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高橋敏

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冷戦期以降のPKO 高橋敏

PKO AFTER THE COLD WAR

Satoshi TAKAHASHI

はじめに

(1)

昨年の秋に「冷戦期の国際政治」という論文集の中で、 1943年から1963年ま での冷戦期の国連の「平和維持活動(PKO)」についてまとめた。この作業を終 えて、それ以後の国連の平和維持活動についても通史をまとめることがぜひ必要 であることを感じた。そこで本稿をまとめることになった。冷戦期以後では、何 か特徴がその現象の中で認められるであろうか。少しでも結果が得られれば幸い であるし、また通史そのものが意味のあることと恩われる。以下に6つの事例に ついてみてみよう。

1.キプロス国連平和維持軍(UNRCYP) 1964‑

UNFICYPが1964年3月に安保理事会によって設置されたことはひとつのパ ラドックスにみえる。なぜなら、総会はONUCとUNEF Iの財政と指揮をめぐっ ての東西の論争でほとんど麻挿している状態であった。国連は、平和維持活動の 結果をめぐってほとんど疲労困燈の状態にあったが、集中的で長びく活動になる ことになる新しいPKOを創設する必要があると考えた。しかしながら、当初の 活動期間がわずか3ケ月間とされたので、その時は誰れも1980年代にまで続く

ことを予見しなかったと考えるのが自然である。 1960年に、イギリスは、ギリ

シャとトルコと合意し、キプロス島の80%のギリシャ系住民と20%のトルコ系

住民の双方の権利を注意深く均衡させた独立国のキプロスのための連邦型の憲法

制度を作った。この体制は内在的に不安定であり、 1962年12月に共同体間の武

力衝突が発生し、 1964年にエスカレートした。イギリス、ギリシャ及びトルコ

(トルコはイギリスとバクダッド条約で結ばれている)の3ヶ国による共同介入

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とか、 NATOの平和維持軍の設置などが摸索されたがどれも政治的に実行不可 能であったので、この問題は安保理事会にもちこまれた。 1964年3月4日、理 事会は、国際の平和と安全に脅威となっているその武力衝突をやめるに必要なす べての措置をとるよう当事者に要請し、国連の平和軍を設置することにし、その 最善の努力によって戦闘の再発を防止し、当然のことながら、法と秩序の維持と 包復にまた正常な状態に復するよう寄与してもらうことにした(S. C. Res. 186)。

今回は財政問題が生じないようにその経費は自発的拠金によってまかなうことと した。 UNFICYPの基本的機能は、全島で行動の自由をもちギリシャ系地区とト ルコ系のそれの間の緩衝地帯にそって介在することであった。当初の軍の規模は、

西側とスカンジナビアから引出された約6,500名であった。最も人員の多い国は イギリスである。これは直接的利害と駐屯の理由によるものである。このように 大国が集中的に平和維持のミッションに参加したのははじめてのことであった。

UNFICYPの機能は、やがて分割線にそって直接介在することから、二つの地区 の間での種々の衝突を解決したり、地域の紛争を調整したり、事態の危険性をな くしたり安定させたりする多くの定義しえない任務へと拡大された。この目的の ため特別の非軍事的警察隊(UNCIPOL)が創設された。 UNFICYPを設置した 決議はまた問題の政治的解決を求めるため事務総長によって任命される調停官を 用意した。しかし深く根ざした両地区間の対立感情はそのまま持続した。ギリシャ 系社会の大統領であるマカリオス大司教は国連の部隊の駐屯によって維持されて いるステイタス・クオを自らの立場にとって有利であると考えた。その状況はギ リシャとトルコの双方の政策と行動によってさらに複雑なものであった。結果と して調停の継続的努力は実らず、平和維持軍の任期は六ケ月毎に自動的に更新さ れるようになってしまった。 UNFICYPは、 「ピース・メイキング」を伴わない と「ピース・キーピング」がいっまでも続くというよい例となってしまった。こ の島の平和はその軍によって、維持されていたが、 1974年トルコの侵入によっ て劇的な衝撃を受けた。トルコが国連の基地にまで足場を広げようとしたため国 連軍と交戦することとなった。この戦闘は激しく国連側にも20数人の死傷者が 出た。この危機は安保理事会に持ち込まれたが調停は不調に終った。しかし、状 況は変った。主な変化は1974年以降ギリシャ系地区に有利であったステイタス・

