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企画の趣旨説明
井上 本日は、「ガーンディー帰国後 100 年記念特集―ガーンディー再 考―」をテーマにお集まりいただきました。最初に、私がこの企画を 思いついた経緯をお話させていただきます。 1915年1月9日、ガーンディーは南アフリカ滞在を終えてインドに帰 国しました。2015年は帰国からちょうど100年にあたります。インド 独立50周年の際にも多くのガーンディー企画がありましたが、今年は 帰国100年ということで、再び同様の企画が組まれているようです。し かし、私は昨年から今回の企画について考えていました。というのも、座談会
ガーンディー帰国後 100 年記念特集
ガーンディー再考
出席者:秋田 茂 井坂理穂 石坂晋哉 大石高志 企画・進行:井上貴子 本座談会記録に登場する日本人研究者の敬称はすべて「さん」で統一した。また、座談会終了後、 必要に応じて内容に関連する文献が出席者によって註記されているので、適宜参照されたい。昨年は、第一次世界大戦開戦100年ということで、西洋史学会をはじ めとして日本でも多くの企画が組まれました。例えば、京都大学人文 科学研究所(人文研)では、第一次世界大戦について4巻本を刊行す るという大規模なプロジェクトで研究が進められてきたわけです。この シリーズを見てみますと、インドについては2本の論文が収録されてい ますが、西洋史の方々が中心となって進められた企画なので、第一次 世界大戦を取り上げると、どうしてもヨーロッパが中心となってしまい ます。もちろん、大戦前にはバルカン戦争があり、オスマン帝国やロ シアなども重要な存在でしたが、全体としては、アジアやアフリカの 植民地はヨーロッパの付け足しといった感じを受けました。 一方、インド史の文脈では、第一次世界大戦はあまり大きく取り上 げられてきませんでしたが、この時期がガーンディーの帰国と相まって 民族運動の重要な転換点になったのは、誰もが認めるところだと思い ます。第一次世界大戦後、すぐに第一次サティヤーグラハが始まり、 ガーンディーの指導の下で民族運動が盛り上がるという流れがあった わけです。ですから、この企画ではヨーロッパ史の視点を相対化すると ともに、インドの地域史という視点も超えて、第一次世界大戦とガー ンディー、イギリスとガーンディー、オスマン帝国とガーンディー、あ るいはアジアとガーンディーといった視点から当時の世界情勢を見据 えていきたいと思います。 加えて、テロが多発する近年の世界情勢や日本の安全保障に関する 政策転換などの情勢に鑑み、 こうした問題に取り組む上でガーン ディー思想を応用する今日的な意味があるのではないかという気持ち を強めたことも、「ガーンディー再考」というテーマを選んだ理由の一 つです。日本では、近年、平和学という名の講座が設けられるように なりました。平和学が注目される背景には、現代世界のグローバル化 状況が単に経済的な側面のみを表すのではなく、テロの脅威や紛争の 多発に対する不安感の増大など混迷する世界情勢のグローバル化があ ると思います。今日の日本では、軍事オプションを含めた積極的平和 主義が語られるようになっています。このような日本の変化は、かつて の大正デモクラシーから太平洋戦争への流れ、つまり、なんとなく自 由や民主、平和な社会を謳歌していたはずだったのに、実はそうでは なく、戦争への道を歩んでいたという流れとオーバーラップしているよ
うにも感じます。このような漠然とした不安感についても、ガーン ディーの活動を捉え直したらおもしろいものが出てくるのではないか と思いました。 そういうわけで、本日お集まり頂いた方々は、これまで地域史の中 でガーンディー研究をされていた方とは少し異なる顔ぶれとなってい ます。イギリス史やグローバルヒストリーに詳しい秋田さん、ガーン ディーのお膝元であるグジャラートに詳しい井坂さん、ガーンディーの 思想を現代の視点から捉え直していらっしゃる石坂さん、ムスリムや 移民の研究をされている大石さんという中堅若手のメンバーがそろっ ています。本日は第一次世界大戦から今日に至るまで様々な問題を設 定していますが、最初に、従来のガーンディー観とガーンディー研究の 動向について、井坂さんからお話しいただきたいと思います。
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従来のガーンディー観とガーンディー研究
井坂 ガーンディーについては、彼の生前から今日に至るまで膨大な数 の文献が出版されてきましたので、なかなか一言でこれまでの研究をま とめるのは難しいかと思います。思いつくところから挙げてみますと、 たとえばガーンディーの生涯をまとめた文献は、子ども向けの伝記や漫 画から、学術書にいたるまで、数えきれないほど出版されています。特 定の歴史的事件との関連からガーンディーを論じたもの、ガーンディー 思想の諸側面についての研究など、多角的な視点からの本や論文も出 され続けています。ガーンディーはビジュアルの面でも魅力があり、写 真集なども出ていますが、ガーンディー本人の写真を集めたものばかり でなく、たとえばガーンディーが後世にどのように表象されていったの か、という観点からまとめた写真集もあります。そしてこれは重要だ と思うのですが、ガーンディー研究のための史料も膨大に出ています。 ガーンディー全集(The Collected Works of Mahatma Gandhi)は英語版とヒ ンディー語版が 100 巻で、グジャラーティー語版は 81 巻まで刊行され ています。さらに『インディアン・オピニオン』『ヤング・インディア』 『ナヴァジーヴァン』『ハリジャン』『ハリジャンバンドゥ』『ハリジャ ン・セーヴァク』など、ガーンディーのもとで発行された英語、グジャ ラーティー語、ヒンディー語の定期刊行物も存在します。こうした定期 刊行物に掲載されたのちに、単行本としてまとめられたものとして、彼の代表的著作である『ヒンド・スワラージ』や『南アフリカにおける サティヤーグラハの歴史』、『真理の実験あるいは自叙伝』を挙げるこ とができます1。また、これらのテキストはグジャラーティー語版、英 語版、さらにそれらのなかでも複数の版があるわけですが、それらの 異なるテキストを比較検討したり、注釈をつけた本なども出ています。 また、ガーンディー自身の著作や彼にかかわる多くの文献が、ウェブ上 でも簡単に見られるようになっていて、
G
andhi Heritage Portal のような充実したウェブサイトもあります。 とにかく、ガーンディーを研究するための足掛かりはたくさんあると いう点を強調したいと思います。ガーンディーのことを話す際には、膨 大な史料や研究のことを思い浮かべて、私などに話す資格があるのだ ろうか、といつも考えてしまいます。実は今回の企画への参加も当初 はかなりためらっていました。網羅的な紹介は難しいので、とりあえず 最近目についた研究についてお話ししてみたいと思います。 最初に思い浮かんだのは、ラーマチャンドラ・グハのGandhi Before
Indiaです[
Guha 2013
]。彼はIndia After Gandhiというタイトルの本を出 版した後に[Guha 2008;
グハ2012
