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『宗教研究』新第8巻第5号(*63号)

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(1)

――目次――

1,

民間伝承の不合理的分子とその合理化(承前),松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.1-11.

2,

確証観念の社会学観念,特にマクス・ウェーバーを中心として,林恵海,Keikai HAYASHI,pp.12-30.

3,

「生」に関する青年ヘーゲルとヘルダリンの思想の連関,石津照璽,Teruji ISHIDSU,pp.31-52.

4,

『瑜伽論記』の著者名に対する疑義,結城令聞,Reimon YŪKI,pp.53-62.

5,

仏陀の成道宣言と伝道師派遣の詔勅,特にマハーヴアスツに留意して,平等通昭,Tshūshō

BYŌDŌ,pp.63-82.

6,

末期にある黒崎地方の旧切支丹,田北耕也,Kōya TAKITA,pp.83-100.

7,

「一切定説集」の仏教批評,龍山章真,Shōsin TATSUYAMA,pp.101-114.

8,

千闐の建国伝説に対する一考察,諏訪義譲,Gizyō SUWA,pp.115-126.

9,

僧兵と寺領荘園,細川亀市,Kameichi HOSOKAWA,pp.127-140.

10,

心身相尅の哲学,Goldenweiser,“Robots or Gods”の感想,佐木秋夫,Akio SAKI,pp.141-151.

11,

サンタヤナの『物質の王国』,G.Santayana, The Realm of Matter, London, 1930,田淵正範,Masanori

TABUCHI,pp.152-161.

12,

忽滑谷博士の『朝鮮禅教史』を読む,柴田道賢,Dōken SHIBATA,pp.162-171.

13,

「宗教の史実と理論」について,古野清人,Kiyoto FURUNO,pp.172-174.

14,

新刊紹介,pp.175-185.

(2)

〆〟 ↓一 l ▲ 一▼■つ▲■7▼レーY に於てそれ等の不合理的分子がいかにして委生し若くは存讃するかの因由の種々相を考へた。最後に自分が考へ て見たいことは、﹃これ等の不合理的分子を合理化することは、いかなる範囲に於て畢的に許容せらるべきか﹄と いふ問題である。 紙じて拳徒なるものは、さ亨ん\の事象に勤して、何とか説明づけたり合理化したりしようと努める心的傾向 の強いものである。畢的研究の上からすると、この傾向は頗る大切であつて、同時に少なからす危険なものであ る。民間債承の研究に於ては、殊にさうであると云へる。なぜなら既に明かにした通りに、民間俸承が持つ不合 理、矛盾には.さま′ぐ1の性質と様態とがあり、その中には、強いて之を合理化することは、却って事象の眞責 の形相を紐歪することを意味する底のものも少くないからである。 マンチェスクー畢渡の首領株であるところのジョージ・エリオット・スミス氏︵Oeつ︼■ge空i〇t苧itナ︶は、その著﹃題 蛇の進化L︵T︼︼e苧〇︼uこ○コ〇r〓1e冒Pg〇=︶の中で、 「.ン■ヽ ヽ疇■■ 自分は第一節に於て、民間停承に含まる1不合理約分子の存在の様態とその様態の意義とを繹ね、更に第二節 民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶

民間停承の不合理的分子とその合理化重刑︶

松 村 武 雄

β∂3

(3)

民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶

﹃人間の行動は主として理性に動かされると推測するのは.ありがちの迷誤である。日常生活の心理最も初歩の 探求すら.人類竺般に考へられてゐるほど優れて合理的な生物ではないといふ眞理を露呈させるに充分であ る。人は、その本能.個人的経験の諸情勢及びおのれが成長した融合の常套的習俗によつて、大部分の行動を ︵二〇︺ 強ひられてゐる。﹄ となしてゐる。かうした見解は、同じくマンチェスクー畢派に属するダブリュー・ジュー・バブリイ氏︵W.J. 冒rユの主張するところである。氏の多くの著書−1たとへば、芸陽の子﹄︵T︼leC監re≡;︼¢瞥ロ︶や、﹃呪術 及び宗教の起原﹄︵TheOr督。rぎgic呂d空igi昌︶などを紡いたものは、それが幾度となく繰り返して力説せら

れてゐるのを見出すであらう。

これ等の畢徒が強調するところは、或る程度に於ては決して間違ってゐない。自分としても、おとなしく首肯

し得るやうな気がする。人類の行動そのものが、必ずしも合理主義的な基礎を有するものではないといふこL・

それが本能や過去の経験や融合的習俗に強ひられて一発分辻凄の合はぬ道筋を取るものであるといふことは・或

る程度までは眞である。かくて、民衆が持つ習俗、信仰等に封して、軽率に合理的な解滞を加へるのは、決して

貿明な展業ではない。ドーソン氏は、﹃擬娩の風習﹄に於て、従来の畢徒が、この風習に勤して持ち出したあら

ゆる説明解樺を一々批判して、その成立の困難なことを明かにしたあとで・

﹃一鰹擬娩の風習は、﹁証明﹂を許容するものであらうか。説明したり合理化したりしようとするのは愚かなこと

︵二一︶ で、本来.人間がよくやる﹁理屈はすれ﹂の産物であつたではなからうか﹄ 2∂4

(4)

といふ患をほのめかしてゐるのはレ自分たちのよろしく三者すべき鮎であらうα 文化民族も自然民族もーー後者は殊に璽その思考及び行動を、屡々合理性に背戻した本能や過去の経験に決 定せられてゐる。そこに習俗、信仰等の不合理、矛盾の無意識的な草生があり存頼がある。然るに一日盲れ等の 不合理、矛盾を意識するに至ると、之をその儀の形態に於て遜成する憩度に出るか、若くはこれに理窟をつけ筋 ヽヽ 路を正さうとするより頻繁な傾向を探る。かくて雷面の考察命題に即して云へば、民間債承が持つ不合理、矛盾 の或るものは、︵決して全部ではない。︶ ㈱﹃人間的な﹄蕗敷からの自然の産果で、矛盾してゐることそのことが本態であるもの。 ㈲ 同じく、﹃人間的空合理化の要求の下に、本然の矛盾的形相を失つて一合理的な外皮を着せられてゐるも の。 である。 かうした分子と畢的合理化との関係は、どう考ふべきであらうか。先づ第一に、刃は、畢的合理化の限界外で ′.■.\ ある。矛盾してゐることが本然の姿であるものを、強いてその矛盾を撥無することによつて、矛盾を含まぬ姿に 挑め直さうとするのは、好んで事の眞柏に速離することになるだけである。這般の矛盾を生ぜしめた民族の本能 や過去の経験を検討することは、畢的に意義があるであらう。しかしさうしたものに決定せられて自ら生れた矛 盾、不合理に、畢徒が膠手に合理化の鱒手を伸ばすことは、論理の遊戯であつて、民間倖承の本然の姿への邁元 ではない。いな本然の要に封する放歪である。しかもわれ等畢徒は、往々にしてかうした性質の矛盾、不合理に 民間序承の不合理的分子ミそゃ合理化︵承前︶ 忍ば

(5)

