カロリング時代の商業
その他のタイトル Commerce in the Carolingian Era
著者 宮下 孝吉
雑誌名 關西大學商學論集
巻 10
号 3‑5
ページ 65‑89
発行年 1965‑11‑04
URL http://hdl.handle.net/10112/00021552
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
退歩したのだとビレンヌはいう︒ ビレンヌ
( H ・ P
i r e n
n e ,
1 8
6 2
ー1 9 3 5
)
によると︑カロリング時代の経済はメロウィング時代︵四八六ー七五一︶の経済とおどろくほど対照的である︒メロウィング王朝はローマ世界
( R
o m
a n
i a
)
中東との遠地商業を行なっていたので︑彼らの眼は地中海に向けられていた︒他方︑
向け
︑
そして︑中世文明にとって最大の重要性をもち続けた一連の新しい諸制度を創造した︒カロリング王朝はメ
ロウィング王朝の活発な自主貿易を継続せず︑むしろ︑荘園経済を伴なうほとんど﹁全く農業的﹂な社会のなかに は︑カロリング時代の経済の記述においてである︒ 中世の経済史研究において今日でも争われている最大の問題点は︑
七五︑ドイツでは九︱‑︑フランスでは九八七︑すなわち︑大ザッパにいって︑八・九世紀および十世紀︶についての評価であ
る︒これは︑古代から中世への移り行きのみならずヨーロッパ中世の社会や経済の出発点または基礎に関連してい
る問題である︒ビレンヌ︑
カ ロ リ ン
グ 時 代 の 商 業
ドップシュ︑
ロンバールその他の現代経済史家が意見のはなはだしい差を示しているの 宮の諸制度や組織を継続しかなりの量の
カロリング王朝は北海に眼を カロリング時代︵七五一ーイタリアでは八
下
孝
吉
6 5
フランスの学者ロンバール
( M
a u
r i
c e
L o
m b
a r
d ,
?ーー︶は第三のテーゼを呈示した︒
菰的に対立する︒中世初期には西ヨーロッパから近東へと金の流出があったと以前の学者たちが示していたけれど
も︑回教徒史の研究者であるロンバールは︑そうではなく︑大回教国の創建がメロウィング時代末のよろめきつつ 究は農業史の問題を研究する者には基本的である︒ 世界は過去からのほんとの断絶を印しなかったと彼はいう︒
これはビレンヌのテーゼと対 ドップシュにとって 二つの社会および経済のこの対比は︑八世紀の初年代における回教徒の勢力拡大による西地中海における海上支
配権の獲得によっておそらく起された︒回教徒の海賊や侵入者たちは︑西ョーロッパと中東との間の商業ルートを
切断したと考えられた︒過去とのこのはっきりした断絶は︑︒ハビルス︑金貨︑東方の奢移的な織物︑近東のプドー
酒や油が西ヨーロッパでは消滅した︵といわれる︶ことのなかに反映している︒ではあるが︑
ドップシュ
( A
l f
o n
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o p
s c
h ,
1
8 6 8 ‑ 1 9 5 3 )
は ︑
このおどろくべき変
化をカール大王︵七六八ー八一四︶がもたらした役割はビレンヌによって強調された︒彼はこの大王を古い経済の最
終清算人でありかつ中世世界の創造者であるとみた︒マホメットおよびそれから生ずる回教徒の拡大なくしては︑
①
カール大王およびカトリック世界は考えられないであろうと示唆された︒この対比は概して錯覚に基づくものであると主張した︒カロリング
カロリングの社会と経済とは︑
は︑メロウィング世界からの自然の発展であった︒過去の組織および制度的生活との判然とした断絶がなかっただ
けではなく︑初期カロリング世界には文化の﹁ルネサンス﹂があり︑これはメロウィング時代によって示された約
束の実現とみられうるものであった︒ドップシュは︑カロリング時代の文書に現われた週市および祭市の多くの実
①
例を利用し︑かつ︑特に農業生活の連続性と拡大とに注目した︒彼の諸研究はきわめて示唆に富むが︑商業史の研究者にとってはピレンヌの諸研究と同じように︑討議のための基礎を大して作り出さなかった︒しかし︑彼の諸研
6 6
描いたからである︒しかし︑彼はさらに一歩すすんで︑ロシアヘ侵入したスウェーデン人の指導者﹁ルーリック﹂ ついでこれらを回教徒に転売した︒回教徒たちは︑
これ
ある経済に潤滑剤として役立つよう︑貨幣を回教徒世界からョーロッパに流出させたと論じた︒回教徒から西ヨー
ロッパに流入し︑かつ︑カロリング時代の﹁ルネサンス﹂を可能にしたところのカロリング世界の社会︑経済生活
R
を生んだのは︑鋳造貨幣であったと彼はいう︒回教徒たちは︑いまや︑経済復興史上の英雄として代表された︒カロリング時代の経済を取扱った他の多くの学者たちのうちで︑スウェーデンの経済史家ボーリン
( S t u r e B o l i n ,
1 9 0 0 ̲ = 2 , ̲
は特筆に値する︒彼は北ヨーロッ︒ハおよび東ヨーロッパにおける出来事と地中海地域における出来事との
の理解にとって︑回教徒の勃興と同じように重要であった︒ビレンヌと対比して︑彼は中東との交易は少しも停止
しないと考えた︒ボーリンは八世紀および九世紀前半にはアラプ勢力の東漸により︑
アの領有に伴ないバンジャヒル︑
指摘した︒彼はまた︑ スウェーデン人のロシア侵入はカロリング王朝およびその経済
コラ
サン
︑
トランスオクソニ
シャンシュ鉱山の開発の結果︑回教徒世界には銀の生産に大上昇があったことを
この銀が宦官︑男女の奴隷︑金欄︑海狸やてんの毛皮︑その他の毛皮ならびに刀剣の買入れ
のために西ヨーロッパで費消されたことを回教徒の史料から示した︒しかし︑これらの財貨の多くはフランク王国
の特産物ではない︒とりわけ奴隷と毛皮とは東のスラヴ地方から西ヨーロッパに大量に輸入され︑しかも︑パルト
海やロシアに侵入し始めつつあったスカンディナヴィア人の媒介によってであった︒いいかえれば︑西ヨーロッ︒ハ
はスカンディナヴィア人からスラヴ地方の財貨を購入し︑
に対して︑彼らの所有している銀をますます多量に支払った︒
この北欧ーアラプ交易をボーリンはビレンヌとは全く対立した意味で﹁モハメットなくしてはカール大王はあり
えなかった﹂といって︑簡単に表現した︒というのは︑彼は事実上世界にわたっている規模での交易の拡大を心に
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
間には密接な関連があると主張した︒彼によると︑
︵ イ ス
( R u r i k , + 8 7 9 )
なくしてはカール大王もありえなかった﹂という︒北欧︑西欧︑回教圏という三角交易は︑ノルマ
