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朝鮮戦争と沖縄―「知られざる戦争」を越えて

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著者 若林 千代

雑誌名 PRIME = プライム

巻 43

ページ 23‑36

発行年 2020‑03‑31

その他のタイトル The Korean War and Okinawa: Beyond the  Unknown War

URL http://hdl.handle.net/10723/00003820

(2)

論文

朝鮮戦争と沖縄

―「知られざる戦争」を越えて

若 林 千 代

(沖縄大学教授)

朝鮮戦争が始まった直後、米陸軍は、通信隊

〔The U.S. Army Signal Corps〕の映像をもとに、

アメリカの一般視聴者向けの30分番組のテレビ・

シリーズ「ビッグ・ピクチャー〔The Big Picture〕」

の制作を開始した。「ビッグ・ピクチャー」は、

1951年に全米ネットワークで放映開始、1964年ま でに全828エピソードが作られた( 1 )。「沖縄、太平 洋に浮かぶ要塞〔Okinawa: Bastion in the Pacifi c〕」

は、そのエピソード423として、1958年に放映さ れたものである( 2 )

映像の語りには、米軍は1950年代の沖縄をどの ようにアメリカ国民に説明していたのかがあらわ れている。それは、一言でいえば、東アジアの冷 戦の醸成を背景に軍事基地を拡充することによっ て、「後進」の社会であった沖縄を近代化したと いうものである。戦争終結後、沖縄は太平洋戦線 で使われた武器の「ゴミ捨て場」となり、「前哨 基地でありながら放っておかれた」。しかし、

1949年、沖縄を取り巻く環境は一変した。「中国 が共産主義者の手に陥落し」、さらに1950年には

「韓国が侵略され」、沖縄は「死活的に重要」になっ た。「物資が迅速に運び込まれ、新しい施設、新 しい滑走路、新しい道路、新しい建物が建設され た。我々は沖縄を強化しなければならなかった」。

何より重要なのは空軍基地だった。

朝鮮戦争はエピソードの中核に位置付けられて

いる。「戦いに備えて、滑走路はより長く、より大き く」され、陸軍工兵隊〔The U.S. Army Engineers〕

が多くの沖縄の人びとを雇用し、「コンクリート と鉄、そして、人間の汗が投じられ」、朝鮮戦争 に備えて空軍基地が急ピッチで整備された。朝鮮 半島に向かって「爆撃機が爆弾を搭載して飛び 立った」というナレーションとともに、B29戦略 爆撃機が次々と飛び立つ様子と、機体に据えられ た偵察用カメラが捉えた、北朝鮮の都市や農村に 向かって次々と爆弾が投下される映像が続く。米 軍にとって、朝鮮戦争と沖縄の関係は明白である。

要するに、沖縄の米軍基地の基礎は朝鮮戦争に よって築かれたということである。

では、沖縄の視点から、あるいは、沖縄研究の 領域では、朝鮮戦争と沖縄の関係についてどのよ うな検証がなされているのだろうか。占領下の原 爆問題等の日本占領史研究者、笹本征男による沖 縄における基地建設や琉球警察大隊構想に関する 新聞記事の分析は、貴重な先行研究である( 3 ) それを除けば、管見の限り、朝鮮戦争と沖縄に関 するまとまった記述や研究は少なく、同じく冷戦 下での戦争であったベトナム戦争と比べて十分な 関心が寄せられていない( 4 )

その一方で、沖縄では、一般的に、体験からく る反応として、朝鮮戦争と言えば「灯火管制」が イメージされ、逆に、「朝鮮戦争への米軍の出撃

(3)

は日本本土の基地からが大半であって、沖縄から の出撃は少なかった」という、実際とは異なるイ メージの流布もある。ともかく、沖縄では、朝鮮 戦争は占領社会の変容に強い影響を及ぼしたもの で あ り な が ら、 未 だ「 知 ら れ ざ る 戦 争〔The  Unknown War〕」である。

沖縄と朝鮮の関係それ自体については、沖縄現 代史における朝鮮人に関する「語りの空間」に焦 点をあてた、呉世宗による『沖縄と朝鮮のはざま で―朝鮮人の〈可視化/不可視化〉をめぐる歴史 と語り―』は、沖縄・朝鮮関係史の通史としても 優れている( 5 )。ここでは、より朝鮮戦争に焦点 をあて、素描的な整理ではあるが、沖縄戦から朝 鮮戦争に至る過程で朝鮮情勢が沖縄の占領に与え た影響、また、朝鮮戦争における米軍の爆撃と沖 縄のかかわりについて考えてみたい。

沖縄における米軍占領と朝鮮情勢

朝鮮情勢が沖縄の占領に与えた影響について、

ここではとくに、沖縄戦から占領初期の時期、米 国が沖縄の長期保有を構想する1948年、そして、

沖縄における基地建設が本格化する1949年の三つ の時期を取り上げる。

第一は、沖縄戦から占領初期の時期である( 6 ) 1945年 8 月10日、米国では、SWNCC〔State-War- Navy Coordinating Committee、国務・陸・海軍 三省調整委員会〕が、日本の無条件降伏後の朝鮮 半島について、北緯38度線を境に以北をソ連が、

以南を米国が管理することを決定した。南側の占 領の任務にあたったのは、米陸軍第24軍団〔The  U.S. Army 24th Corps(以下、第24軍団と略す)〕

であった。第24軍団は嘉数高地から首里、摩文仁 に至る沖縄戦における米軍の主力の火砲部隊で あった。本来は戦闘〔combat〕を専門とする部 隊であり、軍政〔military government〕を担当 する部隊ではなかった。しかし、1945年 8 月上旬、

ソ連の対日参戦と南下、京城〔Seoul〕ソウルの 重要性から、このとき最も朝鮮半島に近接する位 置にいた第24軍団が朝鮮半島に向かった。

上陸にそなえて、 8 月30日、連合軍総司令部の 指令により、沖縄の第24軍団と京城の日本軍との あいだで無線交信が開始された。李圭泰の研究に よれば、この交信を通じて、朝鮮総督府と日本軍 は、解放後朝鮮の治安を日本の憲兵警察に担当さ せるよう米軍に働きかけ、さらに植民地統治機構 を米軍に継承させることで、有利な条件で日本へ 引き揚げようとし、朝鮮人が米軍に対して敵対的 であるという先入観を植え付けようとした( 7 ) たとえば、日本軍第17方面軍司令官からの電信で は、「朝鮮人中ニハ共産主義或ハ独立運動者アリ テ此ノ機会ニ治安ヲ乱サント企ツルモノ」あり、