クオからトルコ系地区に有利なものへと変わり、トルコ軍が島の東部を占領する

ことになった。 UNFICYPはこのトルコの侵入にもよく任務を果したが、政治的

解決の達成に失敗していることで、単にステイタス・クオを維持する役割しか果

していない感がぬぐえない。しかしながら、すでに不安定な中東に隣接した地域

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である東地中海の平和に国連軍が疑いなく貢献しているのである。だが「プレゼ ンス」がいつまでも続くというのは大変なことで部隊派遣国の忍耐と財源に深刻 に挑戦していることも事実である。 1987年4月25日時点で、兵員は2,361名で あり、派遣国はオーストリア(304)、カナダ(514)、デンマーク(346)、フィン ランド(10)、アイルランド(8)、スウェーデン(374)、イギリス(767)である。

別に警察隊(UNCIPOL)も活動中である。キプロス問題は戦略的要所で発生し ているにもかかわらず、 UNプレゼンスのおかげで米ソ間の主要な争点となるこ とはなかった○このことは注目してよいであろう(2)

2.ドミニカ共和国における事務総長の代表(DOMREP) 1965‑1966

1965年4月末にむけて、ドミニカ共和国における政治的危機が発展し同国は内 戦となり、かなりの国際社会の反響をよんだ。 4月24日、カブラル(Donald Reid Cabral)を長とする三人制の会議(junta)は、前大統領のボッシュ(Juan Bosch)を再び政権につけようとし、 1963年憲法の復活を求める一群の若手の将 校団と文民によって転覆させられたoボッシュは1963年9月のクーデターで解 任されていた。ボッシュの支持者はドミニカ軍の高位の将校団によって反対され

ていたので、内戦の最初の数週間の間、ドミニカには二つの敵対する政府が生れ た。ボッシュ派の勢力はカーマ〜ニョ大佐(FranciscoCaamano Deno)のひき いる「憲政政府(the "Constitutional Government")」を組織した。一方、反 対勢力はバレラ将軍(Antonio Imbert Barrera)にひきいられる「国家再建政 府(the "Government of National Reconstruction")」とよばれる文民と軍人

からなる会議(junta)を設置した。ドミニカ危機の軍事的局面は主として首都 であるサント・ドミンゴで生じ、 1965年4月25日には二つの敵対する勢力の問 で激しい戦闘が生じた。 4月28日、アメリカは声明を出し自国の軍がドミニカ に上陸するよう命令されたことを明らかにした。翌日、アメリカの国連代表は自 国政府の行動とOASの理事会の招集の要請について安保理事会に知らせた。彼

の書面によれば、大統領はドミニカのアメリカ国民を保護するために上陸を決定 した。さらに、アメリカ国民の生命が危くてその安全がもはや保障できなく本国 の軍事要員の援助が必要であるということを現地の軍事筋によって知らされた後、

大統領は行動したとされている。しかし、その介入は急速にエスカレートし

22,5(泊名の将兵に達し、ラディカルであるボッシュが政権に復帰するのを阻止

するという明確な目的をもっていた。 OASは5月6日の決議を通じて、事後にア

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メリカの介入を是認した。その決議というのは、米州平和軍を設置して、住民の 安全を維持し、人権を保護し、そして民主的諸制度の機能をみるような平和と調 停の雰囲気を作り出すというものである。 OASによって地域的事項としてみな

されたが、アメリカの介入の問題はソ連によって安保理事会の前に出された。つ まり、そのような規模でのOASとアメリカの介入は、事実上、一つの強制行動 ではないかどうかという審議が申しつけられた。アメリカの抵抗にかかわらず、