ン人︵または一層適切にはワレーガーと呼ばれる北欧スウェーデン人︶が東方における回教徒と直接の交渉を開くべく南ロ
シアに領土を拡張した九世紀中頃には終った︒以前には西ヨーロッパ人を仲介者として必要としたこの商業
︒ハ
ニア
回教
圏←
.ア
フリ
カ←
バグ
ダッ
ト︶
は︑いまやフランク王国を媒介することなしに︑従って︑
地とすることなしに︑直接に行なわれえた︒その結果として︑
④
キングの活躍が積極化することによって衰微したと考えた︒ イベリア半島を仲介ボーリンは西ヨーロッ︒ハは九世紀の後半にはヴァイ
以上要約した諸説のうちで最も影響力があり他の学説を起させたのはビレンヌの説である︒ビレンヌのテーゼの
最も重要な註解者はアメリカヘ帰化したイベリア人ロペス
( R o b e r t S . RopeN•1910
ー)である。既にロンバールやボーリンの論文が出る以前に︑ロペスはビレンヌのテーゼの中核が回教徒の拡大に与えられた役割にあると指摘し
た︒西ヨーロッ︒ハの経済における諸変化が︑もし︑ビレンヌが提出したように回教徒による西地中海支配と密接に
関連していたと示しえられるならば︑ビレンヌの主張ははかり知れないほど強化されるであろう︒しかし︑事実に
おいてはロペスはそうではないことを示した︒︒ハビルスについていえば︑多くの文書用にパビルスを必要とするロ
ーマの慣例が支配していたような場所では︑多量の︒ハビルスは回教徒の征服以後三世紀の間輸入されつづけた︒こ
の地域で︒ハビルスの使用が消滅したのは︑ボロ製の紙が導入されたとき︑すなわち約三世紀のち
( 1
0
五七年
︶の
こ
とである︒他方︑ローマの慣例がすたれてしまった地域では︑羊皮紙によるパビルス代替は︒ハビルスの生産地であ
るエジプトをアラプ人が征服したことによって直接にもたらされたのではなく︑約五0年以後に回教徒の国家独占
の組織によってである︒アラプ人が︒ハビルスの海外への販売に一時的禁止をしたときは︑西ヨーロッ︒ハ人は羊皮紙
を用いねばならなかった︒そして禁止が轍廃せられたときには︑彼らは比較的わずかな事例のほかは︑古い慣例には
6 8
カロリング時代の商業︵宮下︶
注⑥ 注④ 注⑧
注R注① 東方の奢移的な織物その他︑ 戻らなかった︒
ロペスはまた︑西ヨーロッパにおける金貨の消滅は回教徒の拡大と関連されえないことを示した︒
R
回教徒の拡大とは別の原因から起った︒
て︑ピレンヌのテーゼの中核が疑問とされたのである︒
以上述べた諸見解の要約的な検討からわかることは︑第一に個々の諸事実の重要度について︑第二にその諸事実 そのものについても︑歴史家たちの間にまだ一般的な承認が存していないことである︒ではあるが︑
てきわめて見事に始められたビレンヌのテーゼの修正は︑この問題を研究する各国の多くの学者たちと共に︑現時
R
点まで続けられている︒しかし︑その努力のすべてが均しい度合の価値があるのではない︒そこで︑以下︑確定さ れた諸事実に基づいての解釈を施そうと思う︒
ビレンヌの労作は
R e v u e B e i g e d e P l i l o l o g i e e t d ' H i s t o i r e , T . l ( M a h o m e t e t C h a r l e m a g n e ) 1 9 2 2 p p . 7
ー 7
' 8 6 ; T . 2 ( u n c o n t r a s t e e c o n o m i q u e
"
m e r o v i n g i e n s e t c a r o l i n g i e n s ) 1 9 2 3 p p . 2 2 3 1 3 5 に 匡
g 眼 g 大 L れ︑湿心華百
M o h a m e t e t C h a r l e , m a g n e , a P r i s 1 9 3 5 , 1 9 3 7 3 . J J ̲ )
て 学
R 了された︒英訳︹
B . M i a l
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ィッ訳︹
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e b u r d t e s A b e n d l a n d e s , A m s t e r d a m 1 9 4 1 2
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︒
ドップシュの業績は
D i e W i r t s c h a f t s e n t w i c k l u n g d e r K a r o l i n g e r z e i t , W e i m a r 1 9 2 1 ー
2 2 2
の ほ
か ︑
W i r t s c h a f t l i c h e u n d s o z i a l e G r u n d l a g e n d e r e u r o p a i s c h e n K u l t u r e n t w i c k l u n g , I I , W i e n 1 9 2
4 •,
K a p .
6 u .
7 に H 況 わ
h
て い
る が
︑ N a t u r a l , w i r t s c h a f t u n d G e l d w i r t s c h a f t i n d e r W e l t g e s c h i c h t e ,
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に お
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ラ ン
ク 眸
哭 代
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扱 っ
た 箇
所 を
も 看
よ ︒
M . L o m b a r d , L ' o r m u s u l m a n d u VII•
a u XI•
s i e c l e , A n n a l e s . e c n o m i e s , s o c i e t e s , c i v i l i s a t i o n s , T
. 2
1 9 4 7 p p 1 4 . 3
ー
6 0
; M o h a m e t e t C h a r l e m a g n e , l e p r o b l e m e e c o n o m i q u e , i b i d 3 . 1 9 4 8 . pp.188
—
99.
