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イギリス公衆保健制度史の組織面整備の一段階

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イギリス公衆保健制度史の組織面整備の一段階 5 5   都市研究報告5 7 , 1 9 7 5  

イギリス公衆保健制度史の組織面整備の一段階

一一地方統治制度とのからみあいに注目して一一一

宇 都 木 仲 ・ 唄 孝 一

O はじめに...・

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・ − − … … . . . ・

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・ ・ ・ ・ ・ 5 5 第 1 節 1 8 4 8 年法制度・・…・…...・

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・ − …

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・−……5 8 I  1 8 4 8 年法制度…−…....・

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・−…5 8 I I   その実施状況……

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・ − − … … 59 I I I   その問題点…...・

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・ − − … . . . ・

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・ ・ ・ 6 1 N  その後……...・

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・ − ・ … … 64 第 2 節ふみかため・

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・ − − …7 1 I  ニューサンス除去と疾病防止・…………

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・ . . . . . 7 1   I I   地方統治法の誕生…...・

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・ . . . . . 7 4  

は じ め に

国民の健康に関する対策を考える場合に,地方の単位 を一つの有力な支柱とするべきことは,今日しばしば指 摘されるところである。一般に民主的行政の基礎として の地方自治の重要性の指摘(註 1 )の他に,保健に特有 の事情もまた存在する。いわゆる公害が一定の地域を単 位とする問題であること(註 2) ,   また包括医療 com‑

prehensive  medicine と称せられる新しい医療の方向 が住民の生活基盤をもその視野の中におさめることによ ってのみ成立するものであること(註 3 )などから,現 代の医療は必然、的に地域的まとまりを指向すると通常言 及されているわけである。

しかし,この健康問題と地方との関連は決して現代

(医療)に特有なこととしてのみ見るべきものではある まし、。もし,地方の行政というものが,住民の欲求に即 応した形で運営さるべきものであることを認めるなら ば , 「健康」は人間の最も基本的な要求であろうから,

住民の健康は地方行政の中心的課題のーっとなろうから である。基本的にこの可能性を認めるとすれば,むしろ 保健業務と地方行政の結びつきの有無ではなしその結 びつき方,あるいはあるべき結びつき方の特殊性を各時 代につき検討すべきであろうと思われる。

わが国においても,明治憲法に即応した形にっくり直 次

I I I   かくれた中央指導体制…...・

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・ − − … . . . ・

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・ ・ 7 5 第 3 節 1 8 7 5 年法制度・

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・ . . . 7 7   I  法改正のうごき…...・

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・ 7 7 I I   新しい法制度....・

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・ . . . . s o  

1 8 7 1   地方統治局法・・

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・−……80 1 8 7 2 〜 4 公衆保健法…・…

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・ − …

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・ − …8 1 1 8 7 5   I I ………...・

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・ ・ ・ 0 0 ・ 8 3

0 む す び に か え て ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・86

される(註 4 )以前の地方行政制度の内に公選制の衛生 委員制度を全国的に敷こうとし、う試みのなされたことは 周知のことである(註 5 )。そして, この期の地方制度 全般(いわゆる三新法・明治1 1 年)についての次の様な 評価は注目に価しよう。「〔その意図は〕後の立法に比べ れば,それはまだしも自己目的的であり,より多く本質 的なものをもっていた。」「〔民生の安定という〕極めて 切実な国内の需要に応ぜんがための方法に他ならなかっ た J と(註 6 。 しかし, いまだ工業化が不充分で,い ) わゆる都市問題が完全にはたち現われておらず,中央政 府の統治体制も,また地方の自治の基盤も整っていなか った時代で、あったため,この制度を現実に生かしてゆく ことはできなかった。後に,工業化が急激に進み,国民 の健康上の問題が甚しくなってきた頃には,地方行政は 中央の統治の一分野と位置づけられてしまっていた。そ して,制度面からみる限り第二次世界大戦後にいたるま で,地方の自己統治という考え方は退いてしまったので あった。従って,住民の健康が地方自らが解決するべき 課題として採り上げられるとし、う段階を経ないで今日に

¥ ,

  、たってしまったとし、うことができょう。

わが国のかかる動きとは対照的とも言いうる「地方自

治の母国」なるイギリスにおいては, 「この時期〔1 9 世

紀〕を通して,漸次衛生問題は最も重要なものであるこ

とが,明らかになってき……公衆保健 p u b l i ch e a l t h  

が地方統治 l o c a lgovernment ( 註 7 )の最も重要な分

(2)

56  都 市 研 究 報 告 第 53 〜 57 号 肢であることが認識されて来て,かくしてこの〔公衆保

健〕目的のために用いられた当局 a u t h o r i t y から,現 代の地方当局のスキームが発展してきたので、あった。 j

( 註 8 〕

本稿は,この時期における保健制度の変遷をあとづけ るものであるが,その際にこの問題,即ち地方統治との 関連の仕方にとくに注目をしてゆきたし、とおもう。

制度前史概略

地方行政にとって,住民の健康は一つの本質的構成要 素であるが,それは必ずしも常に表面に出ているわけで はなし、。むしろ,住民の健康が何らかの原因で危殆に瀕 した時に,現実の地方行政の中心的課題としてたちあら われてくる。 19 世紀のイギリスは正にそういう時代であ った。はじめに,この状態にいたった事情と,これに対 する一つの対応として一般法律であるところの1 8 4 8 年公 衆保健法が制定されるまでの過程を極く簡単にあとづけ ておくこととする。

1 7 世紀にいたるまでは,国王の特許状をもっ Borou‑

ghsにおいては住民選出になる magistrates が統治権 限をもっていたが,他の地方においては凶王の任命にな れ枢密院のコントロールの下におかれていた J u s t i c e s o f  t h e  Peaceが包括的当局 omnibusa u t h o r i t y とし て統治権限をもっていたということができる。ところが

「地方的に処理される事柄 l o c a l l yadministered a f f a i r s   に関して中央政府は干渉するべきでない,ということが 名誉革命の結着 RevolutionSettlement のー原理とな」

って以来,「地方自治 l o c a lautonomy の極端な形態が 結果した」〈註 9 )のであった。

そして, 1 8 世紀にいたって,新しい社会問題(交通発 達にともなう公道の問題,かこい込み運動に伴う賃労者 発生など)が,従来の地方区分を破る形で発生しはじめ たために, これに対応するべく,特定目的の当局 ad hoc a u t h o r i t yが多種つくられるようになってきた。こ れらは通常,地方法律 LocalAct o f  Parliamentとい われる,特定地方(但し,従来の地方区分とは必ずしも 拘りなく)にのみ効力を持つ国会制定法により創設され るものであった。こうして,相互聞に連絡の之しい各種 目的のための各種の地方当局が乱立し,地方の制度は1 8 世紀の末には何らかの整備を必要とするにいたってい f こ 。

しかし,その必要性は仏革命と,それにつづく英仏戦 争の圧迫,さらにその後の反動的な政治の下に, 19 世紀 の第 1 四半期のあいだ中抑圧されていた。ところが,そ の聞にこの国においてはいわゆる産業革命が甚しい社会 変化を惹起してしまった。蒸気力の利用を伴った技術革 新が,面目を一新した工業都市を出現させ,無類の労働 人口集中をもたらした。好況期でさえ甚しい低賃金に抑 えられており,しかも周期的におこる不況の波のしわよ