]、Gandhi Before Indiaというタイトル の本を出版したわけですが、このタイトルのつけ方はうまいなあと思い ました。グハは、ガーンディーの幼少期、イギリス時代、南アフリカ 時代を詳しく追っています。序に書かれていることでおもしろいと思っ たのは、ガーンディーを「真にグローバルな人物」として位置づけて いることです。グハは、アメリカでガーンディーについての授業を開講 したとき、学生は来るだろうかと不安に思うのですが、実際には様々 なバックグラウンドをもつ学生たちがやってきました。グハは、このよ うにガーンディーが今でもいろいろな人たちをひきつけていることに ついて、ルーズベルトやチャーチル、ド・ゴールなどと対比させていま す。つまり、ルーズベルトたちは国民的な指導者で、彼らの国の国境 を離れれば離れるほど魅力が薄れてしまうが、ガーンディーはそうでは ない、というわけです。グハは近い将来、インド帰国後のガーンディー についても本を出版するらしいので、こちらもとても楽しみにしていま す。 グハの著書についてもう一言。グハは、イギリス時代、南アフリカ 時代におけるガーンディーとヨーロッパ出身者たちとのつながりについても詳しく説明しています。この時代のガーンディーの話をするとき には、どうしても彼とインドやインド人コミュニティとのつながりにば かり目がいってしまいますが、ガーンディーがイギリス時代、南アフリ カ時代に、インド人コミュニティに限定されない人的ネットワークを築 いていたことも重要です。また、彼が南アフリカ時代に、政治・社会 思想や運動形態をどのように発展させたのかも丁寧にみる必要がある と思います。キリスト教思想との関係も重要です。南アフリカ時代の 彼の思想については、日本でも長崎暢子さんや間永次郎さんなどが研 究を出されています2。 グハの話で時間を随分使ってしまいましたので、少し急ぎます。近 年に出された研究をみていると、石井一也さんのような経済思想に着 目した研究、ここにいらっしゃる石坂晋哉さんのように環境思想の観 点からガーンディーの影響を考える研究、あるいはガーンディーの教育 論、メディアの使い方など、ガーンディーを独立運動の流れのなかで語 るときには、やや副次的な位置づけをされてきたような部分に焦点を当 てた研究も次々と出ていて、おもしろいものがたくさんあります[石井
2014;
石坂2011
]。ガーンディー思想の諸側面については、我々の世代 がよく話題にしていたようなビーク・パーレーク、アシス・ナンディの ガーンディー論をはじめ[Parekh 1999; Nandy 1983a
]、以前から興味深 いものが数多くありましたが、今も脈々と議論、研究が続いています。ガーン ディー思想に関しては、彼の著作のテキスト間比較研究の成果をみても 思うことですが、時代によってガーンディー自身の思想も変わってきて いる点にも着目する必要があります。また、ガーンディーと周囲の人々 との関係という視点からの著作も数多くあるのですが、たとえば内藤 雅雄『ガーンディーをめぐる青年群像』は学生時代に読んでとても印 象に残った著作でした[内藤1987
]。デイヴィッド・ハーディマンのG
andhi in His Time and Oursは、ガーンディーとインド内外の様々な人々との対話という観点から分析をしていて、彼の生前だけではなく死後に ついても取り上げていますが、こうした観点からみるガーンディー像も 興味深いものがあります[
Hardiman 2003
]。ほかにも紹介すべき研究 は山ほどあります。 ガーンディーは、真理は一本の大きな木で、世話をすればするほど 多くの実をつける、それに限りはない、と言っていました。ガーンディー研究にも限界がないような気がします。ガーンディー自身も時代に応じ て変化しますが、ガーンディーを見る側もそれぞれのおかれた状況、時 代的背景によってガーンディーを位置づけ直しています。そのために、 多様なガーンディー像が生まれ、本当に尽きることがありません。その ようななかで、自分自身がガーンディーをどのように語ればよいのか、 いつも自問しています。
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第一次世界大戦とガーンディー
(インドの戦争協力、イギリスとの関係) 井上 膨大なガーンディー研究に様々な視点があるということ自体、い かにガーンディーがおもしろい研究素材なのかを表していますね。その 中で、やはり私たち日本の南アジア研究者が何を語れるのかが問われて いると思います。本日の座談会の目的は、どちらかというとグローバル な視点、従来の地域史とは異なる広い視点からガーンディーを捉え直 すことですが、海外の研究者からすれば、私たちは日本というものを 背負って研究していると見られても当然です。ですから、同じグローバ ルな視点でもラーマチャンドラ・グハとは同じにはならないでしょう。 こうしたことを考える場合に、インドから見た世界、日本から見た インド、さらにその関係性を通じて、イギリスや南アフリカがどのよう に見えるのかは重要だと思います。今回は第一次世界大戦とガーン ディーの帰国をきっかけにしていますので、イギリスや南アフリカ時代 は前面に出していないのですが、秋田さん、何かイギリス時代につい て一言ありましたらお願いします。 秋田 イギリス留学中、ガーンディーはイギリス的な文化慣習に慣れよ うとしていました。イギリス人以上にジェントルマンを気取るというの は、当時の植民地エリートに典型的なパターンだと思います。そうい う経験をした上で南アフリカに行くことになります。ガーンディーはイ ギリスに対する批判的な立場から、いわゆるナショナリズムとの関係で 語られることが多いのですが、イギリスの核心的な意図を知った上で、 その論理を逆手にとって批判しています。3 年間のイギリス滞在経験が あってはじめて、内在的にイギリスの理不尽なやり方を批判することが 可能となったわけです。ですから、その時代のガーンディーは、どちら かというとイギリス寄りだったという認識を持っていた方がよいと思っています。 井上 大石さんは南アフリカ時代に詳しいと思うのですが、この時代は ガーンディーにとって大きな転機になったと思いますが、いかがでしょ うか。 大石 とても重要だったと思います。今回の企画では第一次世界大戦 との関連で帰国のことが出てきていますが、もう少し広げて、第一次 世界大戦は、19 世紀から 20 世紀初頭の植民地主義の区切りであり帰 結であると同時に、ガーンディーがそれ以前に南アフリカとの関係の中 で取り組んできたこと、つまり、植民地主義、帝国主義の展開の中で、 アジアをはじめとする諸地域がどのような対応をすべきなのか、インド をどのような方向に導くべきなのかという問題に対処する上での区切 りだったと思います。南アフリカでは、1860 年代からのサトウキビなど のプランテーション事業に加えて、1870 ~ 80 年代からダイヤモンドや 金の鉱物資源が発見され、急激に、植民地フロンティアとしての性格 が強まり、移民や商人、起業家に可能性が大きく拓けました。実際、イ ンド人商人や移民労働者出身の起業家の多くが植民地国家や体制と結 びつきながら、より広域的に、そして現地の社会や市場により踏み込 んだ活動を実現しました。しかし、実は同時に、支配や収奪、人種差 別のあり方が、より一層、抑圧的で露骨になって表出していました。 ガーンディーは、こうした局面に直接身を置いて当事者になっていった ことで、インドにいる人々よりも先に植民地主義の論理や近代文明の 矛盾に気づき、体験していたと言えるでしょう。こうした経験をした からこそ、ガーンディーは、インドで第一次世界大戦前後に起こって くる事象に対して、一種の先見的なアドバンテージを持って向き合え たということになるでしょう3。 井上 つまり、その後のガーンディーという人物は南アフリカ時代の体 験によって形成されていったということですね。そして第一次世界大 戦が勃発し、否応なくというか積極的にというか、その両面を持ちつ つインドは戦争協力に踏み切るわけです。当初、ガーンディーは積極 的に戦争協力を進めています。そのような点からも彼の思想は一貫し ているといえません。そこに葛藤はなかったのでしょうか。あるいは、 当時のガーンディーは戦争の現実を知らなかったのでしょうか。第一次 世界大戦時、彼はどのような考えを持っていたと思われますか。