S . B o l i n , M o h a m m e d , C h a r l e m a g n e a n d R u r i c , T h e S c a n d i n a v i a n E c o n o m i c H i s t
o r y R e v i e w , V o l . , N o .
1
1 9 5 3 p . 5
ー
3 9
は既に一九三九年
S k a n d i a , T i d s k r i f t f o r h i s t o r i s k f o r s k n i n g ,
1 2 , p p . 1 8
ー 1
2 2
2 に ス ウ ェ ー デ ン 語 で 発 表 さ れ た ︒
R . S . L o p e z , o M h a m m e d a n d C h a r l e m a g n e , a R e v i s i o n
̀ S p e c u l u m , o V l 1 8 ̀ 1 9 4 3 p p . 1 4 1 3 8 ; a E s t a n d W e s t i n t h e
ス︒ハイス類の供給における変動は︑
ロペスによっ
かくし
ぬかは議論の余地がある︒しかし︑
︱ つ
の
ローマの組織のもとにあったときに示
︵ 文
化 的
ま た
は 経
済 的
︶ 統一体を形成したといわれうる
E a r l y M i d d l e A g e s : c E o n o m i c R e l a t i o n s , i n
"
R e l a z i o n i
d e l
X
C o n g r e s s o i n t e r n a z i o n a l e d i S c i e n z i "
S t o r i c h e V o , l . 3 , 1 9 5 5 , p p 1 . 1 3 1 1 6 3 .
その状況についてはA.F•Havighurst(edJ,
T h e P i r e n n e T h e s i s . A n a l y s i s ,
r C i t i c i s m
a n d R e v i s i o n , B o s t o n 1 9 5 8
な
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v
ず
A . R i i s i n g T , h e F a t e o f H e n r i P i r e n n e
̀ s T h e s e s o n h t e C o n s e q u e n c e o f t h e I s l a m i c E x p a n s i o n , C l a s s i c a e t M e d i a e v a l i a , X I I I 1 9 5 2 , p p . 8 7 1 1 3 0
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︑ 社
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第 二
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第 五
号 ︑
一 九
六 二
年 ︑
七 五
頁
以 下
︶ を
看 よ
︒ この問題の理解については︑考えておくべき前提条件がある︒それはカロリング時代以前の商業をどのようにみ
るかである︒この見方如何によって見解が異なってくる︒これが︱つの事情である︒これと同時︑
カロリング時代の商業を考えるに先立って︑ 以後の商業発展をどの程度まで比較考察のなかに入れるか︑が見解を岐れさせる他の事情である︒いいかえれば︑
それに先行する時代の商業のみならず︑それに後続する時代︑とりわ け前者を︑少なくとも念頭におかなければ問題点を明らかにしえないであろう︒
古典時代から中世への移り行きの問題として先ず地中海世界をとりあげてみる︒
︑ ︑
︑ て立っていた︒地中海はローマ帝国時代に始めて︑
か︑それともローマ帝政期をも含めてそれ以前のいわゆるヘレニズム時代にこの統一体を形成したといわねばなら たは地中海附近を通って都市ローマに達していた︒だが︑中部ヨーロッ︒ハおよび西部ヨーロッパにおけるローマの
支配が漸次に弱まるにつれて商業は衰えたが依然として持続して行なわれ︑
注⑥
カロリング時代
ローマ帝国は地中海を基礎とし
︱つの統一体を形成したといわれうる限りでは︑すべての商業通路が地中海ま
7 0
していた概略のさまざまな路線の上で行なわれた︒かくて︑
地中海を横切ってイクリアに穀物を輸出し︑六世紀には西ゴート族の支配するイス︒ハニアは︑沿岸づたいに南フラ
ンス︑北アフリカおよびイタリアと交易し︑中部ヨーロッパの生産物は陸路を通って大陸の南西隅に到着していた
ようである︒イクリアでは南部の諸都市とくにサレルノ︑
チリアおよびエジプトとの貿易に従事していた︒しかし︑商業活動が最も盛んであったのは︑
プルであった︒そこにはペルシア人を介して極東と若干の接触があったし︑
の規則的な交易もあり︑
六世紀の後半におけるアレキサンドリアのギリシア商人︑
いる︒彼は地中海︑紅海︑ペルシア湾︑インド洋を帆走した︒
に向った︒彼はセイロンを訪ねた︒セイロンはー│彼のいうにはーー︹南西インドの︺枯椒園のあちら側に存しており
も多く派遣し︑最も遠方の国々︵コモリン岬以東︑
T z i n i s t a
1 1
シナ︶から絹︑蔵苔︵ろかい︶︑丁香︵ちょうぢ︶︑白檀その他の生産物を受取り︑これらはこちら側の諸市場に︑枯椒が成長しているメール︵マラバル海岸︶や銅︑胡麻の木︑
衣服用の布を輸出しているカリアーナ︵ボンベイ附近の港︶に引渡されている︒
との海上ルートは︑西の方へは︑
由してエチオビアの港アドゥーレ︵ソマリランド︶につづいていた︒アドゥーレヘはさまざまの香料や北東アフリカ
コスマスはエチオビアの﹁大部分﹂をみたといが︒彼のいうエチ産の﹁その他の商品﹂が輸出のために到着した︒
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
オビアとは南は赤道に至るまでの東アフリカのことである︒
シン
ド︹
ィン
ドの
前線
︑今
日の
西︒
ハキ
スタ
ン︺
︑ペ
ルシ
ア︑
アラ
ビア
︹ィ
エー
メン
︺を
経
このように素描されたシナとインド この島は中央に位しているので︑インドの各地方︑ペルシア︑エチオビアの船がしばしば訪ねてくるが︑自らの船 一度は内インド
︵ア
ラビ
アか
らコ
モリ
ン岬
以東
の地
域︶
コスマス
( C o s m a I n s d i c o p l e u s t e s )