せを直接受けるこれら賃労者の劣悪な生活状況は文字通 り未曽有のものであった(註 1 0 〕。この賃労者の失業=貧 困問題と生活=衛生問題とは,従来からあった制度改革 の必要性の性質を著しく変えてしまった。混乱した諸制 度を整備することのみでなく,今や新しい対処方法を導 入することがぜひとも必要とされていたので、あった。

この要求に対応する最も有力な試みが新救貧法(註 1 1 ) といわれるものであった。この法は現実の救貧行政の方 針としてはむしろエリザベス救貧法への復帰であると言 われるものであったが,制度の面からは画期的であっ た。中央に救貧法委員会 Poor Law Commissioners  (3 名〉を置き,地方に一般的に設定された救貧法(教区)

連合 PoorLaw Union ( o f   P a r i s h e s )を指導・監督す ることとしたので ある

O

この救貧法制度の,公衆保健制度への影響は甚大であ った。

地方に関しては,ここに設けられた救貧法連合の多く が,後に地方保健行政の単位として流用され,中央につ

いてみれば,救貧法委員会が保健に関する中央機構の proto‑type と考えられしばしば対比され, のみならず やがて,この二つの中央機構が合するような形で地方統 治に関する中央機構が生み出されてくること,次節以下 にみる通りである。

救貧問題と保健問題とは,このように制度の面で密接 につながりをもつのみでなく,内容的にも叉関連が深い のであった。

保健に関する法制度を導びき出すにいたった最大の功 績は通常1 8 4 2 年の衛生報告 SanitaryReport  ( 註1 2 )と 称せられるものに帰せられるが,これは1 8 3 8 年にロンド ンに関して行なわれた労働者の衛生状態調査を,さらに 全国の産業都市に関して行なったことの報告であった。

ところで,この1 8 3 8 年の衛生調査を,救貧法委員会がその 書記官 E .Chadwick t こ命ずるに到った経過はまことに 象徴的であった。 1 8 3 8 年,ロンドンの一地区の貧民救済 員会議(Boardo f  Guardians o f  t h e   Poor )が,当該地 域内の生活妨害物を除去するための費用を救済基金から 支出した。これが会計監査官 a u d i t o r のとがめるとこ ろとなり権限聡越行為とされた。時の内務大臣 I . Rus‑

s e l l卿は,このような支出を合法とするための法案を国 会に提出するに先立って救貧法委員の意見を求めてきた というのである。(註1 3 )

つまり,貧民救済ということを実質的に考えようとす るならば,失業時の貧民の収容・給食にとどまらず,一 般賃金労働者の生活環境(疾病=貧困状況)の改善に着 手しなければならないのではないかという問題提起であ っ T こ O

かつて新救貧法制度を生み出すにあづかつて力あった

Chadwick は,この調査を契機に(註1 3 )救貧行政そのも

(3)

イギリス公衆保健制度史の組織面整備の一段階 5 7   のからは手を引いて,労働者の衛生問題に専心してとり

組み,前記1 8 4 2 年報告を,そして叉1 8 4 8 年公衆保健法を 生み出していったのであった。そしてその過程で,貧困

→劣悪な衛生環境→疾病→貧困とし、う循環の認識,すな わち救貧問題と保健問題との必然的連関を明確にしてい ったのであった。

このようにして,衛生改革こそ救貧行政のより効果的 運用の近道であると主張されるにいたる( S a n i t a t i o n i s   cheap 勺。ここでは衛生改革は救貧行政の補間あるい はコロラリーと位置づけられるのである(註1 4 )

ところで, 1 8 4 8 年公衆保健法そのものが成立する際に は三種類の法案が競っていた。

一つは市街地保健協会 Healtho f  Towns A s s o c i a ‑ t i  onの提案したものである。当時, Benthamits を中心

として(人道主義者達,たとえば Ashley 卿などをふく む ) , 労働者居住区の衛生改革を推進するための篤志団 体がいくつか結成されていた。上記協会( 1 8 3 9 年設立〉は この内の最も有力なものであり,集会・アッピーノレにと どまらず法案の提案までもなした。ただし,この協会の カゲの実力者は Chadwick 自身であり, この法案もほ とんど Chadwick 私案とし巾、うるものであったといわ れている O

一方,政府は1 8 4 2 年衛生報告のもたらした多大な影響 と,上述の様な民間の運動などとを無視することはでき ず , 1 8 4 3 年勅命委員会を設けて,追調査と必要ならば法 律案の作成とを付託した。この勅命委員会の最終報告書 中のものが,第二の法案である。

第三の法案は直接に政府の提出したものである。政府 はまだ上記勅命委員会が報告書を提出していない時に,

時の森林木材第一委員 The F i r s t   Commissioner  o f   Wood  &  F o r e s t   (当時は同時に職責上の救貧法委員会 議長)であった Morpeth卿の手を通じて公衆保健法案 を国会提出しようとしたのであった。

こうして, 1 8 4 5 年の Chadwick私案, 1 8 4 6 年の Mor‑

peth法案,そして同 1 8 4 6 年の勅命委員会法案が競うこ とになった。当然のことながら Morpeth法案(但し,

大巾修正を加えた第二次案〕が成案となり, 1 8 4 8 年公衆保 健法はできあがったので、あった。(TheP u b l i c  Health  A c t ,   1 8 4 8  C .  6 3 )   (以下,法律名表示の際,国王年は煩 雑なので略し,全てに西暦年を付した。〉

註 1 1 星野光男,地方自治の理論と構造(1 9 7 4 ) 1 2 5 頁以下,吉富重夫,地方自治の理念と構造

( 1 9 6 〕2 6 頁以下。

註 2 たとえば木宮高夫,公害概論 ( 1 9 7 4 )2 0 1 頁 以下など。

註 3 たとえば川上武,地域医療の現代的課題(医 療と福祉所収) ( 1 9 7 3 )   8'  1 9 頁など。

註 4 ただし,それは明治憲法制定に先き立つ明治

2 1 年のことであった。その聞の事情について は,亀卦川浩:明治地方自治制度の成立過程

( 1 9 5 5 )   9 頁以下に詳しし、。

註 5 たとえば,芳茂維夫,明治期における衛生委 員と衛生組合,医学史研究1 7 号所収など。

註 6 亀卦川前掲書 3 頁 , 4 1 頁

註 7 本稿においてはいくつかの未熟な訳語が用い られているが,この二つの言葉は本稿の Key‑

wordであるので,その訳し方についてここに 簡単に私なりの理解を記しておく。

1  P u b l i c  Healthを公衆保健, S a n i t a t i o n を衛生と訳したことについて。

h e a l t h という語はな身体の充全性ミという 意味の本来の英語として,社会的にも自然科学 的にも異なる各時代を通じて,それぞれに特有 の内容をこめて用いられつづけてきた。これに 健康,あるいはこれを想起させる保健という訳 語をあてた。これに対し s a n i t a r yという語は,

1 9 世紀になれ流行病に関連して仏語から転用 されたものであったが, 1 8 4 2 年の(後述)調査 報告書のタイトルに用いられたことから流布し たものであった。そこでは労働者の健康に関係 のふかい生活環境状態を s a n i t a r yc o n d i t i o n s   と称していた。健康問題のこの時期における中 心課題,すなわち給排水を中軸とする環境対策 に s a n i t a t i o n という語があてられることにな ったのである。そして, 20 世紀にはいって,い わゆる p e r s o n a l h e a l t h 面が強調されるにい たって, s a n i t a t i o n は h e a l t hの中心から一歩 退くにいたったのである。