「主トシテ軍隊ヲ以テ治安ヲ維持」する必要を示 し、現状維持を主張した。 9 月 3 日、米国務省の 在朝鮮政治顧問に任命されたベニンホフ〔Merrell  Benninghoff 〕が沖縄に到着し、朝鮮占領の本格的 な準備が始まるが、このとき、第24軍団司令官ホッ ジ〔John R. Hodge〕は、朝鮮は「敵国」「合衆国 の敵」であり、「降伏の諸規程と条件が適用される」

と述べている。第24軍団は 9 月 5 日に沖縄を出発、

9 月 8 日 仁 川〔Incheon〕 に 到 着、USAMGIK

〔United States Army Military Government in  Korea(在朝鮮米陸軍司令部軍政庁)〕が設置さ れた( 8 )

当時の沖縄における朝鮮情勢への関心は、米軍 占領が朝鮮の将来に与える影響に対して向けられ ている。たとえば、1945年8月22日付の『ウルマ 新報』では、「発信元及び発信地不明」として、「朝 鮮は1910年(明治43年)に日本に侵略され、爾後 数十年に亘って日本の統治を受けた。アジヤ諸国 の中で独立を失ったのは、朝鮮が初めてであった。

それが今次の日本の降伏に依って再び自由を取戻 すことが出来るであらう。併しながら朝鮮が独立 国として自治政府を樹立するには時期尚早であ

(4)

る。あれは三十五年間も日本が統治してゐたので 朝鮮人が政治に参与してゐたのが極めて少数であ り、従ってこれから指導者が立ち上がり、又民衆 が適当な指導者を選定するには尚数年を要するか らである」との記事がある( 9 )。しかし、朝鮮の 独立を「時期尚早」とする認識は、『ウルマ新報』

の記者のなかから自発的に出てきたものではな い。なぜなら、沖縄の記者が書いたものには「発 信元及び発信地不明」とは書かれないからである。

また、これは外電の翻訳でもないため、第24軍団 の朝鮮への移動に際し、米軍側から『ウルマ新報』

記者に与えられた情報である可能性は高い(10) 北緯38度線以南の管理を始めた米軍は、10月8日、

解放後に朝鮮各地で起こった人民委員会や建国運 動を否定した。同じ時期、沖縄における軍政の方 針もまた、「民主的決定機関」に関する議論が米 軍政府によって否定され、占領統治機構に上意下 達的に結びつけられた「戦前の体制の再建」とさ れた(11)

第二は、1948年、米国が沖縄の長期保有を構想 する時期である。朝鮮情勢がアメリカの対沖縄政 策に与えた影響は小さくないものだった。カミン グス〔Bruce Cumings〕は、1948年について、冷 戦が深まり、「アメリカの政策の東アジアの文脈を 根本的に変化させた年」だったとする(12)。1948年、

朝鮮では、北緯38度以南での単独選挙と済州島 四・三事件、麗順事件が起こり、単独選挙により 建国宣布した大韓民国の李承晩政権の下で反共政 策が強化された。 9 月には、朝鮮民主主義人民共 和国が建国宣布し、分断体制が生み出された(13) 沖縄では、1948年頃には占領の矛盾が徐々に顕在 化し、政治組織等、自主的な政治に対する米軍政 府の反共主義的な管理が強化されるようになった。

この時期、米国は、対日政策に関するNSC〔National  Security Council(国家安全保障会議)〕の政策文 書NSC13を策定した(14)。1948年 3 月、PPS〔Policy  Planning Staff, Department of State(国務省政

策企画部)〕のケナン〔George F. Kennan〕は、

日本、沖縄、さらにフィリピンを視察し、NSC13 の元となるPPS28文書「米国の対日政策に関する 勧告」をまとめた(15)。ケナンはアジア視察に臨み、

太平洋における米国の安全保障、日本との早期講 和、そして、日本の経済再生の三点を検討すると いう目的があった(16)。1947年秋の段階で、ケナ ンにとって朝鮮は米国の安全保障政策の主要な対 象ではなかった。1947年 9 月、ケナンは、日本に より高い比重でソ連と北東アジアの均衡を維持す る力を期待し、朝鮮の軍事戦略的重要性はより低 いものとした(17)

ケナンは、1948年 3 月、二度にわたってマッカー サー〔Douglas MacArthur〕と会談した。マッカー サーは、「もはやカリフォルニアは防衛線の外縁 ではない。防衛線はいまやマリアナ、琉球、ア リューシャンを通る線であり、沖縄はその鍵を握 る稜堡」として、「この構造のなかで最も前方で、

尚かつ死活的な位置」にあり、「沖縄に適切な軍 事力があれば、米国はアジア本土から発せられる 陸海両用の軍事力の発動を防ぐ目的で、日本本土 を要求する必要はない」と述べた。この場合の「軍 事力」とは「空軍力」である。マッカーサーは、

米国は沖縄を「徹底的に開発し、要塞化する」と 決 断 し な け れ ば な ら な い と し た(18)。 こ れ は PPS28「米国の対日政策に関する勧告」に反映さ れた。

このとき、ケナンは国務長官マーシャル〔George  C. Marshall〕に書簡を送り、「米国は西太平洋地 域全体を見渡した全般的な戦略概念をもたないま ま行動している」として、日本、朝鮮、フィリピ ン、琉球・沖縄の比較検討を加えている。日本の 講和後の防衛は「琉球の問題と結びついており」、

それによって日本に安定した条件がもたらされる としている(19)。また、朝鮮の占領は米軍にとっ てすでに重荷となっており、米軍は朝鮮からでき るだけ早期に撤退すべきであると述べている(20)

(5)

また、国務省北東アジア課のアリソン〔John M. 

