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東北地方における地域づくりに関する研究
谷 沢 明
はじめに
本稿は、平成13年度から取り組んでいる歴史・風土・文化を活かした地域づくりに関する研 究の一環として実施した愛知淑徳大学助成研究「地域づくりに関する研究〜山陰・東北地方〜」
(平成17、18年度)の調査・研究成果の一部を報告するものである。
筆者は、これまで、日本各地の歴史的町並みの調査研究を行い、歴史的な生活環境や町並み の形態の成り立ちを読み取る中で、よりよい都市環境や景観、あるいは地域社会の個性を生み 出す諸条件を探り、人間生活と都市形成とのかかわりを考察してきた。
今回も、同様な作業を継続する中で、地域文化振興の視点から東北地方で歴史的町並みが残 る青森県弘前・黒石、秋田県角館、福島県会津若松・喜多方の事例を挙げ、現地調査で得た資 料・インタビュー調査を基に、それぞれの地域で展開された歴史的文化遺産を活かした地域づ
くりのあり方を整理し、その特徴にっいて明らかにしていきたい。
1、青森県弘前
青森県西南部に位置する弘前は、江戸時代から津軽地方の政治・経済・文化の中心地として 発展した城下町としての歴史を持っ都市である1)。戦災を免れた市内には、江戸時代の面影を 残す寺院街や武家屋敷街、明治・大正期の洋風建築などが多数残されている。
城下町弘前の特徴として、城の南西方向の高台に藩主菩提寺の長勝寺を置き、その門前に禅 林三十三ヶ寺を配した「長勝寺構え」が知られている。これは、有事の際、出城となる役割を 持った寺院街として形づくられた。
武家屋敷は、弘前城の東・西・北側をとりまくように配置された。東の大浦町には藩の重臣 が住み、西の五十石町・鷹匠町は中級武士や鷹匠が住んだ町である。また、城の北側に位置す る若党町・馬喰町・小人町は中級・下級武士の居住地で、ここには江戸時代の町割とサワラの 生垣や板塀に囲まれた武家屋敷街の面影が残されている。
弘前の武家屋敷を特色づける道路境のサワラの生垣は、外から屋敷内が見えにくく、内から は見通しがきき、敵に対する防御を考えて植えられたという。また、生垣のサワラの実は非常 食として利用されてきた。弘前の武家屋敷の庭には、実のなる木として、ウメ、カキ、クリな ども好んで植えられている。また、隣家との屋敷境に薬草となるクコを植えて生垣にする慣わ しがあり、西側の生垣を各家で植えるのがしきたりであった。
若党町・馬喰町・小人町は、周辺の亀甲町・春日町・田茂木町を含めて江戸末期、「仲町
(なかちょう)」と総称されるようになった。この馬喰町の全域と若党町と小人町の一部は、昭
和53年2月、「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区」として都市計画決定され、同年5月、国 の重要伝統的建造物群保存地区(以下、「重伝建」と略す)に選定された。
弘前市教育委員会を訪ね、宮川慎一郎課長、三上哲也係長、三国良一主査から町並み保存の 経緯をうかがった。弘前市で町並み保存の動きが起こったのは、昭和50年1月であった。読売 新聞の特集記事「風格のある町」において、弘前市が「東の横綱」に格付けされたのがきっ か けであった。この記事が契機となって、弘前市は、早速、「城下町の風格保存懇談会」を組織 するとともに、「城下町の風格保存対策プロジェクトチーム」を立ち上げた。同年7月、文化 財保護法改正により、伝統的建造物群が新たな文化財の種別の一っに加えられた直後の8月、
弘前市では「城下町の風格保存要綱」を制定し、町並み保存に向けて動き出す。
昭和51年3月、文化庁補助事業による「伝統的建造物群保存対策調査」が実施された。また、
同年暮れに住民アンケート調査も行われた。昭和52年、町並み保存のための地区住民説明会が 開かれ、暮れには保存条例が制定された2)。このような動きの中で、弘前市仲町は、とんとん 拍子で「重伝建」選定となったのである。