秋田 それは南アフリカ時代の彼の動きとの連続性で考えたらよいと 思います。ボーア戦争のとき、ガーンディーは現地の人たちをインド人 野戦衛生隊(
Indian Ambulance Corps
)として組織し、戦争を間接的 に支援するような役割をしているわけです。ですから、第一次世界大 戦当時の、 戦争に積極的に協力するという「帝国臣民(imperial
subjects
)」としての義務を果たした上で、改めて自分たちの権利を主 張するという思考パターンは、南アフリカ時代から一貫しているのでは ないかと思うのですよ。それがどこで大きく変わっていくのかはわから ないのですが、少なくとも、「帝国臣民」としての義務を果たし、それ に対して当然の見返りが得られるという考えを、南アフリカ時代は 持っていたと思います。第一次世界大戦の際、帝国は広範な意味での 動員を要請してきたので、それに便乗することは自分たちの主張を広 めるチャンスだと考えたのではないでしょうか。だから、ガーンディー はそんなに大きな矛盾を感じていなかったと思うんです。 井上 そのころにはすでに『ヒンド・スワラージ』を書いていて、そこ には非暴力の思想の根源があったわけですよね。そのあたりとガーン ディーにとって戦争とは何かという問題が、私の中では整理できないと ころです。 井坂 私も秋田さんがおっしゃる通りだと思います。ガーンディーは、 インドに帰国する前にイギリスに立ち寄っているのですが、ちょうどそ の直前に第一次世界大戦が始まったので、彼はこのときも自らイギリ スに戦争協力を申し出ています。自分たちが帝国に対して権利を主張 するからには義務も果たさなければならないというところは、当時の ガーンディーの中で一貫しています。ただ、インドに戻って地方レベル でいくつかの運動を組織したあとですが、それまでサティヤーグラハを 行っていたグジャラートのケーダー県で募兵活動すると、全然協力して もらえないという現実に直面します。少し前まではみんな集まってくれ たのに、募兵となると全然集まらない、自分の考え方が受け入れても らえないという現実をガーンディーはひしひしと感じるわけです。しか しその時点でも、戦争協力は義務だと考えていたように思われます。 井上 では、当時のインドの政治状況の中では、一貫して戦争協力す ることがよいと考えられていたのでしょうか。ゴーカレーをはじめ、 ガーンディーを支えてきた国民会議派自体、あるいはムスリム連盟も含めてインド全体としてはどうだったのでしょう。 大石 第一次世界大戦における戦争協力の問題も含めてですが、1910 年代には、イギリスの用意する帝国や植民地体制の枠組みや論理に、イ ンド人として、インド社会として、どのように向き合うべきなのかが、 様々な形や文脈で問われる状況になっていたと言えるでしょう。1910 年代のインド政治をみると、植民地主義的な論理とそれへの反発とし ての民族運動が岐路に立っていました。ベンガル分割反対運動に次い で、1909 年にはモーリー・ミントー改革によってムスリムの分離議席 ができ、1910 年代前半にはヒンドゥー・マハーサバーのような動きも 出ていました。要するに、植民地支配の分割統治的な論理が露骨に表 出していたのです。 つまり、 ムスリム分離主義的な動きからヒン ドゥー・ムスリムの暴動への連鎖の萌芽も出ていたと思います。 また、1910年代には、イギリスの帝国主義の下で、広域的な問題だっ た移民労働者や商人のような問題が、インドの問題として焦点が当て られるようになっていたと思います。南アフリカでは、年季契約制度 が1911年ころに停止されたことにも象徴的に表れているように、移民 の処遇・管理のあり方が、より規制的で制限的になっていましたし、余 剰な移民に対してインドへの帰国を促すような力学が生まれはじめて いました。その結果、彼らの存在が急速にインドの国内問題になって いきました。ガーンディーにとっても、すでに南アフリカで向き合って いた問題の延長線上で、次のステップとして、インド自体の問題が浮 上していたわけです。 単的に言えば、第一次世界大戦は、1910年代までにインドの内外で 徐々に集積していた帝国主義や植民地主義、さらに近代文明とどのよ うに対峙するのかという問題を、決定的に突き詰めたかたちで、否応 なくインド人に直面させることになったわけです。そして、ガーン ディーはインドに必要とされる人物になったということでしょう。 井上 先ほどから、インドが戦争協力に至る経緯として「帝国臣民」の 権利と義務という話が出てきています。インドはイギリスからの見返り を期待していたわけですよね。それが裏切られたからこそ、次の運動 につながったわけなのですが、イギリスに対するそのような期待は、常 に裏切られてきたような気もするのです。国民会議派ができ、ベンガ ル分割があって、その反対運動が起こり、スワデーシー・スワラージ
をスローガンに掲げました。こうした運動の中で、イギリスはそれほど 簡単に見返りをくれる相手ではないことは、十分にわかっていたような 気もするのですが、ガーンディーはどのような見通しを持っていたので しょうか。ムスリムとヒンドゥーの対立を生む構造をインド政治に持ち 込むといった、典型的なイギリスの分割統治政策もずいぶん前から始 まっていたわけです。そういう意味で大きな期待をすることに対する反 対はなかったのでしょうか。 大石 私も井坂さんも長崎暢子さんのゼミで、政治的な交渉過程の生 のテキストを読む訓練をしました。長崎さんは、御著書にも書かれて いますが、交渉過程における譲歩や妥協が何を意味したのかを考える ことが重要だと示唆されてきたと思います。そして、民族運動の過程 で、要求が簡単には満たされないことをどう捉えるのかという問題は、 ガーンディー研究全体にも関わることなのだと思います。ガーンディー 研究では、彼の理念や理想の先進性や一貫性についての評価がありつ つ、他方で、理念や理想が頑なすぎて現実と遊離する点が批判されて きました。また、1970 年代以降には、ガーンディーが直接把握してい たのは非常に表層的なことで、ローカルな文脈ではガーンディーが手に 負えないようなローカル・ポリティクスが進行していたという解釈の流 れも出てきたと思います。しかし、実際には、ガーンディーは、植民 地主義の不道徳を個々の問題に則して具体的に明らかにし、それが一 度に完全に是正されなくてもどこかに妥協点を認めるべきである、そ して、イギリスを完全に敵対的に捉えるべきではなく、むしろ不道徳 的な行為自体を指摘することに十分に意味と効力があると考えていた ということ、長崎さんは、このような意味でのガーンディーにおける妥 協の重要性というものを十分に理解すべきとおっしゃっていたと、私 は思います[長崎
1996