ところでこの s a n i t a t i o n を表わすに「衛生」

の語をあてたわけだが,それはそもそも長与専 斎が「衛生」という訳語をあてはめたのは正に この s a n i t a t i o n , Gesundheitspflege  とし、ぅ 概念に対してであったからである。その間の事 情について長与自身次の様に記している。「『サ ニタリー』云々『へんス』云々/語ハ屡々耳開 スノレ所ニシテ,別林ニ来テヨリモ『ゲズンドハ イツプレーゲ』等ノ語ハ幾度トナク問答ノ間ニ 現ハレタリシガ,初ノ程ハ……心ュ留メサリシ ニ

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・次第ニ疑義ヲ加へ漸ク穿サクスルニ及ピ テ,此ニ国民一般,健康保護ヲ担当スル特種ノ 行政組織アルコトヲ発見シヌ。是レ実ニ其ノ本 源ヲ医学ニ資リ,理化工学気象統計等,諸科学 ヲ包容シテ之ヲ政務的ニ運用シ……流行病伝染 病ノ予防ハ勿論,貧民ノ;欽済,土地ノ清潔,上 下水道ノ引用排除,市街家屋ノ j 建築方式ヨリ薬 品染料飲食物ノ用捨取締ニ至ルマデ,凡ソ人間 生活ノ利害ニ繋レノレモノハ細大トナリ取捨網羅 シテ……国家行政ノ重要機関トナノレモノナリキ

…」長与専斎,松香私志(明治3 5 年〉(昭和33 年医学古典集Eに復刻) 2 5 頁 , 2 6 頁。つまり,

西欧諸国で s a n i t a t i o nが h e a l t h の中心課題

であった時期に,その考え方と制度が健康一般

(4)

5 8   都 市 研 究 報 告 第5 3 〜 5 7 号 の問題であるかのように紹介・導入されたので

ある。そして前述の2 0 世紀の新しい傾向が我国 に波及してきたときに,その人的側面のつよい 分野に対して,衛生行政と区別して「保健」と いう語があてられることになったようである。

こうして,衛生と保健という二つの概念は s a n i t a t i o nと h e a l t hの関係と異なり,相対忘 するあるいは相補い合うもののように考えられ るようになってしまったので ある

O

(保健衛生 としづ言葉がそれを端的に示す)そのためその 内容に注目して p u b l i ch e a l t h に対しては,従 来から「公衆衛生」という語が, また h e a l t h s e r v i c e に対しては「保健サービス」という訳 があてられてきたようである。

こう訳し分けてしまっては h e a l t h思想の歴 史的な把慢が,従ってまた現在的な把慢が不分 明になると考え,不自然さを感じつつも h e a l t h

と s a n i t a t i o n とをかたくなに訳し分けた次第 である O

2  Local Government を地方統治と訳した ことについて。

地方行政と訳すと, I .   a d m i n i s t r a t i o n と区 別がつかず,叉 government のもつ独立的感 じが薄れ行政事務そのものの面が強すぎるよう に思え,

地方自治と訳すと, I .autonomy と区別がつ かず, l o c a lgovernment における中央統制と 地方自治の抗争とし、う本稿にとっての基本的な 論点が混乱してしまうおそれがある。

叉,地方政府とし、う訳が governmentの訳 の統ーという面からもその独立的感覚からもよ いと思われるが,政府には systemの名称とい う感じが強く,機能・ a c t i o n の面が薄く,

system としての government の生成過程を その一つの機能に注目しながらとりあっかう本 稿においては不適切に思えた。

ただ,統治には一つの階層が他の階層を支配 するという感じが強い憾がある。本稿ではこれ も含み,自己統治とし、う言葉もありうるという 広い意味で用いている。

註 8 S i r  W. 0 .   Hart and  J .   T. Garner: Harts  I n t r o d u c t i o n  t o   t h e  Law o f  Local Govern‑

ment and A d m i n i s t r a t i o n ,   9th e d .  ( 1 9 7 3 〕 P .   2 9 .  

註 9 前掲 HartsI n t r o d u c t i o n ,   P .   1 9 .   註 1 0 当時の生活状況を当時の人の筆を通して見る

ものとして, E . R .   P i k e :  Human Documents  o f   t h e   I n d u s t r i a l   Revolution  i n   B r i t a i n   ( 1 9 6 6 。 〕

註 1 1 An Act f o r  t h e  Amendment  and  b e t t e r   Administration o f  t h e  Laws r e l a t i n g  t o  t h e   Poor i n   England and Wales,  1 8 3 4  c .   7 6 .   註1 2 Report on an I n q u i r y  i n t o   t h e   Sanitary 

C o n d i t i o n s  o f   t h e   Labouring P o p u l a t i o n  o f  

Great B r i t a i n ,   1 8 4 2 .  

註1 3 前註 Reportの復刻版 EdinburghUniver‑

s i t y  ( 1 9 6 5 〕の I n t r o d u c t i o nby M. W. F l i n n ,   4 3 頁。ただし, F l i n nは,この救済基金の使用

自体が実は Chadwickの示唆であったかもし れない,と推測している。いずれにせよ記録に 乏しい事であるらし L 。 、

註1 4 赤木須留喜,

1 8 4 8 年の公衆衛生法の成立ミ 都大法学 3 巻 1・2 号に,この筒の事情分析 が詳しし、。

第 1 節 1 8 4 8 年法制度

「この〔1 8 4 8 年公衆保健〕法は,ただその内容的価値の 故にのみでなく,その後に長くつづくことになる一連の 公衆保健諸法の最初の布石としても極めて重要なもので ある。」(F r a z e r , 4 6 ) ( 註 1 )そこでまず本節でこの1 8 4 8 年法の内容の大略を紹介し,さらに Chadwick f . L . 案 , Morpeth法案そして 1 8 4 5 年勅命委員会報告書などとの 比較においてこの1 8 4 8 年法の持っていた問題点および限 界を探り,後に残された課題を検討しておくことにした し 、 。

I  1 8 4 8 年法の規定する法制度 一一中央

この法は,先ず保健事項に関する中央の機構として,

三名の委員よりなる中央保健局 General Board  o f   Health  (通例 GeneralBoard と称ばれること多く,

本稿においてもこれにならって中央局と略称することが 多い。訳については註1 2 参照)を設置した。これは木材 森林第一委員(前年の1 8 4 7 には救貧法委員会議長の職を 解かれていた)を職責上当然 exo f f i c i oの局長 P r e s i ‑ dent とし, 他にー名づつの有給および無給の局員とか らなるものとされていた( 4 条)。また,この中央局は自 らの書記と審問官(I n s p e c t o r )その他の役職員を有給で 雇傭することが許された( 5 〜 7 条〉。この中央局の重な 職務権限は専ら次に述べる地方局の創設,規則制定およ びその指導監督にあたることであった。ただし,この新 機構が国会に対して,また政府部内においてどの様な位 置に立つかは不明であった。

