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大正終 わ りの多喜二

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大正終 わ りの多喜二

倉 田 稔

目 次

はじめに

1 島田の怪我 2 家庭教師 3 手島の思い出 4 高崎 徹

5 武田蓮の思い出 6 武田の多喜二文学論 7 大山講演会

8 遊廓

9 伊藤整の小林多喜二文学環境論 1 0 満子 ( 捕)

1 1 瀧子の家出

は じめ に

これ は,小林 多喜二伝 の 1 5 で ある

1 島田の怪 我

大正 13 年 ( 1 924 年)12 月 27日に,小樽 ・手宮で火薬 の大爆発が起 きた。

信管 の事故 だ った。五丁 ( ‑ 5 百 メー トル)離 れていたが,嶋田正策 の勤 め

ていた事務 所 が壊 れ た。嶋 田 は 2 階 で仕事 を していたが, その 2 階が落 ち

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14 92

て, つぶれた。彼 は意識 を無 くした。意識 を回復 して, みて見 る と,血 が流 れていた。ガ ラスの破片が横顔 に刺 さ り,釘 が頭 を刺 していた。爆発 の勢 い は大 き く, レールが飛 んだ し,音 が札 幌 まで聞 こえた。嶋 田 は 20 日間,小 樽病院 に入院 した。多喜二 はす ぐ見舞 いに来 て くれた( 1 ) 。

2 家庭 教 師

上 山 ( 現姓)初子 さん とその妹 は, 当時,小林多喜二 の家 の近 くに住 んで お り, 2 人 は多喜二 に勉強 を教 わ った。 いわ ば家庭教師 を して もらった。彼 女 は語 る

多喜二 の家 は,小 さい二間 くらいの家 で あった( 2 ) 。朝, お餅 をついて,売 る。 また三星 パ ン( 3 )か らパ ンを卸 し, それ を売 った。質 素 な家 だった。 ご く貧 しい家 だ った。三星 に, お世話 になっていたので しょう

パ ン,鰻頭, お菓子 だ けな ら, しれてい る

あんな大 きな立派 な墓 を立 て られ る家 で はな い。 そのお金が ある家 で はない

(4)

0

昔 は,貧 しい もの は貧 しい,豊 かな者 は豊 かであった。隣 の家 の真似 はで きない。 いい ところ と悪 い所 の差 がす ごか った。多喜二が 「 不在地主」 な ど の ような小説 を書 くのは, 当然 だ。彼 は純粋 な人 だ ったんだ ろ う。

多喜二 の母 は,秋 田弁が強か った。素朴 な感 じで,頭 ( ‑精神) にスジが あった。毎 日,上 山 さんの家 に遊 びに来 た。か らだが細 く,小 さいが, シン

(1 )嶋田正策 さんとのインタビューから。嶋田さんは言 う,多喜二が庁商時代 に骨 折 して入院 した ( 既述)が,その時,見舞いに行かなかった。

しか し小生が思 うに,嶋田さんが多喜二の入院に気が付かなかったか,当時は見 舞 うほど 2 人が親 しくなかったのであろう。

(2 )家については,拙稿「 小林多喜二伝 ‑ 多喜二 と小樽 ‑ 小樽移住か ら小学校 卒業 まで 」 ( 『 人文研究 』86 輯)36 ページ,「 小樽高商入学の小林多喜二 」 ( 『 商学 討究 』4 5 の 3)47 ページ。

(3 )伯父の店。

(4 )多喜二の原稿料 ‑印税で作った。

(3)

が強か った。人 をうらや むわ けでない, あ きらめた ような人 生であった。

ある時, イ ンチキ医者が きた。耳 の悪 いの を直す とい う。三吾 ( 多喜二 の 弟)の耳か ら,大豆 の うるか した もの を,出 して, これが入 っていたか ら, 悪 か った と,言 った。母 は, これ を見破 った。 「 三 吾 は,生 まれ てか ら,耳 に入 った もの は, そんな もの ぐらいで はない, もっ と色々入 った」, と母 は 応 じた。 イ ンチキ医者 は逃 げた。

父 は,大 きな人 だ ったが,病身だった。人 と余 り話 を しなか った。

多喜二 は,高商時代,長 い黒 いマ ン トを着 て学校 へいった。家 で は,着物 が好 きで,大概, かす りを来 ていた。銀行 に就職 してか ら,急 にお しゃれ に なった。紳士 になった

体 が キチっ となった

彼 は,銀行員 にふ さわ しい, や さ男 で あった。 どこにあんな迫力 が あ り, どこにあんな フ ァイ トが あ る か,わか らない。彼 は,覚 めた感 じで人 を見 ていた。荒々 しい ことは言わ な い。悪 い ことと良い ことを呑 み込 んでい る感 じの,大人 だ った。上 山 さんの 親類 に重役 な どが い るが, そ うい う人 に対 してムキになった りしない。 そ う い う人 を憎 むのでな く, そ うい う体制 を憎 んだ。人 を憎 まないで,機構 を憎 んだのだ ろう。

胸 を張 った学生 で はな く,何 とな く隅の方で, ひ ょうひ ょうとしてい る感 じであった。色 白だ った。多喜二映画 の主演 をした山本圭 の感 じで あった。

あんないい男で はないけれ ど。多喜二 は, もの は言わない, い らない ことは 言わない。多喜二 は,物静かで,礼儀正 し く,や さしい人 だ った。や は り体 が細 く,小 さい。端正 な顔立 ちで,品が よい。普通 の人 と話 をす る人 で はな い。ただ し聞かれた ことは答 えた。

上 山 さんは,庁立小樽高女 に通 っていた。多喜二 は,彼女 たちに宿題 をだ

して,鉛筆 で何 か書 いていた。数学 と英語 を教 わ った。多喜二 が, 「 今 日は

おわ り」 と書 いて,終 った。 もう少 し英語 の字 を きれ いに書 くように,言わ

れた。彼女 は,英語 は,小樽 高商 出の小 川 成美先生 に教 わ っていた。高女 で

は購 買部 にパ ンが売 られ て いて,買 った こ ともあ る。 ( 彼 女 が 多喜 二 に教

わ ったの は,高女 2 年生 くらいの時 らしい。)

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多喜二 は,上 山 さんの家 の一部 を借 りて勉強 していた( 5 ) 。彼 女 は,多喜二 の家 に勉強 をLにいった。多喜二 は,友達 の多 い人 で, しょっち ゅう友達が きた り,彼が行 った りで,上 山 さんが多喜二 を訪 れて も,今 日はいないの, とい うことが多か った。月 に 2 度 くらい勉強 を見 て貰 っていた。 しか し, 2 カ月 くらい, いないので,教 われなか った こともあった。 それで, 自然 にや めて しまった。

多喜二 の母 は,水 にひた した た くわんを薄 く切 って,砂糖 を少 し入 れた もの を,上 山 さんの家 に貰 いに来 た。多喜二が その残 った汁 を好 きで飲 んで いた, と母 は語 った。母 は,彼 の こ とをア ンニ ヤ ( 兄, とい う こ と) と言