]。 井上さんがおっしゃったこの重要な問題にも関係しますが、ガーン ディーが第一次世界大戦中から直後に関わった個別のインドのローカ ルな問題について、こうした観点も徐々に踏まえつつ、研究が進展し てきていると思います4。 井坂 私もガーンディーが「妥協点があるべき」と考えていた、という ことについては、大石さんと同じ考えです。これに関連して、彼は相 手の立場を考えることを主張し、対話を非常に重視していたということがあります。相手の立場から今の状況がどう見えるかを考えて、相 手が困っているときにはつけ込まないということです。たとえば、南ア フリカで白人の鉄道労働者のストライキが起きているときには、それに 乗じて自分たちも利益を得ようとするような運動を展開してはいけな いし、イギリスが第一次世界大戦でたいへんなときにそれにつけ込んで 利益を得ようとしてはいけない。相手の立場を考えること、そして自 分たちの道理や道徳性を崩してはいけないということを基準にしてい たように思います。ガーンディーは、そうした基準を崩してしまうと自 分たちの運動が弱まってしまうということを意識し続けていたと思い ます。 井上 では、その当時、イギリスはガーンディーをどう見ていたので しょうか。この人はうまく使えば使えると思っていたのでしょうか。 秋田 そうですね、交渉できる相手と見ていたのではないでしょうか。 イギリスの「帝国臣民」という論理からすれば、間違いなく、十分協 力できる相手であるとみなしていたと思うのです。ですから、ガーン ディーが、戦後、独自に急進化していくとは想定もしていなかったと 思います。一方、イギリスの側も保守党と自由党、そして新しく出て きた労働党といった国内的な党派の違いがあり、必ずしも一枚岩では なかったと思います。
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ヒラーファト運動の意義
(ムスリムとの協力、オスマン帝国との関係) 井上 では、次にヒラーファト運動について考えていきたいと思いま す。ムスリムとの協力という視点を踏まえて、大石さん、ヒラーファ ト運動にはどのような意義があったのでしょうか。 大石 ヒラーファト運動は、研究史上、インド民族運動、ムスリム分 離主義、パキスタン(ムスリム国家)運動など、様々な運動や流れに 引き付けられて、それぞれの一部、源流、傍流などとして扱われてき ました。その歴史的位置づけについて、定まった評価があるとは言え ないかもしれませんし、事実、その意味や意義は多義的であり、曖昧 な要素をはらんでいたと思います。 実際、1919年から22年の非協力運動のときに、なぜガーンディーは ヒラーファト運動、あるいはオスマン朝擁護という大義を担いだのか、 そしてアリー兄弟と手を結んだのかについても、さまざまな評価があると思います。ですが、私は、ガーンディーのアピールの根幹は、カリ フ擁護もしくはオスマン朝支援の問題がインドの問題であるというこ とだと理解しています。中東地域への西欧による大規模な侵攻によっ て露見した植民地主義、帝国主義とその不道徳を、インドのムスリム の問題、あるいは非ムスリムを含めたインドでの文脈と行動の問題へ と方向付ける意図があったのだと思います。バルカン戦争から第一次 世界大戦の時に、既に、オスマン朝や中東のムスリム(アラブも含む) への同情が、そうした地域の政権や人々との物理的な連携・連帯に結 びつきかねない動きがあって、インドにおける植民地主義や帝国主義と の闘いとの間の齟齬も見え隠れしはじめていました。つまり、物理的・ 軍事的にインドの外と手を結ぶことは、インドにおける非ムスリムの疎 外や反発を引き起こす可能性もあったし、イギリスとの間に武力衝突 を誘発することも考えられたわけです。オスマン朝の問題は、長年非 常に親英追従的であったムスリムに反英的な政治意識を急速に芽生え させたという点では、インドの民族運動にとってたしかに非常に有意 義でしたが、ガーンディーにとっては警戒感が大きく、どうしてもイン ドの問題として位置づける必要があったということだと思います。 また、ヒラーファト運動が、結果的にどうであったかという問題もあ ります。1919年から22年には、多くの人がヒラーファトの問題をイン ドの問題として捉えていたかもしれません。しかし、直後から、少な からずインドのムスリム指導者が外部との物理的な連帯とはき違えて いたり、混同したりしていたことが表面化して、彼等は民族運動の主 流からは離反していきました[大石
1999
]。結果的に、ヒラーファト運 動の問題は、汎イスラーム主義とインド・ナショナリズムとが、さら に、イスラームとインドとがどのように折り合いをつけることが可能 だったのか、いわゆるナショナリスト・ムスリムと呼ばれた指導者や彼 らの思想にどのような実質性や可能性があったのかというような歴史 的な問題につながっており、ヒラーファト運動そのものよりも長いスパ ンの問題として検証されるようになってきたと思います。そして、これ は、インドのムスリムの理解に関するより根幹的な問題、つまり、イ スラームというアイデンティティもしくは社会的関係性は、本質的で突 出したものなのだろうか、むしろ、言語やカースト、経済的階級など と絡み合った多元的、複合的、流動的な関係性の中の一つと捉えるべきではないかということです。ムスリムならばイスラームを擁した政治 的大義を支持・擁立するのが自明というわけではなく、この意味で、歴 史的な脱構築的解釈を必要とするような、自省的な検証が要請される ようになってきました。その結果、グジャラートなり、ベンガルなり、 タミルなり、カシミールなりのムスリムが、同じ地域に居住する異教 徒との間で同じ社会空間や政治意識を持ちうることを前提とする研究 や、宗教的な境界の流動性や曖昧性を前提とする研究も見受けられる ようになったのだと思います。この他にも、北インドの在来的な都市 (カスバー)に見られる社会的包摂性を強調する研究なども含めて、脱 構築的な歴史の検証が様々なかたちで行われるようになっています5。 総じて、ヒラーファト運動の問題は、インドのムスリムをめぐるアイ デンティティの問題や、インドにおけるムスリムの歴史性を総体的に考 えるための起点となってきたと思います。 井上 私がうかがいたいのは、グローバルな関係性を結んだことがイン ド・ムスリムにとってどのような意義があったのかということです。イ ンドのローカルな文脈からみれば、大石さんが指摘されたように、そ れぞれの立場からムスリムがさまざまな関係性を結ぶことは当然です。 ここでは、個々のムスリムのアイデンティティをめぐる問題はおいてお きます。 当時の国際情勢を考えるならば、イギリスは、この時期に今日の中 東問題につながるような三枚舌外交を展開していたわけです。その中 で、ガーンディーというすでにグローバル化された存在がヒラーファト 運動を行うという意味を、今日的に問い直すことは可能なのでしょう か。その意味では、ヒラーファト運動とは何だったのでしょうか。 大石 自分自身が居住する地域のローカルな社会や政治の問題を超え て、広く海外と国際的な連帯を結ぼうとすると、予想を超えた困難で ネガティブな側面が生じざるを得ないということだと思います。ヒラー ファト運動の代表的指導者アリー兄弟の1人、ムハンマド ・ アリーは、 トルコの指導者がオスマン朝崩壊後の新生共和国でカリフを廃止し世 俗主義に舵を切った後も、連帯すべき新たな海外のムスリム同胞とい うことでパレスチナなどアラブのムスリム指導者と手を組もうとし、死 後はエルサレムに埋葬されました。要するに、植民地主義や帝国主義 の普遍的な間違いを指摘することは重要ですが、まずもって向き合い、
また帰ってくるべきなのは、自身の目の前で起きている間違い・不道徳 とそれに対する闘争であることに、最後まで心することができなかった わけです。このような意味で、ヒラーファト運動は、植民地主義や帝 国主義への抵抗とその連帯が宗教的信仰と結びつくなかで、結果的に、 不幸にも地域との遊離や地域分断の論理を招いてしまったという、矛 盾と背理、限界をはらんだ歴史上のプロセスかと思っています[
Khalidi