一一地方

ある任意の地区(従来の行政区画には必ずしもこだわ らず,住民3 0 人以上の,地理的に他から区別されうる所 であればよし、)の住民 I n h a b i t a n tの1 0 分 1 以上の者に よる請願がある場合,あるいは過去 7 年間以上の年次死 亡率が継続して 1 , 0 0 0 分の2 3 ( 註 2 )を超えていること が認められた場合には,中央局はその審問官を派遣し て , その地区の公衆保健事情に関して公開審問 p u b l i c i n q u i r y を開き,証人を尋問することができる( 8 条 )

( 註 3 。 )

(5)

イギリス公衆保健常 i i 度史の組織面整備の一段階 5 9   この審問の報告を検討し,本法がその地区に適用され

ることが適宜であると中央局が判断した場合であり,か っ同地区の住民の 1 0 分の 1 以上の者により法の適用の請 願がなされており,しかもその地区に既に適用されてい る関連する地方法律 l o c a lAct o f  Parliamentが現存 しない場合には,同局はその旨を国王に報告する。国王 はこの報告にもとづき,枢密院令をもって本法あるいは その一部が当該地区に適用されることを命ずることがで きる。請願のなされていない地区に関して,あるいはま た,前記のような地方法律が現存する場合には,中央局 はそれらの点を考慮した暫定命令 p r o v i s i o n a lo r d e r を 下し,これは後に国会制定法によって確認されることに より国会制定法と同ーの効力を有するにいたるものとさ れていた(1 0 条,註 4 ) 。

この様にして新しく定められた衛生地区 s a n i t a r y d i s t r i c t   (通例の呼称で,この法律文中には見当らない〕

にあって,その任務の遂行を担う者として設けられたの が地方保健局 l o c a lBoard o f  Health  (以下,地方局と 呼ぶことが多しつといわれる衛生当局 s a n i t a r yautho‑

r i t y   (これも通称〉であった。その構成は当該地区が法 人特別市 c o r p o r a t eborough と相蔽う場合,あるいは この内に含まれてしまう場合にはその法人特別市会がそ のままに,その他の場合には,関わりをもっ各地域から 枢密院令あるいは暫定命令が指定するだけの人数の有資 格者を選出してこれにあてるものとされた(その資格と 選出方法とは各場合によって夫々異り,詳しい規定がな されることになる。大まかに見れば,市会員あるいはこ れに選出される為の資格を有する者,その地区に在住 し,一定額以上の財産を所有する者が互選することにな る 。 1 2 〜 1 9 条。のちに多少ふれる〉。

この地方局の具体的権限としては,下水道の所有,管 理 , 清掃等(4 3 〜 48 条〉,建物等における下水溝等の設 置,その監督(4 9 , 5 1 〜 54 条〉,街路の清掃(5 5 〜 5 7

衛生上のニューサンス除去(5 8 〜 6 0 条〉,屠殺場の監督

( 6 1 〜 6 5 条〕,共同宿泊施設(6 6 〜 67 条〉,道路の維持改 善(68 〜 7 3 条〕,公共運動場(7 4 条〉,給水(7 58 0

死体・埋葬(8 1 〜 8 3 条)などが広義の衛生事項につき,

なし得ることとして与えられた。

これらの制度の維持と業務の為の財源としては次の三 種のものが定められていた。先ず役職員等の為の費用は 本法によって新しく授権された一般地区税 g e n e r a l d i s t r i c t   r a t e s   ( 8 7 条〕より支払われる。次に各工事等に ついては,その工事等により恩恵を受けることになる者 に対し特別地区税 s p e c i a ld i s t r i c t  r a t e s を , 3 0 年以内 の期間にわたって配分して課することができる(8 6 条 〉 。 更に,或る出費が地方局により私的な改良費と認定され た場合には,当該建造物等の占有者に対し私的改良税 p r i v a t e   improvement  r a t e s を課するものとされた

(90 条〉。叉,地方局は前記の様な諸種の税をそーゲッ ジ mortgage として資金を借入することが許され( 1 0 7 条〕,更に中央局がこれに貸付をすることもできること

とされていた ( 1 0 8 条 〉 。

創設されたあとの地方局に対して,中央局が持つこと とされた権限は次の様である。

1 〕は,測量官の罷免時(3 7 条〉,および保健官の任免 時(40 条〉の承認権, 2 )出費の求償に関して,叉私的 改良税の認定についての不服申し立にもとづいて,衡平 と思われる命令を発する権限 ( 1 2 0 条 〕 , 3 )前述の様な 各種税をそーゲッジとして地方局が工業費用等を借入し ようとする場合の事前の同意権, 4 )その他,個別的に は公共歩道,運動場の設置維持等についての同意権(7 4 条〉,叉墓地が衛生的に危険な状態にある等の認定,新

しい墓地設置に関する同意の権限(8 2 条)などがこれで ある。その権限はなべて消極的なものでしかなかった。

2  1 8 4 8 年法の実施状況

法原理がはっきりとしない折衷的な政府原案がさらに 多くの妥協を強いられた形で制定された1 8 4 8 年法は,実 施の段階で多くの消極的抵抗に出会う。その抵抗の基本 原理は多くはない,むしろ私的利益を中執とする地方自 治の主張ただ一点に絞られているということができょ う。とすれば,この抵抗が何らかの形で解決を見るため には,損益計算の方程式が変化するか,妥協点が見出さ れるかあるいは私益の担い手に変化があるかのいずれか による他はなく,理論上の争いがあるとしてもその限界 を出ることはなかった(註 5〕 。

争の対象は常に中央局の方針であり,争の一方の極に は中央局を実質的に導びく Chadwickがあり,他の極 は住民一般であることもあったが,下水道委員,土木技 師,医療関係者また地方行政担当者等が問題に応じてあ らわれ,また時にはそれらの人々が連合して争を展開し 必ずしも明瞭には区分できなかった。

( 1 )   中央局の構成員について

中央局の局長は Morpeth 卿,無給局員(註 6)Ashley  卿そして有給局員 Chadwick とお互に気心を知り合っ た,尊敬しあう者達がこの局の創設時の構成員であっ た。前の救貧法委員会の構成が全く Chadwick の意に 反するものであったこととは誠に対照的であった。

ただしこのうち局長職は,その時の木材森林第一委員 が占めることになっていたからしばしば交代し,健康問 題に適切な人ばかりではなかった。 Morpeth卿 , Sey‑

mour卿 , Manners卿そして S i rMolesworthとし、ぅ

順で就任した。この内 Seymour は「社会改革に対する

同情を全く欠いており, ミ貧民は存在しなければならな

いミというのが彼の根本命題の一つであった。これは

Chadwick の解説によればミ肉体的堕落および悲惨さ

(6)

6 0   都 市 研 究 報 告 第5 3 〜 5 7 勾 は回復不可能であるばかりではなく,国民の大多数のた

めに必要なことですらあるというすばらしい理論ミであ った。」(F i n e r ,3 8 7 )と評せられる人であり,その二年 間の在職期間中,中央の会議に出席したことは二回しか なく,それどころか1 8 5 4 年の中央局改組問題(後述)の 際,向局の延命を計ろうとした政府案に最も激しく反対 したのであった。叉,汀. Manners も Seymourと選ぶ ところのなし、人であった。最後の Molesworth は脅 学的急進主義者として Chadwick の盟友であったが,

