歴史の中の毛沢東
著者 竹内 啓, TAKEUCHI Kei
雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies
号 32
ページ 55‑68
発行年 2007‑12
その他のタイトル The Historical Role of Mao Zedong
URL http://hdl.handle.net/10723/1364
歴史の中の毛沢東
竹 内 啓
Ⅰ)Philip Short: “Mao: a Life” Hodder and Stoughton 1999, paperback edition, John Murray 2005
Ⅱ)Jung Chang and Jon Halliday: “Mao: the Unknown Story” Jonathan Cape 2005
1.
「資本主義の道を行く」中国
最近の中国の経済発展は,すべての人々の予想 を越えた勢いである。1950年代後半「工業生産で イギリスを追い越す」という目標を掲げた「大躍 進」政策は,3000万人の餓死者を出すという悲惨 な大失敗に終わったが,「改革開放」政策の下で年
率 8~10%という高度成長を続けている中国経済
は,いまや購買力平価で測定した総生産はほとん ど日本の2倍に達し,工業生産の総量でアメリカ を追い越すほどになっている。しかしその一面所 得分配の不平等,都市と農村の格差は極端にまで 拡大し「社会主義市場経済」を標榜する中国は共 産党の一党独裁の下で,先進国において産業革命 初期に見られたようなむき出しの資本主義がはび こり,一方で先進国の富裕層を超えるような豊か な生活を享受する人々が出現する中で,大多数の 労働者,農民,特に大都市近郊以外の地域の農民 は,多くの開発途上地域の人々と同じような貧困 を強いられている。現在政治権力を握っている 人々が,文化大革命中に毛沢東が政敵を表現した
「資本主義の道を行く実権派」そのものにほかな らないことは,明確に証明されたといってよい。
もし毛沢東が現在生きていたとすれば,必ず「私 はもう一度山に入って革命運動をやる」と言った に違いない。
しかし極めて皮肉なことに,現在の「改革開放」
路線は,中国人民に圧倒的に支持されており,もっ
とも不利な立場に置かれている農民層にしても,
人民公社の「強制された貧しさの平等」よりも,
資本主義下の「自由な不平等」の方を望んでいる ように思われることである。したがって,今後現 在のほとんど「市場原理主義」的な経済グローバ ル化路線が修正され,また政治的民主化,自由化 が進められることになったとしても,またその過 程で必ずしも平穏でない政治的紛争が起こること があったとしても,かつての「毛沢東主義」が復 活することはほとんどあり得ないことと思われる のである。
事態の理解を困難にしているのは,毛沢東路線
からの180°の転換が「反革命」はいうまでもな
く,政権内部の明確な権力移動さえないまま行わ れたことである。確かに毛沢東死後「四人組」の 逮捕と裁判が行われて,「文革派」は追放されたが,
しかしそれは中国共産党内部にも,中国社会全般 にも,あまり大きな波紋を起こすことなく行われ たようである。むしろ対立はどこまで政治的自由 化を進めるかに関して生じ,1989年の天安門事件 に至ったが,その混乱の中で政治的保守派が勝利 した後は,毛沢東路線からの完全な転換が,明確 な宣 言 な しに 行わ れ た ので ある 。「 毛 沢 東に は
70%の正しさと30%の誤りがあった」というのが
現在の中国共産党の見解なようであるが,何が正 しく,何が「誤り」であったかは明確にされてい ないし,フルシチョフ時代に行われた「スターリ ン批判」ほどの「毛沢東批判」も行われていない のである。
しかし毛沢東の「功績と誤り」の客観的評価は,
結局近代中国,少なくとも1911年辛亥革命以降の 中国の歴史の再吟味と再評価に基づかなければな らない。そうしてそのことは,中国共産党がその 歴史に深くコミットしそして現時の中国共産党が その歴史を引き継いでいく以上,現在の中国共産 党,中国政府にとって極めて困難なことであるこ とも理解されなければならない。
したがって現在の中国共産党あるいは中国政府 の毛沢東評価が極めてあいまいであり,中途半端 であるのは,政治的には止むを得ないことである。
しかし中国革命がこれまでに与え,そして今後強 大に発展した中国が世界に与える強大なインパク トを考えるとき,毛沢東の歴史的評価を中国共産 党の政治的立場の故にあいまいにしておくことは できないことである。
2. 毛沢東の思想形成
毛沢東の歴史的評価を行うに当たっての困難は,
信頼できる,十分な資料に基づいた評伝がこれま でに存在しなかったことである。ヒトラーやレー ニン,そしてスターリンについては,これまで膨 大な書物が書かれ,そしてなおいろいろな歴史的 事実の「真相」をめぐる論争は続いているものの,
ソ連崩壊後十余年を経,第二次大戦後60年を経た 現在,ソ連のみならず,英米などの政府の文書も 利用可能になって,それぞれの政治的行為の客観 的分析が可能になっている。
しかし毛沢東と中国革命については,まだ中国 共産党や中国政府の内部文書は公開されていない し,それ以外の決して少ないとはいえない文書や 資料も分析,整理されているとはいい難い。した がって毛沢東の評伝は,政治的な敵味方による政 治的意図の明白なもの以外はほとんどなかったと いってよい。ある意味で古典的といってもよいエ ドガー・スノーの「中国の赤い星」にしても,著 者が一定の政治的効果を意図して書いたことは明 らかであるし,また著者自身が必ずしも意識せず に,毛沢東自身や中国共産党による宣伝的な目的 のために利用されていた面もあることは確かであ
る。このことは必ずしも「中国の赤い星」の著作 としての評価を無にするものではないが,その記 述を必ずしも客観的資料として依拠することはで きないことを意味している。
