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東北地方における地域づくりに関する研究

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東北地方における地域づくりに関する研究

谷 沢

はじめに

 本稿は、平成13年度から取り組んでいる歴史・風土・文化を活かした地域づくりに関する研 究の一環として実施した愛知淑徳大学助成研究「地域づくりに関する研究〜山陰・東北地方〜」

(平成17、18年度)の調査・研究成果の一部を報告するものである。

 筆者は、これまで、日本各地の歴史的町並みの調査研究を行い、歴史的な生活環境や町並み の形態の成り立ちを読み取る中で、よりよい都市環境や景観、あるいは地域社会の個性を生み 出す諸条件を探り、人間生活と都市形成とのかかわりを考察してきた。

 今回も、同様な作業を継続する中で、地域文化振興の視点から東北地方で歴史的町並みが残 る青森県弘前・黒石、秋田県角館、福島県会津若松・喜多方の事例を挙げ、現地調査で得た資 料・インタビュー調査を基に、それぞれの地域で展開された歴史的文化遺産を活かした地域づ

くりのあり方を整理し、その特徴にっいて明らかにしていきたい。

1、青森県弘前

 青森県西南部に位置する弘前は、江戸時代から津軽地方の政治・経済・文化の中心地として 発展した城下町としての歴史を持っ都市である1)。戦災を免れた市内には、江戸時代の面影を 残す寺院街や武家屋敷街、明治・大正期の洋風建築などが多数残されている。

 城下町弘前の特徴として、城の南西方向の高台に藩主菩提寺の長勝寺を置き、その門前に禅 林三十三ヶ寺を配した「長勝寺構え」が知られている。これは、有事の際、出城となる役割を 持った寺院街として形づくられた。

 武家屋敷は、弘前城の東・西・北側をとりまくように配置された。東の大浦町には藩の重臣 が住み、西の五十石町・鷹匠町は中級武士や鷹匠が住んだ町である。また、城の北側に位置す る若党町・馬喰町・小人町は中級・下級武士の居住地で、ここには江戸時代の町割とサワラの 生垣や板塀に囲まれた武家屋敷街の面影が残されている。

 弘前の武家屋敷を特色づける道路境のサワラの生垣は、外から屋敷内が見えにくく、内から は見通しがきき、敵に対する防御を考えて植えられたという。また、生垣のサワラの実は非常 食として利用されてきた。弘前の武家屋敷の庭には、実のなる木として、ウメ、カキ、クリな ども好んで植えられている。また、隣家との屋敷境に薬草となるクコを植えて生垣にする慣わ しがあり、西側の生垣を各家で植えるのがしきたりであった。

 若党町・馬喰町・小人町は、周辺の亀甲町・春日町・田茂木町を含めて江戸末期、「仲町

(なかちょう)」と総称されるようになった。この馬喰町の全域と若党町と小人町の一部は、昭

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和53年2月、「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区」として都市計画決定され、同年5月、国 の重要伝統的建造物群保存地区(以下、「重伝建」と略す)に選定された。

 弘前市教育委員会を訪ね、宮川慎一郎課長、三上哲也係長、三国良一主査から町並み保存の 経緯をうかがった。弘前市で町並み保存の動きが起こったのは、昭和50年1月であった。読売 新聞の特集記事「風格のある町」において、弘前市が「東の横綱」に格付けされたのがきっ か けであった。この記事が契機となって、弘前市は、早速、「城下町の風格保存懇談会」を組織 するとともに、「城下町の風格保存対策プロジェクトチーム」を立ち上げた。同年7月、文化 財保護法改正により、伝統的建造物群が新たな文化財の種別の一っに加えられた直後の8月、

弘前市では「城下町の風格保存要綱」を制定し、町並み保存に向けて動き出す。

 昭和51年3月、文化庁補助事業による「伝統的建造物群保存対策調査」が実施された。また、

同年暮れに住民アンケート調査も行われた。昭和52年、町並み保存のための地区住民説明会が 開かれ、暮れには保存条例が制定された2)。このような動きの中で、弘前市仲町は、とんとん 拍子で「重伝建」選定となったのである。

 選定後の動きとして、昭和54年9月、「弘前市仲町伝統的建造物群保存会」が発足する。翌55 年12月、旧伊東家住宅が移築復元された。また昭和58年4月、旧岩田家住宅が復元修理された。

さらに、60年8月、旧梅田家住宅も復元修理され、保存地区内に3軒の旧武家屋敷等が公開さ れることになった。伊東家は、代々津軽藩の藩医を努めた家で、中級武士の居宅に類似する家 構えをした建物である。岩田家は、寛政〜文化年間(1789〜1818)頃に建築されたと推定され る茅葺きの武家屋敷である。また、梅田家は、嘉永年間(1848〜54)に建築された茅葺きの武 家屋敷である。

 仲町の保存地区を守り伝えていくためには、冬場の雪対策、道幅の問題、世代交代による意 識の変化と、さまざまな問題を抱えている。冬には1メートルを越える積雪があるこの地域で

は、雪対策にとくに頭を悩ましている。流雪溝がないこの地区では、雪かきをして道路の両脇 に置いた雪が板塀や生垣を倒すことがあり、雪を流す川の整備をして欲しい、との住民からの 要望が強いという。また、伝統的家屋の建築様式である切妻屋根の雪下ろしは手間がかかるた め、スノードレイン形式の陸屋根に建て替えたい、との要望も強いという。

 保存地区の道幅は、4〜5メートルである。この道幅は、昭和初年に1間幅の道を拡張して 今日に至ったものであるが、自動車のすれ違いは困難である。特に冬場は、道路両側に除雪し

た雪のため、実際の道幅はもっと狭くなり、自動車が走りにくくなる。そのため、保存地区の 住民は不便を強いられる。

 「重伝建」選定後30年近く経った現在、住民の多くは世代交代をしている。そのため、保存 の意識に変化が見られ、「なぜ、自分の地区だけ和風の家、生垣にこだわらなければならない のか。なぜ、冬場寒い古い家に住み続けなければならないのか」という意見が出されることも あるという。弘前の武家屋敷街の特徴であるサワラの生垣を個人の努力で維持することも難し く、平成12年度から「サワラ生垣せん定奨励金」の交付が始まった。これは、サワラの生垣を 自らせん定したとき、長さ1メートルにっき1,000円の奨励金が交付される制度である。また 他の意見として、仲町一帯は住宅街であるため、「観光客が来ても、家の中を覗き込まれ、ゴ