Allison〕は、PPS28が承認されるならば、「外交 の死活的領域における統一的で調和的、建設的な 政策を米国にもたらすだろう」と述べ、そして、

「私は長い間、朝鮮からの米軍撤退に対する、極 東のみならず他の地域でも引き起こされるであろ う反応について悩んでいた。私の見るところ、こ の撤退がソ連の圧力からの後退ではないと思わせ るのはかなり難しいもののように思われ、また、

そうした撤退は東洋のみならず世界中で米国の威 信と地位に忌々しき影響を及ぼすように思われ る。しかし、朝鮮からの米軍撤退よりも前に、米 国は極東から後退することなく、沖縄に居続ける のだということを示し、踏みとどまろうとしてい ることを世界に示すことができれば、私は朝鮮か らの撤退がもたらすであろう心理的な悪影響は概 して回避できるのではないかと信じている。従っ て、私は、他の国々との外交交渉の開始後、でき るだけ早期に、米国は沖縄に対する施政権者を米 国とする戦略的信託統治協定の同意を得るため、

国連安全保障理事会に提案すべきであると考え る」としている(21)

米国の対朝鮮政策に関する政策文書NSC8「朝 鮮に関する米国の立場」がNSCで承認され、さら に大統領によって承認されたのは、こうした議論 がおこなわれた直後であった。NSC8は、朝鮮か らの米軍撤退に関して、「1948年12月31日までに 占領軍の撤退に必要な条件を作り出すあらゆる手 だてがとられるべきである」としている。アリソ ンは沖縄に対する「戦略的信託統治」を主張する が、このコメントは、政策決定の過程で、沖縄の 米軍基地の強化がNSC8を「心理的」に保障する という認識があったことを示唆している(22)

ケナン自身も、1948年 5 月、国防大学〔National  War College〕での講義のなかで、琉球・沖縄を 朝鮮と比較することで、米国にとっての重要性を 論じている。

朝鮮:米国が撤退した後、ソ連が朝鮮全土に その支配を拡大することは可能だ。この半島 に米国の戦略的な重要性はないのだから

(笑って冗談半分に)、生来不安定な国である 朝鮮に対する責務につきまとう頭痛をかかえ る権利をロシア人に与えてもかまわないだろ う。

琉球:沖縄は米国にとって死活的な戦略的重 要性がある。我々は、琉球に引き続きとどま り、恒久的な基地をそこに建設し、土着民の 経済的社会的福祉を引き受ける仕事にとりか かると今こそ決断しなければならない。米国 は沖縄を「戦略的信託統治」を基礎としてで も、あるいはハワイのような「領土取得」で も、いずれかの方法で保持すべきである。も し我々がそこから出て行けば、ロシア人が 入ってくるだろう。米国の防衛の外縁のなか には間違いなく沖縄を含んでいなければなら ない(23)

朝鮮人にとって米軍撤退問題とは、コストや心 理的作用の問題ではなく、分断体制の固定化とい う危機と不可分な問題であって、民族の自立の主 題とかかわるものであった。1948年春、南では米 ソ両軍即時撤退が大衆的要求として高まりを見せ ていたが、しかし、 2 月26日、国連において南で の単独選挙実施が決議され、 4 月、統一朝鮮に関 する政治協商では、南北の政治指導者らは米ソ両 軍即時同時撤退を主張し、さらに、 4 月 3 日、済 州島〔Jeju〕で単独選挙に反対する民衆蜂起が始 まった。10月、韓国で起こった麗順事件は、アメ リカの対朝鮮政策を変化させ、李承晩政権の反共 国家体制が強化される転換点となった。南での単 独選挙に抗議する済州島の蜂起鎮圧に投入される 予定になっていた国軍兵士は、「同胞に銃口を向 ける」という任務を拒絶し、決起した。国軍の反

(6)

乱は数日のうちに鎮圧されたが、その過程で民間 人虐殺が起こり、また、李政権に抵抗するゲリラ 闘争が南で激化した。麗順事件を契機として、

1948年12月31日に期限が定められていた韓国から の米軍撤退は延期された(24)

朝鮮からの米軍撤退時期の見直しを提案する文 書を作成した国務省北東アジア課のビショップ

〔Max Bishop〕は、「現時点での朝鮮からの米軍 撤退の完了は、大韓民国政府の安全保障と安定を 重大な危機にさらすものとなり、従って、そうし た撤退はさらに先に引き延ばされるべき」であり、

「太平洋地域における米国の国家目標と安全保障 の位置づけにかかわる、北東アジアいたるところ での撤退に波及する可能性という、より大きな問 題と結びついている」と述べた。ビショップは、

朝鮮での米軍の維持が「心理戦からゲリラ戦に至 る幅での軍事的な深入り」につながり、さまざま な耐え難い負担を米国にもたらすリスクとなり、

それが「結局は太平洋における米国の安全保障を 破壊してしまうだろう」と述べている(25)。朝鮮に おいてアメリカがその威信を喪失せず、また、琉 球諸島の基地を拡充し、民間経済を復興させるこ とは、対日政策の転換を成功に導く鍵と考えられ た。この提案の二日後、ビショップはNSC13/ 2 第 5 項に示された琉球の占領の履行に関する陸軍 省と国務省の連絡調整担当に任命された(26)

第三は、1949年、沖縄における基地建設が本格 化した時期である。この時期、USAMGIKにいた 将校らが沖縄の軍政に加わった。1948年 9 月、

FECOM〔Far East Command (米極東軍司令部)〕

は、RMGS〔Ryukyus  Military  Government  Section(琉球軍政課)〕を設置した。RMGSの任 務は、琉球諸島の軍政府の運用と極東軍司令部各 部局間の琉球関係の問題処理であった(27)。RMGS は、大韓民国の建国が宣布されたことを契機に、

KORYU〔Korea-Ryukyus Division(朝鮮・琉球 課)〕が組織再編されたもので、RMGSの課長には、

朝鮮で軍政に関与し、UNTCOK〔United Nations  Temporary Committee on Korea(国連臨時朝鮮 委員団)〕とUSAMGIKの連絡担当将校として単独 選挙に関与したウェッカリング〔John Weckerling〕

が任命された(28)。彼は、「東洋」に民主主義を根 付かせるのは困難で、そのためには「教化」が必 要だと述べている(29)。また、ウェッカリングの 反共主義的な傾向について、1988年に米陸軍戦史 編纂所がまとめた琉球軍政史では、1948年末から の「軍政府がその統治に対する強い批判者を共産 主義者と決めつける傾向」があったとしている(30)

また、中華人民共和国が成立した同じ1949年10 月 1 日、米陸軍少将シーツ〔Josef R. Sheetz〕が 軍政長官に就任した。シーツの在任期間は1950年 6 月に朝鮮戦争が勃発するまでのわずか数ヶ月と 短いが、この時期、連邦予算によって基地建設が 本格化した(31)。シーツは沖縄戦における第24軍 団の火砲部隊の司令官であったが、沖縄戦終結後、

