸国をも巻き込んで大 論争が提起されたことは改めて説くまでもないだろう。そればかりではない。

文部行政の分野においてもまた,教科書が検定制度の名によって書き替えら れ,戦後初めて公式に軍国主義を支えた人物(東郷平八郎)が登場するに至 ったこと,あるいは 日の丸"および 君が代"がそれぞれ正式な国旗およ び国歌として認定されたことなどは,およそ政教分離原則に照らすならば,

徒らに見過ごすことのできない深刻な事態である,といわねばならないであ ろう。そうして事実,上述したような一連の動きにたいして,危機感を抱く 国民から近年,政教分離をめぐっての多様な裁判が提起されている。他方,

政教分離原則にかんする最初の最高裁判決(津地鎮祭最高裁判決)において,

目的効果基準"と呼ばれる基準が適用されてより以降,一般に政教分離が 争点となる諸事件においては,裁判所がこの 目的効果基準"を適用して審 査をおこなうのが大勢となっている感が深い。

ところで,いうところの 目的効果基準"とはなにか。上述の最高裁判決 によれば,憲法2 0 条 3 項において,国およびその機関に禁止されている宗教 的活動の意味する内容は,宗教と関連する国家行為のうち,

I

当該行為の目 的が宗教的意義をもち,その効果が宗教に対する援助,助長,促進又は圧迫,

干渉等になるような行為をいう」とされる部分を指すもの,と解釈されてい

る。つまり,同最高裁判決は当該基準を,国家と宗教との相互関係を前提に

したうえで,その両者のかかわりあいの程度が憲法に違反するかどうかを判

断するための基準として用いたのである。さらにそれは,国およびその機関

(4)

の行為の目的・効果を具体的に判断するにあたっては,

I

当該行為の外形的 側面にのみにとらわれることなく,当該行為の行われる場所,当該行為に対 する一般人の宗教的評価,当該行為の一般人に与える効果,影響など諸般の 事情を考慮、し,社会通念にしたがって,客観的に判断しなければならない」

とも述べたので、あった。

このような 目的効果基準"は,国家と宗教との関連性を先験的に認めて いる点において,政教分離原則にたいする誤った解釈といわねばならず, し たがって政教分離原則を不当に緩和する違憲解釈基準であるとの理由からし て,学界から激しい批判を浴びたのであった。ところがその後,下級審にお いて当の基準を適用しつつ,むしろ逆に,憲法違反の判断を導こうとするよ うな判決がいくつか現れてきている。同じ基準が正反対の判決をもたらすと いう奇妙な現象は,結局のところ,基準それ自体から由来するというよりも,

判決の前提となる政教分離原則についての解釈をめぐって,相互に意見の対 立がみられるという事情に主として起因するものといえるのではなかろう

か 。

いずれにしても,学界においては近年,下級審の場合と同様に,この基準 を積極的に評価しようとする見解が出され,一方では,政教分離原則の解釈 はどうあるべきかといった原則的な課題に取り組むとともに,他方ではまた 目的効果基準"についても,その内容に一定の修正を加えることによって,

基準を現状適応的なものに組み替えようとする動きがみられる,というのが 議わらざる現況なのである。

そうした状況を射程に入れながら,本稿では,これまでに 目的効果基準"

が適用されてきた判決を総合的に検討し当該基準がどういう役割を現実に 果たしてきたか,あるいはまた,それをどのように評価すべきか,さらに,

この基準は果たして政教分離原則違反の判定基準として有用なものとみなし うるか否か,の諸点について筆者の見解を提示したいと考える。

(1 ) 

この点については,さしあたり相沢久『現代国家における宗教と政治』勤草書房,

1966

(5)

を参照せよ。

(2) 

最高裁大法廷判決

1977

7

13

日,民集

31

4

533

頁,判時

855

24

頁 。

(3) 

この点については後註(

8)

を参照されたい。

4) 

箕面忠魂碑訴訟第一審判決(大阪地判

1982

3

24

日,行裁例集

33

3

564

頁),愛 媛県玉串料訴訟第一審判決(松山地裁判決

1989

3

17

日,判例時報

1305

26

頁),岩手 県議会靖国神社公式参拝議決損害賠償代位訴訟及び靖国神社玉ぐし料等支出損害賠償代 位訴訟控訴審判決(仙台高裁判決

1991

1

10

日,判例時報

1370

3

頁),などがある。

また一部違憲の判決としては,長崎忠魂碑訴訟第一審判決(長崎地裁判決

1990

2

20

日,判例時報

1340

30

頁)が挙げられる。

(5) 

たとえば次の諸文献を参照。平野武「岩手靖国訴訟仙台高裁判決をどうみるか」法学 セミナー

No

. 4

37

16

頁,小林武「政教分離違反の審査基準に関する解釈論的覚え書き」南 山法学

12

4

号(1

989) 1

頁以下,百地章「政教分離解釈の方法をめぐって」宗教法

8

号(1

989) 42

頁以下,百地章「政教分離解釈をめぐる若干の問題点」愛媛法学

14

1

2

合併号

83

頁以下。

わが国における目的効果基準の態様

1.最高裁判決の場合

最高裁が政教分離原則にたいする独自の解釈を初めて示したのは,前述し た津地鎮祭判決においてであり,その後の最高裁判決としては,

1982

年の自 衛官合間訴訟大法廷判決が存在するだけである。結論を先取りして述べれば,

両判決とも,政教分離原則を信教の自由を保障するための手段として捉え,

信教の自由を侵害しない限度内において,国家が宗教とかかわりをもつこと は許される,との見解を採用した点では全く軌をーにしている。加えて両判 決とも,係争点となっている国および地方公共団体の行為が, 目的効果基 準"に照らして政教分離原則に違反しないとの見地から,下級審の判決を覆 した点においてもまた共通している,といってよい。それだけに,新聞をは じめとする世論の反響も当然に大きかったといえる。最高裁の判決が実際上,