民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶ 四 勤してまでも理路を立てようとしがちである。これは民間債承が持つ不合理に謝する認識の不足に他ならぬ。民 俗学の一構成折口信夫氏が、﹃古代研究﹄の民俗畢第一篇に於て、 冨蓮といふ語が、此頃好ましい周語例を持って禿た様に思ひます。私は、理窟に合せると言ふ若干の不自然を ︵二二︶ 根本的に待った語として使って居る。﹄ と云はれたのも、恐らくかうした場合の合理化の弊を衝いたものと信ずる。更にまた、ドーリン氏が、 ﹃人類には、おのれの信するところのものを合理化しょうとする頻繁な傾向が存してゐる。人はおのれが習慣的 に属してゐるさま′ぐ・の不合理な行動を説明し去つて、それ等の行動が合理主義的基礎を有してゐるといふこ エスノロジスト とを、自分自身並びに他人に納得させようと常に試みてゐる。予の考ふるところでは、民俗聾者たちは、人類 なるものは、根本的に合理的論理的であるといふ虚偽の畷説を作り上げてゐるやうに思はれる。−1日常経験 ︵二三︶ のもろ′1の事賢が、繰り返し繰り返し這般の観念を裏切るに拘らず。﹄ と云つた言葉は、這般の不自然な合理化を目して畢的精密と誤認する者に封する辛辣堅二十棒でなくてはならぬ。 間と合理化との牌係は、頗る曲折に富むやうに思はれる。㈲は民間停承の生みの親自身がその中に矛盾を意識 した時に、自ら之を合理化した場合であることー先に運べた通りであるが、さうした場合の合理化は、合理化者 自身を満足させることだけで充分であり、従って這般の自己満足的解繹は、該矛盾をその一部とする民間倖承そ れ自身の眞資性に背いた合理的表面を有する。それにも拘らずわれ等畢徒の前に現れた姿に劇ては.兎に角筋の 通つた民間債承としてである。 2∂β

(6)

かうなると、民間債承の不合理的分子の合理化といふことが、頗る菱妙な閲係に立たせられることに気がつか †がた ぎるを得ない。自分は、自分の意味する﹃合理化﹄を定義して、矛盾をつきとめて本然の形相に遷すこと1なし た。しかし考へてこ1に至ると、矛盾を含まない形相が引き歪められた形相で、矛盾を含む形相こそ本然の形相 であるといふ場合が、屡々あり得ることを見出す。さうしたならば、叫も亦自分の意味する合理化の噂外に落ち .し るかのやうに見える。しかしさう窮屈に考へるべきではなからう。﹃合理化﹄が﹃矛盾をつきとめて本然の姿に遷 すこと﹄であるとしても、その第一義とするところは、可“本然の穿に遠す﹄ といふことに存するのは常然である 以上、㈲を合理化の限界内に於ても、敢て差支へはないとしたい。但し合理化の限界をそこまで塘大すると、合 理化といふ男尊が、容易ならぬ困雑事となることを覚悟しなくてはならぬ。なぜなら表面的にせよ、何等の矛盾を 含まない、筋路の通った或る民間停承に関して、その奥に潜む矛盾を看破しなくてはならぬといふ責務までも背 ビジプル タンジプル 翼はされるからである。言葉を摸へて云へば、可見的な、可鯛的な形態に於ける民俗そのものとしては、何等の 形式及び内容的な矛盾撞着を見出すことが出来ず、従って本署に木原的な、信茸らしい民俗として通るものでも その或るものは.これを産み出す心的素因に不合理なところを含んでゐる場合があり、そしてその不合理なとこ ろこそ、その民俗の本質的な部分であるとして、どうしてもそこまで突きとめなくてはならぬといふことになる それを産む心理の反映そのま1ではなく、人間性の一面である理屈化によつて整序せられたものであるといふ意 味で、本然の姿を遠ぎかつて居り、それを産む心理こそ、たとへそれが理屈にはづれてゐても、木原的、第一義 的なものであるからである。 民間債承の不合理的分子ミその合理化︵承前︺ 五 β∂7

(7)

これは本営牢固雑な蓮元である。しかし同時に大きな興味と償値とを有する速元である。畢的には、この合理 化 − 理屈に合はせた外衣を刻ねのけて、その奥なる理屈はすれの本鰹を見届けるといふ意味の合理化こそ、太 だ願はしいものでなくてはならぬ。 哲訂inとしての民間偉承の不合理 − 文化民族と自然民族との思考の相違に因する﹃外から見た不合理﹄が、 ﹃内から見た合理﹄に還元せらるべきこと、そしてそれが拳的に許容せらるべきことは、全く云ふまでもない。 民間俸承に於ける不合理的分子の合理化と云へば、殆んどこれが全部であるかのやうな感じを輿へる程、この種 の合理化は、畢界にボブユラーになつてゐる。しかし﹃外から見た不合理﹄を﹃内から見た合理﹄に邁元すると いふことには.畢徒の陥り易い若干の昆が伴つてゐることを忘れてはならぬ。 プロセス 第︼に、﹃合理化﹄といふ過程と合理化としての解答との混同が生起しがちである。或る民間債承に於ける許訂㌻ としての不合理を哲iコ としての合理即ち本然の意喋に遷すといふ過程と、這般の速元として提出された解答と は、別個の二物であり得る。或る民間債承を産み出した民衆の心理に基き・・、−ハートランド氏の言葉を用ふるな ■︳−︳l︳ ら、﹁黒く考へること﹄によつて、該民間停承に或る解繹を下し、以てそこに存する見かけの不合理を合理化した といふとことが、必ずしもその解繹の妥雷を保記するものではないことは、訣りきつたことであるにも拘らず、﹃黒 く考へること﹄と﹃筋路が通るやうにすること﹄とに熱意する蝕り、この二つの條件に該昔してゐるといふこと が、直ちに自己の輿へた解繹の客顆的安富に封する澄券になるかのやうに思ひ込み、而して這般の思ひ込みが、 その他に若干の已t呂注記な解滞もあり得ることに気を配る拳的周到を阻止する。これは確かに一の恐るべき鳥 民間停殊の不合理的分子ミその合理化︵承前︺ 2∂∂

(8)

でなくてはならぬ。貯pOSedChi︼dT竃eの説話の一としてのロムルス及びレムスの羅馬借詮に於て、この二見が 河に棄てられたモーチフを、フーザ一博士は、生見の血統の正否を試すための邑er・〇r㌢の民俗によつて合理 ︵二田︶ 化してゐる。しかしこの二見は隼生見であり、而して襲生見はpbコOrm已 なもの、従って恐るべき鵡として水に ︵二五︶ 捨て去る習俗が.多くの自然民族の間に存するといふ事案も、同じ程度にこのモーチフを合理化するではないか。 第二に、民間俸承の形相の類同と民間停承の奇生国の賛同との閲係に於て、一つの昆がある。前者の頑同は、 必ずしも後者の賛同を意味しないこと勿論であるが、吾人は椅々もすれば、両者の関係について悲しむべき錯覚 に碇はれる。かくて﹃外から見た不合理﹄を﹃内から見た合理﹄に還元し得たといふことだけに安易に満足する と、﹃内なる合理﹄がAである場合にBを持ち出して平気でゐるといふ畢的粗漏に堕する憂があることを忘れては ならぬ。豊玉姫が、その戒めを破った夫君彦火々出見命に八尋鯉に発じてゐる要を見られたのを怒ぢ恨んで、海 陸の通路を紹って蘇り去ったといふ語根は、 タブー ㈱ 多くの民族に於て、出産は一の鞍重な呪禁であるといふ習俗。 によつても合理化せられ得ると同時に、 ㈲ 外婚に於ては、妻の崇拝する紳は、夫のそれと異なり、従って妻がおのれの紳−竺祭る場合は、夫にとつ タブ1 て.呪禁である。 といふことによつても、ひとしく合理化せられる。単なる合理化といふことを目的とするのではなくて、この民 間債承を産み出した心理を通して合理化することを要求せられてゐるからは、問題はさう簡単でない。この粘に 民間儒承の不合理的分子ミその合理化︵承前︶ 七 急タタ