F= つ 。

弟 ・三吾 は,毎 日バ イオ リンの練 習 を した。父 と三吾 は,餅 つ きを しな か った。多喜二 は,三吾 には,薪 も割 らせ ない。三吾が手が固 くな るか ら, とい うわ けだ った。弟 には何 もさせ なか った。彼 が弟 のバ イオ リンを仕上 げ ようと思 ってい るのが分か った。三吾 は, 中川則夫 の本 当 に大事 な弟子 だ っ

た 。

妹 ・ツギは,上 山 さんの父 の会社 の事務員 をしていた。姉 ・チマ さんは椅 麗 な人 で,地 主 で お金持 ちの佐藤 さん と,結婚 した。別 に結婚 の披露 はな か っ

た 。

多喜二 の部屋 に赤 いカーテ ンが下が っていた。電気 をつ ける と,夜,外 に 赤 く出た。昔 は赤 い色 は珍 しい,特 に男性 で はそ うだ。

瀧 さん は, お とな しい,何 か の陰 を もった ような人 で, 「お そ ば屋 さんの 女 中」 だ った と理解 していた。上 山 さんの母 が,セキさん に, 「お嫁 さん ?」

と聞 くと,セ キ は, 「いい え,嫁 で ない んです よ

お嫁 さんだ った らい いで すが。」 と答 えた。上 山 さん は,だ らしが ない兄 さんだ と,思 った( 6 ) 。瀧 は,

(5 )瀧子が小林家にきて,自宅の 2 階を作 り,多喜二はそこを勉強部屋 とした とさ れるので,それ以前のことかもしれない。

(6 )結婚 もしていない女性 を家にいれるなんて, という意味であろう。

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2 階 にいた。顔 を満足 にあげない。彼女 は, いつで も手拭 い を下 げて,多喜 二 と 2 人 で,海 へ泳 ぎにいった。多分,多 喜二 だ けが泳 いで,瀧 は泳 が な か ったのか もしれない。

多喜二 に,映画 「 ベ ン ・ハ ‑」 を見 に連 れていって貰 った。多喜二 は,賛 美歌 「山路 こえて」 を歌 った。丸 い, い い声 だ った。だか ら,彼 は教 会 ‑ 行 った ことが あるので はないか。

戦前 に,小林家 を訪れた ら,特高 に引っ張 られ る と思 って,行 けなか った。

多喜二 の骨が戻 って きた とき,駅 に特高が沢 山 きて,人 を寄せ なか った。

上 山 さん は,多喜二 か ら,彼 のか いた水彩画 を 2 枚 もらった。生物 の花 と, 石狩 の絵 で,マス トが曲が っていた ものだ った。 その絵 に額縁 をつ けよう と

して,買 いに行 った。 そ こに多喜二 の筆 にな る と記 していた ら, その後,特 高が家 に入 った。彼 らは, それ はお金 をだ して買 ったのか, もらったのか, と恐 ろしい追求 で あった。 どうして多喜二 に部屋 を貸 したのか,多喜二が 1 人 でそ こへ居 たのか,友達 が きたか と, これ また凄 い追求 であった。上 山 さ

んの父 は,引 っ張 られ るか と,心配 した。 当時,多喜二 や共産 党 につ い て は,語 れなか った。 この絵 の話 も初 めて, ここで, した。共産党 は恐 ろ しい もの と思 っていた。犯罪者 どころで はない。殺 され るわ けだか ら

(7)0

3 手 島の思 い出

多喜二 が卒業 す る と同時 に,小樽高商 に手嶋恒二郎 が入学 した。手嶋 は学 生時代 に,多喜二家 を訪 れた。「あの頃,私 は まだ一介 の学生 で あったが, 小林氏 の方 は もう卒業 して いて,北海 道拓 殖銀行 のれ っ き とした行 員 だ っ た 。 」 ( 8 ) 手 嶋 は,多喜 二 に会 い に行 った の だが,結局 会 えなか った。 その 日

(7 )松崎彰男先生が上山初子 さんにインタビューした録音テープより。加川勝人 先生か らコピーを戴いた。会話の順序は入れ換 えた。

(8 )久城 寿右衛 門編著 『あ る情 熱 の記録 手 嶋恒 二郎伝』株 式会 社保 険研 究所

1 981 年 ( 以下, 『 手嶋恒二郎伝』 と略す) ,7 8 ページ。

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は,北 の国の小樽 といって も,なん とも暑 い 日で,多喜二 の家 の入 り口の戸 を開 けて, その狭 い部屋 に足 を踏 み入れた途端 に,熱気がム ッときた。彼 の 部屋 には, 1 枚 の絵 もな けれ ば, 1 輪 ざ L も置 いてなかった。部 屋 の広 さ は, 6 畳 ぐらいで,色 のあせた畳敷 き,部屋 の片隅 に, ち ょっ とした木製 の 物入れ,小 さなちゃぶ台, キチ ンと整理 された和机, それが全部だった。 あ とはすべて書類 の山だった。部屋 の片隅 に,本 当にキチ ンとたたみ上 げ られ た寝具があった。

壁一面 に留金 で とめ られ ていた北海道全域 の大 きな地 図, その地 図の上 には,至 る ところにメモ書 きが貼 りつ けられてあった。机 の上 には, どしっ と積 まれた原稿 用紙 の中 に,会計帳簿 の は しを切 り取 った よ うな ものが数 葉 あ り, その 1枚 1枚 に は,極々細 か い字 が びっ し りと書 き込 まれ て い た

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手嶋 は,下宿 の食事が終わ る と, よ く薄暮れの小樽 の町 を散歩 した。小林 家 の前 にさしかか る と, きまって美 しい提琴 ( ‑ヴァイオ リン)の旋律 を耳 にした。見事 な音 にはほ とほ と魅せ られ,時 には,随分 と沢 山の人々が立 ち 並 んで聞いていた。提琴 のひ き手 は,小林家の末男であった( 1 0 ) 。

4 高崎 徹

高崎徹 は,東京外語学校 を卒業 し,大正 1 4 年 ( 1 9 2 5 年) 4 月 に,小樽新 聞社貞 となって小樽 に来た。同時 に小樽高商 のロシア語講師 に もなった。彼

は書 く。

「その年 の十 月頃のある日に,始 めて小林 多喜二 に出会 った。 当時私 ( ‑ 高崎) は富岡町二丁 目で小樽駅 のす ぐ線路脇 の土手 の上 にある家 に住 んでい た。た しか 日曜 日だった

。」

「 玄関 に訪 う人 の声がす るので,降 りて行 くと, 黒 の背広 に黒 いボ‑ ミアン ・ネ クタイをした豊かな長髪 の蒔田栄一君が微笑

(9 )同 ,7 9‑8 0 ページ。ただし引用のさいに,省略を多用 した。以下,同様。

( 1 0) 同 ,81 ページ。

(7)

