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大学と附属学校の連携について 一個の立場一

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Academic year: 2021

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大学と附属学校の連携について 一個の立場一

橋 浦 洋 志

茨城大四教育学部国語教育講座,〒310−8512水戸市文京2−1−1

はじめに

 過日行われた茨城大学附属学校と大学の教師とによるシンポジウムに参加したこと をきっかけとして,ここに普段考えていることを記し,附属学校と大学との実のある

「連携」に幾分でも寄与できればと思う。

 シンポジウムでは思いがけず意見を求められたが,適切な意見を述べることができ なかった。私の問題意識の希薄さの故と反省している。出された意見に一貫して見ら れたものは,「大学の先生は附属学校を知らないし,あまり興味を持つこともないであ ろうから,この際よく知って関心を抱いていただきたい」という,大学の教師に対す る「要望」であったと思う。確かにそう思う。このことについては大学の側から具体 的な発言があり,いかに知らないかということを再確認したことになった。この流れ を受けて,最後に,附属学校と大学との意識の落差が指摘され,再度大学側に注文を つけて「終わった」,と私は概括してみるのだが,果たして問題はそういうことなのだ

ろうか。

 ここで問題とすべきことは,「何故大学の教師は附属学校に関心を示さないのか,あ るいは知ろうとしないのか」という一点に尽きる。少なくても「連携」を言うときに,

このことを論議せずして明確な展望は描けないであろう。「教育学部の先生」にとって 附属学校に「関心」を示すということは,実は言われるほどには易しいことではない

のである。

 以下,私の具体的な立場をなるべく離れず,私見を中心として話を進めていきたい。

さまざまな専門性を抱えた教育学部構成員の一人としての考えであり,あくまでも個 的立場からの発言として受け取っていただきたいと思う。

Key words:学生,言葉,自律

1学生の位置

 周知の通り,教育学部にはさまざまな学問分野の教師がおり,その多くは学校教育 専門の出身ではない。私もその一人であり近代H本文学を専門としている。私のよう な専門教育を受け,その方面の勉強をしている者にとっては,たとえ教員免許状の取 得資格を持っていたとしても,さしあたり「教育」への関心は後回しとなる。言い換 えれば,「いかに教えるか」ということにさしたる興味がない。本人の中に「教え教え

られた」という実感がそれほどないからである。勉強は一人でやるものであり,自分

の興味関心にしたがって自発的にやるものだからであり,そのように自分もやってき

たと思い込んでいる。まして「教えるとはいかなることか」という問題意識は,自分

が受けてきた大学教育の在り方からして育ちにくい。もちろん,小中学校で自分はど

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うであったかということまではとうてい気が回らない。近年の大学では,まさに手取 り足取り教えてあげないとまともな文章も書けなくなっているので,否応なく「教え 方」に関心を示さざるを得なくなった,というところであろう。

 しかし,「教える」ということなくしていずれの研究も意味を持たない。何故なら伝 えられてはじめて研究の意味があるからであり,いかなる形であれ伝えられない研究 というものはあり得ないからである。我々にとって学生が伝えるべき目前の対象であ り,伝える内容が研究内容そのものかどうかは別にして,我々の研究内容は受け手で ある学生をまって意味あるものとなる。ここにいかに伝えるか,即ち「いかに教える か」という問題が改めてもち上がるが,しかしなおも,大学生と小中学生では「教え る」ことについての質はだいぶ違う。

 そもそも大学は義務教育ではない。ということは,義務教育を基礎としたこれまで の教育内容を学問的に問い直すことが,大学では必要になってくるということである。

ここに,義務教育が考察の対象として姐上に載せられ,その真偽が論理的に問われて くることになる。私の分野で言えば,たとえば,「文法はこれでいいのか」,「文学と教 育は両立するか」,「作者あるいは筆者という概念は成り立つか」など,根幹的な問が 発せられることになる。こうした問をふまえて学生はおのおのの課題に取り組むこと になるし,教師はこれを積極的に進めるべく支援する。

 学生はここで大きな矛盾を抱えることになる。大学での勉強と小中学校でやられて いることが,考え方の上で違った場合,とくに教育学部の学生はこの矛盾を一身に引 き受けなければならない。

 経験的に言えば,ここがもっとも大切なところであり,それは大学と「現場」は学 生を挟んである意味で対立の構図をとるということである。義務教育とそれを批判的 に超えようとする発想の違いが,学生のなかで具体的な問題を前にして葛藤し始める。