は彼の活動を誌して エジプトとは規則的に交易が行なわれていた︒ 五世紀にはヴァンダル族の支配する北西アフリカは︑
アマルフィ︑ナポリ︑オトラントは︑七
00
年頃でもシコンスタンティノー
イタリア︑時としては西地中海地方と
その
間に
︑
プ人が七世紀に前進してきたことである︒
エジプトの回教国主たちとの商業関係は︑
は行われなかったとい コンスタンティノープル ヨーロッパと極東との主要交通路線の二つが完全に回教徒ア ヨーロッパの必要としている財貨は大いに ヨーロッパから赴く重要なもうーつのルートがあった︒これは後述するが︑スラ
ヴ族が南ロシアヘ移動したために崩壊し︑北欧人によって九世紀に再開された︒
上述のことから明白であるのは︑ゲルマン人の侵入はヨーロッパの商業にかなり被害を与えたのは疑いないけれ
ども︑商業を全く破壊し去ったのではないということである︒しかし︑
減退
され
︑
これに伴って︑交易量ー困ったことには数量ないし統計的数字で示されえないーーが減少したと考え
られる︒中世ヨーロッパの商業通路が︑どのようにして維持されたかの問題からみて一層重要なのは︑回教徒アラ
また
︑
重要な役割を演じつつあった︒
への
線︑
コンスクンティノープルヘは︑
年以内に︑地中海に沿うアフリカ海岸の全部が彼らの手中におち︑一 五
0
イスパニア︑シリア︑パレスティナの大部分︑ペルシア湾の両岸も彼らの占領するところとなった︒かくて︑
地中海の諸ルートの若干が遮断されただけではなく︑
ラプ人に制御されるに至った︒陸上ルートはこのときまでに重要でなくなってしまっていたので︑回教徒アラプ人
はヨーロッ︒ハと極東の商業通路すべてを支配するようになったといってもよい︒南イタリアとコンスクンティノー
プルとの間には若干の交易が持続し︑漸次に︑
における商人階級によって︑常時ではないけれども︑再開され︑レヴァント︹近東︺人とイクリア人とがますます
北欧人は西部ヨーロッ︒ハを襲い
1
回教徒が他の処︹地中海地方︺で行なったと同様に1
交易には致命的な状態をもたらした︒九世紀には地方的交換と区別されたほんとの貿易︹国際商業︺
われている︒しかし︑北欧と地中海地方との接触の一線は依然として存在していた︒すなわち︑バルト海から黒海
これである︒ロシアの中心部に発する諸大河は北と南へと流れている︒スウェーデン人が利用したのは︑
72
して︑西ヨーロッ︒ハと東方との基本的な述結の一っが再開された︒ これらの河川であった︒八
00
年頃︑彼らはラドガ湖の南岸に︱つの駐留地を設けた︒そこはフィンランド湾から ニーヴァ河から三九マイルほどの地点にあった↓この駐留地は二つのルートを支配した︒南へは ヴォルコヴ河がノヴゴロッドに導き︑
に達した︒東へはスヤシおよびモローガの両河によって︑商人はヴォルガ河︑
た︒イルメン湖畔のノヴゴロッドとドニエプル河畔のキエフとは︑これらのルートに沿う最も重要な商業中心地と
︑︑︑︑︑︑
なった︒これらのルートは十一世紀まで開通しつづけていた︒これらの線に沿って︑北欧の主要産物︹毛皮︑蜜︑奴
隷︶が送られ︑ そこからロヴァート河によってドニエ︒フル︑黒海︑
カスピ悔︑東方の諸市場へと通行し これに対して商人は香料︑ブドー酒︑絹︑貴金属を入手した︒この商業活動の若干は︑まもなく北
する西地中海を迂回するルートを発見したのであり︑これは恰も後代にトルコ人が紅海を支配していたのを避けてアフリカ迂回の
イ ン ド 洋 航 路 を 発 見 し た の と 全 く 同 じ 仕 方 で あ っ た と い っ て よ い ︶ ︒
だが︑以上述べたところを︑あまりにも厳格に受取っては︑誤りになることを注意しなければならない︒
︑ ︑ ︑ ︑ ︑
地中海は全部が全部ヨーロッ︒ハ人に閉ざされたのではない︒九世紀におけるヴェネツィアの勃興は商人が宗教問 題をあまり考慇しなかったことを明示している︒すなわち︑
と交易を喜んでしようとしていたのである︒
キリスト教徒の鹿人たちは︑ 異 教 徒 ︵ 回 教 徒 ア ラ プ 人 ︶
エジ︒フトとのヴェネツィアの連絡は九世紀に始まっている︒ヴェネッ ィアはその北東の背面地に多量に産する木材や鉄および奴隷をアラブ人の造船所および宮廷の需要を充たすために 送った︒この発展はビザンツの商業の増大する支配︑またまもなくシリアの諸泄との交易の発展と平行した︒かく イタリアの他の都市も地中海商業において優勢であった︒南イタリアの海港都市︵サレルノ︑アマルフィ︑ナポリ︑
カ ロ
リ ン
グ 時
代 の
商 業
︵ 宮
下 ︶
海にまで拡張され︑かくてイングランド︑低地地方︑北東フランスヘと拡がった︒
︵ 次
い で
︑ ヨ
ー ロ
ッ パ
は 回
教 徒
の 支
配
コンスクンティノープル 容易に達せられ︑
ガエタ︶は回教徒の諸地方と交易した︒
アマルフィを介して︑最初はアレキサンドリアに送られた財貨が
︑︑︑︑︑︑︑︑
ョーロッ︒ハに伝達された︒これら南イタリアの諸港はその地位を十二世紀の初年代にまで維持した︒
ここに特筆すべきは︑北イタリアのヴェネツィアは一度もアラブ人の被害をうけなかったことである︒回教徒ア
ラブ人の地中海域への侵寇は︑
でもなく即時でもなく︑
フラ
ンス
︑
イス
︒ハ
ニア
︑
イタリアの一部を﹁封鎖﹂したとしても︑その封鎖は完全
フランク王国の国際商業はビサンツ支配下のヴェネツィアを通じて継続された︒回教徒ア ず︑また︑破壊する能力ももたなかったからである︒
カロリング時代の国際商業の形態はメロウィング時代のそれと異なっていた︒フランスは近東と直接の交通をも たず︑回教徒イス︒ハニアとかビザンツ領イタリアを介して取引し︑また︑
を介して間接に接触した︒
バル
ト海
︑ ヨーロッパ全体が国際商業のなかにまきこまれてしまった︒この国際商業は︑歴史上は じめて真の相互交換の形態をとった︒しかし︑西洋における東方商業の実際的中心はイタリアであり︑
⑥
自然︑第二次的な重要性しかもたなかった︒
フランスは
ローマ時代の商業は北海沿岸には達しなかったけれども︑ライン下流からさらにバルト海へと達していて︑ゴー トランド島には一流の商業中心地があった︒イギリスに来襲したデーン人がカスビ海や黒海を通じて東方貿易を行 い︑ゴートランド島上の商業中心地をアラビア貿易の中心地とした︒このアラブ人がマラバール海岸にいたり︑イ ンド・アラビア間の香料取引を独占していた︒
⑨
はなかった︒とすれば︑次に問題となるのは︑カロリング時代とくに八世紀後半と九世紀ではどうであったかであ
る︒項を改めて考えよう︒
ヨーロッ︒ハでは四世紀と七世紀との間には大きな商業交通上の断絶
ラブ人の勢力拡張は東方商業の没落をもたらさなかった︒
というのは︑
ロシャおよび東部ヨーロッ︒ハ
彼らは商業を破壊しようとの意思をもた
こ ︑
•9
とく
7 4
J .