その後の下級審の判決に影響を及ぼすことは衆目の一致して認めるところで

あるが,そのような最高裁判決の強力な波及効果を考えるとき,この両判決

のもつ意味は,計り知れないほどまでに大きいものがあったように思われる。

(6)

以下では,両判決について,それぞれの政教分離原則の捉え方,および 目 的効果基準"の内容‑別して

(a)

基準が適用された場面,

(b)

目的審査,

(c) 

効果審査の 3点ーに的を絞り,それらを個別的に検討することにしよう。

(1) 

津地鎮祭最高裁判決

この事件は,津市が体育館の起工にあたり,神社神道の儀式に則った地鎮 祭を挙行し,市の公金をその費用として支出したことが,憲法2 0条 3項およ び

89

条に違反するかどうかをめぐって争われたものである。第一審判決は,

本件地鎮祭が外見上は神道特有の儀式にみえようとも,その実態は厳密には 宗教的行事というよりも習俗的行事というべきものであるから,なんら憲法 に違反しないとして,津市にたいする原告の損害賠償請求を棄却した。第二 審の名古屋高裁では,まず憲法2 0条のいう宗教の定義づけがおこなわれ,そ の概念規定に照らして同高裁は,神社神道を馬路なく宗教と断定したのであ る。またそれは,第一審の触れなかった政教分離原則の意義についても言及 している。それによれば,政教分離原則の目的は,第 lに「信教の自由に対 する保障を制度的に補強し確保する」こと,第

2

に「国家と宗教との結合に より国家を破壊し宗教を堕落せしめる危険を防止すること」に求められる べきであるとされる。さらに同高裁は正当にも,

r

信教の自由は,政教分離 なくして完全に確保することは不可能である」と述べ,この原則にたいする

「侵害の有無は,憲法

20

2

項の宗教の自由侵害の有無とは異なり,個人に 対する『強制』の要素を必要としなし、」こと,国の宗教的活動を「大部分の 人の宗教的意識に合致」するか否かというような,多数決論理で処理する考 え方は許されないこと,などといった注目すべき見解を表明している。そう

してまた,宗教的行事か習俗的行事かの区別について, (イ)当該行為の主催

者が宗教家であるかどうか,

(1

ロ)当該行為の順序作法(式次第)が宗教界で

定められたものかどうか, (;~当該行為が一般人に違和感なく受け入れられ

る程度に普遍性を有するものかどうか,という 3基準を積極的に提示したう

えで,これらの基準に照らした場合,津市によってなされた行為は明らかに

憲法2 0条 3項に違反する,との認定を下したのであった。この名古屋高裁に

よって示された判決は,宗教の定義,政教分離原則の解釈,さらに宗教的行

(7)

事か習俗的行事かの判定基準など,いずれの点においても,注目に値する論 理内容を展開している。この判決が多くの論者によって,しばしば採用ない

し参考にされているのも単なる偶然では決してないといってよい。

ところで,その名古屋高裁判決の判旨をことごとく覆したのが,判例にお ける目的効果基準採用の契機となった最高裁判決にほかならない。それでは,

最高裁の提示した論拠はどのようなものであったか。その判旨(多数意見) の概要を示すならば,それは,およそ以下のとおりである。

政教分離規定は「国家と宗教との完全な分離を理想とし国家の非宗教性な いし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである白しかしながら,

元来,政教分離規定は,いわゆる制度的保障であって,信教の自由そのもの を直接保障するものではなく,国家と宗教との分離を制度として保障するこ とにより,信教の自由を間接的に確保しようとするものである」。とはいえ

「現実の国家制度として,国家と宗教との完全な分離を実現することは,実 際上不可能に近いものといわなければならない。…政教分離原則を完全に貫 こうとすれば,かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免 れない…。これらの点にかんがみると,政教分離規定の保障の対象となる国 家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れ」ない,とい わねばならぬ。要するに最高裁の見解によれば「政教分離原則は,国家が宗 教的に中立であることを要求するものではあるが,国家が宗教とのかかわり 合いをもつことを全く許さないとするものではなく,宗教とのかかわり合い をもたらす行為の目的及び効果にかんがみそのかかわり合いが右の諸条件に 照らし相当とされる限度を越えるものと認められる場合にこれを許さないと するものであると解すべきである」とされたわけである。

そこで,以上のような視点に立って津地鎮祭を検討するかぎり,

I

一般人 及びこれを主催した津市の市長以下関係者の意識においては,これを世俗的 行事と評価し,これにさしたる宗教的意義を認めなかったものと考えられる。

…その目的は建築着工に際し土地の平安堅固,工事の無事安全を願い,社会 の一般的慣習にしたがった儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ」

る,と解すべきであるとの結論が導かれるよりほかなかった。それどころか,

(8)

さらに最高裁は次のようにも述べたのであった。すなわち「多くの国民〔に〕

は…宗教意識の雑居性が認められ,国民一般の宗教的関心度は必ずしも高い ものとはいいがたい。他方,神社神道自体については,祭最

E

儀礼に専念し,

他の宗教にみられる積極的な布教‑伝道のような対外活動がほとんど行われ ることがないという特色がみられる。このような事情と前記のような起工式 に対する一般人の意識に徴すれば,…たとえ専門の宗教家である神職により 神社神道固有の祭柁儀礼に則って,起工式が行われたとしても,それが参列 者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず,こ れにより神道を援助,助長,促進する効果をもたらすことになるものとも認 められない」と。