論理は,一方で現に行われている論理を不透明として退けようとするのであり,そう でなければ少なくとも学問的先進的な論理ではない。もちろんここには抵抗が予期さ れるし,むしろ私は期待する。というのは,この場所に停み大いに悩み考え抜こうと することが,学生にとっての勉強にほかならないからである。大学と「現場」との接 点は何よりもこのことを中心にして形成される。論理を論理としてそのまま実践した 場合に予想される混乱,その教育的な価値付けなど,すぐさま問題が噴出するであろ う。しかし,あくまでも批判的論理はそれ自体の存在意義を主張しようとするし,ま たそうでなければならない。大学と附属学校は,学生という矛盾体を媒介にして向き 合っているというべきであり,少なくても,なめらかな情緒的連続体としてあるので

はない。

2 研究と実践

 「研究」をどう伝えるか,ということが大学側の基本的な問題であるが,一言触れて おかねばならないことは,研究的態度のことである。もちろん附属学校にあっても盛 んに研究がなされており,研究に変わりはあるはずもないが,「大学」での「研究」に おける特質をいえば,具体的な「実践」を視野に入れたものではないことである。そ こで得られた論理的な帰結がどう現実と関わるかということは本来なかなか見えてこ ないし,それは迂回して間接的に現実と結びつく性質のものである。こうした「研究j を支える態度を簡明に言うと「懐疑」ということになろう。「本当にそうか」「何故そ

う言えるのか」といった問いかけを手放さずに,自問自答していくことが「研究」を 根底で支えることになる。

 「研究」は「実践」ということに対してはきわめて臆病である。「実践」は研究的な

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論理とは別だと,「我々」は思っている。「実践的論理」というものがあったとしても,

それが「実践」を前提にしている限りこのことは拭いされない。

 研究とはそもそも,現に承認されているさまざまな前提を懐疑し問い直す作業であ る。一方,実践はある考え方を前提にして現実を動かそうとする。実践は,その意味 では,あるところで一旦論理的な追求を棄てざるをえない。実践とは抽象的な論理に 終わるものではなく,態度の選択であり,それは一つの決断だからである。ただその 態度の選択が,あくまでも論理的な追求の上に据えられていることが大切であり,無 意識的な選択は実践とは呼べない。

 大学に身を置くものが「教育」について後込みするのは,「教育」は「論理」とは別 の場所に原理をもつ「実践」であり,「論理」の問題ではないと思っているからではな かろうか。だから,学生を「教育」するにしても,できるだけ慎ましく控えめに伝え るべきだという考え方が成立する。もちろん今述べたように論理がなければそれは実 践でも何でもない。しかし,教育の現場がけして論理的な原理で動いているものでは ないとすれば,敬して遠ざけるにこしたことはない,と「大学の先生」は考える。こ れは一つの「学問的良心」かも知れない。そして,「実践」に対して消極的な立場をと ることが「学問」の「教育」的な姿だとも言えるのである。

 しかし,これではだめだというのであるから,我々は改めて腕組みをして考えてみ なければならないのであるが,もし研究の立場(大学)と実践の立場(附属学校)と に便宜的に分けてみて,この両者を緊密に接近させようとするのであれば,おそらく 両者には相当の覚悟が要求されよう。

 簡単に言うと,研究の立場には,今現に行っている研究を「教育」的に問い返す視 点を持つこと,実践の立場には,油垢に行っている教育をその前提から「論理」的に 問い直す視点を持つこと。これらのことを相互交差させることが「連携」を意味ある

ものにするであろう。そして,研究的であれ,実践的であれ,おそらくそこには個別 の範囲を超えた広い「人間論」が模索されていなければなるまい。

 とはいえ,私の「研究」がいかなる教育的意味を持っているかに答えることは簡単 にできることではない。答えようとすれば「教育的」「実践的」とは何をもって言うの かという問題が,私の立場にあっては即座に出てくる。「研究」が「教育的」意味を持 つとき,それは必ずしも「学校教育」の中におさまるものでもないし「生涯教育」の 中におさまるものでもない。そうした行政的な枠にとどまらない漠とした人間のあり 方全般にわたる議論が必要になる。