W.
M c C r i n d l e , T h e C h r i s t i a n T o p o g r a p h y o f C o s m a s , a n g E y p t i a n M o n k , L o n d o n 1 8 9 7 ̀ p .
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Ropez,J•W.
R a y m o n d , e M d i e v a l T r a d e i n t h e M e d i t e r r a n e a n W o r l d , N e w Y o r k 1 9 5 5
に
おけ
る史
料を
看よ
︒
詳しくいえば︑四世紀から五世紀末までは商業は衰退し︑五世紀末から七世紀中頃まではイタリア︑コンスタンティノープル︑アレキサンドリアが栄えて商業は盛んとなったが︑七世紀中頃からはその盛んな商業も収縮した︒従って︑商業発
展には上昇下降があった
U
カロリング時代の商業の展開を考えるには︑当時の世界を念頭におかねばならない︒
九世紀初年代の世界は三大国に分かれていた︒カロリング王朝のキリスト教国フランクは大西洋を西境にし︑東部
アおよびペルシアを含み︑
ア王国と今日のチェッコ︑ ローマ教皇を宗教上の権威として承認したすべての地方を包含している︒半月旗のひ
るがえる回教国はヘラクレスの柱像からイスパニア︑
このほか地中海の諸島︑
のシナはペルシアの東境から大平洋にわたっている.︒これらの三大国家のほかに︑小さいながらも独立したカザリ
ハンガリア︑プルガリアなどを占めるスラヴォニア地方とがあった︒後者はキリスト教
カロリング王朝フランク国の領土は︑現在のフランスならびに西ドイツと北部および中部イタリア︑さらに︑ラ
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
テン圏地中海の諸島︵バレアリック諸島を含む︶︑最後に︑ナヴァル地方からイス︒ハニア辺境附近すなわち︑後のカ
7 5
ョーロッパには属しない異教の地であった︒ ではエルベ河に達しており︑
⑨
注⑦ ⑧
モロ
ッコ
︑
アルジェリア︑
エジ
プト
︑
パレ
スチ
ナ︑
バビロニ
アラビア︑少なくともインドのシンド州を支配している︒唐代
国に編入されていなかったのは︑
ザンツ領南イタリアおよびシチリアにおける回教国旗のもとに生活しているキリスト教徒であり︑
キリスト教的西ヨーロッ︒ハ全部がフランク国をなしていた︒ビザンツ帝国は政治上・宗教上フランクと対立してい ⑩ たのである︒
このような情況のもとにおいて︑少なくともカール大王およびルイ敬虔王︵八一四ー八四
0 )
ロッ︒ハは以前の時代または直後の時代に比べて安定していた︒カロリングの世界は農業生産の拡大をみた︒そして
生活や権力の中心は︑地中海の沿岸および諸島から北ヨーロッパの地域および農村地方へと移動した︒他方︑
ンヌが示唆したような地中海における商業の完全な停止はなかった︒南ガリアの諸都市は︑より古い都市的中心地 の大多数がまさにそうであったと同様に衰微したのだが︑財貨は西ヨーロッパに輸入されつづけ︑さまざまな週市 や祭市で購入されつづけた︒メロウィング時代に重要な役割を演じたシリア人は︑もはや明白ではなかったけれど
⑪ ユダヤ人のようなものがあって︑以前よりはより大きな役割を演じた︒特定の諸地域の局地的商業が副業とし
て行なわれた場合すらある︒
う︒たしかに︑交換のために数多くの週市や祭市が存在したのだが︑以前よりも程度を増して農業所有地に依存し
た経済の成長は︑
中心の収縮は︑商業にある種の諸変化をもたらしたに相違ない︒
しかしながら︑
存在していた︒というのは︑ も ︑
漁民は漁携のためだけではなく︑
財貨輸送のためにも彼らのボートを用いたであろ
ピ レ
イギリス諸島︑北部イスバニアの小さなキリスト教諸国︑回教国イス︒ハニア︑
ビ
これらを除けば
の治世には︑西ヨー
その影響をもったに相違ない︒人口は減少したかも知れないし︑稲密な人口をもつ大きな都市的
この諸変化は人々が考えたほど急速でもなく完全でもなかった︒比較的重要な若干の都市が常に
アングロ・サクソンおよびフリーセンの商人が八世紀に︒ハリのサン・ドニの祭市を訪 タロニアまでを含むピレネエ地方とから構成されていた︒ し た が っ て ︑ カール大帝が逝く頃︵八一四年︶フランク
7 6
れているからである︒だが︑貴族たちがこの週市および祭市を通行税や課金の収入源とみなしたことが史料から明
@
瞭である︒その結果︑さまざまな商業ルートには通行税や祭市︑週市での課金の増加があった︒これらの課金︑税 金があまりにも重課されたので︑若干の商人はこれを避けようと試みたために︑国王はその救済策を講じた︒
しかし︑商業に対する通行税その他の課金は︑もし利益が十分に大きかったならば︑商業を局地的に︑さもなく ば遠距離に亘って停止させるにはそれ自体としては十分ではなかった︒市場が存在し買手があり価格が相当高けれ ば︑その間は問題ではない︒通行税や諸税金は財貨の価格に単純に付加された︒そして︑特定のルートに沿う通行 税が圧迫的になると︑財貨は一っの通路をすてて他の通路をとって船積された︒それだけではない︒王たちは特定 の修道院・教会に通行税免除の特権をたえず許し︑彼らのできる限りこの不当の強要から商人たちを保設しようとし
⑮