こうした最高裁判決にたいしては当然、のことながら,当の最高裁内部にお いて,無視しがたい対立的見解が提示された。その少数意見の概要を紹介す るならば,それは大要以下のとおりである。

「政教分離原則は,国家と宗教との徹底的分離,すなわち,国家と宗教と はそれぞれ独立して相互に結びつくべきではなく,国家は宗教の介入を受け ずまた宗教に介入すべきではないという国家の非宗教性を意味するものと解 すべきである

Jo

[""多数意見のいう国家と宗数とのかかわり合いとはどのよう な趣旨であるのか必ずしも明確でないばかりでなく,そのかかわり合いが相 当とされる限度をこえるものと認められる場合とはどのような場合であるの かもあいまいであって,政教分離原則を多数意見のように解すると,国家と 宗教との結びつきを容易に許し,ひいては信教の自由の保障そのものをゆる がすことになりかねないという危倶をわれわれは抱かざるをえないのであ る。なお,われわれのような国家と宗教との徹底的な分離という立場におい ても,多数意見が…社会の多方面に不都合な事態が生ずることを免れないと して挙げる例のごときは,平等の原則等憲法上の要請に基づいて許される場 合にあたると解されるから,なんら不合理な事態は生じないのである

Jo

[ " "

教上の祝典,儀式,行事等は宗教的信仰心の表自の形式であり,国又はその

機関が主催してこれらを行うことは,多数意見のようにその及ぼす効果のい

かんを問うまでもなく,前述の政教分離原則の意味する国家の非宗教性と相

(9)

容れないことは明らかであるからである

Joi

習俗的行事化しているものであ ってもなお宗教性があると認められる宗教的な習俗的行事は

J

,憲法

20

3

項により「禁止される宗教的活動に当然、含まれると解すべきである」。

要するに,最高裁の多数意見は,本件地鎮祭が宗教に関係をもっといった 事情は一応視野に収めながらも,なおかっ

(a)20

3

項に規定する国家が宗 教的活動の主体となった場面において,いわゆる目的効果基準を用い,まず

(b)

目的審査においては,建築着工に際し土地の平安堅固とか工事の無事安 全を願うという世俗的目的を認め,さらに

(c)

効果審査については,一般人 の社会通念にしたがえば,市が地鎮祭を挙行することは特定の宗教を援助・

助長・促進・抑圧するものではないと解釈して,その宗教的効果を否定し,

かくて最終的には地鎮祭は宗教的活動というよりも,むしろ習俗的活動とし て位置づけられるべきである,と断定したのである。これにたいして最高裁 の少数意見は,国家と宗教との徹底的な分離という政教分離原則の解釈に依 拠して,地鎮祭はその効果を問うまでもなく憲法

20

条に違反する,との見解 を示したものといえよう。

いずれにせよ,この最高裁判決の多数意見に内在する無視しがたい問題点 は,まぎれもなく,その政教分離原則の理解のしかたにあるといえよう。そ もそも多数意見は,日本国憲法への政教分離原則導入の意義・目的について は,これを明治維新以降の国家と神道との密接な結びつきが種々の弊害をも たらした過去の歴史に鑑みて,国民にたいし信教の自由を絶対的に保障する とともに,さらにその保障を一層確実にするために導入したものであるとし ている。そればかりか,多数意見は,

i

元来,わが国においては,キリスト 教諸国や回教諸国等とは異なり,各種の宗教が多元的,重層的に発達,併存 してきているのであって,このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に 実現するためには,単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず,国 家といかなる宗教との結びつきをも排除するため,政教分離規定を設ける必 要が大であった」とも,述べている。こうした最高裁の多数意見の認識は,

名古屋高裁判決や最高裁少数意見の説く政教分離原則の意義や,わが国にお

いて政教分離が必要とされる歴史的事情についての綿密な考察と比較対照し

(10)

た場合,それほど隔たりがあるものとはみなしがたい。加えて,政教分離原 則の性格を制度的保障と解する点においては,多数意見と名古屋高裁判決や 少数意見との聞になんらの差異もなく,また学説においても,同様の見解が 多数説として承認されているのも事実である。にもかかわらず,多数意見が 結論において,名古屋高裁判決や少数意見と大きく議離した要因は,多数意 見が政教分離原則の貫徹を単なる理想論に祭りあげてしまったことや,わが 国における宗数意識の雑居性あるいは宗教的多重性といった特色を強調する ことによって,結果的には,現状追随的に,国家と宗教とは一定限度内であ れば,かかわりあいをもつことも許されうる,という「相対的分離論」に退 却してしまったこと,などにあると思われる。要するに,多数意見の主張す る「相対的分離論」は,当初正当にも,それ自身が的確に認識していた当該 原則の意義・目的の貫徹を自ら放棄しているに等しい論理である,といわね ばならない。そうだとすれば,名古屋高裁判決や少数意見が力説する論理 一一わが国の宗教意識の雑居性あるいは宗教的多重性のゆえにこそ,むしろ わが国では「完全分離論」をとらねばならないという論理一ーの方が,遥か に説得力をもっと断定しでも差し支えないのではなかろうか。してみれば,

最高裁判決と同様に政教分離原則を制度的保障と解する立場に立つ論者から も,ただ制度的保障ということだけから当然に「相対的分離論」が導き出さ れるわけではない,との指摘がなされるのも,十分首肯できる事柄といわね ばならないであろう。いずれにせよ,国民の宗教的多重性をどう評価するか ということは,のちの政教分離原則について審査した下級審判決においても,

