仏教石窟バーミヤーンの景観保存
著者 佐々木 達夫
雑誌名 金大考古
巻 58
ページ 1‑5
発行年 2007‑10‑26
URL http://hdl.handle.net/2297/7175
金 大 考 古
第 58 号仏教石窟バーミヤーンの景観保存
佐々木 達夫 (金沢大学)
世界遺産への登録
文明の十字路と呼ばれているアフガニスタン。 シルクロー ドで有名な中央アジアで、 中国や地中海、 インドを結ぶ交 通路の結節点にある遺跡として、 バーミヤーンはひときわ 目立つ場所である。 崖面に刻まれた巨大な仏像と石窟に 描かれた仏教壁画は、 人類が誇る文化財として 2003 年、
世界遺産に登録された。
世界遺産に登録されたのは文化遺産としての重要性があ るためばかりではない。 2001 年、 アフガニスタンを支配し ていたタリバン政権が大仏爆破を世界中に予告し、 世界が イスラームの脅威を話題にした。 そのため、 危機遺産とし て世界遺産に選ばれたのである。 文化より政治が優先した と言える。
崩壊の危機と保存活動
バーミヤーン仏教壁画の研究は、 20 世紀前半にフラン スがリードした。 アフガニスタンにおける発掘権を、 フラン スは独占契約していたためである。 その後、 1960 年代に 名古屋大学、 70 年代に京都大学が石窟壁画の研究で成 果を挙げた。 その日本の研究は今でも高い評価を得てい る。 ソ連侵攻や内戦、 アメリカ空爆などが続いて研究が完 全に停止した間、 石窟の自然崩壊はいっそう進み、 壁画 の剥ぎ取りと骨董市場への流失に拍車をかけた。 今ではこ の 30 年間に現地から消滅した壁画は、 その前に確認され ていた壁画の 80%に達するという。
21 世紀に入り、 日本政府の外交方針で、 東京文化財研 究所を中心にバーミヤーンの遺跡保護がユネスコ事業とし て開始された。 仏教時代の石窟壁画と大仏等がある崖面 保存、 そして景観保存が主要テーマである。
文化遺産との関わり
現在バーミヤーンに住むハザラ人の生活と、 仏教壁画の もつ文化的価値の結び付きはほとんどない。 イスラームの バーミヤーンにとって、 仏教遺産は観光資源として利用す るための文化遺産である。 農業や日々の生活に追われる 現地の人々は、 日本に住む私たちの日常生活と同じで、
地元の伝統文化を常に意識しているわけではない。 これは ユネスコで活動する多くの人にとっても同じで、 ほとんどの 人が仏教徒として保存事業に携わるわけではない。 保存 活動は明らかに宗教を超えた文化的事業である。 そして、
それこそが地元で宗教的問題を引き起こす原因にもなって いる。
美術史研究者も美術史の研究対象として、 長年にわたり 石窟壁に描かれた絵画と取り組んできた。 入口が崩れ落 ちた石窟に入るための安全で頑丈な櫓は、 建設会社の技 術者の分野である。 アフガニスタン政府との援助交渉は日 本外務省の分野である。 専門家ほど、 専門技術の高さや 研究能力の関わりのみで、 事業に参加している。 文化遺 産のもつ本来の歴史的意味の存在とは、 無関係な立場に いる専門家たちである。 現地で働く人たちは、 気候風土が 厳しく農業のみでは生活できないから、 生活のために雇用 された人であり、 保存の専門家とは言えない。 文化遺産と の関わりは専門性と労働力が主となる。
遺産を歴史の中で理解する