安保理事会は5月14日一つの決議を通過させた(S. C. Res. 203)。それは停戦 を求め、現地の事態について安保理事会に報告する目的のためドミニカ共和国へ 代表を緊急処置として派遣するよう事務総長に求めるものであった。ここでまた 事務総長は、米ソ間の政治的論争のある条件のもとで監視団をひきいなければな らない立場におかれた。翌日の安保理事会に対する事務総長の報告によれば、彼

はマイヨプレ(Jose Antonio Mayobre, Executive Secretary of the Economic

Commission for Latin America)を彼の代表として任命した。これがマイヨプ レ使節団とよばれるものである。その日の早く軍事アドヴァイザ‑としてのリキ エ少将(IndarJitRikhye)にひきいられた先発隊がサント・ドミンゴに到着し た。この軍事アドヴァイザ‑は2名の軍事監視員によって補佐された。そのため に、ブラジル、カナダ、エクワドルから常時3名を待機させていたDOMREP というは軍事アドゲイザ‑としてのリキエと他の2名の軍事監視員から構成され るが、国連監視団としてはたしかに最小のものである。アメリカなどの反対で、

監視の諸条件は極めて困難であった。たとえば、リキエは到着すると紛争当事者 に近づくことを拒否された。規模においてもそして効果においても、国連はこの

ドミニカ内戦には比較的小さな役割しか演じなかった。しかし、報告の任務は、

翌年の1966年10月22日に撤収するまで続けられた。考えてみれば、国連監視 団がはじめてOASの菅轄下の南米で機能したことになる。この問題がソ連によっ て強く押し出されたことがわかる。 DOMREPは今日までのPKOパターンから 見れば異例として残るし、また国連のPKOというものが少くとも今日までたぶ ん将来も超大国の地域的勢力圏外においてのみ活発であるということを教えた。

また国連のPKOと地域的取極の組織の協力とがオーバーラップする形での現象 は珍しく、この事例だけである。非常に異った条件であったが、 OAUは、 1981 年、チャドにおけるPKOの設置に国連の協力を求めたが、実らなかった。それ 故、 DOMREPはPKOの経験の記録にはユニークな出来事としてとどまってい

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3.国連インド・パキスタン監視団(UNIPOM) 1965‑1966

1947‑48年の第一次インド・パキスタン戦争の後、小康を保っていたインド とパキスタンとの関係は、 1965年8月はじめカシミール停戦ライン近くのイン ド側で、インド警察隊と反乱軍が衝突したことから、急激に悪化した。反乱はカ シミール各地にひろがったが、バキンスタンが反乱軍を訓練してインド側に送り こんだ疑いがもたれた。インド軍は反乱軍の根拠地をたたく名目で停戦ラインを 越えて進撃し、戦闘はたちまちカシミールから両国の各地に波及していった。安 保理事会は両者に即時停戦を要請したが(S. C. Res. 209, 4 Sept. 1965)、無視 された。 2日後、さらに決議は再び停戦を要請し、事務総長に対しUNMOGIP (インド・パキンタン国連軍事監視団)を強化するためのあらゆる可能な措置を とるように求めた(S. C. Res. 210, 6Sept. 1965)。事務総長はただちに現地に 向い、 UNMOGIPの規模と効果を増大させるべく合意をとりつけた。だが、戦 闘が持続していたので、さらに安保理事会は決議を出し、停戦が実現されるよう 求め、事務総長が、停戦と全ての軍事要員の撤退の監視を確保するために必要な 援助を与えるよう求めた(S. C. Res. 211, 20Sept. 1965)。これらの諸決議をも とに、すでに設置されているUNMOGIPを強化して同じ派遣国から増員しても らい合計102名にした。戦闘がカシミールの停戦ラインを越えて広がっているの で、事務総長はUNMOGIPの補助機構(an administrative adjunct)として