して立 ってい る。 そ して, その脇 には紺 がす りの和服 に袴姿 の学生 の ような 青年がい る

早速二階へ案 内 して炉辺 に」座 った。蒔 田 も東京外語学校 の出 身で,高崎 と見知 っていた し,高商 の英語講 師 をしていた。薄 田は言 った。

「 今 日は小林 多喜二君 を紹介 し, ぼ くらのや ってい る (クラル テ) に きみ も 入 って もらお う と思 って,二人 でや って きた。」小林 は懐 中か ら一冊 の (ク ラルテ) を取 り出 し, 「 小林多喜二 です

ペ コン とお辞儀 して 「 見 て下 さい」

と言 いなが ら雑誌 を私 に手渡 した。 その挙動がいか に も都会人 らし くない朴 とつ訴 さなので,第一 印象か ら全 く好感 が持 て,少 しのて らい もない誠実 な 人 間だな と感 じた。 この時 まで,多喜二 らは, 『クラル テ』 を第 4 韓 まで発 行 していた。多喜二 は, だか ら第一韓か ら 4 韓 までの何 か 1 冊 を出 したので あろう。高崎が 『クラルテ』 に入 ったか どうか は分 か らない。第 5 輯巻末 に は例外 的 に同人名が記 されていないか らで ある

第 5 韓 にある山後信 が高崎 でない とすれ ば,高崎 は,第 5 韓 に執筆 しなか った。

高崎 は書 く。「この時 まで私 は まだ小林 多喜二 を知 らなか った

。」

「さて, 私たち三人 の話題 は,世 間話 や社会 問題,政治問題 な どは‑切 な く,ただ文 学 に関す る ことばか りで あった。 まさに三人 とも単 な る文学青年で あった よ

うだ。多喜二 に,「日本 の作家 で は誰が好 きか」 とき くと,「 志賀直哉 です。

作 品 を送 って見 て もらってい ます」 との ことで あった。 まだプロレタ リア文 学 に走 って はいないが, しか し彼 の話 の節々 には, 当時 の 日本文壇 の作家 と 作 品 とに は不満 を持 って い る こ とが, はっ き り窺 えた。第 一, 同人 雑 誌 に

≪クラル テ≫ と命名 した こ とか らして も,す で にバ ル ビュス を愛好 してい る ことが知れた。

外 国作家 について大体私 [‑高崎] と共鳴 した作家 は, フランスで はフイ リ

ブ (ll)

, モーパ ッサ ン, ゾ ラ, ユー ゴー, ス タ ンダール, ロマ ン ・ロ ラ ン な どであった。私 [ ‑高崎] は,専門の ロシア文学以外 には, その頃特 にス

( l l )Char l e sLoui sPhi l i ppe , 1 8 7 4 ‑ 1 9 0 9 . フランスの小説家。ポピュリス ト‑民衆作

家。作品に,『 母 と子』1 9 0 0 ,『ビュビュ ・ド・モンパルナス 』1 9 0 1 などあり。

(8)

2( フ 人 文 研 究 第 9 2 輯

カ ンジナ ビアの もの に興味 を持 って いた ので, クメー ト ・ハ ム ス ン( 1 2 )や ス トリン ドベ リ, イプセ ンな どを語 り出す と,や は り彼 も読 んでいて,「 好 き だ なあ /」 と,共 鳴 して くれた。 ロシアの作 家 で は,や は り トル ス トイ と ゴー リキー とを,彼 は最 も敬愛 していた。話が はずんで,以上 の諸作家 の作 品 について, その思想性 に関 して はあ ま り論 ぜ ず, む しろ主人 公 の性格 と か,場面,雰 囲気 の描写 とか, そ ういった ことについて, いか に も文学青年 的 に熱 っぽ く語 り合 った ものだ った。例 え ば, ゴー リキーの初 期 の もの,

≪チ ェル カ シ≫ とか, ス トリン ドベ リの く 赤 い部 屋) とか,ハ ム ス ンの く 飢 え) とか等々,で あった。

要す るに, その時 の多喜二 は, ロマ ンチ ックな ところが多分 にある理想主 義者 で, しか もまたエネルギ ッシュな熱 っぽい もの を持 っている とい う印象 を,私 [‑高崎] は うけた。会談 は約三時間 ぐらい も続 いた。初対面 として は大変長 いが, そ こらの ところ も,呑気 な文学青年同志 の場合 は, めず らし い こ とで はない。 じっさい, この 日は,私 に とって は愉 快 な有 意 義 な 日で あった

。」

「 二人 を送 って富 岡町 の通 りを行 くと,夕陽がすで に 日光院 の後 の 山蔭 に去 っていて, そ この山 も,市立高女 の裏 山 も,一面 に唐錦 の ような紅 葉 であ」つた( 1 3 ) 0

5 武 田蓮の思 い出

武 田遥 ( 後 の中津川俊六) は書 く。

「 小林 との交遊 は,彼 が高商 を出て拓銀 に入 ってか らの十年 ほ どであるが, その間,小林 は思想 的 に も文学 的 に もぐん ぐん とじつ にす ぼ らしい成長 と発 展 とが あって,私 との距離 はみ るみ るうちに遠 くなって しまった けれ ど, と

( 1 2)KnutHams un,1 85 9‑ 1 9 52 . ノルウェーの小説家。代表作 『 飢 』1 8 88 ,『 土の恵 み 』1 91 7 で,ノーベル文学賞。

( 1 3 ) 高崎 徹 「 多喜二 と会った日

」 (

『 緑丘』4 2) ,2 7 ページ。引用文中に,時に読

点を入れた。

(9)

いって友人 としての交遊 にちっ ともひびが はい らなか ったの は,不思議 であ る。」

「 小林 は風 呂なぞ は時間が 惜 しい といって,三 月 くらい入 らな くて も平気 だ ったが,油気が人 よ り少 ないせ いか, その割合 いに皮膚 が汚れていない。

しか し, た まに銭湯 にい くと,風 呂代 を倍額 おいて,二人分 ゆっ くり入 るよ と,番台 に ことわ って,事実, まことにのんび りと時間 をか けて洗 い出すの で,一緒 に入 って い る私 は, あ ま りに も長 いので手持無 沙汰 になって しま う

小林 とい う男 は,何 んで もとことん まで追求す る。頭 とか らだで納得す る まで は止 めな い。風 呂に して も,入 らな けれ ば三 月 も入 らないで平 気 だ が,入 った となる と風 呂に入 る目的 を十分 に完全 に果たすので ある。小林 を 裸 にす る と面 白い。丈 は五尺 そ こそ こで,肌 はなめ らか に白 く,手足 もきゃ しゃで,大人 らしい骨格 を持 っていない。顔,頭 は大人 だが,か らだつ きは まるで十二,三 の子供 だ。最初 に銭湯 にいった時 なぞ は,私 は大 きい方 なの で, こんな少年 を友人 に している自分 が阿呆 らし く, くす ぐった くて しょう が なか った。