景観の保存やプラン作成にあたり、 6世紀から7世紀を中 心に栄えた仏教石窟の様相を知ることは第一に必要なこと である。 しかし、 その前後の時代の様相を知ることも大事 である。 同時に、千年にわたり石窟が残されていたイスラー ム時代のバーミヤーンの様相、 すなわちその変化の状態 を知ることも必要である。 歴史的な経過という点は、 一般 には忘れられている視点である。 今見えている現在の景観 を護るというユネスコの考え方は、 現在の歴史と風土を作 る経過を見ていないため、 妥当ではないと私は感じている。
それを検証するには、 仏教以後のイスラーム時代の景観 変遷を調べることが欠かせないと思う。
仏教が始まる頃のバーミヤーンについて、 すなわち5世 紀頃の当該地域の状態を解明するにあたって、 残された 史料や考古学資料はきわめて少ない。 想像される状態は、
ほとんど人が住んでいない淋しい谷というイメージである。
冬の雪で覆われた谷には歩く人さえ見えなかったであろう。
西北インドやパキスタンの仏教を支えていた当時の経済が 破綻し、 新天地を求めた人々は閑散としたバーミヤーンの 谷に移住した。 高度 2500 mの寒冷地、 一年の半分は雪 に覆われる谷に、 短期間のうちに極彩色と金色で塗られた 宗教の町ができた。
僧侶は大きな崖面の岩肌に巨大な仏像を刻ませ、 金色 に塗った仏像を抱き抱えるように掘られた仏龕の岩肌は極 彩色の仏絵や文様で飾られた。 石窟内の壁にもきらびや かな仏教画を描かせた。 人々の話題と注目が集まり、 信 者を引き寄せる大規模な施設を運営し、 今のパキスタンや インド各地から人々が訪れる巡礼地として繁栄をきわめるこ ととなった。 玄奘も 15 日間、 バーミヤーンに滞在している。
崖面に刻まれた巨大仏像は、 JR 加賀温泉駅前の丘上に そびえる金色の観音像と似た面がある。テーマパーク、ユー トピア加賀の郷にある高さ 73 mの金色観音は、 バーミヤー ンの谷間に刻まれる 58 m大仏よりはるかに高く大きい。 遠 くからも金色に輝く姿が目立つ。 遊園地と温泉があり、 観 音の上まで登ると白山と日本海が一望できる。 当時のバー ミヤーンは加賀のテーマパークや東京ディズニーランドと同 じ面をもつ。 ディズニーランドは宗教がない遊園地である 分、 より目的に特化した純粋な場所である。 宗教の町バー ミヤーンの私のイメージは、 このようなものである。
バーミヤーン崩壊
しかし、 宗教団体がいかに永遠を願っても、 宗教的願望 には常に終わりがある。 農業生産力が背景にない虚構の 宗教の町は、 8世紀中頃からイスラームの影響も受けるよう になり、 10 世紀頃からイスラーム化した。 崖面に蜂の巣状 に掘られて、 住居や仏教の会堂、 仏龕に用いられた石窟、
そして巨大な大仏は、 しだいに壊れていったけれども崖面 に残った。 それらの仏教石窟は人々の住居や倉庫となり、
家畜の休む場所ともなった。 谷間に築かれ栄華をきわめた 仏教寺院群は跡形もなく消え去った。 金色に輝いていたと いう大涅槃物さえ、 今はどこにあったか分からず、 地上に 痕跡を残さない。 バーミヤーンはイスラーム時代になっても 地方の中心的な町の一つとして存続したが、 13 世紀の初 め、 突然死の町となってしまった。
崩壊の原因は、 モンゴルの攻撃である。 今のカザフスタ ンにある巨大都市オトラルの太守は、 チンギス ・ ハンがホ ラズムに送った 450 人の隊商を殺し、 500 頭のラクダに積 んだ東方の珍奇な品々を奪った。 1218 年のオトラル事件 である。 たちまちオトラルは攻められ落城し、 ボハラ、 サマ ルカンドも 1220 年春に徹底的に破壊された。