 一方,「現場」の「教育」の前提を問うことは,現に価値づけられている「もの言い」

の変更を要求することになる。ごく限定して具体的に言うと,たとえば,「筆者の言い たいことは何ですか」というよくある問いに対して,「筆者は言ったのではなくて書い たのだから,筆者の書きたいことは何ですか,と問うべきである」と言うことができ る。一見「へりくつ」めいて聞こえるが,実はそうではない。「言う」と「書く」とで は心違いであって,自ずと答え方も変わってくる。即ち,「言いたいことは何か」とい う問いは,前もって答えを限定している問いかけであり,「書きたいことは何か」とい う問いは,「そこに書かれてあること全部」を均等に視野に入れなければならない問い かけなのである。このトリックに気づかずに答えを絞ると,やがて,「筆者の,あるい は作者の言いたいことなんて分かるのか」という,きわめて誠実な,しかも手強い問 いに悩まされることになる。今はこのことについて議論をする場ではないのでここで 止めるが,言いたいことは,このような議論につき合っていただくことが,「我々」が

(私が)「現場」の先生方と「連携」できる唯一の道なのだということである。つまり

「筆者が言いたいことは何ですか」という「もの言い」そのものを否定することになる

かもしれない,という事を前提にして共に考えていきましょうということである。も

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ちうん,ここに「解釈」をめぐる「人間論」が見え隠れしていることは間違いない。

3言葉の共有

 「前提」を問うことは,言い換えると前提となっている「言葉」を問うことである。

教育が集団的に有効に機能するためには,多かれ少なかれ教育を行う側が,ある種の 言葉を共有していなければならないだろう。教育は広い意味での価値観の共有に基づ くからであり,それを担うのは何よりも「言葉」である。この教育上の価値観を我々 自身が作っていくのならばさして問題はないが,この言葉を議論なく前提にし,前提 にされた言葉を,議論もせずに呑み込もうと努力するのが「教育」の現状ではなかろ うか。少なくても私にはそう見える。

 「人間として調和のとれた育成」「社会の変化に主体的に対応できる能力」「個性を生 かす教育」と並ぶこれらの言葉は,私には意味がよく掴めない。ぼうっとした昼行灯 のような言葉であり,これが「指導要領」(中学校,平成元年)の「総則」であればな おさら,その意味を考えたくなるが焦点を結ぶことがない。焦点を結ばないところが いいのだというならば,少なくてもこれを悪文として認めるぐらいはしなければなる まい。それはさておき,困ることは,これらの言葉が,無警戒に教育の場で振り回さ れることである。「調和」「主体的」「個性」といったロマン的用語が居並ぶが,果たし てこういう観念が現代に実感をもって本当に機能しうるのか,というところから考え てみなければならないのではなかろうか。そして何よりも,このような言葉を使って 教育を語る本人が,実感的にこれらの言葉を把握しているのかという問題がある。

 私が「教育」に大きく踏み込めない原因の一つとして,このような「教育用語」の 空虚さがあり,このような言葉で「教育」を語らなければならないことに対するむな しさがある。「教育の荒廃」が言われて久しいが,「教育用語」と現実との背き合い,即 ち「教育用語」それ自体が「言葉の荒廃」を来しており,「教育の荒廃」は「教育用語 の荒廃」を一因とする,と考えるのは見当はずれなことであろうか。若者の「言葉の 乱れ」を言うのならば,教育者の「言葉のずれ」も少しは視野に入れて論議したらど

うだろう。若者の「言葉の乱れ」よりもよっぽどこちらの方が深刻に思える。

 かつて小学校の校長室には「真実」「誠」「良心」といった墨書が飾られていた。今 も時折そのような言葉を目にして懐かしく思うのだが,最早これらの言葉は死語に近 い。我々の社会はこれらの言葉に対する共通の感性をおそらく失っている。これらは 古文書の中にしか息づいていない。かといって,これに代わる言葉を我々は持ってい るかというと,何も持ってはいないと言うべきであろう。おしなべてここから出発す べきではなかろうか。どういう言葉が実感的に機能する言葉たり得るのか,これから の人間にとっていかなる「教育」が必要とされるのか,すべては言葉の問題として具 体化されるはずである。「調和」「主体」「個性」もそのような検討を経た結果だという

のであれば,その議論の思想的実質を知りたいと思うのは自然だろうし,そもそも本 来,教育を語る言葉は外から画一的に持ち込まれるような種類のものではない。

 教育を語る基本的な言葉がどのようなものかということは,教育そのものの死活問 題である。「理想」「希望」など,広い意味での教育の中枢に座る言葉はいくつかある が,まずこれらの言葉が我々大人のなかで空洞化していることを率直に認めて,改め て,「どのような言葉で人間を語れるか」を吟味することから始めるべきではなかろう か。「希望をもって生きなさい」と言うとき,その発話者はいかなることを自らの「希 望」として実感しつつ己を生き,「希望」を語っているか,という問題である。それと