とことん まで追求 して止 まない小林 の この性分 は,天下一 品であ る

彼 は 銀行 を退 ける とまっす ぐに家 に帰 る 日は,一 年 を通 して数 え るほ どしか な い。 したが って夕食 は町でたべ る。たべ ものの話 だが, た とえば, どこそ こ の トンカ ツが うまい とな る と, その店 ばか りに続 けて何 回 で も通 うので あ る。毎 日, その トンカ ツのお相伴 にされ るこち らが まい って しまう。 さてそ の店 を卒業 ( 彼 はよ くこの卒業 とい う言葉 を使 う)す る と,別 の トンカツ屋 へ まえ と同 じように通 うのだ。 そ して この二つの店 の トンカツを比較研究 し て, その うまさ, まず さをきめるわ けで ある。味覚 もここまで くる と味気 な いが,小林 は これで十分 たんの うしてい る。」 ( 1 4 )( テ ンを補 った。)

( 1 4 ) 武田 「 大 きな子供 」 ( 『 緑丘 』4 2 ) ,2 6 ページ。

(10)

22 人 文 研 究 第 9 2

6 武 田の 多喜二 文 学論

高商 を卒業 した ころの多喜二 の文学 について,同 じ 『クラル テ』同人 と なった武 田過 は書 く。 ( テ ンを補 った。)

小林 の諸作品 は,「『クラルテ』 をはじめてか らの作品 を通 してみて も,や は り自然主義 を基調 とした ものであった。 これ は私 [ ‑武 田]だ けの見方で はなか った, とい うのは,同人仲間で小説 の研究会や合評会 をさかんにや っ たが,小林 の作品 は,いつ もみんなか ら, 自然主義的 に古い, とい う批評 を 受 けた。小林 はそれ を非常 に気 にしなが ら, これで もか, これで もか と,つ

ぎつ ぎに小説 を書 いた。

その ころの 日本 の文学 は, 自然主義 が ほ とん ど主流 的 な力 をよわ めてい て, それ に代わ るもの として, 白樺派 の人道主義文学があった し,つづいて 芥川龍之介,佐藤春夫 を先頭 とす る新 ロマ ンテ ィシズムが勢 い を得 ていたの である。 しか し,小林 はどうい うわ けか, この 自然主義以後 の新 しい文学運 動 には無感動 にちかい姿勢 を とっていた。意固地 な までにこの 日本 の新小説 にふれ まい とす る気構 えさえ見 えた。小林 には新 をもとめてそれ におぼれ る ような軽 はずみな ところがみ じん もなかった。

小林 の小説勉強の対象 は, ほ とん ど外国文学 に限 られていたのであった。

それ も‑‑ゲーテな らゲーテを, 1 年 も 2 年 もか 、つて, それ にばか り食 い 下が っていた。彼 は卒業 とい う言葉 をよ くつか ったが,ゲーテ をや っ との こ とで卒業す ると, こん どは トルス トイを 1 年生か ら勉強 して卒業す るまでそ れ をつづ けた。 しか し,彼 に とって卒業 とい うことは,単 にその作家 の もの を全部責了す るばか りを意味 しなかった。大事 な ことは卒業論文 を書 くこと で, 自分 のゲーテ観, トルス トイ観 を組 み立 て るにあった。専門の外国文学 研究者 な らともか く, 自分 の小説 に血 肉 をあた えるために,彼 はこうして丹 念 に, ほ とん ど徒労 にひ としいか とお もわれ る努力 をつづ けなが ら,外国の 古典 としてゆるぎない大文学 にたちむかったのであった。

小林 の文学 の土壌 は,明治の 自然主義であったが, それ を育 て,発展 させ

(11)

た ものは,・ ‑‑外 国文学 で, そのために,つい に大正期 の新文学 の影響 を こ うむ る ことがなか った。 これ はおそ ら く小林 だ けにか ぎられた特殊 な文学巡 礼で もあった。 しか し,かれの この文学巡礼 の道 しるべ はつね に リア リズム にあるのであって,だか ら大正期 の新文学 の中 にその リア リズム を発見 で き なか った といった方が,小林 のために も妥 当な見方であ ろう・ ‑‑。 た ヾ,異 例 として,志賀直哉 が あげ られ るけれ ど, これ とて も自然主義 のただ しい後 継者 としてのただ一人 の作家で ある志賀直哉 で あってみれ ば,小林 が いか に リア リズムの追求 にその文学 的 けっべ きを持 していたか とい う証左 となるだ けで, けっ して異例 だ とはい えない。 」

「 小林 の リア リズム は,小林 に とって は,か けが えのない絶対 唯一 の もの であった・ ‑‑。彼 の作品活動 をみてい る と, それが じつ にはっき りと判 るの で あった

」 ( テ ンを補 った。)

「 小林 の リア リズム は, しか し,小林 自体 にふか く喰 いい るばか りで,つ いに横 ‑のひ ろが りを持 つ ことがで きなか った。だか ら彼 は, いわ ゆる私小 説 の作家 として完壁 にちか い ところへ まで肉薄 していた けれ ど, この私小説 作家が 「 蟹工船」か ら 「 党生活者」 にいた るまでの幾つかのプロレタ リア作 品 を書 きつづ けたので あった。破綻 は当然 だ った。長編 に欠 けてはな らぬ立 体観 と構成力が, いずれの作 品 に も希薄 であった ばか りで な く,大事 な こと

は,小林 の リア リズムが, そのいずれの作 品 において も,作家 とお もわれ る 主人公 を描 くに成功 してい るだ けで,数多 い登場人物 に彼 の リア リズムの手 がついに及 ばなか った こ とで あった

」(15)

これ らの指摘 はほ とん ど正 しい し,非常 によ く多喜二文学 を見 てい る

だ が,「 破綻」 とい う一点 だ けは,疑 問 で あ る。 また多喜二 を私小 説作家 とし て見 てい るの も,部分 的 には間違 いであ る。

( 1 5 ) 武田 「 回想の小林多喜二 」 ( 『 小林多喜二研究』 ) ,2 1 4‑21 7 ページ。

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24 人 文 研 究 第 9 2

7 大 山講 演 会 手嶋 は書 く。

そ うい うさ中 ( ‑軍教事件,別稿 で扱 う)の ことであった。東京か ら早稲 田大学 の大 山郁夫( 1 6 )が,マル クス 『 資本論』の研究者 として名 をな してい た櫛 田民蔵

(17)

と連 れだって来道 した。

さて,大 山郁夫 ( 1 8 8 0‑1 9 5 5 ) は,早稲 田大学 を卒業後,欧米 に留学 し, 帰国 して早大 の教授 になった。彼 は,学生 の軍 事教練 に反対 した 。1 9 1 5

に辞職 して,大阪朝 日新聞社 の記者 になった。だが シベ リア出兵 に反対 して 退社 した 。1 9 1 8 年,吉野作造 ( 1 8 7 7‑1 9 3 3 ) ら と繋 明会 を組織 した 。1 9 1 9