2010; Kramer 1986;
大石1999
]。 井坂 大石さんがおっしゃったように、ガーンディーが、ヒラーファト 運動が取り上げている問題をインドの問題として捉えていた、という点 はそうなのだろうと思います。ガーンディーは、ヒラーファトについて の訴えが正しく理にかなっているのならば、ヒンドゥーは無条件に援助 しなければならない、と言っています。ヒラーファト運動にあたっての ムスリムの真剣な態度をみた時に、この問題を当時のパンジャーブの問 題などとあわせて取り上げて、大きな運動にすることは、ガーンディー にとって理にかなったことだったのだろうと思います。ですから、ガー ンディーの立場からいえば、この運動が世界的に見てどういう意味をも つか、という話とは少し違う次元から行われたものだったように思いま す。 井上 しかし、ムスリムの指導者アリー兄弟の意図とガーンディーの意 図とは異なる方向にずれてしまったわけですよね。それは、ガーン ディーの意図が十分に伝わらなかったからでしょうか。ガーンディーは まだ力不足だったということなのでしょうか。 大石 ガーンディーの意図は、インドを越えた大々的な植民地主義・帝 国主義の展開のなかで、オスマン朝やカリフの擁護の問題をインドでも 共有しながら、あくまでも、それに対する普遍的な意味での闘争をイ ンドでの地域単位の個別の対峙の問題として捉え直すことだったわけ ですが、彼の意図がムスリム指導者に等しく理解されていたかというと 決してそうではなかったと思います。アンサーリーやアーザードのよう な一部のムスリム指導者は、相当に意図を理解して共有しようとした と思います。しかし、アリー兄弟の場合は、次第に齟齬や逸脱の方が 大きくなったということです。それが、インドのムスリムにおけるイス ラームというアイデンティティや社会的関係性、そして、その規定性の 問題に繋がる重要な意味をはらんでいたと申し上げたかったのです。井上 では、イギリスはどうだったのでしょうか。イギリスはアラブ諸 国と三枚舌外交を行い、パレスチナを今日の状態に導くような火種を まきつつ、オスマン帝国との戦いを終え、インド、あるいはガーンディー の動きを見ていたわけですよね。ヒラーファト運動は、イギリスにとっ てどのような意味をもっていたのでしょうか。 秋田 イギリスは中東の処理で手一杯だったのではないでしょうか。三 枚舌外交を展開し、戦後のオスマン帝国を解体する中で、中東での石 油利権を含め、いかにして帝国のさらなる拡大を図るのかを第一に考 えていたと思うのです。そこには原理原則もなく、とにかく二枚舌で あろうと三枚舌であろうと利用できるものはすべて利用して戦争に勝 利することだと考えていたと思います。具体的にいうと、オスマン帝 国をいかに解体して、そこで一番の利権を確保するのかということで すよね。そのために例のアラブの反乱も利用するわけです。 イギリスがガーンディーのヒラーファト運動をどう捉えていたか、現 時点でははっきり申しあげることはできませんが、イギリスが目指して いたのは帝国の拡大であり、当面の戦略目標としてオスマン帝国での影 響力の拡大と利権の確保が最大の眼目になっていたのということは、 はっきりしていると思います。 井坂 話が少し前後しますが、インドに帰国してまもなく、ガーン ディーはビハールのチャンパーランでの活動、グジャラートのケーダー 県での農民運動、アフマダーバードの労働争議というように、ローカ ルなレベルでの運動を組織しました。そこでは譲歩によって一定の成 果を得るというパターンが繰り返されていました。その後で、ローラッ ト法反対運動、非協力運動が続くわけですが、この段階になると規模 が大きなものになっていったことから、植民地政府にとってはかなりの インパクトがあったと思います。非協力運動は、1922 年のチャウリー・ チャウラーで終わるわけですが、それ以前にローカルなレベルでの運動 を行っているときも、ガーンディーは実際の成果が何かということよ り、自分たちも権利を主張できる、何かができるという自信を人々の 間にもたせて、それによって相手側にプレッシャーを与えるという心理 的な効果を重視していたように思います。その意味でも、非協力運動 は突然中断されたにせよ、植民地政府に大きなインパクトを与えるも のであったと思います。
井上 ラクナウー協定で国民会議派とムスリム連盟とが協力し合うこ とになり、ヒンドゥーとムスリムの蜜月が到来したようにもみえまし た。それにもかかわらず、結局、ヒラーファト運動のような問題をガー ンディーが持ち込んだ結果、かえってムスリムが一つにまとまらなく なったという感じなのでしょうか。 井坂 この運動の結果として、ムスリムがまとまらなくなったと言える かどうかはわかりませんが、ジンナーに関していえば、このときをきっ かけに、自分が考えていたような制度的にイギリスに権利要求をしてい くというやり方は、ガーンディーの下では難しいという判断をしたよう です。運動がムスリムの政治勢力に全体としてどのようなインパクトを 与えたのかについては、大石さんにうかがえればと思います。 大石 ヒラーファト運動を主導したムスリム指導者の中には、インドの ムスリムを、より実質性の備わった一つの政治的・社会的勢力として 成立させながら、植民地政府が創り出した当時の政治力学の中で、そ の「分け前」を実質的に獲得できるように働き掛けたいという意図と 誘惑もあったと思います[
Minault 1982
]。それが露骨に出始めるのは、 ヒラーファト運動が崩れた後の1920 年代中頃だと思います。ただし、井 坂さんがこの時期のジンナーについておっしゃったように、すでに、ヒ ラーファト運動あるいは非協力運動のさなかで、一部の指導者に、宗 教を前面に出す政治運動の手法や形態自体への疑問や懐疑的態度が生 じていたということも、まさにその通りだと思います。こうした意味合 いでも、ヒラーファト運動の内部には、大きな不整合や不一致が存在 したということではないでしょうか。 秋田 ヒラーファト運動は、なぜ急に崩れてしまったのでしょうか。 大石 これまで申し上げてきたようなヒラーファト運動の内部的な不 一致や思想的齟齬の問題が、原因として一番大きいですが、外的な要 因、つまり当時の国際環境の問題も重要だったと思います。カリフ制 の問題をインドの問題として取り上げる限りでは、まだ継続や展開の 可能性はあったはずですが、実際には、オスマン朝が崩壊し、トルコ の指導者たち自身がカリフは不要だと動き始めた段階で、そうした大 義自体の意味は希薄にならざるを得なかったということでしょう。 秋田 つまり、イギリスの意図も超えて、トルコのナショナリストであ るアタテュルクが率いる勢力が独自の動きを見せたということですよね。実はイギリスの戦後構想でも、そのような状況は考えていなかっ たわけで、それはトルコのナショナリズムの台頭として考えるべきだと 思います。イギリスは最大限の利権を確保するために、ギリシャを使っ てコントロールしようとしましたが、それを覆すだけの動きが現地のト ルコで起こるわけです。 井坂 結局いつごろまで、ヒラーファト運動を続けていたと考えればよ いのでしょうか。 大石 1922 ~ 24 年には、アタテュルクはじめ新たなトルコの指導者の なかで、一種の世俗的な国家観が急速に台頭してカリフ制廃止に至っ たにもかかわらず、その後もインドのムスリムはヒラーファト委員会な どと称した動きを続けており、細かい状況の変化に対する彼らの理解 が非常に稚拙で不十分だったことも露呈しています。