「就任後二ヶ月にして,中央局には何も諮ることなく,

次の様な見解を公にした,即ち,納税者の過半数が反対 している所には〔1 8 4 8 { f ‑ 〕 t 去を〔強制〕適用するつもり はないと。 Chadwickは烈火の如く怒った。」〔F i n e r , 4 5 5 )という有様であった。

これらの内部不和は,法制度自体の妥協的性格をさら に深める結果となった。そして,ここれらのハンディキャ

ップのゆえに,中央の指導の下に現実に行なわれる衛生 改革命は, Chadwick 等が理想としていたところのものか らはるかに後退したものとなり,従って効果も叉充分で はありえなかった O にもかかわらず,効果をも考慮に入 れて中央の方針に対する批判は Chadwick に対する非 難として集中したので、あった。(後述 CroydonCase 参 照 )

なお中央局に医療メンパーが加えられたことは後に触 れる。

1 8 4 8 年から5 4 年までの聞に中央局がなした主たる建議 として Simon は,コレラ対策,検疫法の撤廃,埋葬地 の整序,首都の水道整備などを挙げている(Simon, 2 1 6   以下参照〉。

( 2 )地方保健局の創設など

この法律の主眼点である地方衛生地区の創設状況は,

Finer によれば, 1 8 5 4 年までに2 8 4 件の申請がなされ,

1 7 0 余の地方局が選出されたとのことである(註 7 。 ) こ の数は, Chadwickら中央の人々にとっては無論充分さ からは程遠いものであった。住民の 1 0 分の l の者による 請願で法が適用されうるという緩かな規定にもかかわら ずこれ程不充分であったことは留意、しておくべきことで あった。なお,この後,地方保健局の創設が全国にわた って強制されるにいたる 1 8 7 2 年までには 5 7 0 の局ができ ていたと伝えられている(Lambert, 5 7 0 参照〕。

叉,その地方局の構成の模様については次の様に伝え られている(但し統計年次不明〕。即ち衛生地区7 8 の内,

5 6 の地区の局が 9 名のメンバーよりなるものとされてい た。これらのメンパー選出の権利をもっ者の資格は枢密 院令により個々に定められることとれていたが,一般に 相当に裕福な人達に限られていた。不動産所有者であれ ば 5 0 0 ポンド以上のものとされていたのが6 3 地区,納税 額であれば年額2 0 〜 3 0 ポンドとされていたのが5 0 地区て、

あった。この様にしてミ纂し向のよい階級ミによって占 められた地方局は一般に衛生に関する危機感はどちらか といえば稀薄であり,財産的利害を優先させる傾向があ ったから,全国的改善計画のみが真に有効であると信じ ている中央局の方針と喰い違ってくるのは当然、であっ た 。

また,脅定命令による衛生地区の設定は,いわゆる確 認法 Conforming Act ( 詰 8 )によらねばならず,多く はない。ミ高死亡率時ミの職権調査,地区設定権限は地方 主義者の激しい攻撃対象になっていたから,暫定命令は 専ら当該地区に関連地方法律が(従ってまた adhoc当 局が〕存在する場合であったが,これら既存の当局と対抗 関係に人る機構を新たに設けることもまた多くはなかっ たようである。これら在来の装置をそのままに保健制度 に組み入れ,これを鉱大活用するという合理的方法がと られるにいたるには,なお1 0 年をまたねばならなかった。

このようにして,この1 8 4 8 年法は,少くともその主要 部分で、ある地方組織に関しては,実質的に住民の了解が あった場合にのみ適用になる標準条項法 ModelClauses  Acts ( 註 9 )の一つでしかなかったと言って過言である ま し 、 。

( 3 )   地区内における衛生改革の実情

先ず,他の役職員の雇傭が法規定により義務とされて いたのに反し,中心を占むべき保健官の任命はただ権限 づけられていたに過ぎず当初は全く無視されていたよう である。測量官・ニューサンス審問官また救貧法医官など 各種役職員の内において保健官の占める位置機能が不明 確であった。やがて,この法の下にはない(つまり地方法 律を持っている大都会地方)地区における保健医官の有 効な活躍に刺戟されて,法はその任命を義務化するよう になる ( 1 8 5 8 年)。しかし,その後も現 夫には救貧法医官と の兼任が多く,その独自性は長く生かされることなかっ た。救貧でなく衛生工学とも異った保健活動の評価が定 まってくるのは7 0 年代にいたってからであった(註1 0 。 )

現実の衛生改良工事がどの程度なされたかは確認困難 である。ただ Chadwickの構想(豊富な給水と,卵型細 管急勾配の排水方式とを連結し,奔流により汚物を押し 流し,田園地常にまで運び,これを潅視に用う) f l a s hsy‑

stem には充分な量と勢のある水,および排水を利用し うる程近くに農村が存することとが前提とされていたの であるが,この条件が充足されるのはむしろ稀であった。

Nottingham の様に丘陵地帯を背後に控えた町は別と

して,衛生改革が最も必要とされるような工業諸都市は

多く交通の使のよい所に発達したから,給水のための水

量も水力も充分ではありえなかった。こうして大前提が

崩れてしまうと f l a s hsystem 全体がぎこちないものに

なってしまう。細い管の中にーたん物が詰ってしまう

と,当該筒所全体を堀り起し,取り換えねばならず,従

(7)

イギリス公衆保健制度史の組織函整備の一段階 6 1   来の排きょ式のものよりはるかに多くの手間と費用を要

することになった。また,農地への潜漉利用計画も,近 郊農地が必ずしも充分でなかったことも一因となり,成 就することはほとんど不可能であった。そればかりでは ない,現実には排水口が給水用の河)||に接続される結果 になったから,そもそも衛生改革の目的であった流行性 の疾病の駆遂も叉危機に瀕していた。このシステムの行 詰りが,結局中央局の命とりとなってしまうことについ ては後に触れる。

3  1 8 4 8 年法制度の問題点

ここに一応成立した保健行政の制度は,その後少なか らざる抵抗と修正を経て改変せしめられてゆく。ここで は1 8 4 8 年法制度に内在していた問題点を拾い出し,コメ

ントを付し,その後の制度の変化を見てゆく際の視点を おくことにする。

( 1 )   先ず,中央局の同会に対する関係の不明確さを指摘 しなければならなし、。

そもそもこの時代まで地方行政に千沙・関与しうる権 限をもっ中央官庁はほとんど存在したことはなかった。

「我々が今日の統治形態によって知っているイングラン ドは,大部分が過去一世紀1 8 3 2 〜 1 9 3 2 の産物である O … 

… 1 8 3 2 年にいたるまで、は,中央当局と地方当局との聞に ほとんどあるいは全く敵対関係は存在しなかった。その 理由は簡単で地方当局にはなすべき仕事も多くはなく,

一方又常時監督をし,行政の基準を規定する中央官庁は 存在しなかったからである。保健省も教育局も,今日の 機能を備えた内務省も淘務省も農業省も通産省も存在し なかった。当時の中央統治当局の中心であった四季治安 判事裁判所も実質的には下院の地方委員会にすぎなかっ た。」(註 1 1 〕

こうした状態の中で,地方に対する指導・監督を任務 として設けられた中央組織体がフリーハンドで活動する ことは許さるべくもなかった。そして,このコントロー ル・オプ・コントロールの任にあたるべきものはな地方 の利害の代弁者ミであった国会の他のなかった。そし て,この当時において国会によるコントロールが実効性 をもつことは即ち,中央統制 i 権限の制限でしかなかっ た 。