午,長 谷 川如是 閑 ( 1 8 7 5‑1 9 6 9 ) ら と雑誌 『 我 等』 を刊行 した 。1 9 2 3 年,

早大 の軍事化 に反対 した。

もう一人 の,櫛 田民蔵 (くしだ た み ぞ う, 1 8 8 5‑1 9 3 4 ) は,京 大 卒 業 後,大阪朝 日の論説記者 になった。同志社大学教授 を経 て,東大経済学部講 節, そ して 『 我等』の編 集 にに加 わ った 。1 9 2 0 年,森戸事件 を きっか けに 辞職 し,大原社会問題研究所員 になった。 ドイツへ留学 し,帰国後,マル ク

ス経済学 に向い,有力 な理論家 になっていた。

手嶋 は続 ける。

小樽 ( 高商)の大講堂で も, この 2 人 の,長時間 にわた る公 開講義が催 さ れた。 [ 大 山の]講義 内容 は,政治 と社会 と大衆 とを結 びつ けた [ ,]学問的 講演 とい うよ りは,政 治的啓蒙演説 とい う調子 で あった

(1

8 ) 。 それで も, あ の真面 目な学者であった大 山の講演 は,先生独得 の若干 どもりがちの, しか し頗 る情 熱 の こもった もので あったか ら,聴衆 の多 くに多大 の感銘 を与 え

( 1 6 ) その後,大山は ,1 9 2 9 年,労働農民党中央委員長になり ,1 9 3 0 年に衆議院議

員に当選 したが,弾圧のために ,1 9 2 3 年にアメリカに亡命 した。戦後,帰国した。

『 全集』 5 巻あり

( 1 7 ) 『 櫛田民蔵全集』 5 巻あり。

( 1 8 ) 『 手嶋恒二郎伝 』8 2 ページ.

(13)

た。

櫛 田の講 義 も同様 で, 「 私 は 『 資本論 』 をい ままで に五十 四 回 も読 みか え しました」, とい う言 い出 しに始 まった, いか に も淡々 とした話ぶ りは, 『 資 本論』 の研究等が多 くの人々 の間で熱心 に進 め られていた折 りで あっただ け

に,大 山以上 の深 い印象 と収穫 を与 えた ようだ った。

それ に して も,全 く新 しい体制 を目指す二人 の学者 を小樽 の学校 に誰 の企 画で呼ぶ ことにしたのか。 ただ そ うい う突飛 な企画 の実現が可能 であった と い う状況が, あの学校 にあった ことは確 かな事実で ある( 1 9 ) 0

2 人 はその後,札幌 を振 り出 しに,道 内各所 の巡 回講演 に出か けた。

8 遊廓

多喜二 は,遊廓 に遊 びに行 った ことが ある。 これ は伝説 なのだが,多喜二 はしか し女性 を抱 いたので はない とされ る。実際 はそ うい うことはない。 当 時 の 日本 男性 は,女 を抱 いた ので あ る

多喜 二 が女郎 屋 で女性 と寝 なか っ た,話 だ けして帰 った とい う話 は,多喜二本人 が振 りまいたのか,母 が多喜 二か ら聞 いて振 りまいたのか,分 か らないが,近所 で もそ う思 われていた。

例 えば,幸 さんの友人 ・二木初子 ( 新姓) さん も, そ う聞いてい る。多喜二 は,女郎屋へ行 った主人公 が女性 と寝 ないで,話 だ けを してか えって くる と い う小説 を書 いた。 そ うい うことで伝説 になったのだ ろう。ただ し,友人が

しじゅう遊廓 へ行 くのに,彼 はなかなか行 かなかった。 それ に また,多喜二 は,遊廓 に行 くようにな るまで は,友人 たちが女性 を人 間 として見 ていない こ とに反発 を していた 。1 9 2 6 年 8 月 の 日記 で は,友人 ・斉藤 を批判 して い る。斉藤 は,女 を,つ ま り淫売婦 をふ みにじってや る, と言 う。多喜二 は, それ は淋 しい ことだ と,慨 嘆 す る

「 性 的要求 は俺 だ って も感 ず る。が, そ のハ ケ ロ を考 えれ ば, その道徳観 念 か ら, 出来 るだ ろ うか

。」

「 何 ん と云 っ

( 1 9 ) 同,8 3 ペ ー ジ。

(14)

26 92 輯

た って駄 目だ

。」

「 俺 は俺 の道 を行 こう。 とう/【 \俺 は独 りになって しまっ た

」(

2 0 )と書 く。多喜二 は この点で,正義感が非常 に強か った こ とが分 か る。

しか し 1 9 2 6 年 1 0 月 に, とうとう多喜二 も遊廓 に足 を運 んで しまった。批判 していたた った 2 カ月後 である

当時 の男性 は,病身でな けれ ば, ほ とん ど 女 を買 った もので ある

多喜二が遊廓 へ行 った話 の一 つ は,一緒 だ った嶋田正策 さんか ら,小生 は 聞 いてい る

プ ッと吹 き出す ような話 で あ る。だが, 「 誰 に も言わ ないで下

さい よ」, と言 われたので, ここで は紹介 を差 し控 える

多喜二 は何 回か遊 廓 に行 ってい る

日記 に もそれ を隠語 で記 してい る。 しか し何 回か行 った う

ちの 1 回か 2 回 は,女性 と寝 なか った こともあ りうる

実際 は,遊廓 へ行 っ て女性 と寝 た とみて差 し支 えない。寝 なか った とい うの は,伝説 にす ぎない

し,不 自然 である。

多喜二が遊廓 に初 めて行 ったの は,恋人 ・田口瀧子が 自分 の家 にい る時で あ る。瀧子 はそれ を知 った に相違 ない。 もしか した ら,す ぐ後 に彼女が行動 す る瀧子 の家 出 は,多喜二 の遊 廓 行 きに関係 して い るか もしれ ないので あ

る。

9 伊 藤整 の 小 林 多 喜 二 文 学環 境 論

作家 ・伊藤整 は, い くつかの ところで,北海道 と小樽 とその時代 とを関連 づ けて,小林 多喜二 を論 じてい る。 それ を紹介 しよう

「 北海道人 の生活 意識 は, ナイチ ( 内地)

(21)

の人 達 の それ よ りも,大 マ カ で,形 式 に こだわ らない。」北海道 は, 「自然 の力 の人 間生活 に対 す る圧力 が かな り大 きい

」 「 北海道 で は, 自然 に抵抗 す る文化 の伝統が浅 く,新 し く, かつ臨時 的,植民地 的で あ るか ら, 『この土地 で は人 間 の生活 はいつ 自然 に 負 けるか分 か らない』 とい う不安定感 が ある。 」

( 20) 『 小林多喜二全集』第 7 巻,新 日本出版社 41 ページ。

( 2 1 ) 北海道では,おか Loことに,北海道以外の日本 を,内地 という。

(15)

伊藤 は, その意識 の悪 い面 をのべてか ら,言 う

「しか し,同 じ意識 が良 い形で も働 く。新式 の機械,新 しい農耕法な どを使 うことをタメラワズにす ること

義理や人情 や代々の シキタ リを,軽 く見, さして恐れない こと。実 力 のある人間が ドシ ドシ仕事 をす るの をネタンだ り, ソネ ンだ りす ることが 少 ない等である