ミをおいていくだけで何らメリットがない」との声もある。

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東北地方における地域づくりだ関する研究 33

 仲町は、戦前は、教員や警察官が多く住んでいた町である。住民は、「土地は殿様からの預 かり物である」と考え、長男が相続をして次・三男は外に出て行くことがしきたりであった。

昭和50年頃までは、長男が結婚すると2階建ての家にして一っの屋敷の中に同居することもあっ たが、今は、その長男夫婦も老夫婦との同居を好まず、他の土地に出て行く傾向が強い。

 宮川慎一郎さんは、「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区は、行政主導で保存された場所で す。保存を始あた頃には、弘前のおだやかな雰囲気を住みながら守っていこうという考えが見 られましたが、今は人々のっながりも薄くなってそのような意識も必ずしも高くはありません。

自分たちの住んでいるところが弘前の中で一番いいところだ、と地域の人たちに思ってもらう こと、それが最も大切ですが、一番難しいことでもあります」と話す。

2、青森県黒石

 青森県中央部に位置する黒石市は、西に岩木山と津軽平野を控え、東に八甲田連峰を望むリ ンゴの産地として知られる陣屋町である3)。陣屋が置かれたところは、現在、市民文化会館の 建っ位置で、浅瀬石川の北に位置している。ここに御殿が建てられ、東に太鼓矢倉、西に御蔵、

南に塩硝蔵などが配置された。陣屋の北には侍町である内町を置き、その外郭を町人町と社寺 で取り囲んだ。

 陣屋の東に南北方向に延びる中町・前町は、「浜街道」にあたり、北は青森、南は弘前へ通 じていた。この中町・前町は、造り酒屋、味噌・醤油醸造業、米穀店、呉服店などが軒を連ね る黒石の商人町として栄えた。とりわけ中町には、母屋の前に「こみせ」と称する幅1間ほど の庇が続いており、雪国の風土の中で生まれた独特な町並み景観が見られる。

 近代以降の黒石は、士族によるリンゴ栽培が始まり、郡役所が設置されて南津軽地方の中心 地としての道を歩んだ。また、大正期に入って鉄道が設置され、戦後の昭和25年には弘南鉄道 の延長工事が完成して弘前・黒石間に鉄道が開通する4)。この鉄道の開通により、商業の中心 地は、中町から駅前付近に移り、伝統的な町並みは、しだいに衰退の道をたどった。また、昭 和59年、国鉄黒石線が廃止され、駅前付近の商業も振るわなくなった。

 国鉄黒石線廃止前年の昭和58年、伝統的建造物群保存調査が実施された。しかし、地元住民 の間で保存運動は起こらなかった。その理由は、保存地区指定によって受ける規制に対する不 安、保存修理費用の個人負担への不安、保存しても商売上のメリットがない人たちの反対の声 があったからだ、という。

 積極的な町並み保存の動きはないものの、雪国独特の「こみせ」への着目はみられた。中町・

前町で組織された「こみせ通り商店街振興組合」が中心になり、昭和61年、地域のイベント

「第1回こみせ祭り」が始まる。また、平成4年には「中町冬のこみせ祭り」も開かれ、地域 づくりの機運がしだいに高まっていく。また、平成9年には、中町の一角に「横町かくじ広場」

もっくられた5)。

 「こみせ」の続く中町の町並みを観光資源として活かそうとする動きは、平成11年の「黒石

市中心市街地活性化基本計画」策定から活発になり、この計画のコンセプトに、「こみせを核

にしたまちづくり」が掲げられた6)。基本計画策定の翌12年、中町を伝統的建造物群保存地区

に指定しようとする動きが起こり、行政主導型の準備が始まり、13年に「黒石市中町・前町地

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区の伝統的建造物群保存地区に係わる調査」(日本ナショナルトラスト)が実施された。調査 終了後の14年に「こみせ保存会」が結成され、「こみせ通り」の保存・修復に努めるとともに、

これをまちおこしに活かす住民組織がようやく立ち上がっていった。そのような動きの中で、

黒石市は、平成16年3月「黒石市歴史的景観保存条例」を制定するとともに、平成17年1月

「黒石市中町伝統的建造物群保存地区」を定めた7)。そして、黒石中町の町並みは、平成17年 7月、国の「重伝建」に選定された。

 保存地区内の代表的な建物として、高橋家住宅(昭和48年、国の重要文化財)がある。高橋 家は、黒石藩御用達商人で屋号を「米屋」といい、米穀をはじめ、味噌・醤油・塩などの製造 や販売を行っていた家である。中町に居住したのは享保2年(1717)のことで、宝暦5年

(1755)頃に現在の屋敷を買い求め、宝暦13年(1763)に現在の建物を建築したといわれる。

 高橋家住宅を訪ね、当主の高橋幸江さんからお話をうかがった8)。高橋幸江さんは、地域づ くりのイベントに積極的に参加している方である。昭和61年に始まった「こみせ祭り」は、

「こみせ」の価値を広く知ってもらうために始めたイベントである。江戸時代にっくられた

「こみせ」は、雪が降っても、子供やお年寄りが安心して歩くことができ6大切なも.ので、こ れを伝えていかなければならない、という思いがあってこの企画が生まれたという。「こみせ 祭り」は秋のイベントであるが、「こみせ」がその効果を発揮するのは冬である。そのため、

冬にカクマキを着て「こみせ」を歩き、江戸時代の風情を楽しもうということで「冬のこみせ 祭り」も始まった。

 黒石の商家の前にある「こみせ」は、町の人たちが自分の土地を提供して、他の人たちに安 全に歩いてもらおうとする心があったから生まれたものだ、という。また、黒石は津軽藩の分 家でありながらも文化意識の高い人たちが多く住んだ町であった。高橋幸江さんは、「この黒 石の人の心を受け継いでいく。形だけではなく、そのような気持ちを受け継ぐことが地域づく