要するに、植民 地主義や帝国主義の間違いを指摘して、自分の問題としているときは 良かったのですが、実際に外部と協力することは困難で非現実的とな らざるをえないことが、ヒラーファト運動の崩壊を通じて、初めてはっ きりしたということではないでしょうか。 井上 昔は情報が伝わるのが遅くて、正確な状況を把握するのに 2 年 も 3 年もかかったということでしょうか。現代ならば「アラブの春」の ように一気に各地に飛び火するわけです。トルコはすでに民主国家を 樹立しているにもかかわらず、いつまでたってもインド人はそれを理解 できなかった、情報として伝わってこなかったということなのでしょう か。 大石 情報としては伝わっていました。アタテュルクと違う考え方をす るムスリム指導者もいたわけですが、世俗主義に舵をとる人たちが 徐々に優勢になって、トルコの人々にとってのイスラームも、多くの関 係性や規定性の一つに過ぎなくなりました。1920 年代の半ばまでヒ ラーファト運動の大義を掲げ続けていたインドのムスリムは、それを正 確に認識したり受け入れたりすることができなかったわけです。ですか ら、情報だけの問題ではなく、思想やアイデンティティの問題です。イ ンドのムスリムの指導者の一部は、カリフの大義を掲げる根拠を失っ たにもかかわらず、まだイスラームに依拠した外部との連帯を模索しま した。こうしてインドという地域から遊離してしまった結果、国民会議派や インド民族運動から自らを疎外することにつながってしまったと言え
るでしょう。
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サティヤーグラハの思想
(非暴力と運動、思想と政治) 井上 次の話題に移ります。サティヤーグラハはヒンドゥー教的なるも のを掲げています。ヒラーファト運動もイスラームという宗教的なるも のを掲げています。その前にもヒンドゥー・マハーサバーのような動き や、ティラクのような政治家も宗教的な要素を持ち込みました。政治 とはそういうものなのかもしれませんが、ガーンディーにも宗教的なる ものをナショナリズムの運動に持ち込んだ責任があるような気がする のですが、どうでしょうか。 石坂 露骨に宗教を持ち込んだというよりは、とても慎重に宗教を持ち 込まないようにしていたという面もあるとよく言われています。サティ ヤーグラハにしても、ヒンドゥー教の神ではなく「サティヤ」と言い、 塩やチャルカーをシンボルにしたのがその例です。ただし、ガーン ディーの運動は非常に宗教的というか、信仰や祈りが欠かせない部分 であったということはその通りだと思います。ガーンディー自身の生き 方・信念からいって、そうならざるを得なかったのだと思いますが、宗 教・信仰・祈りと全く関係ない形で運動を組織するより、それらを運 動に取り込んだ方が有効だし、その方がうまくいきそうだという判断も あったのではないでしょうか。 井上 ガーンディーは国民会議派の指導者でしたが、会議派と対抗する 勢力に成長したインド人民党にも、農民運動や労働運動にも、ガーン ディーの思想や活動は違和感なく受け入れられる部分があるように思 います。その意味でガーンディーは、現代もインド的な包摂性を持って いると捉えてよいでしょうか。 石坂 インド人民党やヒンドゥー・マハーサバーにつながる流れから見 れば、ガーンディーの運動にあれだけのムスリムなどが参加しているの は受け入れ難いはずです。マイノリティの人々と共に戦うというのが、 ガーンディーの運動の要だったような気がします。 井上 先日、佐藤宏さんが「実は、インド人民党の綱領の中にヒン ドゥー・ナショナリズムという言葉は出てこない。インドの文化や思想 に基づいて国づくりを目指すということしか書かれていない。だからこ そ、インド人民党はヒンドゥー・ナショナリズムの政党だと捉えるのにはズレがあって、必ずしもそうとは限らない要素を取り込みつつ成長 しているという側面を見逃すべきではない」とおっしゃっていました。 インド人民党の支持組織である
RSS
やヒンドゥー・マハーサバーなど は別にして、現在の政府はヒンドゥー・ネイションの形成にそれほど こだわっているわけではないと思うのですが、どうでしょうか。 石坂 ガーンディーも、たしかに表面的には似ているように見えるかも しれません。アシス・ナンディはガーンディー暗殺について、「結局ガー ンディーはゴードセーに殺されることを選んだ。なぜなら、自分がゴー ドセーとは違うということを示すためには、自らの死によって私たちの 心の中にあるゴードセー的なものを祓い清めるよう賭けてみるしか方 法がなかったからだ」と、エッセイの中で述べています[Nandy 1983b
]。 つまり、似ているとみなされることをわかった上で、自分は対極に位 置するということを示そうとしたということです。しかし、現在のイン ド人民党が、意識的にせよ、あるいは無意識的にせよ、ヒンドゥー・ ナショナリズムの側面を巧妙に隠すようになったのだとすると、ガーン ディーにとっては形勢不利ですね。ただ、やはり、ガーンディーが目指 したことを外から我々が見て、単に似ているとして片付けてしまうと、 何か捉え損ねてしまうものがあると私は思います。 井坂 ガーンディーの場合、彼の活動を公と私に分けるのが難しいとい う話がよく出てきます。たとえば政治運動をすると同時に、アーシュラ ムでの生活のことにも大いに気を配っています。ローカルなレベルから ナショナルなレベルまで様々な政治運動をしながら、日常生活の衣食 住、人間関係に関しても常に様々な活動をし、それを積極的に発信し ています。『ヒンド・スワラージ』の中で、彼は自己を統御することを強 調しています。彼にとっては、自らを律することは、インドの目指す べき自治の実現につながることでした。ガーンディーの中では政治と自 分の宗教、社会的活動とは、簡単に切り離せないものだったと思うの です。したがって、ガーンディーとしては、宗教に関して何かを押しつ ける気はなく、彼にとっては信仰の対象がたまたまヒンドゥー教の神で あったり、理想とする状態を表現するときの言葉がラーマ・ラージャ(ラー マの統治)であったりしたのだと思います。彼の考えでは、真理に至 る道は様々である、ということが前提であったと思います。 彼にとっては政治と社会、宗教はきっぱりと切り離すことができないものだったので、彼の活動の中に宗教的な語彙が入ってくるのは自然 なことだったのかと思います。彼は、道徳ということを非常に重要視 していましたが、それは政治においても重要でした。注意したいのは、 インド人民党のモーディーが、道徳や個人の倫理を強調したり、政治 的パフォーマンスの一環として断食したときなどは、ガーンディーのイ メージを自分と重ねようとしているかにみえますが、ガーンディーは、 モーディーのように政治権力と結びついたところから、「各人はこうあ るべきだ」という主張を押しつけようとはしませんでした。自らの信念 を、自身の実践を通して示していくことで、伝えようとしていました。 そもそもガーンディーは1934年に会議派を脱退していますし。 大石 個人的な問題としての物質的欲求のコントロールとインドが進 むべき政治、社会の方向性とが同じ次元で捉えられていたのはとても 重要な点だと思います。第一次世界大戦に結びつけて言うと、インド にとって第一次世界大戦は工業化への大きなステップアップだったと 思います。イギリスから入ってこなくなった物をインドで製造する契機 になったし、実際、1916 年頃には、インド政庁や地方政府内に工業関 係の部局が設置されます。ガーンディーが、こうした工業化促進の幕 開けの時代にインドに帰国したことは、結果的に、非常に挑戦的な状 況と文脈を生み出したと思います。 秋田 賛成です。1915 ~ 16 年以降、ヨーロッパから物が入ってこなく なって現地生産が本格化します。それによって、タタやビルラーなど が急激に伸びていきます。ですから、徐々にではありますが、インド の物質的発展や経済発展が加速していくという意味で、第一次世界大 戦が大きな転換点となっているのは間違いないと思います。ガーン ディーの帰国とその後のナショナリズムの展開もパラレルになってい ます。第一次世界大戦後、インド政庁も選択的な保護政策を導入して いきますよね。つまり、経済的なナショナリズム、第一次世界大戦の 結果として形成された客観的情勢、そこからくる植民地当局の必要性 が絡み合って展開していくと考えるとよいと思います。 井上 そのようにして進んでいく工業化と、ガーンディーの打ち出した カーディーや農村の建設的プログラムのように、どちらかといえば工業 化に反するものを民衆に広めていくこととは、どのような関係にあるの でしょうか。インドでは貧困や格差が拡大して、一部の大資本家と農