このような状況の中で最近私は標記の2つの本 格的評伝といわれるべきものを読んだ。
Philip ShortはBBCの海外特派員として長年に わたり中国に住みかつ取材してきた。Jung Chang はベストセラーとなった“Wild Swan”の著者,Jon
Hallidayは彼女の夫で,イギリスの学者である。
どちらも注をふくめると800ページ,厖大な一 次資料,関係者のインタビューに基づいて書かれ た本格的な評伝である。ただしそのことはこれら が客観的に書かれたものであることを意味しない。
Shortは努めて客観的,中立的であろうと努力して
いるところがうかがえるが,Chang and Hallidayの 本はほとんど徹頭徹尾毛沢東に対する敵意に満ち ており,すべての資料(それは極めて厖大である が)は彼に対して悪意に解釈されている。したがっ て引用されている事実そのものは必ずしも否定す る必要はないとしても,その解釈には疑問を持た ざるを得ないことが少なくない。Chang and Halliday によれば,毛沢東はその途方もない邪悪な野心に よって中国の歴史をねじ曲げ,幾千万の中国人の 命を犠牲にしたということになる。(「彼は平和時 において7000万人以上の死をもたらした責任が あり,彼は20世紀における世界のいかなる指導者 よりも多くの死について責任がある」と冒頭に書 かれている。)1920 年代からの中国共産党,国民 党との内戦,そして政権獲得からその死に至るま での中国の歴史は,すべて毛沢東個人の権力欲と 野心によって説明されることになる。それはいわ ば歴史が優れた個人の理念と行動によって創造さ れるという「英雄史観」の裏返しであり,毛沢東 を歴史を思いのままに操ることのできる「悪魔」
と見る「悪魔史観」ともいうべきものになってい る。
それはともかく内容を追って紹介しょう。Short の本の最初の4章までは,毛沢東が共産党に入党 するまでをかなりくわしく扱っており,辛亥革命 の混乱した状況の中での若き毛沢東の思想的遍歴
がのべられていて興味深い。彼は一時クロポトキ ン流の無政府主義友愛主義に魅かれ,マルクス主 義の暴力主義には反対した時期もあったとし,い ろいろ迷った末に共産主義に転じたという。マル クス主義者になった後にも,毛沢東の思想には若 い日の思想の跡が残っていることを Shortは指摘 している。一つは無政府主義的傾向であり,もう 一つは西欧思想よりも中国の古典に親しんだこと である。実際毛沢東は外国語は苦手であった。何 回も英語をマスターしようとしたがだめだったと いう。また主意主義的傾向が強く,西欧マルクス 主義にも強く流れている客観的科学を重視する傾 向は毛沢東には見られない。毛沢東の初期の著作 として有名な湖南省の農村調査報告についても,
個々のケースについて詳細な事実を厖大に積み上 げながら,そこに働いている社会の流れ,客観的 法則性というようなことにはほとんど触れていな
いと Shortは指摘している。この点は科学を重視
し,客観的法則性を強調したレーニンとは対照的 であったと私は思う。毛沢東は中国の古典を愛し,
自ら「詞」というスタイルの詩を作った。(その詩 集は日本でも出版され一時かなりよく知られてい た。)毛沢東は人々を政治的に操ることについては 恐るべきリアリストであったが,一面では詩人で あり夢想家であったと思う。それが後に大躍進政 策,人民公社による共産主義社会の一気の実現と いう壮大な夢想を生み出し,結果として中国社会 に大きな惨禍をもたらすことになったのであった。
その素地は彼が共産主義者になる前の若き日に作 られたものであるということをShortの本は示し ている。
Shortは毛沢東がまだ学生であったころ,新カン
ト 派 の 哲 学 者 Friedlich Paulsen の “System der Ethik”を読んで影響を受けたこと(そのことを毛 自身延安でスノーに語っている),そうして残され ている中国語訳本の書き込みから,毛沢東が,強 力な集権国家の必要性,強力な意志の重要性,そ して個人中心の3つのポイントを引きだしている ことを指摘している。ここで強力な中央集権国家 は西欧の近代国家よりも,中国の伝統的な王朝の イメージに近い。また個人の意志の強調は歴史を
動かす英雄の崇拝につながる。毛沢東は水滸伝や 三国志を愛読し,過去の英雄の行動の中から政治 的リアリズム,ときにはマキアベリズムの多くの 教訓を引き出したのであった。実際毛沢東は自分 自身を歴史的英雄になぞらえていたと思われる。
まだ政権を取る前,アメリカの仲介による国民党 との合作のため重慶に向かう飛行機の旅の際作っ た「雪」という有名な詞の中で,毛沢東は始皇帝 以来の中国の歴史上の大英雄の名を次々あげた後,
「これらの英雄もすべてそれぞれ欠けたところが あるが,真の英雄は現代に求めなければならない
(自分こそそうだ)」と詠んでいる。
Chang and HallidayはPaulsenの本への注釈を毛 沢東の考えの中核となるものとして引用している。
「私は道徳的であるためには人の行動の動機は他 の人の利益になることでなければならないという 考えには組しない。道徳的であることは他の人々 との関係で定義されるものではない。私のような 人間は,われわれの望むことを果たそうとする。
そうすることによって,われわれは自動的に最も 価値ある道徳的基準を持つことになる・・・私の ような人間はただ自分自身に対してだけ義務を負 い,他の人々には一切義務を負わない・・・」さ らに「私は自分の知っている現実についてのみ責 任を持ち,それ以外のことについては一切責任を 持たない。私は過去を知らないし,未来を知らな い。それは私自身の現実とは関係がない。したがっ てまた死後の名誉や将来の世代のための仕事など ということにも一切関心ない。」