た︒カール大王時代のカロリング国のようなかなりよく組織された国家では︑地方貴族は勝手に通行税や諸税を設修道院の多くは財貨を必要としたが︑
それはかなりの遠方から輸送されねばならなかった︒国王たちはこれらの 修道院に御用をつとめる商人たちを保設しようとした︒自身のために財貨を輸送する修道士や修道院長は国王から の諸特権をもっていた︒メロウィング末期に衰頬していた河川交通は︑大西洋に注ぐ諸河川では明らかにやや回復
した
︒
ロワ
ール
河︑
シェール︑ヴィエンヌ川はこの種の河川であった︒地中海方面については︑回教徒地方からの 商品が九世紀にアルルで販売に供せられたが︑経済活動の最も大きな地域は北方に移動した︒これは多くの学者に よって承認されている︒商業交易に言及している諸文書のなかにとくに挙げられている諸都市︵少くとも商業交易地︶
ドゥールシュテート
( W i j k
b i
j
D u r s t e d 1 1 D o r e s t a d )
(
ドーレ
シュ
ター
ト︶
があ
る︒
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
としては北方ではルーアン︑カンシュ河畔のカントヴィック
( Q u e n t o v i c
マーストリヒト︑ライン河口に位する
) ︑
けることは許されなかった︒くにあてはまる︒ まな河川に沿って送られただけではなく︑ そこで︑北ヨーロッ︒ハにおける遠地商業を考えてみる︒北海附近の地域では︑カロリング初期には活発な商業が
存していたようである︒北フランスやライン地方には︑当時全世界で需要されていた有名なフランクの刀剣
︵マ
ント
︶
が製造された︒それだけではない︒この地域はガラス製品や陶器類も生産した︒イングランドや低地地方か
⑭
が来た︒これは交易品として極めて重要であった︒なお︑農産物も北海周辺地方では交換されたようである︒カロリング時代にはいわゆる三圃農法︵春蒔き作業の附加︶がロワール以北の地域に導入され︑し
かも︑馬のために適当な引き具が発展された︒その結果生ずる農業生産力の増加は︑食糧自給のできなかったフリー
スランドやスカンディナヴィアのような地域に食物を船積する乙とを可能にした︒北欧の商業では︑地中海地域の
商業に比べて︑奢修品の演じた役割の重要性は少ない︒ではあるが︑農産物は南方の商業に全く欠けていたのでは
ない︒というのは︑南方は有名なブドー酒の生産地域であったからである︒プドー酒は重要な商品であった︒しか
も︑注目すべきは︑二大商業中心地域︑北海と地中海とは互に切断されていなかった︒プドー酒が大西洋岸やさまざ
隷の多くはアングロ・サクソン人によって北フランスで売られた捕虜のなかから先ず最初は購入された︒なお︑他
の奴隷はフランク国の東部国境で捕虜となり奴隷にされていたスラヴ人であった︒このことは九世紀の前半にはと
商業はカロリング世界にとっては今日ほどきわめて重要ではなかったけれども︑カール大王は積極的に遂行した
︱つの政策をもっていた︒この意味で︑カール大王時代の﹁商業政策﹂を語ることが許される︒
北ヨーロッ︒ハでは食糧の輸出はフリーセン人のみならず︑
つの﹁武器﹂として使用された︒これらの民族はこの種の供給物に依存しており︑その供給を差し控えることはカ らは毛織物
ベ
ル ︶
ヨーロッパの回教徒への主要輸出品の一っは奴隷であった︒これらの奴
スカンディナヴィア人︑デーン人との関連において一
︵ サ ー
78
ロリング王たちにとってノルマン人を鎮圧する戦闘の﹁武器﹂であった︒イギリス毛織物の大陸への輸出および巡
礼の取扱について︑カール大王とメルシア王オファとのすでに註
1 4
でふれた通信文は︑このような交易が国王の注意をひくに十分なほど重要であったことを示している︒九世紀にはプリタニアの船と商人とが北フランスや西フラン
スと接触していた︒イングランドの商人はフランスおよびサン・ドニの祭市にきただけではなく︑遠くローマを訪
れたようである︒同様に︑有名なフリーセン商人は︑カロリング国家内を︱つの部分から他の部分へのみならず︑
カロリング国に属しないプリタリアヘ︑さらにローマに赴いた︒
カール大王の商業政策は彼の国家の東境に沿っても︑これと同様に明白である︒ゲルマン人が西方のローマ帝国内
⑮
に移動した跡の東ゲルマニア地方へはスラヴ人が来住していた︒彼らはゲルマン人よりは一層幼稚であった︒カロリング国家に最も近接したスラヴの諸部族はカロリング王朝フランク人と商業的に接触していた︒スラヴ族の南方
にはアヴァール族が居住していた︒彼らはドナウ中流渓谷に住み︑
との間に︑若干の交易が存していたのは明白である︒これら東方の部族との交易を取締るために国境市場が設けら
⑯
れ︑彼らに武器を輸出することが禁止された︒ではあるが︑中部ヨーロッパヘの陸上商業は︑地中海周辺の商業やイタリアと回教諸国領またはコンスタンティノープルとの間の商業ほど重要ではなかった︒カール大王の息︑
敬虔王がドイツのコルヴェイ修道院に貨幣鋳造権を付与したとき︑あの地域に来た少数の商人が外部から鋳貨をも
ち込むことが少ないからという理由で許可する旨を明言している︒
商業を取締ろうとするカロリンガーの努力のなかで︑ ついにはカール大王によって征服された︒彼ら
これと同様に重要なのは農産物に対する価格の統制︑貨幣
鋳造の中央集権化である︒カール大王は貨幣発行の取締りの重要性を明白に認識し︑
ことに積極的な手段を講じた︒メロウィング末期の数多くの鋳造所が廃止され︑
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