その結論を左右するほど重要なポイントとなっているのである。

ここで,本稿の主題である目的効果基準との関係で述べれば,とりわけ次 の諸点が問題となるだろう。

第 lは ,

(a)

基準が適用された場面についてである。

憲法の規定に従うならば,政教分離原則違反に当たる行為としては,大別

すれば,

(1)

国教の樹立および特定の宗教にたいする特権の付与(憲法

20

l

項後段),

(2)

国および地方公共団体のおこなう宗教的活動(憲法

20

3

項 ) ,

(3)

国および地方公共団体が宗教性を有している組織にたいして財政的

(11)

援助をおこなうこと(憲法

89

条),の

3

つの行為に分けられる。そしてこれ ら

3

者は,実質的には,

(1)

国家が宗教に間接的にかかわる行為(憲法

20

1

項後段および憲法

89

条)と, (1I)国家が自らおこなう宗教的行為(憲法

20

条 3項)との 2つに,分類できるように思われる。

いま上述の

2

分類に照らして吟味してみるならば,最高裁においては,

(TI)が問題とされる場面で当該基準が適用されていることになる。これにた いし,当該基準の固有のモデルとされているアメリカでは,国家および公的 機関の宗教にたいする援助をめぐっての,違憲判断の審査基準として,すな わち原則的に

(1)

の場面で目的効果基準が用いられるにとどまっている。だ からこそ最高裁の援用した目的効果基準説にたいして,

r

目的効果基準を,

その正当な登場場面でないところで用いたもの

13)

であるとか,

r

目的効果論

を使うべき前提条件が欠加している

14)

などといった手厳しい批判がなされる わけである。要するに,多数意見には,国家が宗教的領域に関与することが 許されるのかどうか, という本来質の問題であるべき政教分離原則を,無謀 にも程度の問題として捉えるという看過しがたい誤謬が存する,といわねば ならない。第

2

の問題点は,

(b)

目的審査の内容についてである。ここで目 的という場合,第一義的には行為者の主観的なそれを指すであろうが,だか らといって,行為者の主張を鵜呑みにする判断の仕方では,到底審査の意味 をなさないであろう。およそ目的審査というからには,行為者の主観審査に 止どまらず,さらにその行為にたいする第三者の評価(=客観的目的)をも 判断すべきではなかろうか。そしてその際,行為の目的を,宗教的目的か世 俗的目的かのいずれかひとつに収数しうるかどうか,という点もまた同時に 考慮されて然るべきであろう。

3

に ,

(c)

効果審査に関しては,上述した日本人の宗教感情の特殊性(宗

教意識の雑居性あるいは宗教的多重性)を根拠にしたうえで,ほかならぬ政

教分離原則を一般人の意識,ないし「社会通念」という客観性に欠ける漠然

たる基準で判断した最高裁(多数意見)の姿勢そのものが問われねばならな

い。ともあれ,もはや明らかになったであろうように,多数意見は,政教分

離原則を信教の自由の保障という目的のための手段であると解することによ

(12)

って,国家が宗教に一定限度において関与することを正当化しているとみて よい。そして多数意見は,そのかかわりあいの限度を見極めるにあたって,

社会通念という極めて漠然とした, しかも多数決論理に通じるともいえる基 準をもち出しているのである。しかしながら,このような判断基準を採用す ることは,当の多数意見をして,当該原則の本来の目的であり,かつまた信 教の自由保障の核心ともみるべき少数者の宗数の自由を侵害する,という皮 肉な結果を招くことにもなりかねないのではなかろうか, と危倶される。こ の点からしでもまた,少数意見が主張する「政教分離原則を多数意見のよう に解すると,国家と宗教との結び、つきを容易に許し,ひいては信教の自由の 保障そのものをゆるがすことになりかねなし、」という見解は,まさに正鵠を 射ているというべきであろう。

(註)

(5)  1988

6

1

日最高裁大法廷判決,判例時報

1277

34

頁,判例タイムズ

669

66

頁 。

(6)  1967

3

16

日判決,行裁例集団巻

3

246

頁,判例時報

483

28

頁 。

(7)  1971

5

14

日判決,行裁例集

22

5

680

頁,判例時報

630

7

頁 。

(8)

津地鎮祭最高裁判決に対する批判は,この点に収散するといってよいと思われる。本 判決にたいする評釈としては,たとえば次のような諸論考が挙げられる。佐藤功「地方 公共団体による神道式地鎮祭の違憲性」宗教判例百選,同「地鎮祭違憲判決について」

ジュリスト

484

号,小林直樹「地鎮祭問題と信教の自由」法律時報

49

11

号,小林孝輔「地 鎮祭と政教分離の原則

J

憲法の判例く第三版>,森省三「神道,地鎮祭と政教分離の原則」

別冊ジュリスト憲法判例百選

1

(第二版),和田英夫「政教分離の法理と風土」法学セミ ナー

270

号,横田耕一「津地鎮祭違憲訴訟上告審大法廷判決」昭和

52

年度重要判例解説(ジ ュリスト

666

号),同「地鎮祭と政教分離の原則(津地鎮祭訴訟)

J憲法の基本判例,熊本

信夫「市が挙行した神社神道式の市体育館起工式(地鎮祭)は憲法

20

3

項の規定に違 反するか」判例時報

637

号,滝津信彦「政教分離原則に関する一考祭

ω

的一一津地鎮祭 事件最高裁判決をめぐって」北九州大学法政論集

6

1

2

号,新田光子「国家と宗教 の分離一一日本の相対的分離主義批判」龍谷法学

1980

13

3

号 。

(9) 