Chang and Hallidayは,絶対的な利己主義と無責 任が毛沢東の性格の中核であるという。彼は自分 が一切の制限や抑制にとらわれない特別な英雄の 一人であると信じていた。そうして彼等がもたら すものは,破壊と混乱であった。毛沢東は書いて いる。「長く続く平和は耐え難い。平和の状態に あっては混乱の潮波を作り出さねばならない。
我々が歴史を見るとき,次から次へとドラマが生 み出される戦時を喜び,それを読むと大変面白い と思う。平和と繁栄の時期になると退屈する・・・」
彼は本を読むことと現実を混同し,人々の悲惨 な運命と死を全く気にかけなかったと彼らはいう。
Chang and Halliday の毛沢東の解釈は単純明快 である。つまり自分の欲望を満足させること以外 に全く関心を持たない利己主義者,そして世界の 破壊と混乱をもたらして,世界を自分の思うまま に従えようとする権力主義者,簡単にいえばいわ ば「完全な悪人」「悪人の理想型」とでもいうべき ものになっている。
しかしこのような見方には疑問を持たざるを得 ない。もし毛沢東が単なる「完全な悪人」であっ たとしたら,なぜ彼があれだけ多くの人々にあれ だけの影響力を持ち得たのかは大きな疑問として 残る。彼がいかに政治的操作と権力の行使に長け ていたとしても,それだけですべてを説明すると すれば,他の数億の人々は,すべて「大悪人」の 乾分(こぶん)になりたがる「小悪人」か,簡単 に欺かれてしまう「馬鹿者」ばかりであったとい うことになる。それはあまりにも馬鹿げた考え方 である。
そもそも歴史上の「英雄」なるものは,すべて
「大悪人」の素質を備えているといってよいであ ろう。しかし「英雄」には何かそれ以上の人をひ きつけるものがなければならない。毛沢東は確か に私生活,とくに女性関係ではかなりルーズで あったことは今ではよく知られているし,よく いっても通常のモラルや人情に捉われていなかっ たことは事実である。しかし毛沢東が悪人であっ たというだけでは,なぜ彼が長い権力闘争の末に 中国共産党内で主導権を獲得して,蒋介石との内 戦に勝ち,遂には8億を越える中国の人々の上に 絶対的権力を振るうことができるようになったか の説明にはならない。毛沢東はヒトラーのような 雄弁家ではなかったし,レーニンのような鋭い筆 力を持った理論家でもなかった。またスターリン のような組織を操る実務家としての能力や勤勉さ も持っていなかったように思われる。それにもか かわらず,毛沢東が権力闘争において最後まで勝 ち抜くことができたのはなぜか。それは一つの大 きな謎であるし,Chang and Hallidayのような単純 明快な理論(?)で割り切ることは到底できない ように思われる。私はやはり毛沢東に,低い身分 から身を起し激烈な権力闘争を勝ち抜いて皇帝の
座に登った漢の高祖・劉邦,明の洪武帝・朱元璋 のような「英雄」に通ずるものを感ぜざるを得な い。そのような「カリスマ性」をもたらすものが 何であるのか,二つの評伝を読んでもよく分から ないところが残る。それは「史記」の中で「劉邦 は将に将たる器だった」と書かれていても,結局 よくわからないところがあることに通ずる。
3. 新中国政府成立まで
Short の 本 で は 次 に 「The Comintern Takes Charge」と題された章で,毛沢東が共産党に参加 してから蒋介石の上海クーデターによって国共分 裂が決定的になるまでの,国共合作期での毛沢東 の活動を扱っている。この間毛沢東が1927年に行 い,その結果を「湖南農民運動の調査報告」にま とめた調査を通じて,彼の考えが大きく変わった こと,農民の地主に対する反抗運動こそが中国に おける革命の主体となるべきであり,そしてそこ での農民の暴力行動は抑制されてはならないと考 えるに至ったことが述べられている。ここに有名 な「革命は人々を晩餐に招くことではない」「革命 においては行き過ぎた行動は絶対に必要である」
という言葉が現れる。毛沢東は共産党に入党した ときにはすでに革命のためには暴力行使を厭わな い暴力革命主義者になっていた。しかしその暴力 革命はスターリンのように(あるいはレーニンも)
政治権力を奪取した後は,権力の暴力行使によっ て「上から」反対勢力を抑圧するのではなく,貧 農の地主に対する「下から」の暴力を容認,ある いは扇動するというものであった。その考えがこ の時期に成立したものと見られる。後には毛沢東 は自分の権力を確立するために「下からの暴力」
を作り出すようになったのである。
Chang and Hallidayはもちろん,最初から毛沢東 が自分の権力を確立するために,テロを組織した と主張しているが,しかし個人の野心だけで革命 が生み出されるものでないことは当然であろう。
毛沢東は先の「農民運動報告」の中で農村におけ る革命をいわば「発見」したように述べている。
実際彼自身はいわば富農の出身で,後に農民運動
を「指導」するようになっても,自らが農民とし て農民運動に関わったことは一度もないことは注 意すべきである。とすれば彼が「発見」したもの は何であったか。それが2000年以上の長い歴史を 持つ中国の「農民運動」の伝統とどのように結び つくのか。またそれが20世紀の中国社会の中でど のような意味をもっていたのかを改めて分析する 必要があると感じられる。Chang and Hallidayのよ うな「反毛沢東主義」者や逆に毛沢東崇拝論者は,
ともに「農村革命」を毛沢東の「発明」であるか のようにいうが,それが誤っていることは明白で あると思う。この点を解明することは,毛沢東と 中国共産党の活動の底にある,中国農村社会の歴 史的な流れを知るために重要な点である。毛沢東 や共産党はその流れに乗り,それを利用し,場合 によってはそれを歪めたかもしれないが決してそ れを創り出すことはできなかったはずである。