ホッジらとともに朝鮮半島に上陸、USAMGIKで 働 い た(32)。 シーツ の 施 政 は、「 ビッグ・ ピ ク チャー」でも描かれた沖縄の「近代化」、あるい は「恒久基地化の政ポリティカル・エコノミー

治経済」の創出であった(33) 爆撃

朝鮮戦争の時期、沖縄の駐留米軍の活動は、

「ビッグ・ピクチャー」でも強調されるように、

空軍に集中し、その役割は、戦況の変化に伴い、

より攻撃的なものとなった。

1945年以来、沖縄には第20空軍〔The 20th Air  Force〕が駐留していた。第20空軍は、1944年に 米陸軍航空軍〔The U.S. Army Air Force〕に創 設された戦略爆撃機部隊で、1945年には広島と長 崎への原爆投下をおこなった。1946年には陸軍航 空軍の再編により、戦略航空軍団〔Strategic Air  Command〕の主力部隊となり、また、米極東軍

〔The U.S. Far East Command〕の管轄範囲を防

(7)

衛する極東空軍〔The Far East Air Force〕の指 揮下に入った。

1950年当時、第20空軍の司令部は嘉手納基地に あり、その管轄範囲は、マリアナ諸島から琉球諸 島、台湾を含む西太平洋の島嶼部とその海域で あった(34)。那覇(小禄)の航空基地には第51戦闘迎 撃航空大隊〔The 51st Fighter-Interceptor Wing〕

が、また、嘉手納には、第31写真偵察中隊〔The  31 Photographic Reconnaissance Squadron〕 が 駐留していた。このとき、B29戦略爆撃機〔Boeing  29 Superfortress〕による第19爆撃航空大隊〔The  19 Bombardment Wing〕は、グアムのアンダー セン基地〔Andersen Air Force Base〕に所属し ていた(35)

朝鮮戦争が勃発すると、極東空軍は、朝鮮半島に 最も近い福岡の板付基地にF82〔P82 Twin Mustang〕

や迎撃戦闘機を集めた。同時に、マッカーサーは、

アンダーセン基地から沖縄にB29からなる第19大 隊を移駐させた。 6 月28日、第19大隊は沖縄から 飛び立ち、ソウルと加平〔Gapyeong〕、ソウルと 議政府〔Uijeongbu〕を結ぶ二つの幹線付近を交 互に爆撃した。また、第19爆撃航空大隊のB29は、

6 月末、漢江〔Hangang〕の北側を攻撃した。マッ カーサーは「最大限の威嚇飛行」のために、こう したB29の「普通ではない使い方」をしたが、こ の段階では、極東空軍の主な役割は防衛的なもの だと発言していた(36)。また、マッカーサーは、

極東空軍司令官ストレイトマイヤー〔George E. 

Stratemeyer〕に対し、北朝鮮に反撃するため、

航空基地、兵站、戦車庫、兵士の行軍や視界に入 る橋や道路、鉄道など軍事攻撃目標を拡大する権 限を与えたが、同時に、航空作戦を「満洲とソ連 の最前線から離して」実行するよう命じていた(37)

6 月末になると、極東空軍は、部隊の配備を防 衛的なものから攻撃的なものへと変化させ、 7 月 8 日、極東空軍爆撃軍団〔The U.S. Far East Air  Force Bomber Command〕を組織した(38)。また、米

空軍参謀総長ヴァンデンバーグ〔Hoyte Vandenberg〕

は、ストレイトマイヤーの要請を受け、 7 月末、

統合参謀本部〔The Joint Chiefs of Staff 〕は二つの B29航空隊を送ることを提示、急遽、戦略航空軍団 の第98爆撃大隊〔The 98th Bombardment Wing、

後にThe 98th Operation Group〕と第307爆撃大 隊〔The 307th Bombardment Wing〕が極東空 軍に送られた。これにより、B29戦略爆撃機の部 隊は、第98大隊が横田基地に、第19大隊と第307 大隊の二つが沖縄に配備された。沖縄に新たに配 備された第307大隊は、到着から一週間後には最 初の前線出撃をおこなっている(39)

ストレイトマイヤーは「朝鮮の制空権は短期間 に確立された」と述べているが、それは韓国軍が 短期間に崩壊したこととも関連する。 6 月26日、

国務長官アチソン〔Dean Acheson〕は朝鮮戦争 への陸・空軍による大規模な軍事介入に舵を切 り、統合参謀本部は6月末までに地上部隊の投入 を決断した(40)。間もなく、極東空軍は北側の軍 事施設の攻撃を始めた。 7 月 2 日には沖縄の第19 大隊が東海岸にある連浦〔Yonpo〕、 7 月 3 日と 4 日には平壌〔Pyongyang〕と温井里〔Onjong-ni〕

の飛行場を攻撃した(41)。また、 8 月上旬には平 壌や元山〔Wonsan〕の軍事施設の爆撃をおこなっ (42)

1950年秋、マッカーサー率いる国連軍が仁川に 上陸、38度線を突破した。それに対して中国人民 志願軍(援朝抗米義勇軍)が南下すると、マッカー サーは、港湾のある羅津〔Rajin〕と鴨緑江〔Yalu〕

のダムを除く、北朝鮮のあらゆる「通信手段と軍 事施設、工場、都市、村」を空爆し、破壊するこ とを命じた(43)。それに伴い、沖縄に駐留する爆 撃航空大隊の出撃も増加し、夜間の空爆、また、

天候不良時の爆撃もおこなわれた。

ここでは、朝鮮戦争中に沖縄駐留の部隊が関与 したすべての攻撃に触れることはできないが、米軍 は、1951年夏の「絞殺作戦〔Opeation Strangle〕」

(8)

をはじめ、平壌と鴨緑江のあいだで爆撃を繰り返 し、極東空軍の記録では、沖縄から出撃した第19 大隊と第307大隊はほぼ連日出撃しており、北朝 鮮の村々を「クレーター化した」という文言が繰 り返されている。カミングスは、朝鮮戦争で使用 された爆弾は、第二次世界大戦中のドイツや日本 の爆撃をはるかに上回るものだったと述べてい る。米軍の推計では、極東軍は63万5000トンを投 下し、これは、第二次大戦中に米軍が日本を含め た太平洋戦線で使用した50万3000トンをはるかに 上回る量で、また、ナパーム弾の使用は 3 万2557 トンに及んだ。北の主要都市の市街地もまた、平 壌の75%、清津〔Chongjin〕65%、咸興〔Hamhung〕

80%、興南〔Hungnam〕85%、元山80%、沙里 院〔Sariwon〕95%、新安州〔Sinanju〕100%が 壊滅状態となった(44)

さらに、嘉手納基地はアメリカの原爆投下計画 のなかに組み込まれ、核兵器の発進基地として使 用される寸前にまで至った。ディングマン〔Roger  Dingman〕やカミングスの研究によれば、1951 年 3 月末、ストレイトマイヤーは、ヴァンデンバー グに宛て、嘉手納基地の核兵器搭載ピットが使用 可能であることを報告している。原子爆弾は部品 を分けた状態で嘉手納基地に運び込まれ、最終組 立される必要があった。カミングスは、このとき、

核物質カプセルの装着により最終組立が完了し、

使用可能な段階にまでなっていたかどうかは、こ の報告からは明らかではないとしている。しかし、

1951年 4 月 6 日、 ト ルーマ ン 大 統 領〔Harry S. 