(9)

客間的関係及び時間的関係によつて生起した民間停承の上の矛盾も.決して見のがさるべきものではない。さ ぅした矛盾を産み出したもろくの素因は、時として太だしく微妙であり綜錯してゐるであらう?従ってそれ等

の素因を看破し別決することは、決して生優しい食草でない場合が、屡々あり得る。しかし畢的に云へば、自分

たちは、自分たちがなし得る限りに於て、それ等を馨見することによつて、民間停承に於ける矛盾を撥無して、

その本然の姿に還元することに努めなくてはならぬ。

ところで矛盾、不合理を生ぜしめた潜在的な時間的若くは室間的素因が擾雉錯綜してゐるとしてもー矛盾、不

合理それ自身が顕在的であれば、まだ始末がい1。しかし矛盾−不合理は、屡々畢徒によつて注目せられ合理化

せられるに発って、民間樽承を持つ民衆自身によつて気づかれ合理化せられる。発生の営初に於ては筋路の通っ

てゐた民間樽承が.融合集国憲識及び文化形相の欒遷のために不合理に感ぜられるやうになると、民衆は自分た

ちの思考の許容するところに従って整序のための﹃自己解繹﹄を施すことによつて、そこに一敗の理路を通する

摸言すれば、畢徒に克って、合理化の先手をうつ。而して這般の合理化が、畢徒にとつて大きな迷惑であり、蹟

きの石である。なぜならさうした﹃自己解繹﹄は、民間偉承の木原的意義の曲歪であるといふ意味に於て、畢徒

に﹃再解繹﹄−・−木原的意義への復蹄を強ゆると同時に、なまじひに表面的にでも理路を通じたことのために、

﹃再解繹﹄の必要さに気づくことを畢徒に困難ならしめるからであーる。先に挙げたロムルス及びレムスの詮話を

民間債承の不合理的分子ざその合理化︵承前︶ 細心の注意を梯はぬと.不自然な合理化となる。 八 ββ0

(10)

再び例に採るなら、多くの畢徒は.この羅馬博説に関して、レア・シルゲィアといふ女人が生んだ二見が水に流さ れたこと及び狼に乳育せられたことに合#化的解梓を加へただけに留って、二見を流すやうにしたものが、生母 の叔父アマルスであること、及び二見が都市建設を企てたことに勤しては、全く紹歎してゐる。船歌の理由は、 それ等が筋路が通つてゐて、何等の説明をも要しないからである。しかしその筋路は、問題の説話の本然ではな くて、後代の合理化の産物である。説話は云ふ。レア・シルダイアの父で、、トルの弟アムルスが兄の領土を奪って ゐたので、レア・シルゲィアが生んだ二見の、成長後の復仇を憂催して、彼等む河に流したと。しかしこれは民衆が 或る習俗を忘れてからの合理化の結果であらう。或る習俗とは、畢生鬼の生誕を一の大きな涌として恐怖し.而 して之に始末をつけるのは、≡已−・i宅c邑sOCiet︸にあつては、生降の伯叔父の任であるのが常であつたといふこと ︵二六︶ である。都市建設の事件に閲しても亦さうである。選吏れたる英雄が這般の大業を翁すといふことは、立派に筋 の通った話である。しかしそれだからと云って、それが後代の解輝で無いと思ひ込むのは、畢徒の手落となる場 合があり得ることを忘れてはならぬ。ロムルスとレムスとは埜生見である。而して襲生見なるが故に大きな繭と して放棄せられ、大きな渦なるが故に、彼等の居るところは一の呪禁地であり、呪禁地なるが故に、そこは一の as首111であり、従って罪を犯したもの、おのが任土に居にくいもの、その他さま′ぐ1の事情の下にある人々の、 自らなる集合肝となつて、途には一個の釆落をなす。これは隠れたる文化史的事案であ少、而してロムルス及び ︵二七︶ レムスの都市建設の異相であらうと思ふ。しかも多くの畢徒が這般の意味を見通したのは、先手をうつた民衆自 身の合理化に心眼を眩き亡れたからである。吾人は、民間停承の多くが、それ等を持つ民衆自身の不正常な合理 民間停承の不合理的分子ビその合由正︵謡前︶ 九 2∂J

(11)

最後に、およそ比較封照の上で見出される民間債承上の矛盾は、部分的に於てのみ、畢的に合理化が許容せら

れることを忘航てはならぬ。柏撞着する民間債承的登種に於て、言正しとし他を正しからずとして矛盾を撥無

することが、すべての場合に書写はあるとは、決して云ひ難い。どちらも正しいとし、一託として取扱ふのが

正普な行方である場合が頗る多い。かうした場合に、強いて矛盾を無くすることによつて合理化を企てるのは、

合理化の乱用であり、畢的に許し難いことである。この意味に於て一項儒南方熊楠氏が、﹃郷土研究﹄第二巻第五

故に、

還流しが木を出す膏慣其飽か1ること、六つかしき古博多し。全く記録には少しも無く、老人に聞置くの外な

し。其老人何れも正しき先例を知悉せるに非ざれば、老人同士異詮も多くあり。日本紀竺昔日、戦団策や史

記に、どちらが正しく、どちらが勝ったか分らぬやうにー魂の囲の榛と秦の囲の條に、記事の全反射異同ある

如く、此等は撃方とも一読とし.控へ置くの外無し。乃ち撃方共個々に正しと見たる詭也。

凡て古代の事や田舎の事は、一説を正、一説を育とすべきに非す。同じ紳にて、一地方の停に長生なりと云

ひ、他方では蛇に殺されたと云ふ賛多し。此は同名の異紳、一は長生し、一は殺されたか、又一紳長生し、一

紳殺されしを、後世同名としりて同紳と見たりするの外無し。又他の紳の倖を誰り俸へたるもあるべし。され

民間債承の不合理的分子ごその合理他宗前︶ 一〇 化によつて、外から見えるものとしての矛盾を撥撫せられてゐることを考へて、一應は筋の通つたところにも茶 から見た不合理﹄を探知し.而してこれを﹃内から見た合理﹄に邁元すべきである。 2ββ もー﹁酔い

(12)