選定後の動きとして、昭和54年9月、「弘前市仲町伝統的建造物群保存会」が発足する。翌55 年12月、旧伊東家住宅が移築復元された。また昭和58年4月、旧岩田家住宅が復元修理された。
さらに、60年8月、旧梅田家住宅も復元修理され、保存地区内に3軒の旧武家屋敷等が公開さ れることになった。伊東家は、代々津軽藩の藩医を努めた家で、中級武士の居宅に類似する家 構えをした建物である。岩田家は、寛政〜文化年間(1789〜1818)頃に建築されたと推定され る茅葺きの武家屋敷である。また、梅田家は、嘉永年間(1848〜54)に建築された茅葺きの武 家屋敷である。
仲町の保存地区を守り伝えていくためには、冬場の雪対策、道幅の問題、世代交代による意 識の変化と、さまざまな問題を抱えている。冬には1メートルを越える積雪があるこの地域で
は、雪対策にとくに頭を悩ましている。流雪溝がないこの地区では、雪かきをして道路の両脇 に置いた雪が板塀や生垣を倒すことがあり、雪を流す川の整備をして欲しい、との住民からの 要望が強いという。また、伝統的家屋の建築様式である切妻屋根の雪下ろしは手間がかかるた め、スノードレイン形式の陸屋根に建て替えたい、との要望も強いという。
保存地区の道幅は、4〜5メートルである。この道幅は、昭和初年に1間幅の道を拡張して 今日に至ったものであるが、自動車のすれ違いは困難である。特に冬場は、道路両側に除雪し
た雪のため、実際の道幅はもっと狭くなり、自動車が走りにくくなる。そのため、保存地区の 住民は不便を強いられる。
「重伝建」選定後30年近く経った現在、住民の多くは世代交代をしている。そのため、保存 の意識に変化が見られ、「なぜ、自分の地区だけ和風の家、生垣にこだわらなければならない のか。なぜ、冬場寒い古い家に住み続けなければならないのか」という意見が出されることも あるという。弘前の武家屋敷街の特徴であるサワラの生垣を個人の努力で維持することも難し く、平成12年度から「サワラ生垣せん定奨励金」の交付が始まった。これは、サワラの生垣を 自らせん定したとき、長さ1メートルにっき1,000円の奨励金が交付される制度である。また 他の意見として、仲町一帯は住宅街であるため、「観光客が来ても、家の中を覗き込まれ、ゴ
ミをおいていくだけで何らメリットがない」との声もある。
東北地方における地域づくりだ関する研究 33
仲町は、戦前は、教員や警察官が多く住んでいた町である。住民は、「土地は殿様からの預 かり物である」と考え、長男が相続をして次・三男は外に出て行くことがしきたりであった。
昭和50年頃までは、長男が結婚すると2階建ての家にして一っの屋敷の中に同居することもあっ たが、今は、その長男夫婦も老夫婦との同居を好まず、他の土地に出て行く傾向が強い。
宮川慎一郎さんは、「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区は、行政主導で保存された場所で す。保存を始あた頃には、弘前のおだやかな雰囲気を住みながら守っていこうという考えが見 られましたが、今は人々のっながりも薄くなってそのような意識も必ずしも高くはありません。
自分たちの住んでいるところが弘前の中で一番いいところだ、と地域の人たちに思ってもらう こと、それが最も大切ですが、一番難しいことでもあります」と話す。
2、青森県黒石
青森県中央部に位置する黒石市は、西に岩木山と津軽平野を控え、東に八甲田連峰を望むリ ンゴの産地として知られる陣屋町である3)。陣屋が置かれたところは、現在、市民文化会館の 建っ位置で、浅瀬石川の北に位置している。ここに御殿が建てられ、東に太鼓矢倉、西に御蔵、
南に塩硝蔵などが配置された。陣屋の北には侍町である内町を置き、その外郭を町人町と社寺 で取り囲んだ。
陣屋の東に南北方向に延びる中町・前町は、「浜街道」にあたり、北は青森、南は弘前へ通 じていた。この中町・前町は、造り酒屋、味噌・醤油醸造業、米穀店、呉服店などが軒を連ね る黒石の商人町として栄えた。とりわけ中町には、母屋の前に「こみせ」と称する幅1間ほど の庇が続いており、雪国の風土の中で生まれた独特な町並み景観が見られる。