ルイ
これを彼の支配のもとにおく
一連の鋳貨改革が初代カロリング
7 9
一部分は︑みたされた︒とくに︑
王家 ユダヤ人は王室のために重要 王たちとともに始まった︒これらの改革の精確な性質は目下のところ完全には解決されない種々の問題を残してい
地中海商業の主要な港であるヴェネツィアを征服しようとするカロリング王家の努力のなかに︑商業政策ともい
うべき︱つの類似の実践を見出すのは誘惑的ではあるけれども︑この場合問題点は明白ではない︒政治的考慮が南
ヨーロッ︒ハではより大きな役割を演じたように思われる︒ビザンツ人との関係は︑北ヨーロッ︒ハや東方の比較的幼
稚な民族との関係に比べて︑はるかに複雑であった︒
古いシリア商人の衰退も若干の新しい処置を必要とした︒この空隙は︑修道院およびカロリング王国の大頷主に
雇われた修道院御用商人や荘園御用商人によって︑
⑰
な役割を果した︒ルイ敬虔王に仕えたサラゴッサのアプラハムのような宮廷御用商人は︑に仕えたプリスクスやソロモンのようなユダヤ商人の伝統をついだものである︒
な部分と考えられる奴隷貿易において︑著しい役割を演じた︒
M e
u
咎︶と上ライン地方のマインツとであって︑ メロウィング王家に同様ユダヤ商人は国際商業の最も重要
この奴隷貿易の中心地はヴェルダン
そこでは捕虜が集められ南方に送られて回教徒に売られた︒
または大領主に雇われた御用商人は法外な課金から保護され︑ユダヤ人はユダヤ人自身の法律︹属人法︺に従うこ
とを許されさえした︒他の商人たちも統治機関に奉仕したから︑同様な諸権利はできるだけ多くの人々におよぶよ
う拡大された︒しかし︑商人一般に特権を付与する場合には︑北海に沿うカントヴィック︑ドゥールシュテートや
( V
e r
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s u
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スロイス
( S l u
i s )
のような重要商業中心地における王室宝庫の収入を保護するよう注意が払われていた︒
それゆえに︑カロリング世界は︑かつて想像されたように﹁全く農業的﹂ではなかった︒カロリング時代のヨー
ロッパの修道院の大多数は︑カール大王の勅令のみならず教会法によって禁止されていたにもかかわらず︑彼らの る ︒
8 0
および東イタリアにおける地域をも保有した︒ 生産した余剰物の若干をおそらく売却した︒この余剰はこの時代のはじめにはたしかに小さかったが︑すでに述べ
⑲
た新しい農業技術の導入とカロリング国家の拡大とは︑余剰を増大させ︑これらの余剰生産物は販売のため市場にもたらされた︒それだけではない︒食塩︑金属製品︑さらに︑王国の一部分から他の部分に船積されねばならなかったその他の財貨のために︑市場が常に存在していた︒ではあるが︑カール大王の商業政策はきわめて限定されていたし︑経済の改善以外の目的に企画されていたことに注意せねばならない︒回教徒の拡大はビザンツ大帝国をョーロッパの事件のなかで消極的な一勢力に低下させはしなかった︒ビザンツ
は依然としてきわめて大きな有力な国家であった︒この国家は中世を通じて商業に著大な影響をおよぼした︒この
事実はしばしば看却されている︒そこで次に東方への遠地商業を考える︒
回教徒の攻撃の最初のショックがすぎた後に︑ビザンツの船隊は再建されて︑巨大な地域にわたって支配力をお
よぼした︒ビザンツはその商人を常に油断なく保護し︑積送される財貨およびその目的地に対する強力な監視を怠
らなかった︒彼らの船隊は九世紀にいたるまでも︑シチリアの支配維持をビサンツに可能にし︑彼らは南イタリア
近東の奢修的生産物はガエタ︑
アに送られた︒イタリアにおけるこれらの都市は︑みなコンスクンティノープルに首府をおく大帝国に加担した︒
このようにして︑彼らは特権的な地位をうけ︑近東のギリシア部分において商取引することができた︒彼らはビザ
ンツ帝国のキリスト教徒たちと取引しただけではなく︑回教徒とも取引した︒
初めに聖マルコの聖遺物をアレキサンドリアからヴェネツィアに輸送したことは意義なしとしない︒
は︑奴隷︑船用材︑
ナポ
リ︑
アマルフィ︑バーリなどの都市︑ーなかんずく重要なのはーヴェネツィ
一隻のヴェネツィア船が九世紀の
フランク製のすぐれたサーベルその他の武器を熱心に取得しようとした︒
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
回教徒たち
イクリアの諸都市
は︑これらの需要品をョーロッ︒ハ大陸から供給することができた︒とくに︑九世紀の商業において大いに伸張しは
じめたヴェネツィアが︑近隣都市のなかで指導的な役割を急速に演じた︒奴隷は中部ヨーロッパやバルカン諸国か
ら購入できた︒もっともこの取引は感心されなかった︒木材はダルマティア海岸で伐採できた︒サーベル類は北方
商人から購入できた︒これらの財貨をヴェネツィアは地中海の東地域における回教徒に送り︑その代わりに香料︑
絹︑パビルス︑後には紙︑ならびに一層奢修的な高価な他の財貨をすらも取得した︒
南イタリアの西海岸の諸都市も回教徒とかなりの取引をした︒南イクリア商人は北アフリカのバーバル種族居住
沿岸を主として訪れた︒もっとも︑エジプトに向った船もある︒これらの商人はヨーロッパの商品をもたらし︑回
教徒世界の商品をもって帰った︒イタリアの大部分におけるビザンツの支配力は︑比較的弱かった︒そして︑回教