りにおいて何よりも大切です」と熱く語りかける。

3、秋田県角館

 秋田県東部、仙北平野の北部に位置する角館は、雄物川支流の玉川と檜木内川の合流点に位 置する城下町である9)。縄張りでは、城下の中央に土塁を築いて「火除け」を設け、北側に武 家屋敷(内町)、南側に町人地(外町)が区画された。武家屋敷は、表町上丁、表町下丁、東勝楽町 を中心に、西に歩行町、小人町が、東に裏町、山根町が配置された。また、町人地は、「火除 け」に平行して横町が東西方向に伸び、横町の南に西から七日町、中町、上新町が南北方向に 伸びる。また、武家屋敷は市街地の南に田町があるが、ここは、芦名氏を監視するために佐竹 本家から遣わされた今宮氏の一団が居住した町であった。

 古城山山麓の国道46号から「火除け」前までの表町上丁、表町下丁、東勝楽町の武家屋敷街 は、昭和51年、我が国最初の国の「重伝建」七ヵ所の一っに選定された °)。また、町を流れる 檜木内川左岸には2キロメートルにおよぶ桜並木が連なり、武家屋敷街のシダレザクラも見事 である。なお、角館の伝統工芸として桜皮細工が知られるが、これは、明治維新後の士族授産 として発達したものである6

 保存地区は、約720メートル延びる通り沿いに6.9haほど広がり、29世帯72人が住んでいる

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東北地方における地域づくりに関する研究 35

(平成18年4月)。道路の長さと世帯数の関係をみると、間口の広い屋敷が並んでいることが特 徴である。板塀に囲まれた屋敷内には、シダレザクラをはじめ、モミ、ヤマモミジなどの樹木 が繁り、緑豊かな環境を形成している。

 仙北市教育委員会を訪ね、高橋仁さんから町並み保存の取り組みにっいて話をうかがった。

保存開始当時、地域住民の間で保存に対するコンセンサスは必ずしもはっきりしておらず、そ のような中でのスタートであった。昭和53年に保存計画が策定され、この計画に基づいてさま ざまな取り組みが行われてきた。整備方針として、通りに面している塀、門は角館町が直営で 直すことになっだ1)。保存を始めた当時はブロック塀が多く見られたが、整備が進むにつれて ブロック塀は板塀に改められていった。本来は、所有者が修理・修景して、行政が補助金を出 すものであるが、角館町ではそうではなかった。町が直営で直すことを条件に保存の同意を得 たという経緯があったため、今もその流れが続いているのである。住民にしてみれば、「半永 久的なブロック塀をわざわざ板塀にするのだから、町でやってもらいたい」という感情があっ

たからである。

 「重伝建」選定を受け、町並みの整備が進むと角館を訪れる観光客が多くなった。また、平 成9年3月、秋田新幹線の開業に伴い角館駅ができると、観光客は急増した。角館を訪れる年 間観光客数は約250万人を数え、とりわけ桜の時期に140万人が訪れている。観光客が増えるに 伴い、保存地区内で土産物屋や飲食店を営む家が増え、看板、幟、暖簾が景観を乱すようになっ

た。店は、世代交代で空き家になったところに外部資本が入って始めたものや、生活のために 道路側を借家にして店舗になったものなどがある。角館ではこのような風致の舌Lれや、高齢化 の問題などがいくっか起こっている12)。空き家は1割程度で必ずしも多くはない。その他、保 存地区内の道路には自動車が侵入し、交通安全上の問題があるが、住民の便を考えると通行禁 止にすることはできにくい。

 「重伝建」に選定されて30年が経ち、修理・修景事業はほぼ一巡した。防火設備としてポン プ、放水銃、消火栓の設置は完備しているが、順次改修の必要が生じている。旧式のポンプの エンジンは20年が経って部品供給期間が終了し、修理できないものもある。防災設備は、20年 をサイクルに更新していかなければならない。そのためには費用がかかり、地方財政が厳しく なっている現在、その維持に困難が生じる不安がある。

 雪国の課題として、屋根に積もった雪をほっておくと、建物などが倒壊する恐れがあるため、

雪下ろしが大変である。1冬に2回は雪下ろしが必要になる。放水銃やポンプ室に行く道も絶 えず除雪しておかなければならず、その手間もかかる。また、雪で板塀や生垣が壊れることも 多く、春先にはその修理が必要になってくる。

 角館は、田沢湖町などと合併して仙北市になったが、角館が一っの自治体を形成していた時 代と合併後では、保存に対する市民の意識の違いも課題になってくる。保存を続けていくため

には、広い範囲での理解を得ていくことが必要になってくる。

 高橋仁さんは、「角館の風景を昔のままに保つのは、絶えず手をかけ続けることです。ストッ

プすると板塀などは腐ってしまう。町並み保存は、行政と地区の人たちが一緒になって取り組

む事業です。困難も多いが、町並みを次世代にっなげていくことに喜びを見出さないとこの仕

事はやれませんね」と語る。

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 角館の保存地区では、「かくのだて歴史案内人組合」「角館北部地域自主防災会」「角館伝建 群保存地区の町並みを守る会(以下、「町並みを守る会」と略す)」の3組織が、地域に根ざし た活動をしている13)。その一つである「町並みを守る会」 4)は、地域の歴史的景観を守り、住み よいまちづくりを進めるため、これまで昔の町並みの中で暮らしてきた人々の生活規範を明文 化した「角館伝建群保存地区の町並みを守る住民憲章」15)を履行することを目的に結成された 会である。

 「町並みを守る会」会長の稲葉通誠さんを訪ねて、その活動にっいて話をうかがった16)。稲 葉家は芦名家の家臣で、先祖は美濃国の出身、本家は大分県臼杵にあるという。大坂の陣で西 軍にっいた稲葉家は、茨城県の佐竹家をたよったが、芦名家に行くように言われ、380年前に 芦名義勝が町割をしたときこの地に来住したという角館生え抜きの家である17)。

 角館の武家屋敷街が残ったのは、明治の戊辰戦争で戦場にならなかったことが大きい、とい う。明治33年に角館に大火があり、焼失した武家屋敷も多かったが、屋敷林のおかげで類焼を まぬがれた家もあった。戦後の高度経済成長期、角館は乱開発が行われなかったことも昔の町 並みが残された要因である。

 「町並みを守る会」ができたのは、「重伝建」選定から四半世紀たった平成13年のことであっ た。角館の「重伝建」選定は、行政主導型であり、住民は選定による規制が心配で、当時、不 満や保存に対する反対の声もあった、という。選定時の昭和50年代から始まった修理・修景事 業は、「町並みを守る会」ができた時期には、ほぼ一巡していた。「町並みを守る会」は、おく ればせながらできた、といった感じである。今であれば、行政と住民がいっしょになって取り 組んで「重伝建」選定にこぎっけるのが普通であるが、当時はそうではなかった。この行政主 導型で強引にやったことが乱開発を防いだので今の角館がある、との考え方もできる。「規制 しながらも住民の生活を向上させたい」、この矛盾することを解決していくのが「町並みを守 る会」の目標である。