そして当然芸術 の面 で は,美意識 の伝統 を無視 して」 しまう

(22

) 。「 新 しい 思想や新 しい理論 を尊重す る現れ となる

文学方面 では,小林多喜二,島木 健作,本庄陸男,亀井勝一郎 とい うような,マル クス主義 の作家 また は, こ れ を通過 した文士 を生 み出 している

だか ら,反面で は文章が美 しい とは言 われない。

そして この四,五人 の文士たちには, 日本 の俳句や短歌や能やカブキの世 界 にあるような伝統 の美意識が ない

。」(23)

ついで,伊藤 は,当時の小樽 の文学状況 を語 る

「 大正十年 ころか ら昭和初年 にか けての小樽 と札幌 には, い ろい ろな文学 上 の芽 ばえが あ り,小林 多喜二 の加 わっていた 『クラルテ』 とか, 『 北方文 芸』の ほか に,私 が友人 と出 した 『 青空』 とか 『 信 天翁』 とい う雑誌 もあ り,文学上 の先輩 も多か った。古い人で は,小 田観蛍,遠藤勝一,歌人 とし て大熊信行,並木凡平, 山下秀之助, その他多 くの人がいた。 まだ ものは書 かなかったが,当時札幌 に,島木健作 もいたのであ り, また後 には書 くこと をや めたが,武 田遅 とか平 沢 哲 夫 な ど も,才 能 の あ る人々 で あった

。」(24)

( テ ンを補 う。)

『クラルテ』 は,事莱上,小林多喜二 が主宰 し, 『 北方文芸』 は,那珂 捷 ( 小樽高商,昭和 2 年卒) らが出 した( 2 5 ) 。平沢哲夫 は高島の人 である

( 22) 『 伊藤整全集』第 2 3 巻,新潮社 昭和 51 年 ,32 9 ページ。

( 23) 同 ,33 0 ページ

( 24) 同 ,24 巻 昭和 51 年 ,307 ページ。

( 25) 那珂 「 小樽夜景 」 ( 『 緑丘』6 2 号)0

(16)

28 人 文 研 究 第 9 2 輯

伊藤 は書 く。 「 高 田紅果 ‑‑が, 『 群像』 ‑‑ によ く作 品 を発表 していた。

また山下秀之助氏 が小樽病院 に医師 として赴任 したの も, それ に続 いた頃で あ り, ‑‑私 が 20 才 の‑‑時 には, 山下 さん を中心 に して歌 よみの グルー プが作 られていた. ‑・ ・ ・ 片 岡亮一 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 蒔 田栄一 . I ‑・ その他, 山内,吉 岡 とい うような人々が入 って,多分 『 新樹』 とい う雑誌 を出 した のは, このグルー プの仕事 で\ あった と思 う( 2 6 ) 0

また この土地 の 『 小樽新聞』 とい うのが あって, そ こには口語歌人 の並木 凡平 とい う人 が いた。小樽 中学 には小 田観 蛍 さんが いて

,」(27)

小 田 は小樽 で 最 も有名 な歌人 になる。

「 大正一 三 年 ころに, 山下秀 之助 氏 が小樽 病 院 へ赴 任 して きた機 会 に,

・ ・ ‑・ 片 岡 と・ ‑・ ・ 山内実君 な どが, 山下 さん と一緒 に歌 を作 っていた。 」

(28)

「‑・ ‑ また武 田遅 さんが,小樽 中学 で私 よ り 1 年上級 にいて, この人 は中 学生 なのに,ふ しぎに老熟 した小説 を書 いていた。 その ころ武 田君 たちの出 していた 『 群 像』 とい う雑誌 は, 田舎 で見 る こ とので きない立派 な もので あった

。」(29)

「その 『 群像』 には,明治 11年頃 に小樽 に啄木がいた時 にその弟子 になっ た高 田紅果 さんが,歌 を発表 した りしていた。 ‑‑‑この雑誌 によって,小樽 の文学史 の石川啄木以来 の一脈 のつなが りが,高田紅采 を とお して,武 田進 や私 な どに までつなが る可能性 が あった

。」(30)

「また小樽 高商 には,や っぱ り啄木 系 で短歌 の革新運動 を行 った 『まるめ ろ』 の主宰者大熊信行氏 が,若 い教授 として来 ていて‑

‑ 」(31)

と書 くが,た だ し,大熊が 『まるめろ』 を出 したの は,後年 の ことで あ り, また大熊 は小

( 26) 『 新樹』は,片岡や佐々木妙二 らが創刊 した短歌の同人誌であった。

( 27) 『 伊藤整全集 』24 巻 昭和 51 年 ,41 0 ページ。 ( 時にテンを補 う。 ) ( 28) 同 ,4 40 ページ。

( 29) 同 ,4 39 ページ。

( 30) 同 ,4 39‑440 ページ.

( 31 ) 同 ,440 ページ。

(17)

樽時代 は文学 をや っていない。

「 地 方文壇 的動 きで はあったが,天才的 な ところのあった並木凡平 とい う 口語歌人が, 『 小樽新聞』 を舞台 として, 日本 の他 の地方で は見 られない幅 の広 さで口語歌運動 を展開 していたのである

。」(32)

伊藤整 を文学 に導 きいれたのは,先輩 の北見悔吉 ‑鈴木重道である( 3 3 ) 0

「田居 尚 ( 川 崎 尚) とその従弟 の川崎昇 も,歌 を作 っていた。 この二人 が 中心 になって, 『 青空』 とい う雑誌 を出 していた。‑‑高商 生 だった私 ( ‑ 伊藤)がその雑誌 に引 き入れ られ,川崎昇 と二人で・ ‑‑高商石鹸 を売 って雑 誌の資金 を作 った。

‑・ ‑私が小樽市立 中学 に勤 めていた頃,私 と川崎昇 とは,当時の小樽 の電 気会社 の支社長 をしていた河原直孝氏 の息子 の河原直一郎 とい う詩 を書 く同 年の友 を得た。のちに河原直孝氏 は小樽 の市長 になった。 この河原君 に金 を 出 して もらって小樽 で私 た ちの作 った詩 の雑誌 に, 『 信 夫翁』‑

‑ 」(34)

が あ る

「 だか らその時小樽 で出 ていた雑誌 は, ここに挙 げた ものだ けで も, 『 群 像』 『 青空』 『 新樹』 『クラルテ

『 信天翁』 な どがあるのだか ら,人 口十二, 三万 の地方都市 として は,文芸が盛 んであった‑

‑ 」(35)

「 遠藤勝一が,た くぼ く系 の歌風 に拝情味 を加 えた歌 を作 っていて,新潮 社か ら歌集 を一冊 出 してい ます。 」( 3 6 )『 林檎 の花』である

札 幌 に は そ の 頃, 『 路 傍 人』 (?) とい う立 派 な歌 の雑 誌 が あ り ま し た

(37)