たとえば,一方では最高裁のいう憲法の政教分離原則にたいする理念,および信教の

自由の絶対性については評価しつつも,他方では,それがその前提と矛盾するような結

論を導いている,といった批判がなされている。この点の詳細については,高柳信一「国

家と宗教一一津地鎮祭判決における目的効果論の検討」法学セミナー別刊『思想・信仰

(13)

と現代J],日本評論社,

1977

年 ,

10

頁を参照されたい。

。 政教分離原則の位置づけについては,これを大別すれば,

(A)

信教の自由の制度的保障 として捉える立場(通説的見解),

(B)

信教の自由そのものとして把握する立場(人権説), 

( c ) 厳格な意味での制度的保障とも,かつ人権とも異なった原則とみなす立場,との

3

つ に区分することができるであろう。この点,さしあたり笹川紀勝「信仰の自由と政教分 離の関係」ジュリスト

771

31

頁,横田耕一「国家と宗教

JLaw School

19

81‑82

頁 , 戸波江二「制度的保障の法的性格」芦部信喜先生還暦記念『憲法訴訟と人権の理論J]

530 

頁以下をみよ。

(11) 

さしあたり井門富二夫,伊藤正己,橋本公亘,古田光「津地鎮祭違憲訴訟事件大法廷 判決について」ジュリスト

648

53

頁をみよ。

(12) 

最高裁による,わが国における宗教的多重性の評価にたいする批判は,相当根強いも のがあるといえる。この点,たとえば,飯坂良明・今村嗣夫・西川重則・村上重良

n

重信仰」と少数者の人権 津地鎮祭違憲訴訟"中央集会から』法学セミナー

1977

1

月 号

8

頁 。

(13) 

浦部法穂『憲法学教室

1

  ] J

172

0

(l~

高柳信一前掲

(15)

熊本信夫「津地鎮祭最高裁判決について」ジュリスト

648

号 ,

48

ページ。

。 社会通念の概念に関して,これを多数者とほとんど同義語であるとする見解のほか,

多数者とあえていわなかったことに留意すべきだ,とする意見もある。詳細については,

滝沢信彦「政教分離の原則と「社会通念

JJ

宗教法

8

号(1

989)24

頁以下,同「靖国神社 公式参拝と政教分離の原則」北九州大学法政論集,第

15

4

57

頁以下を参照。

(2) 

殉職自衛官合問訴訟最高裁大法廷判決

1977

年のそれにつぐ最高裁判決であるばかりでなく,さらに,政教分離原

則はもとより信教の自由そのものの中身が問われたものとして,注視するに

値する。ところで,その事案の概要を示すならば,それは大要次のとおりで

ある。原告は殉職した自衛官の妻(キリスト教信者)であるが,この原告の

反対にもかかわらず,隊友会山口県支部連合会(民間団体)が自衛隊山口地

方連絡部(行政庁)の協力をえて,原告の夫を県護国神社に合組申請しそ

の結果合杷が断行された。こうした不本意な事態の出現にたいし,原告は信

教の自由が侵害されたこと,および合租申請行為が憲法2 0 条 3 項にいう「宗

教的活動」禁止に違反することを主たる理由に,損害賠償請求と合柁申請の

(14)

取消しとを訴えたわけである。

第一審判決は,この訴訟問題を,自衛官の妻の信教の自由と隊友会山口県 支部連合会のそれとの衝突の問題として捉え,政教分離原則については格別 言及していないけれども,少なくとも「静議な宗教的環境のもとで信仰生活 を送るべき法的利益=人格権」が信教の自由の l要素であることを,容認す るのに菩かではなかった。それと同時に,一審判決は合紀申請について,こ れを隊友会山口県支部連合会(民間団体)と自衛隊山口地方連絡部(行政庁)

(以下では地連と略記)の共同行為とみなし,当該行為が合間の前提として 機能したかぎり,それは基本的に宗教的意義をもつばかりか,さらに県護国 神社の宗教を助長,促進する行為であるから,憲法20 条 3 項に違反する「宗 教的活動」に該当し, したがって私人との関係においては違法行為になる,

との見解を表明したのである。この判決は,明示的には目的効果基準に触れ てはいないけれども,津地鎮祭訴訟最高裁判決を十分に意識して判断を下し ているように思われる。なお,控訴審もほぼ同趣旨の判断を示している。

それでは,本件について最高裁は,どのような判旨を提示したであろうか。

その内容は下記のとおりである。(ここでの引用は,もっぱら政教分離原則 および目的効果基準について言及されている部分にのみ限定することにした

︑ ︑ . ︐ ノ

︑ ︑

BV

多数意見によれば「本件合問申請は,実質的にも県隊友会単独の行為であ ったというべく,これを地連職員と県隊友会の共同行為と」解釈することは できない。「合組申請という行為は,…宗教とかかわり合いをもっ行為であ るが,合柁の前提としての法的意味をもつものではない」のであり,

r

地連 職員の具体的行為は,その宗教とのかかわり合いは間接的であり,その意図,

目的も,合組実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気高揚を図ること にあったと推認されるから,どちらかといえばその宗教的意識が稀薄であっ たといわねばならないのみならず,その行為の態様からして,国又はその機 関として特定の宗教への関心を呼び起こしあるいはこれを援助,助長,促 進し又は他の宗教に圧迫,干渉を加えるような効果をもつものと一般人か

ら評価される行為とは認めがたい」。

(15)