︵二八︶ ぼとて共俸全く虚偽と云ふべからず。乃ち其細長生したる外に、他の紳が蛇に殺されたる也。﹄ と云はれたことが胸に泌みる。︵但し矛盾の撥無と矛盾の登生国の検出とは、自ら別問題である。一を正.他を香 とすることによつて、矛盾を滑滅させることが、畢的に正常で無い場合でも、さうした矛盾がいかにして菅生し たかを究明することは、畢的に許される肝要事でなくてはならぬ。︶ 著 如上の考察によつて、民間債承に於ける不合理の合理化が、畢的に許容せられることには、自ら限界があるこ と、及びその限界はいかなるところに存するかといふことが、略々明かになつたであらう。自分峰這般の限界を 明膝に把握することが民間債承の究明の上に、頗る重要であること信するが故に、この小論考をものしたのであ るが、生来の鈍根と時間の制限とのためにその考ふるところが少なからぬ映隕を持ってゐることを恐れてゐる。 逐語の畢徒の垂敦を待つや切である。 ︵喜︶ G・声S−旨ll−Tlle苧○︼utH言○=l−2冒品On、p:A ︵三︶ ﹂ヂR D芸等コ︶T−1e2告⋮〇︻C〇u召de−p・Sリ ︵三︺ 折口信夫氏著﹃古代研究﹄民俗撃第一篇第二一六頁。 ︵二三︶ ゴロ考SOn−Op.Ci︷一−p・∞可・

︵二田︶ J.G.守P諾r−句○宇どre int訂○︼d T邑冒一e阜召一﹂l・p・鼓P

︵二五︶ J一声lIPr葺丁訂21tOrtb2司eP克n︼叫TまぶCl−Pp﹂−・ ︵美︶ A﹂Ⅰ.内rPppe一The許⋮ence。↓苦手訂re−p・望石・ ︵云︶ 只rPppe−Op・白︷・−p・望可・ ︵云︶ ﹃郷土研究h第二巷第五舵第三〇〇、三〇一貫。 民間博承の不合理約分子モモの合理元︵承前︶ ββ3

(13)

ヽ︸ l .し 文化祀曾畢就中宗教融合畢上、宗教が融合に封して輿へた特殊的な影響を論攻する事が斯拳の重要部門の研究 課題を構成してゐるのであるが、宗教が融曾に封する此聯繋を攻明する場合に﹁曜泣観念﹂宮註︼r≡Jg惑d呂keが其 重要テーマの一として問題せられ得る。事賓、マクス・ウェーバーは此確定栽念を以って宗教政令畢上の重要な一 テーマとし、宗教が融合生活に輿へた文化的意義を確定観念によつて赦曾畢的に汲み出さうと熱意した事は、彼 の大著冨邪教敢禽畢論叢﹄中で﹁吾々の考察にとつて根本的なる確詮観念﹂︵空FH﹂一1告r.Ges21︼邑訂Au要Ne警岩︼紆・ ligぎ講。鞋鼠e・Ⅰ・ドAuコ﹂琵・:翠︶ と言つてゐる彼の言葉によつても大館乍ら其滑息を理解し得る。﹁確詮観 念﹂として言はゞ宗教赦曾畢的には必ず先づウェーバーの畢間的貢献を想起する位である。佃で私は本稿ではウェ バーに掘って説かれた此確詮概念に就いて論考しょうと思ふ。 ー ウエーバーの﹃宗教祀曾畢論叢短竺巻に於ける﹁新教倫理と貸本主義精神﹂なる第一論章の目的はそもく何に あつたか。それは彼が﹁近世資本主義精神を構成したる要因の一が.そは畢に近世資本主義精紳の構成に蓼輿し

確証観念の社食撃的概念

確認観念の社曾学的概念

− 特にマクス・ウエーバーを中心として 一

一二 2β4

(14)

た斗りではなく、従って又近世文化の構成要因でもあつたのであるが、それは職業観念の基礎に於ける合理的虚 世︵︼訂邑i︵室︼e TLebe邑已−1≦gである。而して此合理的鬼世たるや葦は基督数的精進の精紳de−・宕訂tdつrCFri邑ic訂n Aみ薄から誕生したる事を太論章は論破すべきであつた。﹂ ︵声∽﹂・Ⅵ・望豊と論結してゐるところに之を良く理 解し得る。近世人の祀骨盤活或は鬼世生活を淡く其内面性について之を探究すると、其鬼には.この現葦的虞世 生活にある方向を指標し、而して近代人をして此輿へられたる方向へ向つて合理的に精進せしめ、此方向へ向つ て全精力を傾注せしめるところの心理的衝動が汲めども惹きざるすがたに於て充ち満ちてゐるが、然らば近世人 の斯る心理的衝動はそもく如何なるところから淵源し由来したものであらうかを曜定する事をウヱ㌧ハーは問 題とした。而して近世人の此現賓的虚世生活に於ける合理的精進性の心理的衝動は、もと素、根源的には新教の 信仰観念から特融し来った事を導き出さうとする鮎に彼は細ら研究の親野を向けた。︵ヨ∴p−・S・琴︺近世人が現 葦的生活に封して全力を傾注して而も合理的・精進的に之を蕾む虚世の仕方、之を﹁現葦的精進﹂︵︼ieiココer莞≡ぎe

A㌢seと稀んでゐる、而して彼は、之をかの中世に於て現葦生活を嫌廟し逃避して彼岸を熱望し救済を専ら精進

した﹁禎岸的精進﹂、﹁修道院的精準二︼㌃”嘉Se⊇主︼亭eAs訂se二一ie竜一︷宣算コel乙eAs︼ハeseこ山e吉夢c訂読訂芳に封立さし てゐる。中性的精進性に封立する近世的精進の此現宴的精進力は一見宗教的に何等の規定付け或は動機付けを持 たないかの如く想像し得られる、併しウヱrバーは近世人の現資的・合理的・精進性が如何に宗教的要因を持って ゐたか、又如何に宗教的動機付けを以って誕生し来ったかを論破せんと企だて1ゐる。即ち彼の﹁現質的精進の ヽ 宗教的基礎﹂の節︵声S﹂・∽・澄・!衰︺・りが之に苦るのである。 確諾観念の祀倉撃的概念 ββ∂

(15)

︼匹 隠語耽念の絶食単相概念 夫れ中也の所謂伶院的生活、牧歌的生活の方法は特に現資的生活を専らとするが如き倫理的組織をとらなかつ た.宗教的意義に向つてのみ方法的生活が専心せられた、宗教的精進が温けれぼ強い程日常生活或は現賢生活は 避けられ嫌厭された、現葦的道徳性を克服し又之を犠牲にLて迄も特殊な宗教的・神聖生活が想定された。餌ち 解脱我と政曾生活観との間には顛薯な隔離と不調和とがあり、宗教的精進生活と現葦的精進生活との間には高い 越ゆべからざる堤防が築かれて、斯くして所謂特殊な﹁世外の精神的貴族﹂なる赦曾階級が現れてゐた。然るに斯 る彼岸的精進が菱じて現質的精進が之に特化し来った。此事は中世から近世への道程中一大文化的発動の基礎的 菱革であらねぼならぬ。而してかく現葦的精進へと條件付け、現賢的鬼世生活を方法的・合理主義的に組織化し た心理的精進カの衝動が新教の宗教的要因から動機せしめられてゐる事を浮出的に注目したのがウェーバーであ る。佃で中世的精連に封立する近世的なる此現葦的精進の宗教的基礎の分析に向つて行かねばならぬ。 現葦的精進の宗教的基礎を論攻する場合にウエーバーが其最も根本的要因の一として寧訳したものが本論稿で 論攻せんとする﹁確証観念﹂である。彼の言に括ると略記観念とは﹁宗教的信仰を現賓界の職業生活に於て曜澄せ んとする必然的概念﹂der雰d21keder冒すeコd直乱tder謬蚤ざruコgd包G︼呂be・−エコl焉l︷︼ic訂n謬ru空ebeコ・︵声S・Ⅰ・ ∽・−芦︶或は他の債鬼では﹁督業生活に於て紳の召勅を方法的に掟証せんとする観念﹂derのed冒kederme︷ざ。d訂訂ロ