バーミヤーンも 1221 年、 同じ運命をたどる。 チンギス ・ ハンが可愛がった孫が戦闘で討ち死にし、 怒ったチンギ ス ・ ハンはバーミヤーンを皆殺しにしたと伝えられる。 自分 の都合で戦争を仕掛けたほうが、 身内の死に怒るのは身 勝手な行為であった。 こうした伝承の悲劇は、 歴史的事実 であったのだろうか。 いくつかの史料がそれを裏付けるが、
考古学資料で具体的にそれを確かめる必要がある。さらに、
その後のバーミヤーンはどうなったのだろうか。 現在の谷 に仏教寺院は一つもなく、 それに替わってイスラームのモ スクがある。 現地の人々は仏像に対してではなく、 日に5 回アラーに祈る。 畑に植えられた作物はジャガイモが主で ある。 昔と違う風景が目の前に広がっている。
イスラーム時代のバーミヤーン
2007 年 6 月から7月にバーミヤーンに滞在して、 バーミ ヤーンの遺跡から出土した陶磁器を整理した。 そこから、
一つの答えが得られた。 仏教時代から 13 世紀初まで遺跡 からかなり多くの陶磁器が出土する。 だが、 それ以降は陶 磁器がほとんど出土しない。 モンゴルによって破壊された 町は、 仏教時代以前と同じく、 ほとんど人が住まない谷に 戻っていた。 この状態が復活するのは、 周辺の山並みに そびえる見張り塔などから 19 世紀頃ではないかと思う。 近 代のバーミヤーン形成はハザラ人の移入と関係があるのだ と思う。 ソ連侵入による人々の殺害、 タリバン政権による原 理主義的支配、 これらは最近のバーミヤーン没落と悲劇を 引き起こした。 そして今、 アメリカや国連の軍事侵略と空 爆、 そして日本などの生活 ・ 住居 ・ 医療などの援助で、
バーミヤーンの町の様相は再び大きく変化している。 当た り前のことだが、景観は一時も同じ状態に止まることはない。
景観が固定したもの、 あるいは古い景観が今も残る、 とい う考えは錯覚である。 歴史形成と経過の存在を無視した考 えである。
石窟は崩壊し続ける
バーミヤーンの石窟は南面する崖面のみに掘られ、 昔も 今も人々が家族で住んでいる。 冬は零下 20 度まで冷え、
金大考古 58:1-5, 2007 佐々木 仏教石窟バーミヤーンの景観保存
半年を雪に覆われる地である。 太陽の光が射し込む面に 掘られた石窟は、 寒さ暑さをしのぐに適した住居である。
仏教石窟を崖面に掘り始めたときから、 崖面の自然崩壊は 人工崩壊を加えていっそう激しさを増した。 石窟が掘られ ていっそう崩れやすくなった崖面は、 今も引き続き崩落し ている。 入口部分から落ちて無くなるため、 居住できる石 窟はだんだん少なくなる。 崖下にいると、 崩れ落ちる砂の 流れる音が聞こえる。 時折、 南極の氷が崩れるように大岩 が転がり落ちるという。 上にあった地雷も時折一緒に転がり 落ちる。 これが自然の摂理である。
崩落中の石窟をいかに保存するか。 壊れていくものの姿 を、 そのまま留めることはできない。 死が迫る病人を生かし 続けることができないように、 私たちが老いるのを止められ ないように、 世界遺産であっても非常に脆い砂岩の崩れを 止めることは無理がある。 そこで景観保存については、 現 状維持がユネスコで計画されている。 泥ほこりが舞い上が る道をそのままにし、 簡易舗装もしないのが景観保存に良 いという考えである。 現状という景観は、 じつは谷に仏教 寺院がなくモスクがあり、 新しく植えられたジャガイモ畑が 広がるという、 仏教時代とまったく異なる新たに後に作られ た景観である。
保存すべき景観とは
仏教時代のバーミヤーンは多くの寺院が建ち並び、 唐の 僧侶、 玄奘が 『大唐西域記』 に記した繁栄の町であった。