Truman〕は、中国の基地から米軍への爆撃機が 発進するか、あるいは、新たな部隊の参戦があっ た場合には、核による報復をおこなうという統合 参謀本部の要請を承認し、核物質の管理を原子力 委員会の管轄から軍事管理へと移している(45)

この命令は実行されることはなかった。しかし、

1951年 9 月から10月にかけて、極東空軍は、核兵 器使用能力を確固としたものとするために「ハドソ

ン・ハーバー作戦〔Operation Hudson Harbor〕」を 実行した。それは、嘉手納基地から飛び立った B29爆撃機が北朝鮮上空でトリニトロトルエン

〔trinitrotoluene〕の重爆弾を模擬型原爆として使 用し、原子爆弾の投下飛行訓練をするというもの であった(46)

朝鮮戦争では、「敵の戦意を挫く」ための無差 別攻撃として、北朝鮮での水源や灌漑用のダム破 壊もおこなわれた。よく知られているのは、1952 年 5 月の水豊ダム〔Supung〕の爆撃であるが、

堅牢な構造であったと同時に、中国とロシアを刺 激したくないアメリカは徹底破壊をしなかった(47)

極東空軍は、北朝鮮の米作に必要な水の75%を 供給する20カ所のダムを対象として灌漑水利を破 壊し、収穫期を前にして米作へ打撃を与えようと した。1953年 5 月、極東空軍は、そのうち、平壌 の北に位置する徳祥〔Toksan〕、慈山〔Chasan〕、

旧城〔Kusong〕、徳山〔Tokusang〕、そして、ク ウォンガ〔Kuwanga〕の 5 カ所を爆撃した(48)

また、 6 月には、徳山ダム等に追加攻撃がおこ なわれた(49)。この爆撃に参加した、嘉手納基地 から出撃したB29戦略爆撃機パイロットであった チャールズ・オーバービー〔Charles Overby〕は、

B29の攻撃は夜間爆撃であったこと、また、空軍 大学の研究を引用し、休戦協議が再開されるなか での爆撃は、「政治的な事柄と絡み合った」もの だったと述べている(50)。今日、朝鮮戦争やベト ナム戦争を経て、戦時における水源や水インフラ 施設への攻撃は、国際人道法の枠組みにおいて、

1977年ジュネーヴ諸条約第 1 追加議定書で原則禁 止されている。しかし、アメリカは、この追加議 定書には現在も未参加である(51)

結びにかえて―「知られざる戦争」を越えて―

ここまで、素描的にではあるが、沖縄戦から朝 鮮戦争に至る過程で朝鮮情勢が沖縄の占領に与え

(9)

た影響、また、朝鮮戦争での米軍の爆撃と沖縄に ついて考察してきた。ここでは、結びにかえて、

とくに、沖縄女性史研究の視点に触れておきたい。

本稿の冒頭で、沖縄では、朝鮮戦争は未だ「知 られざる戦争」であると書いた。また、沖縄研究 では、朝鮮戦争に関しては断片的な叙述が多いこ とも指摘した。ただ、沖縄女性史研究の場合、た とえ叙述が断片的であったとしても、構造的な性 差別の問題から朝鮮戦争を捉え、軍事主義による 性暴力に焦点が当てられており、沖縄の視点から みた朝鮮戦争を凝縮している。そして,それは,

決して「ビッグ・ピクチャー」では触れられてい ないものである。

それには、大きく二つの側面がある。一つは、

駐留米軍の軍人・軍属による性犯罪である。「基 地・軍隊を許さない行動する女たちの会」が継続 してまとめている『沖縄米兵による女性への性犯 罪』では、1945年から朝鮮休戦協定に至る1953年 までの時期は、ほぼ毎週毎月のように米軍人によ る性犯罪が起きていたことが記録されている(52) これによると、朝鮮戦争期には、1950年 7 月から 8 月にかけての記録が多く、また、リッジウェイ

〔Matthew Ridgway〕が米第 8 軍司令官となった 1951年 1 月末以降、ソウル奪還と北緯38度線をめ ぐり国連軍と朝鮮人民軍・中国軍が死闘を続けて いた1951年 2 月から 5 月にかけての記録が多い(53) 高里鈴代は、1945年から1950年代前半に至る時期 の米軍による性犯罪の特徴について、 銃やナイ フといった武器で脅し、強姦する、 兵士が集団 となって拉致・強姦する、 救助に駆けつけた家 族等が殺害される、あるいは重傷を負う、 収容 施設や病院、田畑、基地、道路、家族のいる自宅 など、あらゆる場所で起こる、 強姦致傷・致死、

幼児を含め、暴力の対象となる人びとの年齢層 の広さ、 強姦の結果の出産、 加害者の不処罰 をあげている(54)。朝鮮戦争期の記録についても、

これらの特徴と一致している。

もう一つは、性暴力を吸収する制度や空間の変 化である。朝鮮戦争の時期、嘉手納基地に接収さ れていた軍用地の一部が返還され、「特飲街」と して「八重島」が作られ、また、勝連には「松島」、

宜野湾には「真栄原」、那覇には「新辻町」など、

米軍人を相手の店がまとまって営業する地域が作 られた。沖縄では、これらの地域は、基地と住民 のあいだに「緩衝地帯」を作り、性暴力から「子 ども、青少年を守るための防波堤」を築き、「非 行防止」と「環境浄化」を目的とするとされ、有 力者がかかわる事業となった。しかし、実際には、