「国連インド・パキスタン監視団(The United Nations India‑Pakistan Observa‑

tionMission UNIPOM)」を設置した。ジャムとカシミールの外側のインド・

パキスタンの国境に沿って停戦を監視するだけの目的をもった一時的な措置であっ た。ブラジル、ビルマ、カナダ、セイロン、エチオピア、アイルランド、ネパー ル、オランダ、ナイジェリアとベネズエラの10ヶ国から引出された90名の監視 員からUNIPOMは構成されることになった。この新しい監視団はUNMOGIP と行政上も作戦上も緊密に協調されることになった。ソ連はそれぞれの決義に賛 成投票したが、事務総長の一方的行動には強く反対した。 UNIPOMの財政は、

UNMOGIPの時と同じように国連の通常の予算でまかなわれた。この財政の問

題は理事会では紛糾していたが、ソ連はこの場合1965年と1966年の分担額を支

払った。このようなことは1964年の国連の麻疹のあとに生じただけに興味深い

出来事であった。国連は、 PKOの運営での事務総長によってとられた広い自由

裁量の役割とその財政をめぐって麻庫していたのであった。安保理事会の呼びか

けが成功し戦争が終結した背後には、両国に影響力の強い米ソの利害が一致して

いたことがあった。両軍の撤退は、ソ連が調停の労をとった「タシケント協定」

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にもとづいて、翌年2月25日実現した。従って、計画されていたようにUNIPOM は終止した。一方、UNMOGIPの方は3月末までに45名に削減されて残ること なった(4)

O

4.第二次国連緊急軍(UNEF E) 1973‑1979

第三次中東戦争から6年あまりした1973年10月6日、アラブ諸国とイスラエ ルの戦闘がまたもや勃発した。アラブ側の先制奇襲攻撃であった。この「10月 戦争」は両者にとっても、国際の平和と安全にとっても、 1967年と1956年に比 べて、集中的で危険なものであった。 1%2年10月のキューバのミサイルの危機 以来の世界が面した最も危険な状態であった。今回はソ連の直接介入の脅威があっ たし、アメリカの危険な軍の非常警戒体制の対応があった。最初はエジプトが続 いてシリアが、イスラエル占領地域へ深く入り込み、それに対し劇的で成功裏に 終ったイスラエルの反攻が続いた。このような事態で、戦闘を停止させそして両 者のはかり知れない結果を避けるための行動を工夫するには、安保理事会が最も 即応的で適切な中立的立場にあった。審議は怒りと非難に満ちたが、ソ連とアメ リカの賛成と中国の棄権で14対Oの投票で、 10月22日、 23日、そして25日の 三つの続いての諸決議がただちにまとまった。この三つの決議は敵対行動の停止 には必要であった。最後の決議は8ヶ国の非常任理事国(ギニア、インド、イン ドネシア、ケニア、パナマ、ペルー、スーダン、そしてユーゴスラビア)の提出 によるものであったことは興味深い。第一の決議(S. C. Res. 338)は停戦を要 請するものであり、二番目の決議(S. C. Res. 339)も停戦を要請しそして事務 総長にそれを監視するために監視団を派遣するよう求めた。三番目の決議(s. c.

Res. 340)で再び停戦を求め、国連緊急軍(United Nations Emergency Force‑

UNEF E)を設置した: 「常任理事国を除いた加盟国より引き出される要員か らなりたち(これに対しフランスとソ連は異論をとなえたが)、 ‑‑・そしてこの ためにとられる措置について24時間以内に事務総長に報告するよう求めた。」こ の報告は24時間以内になされ、従来の類似の報告書にくらべればはるかに内容 豊富なものであった。 UNEF Hの構成と機能を述べるにあたり、事務総長は、

「その(安保理事会の)権威のもとで(under its authority)」軍を設置するよう 要請した10月25日の安保理事会の決議の趣旨に注意深く対応した。安保理事会