近代以降の黒石は、士族によるリンゴ栽培が始まり、郡役所が設置されて南津軽地方の中心 地としての道を歩んだ。また、大正期に入って鉄道が設置され、戦後の昭和25年には弘南鉄道 の延長工事が完成して弘前・黒石間に鉄道が開通する4)。この鉄道の開通により、商業の中心 地は、中町から駅前付近に移り、伝統的な町並みは、しだいに衰退の道をたどった。また、昭 和59年、国鉄黒石線が廃止され、駅前付近の商業も振るわなくなった。
国鉄黒石線廃止前年の昭和58年、伝統的建造物群保存調査が実施された。しかし、地元住民 の間で保存運動は起こらなかった。その理由は、保存地区指定によって受ける規制に対する不 安、保存修理費用の個人負担への不安、保存しても商売上のメリットがない人たちの反対の声 があったからだ、という。
積極的な町並み保存の動きはないものの、雪国独特の「こみせ」への着目はみられた。中町・
前町で組織された「こみせ通り商店街振興組合」が中心になり、昭和61年、地域のイベント
「第1回こみせ祭り」が始まる。また、平成4年には「中町冬のこみせ祭り」も開かれ、地域 づくりの機運がしだいに高まっていく。また、平成9年には、中町の一角に「横町かくじ広場」
もっくられた5)。
「こみせ」の続く中町の町並みを観光資源として活かそうとする動きは、平成11年の「黒石
市中心市街地活性化基本計画」策定から活発になり、この計画のコンセプトに、「こみせを核
にしたまちづくり」が掲げられた6)。基本計画策定の翌12年、中町を伝統的建造物群保存地区
に指定しようとする動きが起こり、行政主導型の準備が始まり、13年に「黒石市中町・前町地
区の伝統的建造物群保存地区に係わる調査」(日本ナショナルトラスト)が実施された。調査 終了後の14年に「こみせ保存会」が結成され、「こみせ通り」の保存・修復に努めるとともに、
これをまちおこしに活かす住民組織がようやく立ち上がっていった。そのような動きの中で、
黒石市は、平成16年3月「黒石市歴史的景観保存条例」を制定するとともに、平成17年1月
「黒石市中町伝統的建造物群保存地区」を定めた7)。そして、黒石中町の町並みは、平成17年 7月、国の「重伝建」に選定された。
保存地区内の代表的な建物として、高橋家住宅(昭和48年、国の重要文化財)がある。高橋 家は、黒石藩御用達商人で屋号を「米屋」といい、米穀をはじめ、味噌・醤油・塩などの製造 や販売を行っていた家である。中町に居住したのは享保2年(1717)のことで、宝暦5年
(1755)頃に現在の屋敷を買い求め、宝暦13年(1763)に現在の建物を建築したといわれる。
高橋家住宅を訪ね、当主の高橋幸江さんからお話をうかがった8)。高橋幸江さんは、地域づ くりのイベントに積極的に参加している方である。昭和61年に始まった「こみせ祭り」は、
「こみせ」の価値を広く知ってもらうために始めたイベントである。江戸時代にっくられた
「こみせ」は、雪が降っても、子供やお年寄りが安心して歩くことができ6大切なも.ので、こ れを伝えていかなければならない、という思いがあってこの企画が生まれたという。「こみせ 祭り」は秋のイベントであるが、「こみせ」がその効果を発揮するのは冬である。そのため、
冬にカクマキを着て「こみせ」を歩き、江戸時代の風情を楽しもうということで「冬のこみせ 祭り」も始まった。
黒石の商家の前にある「こみせ」は、町の人たちが自分の土地を提供して、他の人たちに安 全に歩いてもらおうとする心があったから生まれたものだ、という。また、黒石は津軽藩の分 家でありながらも文化意識の高い人たちが多く住んだ町であった。高橋幸江さんは、「この黒 石の人の心を受け継いでいく。形だけではなく、そのような気持ちを受け継ぐことが地域づく
りにおいて何よりも大切です」と熱く語りかける。
3、秋田県角館