ちょっと横道にそれるが,ここで,地方行政にかかわ りをもった最初の中央組織体といわれる救貧法委員会の 場合をみておこう。 1 8 3 4 年法によれば,この救貧法委員 会は「主要国務大臣の一人」に報告をする義務を負うも のとされていた( 5 .   6 条〉。しかしこの国務大臣に誰 が該当するのかはついに不明のままであった。内務相が あたるのが最も自然であったろうが内相自身がこれを否 定していたから,結局同委員会はセミ・インデベンダン トなものと言われている(Webb, 1 8 7 〕 。 1 8 4 1 年 Chad

wickは書記の地位を退いており,後に残された担当者 達の行政官吏的態度に対しては一般に不信感は強かっ た 。 「工場労働者階級の福祉に必要でトあるような変更を し,これを強行してゆくには救貧法委員会は全く不適当 である」(Roberts, 2 0 8 〕と考えられていた。従って,

中央からの個々の勧告等を無視すると L 、う消極的抵抗だ けでなく,国会下院の統制 j の下に中央の局をおくべきで あるとの主張が大きくなった。その結果救貧法委員会は 1 8 4 7 年に至って大巾な組織変更を受けた(註1 2 〕。これに よると,政府要職者が役職上の委員となり,これに専任 の勅命委員をー名もしくは複数人加えて,救貧法局 Poor Law Board を構成することとされ,国会に対して責任 を負うこととなった。(実際には, この勅命委員はー名 で,常に長 P r e s i d e n t を務め, しばしば閣内大臣とさ れた。実はこの改組によって独任制の近代的・専門的部 局がはじめて設置されることとなった(註1 3 )。実務は文 官c i v i ls e r v a n t sの手におかれ,書記官 s e c r e t a r y が常 任の責任者 permanenthead として統絡することにな

った。〕

中央保健局は Morpeth法案によれば, 1 ' i ・給無給の者 各二名づっ,閣内大臣ー名計五名よりなるとされてい た。所轄事項の重要さを考慮しての提案であったが,こ の点の評価を異にした議会によって削減され,大臣をふ くまない三名の局員に縮められたのであったく註1 4 )。こ の局は前に見た通り,救貧法委員会と異り地方に対する 有効な統制権限を欠くものではあったが,両市 j 度の内に 示された Chadwick の独断的指導に対する不満はるい 積していたから,中央局も叉国会に対して責任を負うべ きであるとの主張も強まってきた。 Chadwick 失脚をね らう動きと,国会統制強化の要求とが重なったのであっ た。丁度救貧法委員会と同じ様な構成でなり立っていた 中央保健局は,丁度同じような改組を1 8 5 4 年に受ける。

但し,この改組は形こそ似ていたが実質はこれと異り,

あらゆる意味で権限は弱く,初期のオリジナルなものか ら官僚化レ惰性的なものになり, 1 8 5 8 年には遂に消滅し てゆく。この経過は叉後にみることになろう。 ( 第 4 項 参照〕

( 2 )   1 担 8 年法制度の最大の眼目であった地方衛生地区の 創設は,地方の自治に対する従来みられなかったような 介入であったから反発も叉当然に激しかった。

先に述べた様に,地区の創設は一般には,審問のため の請願一一審問一一上奏一一住民同意一一創設と L 、う手 続とされ,その内には二度住民の意志が関与することに なっている。ところが,このな住民の意志ミは住民1 0 分 の lで表わされるとされていたところに問題があった。

地方が実質的な意味で、自主的にその意志を決するとし市、

うるためには,少なくとも過半数の同意がなければなら

なかったので、あろう。 1 0 分 1という極く僅かな之へつら

(8)

62  都 市 研 究 鮮 台 第5 3 〜 57 号 い , / : ; ミの意志によって,中央にた住民の同意、ミという大

義名分を与え,地方の有力な反対を押切ってこれに義務 を果しうることは,余りにも甚しい地方自治への侵害で、

ある,と主張されたことには理がないわけではなし、。

(このことは,高死亡率地域に対する職権による調査開 始の制度についてよりよくあてはまること,亘うまでも ない。)しかし,実は Chadwickはそれ,すなわち,地 方の有力な反対を押し切ることをこそ望んでいたので、あ っ f こ 。

一般的に,地方の Opinion Leader とも言いうる人 々自身は比較的豊かな清潔な環境の中におり,しかも現 状に変革を加えるとすれば先ず手をつけられるべき貧民 街を所有する者でもあっ f : ̲ o これらの状況から生まれる 片面的利害 s i n i s t e ri n t e r e s t擁護の決意が,地方白治 の主張に解き難く結びついて現状維持が叫ばれたのて、あ った(註 1 5 )。この二つを平 j l 然と反別し,自 l j 者を制しつつ 後者・地方「17fl の I~ ざすところ・地 Jj統治(と考えられる もの〕をより合型的・効率的な姿にし,より多くの住民 の健康を守ろうとする労力が啓蒙家・ベンタム主義お Chadwick の戦であったといえよう。彼を支えていた のは次の二つの確信で、あった。一つには,貧しい労働者 階級の劣悪な衛生状態を誰よりもよく知っていた Chad‑

wick にとって,その改善のための唯一の案こそが日ら の構想であるとの強い自負であり,今一つには,たとえ 当初はどんな激しい反対があろうとも,ひとたびこの制 度が実施に移され成果を挙げるに至るや大多数の者の賛 成を得ること間違いなく,従って反対請願がなされても 顧慮するにあたらないとし、う確信である。 L 、し、かえれ ば,健康に対する全ての個人の絶対の権利の主張と,い わば賢人政治的な考え方とでもいえようか(,詮1 6 。 〕

1853 年の初頭,その時中央局局長になったばかりの Molesworthが , ミ過半数の納税者の反対がある地域に 対しては,この法の規定を適用するつもりはないミとい う見解を公にした時 Chadwickはひどく憤激した。「澄 んだ空気及び健康な生活の為の手段に対するコモンロ−

k の少数者の権利を,多数者が塁手うことができるとした らばそれは如何なる権利にもとづくものか教えて欲しい と要求した。彼はこう述べるミその様な権限は最高権限 sovereign  power であろうし,しかも慾意的なそれで あろうミと。もし,この法〔の適用〕が地方の多数者に 委ねられているとするなら, 〔現在ある〕地方局の半数 のものが存在しえ伝かったで あろう。この最初のステッ プはよく計算されたステップなのである。ひとたび成、 1 すれば, 〔地方〕局は地方の支持を得,過半数以上の

〔賛成〕を獲たので、あった 0 J ( F i n e r ,   4 5 6 )  

少数者の呼這という主張とも見えるが,ここでの真の 問題は,富める有力な少数 r ,

と貧困で J ! I U J f 正多数将とで 構成される「地方」行政の主導権をだれに委ねるべきか

とし、う近代に特有の問題であった。参政権の不平等性の ためにゆがめられた形で、はあったが,ここでは現代にも 共通する争,即ち住民の健康の権利と,財産所有の権利 という種類の異った二つの権利の間の争が争われていた のである。 Chadwick は,この二種の次元を異にする権 利を争わせ,一方を勝たしめるために,当時権利として 有力であった方の種類,即ち財産権の次元に他を還元せ しめたといえよう。(彼の S a n i t a t i o ni s   cheap とし、ぅ 評語のもつ意、味に関しては前掲赤木論文が詳しし、)