ー誉u宇芸旨−uコg in Er男rbsleb2コ・︵一宕ber・Grundr訂der筆岩㌻︼穿OnO⋮㌻甲 Abt・Wir官許きund G藩ll殆どP一¢琵・S・00芦︶

を指すのであつて、賓に彼は此確定概念に凍って宗教的信仰が政令的生活に勤して輿へた意味聯開を意明し又之

を因果的に説明せんとした謂はゞ一の鍵の如き役割を膵澄観念に地位付けたのであるっ彼は降澄漑念を﹁宗教的

(16)

信仰と現葦的道徳性との結合の囲式﹂dieserGed呂ke已s警en一pderくer㌻宣ぎggn G−Pt旨en。ndSi己ic−−k。it・︵声S・ Ⅰ・㌢︼翠︶と理解してゐる。而して此碇詮観念が凍って以って意識忙来由する淵源に就いて辿ると、ウェーバーに 凍れば、それはあの最格なる﹁運命詭﹂、﹁恩寵改定詭﹂の敦條d試U。gコ︼pderワ註乳npti〇n、dieG。。d。−︼考鞋l。hr。・に 出費し之から湧出し来ったところの概念であると言ふ。ウェーバーは﹁吾々の考察にとつて根本的なる此確認観念 は現葦世界の方法的道徳性を研究するに苦り心理畢的出費鮎として見得られるのであるが.此催記載念は正しく 恩寵改定詭と之が現葦界の日常生活に勤して持つ意義とに滑ふて純文化的に攻明せらるべきものである、佃で青 々は最も重要なる形醍としての恩寵改定説から出費しなけれぼならぬ。﹂︵声∽﹂・ニ準︶と堅エロしてゐる。弦に 於て如上のウエーバーの思想からして宗教が祀曾に射する聯閥に就き宗教と赦曾、宗教的信仰と現葦的生活との 結合の固式として確定観念が位置する宗教融曾畢的地位を了解し得ると共に、此略記栽念が現葦的精進カに封し て持つ意義を論述するに常つては先づ恩寵改定詮なる宗教的敦焼から出費しなければならぬ事を知ったのであ る。佃で私の論述は先づ新教に於ける恩寵改定論の敦條からして如何にして確詮観念が信者の意識に湧起し来っ たかの所以を説き、斯くして私は現葦的精進カの一要因としての確証観念が近世人の意識を駆って合理的・経済 的・虞世生活へ必然的に衝動した所以を論考しょうと思ふ。 ︶ 2 .t 宗教改革、特にカルギン教派に於てはポウP、アウダスティヌスを経てカルギンに操って説かれた﹁運命説﹂或 は﹁恩寵改定詭﹂の宗教的敦條が強く信奉された。凡そ人間の現葦生活には必然的に之に随伴するところの、原罪 確詮栽念の社食畢的概念 β♂7

(17)

確認観念の社食撃的概念

一大

に因る根本的な制限があえ∴而して此根本的制限から完全に自由となり得る事が宗教的望みとして此鬼に宗教的

信仰の観念が起り来る。人間の精霊の碗両と讃命の無限とが信仰観念の内容として欲求され、而して之等倍仰概

念の内容が欽漕の形式に撼って澤成せられる。今カルギン教派に在っては政府親に就き恩寵改定詮の信仰が激し

く教徒の意識女支配してゐた、即ち人間が救済せられると否とは紳の稽謝意志によつて決定せられ改定せられて

ゐる運命であるとの決定論≡destinat山。邑e︷er⋮iコぎusの信仰が強くも鼓舞されてゐた。而して今人間の精霊の天

福と其寿命の無限との願望が人間の自己の自力的行男就中自己完成の人格行男に因つて解脱し得られるものでは

なく、専ら之は紳の恩寵而も紳の滝野意志の自由な改定的決定であり運命でありー誰人が枚潜され誰人は政潜さ

れ得ないとの選定の権能が紳の紹封意志た在るとすれば一倍者には恩寵の選びに掬して如何なる意識状麿が起り

来るであらうか。

恩寵改定説を厳格にも信奉する信者には斯くして必然に﹁そもく私は紳に選ばれてあるか。﹂字ic:enコer守 蔓ニR∽・Ⅰ・ニ声︶との疑問、疑つて甚だ不安心な意識が恒に昂揚し来る。救済の恩寵が紳の樺能に在り従っ

て彼岸への門戸の鍵が紳の御事に在る事は政埼の恩寵を切に熱望してゐるカルギン教徒の意識に政商恕上甚だ不

安な意識が起り禿たるのは雷然の心理過程であらう。併し此不買疑惑、悲哀の心理上の悶は信徒をして白菜や

断念に導き入れない、眞に政潜を熱望する宗教的摘心を熱烈にいだいてゐた常時の信者は反って進んで紳の恩寵

が自己に勤して改定され決定されてあることをば檻記せんとする強い意識が奮起し来たのである。而して﹁自分

が紳に選ばれてゐるといふ意識状悪を確定し得る﹂die冒︷塾b弓訂it計○コをl旨des矯めには如何なる方策を探 βββ 良 一

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るべきやの問題が継いで起る﹁如何なる方法に撼って紳の救済の選びに入ってゐる事の曜賓さを私は求め得る

か﹂el−d弓iekannicFdie軍学急ぎ義乱cす焉rden二R■S・l・∽﹂声︶即ち何等かの方法に凍って紳の選びを碇賓

に記しょうとする意識過程が生れる。これウエーバーが説くところの、カルギン教徒に於て曜詮概念が凍って以

って起り来たる心理過程の様相である。

然らば命進んでカルギン教徒は此確証親念の衝動によつて如何なる確澄の手段或は方法を要請したかの問題を

論攻しょう。彼等に在っては総記の手段或は方法として現葦的生活が要請せられたのである。即ち彼等は紳の救

済的恩寵を折りと悔悟とに於て緩経せんとし或.鱒宗教的儀緒或は奉仕に於て紳の恩寵を確証せんと精達したので

はない、つまり諸々なる宗教的精進に於て紳の恩寵を澄明せんとは少しも念願しなかつた。彼等は俗界の現葦的

生活に謝して溶剤たる生活意識を以って専心精進する事に於て恩寵の確証を獲得せんとしたのである。此事は一

見信仰的理由に反してゐるが如く理解せられる、と云ふのは一般的に載ると宗教的関心と俗世間的関心との間に

調和し難い矛盾があるが焉めに、従って又世間的関心に強く執着する事は宗教的信仰に惇理するが故に。然るに

カルギン教派に在っては現寮生活に向つて積極的に精進する事に於て紳の恩寵を確定せんとする。然らば何が故

に彼等鱒宗教的澗心と調和し難い現資的世界の日常的生活、融合約諾生活への精進を要請したか。短的竺己はゞ、

凡そ全鰹としての現資世界は宗教的にこそ精進的に償値があると理解し得る、現賓界こそm覇PperditiOコi∽であ る。勿論、現葦界は﹁罪の土彗﹂Ge訝derS夏eにして罪悪的俗塵に満ち充てる、償値なきものの定存場であるー