秋田県東部、仙北平野の北部に位置する角館は、雄物川支流の玉川と檜木内川の合流点に位 置する城下町である9)。縄張りでは、城下の中央に土塁を築いて「火除け」を設け、北側に武 家屋敷(内町)、南側に町人地(外町)が区画された。武家屋敷は、表町上丁、表町下丁、東勝楽町 を中心に、西に歩行町、小人町が、東に裏町、山根町が配置された。また、町人地は、「火除 け」に平行して横町が東西方向に伸び、横町の南に西から七日町、中町、上新町が南北方向に 伸びる。また、武家屋敷は市街地の南に田町があるが、ここは、芦名氏を監視するために佐竹 本家から遣わされた今宮氏の一団が居住した町であった。
古城山山麓の国道46号から「火除け」前までの表町上丁、表町下丁、東勝楽町の武家屋敷街 は、昭和51年、我が国最初の国の「重伝建」七ヵ所の一っに選定された °)。また、町を流れる 檜木内川左岸には2キロメートルにおよぶ桜並木が連なり、武家屋敷街のシダレザクラも見事 である。なお、角館の伝統工芸として桜皮細工が知られるが、これは、明治維新後の士族授産 として発達したものである6
保存地区は、約720メートル延びる通り沿いに6.9haほど広がり、29世帯72人が住んでいる
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(平成18年4月)。道路の長さと世帯数の関係をみると、間口の広い屋敷が並んでいることが特 徴である。板塀に囲まれた屋敷内には、シダレザクラをはじめ、モミ、ヤマモミジなどの樹木 が繁り、緑豊かな環境を形成している。
仙北市教育委員会を訪ね、高橋仁さんから町並み保存の取り組みにっいて話をうかがった。
保存開始当時、地域住民の間で保存に対するコンセンサスは必ずしもはっきりしておらず、そ のような中でのスタートであった。昭和53年に保存計画が策定され、この計画に基づいてさま ざまな取り組みが行われてきた。整備方針として、通りに面している塀、門は角館町が直営で 直すことになっだ1)。保存を始めた当時はブロック塀が多く見られたが、整備が進むにつれて ブロック塀は板塀に改められていった。本来は、所有者が修理・修景して、行政が補助金を出 すものであるが、角館町ではそうではなかった。町が直営で直すことを条件に保存の同意を得 たという経緯があったため、今もその流れが続いているのである。住民にしてみれば、「半永 久的なブロック塀をわざわざ板塀にするのだから、町でやってもらいたい」という感情があっ
たからである。
「重伝建」選定を受け、町並みの整備が進むと角館を訪れる観光客が多くなった。また、平 成9年3月、秋田新幹線の開業に伴い角館駅ができると、観光客は急増した。角館を訪れる年 間観光客数は約250万人を数え、とりわけ桜の時期に140万人が訪れている。観光客が増えるに 伴い、保存地区内で土産物屋や飲食店を営む家が増え、看板、幟、暖簾が景観を乱すようになっ
た。店は、世代交代で空き家になったところに外部資本が入って始めたものや、生活のために 道路側を借家にして店舗になったものなどがある。角館ではこのような風致の舌Lれや、高齢化 の問題などがいくっか起こっている12)。空き家は1割程度で必ずしも多くはない。その他、保 存地区内の道路には自動車が侵入し、交通安全上の問題があるが、住民の便を考えると通行禁 止にすることはできにくい。
「重伝建」に選定されて30年が経ち、修理・修景事業はほぼ一巡した。防火設備としてポン プ、放水銃、消火栓の設置は完備しているが、順次改修の必要が生じている。旧式のポンプの エンジンは20年が経って部品供給期間が終了し、修理できないものもある。防災設備は、20年 をサイクルに更新していかなければならない。そのためには費用がかかり、地方財政が厳しく なっている現在、その維持に困難が生じる不安がある。
雪国の課題として、屋根に積もった雪をほっておくと、建物などが倒壊する恐れがあるため、