の強い権威を承認しかつ事務総長の行政的役割についてのあいまいさや意見の不

一致を避けようとして、彼は、 unef nの機能と組織を、そして自分と理事会

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の間の関係を注意深く措いた。そのガイドラインによれば、 「その軍は、安保理 事会の権威のもとで、事務総長に与えられて、国連の指揮のもとにある。現地で の指揮は安保理事会の同意を得て事務総長によって任命される軍司令官によって 行使される。事務総長はその軍の機能に関しての展開について安保理事会にたえ ず十分知らせる。その軍の性格あるいは継続的で効果的な機能に影響を与えるか もしれないあらゆる問題は決定のために理事会にかけられる。」以上のような彼 の報告はまた、 「移動の自由」についても宣言し、さらに「防衛的性質のみの武 器」が与えられること、また自衛以外のその武器が使用されないことにも言及さ れた。また、軍の規模は7,000名であること、経費は当初の六ケ月間の分3,000 万ドルを第17条2項に従って加盟国によってまかなわれる国連の経費と考えら れることも述べられた。これらの問題は反対なく承認された。もっとも中国は棄 権にまわった。 UNEF Iの時の撤収問題にかんがみて、今回はUNEF Hの撤 収時期の問題について理事会はこの点を明確にした。つまり理事会にはかられる

ことそして理事会が終止の問題を決定することとした。軍の組織と活動上の手続 きに関しての唯一の主要な政治的争点は参加の問題であった。ソ連は「公平な地 理的構成」を主張したが、結局ポーランドがカナダと共に兵端を担当することに

なった。活動内容については十分な意見の一致があった。中央に介在しながら、

停戦の履行と維持さらに10月22日の位置へ両者を引きもどすことを監視するこ とであった。 unef nの委託権限は理事会によって10月27日に承認されたが、

全期間中基本的には変更はなかった。しかし、軍の活動はこの一般的わく組の範 國内でその時々の環境と当事者間で達成された合意の点で全期間中かなり多様に 変動した1974年2月20日までに軍の力は認められた7,㈲0名のレベルにはぼ 達した。厳密には6,973名であった。この時点の派遣国は、オーストリア(604)、

カナダ(1,097)、フィンランド(637)、ガーナ(499)、インドネシア(550)、ア イルランド(271)、ネパール(571)、パナマ(406)、ペルー(497)、ポーランド (822)、セネガル(399)、スウェーデン(620)の12ヶ国である。司令官はフィ ンランドのEnsioP. H. Siilasvuo、スウェーデンのBengtLiljestrand、インド ネシアのRais Abinの各将官が順に担当した。軍の任期は合計8[司更新され、

1979年7月24日までプレゼンスを続けた。 1978年10月にソ連は、その年の早 く締結されたキャンプ・デーヴィッド協定に反対して、あと一年の更新に反対し た。そして理事会は九ケ月間の更新で最終的に結着した。エジプトとイスラエル 間のその平和条約の署名後(1979年4月25日に発効した)、 1979年7月、理事

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会は任期を更新することはできなかった。

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5.国連兵力引離し監視軍(UNDOF) 1974‑

1973年の戦争は二つの前線で戦われた。エジプトとイスラエル、もう一つは シリアとイスラエルであった。 10月末にはUNEF Hの展開でエジプト側の前線 では静かさが回復したが、ゴラン高原でのシリア側の前線では何ら新しい平和維 持軍は設置されなかった。そこでは10月22日の安保理事会決議第338号にもら れた停戦の呼びかけに従って戦闘はおさまった。その時までイスラエル軍は1967 年の停戦ラインを越えていてそしてクネイトラ・ダマスカス道路に沿ってサーサ の村を含む突出した部分まで占領した。国連の監視団はその突出した地域のまわ りに臨時の監視所を設け、そしてこのような変化に伴い停戦監視活動がイスラエ ル・シリア間にも開始された。しかし、緊張がその地域で高まったままであり、

国連監視団によって監視されている緩衝地帯の中や周辺で継続的パターンをもっ た事件がたえなかった。 1974年3月の初旬から5月末にかけて、その事態は急 速に不安定となって、そして大砲、戦車とロケットの使用を含む発砲が激化した。

このような背景に面して、アメリカの国務長官が調停の役割をとり、 1974年5月 にイスラエルとシリア問に兵力引離し協定の締結があった。5月30日に、アメリ カの国連代表はイスラエル・シリア両軍の兵力引離しに関して中東情勢を検討す るため安保理事会の緊急招集を求めた。その会合で、事務総長はこの問題につい ての彼の報告書に注目するよう求め、もし理事会がそう決定するならば、 UNEF