財貨の享楽に献身する事は救済への道を危険にするのみならず救済を不可能とする象徴と見撤し得る、侶で現茸

確認観念の社食撃的概念 ββ9

(19)

世界に於ける諸の欲求は神聖なる宗教的欲求の展めには之を断念すべきである。此中世的親方は一方に於て正し

い。併し乍ら他方の親方からは此世界が罪の土襲であれぽこそ紳の柴光の褒めに此世界の裡に全力を以って精進

的に突入して此世界の醜塵、罪悪と闘争し之を紳の焉めに克服すべき一現場であり得よう。従って又此現葦界こ

そ恩寵確詮の最高課題となり得るのである。況んや此世界は紳の創造である。現葦にこそたとへ罪業の満てる現

場であるとしてもが.紳の全能カは現賓界の中に尚も作用してゐる。が故に、此世界の現草生活こそ合理的・組

織的行偏によつて紳の粟光を檜大すべく精進し進んでは紳の恩寵を確諾する焉めには唯一の作業場たり得る。選

ばれてゐるといふ恩寵の意識状態をば確定し、且つ選ばれてゐるとの恩寵の意識状態を強く経緯せしめる食めに

は現責的日々生活こそ唯一の最高課題であり得る。斯る理由で、清教就中カルギン教派に在っては積極的にも現葦

生活の鬼他生活を碇澄封象として採用する。特に彼等は経済的・職業概念或は葦業的・従業概念に就いて確澄の

意識を強くした。﹁疑雲と不安とを沸ひ、碇澄の自己の意識を曜資にする馬めに、其最膠道として、止むなき職業

従業r邑蓋謬ru許rbeitが厳命される。此止むなき職業従業これのみが宗教的疑惑を除き恩寵状態の確害さを輿 へる。﹂︵R.S﹂・S・−宗−−声︶夫れ﹁職業﹂宮邑は紳に召されるところの紳の﹁召勅﹂die謬ru2コg2mコei−であ る、職業に従業する事は紳の政潜に召される赦業即ち天職空費e碧aH、eぎt邑c已−身である。富の享楽、欲望の ま1に従ふ富の蓄積、統制なき我億なる感情の激賛、性的本絹の無禁慾、磨ふしたものは絶て紳の救済を妨害す

る。之に反して、只だ、人間の現象的勢力、本能、感情、之等を合理的法則或は合理的秩序の下に克服し制意す

る事は神意に叶ふところであり、就中、紳の召勒、即ち職業、経営−1合理的に組織され、倫理的且つ合法的に 確証観念の癒合畢的概念

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以上甚だ概述ではあるが之に嬢って、掟静観念が﹁恩寵の確証﹂dieGロ已enge司賢eit、Ceri邑○邑iti∽・p。rSe責邑ia。 g邑声の焉めに現苦界に於ける虚世生活を最高唯一の作業課題として要請したる事、従って宗教的関心と現資的

関心此二の相互に相接撃し相惇及する世界観を調和したる事、香超現賢的目的の意轟に因つて現賓的慮世を偲値

的に合理的・精進的に征服せんとしたる事、就中経済生活に謝して之を合理的・組織的方法によつて淫行せんと

精進する経済倫理を衝動したる事、磨ふした、宗教と敢曾との特殊的にして密接なる意味鞠聯に就いて確証観念

が甚だ注目に償する契機的一要因であつた事を察知し得るであらう。弦に於て吾々は確証概念が政曾的生活に謝

する此聯繋を草間的問題とする時に膵詮概念に閲して融合拳的研究が論考せられ得ると思ふ。

併し本稿は確定載念に関する融合畢的概念を論攻するを目的とする。佃で斬る意味での確澄栽念の概念を信明

眉にする馬めに倍左の論述を試み度い。英一はウエーバー以外の敢曾筆者或は経碑聾者によつても催謹観念が融

合畢的概念に於て着眼されてゐたであらうかを参考の雷めに述し、其二に、侍、本節で催詮観念が現茸的精進性

於ける精進的虚世に在っては合理的・且つ合法的に獲得されたる富は恩寵状憩を確証する象徴物と見倣される。﹂

象徴であると之を理解する。﹁カルギン教、バプティスト波、メンノー漉、敬鹿渡、メソディスト渡等の新教諸派に

的・従業に勤して輿へた恩賞であると之を概念し、従って叉此経済的利得は紳の恩寵に召されてゐる事の礎澄の

蕾む経済は紳意に叶ふところのものである。且つ之等の欺績たる経済的利得は紳が敬虔なる信者の合理的・精進

︵W.G.S.望遠●︶ 確詮親念の政令学的概念 ク7J

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確認親念の融合畢的概念 二〇 に封する意義を論述した牌係上、之が外延的確域を薩足する鳥めに清教に於ける現葦的精進性は只だ唯一に確定 数念のみによつて其要因が説き得られるものであらうか否かを論述し度い。次節に於ては先づ確証親念に閲する 文献に就いて若干を掲げやう。 ︶ 3 ′..■lヽ 宗教が政曾、経済に謝する精神的聯閲を根本的に意明し文化の精神的構成要因を根本的に理解せんとする最近 二十世紀以来の鹿骨拳的傾向に於て之が一の中心理論を﹁恩寵改定詮﹂﹁確記載念﹂﹁現葦的精進﹂に置いて試論し ょぅとする知的選良藍単にウェーバーのみに限らない、特にゾムバルトの如きはウェーバーと同様否ウェーバーに ょって暗示され、確証概念を以って西洋資本主義精紳の根源的構成要因と見撤す理論を構想してゐる。今私の知 れる僅少な文献に就いても特に注目に償するものを参考の偲めに示すと。 既に英国のJ−ネーは、カルギン教徒に於ける現葦的精進或は倫理的善行が救済を獲得する手段として要請せ られてゐるのではない、即ち現葦的功徳、修行、精進が解脱を達成する薦めに採用せられてゐるものではない− 彼等の現賛的精進はつまり紳の恩寵に選ぼれてゐることをば確託せんが馬めの必須的條件として衝動せしめられ たものである事を明言してゐる。 ﹁善行は救済に達すろ手段ではなく、救済が獲得されてゐろミいふ確証ppr00rtFats已邑iつnF岩beeロM三軋ned亨して 要請されろ。﹂︵声ⅠⅠ・T芸neY謬︼igi。n2乙t訂R訂OrC鼠邑訂m・君d.ヒ警岩.p﹂声︶ マールプルヒ大草の紳拳的経済史家であるゲンスユは其大著﹃福音的経済倫理﹄に於て新教と経潜倫理との密接 β7β