0

「 小樽 とい う商業都市 は, その頃,奇妙 に芸術 的な動 きの盛 んな ところだっ

( 3 2 ) 同 ,4 4 0 ページ。

( 3 3 ) 同 ,2 3 巻 昭和 5 1 年。

( 3 4 ) 同 ,2 4 巻 4 4 0 ページ。

( 3 5 ) 同 ,4 4 0 ページ。

( 3 6 ) 同 ,2 3 巻 昭和 5 1 年。

( 3 7 )同。

(18)

30 9 2 輯

。」(38

) 伊藤が 「 交際 していた小樽 の文学 青年 には,歌 よみが多 かった。大 正末年頃 は,小樽,札幌地方 は,異常 なほ ど歌 の盛 んな ところだった

。」(39)

「そ うい う文学的風土 のなかか ら小林 多喜二が出て,小説家 になったので ある

彼 をただプロレタ リア文学の作家 として扱 うことは,必ず しも彼 の全 体 を語 ることにな らない。た また ま彼が そうい う思想 の線 でその文学的才能 を伸 ば したのだ, と私 としては考 えたいので あ る

。」(40)

この理解 は,大 きな 日で見 る と正 しい ものであろ う。

一 方,伊藤整 は, 自分 の初 めての詩集 『 雪 明 りの路』 を出版 す る。 それ は,大正 も終 る直前であった。

1 0 瀧子 ( 捕 )

田 口瀧子 について,実弟 ・宮野 駿 が,少 し述 べ てい るので

(4

1 ) ,紹 介 し てお く

タキが生 まれたのは,明治 41 年 5 月 9 日,小樽 区色 内町 48 番地 哀1( カ ネイズ ミ)蕎麦店, 田ロ トモ方である

父親 の玉蔵 は, この店 の住 み込 み蕎 麦職人で,母親 のキクノは,田ロ トモの腹違 いの妹で,秋 田か ら姉 を頼 って 北海道へ渡 って きた。

哀1 育麦店 は,部屋数 の多いかな り大 きな家 だった。大正 4年 の地番改正 で色内町 2 丁 目 6 番地 になった。

玉蔵 は,大正 2, 3年 ごろ, トモの力添 えで,暖廉分 けの格好 で,高島市 街 の中心部 , 12 番地 に,初 めて店 を構 える

当時,高島 は小樽 の隣村 で あ る。店 は腰掛 け程度 の狭 い店 だった

のれんは 哀1 で,青麦 の味が よかった

( 3 8) 同 ,24 巻 ,439 ページ。

( 39) 同 ,41 0 ページ。

( 40) 同 ,307 ページ。

( 41) 宮野駿 「 哀しきルーツ探 し 」 ( 『 月刊おたる 』19 92 年 1 0 月,平成 4 年 1 0 月号,

通巻 340 号。 ) 22‑25 ページ。

(19)

らし く,出前が多 く結構 いそが しかった。屋台 を曳いた事実 はない。

田口蕎麦店 は, この後一時小樽 へ移 り,稲穂町の中央座 の向いの方 に店 を 張 ったが, ほんの短期間で,再 び高島村へ戻 り, こん どは前 の店 とは道路一 本挟 んで向い側 の十番地 にやや大 きな構 えの店 を出 した。

タキは 1 年生の時か ら高島小学校 へ通 った。 3 年生 ぐらいか らは,学校 か ら帰 る と子守 をさせ られた り蕎麦 の出前 をや らされた りして,休 む間 もな く 家業 を手伝わ された。

高島暮 し約十年,子 ども 7 人 を抱 えなが ら,玉蔵, キクノ夫婦 は,商売 に 失敗 して,店 をたたみ,大正 1 1年 の暮 れ,親子 9 人 が夜逃 げを し,玉蔵 の 出身池,道南 の森町へ遁走す る

しか し尾 白内の実家 もさして頼 りにな らず,森 の駅前 に蕎麦屋 の看板 を出 した ものの,急迫 し, 1 5 歳 のタキを室蘭の怪 しいカフェー‑売 った。

一家 は再 び小樽 へ戻 った.長橋 町 6 2 番地 に借家住 まい を し,玉蔵 は,慣 れぬ 日雇 いをして細々 と喰 いつないでいた。

大正 1 2 年 1 2 月 1 9 日の小樽新聞朝刊 の第 4 面 に, 「 小樽 の樺死者」 とい う 一段 見 出 しで 「 十七 日午後 六 時五 十 三 分小 樽 築 港 南 小樽 間一 五 九 哩 二鎖

( チェー ン)付近 に小樽末広町二一番地 田 口玉蔵が樺死 してい るの を同所 を 通過 した貨物第一五三列車 の乗務貞が発見 した」 と報 じた。

末広町 は玉蔵 の本籍。当 日, ものす ごい吹雪模様 だった。

大正 1 2 年 の暮 れ,玉蔵 に死 なれたキクノは, この年か ら翌年 にか けて, 4 人 の子 どもを次々 と養子 に出 し,長男秀雄,三女 ミツ,六女静枝 の三人 の 子 どもを伴 って,稲穂町西 3の 2 7, 日雇 い労働者若月金次郎 と再婚 す る

四女の ミ子 ( みね) は, この時小学校 2 年生で,竜宮神社下角 にあった鳥 料理専門店 「 千代本」,丹野 ち よ方へ,五女 シゲ を稲穂 町西 5 の 3 ,港湾労 務者奥野初次郎,八重夫妻方へ,七女 シエ ( スヱ)

(42)

は稲穂 町西 8の 9,鍛

( 42) ここで,三女,四女,五女,六女,七女 と表現されているが,普通でいう次女,

三女,四女,五女,六女であろう。そのままにしてお く。

(20)

3 2 人 文 研 究 第 92 輯

冶職佐藤半平, くに夫妻 方へ, そ して末子 だ った次男 の宮野 は,大正 1 3 年 2 月 1 2 日,稲 穂 町東 2 の 1 9 ,洋 品小 間物 店 宮野 要十 郎,美代 夫妻 の も と へ, それぞれ貰われていった。

11 瀧 子 の 家 出

小林家 に厄介 になっていた多喜二 の恋人 ・田 口瀧子 は ,1 926 年 ( 大正 1 5 午) 1 1 月 1 1日に,家人 の誰 に も悟 られ ない ように して多喜二 の家 を出た。

多喜二 にあてた一道 の手紙 を残 した.