実際中国共産党の成立から国共分裂に至る期間,
生まれたばかりの共産党も,それを「指導」した コミンテルン,そして国民党の側もかなり右往左 往したことは Shortの本の記述からも知ることが できるし,その中で個人の行動も,それぞれのイ デオロギーと個人的野心とが入り混じってジグザ グになるのも当然であり,毛沢東も例外ではな かった。辛亥革命後の中国のような混沌とした状 況の中ではそれは当然であり,その中にコミンテ ルンを通したスターリンと毛沢東の一貫した野心 と「邪心」を見るChang and Hallidayの見方は偏 見の産物としかいえないであろう。
毛沢東の政治的生涯における次の段階は,蒋介 石のクーデターに続く湖南省での蜂起,そして大 弾圧大殺戮から江西省での瑞金ソヴエト政府の成 立,毛沢東の政府主席就任までである。Shortの本 にはこの時期の過程もかなりくわしく描かれてい る。この段階で共産党ははっきり国民党や他の党 派と訣別し,武力による独自の政府の設立に踏み 切るということになるが,興味あることはその中 でも党の主導権は周恩来らの手にあり,毛沢東は 国家主席の地位についたにもかかわらず,しばし ば党の指導部から疎外されていたのである。また 彼自身,そのような場合には病気と称して勝手に
引きこもってしまい,また実際に体調も悪くなっ てしまったのである。毛沢東は日常的な行政事務 はおよそ嫌いであり,夜更かし朝寝坊で「勤勉」
とは程遠い生活スタイルであった。健康面でも生 涯便秘に悩まされ,絶えず不調を訴えていた。長 征やその他の経験に耐え,82歳まで生きた毛沢東 は「病弱」であったはずはないが,「頑健」という には遠かったし,絶えず煙草をのみ,女性関係も ほとんど「ふしだら」といってよいほどで,不健 康な生活であった。文化大革期に長江を泳いで健 康を誇示したこともあったが,日常的にスポーツ に親しんだこともなかったようである。毛主席の 日常生活は,一般民衆や一般党員の目からは注意 深く隠されていたのであって,毛沢東の「カリス マ性」は,オープンなリーダーシップから生まれ たものでなかったことは確かである。
江西ソヴエト政府の建設について,Chang and
Halliday は単純に毛沢東がその地域の共産党の
作った基地をテロで乗っ取ったものとしている。
Shortはよりくわしく経過を説明しているが,“Futian
(福田):Loss of Innocence”という短い章で「AB 団事件」という,でっち上げによる粛清が行われ,
多くの党員やゲリラ隊員が拷問,処刑されたこと が述べられている。Shortはそれが毛沢東によって 計画されたものであるとはいっていないが,結果 的に地元の党員が多く殺され,主導権が毛沢東以 下の湖南組に移ったことを示している。毛沢東の 中国共産党においては,政治的に擁立した「大物」
の指導者は批判に曝され,失脚し,あるいは追放 されたが,スターリンのソ連のように直接裁判に かけられ処刑されることは無かった。それが毛沢 東とスターリンの「独裁」のスタイルの違いを外 部に印象付けたが,しかし毛沢東の中国共産党も,
一般党員やその他の同調者のように,いわば「小 者」に対しては,康生の指揮下にあった秘密警察 が,KGBと同じように恣意的な逮捕,拷問,投獄,
処刑を行い,テロによる支配を行ったことをShort は明らかにしており,それが江西ソヴエト政府の 建設以来始まっていることを指摘している。
江西ソヴエト政府は蒋介石軍の包囲攻撃を4回 にわたって耐えたが,第5次の徹底的な包囲殲滅
作戦によって遂に崩壊し,赤軍は根拠地を放棄し て有名な「長征2万里」に向うことになるが,こ の間江西省での人命の被害は莫大であった。それ についてはChang and Hallidayはすべてを赤軍の 責任にしているが,Shortはテロにはテロで応酬し た双方に責任があることと述べており,それは正 当であろう。先に私が紹介した「中国人口史」(『国 際学研究』25号,2004年)の中でも1920年代か ら30年代にかけて江西省の人口が2400万人から 1600万人に3分の1減少したという記述があるが,
正確な数字は知ることができないとしても,この 間数百万の人命が失われたことは確かであろう。
そしてその大部分は戦争に巻き込まれた一般農民,
市民であったに違いない。また戦闘員にしてもど ちらの側も自発的に志願した兵士から成り立って いたわけではなかった。共産党の方も脱走を試み たものは処刑されるという強制された規律の下で 戦っていたことを Shortは示している。革命戦争 や内戦は,しばしば国際的な紛争よりも残酷なも のになるが,中国革命もその例外ではない。その いわば「戦争責任」はしばしば敗者に一方的に押 し付けられることになるが,しかし実際には一方 の側にのみ,あるいは特定の指導者にのみ帰せら れるものではないであろう。それだけにそれにつ いてのいわば正当な歴史的判決をどのように下す かは難しい。ロシア革命の際にも内戦は多くの犠 牲者を出した。しかしその際少なくとも責任の一 半はいろいろな反革命勢力を応援して干渉した帝 国主義諸国にあったが,中国国共内戦においては,
軍閥間の内戦には干渉した日本やその他の勢力も 直接には介入しなかったし,また共産党を支援し たコミンテルンあるいはソ連も,Chang and Halliday が主張しているのとは違い,それほど主導権を 持っていたわけではないであろう。中国内戦の犠 牲者がどれだけの数に上ったか,正確な値は不明 であるが,恐らく一千万のオーダーに上ったと思 われる。その責任はChang and Hallidayの主張す るように毛沢東にのみあるわけではないが,少な くともその一端が毛沢東にもあることは確かであ る。そうして毛沢東自身はそれを敢えて避けるこ となく,それは「革命のために必要であった」と