 武家屋敷街に住んでいるのはほとんどが高齢者で、都会に出た子供はなかなか帰ってこない。

空き家に外の人が入ってきて商売を始めたところも出てきた。外部から来て商売をするには、

夜はその家に泊まってもらうことを条件にしているが、それがなかなか守られていないのが問 題である。観光協会は、角館に年間観光客が何人来たかという数字だけを問題にするが、「町 並みを守る会」では、観光の質を問題にしている。観光客の多くは、バスから降りて土産物屋 に直行して帰っていく。文化財をきちんと見て回る観光になるように、その質を高めていくこ とが今後の課題である。稲葉通誠さんは、「地域の連帯感をもって一人暮らしの人を助け合い ながら、っっましやかに暮らしていくことができる町であり続けることを願っています。その ために人間関係の調整も含めて「町並みを守る会』の役割は大きいのです」と話す。

4、福島県会津若松

 福島県会津地方の北東部に位置する会津若松は、城下町としての歴史をもっ会津地方の中心

的な都市である。市街地の南に鶴ヶ城があり、昭和40年に再建された五層の天守閣が本丸跡に

そびえている18)。城下町としての会津若松の基礎を築いた蒲生氏郷は19)、それまで郭内にあっ

た大町、馬場町などの町家を郭外に移して郭内に武家屋敷を、商人・手工業者の居住地を郭外

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東北地方における地域づくりに関する研究 37

に置くとともに、社寺の移転を行う町割を行なった。蒲生氏郷は、出身地から商工業者を呼び 寄せて大町に会津商人司・簗田家の屋敷を与えるとともに、日野町からやってきた商工業者の 居住地として日野町(のちの甲賀町)をつくった。鶴ヶ城本丸から北に延びる北出丸大通りが 旧甲賀町、西出丸から同様に北に延びる「野口英世青春通り」と通称されている通りが旧大町 に相当し、城下町会津若松は、この2本の通りを基軸に形づくられている。甲賀口門と大町門 を結ぶ東西の線から南側が武家屋敷地、北が商工業者の居住地であった。しかし、今日、町家 は旧武家屋敷地まで食い込むように延びている。

 甲賀町の西には馬場町、東には博労町の通りが、また、大町の西には桂林寺町の通りが南北 方向に延びている。会津若松は、東へ白河・二本松街道、南へ下野街道、西へ越後街道、北へ 米沢街道が延びる交通の要地であった。大町・馬場町・桂林寺町のほか、本郷町・三日町・六 日町では六斎市が開かれ、若松は「奥州の都」とうたわれるほど、商業活動が賑わいをみせた という。また、会津若松の地場産業として知られる会津漆器は、蒲生氏郷が郷里の近江から木 地師・塗師を呼び寄せ、日野椀の製法を導入してその基礎が築かれたといわれている。

 会津若松は、明治元年に起こった戊辰戦争で、城下は大きな痛手を受け、武家屋敷の多くは、

その姿を大きく変えていった。しかしながら、商人町を中心に昔の建物は、意外と数多く残さ れている。会津若松市では、これらの昔の構えを残す建物の登録物件リストを作成している2°)。

その大半は、明治から大正・昭和初期に再建された建物で、古いといっても江戸時代の建物は ほとんど含まれていないことに、戊辰戦争のすさまじさを伺い知ることができる。

 会津若松市は、これら歴史的景観の保存とともに、自然景観を含めた景観行政がきわめてい き届いていることが注目される。また、会津若松では、昭和40年頃、市内の老舗が「会津復古 会」を結成し、「店舗は文化である」との信念から、統一した暖簾を店先に掲げ、土蔵造りや 木造の町家の良さを活かした商売を進めていった2 )。

 会津若松市役所を訪ね、建設部都市計画課の一条芳浩さんから、会津若松市の景観形成に向 けての取り組みにっいて話をうかがった。会津若松市が、都市景観にっいて政策的な位置づけ を行ったのは、昭和61年3月に策定された長期総合計画にあたる「新まちづくり」計画であっ た。平成元年、都市景観対策プロジェクトチームが発足し、具体的な施策にっいての検討がは

じまる22)。そして、検討を重ね、平成4年に「会津若松市景観条例」が制定された23)。

 まちの景観は、その土地の文化や生活を表す「顔」であり、そこに暮らすすべての人との関 わりの中でつくられる。まちを個性豊かで魅力にあふれるものにするためには、市民と行政が ともに知恵を出しあい、協力しあうことが大切である。景観は自然にできあがるものではなく、

市民一人一人の努力によって形づくられていくものである、という考えのもとで、会津若松市 ではさまざまな取り組みを始めたのである。そして、現在、会津若松市は、「第五次会津若松 市長期総合計画」(平成14年〜)の中で将来像を「歴史・自然・文化がいきつく夢と活力のあ

るまち」と定めて種々取り組みを始めている。

 会津若松市の景観形成の取り組みは、「歴史的景観指定建造物の指定」24)「自然景観指定緑地

の指定」25)「会津若松市景観協定の認定」26)が柱になっている。また、良好な景観形成を推進

していくための助成制度である「美しい会津若松景観助成制度」27)や、表彰制度である「美しい

会津若松景観賞」2B)をはじめ、子どもたちに関心を持ってもらうための活動「大好きな会津絵

(8)

画コンクール」ee)と、その取り組みは多種多様である。また、実際、指定にまでは至っていな いが、「会津若松市景観条例」の中に「景観形成地区の指定」もうたわれている。

 これまで、11地区で「景観協定」が結ばれた。最初に締結されたのは、「旧七日町町並み協 定」(平成7年7月)である3°)。七日町通りは、平成5年頃には「シャッター通り」と言われ るくらい寂れ果てていた。ところが、七日町通りで3っの「景観協定」が結ばれ、大正ロマン を活かしたまちづくりに取り組む機運が盛り上がり、空き店舗の改修が進み、街は活気を取り 戻した。