雪下ろしが大変である。1冬に2回は雪下ろしが必要になる。放水銃やポンプ室に行く道も絶 えず除雪しておかなければならず、その手間もかかる。また、雪で板塀や生垣が壊れることも 多く、春先にはその修理が必要になってくる。
角館は、田沢湖町などと合併して仙北市になったが、角館が一っの自治体を形成していた時 代と合併後では、保存に対する市民の意識の違いも課題になってくる。保存を続けていくため
には、広い範囲での理解を得ていくことが必要になってくる。
高橋仁さんは、「角館の風景を昔のままに保つのは、絶えず手をかけ続けることです。ストッ
プすると板塀などは腐ってしまう。町並み保存は、行政と地区の人たちが一緒になって取り組
む事業です。困難も多いが、町並みを次世代にっなげていくことに喜びを見出さないとこの仕
事はやれませんね」と語る。
角館の保存地区では、「かくのだて歴史案内人組合」「角館北部地域自主防災会」「角館伝建 群保存地区の町並みを守る会(以下、「町並みを守る会」と略す)」の3組織が、地域に根ざし た活動をしている13)。その一つである「町並みを守る会」 4)は、地域の歴史的景観を守り、住み よいまちづくりを進めるため、これまで昔の町並みの中で暮らしてきた人々の生活規範を明文 化した「角館伝建群保存地区の町並みを守る住民憲章」15)を履行することを目的に結成された 会である。
「町並みを守る会」会長の稲葉通誠さんを訪ねて、その活動にっいて話をうかがった16)。稲 葉家は芦名家の家臣で、先祖は美濃国の出身、本家は大分県臼杵にあるという。大坂の陣で西 軍にっいた稲葉家は、茨城県の佐竹家をたよったが、芦名家に行くように言われ、380年前に 芦名義勝が町割をしたときこの地に来住したという角館生え抜きの家である17)。
角館の武家屋敷街が残ったのは、明治の戊辰戦争で戦場にならなかったことが大きい、とい う。明治33年に角館に大火があり、焼失した武家屋敷も多かったが、屋敷林のおかげで類焼を まぬがれた家もあった。戦後の高度経済成長期、角館は乱開発が行われなかったことも昔の町 並みが残された要因である。
「町並みを守る会」ができたのは、「重伝建」選定から四半世紀たった平成13年のことであっ た。角館の「重伝建」選定は、行政主導型であり、住民は選定による規制が心配で、当時、不 満や保存に対する反対の声もあった、という。選定時の昭和50年代から始まった修理・修景事 業は、「町並みを守る会」ができた時期には、ほぼ一巡していた。「町並みを守る会」は、おく ればせながらできた、といった感じである。今であれば、行政と住民がいっしょになって取り 組んで「重伝建」選定にこぎっけるのが普通であるが、当時はそうではなかった。この行政主 導型で強引にやったことが乱開発を防いだので今の角館がある、との考え方もできる。「規制 しながらも住民の生活を向上させたい」、この矛盾することを解決していくのが「町並みを守 る会」の目標である。
武家屋敷街に住んでいるのはほとんどが高齢者で、都会に出た子供はなかなか帰ってこない。
空き家に外の人が入ってきて商売を始めたところも出てきた。外部から来て商売をするには、
夜はその家に泊まってもらうことを条件にしているが、それがなかなか守られていないのが問 題である。観光協会は、角館に年間観光客が何人来たかという数字だけを問題にするが、「町 並みを守る会」では、観光の質を問題にしている。観光客の多くは、バスから降りて土産物屋 に直行して帰っていく。文化財をきちんと見て回る観光になるように、その質を高めていくこ とが今後の課題である。稲葉通誠さんは、「地域の連帯感をもって一人暮らしの人を助け合い ながら、っっましやかに暮らしていくことができる町であり続けることを願っています。その ために人間関係の調整も含めて「町並みを守る会』の役割は大きいのです」と話す。
4、福島県会津若松
福島県会津地方の北東部に位置する会津若松は、城下町としての歴史をもっ会津地方の中心
的な都市である。市街地の南に鶴ヶ城があり、昭和40年に再建された五層の天守閣が本丸跡に