主張するであろうが,しかしそのような大きな犠 牲を払って遂行された「革命」とは要するに何で あったかが改めて問われなければならないであろ う。
江西省の根拠地を失った共産党軍は有名な「長 征」に向うことになるが,毛沢東はその途上の遵 義会議で,主導権を周恩来等から決定的に奪うこ とに成功したことも知られている。Shortはそれよ り少し前に開かれた Tongdao(同島?)でのあま り知られていない会議の方が実はより重要であっ たとしているが,いずれにしても彼はこれまでの
「失敗」の責任を周恩来やあるいはコミンテルン から派遣されたOtto Braunの責任として追求し,
その「誤り」を認めさせたのであった。
神話化されている「長征2万里」についてChang
and Hallidayはほとんどについて嘘であるとし,実
際は「長征」ではなく,蒋介石軍によって誘導さ れたものであり,蒋介石の目的は共産党を追尾す ることによって,軍閥の割拠する西南の諸省に軍 を進めることにあったという。そして毛沢東は自 分の主導権を脅かすような指導者のいる根拠地に 早く到着することを恐れて,ことさらに廻り道を し,またある時はわざわざ自軍の敗北を招くよう な不要な戦いをしかけたという。一方「大渡河渡 河作戦」のような英雄的戦闘の話はすべて架空の 話だったといっている。彼等の説は信じ難いが,
Shortはこの点ではもっと慎重である。伝説化され
た「長征2万里」をすべて真実であるとする必要 はないが,しかし敢えてその全体を否定する必要 はないであろう。
長征の後もなお毛沢東は,元来西北の根拠地を 築いた張国燾とモスクワ帰りの王明の勢力を打破 しなければならなかった。毛沢東が党内で絶対的 な,独裁的な権力を握るに至ったのは延安での「整 風運動」を経た後であった。この運動については,
スノーの本などを通じて理想化されたイメージが 伝わっているが,それが他面政治的な権力闘争,
しかも見方によっては打倒された政敵に屈辱的な
「自己批判」を強要する,かなり陰険な政治的キャ ンペーンであったことも見て取ることができる。
そしてそれが後に至るまで毛沢東が反対派あるい
は反対派と判断したものを処断する基本的な方法 となったのである。
延安到着後,対日戦,そして内戦の勝利に至る まで,Chang and Hallidayは長々と書いているが,
結局すべてをスターリンとコミンテルン,そして その支持を得た毛沢東の謀略に帰着させている。
その中にはかなり荒唐無稽というに近い話もある。
例えば1929年の張作霖爆殺事件をKGBの工作だ としているが,これが関東軍河本大作大佐の行っ たことであることは,その直後から日本政府の上 層部に知られ,その処理が政治的大問題になり,
ひいては昭和天皇の怒りを買った田中義一首相の 辞任にまで至ったことは,すでによく知られてい ることである。今ごろこのことを元KGB将校の告 白などというものに基づいてKGBのしたことと 主張していることは,Chang and Hallidayの本の全 体の信用を失わせるものである。それにもかかわ らず,日本の右翼の論者の中にはこの本を証拠と して「張作霖殺害も,満州事変もコミンテルンの 謀略であった」などと主張する者も現れているの は何をかいわんやである。
またChang and Hallidayはヒトラーとスターリ ンの間で独ソ同盟条約が結ばれてポーランドが両 国の間で分割された後,毛沢東は同様の条約が日 ソ間で結ばれ,中国が日本とソ連の間で分割され,
彼自身がソ連支配地域の首領となることを望んで いたと主張している。三国同盟にソ連を加えて,
対米英四国同盟とすることで,イギリスを屈服さ せるという動きが全く無かったわけではないが,
しかし中国を日ソで分割支配するなどということ は,日本の軍もスターリンも想像さえしなかった はずである。いわんや毛沢東がそれを望んでいた などというのは馬鹿げた話である。
彼等は有名な西安事件,その後の抗日戦におけ る国共協力の中で,毛沢東はひたすら蒋介石の打 倒を目標として,自分の権力を保存することだけ に努めて,時には共産軍の指導者の意にも反して,
抗日戦を極力避け,国民党軍の力を減らすことを はかったという。共産軍の新四軍が国民党軍に包 囲攻撃され大きな被害を出した事件についても,
Cnang and Halliday は毛沢東がことさら通信を混
乱させ,命令の伝達を妨げて,衝突を作り出した としている。これもいささか信じられないことで ある。しかし,抗日戦において共産軍がもっぱら 日本軍と戦い,国民党軍はいわば「さぼって」い たという共産党側の宣伝も,その全く逆も正しく ないであろう。どちらの側も対日戦終了後をにら んで「一面協力,一面対立」を行い,抗日戦と同 時に自らの勢力の拡大をはかっていたことが事実 であろう。そして双方において一般の軍人や兵の 多数は,やはりナショナリズムに動かされて「ま じめに」戦っていたことは事実であると思う。抗 日戦におけるそれぞれの貢献を客観的に評価する ことは,まだ今後の課題であろう。なお Shortの 本にはこの問題はあまりくわしく論ぜられていな い。
内戦における共産軍の勝因として,Chang and
Halliday はスターリンの援助,コミンテルンが国
民党の軍と政府の高い地位に送り込んだスパイ
(“もぐら”),そしてアメリカの内戦における仲介 という形での援助を上げている。もちろんそれら の要因もあったにしても,共産軍側の要素が決定 的であったに違いない。国民党軍の中の一部幹部 の「裏切り」については,そのようなことが,と くに内戦末期にはあったとしても,内戦の場合状 況が決定的になるような段階では「勝つ」と思わ れた側に雪崩を打って加わる現象が起るのは不思 議ではない。やはり国民党政府の腐敗,それによっ て国民の支持を失ったことが大きな要因であった ことは疑いない。それに対して共産党軍(人民解 放軍)がより清潔なイメージを持たれていたこと は事実であると思う。共産側の勝利を,外部から の援助と毛沢東の権力闘争における「悪どさ」に 帰するChang and Hallidayの考えはやはり偏って いることは疑いない。しかし逆に内戦における共 産軍の勝利を「正義の勝利」とする中国政府の正 統的な立場も一面的であるといわねばならないだ ろう。