兵士の性病防止を最優先する米軍の要求にそった ものであった。朝鮮戦争勃発直後の1950年 7 月、

米軍政府は布令第21号「性病取締〔 V e n e r e a l  Disease Control〕」を公布し、群島政府に対して、

性病感染者の徹底管理を求め、また、民政副長官 ビートラ―〔Robert Beightler〕は、1951年11月「性 病防圧要請」をおこなうよう指示した(55)

高里は、この時期の沖縄における軍事主義と骨 がらみになった性差別と性暴力について、「女性 に向かう 新たな戦争 」と表現している。こう した沖縄女性史の視点は、「知られざる戦争」を 越えて、朝鮮戦争が戦後沖縄の社会と深く構造的 に絡み合っていたことを問い直すための重要な手 がかりを与えるものとして重要である。

付記

本研究は、科学研究費補助金基盤研究C「米軍 統治下の沖縄における占領の社会史と秩序意識に 関する基礎研究」(2019年度/課題番号19K00989/

研究代表者・若林千代)、および、科学研究費補助 金基盤研究C「現代沖縄における思想の生成に関 する基礎研究」(2019年度/課題番号18K00116、研 究代表者・我部聖)の助成を受けた。

( 1 )  Nancy Bernhard, 

(10)

 

(New York: Cambridge University Press,  2003), pp. 142-143を参照。CBSで放送開始、

その後、ABCやケーブルテレビも加わった。

( 2 )  “Okinawa: Bastion in the Pacific,” Episode  TV423, The Big Picture Television Series,  the  U.S.  Army  Signal  Corps,  Pictorial  Center, U.S. Army, 1958, 28 mins. 米国国立 公文書館〔National Archives and Records  Administration〕では、以下のRecord Group で分類・保管されている。RG111, Records of  the Offi  ce of the Chief Signal Offi  cer.

( 3 )  笹本征男「朝鮮戦争と沖縄̶̶沖縄タイム スを読んで⑴沖縄の歴史記述における朝鮮 戦争――」(『人民の力』2006年10月 1 日号)、

「朝鮮戦争と沖縄――沖縄タイムスを読ん で⑵朝鮮戦争勃発直後の沖縄――」(『人民 の力』2006年10月15日号)、「朝鮮戦争と沖 縄――沖縄タイムスを読んで⑶朝鮮戦争と 米軍の基地建設――」(『人民の力』2006年 11月 1 日号)、「朝鮮戦争と沖縄――沖縄タ イムスを読んで⑷朝鮮戦争と米軍の基地建 設(承前)

――」(『人民の力』2006年11月

15日号)、「朝鮮戦争と沖縄――沖縄タイム スを読んで⑸米軍直属の琉球特別警察大隊 の創設――」(『人民の力』2006年12月 1 日 号)、「朝鮮戦争と沖縄――沖縄タイムスを 読んで・最終回 休戦状態の朝鮮戦争と沖 縄と日本――」(『人民の力』2007年 1 月 1 日・15日号)。

( 4 )  その他、拙稿「沖縄現代史のなかで朝鮮戦 争を再考する」(沖縄法政学会編『沖縄法 政学会会報』第22号、2010年)参照。

( 5 )  呉世宗『沖縄と朝鮮のはざまで――朝鮮人 の〈可視化/不可視化〉をめぐる歴史と語 り――』(明石書店、2019年)。呉は、沖縄 戦記録における証言や地域史調査、また、

沖縄と韓国の新聞資料や調査報告書等を元 に、沖縄戦のなかの、あるいは、沖縄戦終 結後の占領下や施政権返還前後の朝鮮人の 動向と沖縄における「語り」の変容等につ いて考察している。沖縄戦のなかの朝鮮人 については、日本語で発表された近年の研 究として、この他に、沖本富貴子による

「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考 察――特設水上勤務隊を中心に――」(沖 縄大学地域研究所『地域研究』第20号、

2017年)、「沖縄戦の朝鮮人――数値の検証

――」(沖縄大学地域研究所『地域研究』

第21号、2018年)、金美恵「沖縄戦で犠牲 となった朝鮮人の慰霊碑(塔)・追悼碑に 関する研究ノート」(沖縄大学地域研究所

『地域研究』第20号、2017年)、また、朴正 熙政権の時期に焦点を当てたものとして、

成田千尋による「沖縄返還交渉と朝鮮半島 情勢――B52沖縄配備に着目して――」(史 学研究会『史林』第97巻第 3 号、2014年)、

「朴正熙政権の集団防衛構想と沖縄返還問 題」(立命館大学コリア研究センター『コ リア研究』第 7 号、2016年)等がある。

( 6 )  この過程は、拙著『ジープと砂塵――米軍 占領下沖縄の政治社会と東アジア冷戦、

1945〜1950――』(有志舎、2015年)48〜

52ページを参照。

( 7 )  李圭泰「植民地支配から分断国家へ――朝 鮮総督府の『八・一五』政策を中心に――」

『季刊戦争責任研究』第34号、2001年を参照。

ここから 9 月 8 日の仁川上陸までの10日間 ほどの間におこなわれた電信は、米軍から 日本軍へ35通、日本軍から米軍へ45通、計 80通であった。

( 8 )  こうした朝鮮総督府と米第24軍団の関係 は、解放後の朝鮮人にとっては容易には納 得しがたいものでもあった。 9 月15日、ベ

(11)

ニンホフは国務省宛に、次のような政治報 告をおこなっている。「即時独立と日本人 の一掃が実現しなかったために大変な失望 がわき上がっている。(略)日本人官僚の 排除は世論の見地から望ましいものである が、当分その実現は難しい。名目的には彼 らを職位から解除することができるが、実 際には仕事を続けさせなければならない。

(略)日本人の下で高級職に就いていた朝 鮮人がいても、彼らは親日派と見なされ、

ほとんど彼らの主人と同じように憎まれて いる。総督と警察局長の 2 人の日本人の追 放と、ソウル地域の警察官全員の配置転換 は、たとえこれが政府機関を強化すること にはならなくても、激怒した朝鮮人をなだ める効果はあると思われる」。李圭泰、前 掲論文参照。

( 9 )  『縮刷版 ウルマ新報』第 1 巻、不二出版、

1999年。

(10)  また、 9 月19日付の『ウルマ新報』では、

9 月15日京城発の情報として、以下のよう に伝えている。「ホッヂ米陸軍中将は昨日 阿倍信行朝鮮総督を罷免した。ホッヂ中将 は又警視庁の日本人の責任者もその職を去 るように通告した。日本の統治期間中日本 官憲の圧迫に抗して来た朝鮮人はこの移動 を欣んでゐる。マッカーサー元帥は既に日 本官吏は可及的速やかに米人又は朝鮮人管 理におき替るよう命令を発してをり、ツー ルーマン大統領(ママ)は聯合国の朝鮮に 於る統治策がやがて発表されるであらう が、その時迄は米軍の手に依って統治され るであらうと言明した」。『縮刷版 ウルマ 新報』第 1 巻。

(11)  この過程については、拙著、前掲書、第 1 章「戦闘から占領へ」参照。

(12)  Bruce Cumings, ed., 

 

(Seattle, WA: University of Washington  Press, 1983) p.25.