村の貧困層などとの間には乖離がありました。ガーンディーは、ナオ ロージーの言う「富の流出」理論の示すような現象の下で貧困層が被っ ている困難な社会状況を見て、大資本家とも折り合いをつけようとし たということなのでしょうか。 大石 そこにも、ある種の妥協と折り合いがあったと思います。ガーン ディーにおいても、そして、実際の経済的な行為としても、です。非 常に象徴的な例として、機械生産された糸を使って手織りの布を織る とか、日本から入ってきた繊維を使ってインド国内で手織りするという ような妥協や折り合いのつけ方があったし、実際、そうした伝統的産 業の革新的な進化 ・ 進展の側面を明らかにする研究も進んでいると思 います[
Roy 1999
]。 秋田さんがおっしゃったように、植民地政府の輸入代替政策とイン ドの経済ナショナリズムのパラレルな進行が重要でした。他方、井上 さんから出た工業化の中身の問題では、ある意味、ガーンディーは機 械化に対して正面から異を唱えたのですが、自分の理念との矛盾や困 難な状況に向き合う中で妥協も生じたし、結果的に、物質的欲求を完 全には抑制しないような消費も許容・維持されたという理解が成り立 つと思っています。 井坂 補足すると、ガーンディーの機械文明への批判は、『ヒンド・ス ワラージ』に書かれていた内容をもとに語られることが多いのですが、 彼自身の機械文明批判はその後変わっていったことを指摘する研究者 もいます。同時代の社会・経済状況と折り合いをつけた、というかた ちで説明できる部分もあるかもしれません。また、この問題に関連し て、ガーンディーと資本家との関係も重要で、彼は富の「信託」の議 論、つまり資本家が得た富は、神から信託されたものであり、彼らは それを貧しい人々、社会に還元すべきであるという議論を組み込むこ とで、工業化によって富を蓄積する資本家を位置づけようとしていま す。 井上 第一次世界大戦でランカシャーをはじめ綿工業地帯も決定的な 打撃を受けたと思いますが、その一方で、インドでは工業化が推し進 められていくわけですよね。インドの民族資本家は、そのような漸進 的な経済発展を背景として成長したということなのでしょうか。 秋田 ランカシャーはかなり早い段階から国際競争力を失っています。綿糸では、1880 年代からボンベイと大阪が競争する状況が続いていま した。それが第一次世界大戦でさらに加速されたと思います。ランカ シャーは、綿織物の方では比較的競争力を保っていましたが、やはり 次第にシェアを失っていったことは間違いないと思います。したがっ て、第一次世界大戦後の経済史は、ランカシャーの綿工業とは切り離 して考えた方がよいと思います。 私は、その後はむしろ金融の問題が重要になってくると思います。イ ギリスの経済的利害は金融・サーヴィス部門に大きくシフトしていきま す。確かに、綿工業の利害関係者の声は大きく、保守党にも積極的に 働きかけましたが、彼らの望む政策はナショナルなレベルでは実現され ませんでした。むしろ、第一次世界大戦以降のインドの植民地支配で は、ロンドン・シティの金融関係者の利害の方が重視されていきます。 つまり、インドで工業化が進展した方がイギリスにとっても好都合な 状況が生じてくるわけです。工業化を積極的に推進しないが、妨害も しないということではないでしょうか。イギリスは、戦争が起こった時 には、最低限の物資を確保するための経済基盤が必要であると完全に 認識していました。政府は選択的保護政策によってインド現地の産業 を保護し、現地のナショナリストによる製鉄業や化学工業推進の邪魔 はしないと思います。 井上 イギリスは第一次世界大戦で大量の戦費を使い、インドの生産 力がますます重要になると、植民地インドを維持しなければならないと いう方向になるのでしょうか。 秋田 そのように思います。ですから、妥協や分割統治を通して、可 能な限り様々な勢力をうまく操りながら植民地との関係を維持してい くことが重要な課題として考えられていたのは間違いないと思います。
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帰国時と第二次世界大戦時との比較と変化
(戦争とガーンディー思想) 井上 次に、第二次世界大戦に焦点を移したいと思います。インドで は産業化が進み、さまざまな問題を克服しながら世界的な発言力も得 て、上向きの流れに乗って大戦後は独立に至りました。一方、日本の 場合、第一次世界大戦のころは大正デモクラシーと呼ばれ、自由や民 主の思想が広まり、大戦景気による経済成長もあり、なんとなく明る い雰囲気がありました。その一方で、ロシア革命の影響による共産主義革命運動に対する取り締まりのために治安維持法が成立し、やがて 政府批判を封殺する言論弾圧が激しくなっていきます。また、戦後の 経済恐慌を経て、国際社会との関係も次第に悪化し、第二次世界大戦、 太平洋戦争での敗戦に至るわけです。日本にとっての第二次世界大戦 は敗戦の苦い経験として映るわけですが、インドを含む多くのアジア 諸国にとっての状況は異なっていて、実際、戦後多くのアジア諸国が 独立していきました。こうした国際情勢をふまえてグローバルな側面か ら、第二次世界大戦の意義をどう考えますか。S・C・ボースとガー ンディーも対立していたわけですが、そういうことも含めて、インドに とっての第二次世界大戦をどのように理解すべきでしょうか。 秋田 第二次世界大戦は脱植民地化を進める決定的な転機になったと 思います。第二次世界大戦の時もイギリスは帝国の温存を考えていて、 この点は第一次世界大戦と変わらないと思います。名目上、ヨーロッ パではファシズム対デモクラシーの戦いを掲げていると思うのですが、 アジアでは、やはり帝国支配をいかに維持するのかがイギリスにとって 重要でした。そこを衝いたのが日本であり、S・C・ボースだったと思 います。第二次世界大戦の過程で矛盾がはっきりしてきて、インドの 戦争協力がないと勝利できないということが、イギリスにとっては決定 的だったと思います。そういう意味では「帝国の総力戦」だったわけ で、結果的に、それが帝国の基盤を掘り崩すことになっていきます。 私は経済史の立場から見ているのですが、第二次世界大戦中に、イ ンドとイギリスの債務債権関係が完全に逆転して、スターリング残高 というインドの金融資産がロンドンに積み上がっていきます。第二次 世界大戦が終わった時、イギリスが抱えるスターリング残高の7割ぐら いはインド、パキスタンが持っていたわけです。それに政治運動や社 会運動の展開が相まって、インド、パキスタンの脱植民地化(分離独 立)は、世界史の中でも非常に早い時期に達成されたのだと思います。 それ以前にフィリピンは独立していますが、事前にアメリカから約束さ れていたので。したがって、第二次世界大戦の展開そのものが脱植民 地化を加速化する最大の転換点だと考えてよいと思います。 井上 インドの独立にとって大きな転換点だった第二次世界大戦です が、開戦当初、ガーンディーは個人的サティヤーグラハを進めました。 しかし、正直に言って政治の中心から外れていたように思います。個