Short の本では第2 次大戦終結後の内戦の軍事
的経過が客観的にのべられているが,その背後の 社会的状況についてはあまりのべられていない。
内戦の歴史の客観的分析はまだまだこれからの課
題であろう。一ついえることは毛沢東は持久戦論 や遊撃戦論という形でゲリラ戦を強調したにもか かわらず,内戦における実際の勝敗は,やはり林 彪や彭徳懐の指揮下の軍隊による通常戦によって 決定されたと思われることである。もちろん毛沢 東によればそれはゲリラ戦によって敵が消耗して しまった後の最後の段階にあるということになる であろうが,果たしてそうだろうか。
4. 新中国成立から毛の死まで
1949年以後の主要な政治的事件として,解放と ともに進められた農地改革,1950 年の朝鮮戦争,
そして1957年の「百花斉放,百家争鳴」その「反 右派闘争」への転換,その直後から始められた「大 躍進」,人民公社化,1954-61 年の大飢饉,その 後の大躍進路線の修正,そして1966年からの「文 化大革命」,劉少奇の失脚,林彪の「反逆」と死,
そして1976年周恩来と毛沢東の死,等が挙げられ るであろう。また対外関係においては,朝鮮戦争 について1953年のスターリンの死,1956年フル シチョフの「スターリン批判」とハンガリーの反 ソ暴動,中ソの決裂,そして1971年ニクソン訪中 による中米の国交回復と国連への参加,等があげ られるであろう。
その中からいくつかの問題点が生ずる。
新中国成立後,しばらくの間,少なくとも外部 からは中国共産党の改革は,ソ連共産党とくらべ てずっと穏健なように思われていた。実際初期の 経済政策や資本家に対する公表された政策は極め て穏やかなものであった。しかしすでに内戦期間 中から,農地改革の中では厳しい「階級闘争」路 線が採用され,地主に対する「人民裁判」が行わ れて,多くの地主や富農が糾弾され,迫害され,
処刑されたのであった。Chang and Hallidayはいう までもなくShortも百万を越える人々が処刑され あるいは自殺に追い込まれたと書いている。
Shortはまた朝鮮戦争の勃発が,毛沢東にとって
国民に対する厳しい引き締めを行うのに極めて好 都合だったといっている。
「百花斉放」から「大躍進」に至る一連の過程
については,すべてが毛沢東の策略であったのか,
それとも彼自身予期しない事態の展開に流された のかという問題がある。Chang and Hallidayはもち ろん前者の考えで,毛沢東は「大躍進」について もそれが非現実的であることを十分知っていなが ら,核武装による軍事大国を建設するために農民 を最大限搾取するために遂行したのだという。そ れは極端な考えであって,彼等は毛沢東をいわば
「全知全能の悪魔」とする傾向があるが,しかし 私も「百花斉放」は毛沢東が仕掛けた「わな」で あったという方が正しいと感じている。毛沢東は 自分自身,伝統的な中国知識人の性格を強く持っ ていたにもかかわらず(あるいはそれ故に?)知 識階級に強い不信感を抱いていたので,それを「わ な」に掛けて引き出し撲滅しようとしたとしても 不思議ではないと思う。そしてまた中国の伝統社 会において,知識人と官僚=地主階級とが一体化 していたことを考えれば,地主階級を打倒する階 級闘争が知識階級にも向けられたのも当然である。
しかし,「大躍進」政策については,やはり毛沢 東は後から考えれば荒唐無稽と思われる数字を信 じたのであろう。それは彼の現実認識の弱点で あったと解釈すべきであると思う。ただ他の共産 党幹部が報告された数字が誇大であることを知ら なかったはずはないし,1959年の廬山会議におけ る彭徳懐の批判に多くの幹部は内心では同意した に違いないが,その会議における毛沢東の巧妙な 政治的工作によって,政策に対する批判が毛沢東 に対する「反逆」にすりかえられてしまったため に,批判を封じ込められてしまったのである。し たがって1962年の「7000人大会議」の時には圧 倒的多数の人々は「大躍進」政策の修正に賛成し たのであった。毛沢東は撤退を余儀なくされたが,
彼は「大躍進」政策が1959-61年の大飢饉の根本 原因であったことを認識したか否かは明確ではな い。彼はむしろもしも大飢饉が人災であったこと を認めるとすれば,それを下部の党員の責任にし,
基本的な政策そのものは間違っていないと主張し たに違いないと思う。
1966年から始められた「文化大革命」は,毛沢 東の共産党幹部に対する「巻き返し」であった。
1960年代の経験を通して毛沢東はほとんどすべ ての党幹部が内心では(場合によっては本人が意 識することなく)毛の路線に反対であることを 知ったのであった。政権を握った党幹部にとって は「階級闘争」よりも国の繁栄と国力の増強の方 が重要と思われたのである。実はその点が毛沢東 にとっては許せないことであったが,逆に多くの 党幹部はなぜそれが悪いのかほとんど理解できな かったようにも思われる。
「文化大革命」は,毛沢東が中学生から大学生 の若者,あるいはほとんど子供を動員して,既成 の秩序を破壊するという,世界史上にもない(も ちろん中国史にも前例のない)極めて異常な事件 から始められた。それについては毛沢東が江青ら を通して,党や政府の幹部に気づかれない間に種 を播いたことは事実であるにしても,なぜ一気に あれほど燃え上がり,かつ暴力が横行したか,よ く理解できないところがあるし,ここに上げた 2 つの本もその点納得の行く説明を与えていない。