(13)  台湾では、1947年初めの二・二八事件以後、

民主勢力への政治暴力と弾圧の嵐が吹き荒 れ、1948年には動員戡乱時期臨時條款の成 立により、国民党政権の独裁基盤の確立が おこなわれた。日本では、経済復興政策が 加速した。一方、「非軍事化」と「民主化」

の占領改革が骨抜きにされ、財閥解体の有 名無実化、賠償の中止、岸信介・児玉誉士 夫・笹川良一らA級戦犯容疑者釈放、朝鮮 学校閉鎖令と関西での非常事態宣言、公安 条例、また、国家・地方公務員の団体交渉 権および争議権を否認する政令201号が発 令されるなどした。

(14)  沖縄現代史研究では、1948年の状況に関し て、宮里政玄による研究等、対日政策の転 換であるNSC13シリーズにおけるアメリカ の対沖縄政策決定過程に関する蓄積がある。

宮里政玄『アメリカの対外政策決定過程』

(三一書房、1981年)、Robert D. Eldridge, 

 (New York: 

Garland Publishing Inc., 2001) 参照。しか し、1948年の東アジアの地域的構造変動の 影響、相互関係、あるいは国務省や軍部の アジアに対する認識や関与などとの関連に ついては、全般的な「冷戦の深まり」と説 明されるにとどまる。

(15)  ケナンのアジア視察については、宮里政玄、

前掲書、221〜222ページを参照。

(16)   Wiser to McCoy, 27 February 1948, RG 59,  740.00119  Control (Japan) file,  National  Archives at College Park ( 以 下、NACP と略す).

(12)

(17)   Cumings, ed., op.cit., p.23. さらに1947年11 月には、「朝鮮の領土が我々にとって決定 的な戦略的重要性がないのであれば、我々 が主に果たすべきことは、米国の威信をひ どく傷つけないようにして朝鮮から抜け出 すことである。しかし、その場合に、それ は米国が朝鮮を放棄するということを意味 するのではなく、朝鮮の向こう側に広がる 満州北部でのソ連の影響の除去を迫るよう にしなければならないことを覚えておくべ きである」と述べている。PPS13, “Resume  of World Situation,” 

, 1947, Ⅰ, p.776 (以下、

FRUSと略す). また、アジア視察の直前、

ケナンと会った国務長官ジョージ・マー シャル〔George Marshall〕は、ケナンが 朝鮮を視察することには疑問を呈してい た。Memorandum  of  Conversation,  19  February 1948, RG 59, Records of Policy  Planning Staff , Box 33, NACP.

(18)   “Conversation  between  General  of  the  Army  MacArthur  and  Mr.  George  F. 

Kennan,” 5 March 1948, FRUS, 1948, VI,  pp.699-702; “Conversation between General  of the Army MacArthur, Under Secretary  of  the  Army  Draper,  and  Mr.  George  Kennan,” 21 March 1948,  ., pp. 709-710.

(19)  Kennan  to  Marshall,  14  March  1948,  FRUS, 1948, I, pp.531-538. 加えて、ケナン は、フィリピンは政治問題で混乱しており、

ゲリラ戦争が激しく、また、外国軍撤退要 求が存在していることを懸念している。

1948年のフィリピンの状況は、植民地支配 によってもたらされた構造をいかに清算 し、どのようにして社会変革を成し遂げる かをめぐって、親米政権の下での長い政治 的社会的混乱のなかにあった。1920年代か

ら30年代にかけて、小作や小農を中心とす る農民運動が地主支配や植民地支配に対す る抵抗運動の母体となっていたが、これが 日 本 と の 戦 争 の 過 程 で フ ク バ ラ ハップ

〔Hukbo ng Bayan Laban sa Hapon(抗日 人民軍)〕として成長した。こうした勢力は、

1945年以後も小作の待遇改善や対日協力者 処罰を要求した。そして、フィリピン国軍 や警察による政治暴力が引き金となって、

中部ルソンを中心にいわゆる「フク反乱」

が激化した。「フク反乱」の過程では、米 軍のフィリピンからの撤退も要求された。

Benedict J. Kerkvliet, 

 (Lanham,  MD:  Rowan  & 

Littlefi eld, 1977, reprinted edition 2001); 中 野聡『フィリピン独立問題史―独立法問題 をめぐる米比関係史の研究、1929−46年―』

(龍渓書舎、1997年)を参照。事実上の内 戦状態にあったフィリピンに対して、1945 年から1948年後半までの間に、アメリカが おこなった軍事援助は総額 7 億2600万ドル に 達 す る も の と なって い た(Kerkvliet, 

., p.193)。

(20)  ケナンは朝鮮に軍事戦略的重要性や価値を 見いだしておらず、また、1947年から49年 にかけて、ケネス・ロイヤル〔Kenneth  Royal〕やドレイパー〔William Draper〕、

ロ ヴェット〔Robert Lovett〕 と いった、

ウォール街出身で、日本をアメリカの対ア ジア政策の中心的なものとして扱っていた 官僚たちもまた、朝鮮からの米軍撤退を支 持していた。Bruce Cumings, 

 (Princeton,  NJ:  Princeton  University  Press,  1991),  p.380.

(13)

(21)   Allison to Butterworth on Comments on  PPS28, 29 March 1948, RG 59, Records of  Policy Planning Staff , box 29a, NACP.

(22)  NSC8, The Position of the United States  with  Respect  to  Korea,  2  April  1948, 

, 1948, VI, pp.1164-1169.

(23)  Memorandum  for  Dupuy,  Lecture  on  Japan by Mr. George Kennan at National  War  College  on  19  May  1948,  20  May  1948,  RG  335,  Under  Secretary  of  the  Army,  Project  Decimal  File,  1947-1950,  Box 5, NACP. また、東京滞在中、ケナ ンが朝鮮を視察するかもしれないという報 道や噂があったが、ケナンは視察を断った。

Langdon to Secretary of State, 3 March  1948, RG 59, 740.00119 Control (Japan) 

fi le, NACP.