 会津若松は、年間約300万人の観光客が訪れる、会津地方有数の観光都市でもある。ここ十 数年の間、会津若松の旧来、有名であった観光地を訪れる観光客は減少傾向にあるが、そのよ

うな時代の中で「景観協定」を結んで、積極的にまちづくりに取り組んだ七日町においては観 光客が増えている。

 全国的な傾向でもあるが、中心市街地にある商店では、近隣住民を対象にした昔ながらの小 売商売は成り立ちにくくなっている。会津若松もその例外ではない。商売を続けていくために は、観光客を視野に入れた新しいやり方を導入する必要に迫られている。会津若松市では、こ れら町並み景観整備のための助成制度に加え、統一された暖簾や看板を出すための観光関係の 助成制度や、空き店舗を改修するための商工関係の助成制度もっくられている。

 一条芳浩さんは、「これら三っの制度をうまく組み合わせながら、生き残りを図っていく戦 略を立てることが大切だと思います。景観形成の仕事で行政ができることは、財政的な支援と 技術的な指導であり、その取り組みの主体はあくまでも市民であり、事業者です。行政は、あ くまでも市民・事業者に やっていただく 立場であります。そこをきちんと認識しておくこ とが大切です」と話す。

5、福島県喜多方

 福島県西北部、会津盆地の北部に位置する喜多方は、「蔵のまち」として知られる。江戸時 代までは、会津の北部に位置していたことから北方(きたかた)と呼ばれ、会津若松と山形県 米沢を結ぶ街道が通り、物資の集散地として栄えた。市街地の中心をなす町場は、喜多方駅の 北方に延びる小荒井と、田付川を隔てて東側に位置する小田付である。小荒井は仲町の「ふれ あい通り」、小田付は南町通りに当たる。明治8年、この小荒井・小田付ほか周辺3力村が合 併して喜多方町となった。

 喜多方市の基幹産業は農業であるが、漆器・桐下駄・桐工芸品製造の伝統工芸や、清酒・味 噌・醤油の醸造業など伝統産業もある。また、「蔵のまち」「喜多方ラーメンのまち」として観 光客誘致に力を入れ、年間約100万人の観光客が訪れる地となっている。

 喜多方市役所を訪ね、観光課の五十嵐徹也さんから喜多方がなぜ「蔵のまち」として有名に なったのかにっいて話をうかがった。喜多方市内には、約2,600棟の蔵があるという。これを 単純に世帯数で割ると、4世帯に1棟は蔵がある計算になる。喜多方には「いっちょ前の男な ら蔵の一っも建てねば」という気風があったほどで、農家の土蔵はもとより、酒蔵・漆器蔵・

味噌蔵・家財蔵・店蔵・座敷蔵、さらにはMH I蔵と、ありとあらゆる蔵が建てられた。

 喜多方周辺で土蔵が普及するのは、江戸時代後半の文化・文政期(1804〜30)以降といわれ

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東北地方における地域づくりに関する研究 39

ている。そのころから経済力が上向いて土蔵を建てる家が増え始めた。しかし、農民は勝手に 蔵を建てることができず、代官所に伺いを立てて蔵をっくっていた。幕末の嘉永・安政年間

(1848〜60)になると地方三方(肝煎・地首・鍬首)が蔵を建て始め、明治から大正にかけて 一般農家でも蔵を建てることが流行した。

 町場では、酒造業者、漆器屋、質屋などの有力商人が蔵を競って建てた。周辺の農村部で生 産された米・麦・大豆は喜多方に集まり、町場では、酒・味噌・醤油づくりが盛んであった。

また、伝統産業の漆器製造もあり、このようなことを背景に力を持った家々が蔵を建てていっ

た。

 喜多方の町場で蔵が普及するのは、明治13年の大火後であった。この時、約300棟の建物が 焼失し、以後、火に強い土蔵が普及した。この大火の後に再建された安勝寺の本堂は蔵造りに なっている。お寺まで蔵造りとは、いかにも喜多方らしいことではないか。明治20年代には、

郊外の三津谷でレンガが焼かれ、三津谷で製造されたこげ茶色の色合いをしたレンガを使った 蔵が多いのも喜多方の特徴である。

 しかし、戦後、しだいに蔵は壊されていく。農作業の機械化が進むと、作業蔵や道具蔵の改 造や取り壊しが進んだ。また、商店街では、駐車場をっくるため蔵を取り壊わすようになった。

そのような時代の中で、取り壊されていく蔵に愛着を込めて写真を撮り続けていた人がいた。

その人は、金田実さんである。金田さんは、昭和47年に市内で喜多方の蔵をテーマにした写真 展を開いた。その写真展は反響を呼び、翌年に会津若松、49年には東京で写真展が開かれた。

 喜多方の蔵が全国に知れ渡ったのは、昭和50年にNHKの新日本紀行「蔵ずまいの町」が放 映されたことがきっかけになっている。その頃から、喜多方に観光客が訪れるようになったが、

昭和50年の観光客数は年間5万人で、現在の1/20にしか過ぎない。また、蔵の価値が県内の人々 に知れ渡るのには、昭和54年に朝日新聞福島版で「蔵のうちとそと」の連載が始まったことが 影響を与えている。

 喜多方の蔵造りを中心とした商家は、昭和50年代半ばに伝建群保存調査が行われ、喜多方市 教育委員会が『喜多方の町並』(昭和55年)を刊行するが、蔵造りの建物の保存活動は進展す ることはなかった。むしろ、それに逆行する動きが起こっている。ちょうどその頃、中心市街 地の商店街は衰退を始めていた。これらの商店街にとっては、会津若松や郡山に奪われがちな 買い物客をいかに引き止めるかが最大の関心事で、蔵の景観は二の次であった。昭和50年代初 期に仲間商店街がアーケードをっくると、それまで買い物客が多かった中央通商店街から客足 が遠のいた。そこで、昭和55年に中央通商店街も後を追うようにアーケードをつくったのであ る。アーケードは雨や雪を防ぐのに好都合である。その結果、表通りから見える蔵の景観が台 無しになってしまった。

 昭和60年代に入り「蔵のまち」整備の動きがようやく芽生え、喜多方市は昭和60年度に「歴 史的地区環境整備街路事業」に取りかかった。整備したのは、大和川酒造前の越後裏街道と、