玄奘は巨大仏像や金色に輝く涅槃物を見たという。 崖面 に掘られた彩色壁画の痕跡がある石窟の存在がそれを語 る。 遺跡出土のイスラーム陶器の研究成果は、 次のことを 教えている。 イスラーム時代には廃村風景が長く続き、 そ の結果として生まれた 20 世紀の景観は仏教時代とまったく 異なるものである。 その新たな景観を文化遺産として護ると いう考え方は、 歴史を無視したもので問題が多い。 それに 気づかない人たちが保存の主導権を握るのが、 現在の問 題点である。
仏教時代を研究するに当たっても、 その前後の時代の地 域の状態、 そして現在の風景を生み出したイスラーム時代 の歴史風景と経過を研究することは大事である。 こうした基 礎的研究を行わないで、 世界遺産としてバーミヤーン景観 保存を国際政治のなかで、 現地に住んでいない欧米人が 感情を加えて論ずるのはたいへん空しい。
バーミヤーンの崖面には崩れながらも残る石窟群と、 そ の内部に僅かだが残る汚れ黒ずんだ壁画がある。 崩れつ
つある石窟を少し補強し、 観光客に見せる壁画のみ洗浄と 保存修復をする。 観光客が入れない場所にある石窟では、
保存状態の良い壁画を切り取って現地に建設する博物館 に移す。 観光客の入れる石窟はほんの一部とする。 文化 遺産の破壊が、 観光客の増加でいっそう進むのも明かで ある。 地元に観光収入があるからといって、 文化遺産を観 光優先で破壊することは許されない。 崖面の下方には仏 教寺院の周壁を復元的に巡らせ、 仏教時代の往時の繁栄 を世界各地から訪れる観光客に偲ばせる。 ただし、 現状 では復元する寺院についての考古学的証拠は、 まったく 得られていないのが問題である。 崖面から少し離れた地域 には、 現在の住民と話し合い、 内戦で崩壊した町を計画 的に作る。 住民のいない町は不自然である。
現在の景観をそのまま保存するのではなく、 文化遺産に 相応しい歴史的風景を新たに作るというのが、 私の保存に 関する考えである。 そのためには基礎的な調査研究が必 要である。 今回の私たちの研究はイスラーム時代の遺跡出 土品に集中したが、 こうした地味な研究こそが歴史的景観 を復元するための基本的資料となる。
バーミヤーンの石窟を私が初めて訪ねたのは 1973 年の 3 月、 雪のバーミヤーンだった。 2007 年は 1 ヶ月現地に 滞在し、大仏が刻まれた崖面を丘上から眺めながらイスラー ム時代の陶磁器研究を続けた。 東京文化財研究所と金沢 大学の共同研究として、 佐々木達夫、 佐々木花江、 野上 建紀がバーミヤーン出土陶磁器研究に参加した。 調査成 果は東京文化財研究所から年度末に刊行予定である。
国際政治や観光目的に利用される世界遺産の問題点 や、 壊れ行くものの保存の難しさを、 政治的に爆破された 大仏も感じていると思う。
シャフリ ・ ゴルゴラから見るバーミヤーン谷、 崖面に大仏が 残る。
ジンギス ・ ハンに滅ぼされたシャフリ ・ ゴルゴラ (旧バーミ ヤーン)。
JSh ジュー - イ ・ シャフル (中央のストゥーパ周辺) をシャ フリ ・ ゴルゴラから見る。
発掘トレンチ内の水平堆積した多くの層。
シャフリ ・ ゾハーク。 イスラーム時代の廃墟。
石窟に住む ,1 石窟に住む ,2
金大考古 58:1-5, 2007 佐々木 仏教石窟バーミヤーンの景観保存
石窟に住む ,3 石窟に住む ,4
石窟に住む ,5 バーミヤーン川で洗濯する女性 (TB 付近)。
雪のバーミヤーン。 1973 年 3 月撮影。