多喜二が東京へ出て勉強 したいために, 自分がいた ら色々 な点 で多喜二 を こまらし, まつわ ることになるだ ろう

家 出 をして も決 して堕落 の道 はた ど らない。多喜二 を東京へ出すた めに自立 してゆ く, とい うもので あった。

多喜二 は書 く。 「 俺 が東京へ 出て勉 強 したいた めに, 自分 が いた ら,色々 な点で俺 を困 らし,纏 ることになるだ ろう, とい う考 えである。

家 出 を して も決 して堕落 の道 はた どらない, とい うことを書 いてあ る。」

「タキ子 は俺 を東京 へ出すために, 自立 していゆ く, とい う

。」(43)

弟 ・宮野 あて手紙 で は,瀧 は書 く。 「 私 は小林 にふ さわ し くない女 だ。 お 別 れ しなけれ ば と思 ったのです。 そ して決心 して小林 の家 を出た訳 なんです が,・ ‑・

・」(44)

姉 のチマ は言 う

「 家 に来 てか ら, タキちゃんが一度家 出 した んで す。気 持 ちの負担 といい ますか,皆 に親切 にされ るんで, とて もつ らい,つて

。」(45)

タキ は,多喜二 の家 を出 る時 の気持 ち を語 った時, 「お借 りしたお金 は, 何 としてで も,働 いて返 そ うと思 って」 と,弟 に言 った

(46)

。 こ こで言 うお 金 とは, もち ろん身請 けされた時 の金 であ る

( 4 3 ) 『 小林多喜二全集』第 7 巻 ,8 4 ページ。

( 4 4 ) 宮野駿 「田口タキ 」 ( 『 北方文芸 』1 7 1 号) 0

( 45) 『 北方文芸』同。

( 4 6 ) 宮野駿 「田口タキ 」( 『 北方文芸 』1 7 1 号) 0

(21)

多喜二 はす ぐ,瀧 の母親 の ところへ いった。 しか し来 て い ない。多喜 二 は,「高島 の安藤 さんの ところへ も行 く。然 し来 ていない。妹 の ところへ も 来 ていない。‑ 母 も妹 も朝里 の姉 さん も義兄 さん も,福 原 の奥 さん も皆, 力 を落 し,心配 してい る。

福 原 さん は,近所 の親切 な医者 で あ る

朝里 の姉 は,チ マ で あ り,義兄 は,佐藤 さんで あ る。

嶋 田正策 も言 う

瀧 が 「 居 な くな った時,多喜 二 は必死 になって探 して ね。 それ こそ涙 を流 しなが ら。 ( タキ は)小野病 院 で働 いた り, 中央 ホテル の ウエー トレス をや った りして い た ‑

‑ 」(48)

た だ し, この文 は混 乱 して い る。小野病院 は この時 の家 出の ときで あるが, 中央 ホテル はその後小樽 か ら の出走 の後 にいた ところである

チマ も言 う

「 妹 たち もみんな,心配 してね。 [ 瀧 は] ほん とにいい人 だ っ たか ら

。」

多喜二 は書 く

「 本 当の ところ, タキちゃんが いな くなって,始 めて,俺 はタキちゃんに対 す る気持 ち をハ ツキ リ分 った気がす る。

東京へ,若 し出れ ることが ある として も,俺 にはタキちゃんな しで は生 き て行 けない気持 ちがす る。」

瀧 は 「 俺 だ けが頼 りなのだ。 それ を俺 が また,東京へ行 きたが る ( そ うい ヽヽヽ

う欲 望追 求 のた め に) タ キちゃん を事 実上 追 い出す こ とに して し まった。

・ ・ ・ ・ ・ ・ い ま俺 が タキちゃんを救 う, その救 えるたった一 つの方法, その他 の ど れで も駄 目な方法 は結婚 だ

/ 」(49)

タキの弟 ・宮野 は書 く。「タキ はい まで も,小林 の家 で は,部屋 はお ろか 狭 い廊下 にまで本が 山積 み になってい るし,や って くる友人 たち との侃侃誇

( 47)『 小林多喜二全集』第 7 巻,84 ページ。

( 48)『 北方文芸』同。

( 49)『 小林多喜二全集』第 7 巻,84‑85 ページ。

(22)

34 9 2 輯

詩 は難 し くて さっぱ り分 か らない し,近所 の病 院長 の娘 さんが遊 び に くる と,多喜二 の弟 の三吾 さんがバ イオ リンを弾 き,声楽 とい うのか, みんなが 五線譜 を見 なが ら声 を合 わせて歌 う

到底 わた しは多喜二 に もこの家 に もふ

さわ し くない人 間だ と悟 った, と語 ってい る

。」(50)

さて弟 ・宮野 あて手紙 を,瀧子 は書 く。「 私 は小林 にふ さわ し くない女 だ。

お別 れ しなけれ ば と思 ったのです。 そ して決心 して小林 の家 を出た訳 なんで すが,本 当に心 の底 か ら小林 を愛 していた もので,決心 は した ものの, はっ

き りお別 れが出来ず に,東京 まで行 くことになるのです

。」(51)

表面的 に,多喜二 を東京 に出すために,瀧子が身 を引いた ことになってい る

それ は表面 で は正 しい。 しか し, それ以外 に もあった。決定 的 な こ と は,彼女 の過去 を気 に して,多喜二 が本 当 に結婚 に踏 み切 れない ことにあっ た。多喜二 の苦 しみを, タキはよ く知 っていた。 その ことは 2 人 しか知 って いない。 また もし,多喜二が東京‑行 って も,経済的 な理 由だ けな ら,何 と か な る ものであ る。多喜二 も,瀧子 が家 出 してか らの 日記 で書 いている ( 上 逮)。仮 に東京 で多喜二が瀧子 を養 えない とすれ ば,瀧子が働 くこ とに よっ て,多喜二 の足手 ま といにな る ことはないので ある。だか ら観念 の問題 なの だ った。

多 喜二 はそれで も,瀧子 を必死 に一週 間捜 し ,1 926 年 11 月 1 8 日に,滝 と会 えた。つ ま り一週 間後 で あ る

1 1 月 1 8日の夜,二人 は会 った。瀧子 が 小樽 の花 園町の小野病院 ( 現在,皆川病 院 になる) に,住 み込 みで働 いてい

ることが分 か ったのだ。 こうして二人 で,街 を歩 きなが ら,話 した。

それ以後,二人 は,時々会 って,映画 をみた り散歩 をす る とい う間柄 にな る

家 に もどれ, とい う多喜二 の意見 にたい し, 自活 したい, と瀧子 はい う。

こうして,別居 して,二人 はつ き合 うのであ る。

( 5 0 ) 宮野駿 ( 『 月刊おたる 』1 9 9 2 年 1 0 月) ,21 ページ。

( 5 1 ) 宮野駿 「田口タキ 」 ( 『 北方文芸』1 7 1 号) 0

(23)

一二月一 日には,「 二見館」で映画 をみ, しか し,帰 りに気 まず い別 れ方 をした。多喜二 は泣 いて帰 るほ どだった。三 日に,瀧子 か ら手紙が きて, も う誘 わない し,出ない と書 いて きた。 しか し 1 2 月 1 6 日か 1 7 日に,瀧子 が 電話 で映画 に誘 い,「 電気館」へ行 き,帰 りに途 中で何度 もキス をす る, と い うような具合 いで あった。要す るに,普通の恋人 と変 わ らない。

こうして,小林多喜二の大正時代が終 った。

本稿は,高商史研究会の活動の‑結果である。

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