そびえている18)。城下町としての会津若松の基礎を築いた蒲生氏郷は19)、それまで郭内にあっ
た大町、馬場町などの町家を郭外に移して郭内に武家屋敷を、商人・手工業者の居住地を郭外
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に置くとともに、社寺の移転を行う町割を行なった。蒲生氏郷は、出身地から商工業者を呼び 寄せて大町に会津商人司・簗田家の屋敷を与えるとともに、日野町からやってきた商工業者の 居住地として日野町(のちの甲賀町)をつくった。鶴ヶ城本丸から北に延びる北出丸大通りが 旧甲賀町、西出丸から同様に北に延びる「野口英世青春通り」と通称されている通りが旧大町 に相当し、城下町会津若松は、この2本の通りを基軸に形づくられている。甲賀口門と大町門 を結ぶ東西の線から南側が武家屋敷地、北が商工業者の居住地であった。しかし、今日、町家 は旧武家屋敷地まで食い込むように延びている。
甲賀町の西には馬場町、東には博労町の通りが、また、大町の西には桂林寺町の通りが南北 方向に延びている。会津若松は、東へ白河・二本松街道、南へ下野街道、西へ越後街道、北へ 米沢街道が延びる交通の要地であった。大町・馬場町・桂林寺町のほか、本郷町・三日町・六 日町では六斎市が開かれ、若松は「奥州の都」とうたわれるほど、商業活動が賑わいをみせた という。また、会津若松の地場産業として知られる会津漆器は、蒲生氏郷が郷里の近江から木 地師・塗師を呼び寄せ、日野椀の製法を導入してその基礎が築かれたといわれている。
会津若松は、明治元年に起こった戊辰戦争で、城下は大きな痛手を受け、武家屋敷の多くは、
その姿を大きく変えていった。しかしながら、商人町を中心に昔の建物は、意外と数多く残さ れている。会津若松市では、これらの昔の構えを残す建物の登録物件リストを作成している2°)。
その大半は、明治から大正・昭和初期に再建された建物で、古いといっても江戸時代の建物は ほとんど含まれていないことに、戊辰戦争のすさまじさを伺い知ることができる。
会津若松市は、これら歴史的景観の保存とともに、自然景観を含めた景観行政がきわめてい き届いていることが注目される。また、会津若松では、昭和40年頃、市内の老舗が「会津復古 会」を結成し、「店舗は文化である」との信念から、統一した暖簾を店先に掲げ、土蔵造りや 木造の町家の良さを活かした商売を進めていった2 )。
会津若松市役所を訪ね、建設部都市計画課の一条芳浩さんから、会津若松市の景観形成に向 けての取り組みにっいて話をうかがった。会津若松市が、都市景観にっいて政策的な位置づけ を行ったのは、昭和61年3月に策定された長期総合計画にあたる「新まちづくり」計画であっ た。平成元年、都市景観対策プロジェクトチームが発足し、具体的な施策にっいての検討がは
じまる22)。そして、検討を重ね、平成4年に「会津若松市景観条例」が制定された23)。
まちの景観は、その土地の文化や生活を表す「顔」であり、そこに暮らすすべての人との関 わりの中でつくられる。まちを個性豊かで魅力にあふれるものにするためには、市民と行政が ともに知恵を出しあい、協力しあうことが大切である。景観は自然にできあがるものではなく、
市民一人一人の努力によって形づくられていくものである、という考えのもとで、会津若松市 ではさまざまな取り組みを始めたのである。そして、現在、会津若松市は、「第五次会津若松 市長期総合計画」(平成14年〜)の中で将来像を「歴史・自然・文化がいきつく夢と活力のあ
るまち」と定めて種々取り組みを始めている。
会津若松市の景観形成の取り組みは、「歴史的景観指定建造物の指定」24)「自然景観指定緑地
の指定」25)「会津若松市景観協定の認定」26)が柱になっている。また、良好な景観形成を推進
していくための助成制度である「美しい会津若松景観助成制度」27)や、表彰制度である「美しい
会津若松景観賞」2B)をはじめ、子どもたちに関心を持ってもらうための活動「大好きな会津絵
ノ