ただこれをきっかけにして1970年に至る間に,政 治的には直接の関係は全くない世界中,西ヨー ロッパ,アメリカ,日本において「学園紛争」が 多発し,それが共産党をふくむ既成の左翼政党を 否定する過激な革命主義と,しばしば対立するセ クト同志の暴力的紛争へと変わったことが思い合 わされる。そのような現象はいずれにしても多分 に「わけのわからない」ものであった(アメリカ においては「ベトナム戦争反対」がどうやらまと もな「大義名分」を与えていたが)。中国において
「文化大革命」は熱狂的な毛沢東個人崇拝を生み 出したが,「毛沢東語録」を振りかざした紅衛兵達 が,毛沢東の思想を本当に理解していたとは思わ れない。したがってまた逆に文化大革命によって 毛沢東の狙った党幹部は打倒されたが,その進行 は必ずしも彼によってすべて統御されていたわけ ではなかったと思う。
Short は Epilogue の一つ前の章を Things Fall
Apartと題しているが,毛は1970年ころには党か
らも中国人民からも完全に孤立してしまったよう である。国際社会でもソ連とほとんど敵対関係に なった中国は完全に孤立してしまった。この時ニ
クソンの訪中,中米国交回復は毛と中国にとって 救いであった。
1970年代には,毛沢東の健康も悪化し,その政 治的指導力も衰えて行ったようである。彼は最後 まで文革路線に固執したが,江青,張春橋,王洪 文らはそれを引き継ぐ力量のないことは毛沢東に とっても明らかなことであった。彼は表面的には 文化大革命は成功であったと主張しつづけたが,
内心ではそれが失敗であったことを認めていたか どうかははっきりしない。
中国共産党の長い歴史を通して興味あることは 毛沢東と周恩来の関係である。長征までの期間は 両者の路線はしばしば対立し,そして党内の実権 は周の方が握っていた。しかし長征を経て延安以 後はその死に至るまで周は毛の完全に忠実な部下 になり,そして毛の指示のままに内政,外交の実 務を精力的に遂行した。そしてまたその人格的魅 力によって内外の多くの人々を魅惑し,中国共産 党や中国政府に対する信頼を勝ち取ることに貢献 した。しかし裏面では,毛はしばしば周を疑い,
「批判」したのであった。そしてそのたびに周は 毛に全面的に屈服し,屈辱的な「自己批判」を行 い,また毛に批判された人々を容赦なく批判し,
また毛が迫害した人々を救おうとしなかった。
Chang and Hallidayは,周は毛に対し奴隷的に追従 したといい,それはひたすら自己保身のためで あったといっているが,しかしこの2人の間には もっと複雑な関係が存在したと思われる。
毛が皇帝の権力を望み,保持しようとしたとす れば,周はまた皇帝の下にあって皇帝を支えると 同時に,皇帝の過ちや恣意から人民と国家を守る
「宰相」としての役割を自覚していたように思わ れる。そして周の中国国家についてのビジョンは やはり毛のそれとは根本的に異なるものであった と思われる。しかし周にとって自らのビジョンを 表現するための第一の前提は毛に排除されないこ とであった。「宰相」の地位は結局「皇帝」の権力 に依存するからである。「保身」は周の自らの歴史 的使命の中の不可欠な一環であった。そのために 屈辱的な自己批判を行うことも,盟友を裏切るこ とも敢えてしたのであると思われる。毛は周が自
分とは異なる思想を持つことを知り,何とかして それを暴露し,周を追い落そうとしたが,周は結 局最後までそれをさせなかったのであった。
両者の最晩年は,どちらがより長く生き残るか の競争であった。毛は周が自分より先に死ぬこと を望み,周がガンに冒されていることを知ったと き,彼が手術を受けることを頑として許さなかっ たのであった。周が死んだとき毛はひそかに爆竹 を鳴らして喜んだという話も他の本には書かれて いるが,それも嘘ではないように思われる。
毛と周の対立は,決して公にされることはな かったが,しかし多くの人々は何らかの形でそれ を感じ取っていたように思われる。周の死が公式 にはむしろ極めて軽く扱われたにもかかわらず,
多くの人々によって心から悲しまれ,その追悼の 気持が第一次天安門事件を引き起こしたのに対し て,毛の死に対して公式には盛大に国葬が行われ たが,人々は特別に哀悼を示すことはなかったよ うである。
毛と周の関係には,二人の巨人の意志の凄まじ い闘争が感じられる。そして周は毛より僅かに先 に死んだが,両者の死後の歴史は,明白に周の毛 に対する勝利を示していると感じられる。現在の
「改革開放」路線を周恩来が全面的に支持したか どうかは明らかでない。周は生え抜きのコミュニ ストであったから,現在のような看板だけ社会主 義の資本主義を本当に支持したか否かはわからな い。しかし周恩来が,毛沢東の「階級闘争第一主 義」よりも「豊かで強力な中国の建設」を第一と したことは疑いない。そしてその点で中国の民衆 は毛の「暴政」に対して周が自分達の味方であっ たことを感じているのであり,それが周の死後も 衰えない人気の秘密であると思う。
5. 毛沢東の歴史的役割
1949年中国人民共和国成立後,1976年毛沢東の 死に至るまで,中国の波瀾にみちた歩みの中で毛 沢東が終始強力な力を持っていたことは疑いない が,しかし彼が意図したものは何であり,それが 現実にどのように反映したかは,それほど明確で
ない。
Chang and Halliday は毛沢東の考えと行動は終 始一貫したものと捉えており,毛沢東の目的は中 国においては絶対的な支配権を獲得すること,そ の上で世界全体に個人的支配を確立するために中 国を核兵器を持つ super powerにすること,その 目的のためにいかなる犠牲も,いかに多くの人命 の損失も厭わないこと,その妨げになるものは長 年の忠実な同志であってもすべて打倒してしまう ことであったとしている。