甲斐本店の南側の小道31)であり、道路美装化が行われた。また、昭和62年度には「HOPE計画」

が策定され、風土に根ざした建築づくりが奨励されていく。さらに、昭和63年度には「蔵移築

再生事業」を立ち上げ、「まちづくり特別対策事業」(自治省)の補助金を受けて「喜多方蔵の

里」の建設を始めた32)。市街地西郊の旧河川敷に建設を始めた「喜多方蔵の里」は、店蔵・蔵

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座敷・穀物蔵・味噌醸造蔵のほかに、旧郷頭屋敷や旧肝煎屋敷の曲がり家を移築して平成5年 に開館する。さらに、平成7年には「喜多方蔵の里」に隣接して、レンガ造りのデザインを取 り入れた喜多方市美術館が開館する。これらの施設は、街中に雑然と蔵の点在する風景に比べ、

あまりにも整然としすぎており、そのギャップが激しい。市内に点在する蔵を保存する制度と して、平成元年度から「喜多方市蔵保存補助金交付要綱」が定められた。制度ができたこと自 体は評価に値するが、補助率はきわめて低い鋤。

 昭和の終わりから平成にかけて、喜多方を訪れる観光客はうなぎのぼりに増えていく。平成 元年、観光客は50万人台を越え、駐車場不足が問題となった。そして、翌2年には西四ツ谷観 光駐車場が設置され、以後、駅前駐車場、新道駐車場が整備され、車で来訪する観光客の受け 入れ体制が整っていった。また、高速道路の磐越道郡山〜会津坂下が開通した翌年の平成5年

には観光客が100万人台に達した。

 五十嵐徹也さんは、喜多方にやってきた観光客から「蔵の町というけど、蔵どこにあるの?」

とよく聞かれるという。喜多方市内に約2,600棟もの蔵があるのに、そのような質問がなされ ることは、いったい何を意味しているのだろうか。これは、喜多方駅を降りて、商店街を歩く 観光客にしてみれば、もっともな質問だと思われる。喜多方市にとって、市内に残存する蔵は 観光資源としての色彩が強く、文化財としてこれを継承していこうとする体制が充分確立して

いないからである。

まとめ

 以上の調査研究を通して学んだことを要約すると、以下の通りである。

 青森県弘前及び秋田県角館は、ともに城下町として歴史を持っ都市で、「重伝建」制度発足 期の昭和50年代前半以降、静かな仔まいの武家屋敷の環境を保存して地域づくりを推進してき

た地域である。保存活動は、冬場の雪対策、伝統的家屋の寒さや雪下ろし問題、世代交代によ る意識の変化など、さまざまな問題を抱えながらも継承されてきた。保存活動が始まった当初、

弘前では「おだやかな雰囲気を住みながら守っていこう」という意識が住民の間に見られたが、

世代交代が行われる中で、今後どのようにしてその意識を受け継いでいくかが課題である。

 秋田県角館においては、観光客の増大に伴って保存地区内で土産物屋や飲食店を営む家が増 えるとともに、世代交代で空き家になったところに外部資本が入って景観・風致の乱れが問題 視されるようになった。「地域の連帯感をもって一人暮らしの人を助け合いながら、つっまし やかに暮らしていくことができる町であり続けることを願っている」をいう角館の住民の考え には、共感するところがある。

 近年、「重伝建」に選定された青森県黒石では、雪国独特の「こみせ」の続く中町の町並み を観光資源として活かして「こみせを核にしたまちづくり」が始まった。「こみせ」は、町の 人たちが自分の土地を提供して、他の人たちに安全に歩いてもらおうとする心があったから生 まれたものだ、という。そして、「形だけではなく、この黒石の人の心を受け継いでいくこと が地域づくりにおいて何よりも大切だ」という住民の言葉は、地域づくりの核心をっくものと

して注目に値する。

 福島県会津若松と喜多方は、「重伝建」に選定されていないものの、それぞれ歴史・文化を

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東北地方における地域づくりに関する研究 41

活かした地域づくりの取り組みが見られる。城下町としての歴史を持っ会津若松は、戊辰戦争 の影響で近世の建造物はあまり残されていないが、明治・大正期の商人町の建物が町並みの中 に点在している。会津若松市は、これらを「歴史的景観指定建造物」に指定して歴史的景観の 保存を行うとともに、自然景観を含めた景観行政がきわめて行き届いていることが注目される。

 会津若松の町並みを歩いて気がついたことは、造り酒屋や漆器問屋に「歴史的景観指定建造 物」が多いことである。周辺部に米どころをひかえた会津若松は、造り酒屋が多いまちで、15 軒の造り酒屋が会津若松酒造組合を結成している。また、蒲生氏郷以来の歴史を持っ会津塗り の伝統もあって、多くの漆器問屋が街中に堂々とした店舗を構えて営業を続けている。町並み を歩いて気になったことは、老舗はいかにも堂々とした構えをしているが、そうでない一般の 家はこれといった特徴がなく、群としての町並みの魅力に欠けるという点である。

 これは、会津若松に限ったことでなく、東方地方の町場に共通して見られる現象ではないか。

ちなみに、東北地方の町並みで、国の「重伝建」は、わずか5ヶ所にしか過ぎない(青森県弘 前市仲町・黒石市、岩手県金ヶ崎町、秋田県角館町、福島県大内宿)。このうち3ヶ所が武家 地で、商人町はわずかである。全国で79ヵ所を数える「重伝建」地区(平成19年1月)は、東

日本に少なく、西日本に多くあるのが特徴である。これは、どのような理由からであろうか。

その背景の一っに東西日本の社会構造の違いが挙げられるのではないか。よく言われるように、

東日本は有力な家を中心にそこに隷属する人々で構成されていた社会である。これに対し西日 本は、ほぼ同じ力を持った人々が連携することで形づくられた社会を特徴としている。西日本 に町並みが群として残される傾向があるのに対し、東日本では有力な家が点在する形で残され るのは、歴史的な町並み形成の上に、そのようなことが影響を与えているのではないだろうか。

会津若松の城下の商人町の残り方を見て、そのような感を深くする。

 福島県喜多方は、「蔵のまち」として観光客誘致に力を入れた地域づくりを展開している。

喜多方市では「喜多方蔵の里」の建設を行い、市内に点在する蔵を修理するために「喜多方市 蔵保存補助金交付要綱」を定めているが、市街地の蔵は、アーケードをっくったために表通り から見る蔵の景観が台無しになっている。喜多方市においては、蔵の位置づけは観光資源とし ての色彩が強い。そして、蔵を文化遺産として保存していく制度が未整備である点が課題であ