も単に自動化された「教育用語」にすぎないのか。

 このような話をしていていつも直面するのは,「教育用語」に対してだれも責任をと

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る者がいないということである。そこには具体的な「発話者」がいない。言葉に内実 を与え言葉を真に思想化しようとして格闘する人間の姿が見えず,行政機構という「透 明な存在」が患勲に宣告する姿しかない。そこから出される言葉には,メッキされた 無機質な冷たさがある。この無表情な言葉に表情を与えようとして「現場」の先生方 は苦労されるのだが,もともと発話者のいない言葉が豊かな表情を取り戻すことは難 しい。こういう言葉とつき合うには,こちらも無表情になるのが手っ取り早い。つま り「お題目」として聞いてはおくが,まともに取り合わない。かくして,言葉は宙に 浮いたまま丁重にやり過ごされる。

 私は言い過ぎているのであろうか。しかし,教育がここまで危機的な様相を呈して いる今,我々は何を問うべきなのか,少なくてもその問いを各々の立場にあって明確 にする必要があるのではなかろうか。私はさし当たり「教育の言葉」を問いたい。そ れは発話者の責任を言葉において問うことである。「生きる力」を言うならば,発話者 自体が「生きる力」を模索し,自らの力として実感されていなければなるまい。少な くてもその努力は懸命に為されるべきである。自らこのための葛藤の経験なくして,何 を「生きる力」として伝えようとするのであろうか。この意味では,今教育が問われ ているというよりも,教育をする側の「言葉」が問われていると言った方が分かりや すい。そして言葉が外側にあり続ける限り言葉は力にはなり得ないだろう。

 「個性」を強調し,そして「創造性」をも合わせて言うならば,画一的な条件付けは しないということが条件である。それぞれに応じた指導があるのは当然だが,趣味的 部分にまで均一的に枠をはめて「この中で個性的,創造的になりなさい」というので は「個性」と「創造性」が泣く。そしてここには「個性的」であることがいかほどに 難しいことであるか,という「個性」自体に対する実感的な考察が微塵も感じられな

い。r個性」というものがあるとすれば,それは自分自身にましてや他人によって易々 と見透かされるほどに安っぽいものではない。「一人一人を大切にする」という言い方 で済むならば,「個性」などという言葉を大上段に振りかざすことはしない方がいい。

あるいは単なる「性格jの違いを「個性」と言っているのだとしたら,もはや論外で

ある。

 こういうことが目につきすぎるというのも,「理論家」の先生方を現場から遠ざける 原因になっていはしないか。

 「大学の先生」との「連携」は, このような問題を互いに自ら進んで抱え込むことで あり,そのことに関して,面倒がらずにつき合うことを余儀なくされる。きつい議論 を避けてのやわな理想論や教育論がもはや通用しないことは,だれもが知っている。こ こから何ができるかを,現代に生きる一人の人間として,これから生きるべき世界を 構想してみようとすることが「連携」することであると考える。

4 自律と必然

 実際生徒児童と向き合いながら指導している先生方は,教育をもっと具体的な場面 において思い描いているだろう。その個々の具体的な場面に私は直接関わることはで きない。ただ,その前後の段階の文章の読み取りなどについては多少の意見を言うこ とはできると思っている。しかし,いかなる文章でも,文章というものはそう単純な ものではないし,私も一人の読み手にすぎない。その意味では,文章(あるいは言葉)

の前にはすべての人が同じ平面上に立っているということを認識することが必要であ

る。基本的な知識があれば,文章はそれぞれのなかで生きればいいのであって,こう

でなければならないということは原則としてはないからだ。生徒児童を教えている先

生方はむしろこのことを実感しながら,子供たちと共に文章に向き合っていると思わ

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れる。

 何故こういうことを述べるのかというと,小中学校の先生には「大学の先生」を妙 に権威づけてほしくはないからである。考えていること,知っていることは提供する,

議論の相手をする,それらに基づいてできれば構想を練る,それ以上のものではない。

 「大学の先生」の考えを拝受し,その考え方を呑み込み,それぞれの立場からの議論 もしないということであればいかがなものかと思う。そうした閉ざされたサークル活 動が「教育」だとするならば,面白味は全くない。私が言いたいことは,「連携」した としても,これを特別な関係(たとえば大学と付属学校との仲間内)に閉ざしたまま ではなく,外へ常に開くことが必要だということである。大学及び附属学校の役割は 研究実践の成果を他の学校に還元していくことだとすれば,閉ざされた「連携」はそ の点で不十分であろう。このことは「連携」を考えるならば同時に是非具体化されね ばならないことだと考える。