Ⅱの設置を支配した同一の一般原則でUNDOF (United Nations Disengage‑

ment Obsrver Force‑国連兵力引離し監視軍)を設置するだろうと述べた。

もっとも、ジュネーブにおいて31日に署名されたその協定と附属している議定 書にUNDOFの構想が規定されていた。31日のおそく、安保理事会は決議第 350号を採択しそれによってUNDOFを急設することを決定した。暫定取極が事 務総長によって提案され承認された。それによると、当初UNDOFはオースト

リアとペルーの部隊をUNEFHより引出し、カナダとポーランドそれにUNEF

Ⅱの兵靖要員によって支援され、常任理事国を除外してすでに当時展開中の UNTSOの軍事監視員連によっても構成されるとした。暫定的な司令官としてペ ルーの准将(Gonzalo Briceno Zevallos)をUNEF Eから移動させ任命した。

6月3日には本部が設営され、 16日までにUNDOFの兵力は合計1,218名の将兵 にまで高まり、承認された1,250名の水準に近くなった。当初の任期は6ケ月で あったので11月30日で切れた。その時以来今日に至るまで、両当事国の協定 で、事務総長の勧告にもとづいて安保理事会は任期をくり返し更新してきた。

UNDQFの現況は、 1987年5月31日時点で、総兵力が1,338名であり、派遣国

(9)

は、オーストリア(539)、カナダ(225)、フィンランド(411)、ポーランド(156)、

そしてUNTSO (7)である。司令官はスウェーデンの少将(GustafWelin)で ある。 UNDOFについて一言追加するとすれば、米ソ間の一致が明確であったこ とである。 1973年12月にジュネーブで開かれた中東和平会議は米ソ共同議長国 のもとで成立したものであり、またUNDOFの設置には当然の事ながら米ソが 共に賛成投票をしている。しかし、その地域は非常に危険であるし不安定である。

このためUNDOFの役割を過大評価してはいけない

6.レバノン国連暫定軍(UNIFIL) 1978‑

レバノン内戦は1975年4月にはじまり公式には1976年10月に終った。サー キス大統領の選出、新しい中央政府の憲法とアラブ防止軍の結成によるものであっ た。しかし、戦闘は南部レバノンでは完全には終止しなかった。その防止軍のシ リアの部隊が南進しようとした時、もしザ‑ラニ川の南にまでのびる想像上の東 西レッド・ラインを越えて南進すればイスラエル政府は断固たる対抗措置をとる とおどした。この脅迫のためかあるいは別の理由によるものか、シリア軍はレッ ド・ラインの手前で止った。中央政府の権限は南部レバノンにおいては回復して いなかった。その地方では、イスラエルによって援助されるキリスト教義勇軍と、

PLOの軍隊によって支援される多種の回教徒と左翼のゆるい連合であるレバノ ン国民運動(the Lebanese National Movement)の武装分子との間で散発的な 戦闘が続いていた。当時の南部レバノンではPLOは主たる勢力であり、その地 域に多くの基地を持っていた。そこからPLOは、イスラエルの強い報復を受け ていた特攻隊攻撃を行っていた。 1978年3月11日、 PLOによって責任の表明の あった特攻隊攻撃がイスラエルのテルアビブの近くで生じた。イスラエル筋によ れば、イスラエル住民に死者37名と76名の負傷者が出たとされている。報復の ために3月14日から翌日にかけての夜、イスラエル軍はレバノンに侵攻した。

そして数日のうちに、テイルという都市とその周辺を除いてリタニ川の南側の全 地域を占領してしまった。 3月15日、レバノン政府はそのイスラエルの侵入に 対し安全保障理事会に強い抗議を提出した。それによれば、レバノン政府は南部