る、と指摘できよう。

謝辞

 本研究は、愛知淑徳大学研究助成成果報告の一部である。研究費をいただいた大学当局に感 謝申し上げるとともに、調査研究を実施するに当たり、現地でお世話・ご教示いただいた宮川 慎一郎氏・三上哲也氏・三国良一氏(弘前市教育委員会)、高橋幸江さん(国重要文化財・高 橋家)、高橋仁氏(仙北市教育委員会)、稲葉通誠氏(「角館伝建群保存地区の町並みを守る会」

会長)、一条芳浩氏(会津若松市役所建設部都市計画課)、五十嵐徹也氏(喜多方市役所観光課)

をはじめ、関係者各位に感謝申し上げたい。

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1)弘前は、戦国時代、三戸南部氏の支配下にあったが、津軽を統一した大浦為信が、天正18年(1590)、

 津軽氏を名乗って津軽藩を創始した。為信は、慶長8年(1603)、高岡の地に築城を計画し、翌年か  ら城下町の町割に着手した。以来、弘前は、津軽氏の城下町として続き、廃藩置県を迎える。

2)保存地区内には、238世帯、人口498人が住んでいる(平成17年7月)。建物総数は366棟を数え、う  ち、伝統的建造物が9棟(母屋8、土蔵1)、伝統的な門が21棟ある。その他、地区内には伝統的な  生垣が81件、板塀が5件あり、緑豊かな環境に包まれている。

  伝統的建造物を修理する場合、母屋・門・板塀には80%の補助金が出る。限度額は母屋300万円、

 門80万円、板塀30万円となっている。また、生垣の修理にも50%(限度額5万円)の補助金が支出  される。その他指定されていない一般の建造物・工作物の修景についても2/3の補助金が出る(限度  額は母屋200万円、小屋・車庫が60万円)。さらに、門・板塀・生垣を新設した場合も補助金があり、

 門・板塀は2/3(限度額は門が80万円、板塀が30万円)、生垣は1/2(限度額は10万円)が支出される。

3)陣屋町としての歴史は、弘前藩主津軽信義の急死により明暦2年(1656)、4代藩主信政の後見役  に命じられた津軽信英が弘前藩から五千石を分地し、黒石津軽家を創始したことに始まる。津軽信  英は、黒石陣屋を設け、町割を行って今日の町並みの基礎を築いた。

4)明治4年、廃藩置県により黒石藩は廃止され、「黒石県」が置かれたものの、わずか2ヶ月で県庁  は青森に移転した。明治11年、郡役所が設置され、大正元年、川部・黒石間を結ぶ国鉄が開通する。

5)「かくじ」とは裏地のことで、中町の町家の屋敷裏を利用して歴史・風土を演出した小公園として  整備された。

6)背景として、郊外に大型店ジャスコ黒石店が開店(平成8年)し、中心市街地の一番町通りにあっ  た旧カネ長武田デパート黒石店が閉店(平成9年)した動きがあった。

7)保存地区内にある伝統的建造物は、42件(うち母屋10件)、工作物5件、環境物件10件である。な  お、「黒石市歴史的景観保存条例」による修理・修景の補助は、以下の通りである。伝統的建造物群  保存地区内の伝統的建造物の修理の補助率は9/10(限度額900万円)、伝統的建造物以外の建造物・

 工作物の修理・修景の補助率は8/10(限度額800万円)、環境物件の管理費の補助率は1/3(限度額10  万円)、景観形成地区の「こみせ」部分の修理・修景の補助率は8/10(限度額240万円)である。

8)高橋幸江さんは、神奈川県厚木市生まれ。縁あって津軽黒石の高橋家に嫁ぎ、現在、14代目の当主  としてこの家を守っている。

9)城下町町角館の歴史は、15世紀から戸沢氏が古城山に城を築き居城としていたが、慶長7年  (1602)戸沢氏は転封となり、佐竹氏の入部により、翌8年芦名氏の所預となった。城は、一国一城  令により破却され、元和6年(1620)芦名義勝は館を構えて新たな町割を行った。その後、承応2年  (1653)芦名氏が断絶すると、明暦2年(1656)佐竹氏一門の佐竹義隣がこの地に来住して佐竹北家  を称し、以後、佐竹北家の城下町としての歴史を歩む。

10)保存地区内には141棟の建物があり、そのうち44件が伝統的建造物に指定されている。内訳は建築

 物39件(母屋9件、蔵10件、門8件、その他12件)、工作物5件(板塀5件)である。また、環境物

 件334件(生垣4件、柴垣2件、石積5件、樹木323件)がある。このことから、角館の保存地区の

 特徴は、樹木がきわめて多いことが挙げられる。樹種は120数種に及び、樹齢50年以上の木160本を

 数える。

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東北地方における地域づくりに関する研究 43

11)保存地区内の伝統的建造物の修理は、8/10の補助金が出る(限度額は母屋700万円、付属建物400  万円)。また、保存地区内の伝統的建造物以外の修景には母屋7/10(限度額300万円)、付属建物6/10  (限度額100万円)の補助金が出る。「整備費補助金交付要綱」には、補助対象事業の例外として「道  路に面した門、塀、生垣、及び柴垣等」と明記されている。これは、町が100%お金を出して整備す  ることを意味している。

12)保存地区内29世帯の内に高齢者独居5世帯、高齢者夫婦5世帯があり、1/3が高齢者世帯である  (平成17年)。また、保存地区内には3軒の空き家がある(うち伝統的建造物1軒、非伝統的建造物

 2軒)。

13) 「かくのだて歴史案内人組合」(平成7年結成・会員35名)は、観光客を案内して角館の歴史を紹  介する活動を行うグループである。「角館北部地域自主防災会」(平成12年結成・会員64名)は、地  域を巡視し防災施設の点検を行う会である。「角館伝建群保存地区の町並みを守る会」(平成13年結  成・会員45名)は、町並み保存活動の会である。

14)「角館伝建群保存地区の町並みを守る会」の主な活動は、次の6っである。①研修、②歴史的遺産  及び自然景観の保全、③住民生活の向上に関する活動、④環境美化、⑤防災活動、⑥関係機関との  連絡提携。