 こうした開かれた関係を形成する基本は,一人一人が質問をする自律的な姿勢を忘 れないことだ。自律的人間とは,己の思想性を基盤にして「質問をする人間」のこと であることを心の隅にとどめ置きながら,「私」の立場を「公」へと開く意志を持って いなければなるまい。「寄らば大樹の陰」では話が始まらない。

 常々感じていることだが,さまざまな研究会に出ていても議論が余りにも聞こえな さすぎる。助言者として招かれて意見を述べても,それに対する意見や質問はまず出 てこない。助言者は高いところに据え置かれて相手にされないの観がある。一方的に 話す形態はもちろんあっていいが,研究会と名のつくところでどうしてこのようなこ

とになるのか不思議である。助言者も又一人の参加者であり,勉強しにやってくるの であって演説をしに来るのではない。私としては,私が話したことについて先生方は

どう受け止めたかを知りたいし,実践者からすれば的外れなことも話しているはずで あるから,そういうことも教えてもらいたいと思う。話をただ黙って聞いているだけ では,体の好い無視にもなりかねない。こうした機会を無駄にしない実質ある議論へ の配慮があったうえで,その延長としてのみ研究と実践の「連携」も構想されるので はないか。閉じられた「私」を無理にでも「公jへと開いていこうとする自律的意志 のないところに,「連携」はそもそも望めない。

 はじめに述べたように,私は「教育」の専門家ではない。この教育学部に身を置く ことになってはじめて,さまざまな教育研究の場に参加する機会を与えられてきた。す べてが目新しく,同時に,自分のなかでこれをどのように位置付けるべきか迷い続け てきたように思う。近年ようやく「声ことばの充実」という課題のもとに,小さな実 を結びはじめたところである。「声ことば」への関心は,小中学校の先生方と生徒児童

とのやりとりを目の当たりにする経験を積み重ねて,少しずつ私のなかで形をとって きたものであり,これまでの経験がなければこのような関心をこれほどまでには抱か なかったであろう。

 怠け者の私が「声ことば」に対する関心を大学の授業で具体化するまでに,約二十 年近くの時間を要したことになる。しかしこの時間は私にとっては必要な長さであっ たと思っている。「声ことば」をおぼろげながら自分の思想性として意義づけ,「声こ とば」の大切さを自らの内に定着させるには,このような遠回りが私には必要だった

のだと言える。

 スピーチやディベイトをやらせること自体は易しい。しかし,自分が専門としてい

る分野との関わりを明確化しないままに,これだけを取り出して実践するわけにはい

かない。「声ことば」を自分が抱えるいくつかの領域との関わりの上で必然化しなけれ

ばならず,これはそう簡単にできることではなかった。実際やっていることはだれに

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でもできるごく単純なことなのだが,これをやるまでの私の内的な経緯はなかなか説 明しがたい複雑なものがある。

 「大学の先生」が附属学校に関心を示さないのは「どうでもいい」という,いわゆる 無関心の故ではなく,自分の専門との対応関係をどのように把握すればいいのか,そ の必然性をなかなか見出せないでいるからだ,と私は推測する。前述したように,こ れはこれで一つの立場であり得る。己のなかに「教育」への必然性を立てることは,き わめて個的な内なる模索を持続させではじめて見えてくるものであるし,それも各々 の専門によって難易があろうかと思われる。そしてこの必然性を形成せずして「教育」

に向かうことは,逆に危ういことでもある。大学と附属学校との関係について,「ふら りと遊びに行けばいい」,少なくても私はそういう次元の問題として捉えてはいないし,

捉えてはならないと思う。何故なら,「遊びに行かない」のが自分の立場にあっての節 度ある態度だと考えるからである。

 「連携」ということに端を発して思い出されることを書き連ねてきた。願うことは,

「研究」と「実践」の活発な交差であり,そして個々の立場において,「人間」をでき れば明るく展望できるような強さと寛容さを,自らの思想性の基礎とすることである。

大学と附属学校とが知恵を絞ってその一端を共に担えれば,これにこしたことはない。

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