レバノンのパレスチナ人の基地の存在には責任がないとし、パレスチナ人の特攻

隊活動には何ら関係がないとした。つづいて、レバノン政府はパレスチナ人とア

ラブ諸国と共に問題を掌達するために全力をっくしてきたが、アラブ防止軍の南

部への進出に関するイスラエルの反対で国境地域をコントロールのもとにおきた

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いというレバノンの願いの達成ができないでいる、と述べた。安保理事会は1978 年3月17日からこのレバノンの申立てを審議するために会合をもった。 3月19

日アメリカの提案にもとづき理事会は決議第425号(1978)を採択した。これに よって理事会は国際的に承認された国境内でのレバノンの領土保存、主権および 政治的独立に厳しく注意するよう求めた。これはさらにイスラエルに対しレバノ

ンの領土的一体性に対する軍事行動の即時停止と全てのレバノン領土からのその 軍の即時撤収を要請した。さらにこの決議によれば、レバノン政府の要求に照ら して、南部レバノンのための国際暫定軍(a United Nations interim force)を直 ちに国連の権威のもとに設置することを決めた。その目的はイスラエル軍の撤兵 を確認し、国際の平和と安全を回復し、その地域に引き続くレバノン政府の実質 的権限の回復のためにその政府を援助することであった。同日の午後、事務総長 は理事会に対し求められていた報告書を提出し、その中で、 「レバノン国連暫定 翠(the United Nations Interim Force in Lebanon UNIFIL」と呼ばれる新 しい軍の委託権限、その軍のガイドライン、および迅速な設置のための行動計画 が述べられた。そして同日、決議第426号(1978)として承認され、当初の期間 6ケ月を決め、更新されることもありうるとした。その後、この「暫定的」なは ずの国連軍は、兵力5,000名から7,000名を前後し、 6ケ月ごとに更新されて現 在に至っている。第425号決議はチェコスロバキアとソ連の棄権で12票の賛成 投票で決った。ソ連は反対であったが拒否権を行使しなかった。なぜなら、レバ ノンと他のアラブ諸国の支持があったためである。中国は投票に参加しなかった。

経費の面ではunef nとUNDOFと同じようにアド・ホック方式が採用された。

しかしながら、 UNIFILの場合は、多くの加盟国は政治的理由でその割り当て額 を支払うのを拒否し、結果として時間の経過と共に確実に増大する「UNIFIL特 別会計」は赤字の状態にある。部隊派遣国についていえば、均衡のある構成のた めいくつかの東欧諸国が参加を求められたが、断られた。特異な点として、フラ

ンスがその地域への歴史的関係から参加を申し入れ反対なく同意された。 1987 年5月31日時点では、総兵力は5,812名であり、構成は、フィジー(627)、フィ

ンランド(530)、フランス(521)、ガーナ(923)、イタリー(50)、アイルラン ド(745)、ネパール(850)、ノルウェー(917)、及びスウェーデン(649)であ る。概してUNIFILの組織は二つの前例(UNEF HとUNDOF)と同様である。

それは独自の指揮で行動するが、中東における全ての平和維持軍の最高調整官の 調整のもとで行動する。このように組織の諸原則ではUNEF Eと同じであるが、

投入される事態が全く異なる点が注目される。事務総長の報告書と最初の決議履

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行についての最初のステップを準備していた政治担当の事務次官のスタッフ達は、

今後非常に複雑な困難に直面するであろうと感じとっていたが、彼らのそのよう な不安は正しいものとなった。 UNIFILはPLOとレバノンキリスト教義勇軍の 直接的抵抗に出会った。そして、イスラエルは強い国際的圧力のあとやっと撤兵 した。しかし、それも完全撤兵ではなく、イスラエルとの国境に続く地域にキリ スト教義勇軍という「代理」を置いてからであった。このためレバノン軍の南部 レバノンへの進駐は困難であった。 1979年4月になって進馬主したが、事態は依 然不安定であった。 UNIFILのプレゼンスにかかわらず1982年6月にイスラエ