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な賄係を仔細に攻究してゐるが、彼も亦此場合に確記載念の重要なる事を見過ってゐない。 ﹁最後に、恩寵壊定説がカルギン教徒の倫理的精進の要因写して重要克意義を持つ。恩寵漁定説を信奉すろ信徒は忠噸ミ節 操ごlニよつて紳の恩寵に選定ぜられてゐろ事を確諾すろ、何ミ光れば誰人も紳の救済に選ばれてゐるミの慮信わ持たない故

lこ、紳の召勅帥ち天職に忠順ミ節操ミを以つて之lニ精準し立に恩寵の確茸さを確詑ぜんミすろ。宮急hrung呂訂eine宮r千

野−beit・而﹂て此熱誠なろ、紳の召勅へ向つての道徳的・確諾作業上ろ職業従業の結果物ほ紳の貯物言して感謝Lて之を受 納L、叉之な倫理的確証の保証写して理解する。﹂︵G.一書︻鼻音∵軍⊇nge︼i拷訂Wiユ胃訂君史已k.−¢芦P㌶○−聖戸︶ ズエーゲンも亦概要的ではあるが明確にも確証観念を説明してゐる。 カルギン致涯にこ在っては事情が甚だ複雑でぁろ。従って彼等に於けろ宗教王政骨ミの関係の濁特なろ構造を英一、一に亘 って之ね包括L、以つてカルギン教徒の精進的構紳が輯向﹂来った所以な論破すろ事は困難でぁる。彼等は紳の恩寵は紳の 紹封的なる自由意志によつて決定ぜられろミの恩寵壊定説を中心信仰写して信草してゐろ結果写して、彼等は先づ紳の圃l= 入ろ事が出苑ろや否やの救済可能の一般問題な否定ぜざろわ待ない。併L紳に救はれろ事が絹封的に不碗賓でぁろミの事な 恒に意識すろ事は彼等は耐ゑ忍び待ざる亨−ろでぁろ、偽で信徒は紳の恩寵lこ選ばれてゐろ寸Jの認識微積わ確定ぜんミ熱心 すろ。凡そ紳の柴光ね樹大■ぜんヾJ奉仕すろ教徒のあの虚世生活に於て紳の選は確諾ぜられろ。dieもー・w賀u鼠h be軋詳主 監c=ロ軋nerlJeb宍道2一1ruコg、・⋮⋮而Lて紳の発光を埼大すべく指令された作業場席li教徒l=寸Jつては﹁紳の召勅﹂謬ru?即 ち紳が指今し上磯業でぁろ。斯くLて信徒は現茸界を克服すべく培準し、其効業の成績によつて彼等は求めんミす﹁恩寵確 茸望息識に達すろ。﹂︵〇・S夢︼gen・Re扇ぎund一言︷各a戸−十円空n・≦eユe︼j・SONiO︼.00.JPh軍−害〇.s.∽2−∽芦︶ 宗教政令聾者トロヱルチの確許観念に関する叙述に移らう。彼も亦カルギン敦園や敬虔旗教団などの﹁精進的新 教﹂がルヅテル教派や加持力教派と異って醒詮観念に強く支配されてゐた事を指摘する。 確諾観念の武舎畢的概念 2ク3

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命題いでマクス・セラーに於ける確証観念を掲げよう。 カルギンはルツテルに比Lて従業観念並lこ職業親念をより強く主張−し告。カルギンは生活意欲ミか事奨欲望ミかに促され て替利を花す事を厳禁L㍗、菅茸は彼は加持力教派やルソテルの主張よりもより戯亡く享柴を、たミへそれが最も高尚な仕 方で味はれようミも、固く禁止、し㌣の・でぁろ。具だ紳の柴啓示此土に埼大ぜんJJすろ欲動にこよつて、従つて他の如何なる欲 望の下に静まれよう†TLごしかく無制限ミは光り待ない†こーろの、ぁの無限に皆利を追及すろ従業に於て、信者が紳に選ばれ てゐろミの現書的徴標モーしての﹁確認﹂空室夢rungを説い上長初の人は彼カルギンでわつ圭。﹂ ︵害PM Sche︼er●C訂i浄ntl≡l 二二 確証萩念の社食畢的概念 ﹁之等の精進的新教渡lこ在っては職業を確認の手段d2r謬r−一ごl∽呂t邑d2r哲悪どu−︼gミ考へ、又熱心に職業遂行する ペルーフス・アルバ,つト 事を恩寵状態の認識徴標die軋迂ge芽ru詳r2︼ど長已s苧訂ロntl−訂eic訂n ミ考へてゐろ。全力わ傾注Lて職業従業l= ペルーフス・テール 精進する彼等の理念は、紳の召勅的秩序lニ徒事†ろ精進ほミも角紳意lこ叶ふものでわろミの紳の召勅目的革帯び付いてゐ ろ。一切の労働封象物から感情並lこ享欒な精神的に分離すろ事.彼岸に於て蓮ぜられる、従って死に到ろ迄従業な替ま,しめ ろ、あの恩寵目的へ向つての止むな与・従業繋張、現賓界lニ於けろ一切の事象、物象を単に合目的性の手段の下に克服†ろ事、 乱費、怠惰等の衝動を印度する食めに方法的・労働訓練を化す事、労働制釜を宗教園億並に公金の食めに寄附すろ事、磨ふL 否ものは、英一、一lこ就いて托各種各様の基礎を持ってゐろけれごも、併、し他方にこほ共同的要因を得びてゐるミ、ろの、精 進的新教渡の根本主義でぁり、又理想であろ。﹂声ゴ02−t籍F崇2SO針コ2F2nderc訂宣ichenヨぷ訂n己已芽uppen・I G現pm.哲FiP︼.∽.AuP︼警声仇.芝¢−莞声︶ 而して此精進的新教次の経済倫理はこれが由つて以って来る源は稀静観念に在る事を彼は強張する。例へば、

﹁カルヰン渡l‡確認親念の強いカによつて uロter dのm N弓pロg de∽ ]P芸三hrungsgedpコ訂n∽ 従業精進を惹起亨しめ㌣。﹂

︵S〇説已−ehren●∽.誤q.︶

り〟

(24)

lmd手取e︼−衿訂P声l計冒b、遠望■Ⅵ.−−○し 最後に私はゾムバルトの思想に就いて観よう。彼は﹃近世資本主義﹄研究の特殊研究として識者の間に多大の問 題を喚起したあの好著﹃猶大人と経済生活﹄の中、第十一章に﹁猶大数が経済生活に封する意義﹂と超して、宗教と 経済との関係を攻明したのであるが彼は態々其帯川節堅.確定概念﹂と返して之を詳細に論じてゐる。 ﹁此世lこ於けろ繹潜的繁柴は、神意一l−叶ふ㍗生活を螢んでゐろミ=ろの徴横言して考へられろ計りで光く、彼岸lニ於ても 亦必やや紳の貰諌を受′、ろに疑の兄いご=ろのもの写して考へられろ。此世の幸福は敬虔なる眞の信仰を確託する乳cF b?