人的サティヤーグラハとは一体何だったのでしょうか。イギリスはイン ドの戦争協力を当然のこととしていたわけですが、会議派はいったん 戦争協力を拒否しました。しかし、この機会こそ本当に見返りが期待 できる重要なチャンスだったかもしれません。このあたりの流れはうま く説明できないのですが、どうでしょうか。 井坂 第二次世界大戦にインドも巻き込まれると、会議派もガーン ディーも無条件の戦争協力はできないという対応をとるわけですが、 ガーンディーの論理は会議派とは違い、非暴力のかたちで協力する、と いう提案をしています。ガーンディーはロンドンに爆弾が落ちることを 考えて、総督の前で涙を流したといわれていますが、イギリスの痛み に対する共感は示していたわけです。しかしながら、非暴力のかたち での協力といわれても、イギリスにとってはおよそ役に立たないものに 思われただろうと思います。一方、会議派の立場は、イギリスは相談 もなしにインドを戦争に巻き込んでいる、戦争の目的もインドにとって の意味もわからないままでは協力はできない、というものでした。イギ リス側から期待したような解答がなかったことで、会議派が州内閣を 握っていたところでは、会議派メンバーは州内閣を辞職して抗議の意 を示します。しかしガーンディーも会議派も、イギリスを積極的に妨害 しようという意図はなかったように思います。戦争が進み、東南アジ アでイギリスが次々と敗退するのをみたときには、会議派のなかで、こ うした状況にインドとして、自らで対応したいという姿勢が強まりま す。しかし、だからといって、日本と戦うために連合国が軍隊を配置 することに反対する、ということはしませんでした。つまり、会議派 は戦争協力はしないといっているが、しかし完全に拒んでいるともいえ ない、といった状況であったように思います。
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ガーンディーの太平洋戦争観
(日本、アジア、西洋の関係) 井上 では、S・C・ボースのように、日本と協力すべきだと言う人た ちの立場は、インドでは少数派の声だったのでしょうか。あるいは、そ れなりのインパクトを持っていたのでしょうか。私がよく知っているイ ンド国民軍に協力した人たちには、南インドの人が多いのですが、イ ンド国民軍とドラヴィダ運動の関係もしばしば指摘されるところです。 そのあたりはどうでしょうか。大石 私は商人ネットワークのことを研究していますから、その関係か ら申し上げますと、第一次世界大戦は、結果的に、日本とインドの間 の商人ネットワークを後押ししました。日本の軽工業製品を、神戸な どに在留するインド人商人のネットワークを使ってインドに提供して いました。第二次世界大戦は、根本的に日本とイギリス、イギリスと インドが向き合いましたから、かなりの数の神戸在留のインド人が帰国 したし、そのような意味で、ネットワークを分断する効果があったと思 います。結果的に、インド商人ネットワークがイギリスの帝国ネット ワークを基盤としていたことが、太平洋戦争によって露呈したと思い ます。南インドの人々の間でインド国民軍に参加するような動きが顕著 だったとすると、それは、神戸のシンド地方出身のヒンドゥー教徒の 商人やグジャラートのムスリムの商人とは別の経路ではないかと思い ます。要するに、神戸在住のインド人商人にとっては、日本で生産さ れる雑多な軽工業製品をインドやアジア ・ アフリカに継続的に提供す ることが根幹にあり、そのために、イギリスの帝国ネットワークに便乗 し、さらに、日本の製造業とも密接な関係を結んでいたわけです[籠谷
2000;
大石2002
]。第二次世界大戦にあたって、事実上、イギリスの代 わりに日本に接近したとしても、インド国民軍のような政治的行動に 対して安易に身を委ねるようなことはなかったと思います。 井上 日本軍はマレー半島、シンガポールを陥落させますが、そこには 南インドのタミル人たちが多く出稼ぎに来ていました。そうしたネット ワークはどうなのでしょうか。いずれにせよ、インドや日本にとっての インド国民軍をどのように位置づけたらよいのでしょうか。 井坂 戦時中のインドのなかで、インド国民軍がどのような意味をもっ ていたのかを明らかにすることは、なかなか難しいように思います。 ガーンディーやネルーなどの指導者たちについていえば、まずネルーの 場合は、ファシズムに反対する立場からすれば、日本と手を組むとい うのは論外であったと思いますし、ガーンディーの場合も、日本がイン ドに喜んで迎え入れられると思っているならば、失望することになるだ ろう、という主張を明確に示していました。S・C・ボースの活動に 対する指導者たちの見解はある程度追えるのですが、いわゆる民衆レ ベルで、彼の活動がどの程度インドで知られていたのか、どのように とらえられていたのかを論じるのは、なかなか難しいように思います。一方で、大戦後には、インド国民軍は大いに社会の注目を集めること になります。国民軍将校たちに対する裁判が進むなかで、国民軍への 人々の共感や同情が高まり、反英・独立の気運が高まったという点は よく指摘されるところです。 井上 ネルーやガーンディーが日本軍と組むという選択肢が問題外な のは当然としても、S・C・ボースのような動きがあることは、当時 の世界に知られていたわけです。東南アジアの動きを見ると、それに 協力する人たちが出てくるのも当然だと思いますが。 秋田 当初、日本の軍政に協力した人たちは、イギリスやフランスの植 民地支配に対する抵抗といった脱植民地化を考えていたわけですよね。 インドネシアのスカルノも、ビルマのナショナリストもそうだと思いま す。要するに、第二次世界大戦は、ヨーロッパだけを見ればファシズ ムとデモクラシーの戦いだけれど、アジアでは帝国主義、植民地主義 と脱植民地化が基本になっていると考えるべきだと思うのです。第二 次世界大戦が複合的な戦争だったということは、木畑洋一さんの研究 で明らかになっていますが、アジアでは、自らの権利を主張し、独立 を目指す脱植民地化が一番重要であったと思います。ですから、どこ にウエイトを置くかによって見方が大きく変わると思います。その意味 でも、S・C・ボースやインド国民軍にはもっと注目するべきだという 気がします。日本は、大東亜共栄圏を具体化していく上でS・C・ボー スを積極的に利用していました。一方、ボース自身は日本の思惑を十 分に理解した上で、それに乗じて、さらにラディカルな反英闘争を実 現しようとしたのでしょう。ボース自身も限界を認識していたと思いま す。 石坂 インド国民軍に関わった日本人の話を読んで驚いたのは、大川周 明など一部を別として、当時の日本人があまりにもインドを理解してい なかったことです。日本とインドの経済関係は佐藤隆広さんがご専門で すが、当時、両国は貿易相手としてお互いに大きな比重を占めていま した。インドにもたくさんの日本人がいて、日本にもたくさんのインド 人がいて、活発な経済活動が行われていたにもかかわらず、インドの 政治や人々の感情、脱植民地化の理念、会議派の内情などについては きちんと認識されていませんでした。先ほど、秋田さんが大東亜共栄 圏の形成のために積極的に利用したとおっしゃいましたが、利用の仕