彼の主張と努力とは一応 1848 年法制度を生み出しはし たが,制度自体が制限・修正を受けており,かつ実施に 際しての抵抗も強く彼の秘策は必ずしも成就しな L 、。地 方自治=有産者自治の定式がようやくゆらぎはじめた時 代のことであった。

( 3 )   3 つ日の問題点は,創設後の地区に対する中央の コントロール制度の問題で−あろう。たしかに中央の権限 は地区創設にとどまらず,その地区のなす衛生行政に対 する指導監脅もふくまれではし、たが,極めて弱 L 、もので しかなかっ f : . . o 一旦出米上った地方局に対しては,中央 からの有効な統制はなかったと言っても過言ではあるま し 、 。

これらの権能のうち,実質的に一般的に大きな意味を 持ちえたものは地方局の資金借入時の同意、権と役職員任 免に関わる承認権,とし、う共に消極的権限であっ f : . . o こ の内前者が問題になったのは,中央統制に対する賛否は いずれにせよ(中央統制反対の空気の強い地方でむしろ 改革の熱意は盛んであった〕,何らかの実質的衛生改革

(当時にあっては,何をおいても先ず地域的下水道工事〕

を果すためには多額の資金を必要としたからである。積 極的に衛生行政を指導する権限を奪われていた中央局 は,この資金借入同意の申請という時をとらえて,当該 地区の全測量図および工事計画書,収入予定明細書を提 出せしめ中央の方針(原則として全地域を一体系の給排 水 f l a s hsystem の下に入れる〕から外れると恩われる 場合には,計画の変更を条件として同意を留保するとい う戦術をとっ f : . . o ただし,これに対しては組税をモーゲ ッジとすることを避けることにより,あるいは叉個別の 地方法律を獲得することによってこの干渉から逃れる道 があった。これには多くの時間と金銭的負担を要したが 相当数見られたことを考えると,反中央意識の強さがう かがえる。

一方,地方役職 H C 測量官および保健官)の罷免に関

する 1 司君、権も叉,それら役職員の職務規程の決定が地方

に委ねられていたから実質的には勧告的効果しかなかっ

た 。 Lewisの伝えるところによると, C l i t h e r o e におけ

る測量官の罷免を中央局が認めようとしなかった時に同

地方局の取った処置は,その測量官の年俸を 2 5 S . に減額

することであった(Minutes2 0  March, 8 May,  Lewis 

(9)

イギリス公衆保健制度史の組織面整備の階一段 6 3   P.306 。 )

こうして中央機構がそのサニタリーアイデアを貫ぬく ために僅かに残された手段をもこのように奪われてしま ったから,実はこの1 8 4 8 年法はその生命的部分を虚脱せ しめられていたと言えよう。この全てが任意的なものに なった中で,その本来の目的を生かす道があるとすれ ば,地方局およびその役職員の衛生観と実行力に,ある いはこの二者の力量のバランスに懸っていた。制度でな く現実の衛生行政の担手についての検討は本稿の範囲を 出る。

( 4 )   1 8 4 8 年度法制度の問題点として最後に挙げるべき は,これらの衛生制度(殊に中央局)における専門家の

占める位置についてである。

もともとイギリスにおいてはアマチュアリズムと称せ られる考え方一一行政は,し、かなる怠味でも非専門家で ある者によってなされ得るものであり,それこそが私利 性にまどわされずに正しい行政を担保するものであると いう考え方が根強く存続してきた。しかし,社会が複雑 化し,行政事務が高度化してくるに従ってその不充分さ が露呈されてきた。本稿の主題である衛生行政当局の整 備の生成過程も正にその一典型とみることができる。し かもこの不充分さは,自然科学技術の利用をふくむ分野 においては特に顕著であった。そもそも,この衛生問題 に端緒を与えた産業革命と相関関係にあった自然科学技 術と,その応用化の大進歩は, 1 9 世紀のはじめにいたっ て従来のいわゆる学識ある専門家達に加えて,鉄道技 師,土木技師また建築技師とし、う専門職を生み出してい った。これらの者達は,その巨額の報酬を背景に社会的 地位を高め,学問的にも,業務的にも権威ある専門家団 体を結成しはじめたのであった。

しかし,この 1 8 4 8 年法制度は,この点への考慮をほと んど欠くものであった。それはおそらくは,従来の慣行 の重みの故であるよりは, Chadwick の考え方によると ころが強かったで、あろう。そして,その結果は,専門家 団体とのあつれき,逆にまたその一部の者(の考え方)

との不健全(批判を排するという点で)な癒着,そして それゆえの非能率とであった。

衛生行政に関わりをもっ専門職としては,一方で C i v i l Engineers (土木技師)他方で医師が挙げられるが, ど ちらにせよその組み込みは充分でなかった。

前者 C iv i i   Engineer について見れば,中央局はむろ んその中心メンバーの中にこれらの専門家を加えてはい なかったにもかかわらずその衛生改革の主要な柱は土木 工事にあったわけである。中央局が推進する改革は,地 区全域にわたる給排水路の敷設と管理を中央局の指導の 下に行うというものであったから, C i v i l  Engineerに とっての正に専門事項とぶつかりあうものであった。衛 生思想、の専門家を自任し,自らの思想と指導の下に技術

者を使用することによって,後者の私利と偏見とを排 し,より合理的な流水システムの完備が可能になる,と 中央局は考えていた O

一方,細い陶器排水管を用いる新構想に対し,従来か らレンガによる人身大の排水渠という遥かに大き模な工 事を請負い,さらにその設置後の管理をも一手に引受け て莫大な利益を収めてきた C i v i lEngineers は , 1 9 世 紀中期には I n s t i t u t eo f  C i v i l   Engineers  ( 註1 7 〕を中 心として,自己紀律,情報交換,そして工事のあっせん 機関もかねて団結を固くしていた。彼等の強力な抵抗は Chadwickに,従ってまた中央局の衛生改革の方針に,

しばしば強いインパクトを与えた。一方でまた中央局の 審問官として地方審問をなした C i v i lEngineer は専任 ではなく,私人としては自ら工事の引受けもしていたか ら,しばしば自らの勧告した工事を自らが引受けるとい う不健全な事態も見られたことがったえられている。

(たとえば Simon,p ,  2 0 9 )やがて Chadwickから Simon へと主導権が移るに従い,行政主体が工事に直接たずさ わらなくなり,叉環境衛生の重要性が相対的に低下する に従い,この争は下火になる。

衛生行政に深いかかわりをもっ今一つの専門職は言う までもなく医師である。この医師と行政官とのあつれき も叉, 1 9 世紀衛生制度生成発展を見て行く上での一大論 点でありつづけることになる。

Morpeth 法案によれば, 中央局には有給メンバ一二 名の内ー名として医師が加えられることとされていた。

しかし,財政支出の増大を嫌う議会によって削除された。

ただ同1 8 4 8 年に成立したニューサンス除去ならびに疾 病の防止法(註1 8 )が,伝染病の発生等の必要に応じて一 人の医療メンバーを枢密院令により中央局に加え得るこ とを定めた。 この規定は直ちに実施に移されて Chad‑

wickの盟友 S‑Smithが加わり, 1 8 5 0 年にいたり永続 的地位を与えられるようになる(後述 2 節 1 項)。がしか しやがて中央局の改組により,これは一役職員の地位に おとしめられてしまう。(後述 4 項 〕