「なお,憲法2 0条 3項の政教分離規定は,いわゆる制度的保障の規定であ って,私人に対して信教の自由そのものを直接保障するものではなく,国及 びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を 制度として保障することにより,間接的に信教の自由を確保しようとするも のである。…この規定に違反する国又はその機関の宗教的活動も,…私人の 信教の自由を制限し,あるいは…憲法が保障している信教の自由を直接侵害

しないかぎり,私人に対する関係で当然には違法と評価されなし、」。

これにたいし少数意見にしたがえば,多数意見の目的効果基準についての

見解は,たしかに「抽象的には正しいものといえ」るが, しかし「憲法2 0 条

3

項がわが国における過去の経験を踏まえて国家と宗教との完全分離を理想

としたものであることにかんがみると,この基準を国に禁止されている宗教

的活動の範囲を狭く限定するよう適用することは,憲法の趣旨を没却するお

それがあ

J

る。のみならず「わが国では宗教意識の雑居性もあって国民一般

の宗教への関心は高くなく,信教の自由への鋭敏な感覚に欠けるところがあ

る。このことから政教分離をゆるめてよいことにはならず,むしろそれだけ

政教分離の原則に忠実であることが要請されるといえるのである。また,宗

教的活動に当たるかどうかの検討に当たっては,諸般の事情を検討すること

は適当であるが,行為に対する一般人の宗教的評価,行為の一般人に与える

効果,影響を強調することは,前記判例のような地鎮祭という一種の習俗的

行為の宗教性判断の場合はともかくとして,個人の宗教的利益の侵害が問題

となる場合には,すでにみたような多数者による少数者の抑圧になる可能性

があるので,一層の慎重さを求められるというべきものと思われる」と主張

された。またそれは,

i

本件合組申請と本件合柁とは密接不可分の関係にあ

るものというべき…合間申請はまさに自衛隊の殉職者の霊を神道によって祭

神として記ることを直接の目的とするものであり…その目的が宗教的意義を

もたないとするのは行為の客観的な意味を不当に軽視するものである。‑一本

件合間申請行為は,…通常の意味での宗教に対する援助,助長,促進となる

ようなものとはいえない。しかし他の宗教ではなく神道に従って県護国神

社に合問してもらうよう申請する行為は,その効果において,神道を特別扱

(16)

いしてこれに肩入れすることとなり,その援助・助長に当たるとみることが できる」とさえ論じたのであった。

これらの判決内容については,次のような評価を下すことができるであろ

o

まず,当最高裁多数意見による政教分離原則についての解釈は,すでに多 くの論者によって指摘されているとおり,

I

判決自身の論理のすじ道からい うと触れなくてもよかったはずの論点」を主張する,いわゆる制度的保障,

相対的分離としてそれを理解する立場に依拠したものである。その意味では これは,かの津地鎮祭訴訟に関する最高裁判決をあえて再確認しているもの といっても大過ないであろう。現に,本判決は下級審同様に,事案を原告の 信教の自由と被告のそれとの対立といった図式で、捉えたうえで,無情にも,

第一審の認定した「宗教的人格権」の法的権利性を否定するのである。すな わち本判決は,本事案を政教分離原則を含まない狭義の信教の自由の問題と 目し,信教の自由の「寛容論」一一他人の信仰に基づく行為が,強制や不利 益を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでないかぎり,その行 為にたいして寛容でなければならないという論理ーを提起している;九か しながら,寛容という場合,多数者ないし優位にある者の,少数者ないし劣 位にある者にたいする慎重な配慮、を意味するのが一般的であり,したがって,

わが国では明らかに少数者に分類されるキリスト教信者にたいして寛容を強 いる結果となる,この「寛容論」は,どこか論理的に欠陥があるといった危 倶の念を払拭しがたい。周知のように,信教の自由を保障する目的が,少数 者の宗教の自由の擁護にこそ存するという事実は歴史の示す教訓であって,

この点からみても,当裁判所のいう「寛容論」には黙認できない誤りが存す るといわねばならないだろう。したがって,伊藤裁判官(反対意見)の説く とおり,

I

精神的自由にかかわる問題を考える場合に少数者の保護という視 点、に立つことが必要であり,特に司法の場においてはそれが要求される」と いう意見にこそ,むしろ大いにみるべきものがある,というべきであろう。

さらに,多数意見における,政教分離原則の理解に関しでもまた,二重の

誤謬を指摘できょう。まず第 lに指摘されてよいのは,それが,先の津地鎮

(17)

祭最高裁判決同様,信教の自由の絶対性を強調し,政教分離原則をあくまで 前者を保護するための手段と解することによって,当該原則を緩やかに解釈 するといった独自の姿勢を正当化しようと試みている点である。この点につ いては,すでに明らかにされたように,制度的保障説それ自体は,必ずしも 政教分離原則を緩和するための正当化根拠とはなりえない,との批判が妥当 するであろう。実際,本最高裁判決に関する伊藤裁判官の反対意見もまた,

政教分離原則の性格を制度的保障と把握しながらも,同時にこれを,厳格分 離(国家と宗教はできるかぎり分離されねばならない)の視点から捉えてい たのであった。第

2

の誤りは,多数意見が,信教の自由の侵害が認められる のは,それにたいして直接的強制が加えられた場合のみに限定される,との 理解からして信教の自由の保障範囲を縮小化する判断を示したことである。

こうした最高裁の見解は,人権の歴史上,他のいかなる自由にも先がけて,

人聞が人間たるための基本的権利として名宛られた信教の自由を,余りにも 軽視した所見である,といわねばなるまい。

それはともあれ,目的効果基準の

(a)