徒とのこの交易は承認されなかったけれども︑これを停止させることはできなかった︒
回教徒側の史料は西地中海における交易について例証している︒ョーロッパからのさまざまな国籍の男女の奴隷
⑲
ならびに毛皮︑若干の芳香料や薬剤︑しかも真珠すらもヨーロッ︒ハからもたらされた︒これらの財貨の若千は︑フカロリング世界を文明の最も遠方の隅と連絡した別の交易の糸があった︒いわゆるローダニーテス
⑲
( R o d a n i t e s
)
というユダヤ人群が仲介者を通さずに︑最も遠距離にわたって商業を行った︒回教徒の史料から︑れらのユダヤ人の若干がフランスの南海岸の諸港またはイタリアから出帆してエジプト︑シリアまたはビザンツ帝
そらくはペルシア湾頭に達し︑さらにインド︑
ニアから地中海を横切って北アフリカに渡り︑ 国に赴いたことがわかる︒そこから︑彼らは隊商によってあるいはナイルを遡りエジプトの紅海側にまたは一層お
シナ︑極東の諸島に達した︒別のユダヤ人はフランスまたはイスパ
そして北アフリカ海岸全長を旅してアレキサンドリアに達し︑そこ
さら
に︑
ランスの地中海諸港ならびにイクリアから船積された︒
こ
8 2
からつづけてインドやシナに旅した︒これらの大胆な商人がとった第三のルートは︑中部ヨーロッ︒ハ︑ブルガリア 人およびスラヴ人の居住地方を通ってカザール王国に赴き︑次いで中央アジア︑インドやシナに赴いた︒これらの ローダニーテスといわれるユダヤ人はフランク国のサーベル類︑ヨーロッパの財貨をたずさえ︑帰りにはヴェネッ ィアの市場で売れる東方の奢修品︑ならびに中部ヨーロッパの奴隷をもってきた︒かくして︑このユダヤ人の商業
の範囲は旧世界︵ユーラシア︶の全域を含んでいたが︑
イタリア諸都市のこれに比べれば伝奇物語的性質の少ない日 それでは︑次にビザツン人と回教徒との間の交易はどうであったか︒アラプ人によるビザンツ帝国の大部分の征
服は
︑ これらの地方におけるキリスト教徒すべてを即刻に回教に改宗させたのではなく︑
エジ
︒フ
ト︑
シリ
ア︑
スタンティノープル間の商業的接触の諸ルートを全く切断したのでもない︒両国間に平和が支配した時期には︑
ザンツ︵ギリシア︶船はアレキサンドリアおよびシリア沿岸の諸港を訪ねつづけた︒
は回教徒からのみ入手しえた︒また︑初期の回教徒征服者たちは︑その征服した地方の行政的または商業的な制度 を大して変更しなかった︒.その結果︑ギリシアおよびシリアのキリスト教徒共同体は依然としてかなりの商業を支
配し
︑ ビザンツ政府が有効に施行していた無数の諸統制規則により限定されることが︑もしありとしても︑幾分少 なかった︒バビルスや特定の染色織物製造のためのビザンツ皇帝の独占は︑回教国主たちの利益のために継続され た︒生産物はまさに規則的にコンスタンティノープルに送られた︒シリアでは小アジアを経由して財貨を運ぶため
に隊商が用いられたが︑他方︑
セロイキアおよびアレキサンドリアからの船はコンスタンティノー︒フルという大市 場へ生産物を運んだ︒キプロスはこの商業における︱つの重要な停留場所となった︒そのほか︑回教徒世界の東部 からの隊商ルートの網は︑黒海の南東岸に沿うトランペツンドヘ導いており︑そこでは財貨がコンスタンティノープ
カロ
リン
グ時
代の
商業
︵宮
下︶
常取引ほど重要であったとは思われない︒
ビ
パビルスのような特定生産物コン
ルヘと積換えられた︒両国間に紛争の起った時期にはこの交易は幾分被害をうけたが︑
期があって︑その時期には︑互に大いに有利と考えた交通をビザンツ人も回教徒も妨害しようとはしなかった︒
シリアの占領が︑近東の商業ルートに少しも影響をもた
しか
し︑
アラブ人によるペルシアのみならずエジプト︑
は︑いまや回教徒の手中にあった︒しかも︑以前にはアレキサンドリアからコンスタンティノープルに送られて大
人口を養っていた穀物は︑いまやマホメットの出生地メッカ︑
都市に船で送られた︒このような事情のもとでは︑
クライナではヴォルガの両岸に沿ってカザールという国家が存在していた︒この国家はビザンツ帝国民とも回教
徒とも取引していた︒トルキスクンを横切る極東からの隊商ルートは︑ヴォルガ下流に沿うイティール︵アラス
ここには︑八世紀から一
0
世紀まで極東の生産物および回教徒諸領やビザンツ帝国からの商品が見出される︒カザールの諸市場には遠方の地の商人たちが各種の財貨を取引して
回教徒世界との商業も九世紀にはヨーロッ︒ハロシアの心臓部に深く入り込んでいた︒このルートはヨーロッパ大
陸全部を横切って遠方のスカンディナヴィア人をビザンツ帝国のギリシア人や回教徒たちと連結したとすら思われ
る︒諸ルートのうち最初のものは︑バルト海にはじまりリガ湾に入ったルートである︒リガ湾からはこのルートは
ドヴィナ河の渓谷を遡って︑ 以前にはペルシア商人の仲介を通じて受取っていた極東の生産物
マホメットの聖廟のあるメディナ︑その他の回教徒
ビザンツ人はウクライナにおける別の穀物供給源に転じた︒ウ
この河の右岸にある今日のポロック附近またはおそらく少し遠方の︑同じくドヴィナ
両岸にあるヴィテプスクに通じた︒そこから︑旧スモレンスク付近のドニエプル上流に赴くには比較的短かい通路
であった︒財貨はこの河を下って数回大滝を過ぎ黒海の北岸に運ばれ︑
ヽ そ
J O
' キ トカン︶というカザール人の首都に直接に導いた︒ なかったと推定するのは正しくないであろう︒
そこではギリシア人の回漕業者がこれを受 他方同様に永い平和の時