一般にこの時期においては医師の社会的評価は必ずし

も高いものではなかったし,医療医学の方法も確立して

おらず環境決定論が圧倒的であった。したがって,そ

の環境衛生論に即応した疾病予防制度を司どっていた

Government  において医療者が重要な地位を占めるべ

くもなかっ f c . o 「専門家 J による指導の原理を唱えた

Chadwick自体この考え方の代表者であった。彼にとっ

て医師はこの問題の専門家ではなかったのである。 「 彼

は既に技術的問題について素人判断を下しているという

無事 L impertinence を犯していると批判されてきてい

た。しかし彼の私的見解によれば(とは言っても,心の

裡に秘められたなどというものとは程遠い)医師達とい

うものは, 彼(Chadwick )が開拓した調査分野を,医

(10)

6 4   都 市 研 究 報 告 第5 3 〜5 7 号 療分野に結びつけようと努めている者であり,しかも彼

等自身 SanitaryReportが出現するまでは全く無知で あったこの主題に関して至上権威 supreme a u t h o r i t y   を持っと俗称している者であった。彼はミ単なる医療に よる成功 s u c c e s s o f  mere medicine ミを疑っており,

予防ではなく治癒の訓練を受けている医療実務家 medi‑

c a l   p r a c t i t i o n e r の重要性を軽視する傾があった。〔彼 が 〕 Morpeth 卿に語ったところによれば, 医師達は自 分達の聞で分裂しお互に不信感を抱いており, medicine を信頼していない s c h o o l が大きく増大しつつある。彼 は明らかに次の様に信じていた。即ち,貧しい人々に清 浄で豊富な水を与え,排出物を清潔に且つ遠隔の地へと 押し流してしまう技師と,貧しい人々に乾いた換気のよ い住居を設計する建築家とが,人類の疾病に依存して現 に生きている専門家〔~ll ち医療者]の大部分をそのなり わい employment から追い出してしまうのであろう,

ということを。」「彼の態度は次の保理のうちに結晶せら れている。専門的医療者 p r o f e s s i o n a lmedical expert  は系人の行政統制に服すべきであると。このことの理由

として彼は二点を挙げる O そのーは,予防効果を生み出 しうるのは薬剤!ではなく,それは,薬種商によってでは なく校側あるいは建築家によってなさるべきものである こと。その二は,保健局は新しい見解に対して全く自由 でなければならないのに,医療科学の発達にとっての最 大の障害は医師達のうミたまってしまった専門家意見ミ なのであること。彼等は実に Harvey を零洛させ,

Jennerに反対したのである。」(Lewis, 1 9 4 )  

このような(Chadwick のいう専門家なる)行政官 が医師と対立しつつ,しかも最終決定権をもつことがど のような問題点をはらみどのような戦がなされて止揚さ れてゆくかについては,その j 備のさ中に街った保健医官 Medical  O f f i c e r  o f  Health の生成と伸張の歴史を検 討することによってはじめて明らかになるであろう。と にかく「このようにして Chadwick は医官と行政官吏 との関係に関する論争を創始したのであり,これが中央 局の凋溶ののち半世紀以上続き,ょうやくにして結着を みたのは1 9 1 9 年 8月の覚え書により保健省の千ーフ医官 に常置セクレタリーとしての報酬と地位とが与えられ,

臼らの責任の範囲に入る事柄を論議し旦つ提案を示す為 に当該大臣に直接接触することがゆるされるようになっ た時で ある。」(Lewis, 1 9 6 ) こ こ に い た る 道 行 き に は , 1 8 5 2 年のクリミア戦争の落大な惨状の暴露, 1 8 5 8 年 の Medical A c t ,   1 8 6 5 年の L i s t e r の消毒法発見そし て近代医学・細菌医学の登場など,社会的,制度的そし て医学的諸段階を経ねばならなかった。

以上 4 点を要するに,従米の地方〔市 J I 度ワ〕の 1 1 し組の 崩壊と本格的国家行政の生成,そして父l 当然科 q . : の笠場

という,過渡的時代の最大の諸論点が交錯した地点に,

保健衛生制度問題があったことを示す,といえよう。

4  その後の中央局

その後の中央局のあり方に大きな影響を与えることに なったのが Croydon Case と称せられた一つの事件で、

ある。

Surry 州 Croydonは最も早い1 8 4 9 年に創設された衛 生地区の一つで, Chadwick の旧友 C.Johnson を地 方局局長に迎え,中央局に最も協力的な地区であった。

この中央局の秘蔵子の様な所で,しかも 1 8 5 1 年には計画 通りに衛生工事は完了していたにもかかわらず, 1 8 5 2 年 末にチフス性の熱病が大発生したのである。発酵性疾患

(ほぼ細菌性疾患にあたる)には二度と襲われることは あるまいと中央局による保障を得ていた地区で,実に疾 病は新設排水管に治って蔓延していった。人口 1 6 , 0 0 0 中 発納 1 , 800 ,死亡 60 という高率であった。中央局は S‑

Smith,  Sutherland ら絞高スタップを送って原因調査 をするが,このいわば盗人の手による盗難調査に住民が 満足するはずもなく,政府が独自の調査団を派遣するこ とになった。この政府調査団報告書は Chadwick の旧 友 D r . Arnott と技師 C.Pageによって草せられ1 8 5 3 年 4 月に提出された。結論として中央局構想に欠陥があ ったとして次の様にのべていた。 「自らの町に利益をも たらすことを約束するサービスを完成しようとして,無 報酬で熱心に鍔める尊敬すべき紬土達よりなる賢明な地 方局を備え,しかもロンドンにある中央局に近く,その 協議も容易であった Croydon の様な地における本件の 様な出来事は,このような工事の有効な完遂のためには 望ましい保障が未だ確保されてはし、ないことを証するも のであり,吏に叉本件の管に期待される利益の内のいく つかは未だ得られてはいないこと,その採用に伴う欠点 のいくつかが未だ予見されていなかったことを示してい る。」(Reporton an I n q u i r y  r e l a t i v e  t o  t h e   p r e v a l ‑ ence o f   d i s e a s e  a t   Croydon.  p ,   7 Lewis,  p ,   3 1 7 | ヲ 用)管による排水,下水溝,排水施設および工事理論の 三点に欠陥があると指摘したこの報告書が!日友の手にな るものであっただけに Chadwick の痛手は大きかった。

中央局がその O f f i c i a l Reportを通して加えた反論 は次の如きものであった。この疾病自体は新制度未施行 の地 Oxford に由来すること,工事実施過程で工事技 術に不備があり工事監督も充分でなかった為全般的に手 抜かりがあり,時に弱体な部分が存在したに過ぎず,他 の都市で同一計画の下によりよい工事が行われているこ とからも明らかであること,叉 Croydonがその工事以

1 l l i の状態に比すれば現在いかに優れた状態になっている

かを考え併せるべきこと,などである(Parliamentary

Papers 1 8 5 2 〜 3  XCV I  p ,   2 2 1   F i n e r ,   p ,   4 4 8引用〉。

参照

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