15)「角館伝建群保存地区の町並みを守る会」発足と同時に制定された「角館伝建群保存地区の町並み  を守る住民憲章」には、次の3っがうたわれている。

  ①町並みを誇りを持って自ら守り、次の世代の人々に引き継こうとする意識の高揚を図る。

  ②住民の生活環境に配慮しながら、町並みを保存するための活動を積極的に進める。

  ③関係機関(団体)との連携を密にして町並み保存に努める。

16)稲葉通誠さんは、教員(中学校30年、小学校10年)として秋田県内で勤務後、角館に帰ってきた。

17)芦名家家臣として河原田家、岩橋家、青柳家が昔の家構えで残っている。また、佐竹北家の家臣と  して石黒家が古い家構えを残す。

18)城下町会津若松は、14世紀、葦名直盛がこの地に「東黒川館」をっくり、会津を支配したのが始ま  りである。天正17年(1589)、葦名氏は伊達政宗に滅ぼされ、しばらく伊達家の支配となるが、ほど  なく伊達政宗は米沢へ去る。城下町・会津若松の基礎を築いたのは、蒲生氏郷である。天正18年  (1590)、豊臣秀吉から会津の地を与えられ黒川へ入った蒲生氏郷は、黒川を若松と改め、築城と城  下町の建設を始めた。慶長3年(1598)、会津若松は上杉氏の領有するところとなり、その後、蒲生  氏、加藤氏を経て、寛永20年(1643)、三代将軍家光の弟にあたる保科正之が最上から入部し、以来、

 保科氏(のち松平氏)が幕末まで会津を支配することとなった。

19)蒲生氏郷は、近江国蒲生郡日野城主蒲生賢秀の子で、のちに伊勢松ヶ島12万石を支配した。

20)リストには84件の建物がのっている(平成18年3月)。また、この中の25件が「歴史的景観指定建  造物」に指定されている。

21)この活動は今日も受け継がれ、15軒の店が「会津復古会」に加盟している。

22)背景として、バブル経済下、高層マンション建設問題が相次ぎ、市民の間で建設反対運動が出始め、

 根本的な対策が求められていたことが挙げられる。

23)「会津若松市景観条例」は「調和のとれた個性豊かな景観の形成に関して必要な施策を推進するこ

 とにより、市民一人一人が会津若松らしい景観をまもり、っくり、そだてる」という理念がある。

(14)

24)「歴史的景観指定建造物の指定」は、会津若松らしい景観を創造するため、歴史的に重要な建造物  などを指定して保存・活用を図る制度。建物の年代は、建築後おおむね50年を超えるものを対象に  しているので、高度経済成長期の前に建てられた建物は指定の対象になっている。

25)「自然景観指定緑地の指定」は、会津若松の自然資源を保全するとともに、良好な景観形成のうえ  で重要な森林・樹木・緑地などを「自然景観指定緑地」として指定し、保存を図る制度。現在、登  録物件リストに34件がのっており、うち22件が「自然景観指定自然緑地」に指定されている(平成18  年3月)。

26)「会津若松市景観協定の認定」は、建物の形態・色彩、敷地の緑化等にっいて、市民が「景観協定」

 を結び、個性を生かしたまちづくりに取り組むことを期待してっくられた制度。市民が「景観協定」

 を結び、これを市が認定すると、景観形成の取り組みにっいて助成金が出る仕組みとなっている。

27)「美しい会津若松景観助成制度」は、「歴史的景観指定建造物」「自然景観指定緑地」「景観協定地  区」を対象とし、良好な景観形成を図るために、次の助成措置がとられている。「歴史的景観指定建  造物」では、外観の修景工事の2/3の補助(上限200万円)、断熱・防水化工事の2/3の補助(上限100  万円)がある。また、「自然景観指定緑地」の指定樹木の維持管理に、1本あたり5,000円、指定緑  地の維持管理に1㎡あたり5円の単価で算由した金額がそれぞれ10年間支出される。

28)「美しい会津若松景観賞」は、潤いのあるまちづくりに対する関心を高めることを目的に生まれた  制度。良好な景観の形成に寄与している建築物等の所有者や、設計者・施工者をはじめ、より良い  景観づくりに取り組んでいる団体などの表彰を行なっている。

29)「大好きな会津絵画コンクール」は、小中学生に街路や建物、森、将来の会津若松の町並みなどの  絵を描いてもらい、作品を展示することで、小中学生だけではなく大人にも景観に対する関心をもっ  てもおうとして始まったコンクール。

30)以後、市街地では、「七日町通り下の区町並み協定」(平成7年9月)、「博労町通り上の区町並み協  定」(平成8年9月)、「七日町中央まちなみ協定」(平成8年9月)、「野口英世青春通り町並み協定」

 (平成9年7月)、「町方蔵しっく通り景観協定」(平成11年3月)、「会津ふれあい通り町並み協定」

 (平成12年6月)、「融通寺町町並み協定」(平成15年3月)と、次々に協定が結ばれていく。また、

 郊外でも新興住宅地の「鶴亀ハイタウン景観協定」(平成7年7月)をはじめに、温泉地の「芦ノ牧  温泉街景観協定」(平成9年4月)、「東山温泉街景観協定」(平成17年3月)が締結された。「景観協  定地区」における助成措置も行き届いている。その内容として①建築物などの新・改・増築や移転  工事のうち、外観に関わるもの(補助率1/2、上限100万円)、②建築設備・サービススペースなどの  いんぺい工事(補助率1/2、上限70万円)、③建築物などの外観の大規模な模様替えや色彩の変更  (補助率1/2、上限70万円)、④道路などの公共に面する部分の緑化及び公開空地の緑化、ストリート  ファニチャーなどの整備(補助率1/2、上限50万円)、⑤景観協定地区の景観提案書(修景計画書)

 の策定や活動など(補助率1/2、上限50万円、ただし3年間)の助成制度がある。

31)平成6年、手づくり郷土賞「ふるさとを紹介する道」を受賞。

32)平成3年、手づくり郷土賞「施設部門」を受賞。

33)補助率は、蔵の改修、移転工事が1.8〜4.5%(補助対象工事費は1,000万円まで)、蔵の新築工事が

 1.8%(補助対象工事費は1,500万円まで)である。補助率は低いものの、この制度を利用してこれま

 で交付金を受けて改修等がなされた蔵は58件にのぼっている(平成17年度現在)。

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