彼等はそれを立証するために,多数の証言や毛 沢東自身の発言や著作を引用しているが,しかし いわば非常に多数の断片をつなぎ合わせて作り上
げたstoryは,あまりに首尾一貫しているだけに,
かえって著者達によって作り上げられた「物語」
となってしまっている。その上一つ一つの「証拠」
の信頼性についても,先の「張作霖爆殺は KGB のしわざ」のように,全く信用できないものもあ るし,あるいは毛沢東の「われわれが政権獲得を したのは日本帝国主義のおかげだ」というような 発言をそのアイロニカルなニュアンスを全く無視 して,毛沢東が日本の侵略を本当は歓迎していた と解釈するなど,われわれがよく知っている事実 に関して,明確な誤り,あるいは極端な歪曲と思 われるところも少なくないから,当然他の部分に ついても,著者達のいうことをすべでまともに信 じることはできない。
Shortの方は,それほど単純明快でない。むしろ
多くの点で判断を留保している。しかし歴史的事 実に関しては,両者の記述は Chang and Halliday がつねに「犠牲者」の数を多くのべていることを 除けばそれほど違っていないようにも思われる。
新中国成立後の毛沢東の政策に一貫しているの は,結局「極左派」のイデオロギーであり,その 中核は「階級闘争第一」ということであったと思 う。もちろん現実の中国政府の政策がつねにその 方針に沿っていたものではなかった。実際中国共 産党指導部の毛沢東以外の人々は,毛沢東に取り 入って自らの権力を握ろうとした人々を除けば,
ほとんどすべて「極左派」ではなかったのであり,
毛沢東の考えは必ずしもつねに実行されたわけで
はなかったが,彼の思想はつねに変わらなかった。
毛沢東が共産党の絶対的指導権を獲得した後に も,彼以外の指導部の人々,周恩来,劉少奇,彭 徳懐,鄧小平,あるいは林彪などは結局基本的に 毛沢東の「極左主義」と相容れなかったように思 われる。そして毛沢東はつねに彼等に対して不信 感を持っているのであった。それが「文化大革命」
を発動して自らの作った「中国共産党」を破壊し てしまうに至った根本の理由であったと思う。そ して毛沢東路線の支持者は江青,張春橋,王洪文 のようなほとんど「取るに足らない」人々だけで あったし,そのことを毛自身もはっきり認識して いたのであった。
毛沢東の生涯を今から見て感ずることは,彼は 一度も真の「同志」や「友人」を持たず,誰とも コミュニケートせず,また真の意味の討論も行わ なかったということである。そういう意味で彼は 孤独であった。それは必ずしも一般的な「権力者 の孤独」ではなく,彼自らが作り出したものであっ た。毛沢東が党の指導部から外れていた場合には,
彼は自ら「引きこもって」しまったし,遵義会議 後一旦指導権を握ると,今度は自分と異なる意見 を一切許そうとしなかった。そうして意見を異に する人間はすべて彼にとっては打倒すべき「敵」
でしかなかった。そして「敵」は単に論破された り,あるいは政治的に失脚させられたり,さらに は単に肉体的に抹殺されたりしただけではすまず,
徹底的に道徳的に破滅させられなければならな かった。そこに延安時代の「整風運動」から文化 大革命に至る,政治闘争のスタイルが生まれたの である。
毛沢東の階級闘争の見方も,権力闘争の場合と 同じであった。つまり「階級敵」との間には一切 の妥協や交渉はあり得ず,階級敵からは単に政治 権力を奪うだけでなく,その持つすべての道徳的,
文化的権威を剥奪しなければならないと考えたの であった。彼にとって,地主,資本家,知識階級 はすべて暴力的に打倒されるべき「階級敵」であっ た。そしてそれに対する貧農の暴力は望ましいも の,少なくとも「必要なもの」であった。
毛沢東の「階級闘争」の概念は著しく単純化さ
れたものであったと思う。それはマルクスの本来 の思想とはかけ離れて,議会活動のような合法闘 争はもちろん,デモやストライキのような非暴力 的活動をもほとんどふくむことなく,あるいは二 つの組織された軍の間の一定のルールにもとづい た「戦争」ですらなく,相手を徹底的に殲滅し,
肉体的にも精神的にも破滅させてしまわなければ すまない敵対関係と理解されたのであった。彼自 身はそのような概念を,若い時代の湖南における 軍閥の残虐な相互の抗争と支配,農民暴動とそれ を圧殺した地主の私的暴力,そして江西省ソヴエ ト地区における国民党軍の「共匪絶滅」作戦と共 産党内部の抗争などの経験から作り上げたものに 違いない。それが長い中国の歴史の中でくり返さ れた,破壊的な農民暴動と,それに対する権力側 の残酷な大弾圧の歴史の記憶,とくには太平天国 の乱の記憶が結びつくものであった。ある意味で は中国の歴史に根ざしたものであったともいえる が,しかしそれはやはり一面的にすぎたといわね ばならない。中国共産党の指導部の中でも,その ような思想を持つものはほとんどいなかったであ ろう。だから中国政府の実際の政策は,しばしば
「穏健派」の方向にもどったし,毛沢東も妥協せ ざるを得ないこともあった。しかし彼はそのたび に巻き返しをはかり,権力的政治工作によってそ れに成功したのであった。
毛沢東の「極左主義」が,結局中国に大きな悲 劇をもたらしたといわざるを得ないであろう。悲 劇の根本的原因は結局毛沢東の「階級闘争主義」
がそれに拠って立つはずの農民階級に支持されて いなかったことである。彼は農民の自発的暴力を 歓迎したが,農民大衆の積極的な自発性には全く 期待していなかったように思われる。農民が「ブ ルジョア的生活」に憧れることは,毛沢東には許 せないことであったかもしれないが,もし可能な らば農民は物質的に安楽な生活を送ることを望む のは,あまりにも自然のことであった。それを否 定することは結局不可能であった。それを抑え込 もうとする努力が,結局新中国発足以来,ほとん ど30年にわたって,中国人民のエネルギーを政治 的社会的抗争に無駄に費やしてしまうことになっ