(24)  麗順反乱については、近年の韓国における 研究成果として、金得中「麗順事件と民間 人虐殺」徐勝編『東アジアの冷戦と国家テ ロリズム――米日中心の地域秩序の廃絶を めざして――』(御茶の水書房、2004年)、

135〜152ページを参照。

(25)  Bishop  to  Butterworth,  17  December  1948,  , 1948, VI, pp.1337-1340.

(26)  Butterworth  to  Lovett,  20  December  1948,  ., pp.933-934.

(27)  Sebald to Secretary of State, 14 September  1948,  , 1948, VI, pp.844-45. 

(28)  拙稿、前掲書、第 6 章「『シーツ善政』――

朝鮮戦争前夜の沖縄――」を参照。また、

ウェッカリングのUSAMGIKおよびUNTCOK での活動については、 , 1948, VI, p.1146; 

Bruce Cumings,  ., pp. 72-78を参照。

(29)  ウェッカリングは、1930年代初めに駐日米 国大使館付武官として東京で生活した経験 があり、流暢な日本語を話し、日本の帝国

軍人たちとも懇意であった。日本と日本軍 に関する知識、言語能力によって、第二次 大戦中には、ウェッカリングは米陸軍の G 2 専門の将校として、日系人を「再教育」

し、MISLS(Military Intelligence Service  Language School)に関わり、日系二世兵 士による情報部隊を組織した。ウェッカリ ングと日系二世の情報部隊との関係につい ては、James  C.  McNaughton,  “Nisei  Linguists and New Perspectives on the  Pacific  War:  Intelligence,  Race  and  Continuity,” Center of Military History, U.S. 

Army (2003年10月 3 日取得=http://www.

army.mil/cmh/topics/apam/Nisei.htm).  ま た、Brian Masaru Hayashi, 

 (Princeton,  N.J.:  Princeton  University  Press,  2004), pp.16-39.  John  Weckerling,  “Japanese  Americans  Play  Vital Role in the United States Intelligence  Service in World War Ⅱ,” Hokubei Mainichi,  27 October-5 November 1971を参照。

(30)  Arnold G. Fisch, 

 (Washington,  D.C.:  Center  of  Military  History,  U.S. 

Army, 1988), p.115. 

(31)  拙稿、前掲書、第 6 章「『シーツ善政』――

朝鮮戦争前夜の沖縄――」参照。

(32   USAMGIKの終了と1949年 7 月の在朝鮮米 軍の撤退後、再び沖縄に行くことになった シーツに対して、マッカーサーは「君は戦 争であの島を粉々に吹き飛ばした。だから、

私は君にそこに戻り、もう一度破片を一つ にくっつけて欲しいのだ」と言った。11月、

沖縄に移って間もないシーツは、クリス チャン・サイエンス・モニター紙の取材に 対して、「一筋縄ではいかない仕事になる

(14)

だろう。だが、朝鮮に比べれば、朝飯前だ」

と応じている。Christian Science Monitor,  18 November 1949.

(33)  また、宮里政玄は、シーツが「米軍政府政 策の正しさにたいする強い自信と、沖縄人 が『アメリカナイズ』されるべき従順な後 進民族であるという前提」をもち、「全琉 球人に健全な民主主義」を教えることを「使 命」としていたと述べている。宮里政玄『ア メリカの沖縄統治』(岩波書店、1966年)、

24〜32ページ。

(34)  “Far  East  Command  Reference  Book,” 

November 1950, RG554, Military History  Section,  Command  and  Staff  Section  Reports, 1946-1952, Box 32, NACP [ 沖 縄 県公文書館/資料コード0000105453].

(35)  Robert F. Futrell, 

 (Washington,  D.C.: Offi  ce of Air Force History, United  States  Air  Force,  revised  edition,  1981 

[original edition in 1961]), pp. 3-4.

(36)   ., pp.25-32.

(37)   ., p.36.

(38)   ., pp. 46-47, 67. ストレイトマイヤーは、

その司令官に、第二次世界大戦中、日本本 土に対する戦略爆撃に参加したオドンネル

〔Emmett OʼDonnell, Jr〕を任命した。

(39)   ., pp. 69-73.

(40)  Bruce  Cumings, 

 (New  York:  Modern  Library,  2010), pp. 10-14.

(41)  Futrell,  ., pp. 98-99, 102.

(42)   ., p.129.

(43)  Cumings,  ., pp.29-30.

(44)   ., pp.158-161.

(45)  Bruce Cumings, 

,  pp.750-751.  また、Roger 

Dingman, “Atomic Diplomacy during the  Korean War,”  , Vol. 

13, No.3 (Winter 1988-1989)も参照。

(46)  Bruce Cumings, “Spring Thaw for Koreaʼs  Cold  War?” 

, Vol.48, No.3 (April 1992).

(47)  Cumings,  pp.154-156. また、Conrad C. Crane, 

 

(Lawrence,  KS:  University  Press  of  Kansas, 2000), pp. 160-162.

(48)  これについて、アメリカ空軍大学〔Air  University〕の研究者は、灌漑ダムの攻撃 はあまり注目されないが、北朝鮮の経済の 根本にダメージを与え、戦後 3 年以上は効 果を発揮する、朝鮮戦争では最も重大な作 戦に位置付けられるべきだとしている。A  Quarterly  Staff  Study,  “The  Attack  on  the Irrigation Dams in North Korea,” 

 (The  U.S. 

Air Force), Vol. Ⅵ, No. 4, Winter 1953- 1954, pp.40-61.

(49)  アメリカでの報道は , June  20, 1953. ダム爆撃の報道は小さかったが、

この日の一面は、ローゼンバーグ事件で有 罪となったジュリアスおよびエセル・ロー ゼンバーグの処刑を大々的に伝えている。

(50)  Charles (Chuck) Overby,  Ph.  D.,  “B-29  Operations  in  the  Korean  War,  1953,” 

Veterans  for  Peace[https://www.

veteransforpeace.org/fi les/8514/2375/8157/

B29̲Operations̲in̲the̲Korean̲War-Final.

pdf(2019年 6 月21日取得)].

    チャールズ・オーバービーは、1926年モ ンタナ州生まれ。オハイオ大学名誉教授。

2017年没。第二次世界大戦末期、米陸軍航 空隊に所属、後に米空軍兵士として朝鮮戦

参照

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