ルは第二次の侵攻を開始することになった。しかし、 UNIFILはその地域の戦闘 の無制限なエスカレ‑ションを阻止することに不可決であった。それは誰れより もレバノン政府が知っていることで、UNIFILが終止しないのもこのためである(7)

おわりに

まず、偶然でなくこれら6つの事例は総会ではなくすべて安保理事会によって 設置されたものである。このことは冷戦期に比べて理事会が行き語ることが少な くなったとみてよいだろう。しかし、米ソの直接的利害のある紛争には適用され にくいことは変化がない。そして、このような国連軍が「同意型のもの(consent typeForce,consentopertion)」であることにも基本的な変化はない。事務総長 の1973年の「ガイドライン」報告書(S/11052/Rev.1)に掲げられた諸原則を みると、UNEFHやUNDOF(S/11310、1974)では、たとえば、関係国の「同

意」は関係当事者の「全面的な協力」という表寛に置き替えられており、安保理 事会の監督「権限」の問題は、その「全面的な信頼と支持」といった非法律的な 表現で取り扱われている。これらは、平和維持活動の法的側面や恵章上の問題を めぐる過去の論争やPKO委員会での審議でみられた対立点をできるだけ回避し ょうとする配慮によるものであって同意原則が変化したわけではない(8)1978年 のUNIFILの場合も、事務総長によって同じ「ガイドライン」が提案され、決議 第426号として承認された(9)

。従って同じ同意原則が採用されているのである○し

かし、国連軍の設置母体が総会でなく安保理事会である点とUNEFIの時の苦 い経験から、国連軍の撤兵時期の決定のついては、UNEFIと少し異ったもの になった。部隊派遣国については、冷戦期ではみられなかった変化が認められる。

キプロスの時のイギリスとか、UNIFILのフランスとか、UNTSOのソ連、アメ

(10) リカ、フランスの例がある。つまり大国自身が参加する場合がでてきたのである。

(12)

冷戦期では考えられない事で、防止外交の手法に変化が認められる。今ひとっ注 目される現象として、 UNDOFの時のように、国連軍の設置のイニシアチブが国 連の外側においてつまり紛争当事者間の協定でまとめられることがあることであ る。最後に総括するならば、冷戦という言葉が使われなくなった時期でも超大 国の二極構造に基本的変化があるわけでなく、当分、国連の平和維持活動は防止 外交の手段として使われるであろうし、安保理事会の「強制行動」へと変質する

こともないであろうと思われる。

(1) 「国連の平和維持活動」、小此木政夫、赤木完爾共編「冷戦期の国際政治」慶応通信 所収。

(2) Henry Wiseman, "United Nations Peace‑keeping : An Historical Overview , in Henry Wiseman, ed., "Peacekeeping : Appraisals & Proposals Pergamon Press, 1983, pp. 40‑42. New Zealand Ministry of Foreign Affairs, United Nations Handbook 1987", 1987, p. 40.明石康「国際連合‑その光と影」岩波 書店1985年110‑114頁。

(3) United Nations, Department of Public Information, "The Blue Helmets : A Review of United Nations Peace‑Keeping," pp. 198‑211. Wiseman, op. cit., pp. 42‑43.明石,前掲書123‑124頁。

(4) Wiseman, op. cit., pp. 44‑45. UnitedNations, op. cit., pp. 166‑169.

明石,前掲書120‑121頁。

(5) Wiseman, op. cit., pp. 47‑49. United Nations, op. cit., pp. 77‑96.

明石,前掲書134‑136頁

Wiseman, op. cit., pp. 49‑50. United Nations, op. cit., pp. 97‑107.

NewZealand, op. cit., p. 39.明石,前掲書136‑137頁O

(7) Wiseman, op. cit., pp. 50‑53. UnitedNations, op. cit., pp. 108‑155.

NewZealand, op. cit., p. 39.明石,前掲書156‑157頁。

(8)香西茂「第四次中東戦争と国連の平和維持活動(二) ・完」法学論叢第103巻1号 1978年34頁。

United Nations, op. cit., pp. 110‑111.

New Zealand, op. cit., p. 39.

(昭和63年4月21日受理)

参照

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