適用の場面に関しては,多数意見は もとより反対意見もまた,国家が共同行為者としておこなった行為(合組申 請行為)の違憲性が問われている場面ーすなわち

(II)

の 場 面 ー で 当 該 基 準を用いており,この点,津地鎮祭最高裁判決が示したような基準の適用の 仕方を踏襲していると考えられる。そうだとすれば,前最高裁判決にたいし て提起された批判一当該基準の適用そのものが不当ーが,当該最高裁判 決にたいしてもまた同様に援用されうるのではないだろうか。

なお,

(b)

目的審査および

(c)

効果審査のそれぞれについては,これを反対

意見と対比してみるとき,次のような特徴が浮び上がってくるであろう。す

なわち,まず

(b)

目的審査に関して,多数意見は行為者の主観的目的一合

柁実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図ることーをも

って,目的と認定する。これにたいし反対意見は,行為の客観的意味を重視

し,合柁申請はまさに殉職者の霊を神道によって祭神として柁ることを直接

の目的とするものであって,その宗教的意義を否定できないと主張する。ま

(c)

効果審査については,多数意見が目的の世俗性を根拠にその宗教的効

(18)

果を否定するのにたいし,反対意見は,合杷申請行為が「神道を特別扱いし てこれに肩入れする」といった積極的効果をもつことを認定している。結局,

多数意見における当該審査の適用は,前最高裁判決におけるそれを,ことご とく踏襲したものと思われる。もしもそうだとするならば,前最高裁判決へ の当該基準適用方法について指摘された問題点が,総じて本判決多数意見に も妥当することになるのは不可避といってよい。したがって,目的・効果の 両審査の面で,やはり反対意見の方が説得的といえるであろう。いずれにせ よ,本判決においても依然、として,政教分離規定が設けられた歴史について の評価如何で,宗教的活動に当たるか否かの認定に隔たりがでてくる,と断 定しうるのである。

それにしても,上述した事柄以上に問題と思われるのは,多数意見が,合 柁と合組申請行為とを区別し,さらに合杷申請行為が隊友会山口連と地連と の共同行為ではなく,隊友会の単独行為であるとみなすことによって,二重 に国(地連)と宗教とのかかわりを薄めたうえで,当該基準を適用している ことである

(211

これに関しては,結論的には多数意見に組みしつつも

2

裁判 官(島谷六郎,佐藤哲郎両裁判官)が,合杷申請行為は憲法20 条 3 項に禁止 されている宗教的活動にあたる,との反対意見と同趣旨の見解を,また

4

人 の裁判官(高島益郎,四ッ谷巌,奥野久之,長島敦の各裁判官)が,政教分 離原則の意義に照らして地連職員の言動を厳しく戒める見解をそれぞれ表明 していることが,とりわけ注目される。この事実は,要するに,総数

15

名中

7

名の裁判官が,本件の合柁申請行為は極めて違憲性が高いとみている最高 裁大法廷の内情を如実に示したもの,と評することができょう。そうだとす るならば,この事実はさらにまた,多数意見の拠って立つ論理の脆弱さを裏 側から逆照射するものである,といえるのではあるまいか。しかしながら,

同時にまた,最高裁構成員の約半数が国の行為を違憲性が高いと認めている

にもかかわらず,最終的には,そのうち 3名のみが,それを違憲であると宣

言するにとどまり,残り

4

名が問題ある行為ではあるが違憲とまではいえな

い,との立場に落ち着いたという事実の存在は,最高裁の国家権力にたいす

る迎合的態度の表象として,これに消極的評価を与えることも可能であろう。

(19)

以上のようにみてくるならば,本判決は前最高裁判決とともに,わが国では 目的効果基準がアメリカでのそれのように厳格に適用されず,かえって政教 分離原則を緩和するような方向に働いていることのよき証左であると思われ

る 。

(註)

0

山口地裁

1979

3

22

日判決,判例時報

921

号 。

(18) 

広島高裁

1982

6

1

日判決,判例時報

1046

号 。

(19) 

樋口陽一「価値は共有されているか」世界

518

74

頁 。

~o) r

寛容論」にたいする批判的見解は極めて多い。たとえば,樋口陽一・前掲,横田耕 一

rr

寛容」なき社会の「寛容論

JJ

法学セミナ

‑404

14

頁以下,戸波江二「信教の自由 と「宗教上の人格権

JJ

(特集一自衛官合柁最高裁判決をめぐって)法律のひろば

41

9

月号,芦部信喜「自衛官合間と政教分離原則一合柁拒否訴訟大法廷判決について」

法学教室

95

6

頁など枚挙にいとまがない。そのほか,本判決についての論評として,高 橋和之「政教分離と殉職自衛官の合租

J

ジュリスト

916

29

頁,戸松秀典「殉職自衛官合 間拒否損害賠償等請求訴訟上告審判決」判例時報

1300

189

頁,芦部信喜・井門富二夫・

樋口陽一「談一一自衛官合和と信教の自由」特集一一自衛官合杷違憲訴訟大法廷判決」

ジュリスト

916

号,瀬戸正義「自衛官合杷訴訟最高裁大法廷判決

J

,小林直樹「自衛官合 間違憲判決の考察

J

法学セミナー

1979

6

月号,林修三「信教の自由といわゆる宗教上 の人格権の問題を中心として

J

(特集一一自衛官合間最高裁判決をめぐって)法律のひ ろば

41

9

月号,川村吉晃「自衛官合問最高裁判決の経過と概要

J

(特集一一自衛官合 紀最高裁判決をめぐって)法律のひろば

41

9

月号などがある。

。 もっとも合問申請行為は,合間申請したという一点だけで捉えるのではなく,合問申 請に至るまでの一連の総体的な経緯のなかで把握すべきであり,そうだとすれば,これ はまぎれもなく隊友会山口県支部連合会と地連の共同行為とみなされうる,との厳しい 批判もなされている。同趣旨の見解をとる論考として,たとえば富樫貞夫「歴史の前の 責任とは何かー宗教の政治的利用と個人の精神的自由J世界

516

67

頁,樋口陽一・前掲 などがある。

~2)

いずれの見解においても,学説同様,多数意見の合間申請行為を単独行為としたこと

および合柁申請行為と合問を分けたことは「あまりにも形式的にすぎる」として,その

不自然性が指摘されている。

(20)

2.

下級審判決の場合

すでに述べたように,津地鎮祭訴訟において最高裁判決が目的効果基準を 採用して以来,下級審においてもまた,この基準は,政教分離原則違反かど うかを認定するための格好な判断基準として広く用いられるようになってい る,というのが現状である。ところで,

1977

年の最高裁判決から

1991

9

月 現在に至るまで,下級審において明示的に当該基準を援用した判決は,総数 で

8

件にのぼるものとみられる。それらのうち,国あるいは公的機関の行為 を合憲と判定した判決としては,

(A)

箕面忠魂碑訴訟控訴審判緩,

(B)

大阪地 蔵像訴訟第一審判緩,

(c)

岩手靖国訴訟第一審判渓,および

(D)

箕面市遺族会 補助金訴遂などに指を屈することができよう。なかでも,別して

(B)

判決は,

他の事案がすべて国家と神社神道とのかかわりを問うものであるのにたい し国家と仏教との関係が真正面から問題とされたという意味で,異色の判 決と呼ぶに値するといってよい。

他方,違憲と論結した判決には,

(E)

箕面忠魂碑訴訟第一審判決ケ)

(F)

愛媛 県玉串料訴訟第一審判決,

(G)

長崎忠魂碑訴訟第一審判決(一部違憲),およ び

(H)

岩手靖国訴訟控訴審判決などが数えられる。さらに,神社参道を含む 道路の改良工事に,市が公金を支出したことの合憲性が争われた

(I)

浦和地 裁判決は,自覚的ではないにしろ,実質的には目的効果基準に依拠して判断 したとみられる判決であり,しかも違憲判断を下している点でもまた,大い に注視するに足りるであろう。

そのほか,政教分離原則の違反が争われているにもかかわらず,当該原則 についての解釈に踏み込むことなく訴えを却下している判決も,少なからず 存在している。たとえば, (J)箕面慰霊祭違憲訴訟第一審判渓,

(K)

靖国神社 公式参拝大阪地裁判、民

(L)

靖国神社公式参拝福岡地裁判決,制播磨靖国訴 訟神戸姫路支部判決などが,その代表的な例として挙げられる。

以下,上述した諸判決における目的効果基準の内容について,

(a)

当該基 準が適用された場面,

(b)

目的審査,および

(c)

効果審査の

3

つの観点から漸 次敷街していきたいと思う。

そこでまず第 1に,目的効果基準が

(a)

適用された場面について整理して

(21)

おこう

o

すでに述べたとおり,もともと目的効果基準は,アメリカ合衆国におい て ,

(1)

国家が間接的に宗教にかかわる行為をおこなう場合の,合憲性判断 を審査する基準として採用されてきている。そのため,わが国での最高裁に よる,

(ll)

国家が自らおこなう宗教的行為の合憲性を問う場面への当該基準 の適用が,激しい批判に晒されたのも至極当然であったとみてよい。その後 の下級審判決においては,当該基準を

(1)

の場面に適用している判決と

(ll)

の 場面に適用しているそれとの双方が,いわば混在している状況といえる。当 該基準を(n)の場面に適用している判決としては

(A)

判決が,

(1)

の場面に適用 している判決としては,

(B)(C)(E)(F)(G)(

I)の諸判決が挙げられる。加えて,

当該基準を

(l)(ll)

の両方の場面に適用した判決として,

(n)(H)

判決が存在する。

つまり,わが国においては,明らかに質的に異なる

(1)(ll)

の問題がなんら区 別されることもなく,むしろ同ーの基準に依拠して解決されている,という のが実状なのである。

2

に ,

(b)

目的審査について瞥見してみよう。

まず合憲判決は,これに関し,問題とされている行為の性質如何にかかわ らずーーすなわち基準の適用場面の如何にかかわらずー,例外なくそれら を世俗的目的と認定している。

たとえば

(A)

判決は,忠魂碑への市有地貸与および公金支出につき,忠魂

碑の宗教施設性ならびに遺族会の宗教団体性を否定することによって,憲法

判断そのものを回避するという戦略をとる。その一方で,当該判決は,慰霊

祭への市教育長の参列とそれへの給付という行為の目的については,

i

わが

国社会においては,古来異なる宗教伝統の存在が互いに許され,これらが重

畳・並存してきていることは歴史上顕著な事実であって,それ故に,多くの

国民は宗教現象と類似の習俗的伝統を死者に対する慰霊・顕彰行為及びこれ

に参加する行為に取り入れることに寛容であるため,死者の慰霊・顕彰が宗

教的儀礼の形式をとった場合にも,その宗教的儀礼及びこれに対する関与が

直ちに宗教的意義をもつものと解することは出来ない」との立場から判断を

導いている。その結果,当該判決は,当然のことながら慰霊祭の目的が,戦

参照

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