弓夢renものでぁるミ正㌻しノ1是認すろ。︼つヂSOmb罵t●せie Judell und die Wirt乳訂君−eben●ドAuP−悪声m.宗−し

鈴彼は本章の最後の節、﹁猶大数と清敦﹂の中で左の細く述べる。 ﹁私は本金葦り研究をウエーバーが研究L圭清敢の根本観念ミの比較の食めに賽、したのでぁる。併L此比較lこ於て猶大欲 ヾ1清致ミは事茸全く二致﹂なけれげ光らわミ思ふ、特に優カなろ宗教的園心、確謹観念、合理的虞世、現箕的精進、宗教的 観念ご獲得関心寸Jの結合等に於て全く一致する。﹂︵Jude−1∽.諾柏.︶ 以上は若干の例示に過ぎないがウエーバーに腐って説かれた障静観念の概念が他の政令畢者や経経聾者によつ ても柏常に着目されてゐる事を察知するに難くない。併し乍ら確記載念を、特に政曾畢上或は経済畢上、宗教と 政曾、経済との聯閲を攻明するに雷って、之を畢間的に浮出したものは賓にウエーバーの貢献であつた事は否み 難い。トロヱルチやセラー等も碍詮観念に出費して近世社曾文化、近世資本主義精細の構成要因を論攻したウエー バーの拳的貢献を認めてゐる。︵ぎzi已・S・讃P、Chr・G・苧穿︼bb・㌍ニー︶就中ゾム.ハルーの如きは﹃猶大人と経済生 確証載念の政令畢的概念 汐丘

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活﹄の﹁序文﹂に次の如く運ぶるところがある。 ﹁私が拙彗近世資本主義完根本的に新訂ぜん写し㍗時lこ偶然にも猶大人の問題に研究を進め㌔共時に私は﹁資本主義結 締﹂の塘源にこ就き之が坑道をより深く堀り行かうミ考へた。マクス・ウユーバーの清敬ミ資本主義ミの聯閣を請むに及んで、 私は必然的に、宗教が裡瀞生活にこ及ぼす影響を従来よりもより以上lこ迫草しなければならないミ考へ、此場合に=先づ私は猶 大人の問題−こ北攣し圭のでぁろ。何ミなればウエーバーの拳琵lニ充分光ろ証明を輿へろ事ミ光ろのでぁるが、資本主義精神 の構成に封上し持つ、清数の教健の事耳的有意義ミ想はれる、あの一切の要因は、猶大数の宗教的観念固からも引手出され ㌃から。﹂︵Judeコ.くOr声く.︶ 尊ウエーバーが近世の新搾済精紳が新教の宗教的構成要因を持つてゐる事を蓉衰亡上長初の論文は一九〇四、五年でぁる、 芦Weber・崇eprOt冬空1山ku已derもe誓deⅥ月旦邑㌢奉T●こ●︵Die謬ru監eede∽設計et訂訂n亨Ote訝nti冒uⅥ︶ −Archi■nSO邑声u・∽。鞋p・回国・芦−情宣・l︼・回国Ⅰ・冒−冨・グムバルトーミ此論文に墟って大に暗示毎うけ、 又之が趣旨に賛草し、一九一一年に﹃猶大人ミ群滑生活﹄を琴し上のであろ。 而してゾムバルトがウエーバーから受けた畢間的暗示或は影響の根本的なるものは何であつたであらうかーそ れは言ふ迄五左く精進的清教に於ける聴許概念であつた事峰前に揚げた詩文にても知られる事と思ふ。 ︶ 4 ′一l11 現算的精進性を恩寵改定詮なる宗教的教條に出費して之を心理的に分析すると礁詮思惟が甚だ枢要な契機的要 因に地位してゐる事は既に説いた。併し乍ら此鬼に注意すべきは恩寵改定詮と現質的精進性との因果的聯閲の意 明は只だ唯一に掟詮漑念のみに擦って可能であるか、或は又その外にも契機的要因があるかの問題に就いて論考 確翠観念の鹿骨畢的概念 β彷

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しょぅ。何となれば此間題提示は梶野観念の謂はゞ外延的範域を決定する論理的指固ともなるであらうから。 卯 此間題に入る前に現葦的精進性に就いて制限を加へ度い。現貰的精進性と言はば絶て宗教的に動機付けられた ところの意厨から衝動された、政曾的生活の各方面をば含む現貰的精進を指すのであるが、之に各種の精進を分 類する事が出来る。眞宗に於ける俗語門の教義に意蘭する現賓的精進も或は法華宗に於ける現資的精進も怯に敢 曾畢的には研究すべき現葦的精進の或る種と轡言し得る。或は又回々教に於けるウェーバーの言責に薄れば﹁戦 争的精進﹂diた苧ie笥巴ハe詔も現案的精進の一種と断定し得る、特に此精進は恩寵改定詭に源流する現葦的精進な れば基替歌に於ける現葦的精進と共に赦曾畢的攻明を等しくすべきであるが、併し基督敦に於ける現賓的精進は、 回々教の戟軍的精進と其活動範域を異にして、主として経済的精進を主要範域となしてゐる。此虚では之等価 数、回々故に於ける現琶的精進の祀禽畢的概念範域に就いては述べない。此鬼では新教に於ける現賓的・経済的・ 精進に就いて範域を限定する。 斯くして今新教に於ける現葦的・経済的精進性を論考するのであるが、此場合宗教的敦條としては恩寵改定詮 が出覆の大前提となつてゐる事は否み難い特色である。然るに精進的進数に於ける経臍的精進は只だ唯一に綻琵 概念に意圃されてのみ惹起され来る現象であらうか、或は他に此宗教的信経と経靖的精進との間に介在する契機 的要因があり得るであらうかを考案して行かう。 心理畢的に分析すれぽ恩寵改定諌を信奉する信者の信仰意識には二の状憩が意識せられる。其第一の状鯛心は ﹁自分は紳の恩寵に選ばれてゐるや否や。﹂との疑惑従って不安な意識状態が醸される事であり.其第二の状暦は 確認親念¢証骨学的概念

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る不安な状態とは異つて﹁自分は紳に選ぼれてゐる。﹂と礁信する宗教意識の状憩である。前者の如き宗教的意 斬 識は既述した通りの確詮親念を必然的に湧起せしめるのであるが、後者の宗教的意識は次に詮︿が如き心理過程 を惹起して現葦的精進に向ふのである。恩寵改定設に勤して信者は之から﹁自分は紳に選ぼれてゐると経信す る。﹂Sicざ苧宅急已t2b已ten・︵声∽こ・P]岩申︶ ところの此宗教的意識状態忙在っては、﹁自分が紳に選ばれてゐ るか、否か。﹂と言ふが如き疑惑的な宗教意識に状態するのは、そは、未だ信仰の足らない必然的結果として悪魔 の誘惑に堕落したものであり、従って、そは、つまり、紳の恩寵が完全に輿へられてゎない結果に外ならないと して、宗教的疑惑の意識状憩にある信仰態度を拒斥するのである。即ち第二の信仰意識状態に於ては最初から紳 の選が不降賓であるとの事から来る疑惑従つて不安などは之を意識してゐない、信者等は最初から紳に選ばれて ゐるところの所謂﹁精神的貴族﹂diegeistigeArist。kr註eであると概念するのである。今、紳に選ばれてゐる此精 神的貴族の概念並に経信が然らば現草生活に謝して如何なる態度を赦果したであらうかを問題とする。彼等は思 へらく、紳の選民たる青々は一の高き使命を輿へられてゐる。吾々は他の異信徒と厳然と区域せられてゐるべき であるところの目に見えざる精神的貴族階級であるが故に、選民は輿へられたる使命、即ち静の焚えを此土に顕 現すべき使命を完ふすべきであり、斯くして選民は選民としての神意に叶ふべき使命即ち義務を完ふして選民な らざる異信徒と厳然と異る資格を蓉挿すべきであると。斯く思惟する動機付けに基因して全緒の精進カを蓉挿し ペルーフ て彼等は現賓生活に於て紳の柴えを檜大せんとするのである、就中紳の召勅たる職業、葦業に精進し専ら螢某社 業に於て偉大なる教具1ト従ってそは紳の禁光を此土に穎現し檜大する事であるーー⊥誓遂げんが馬めに不断の従 確証親念の祉曾学的概念 β7β

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業に専心し精進するのである。前者の確証観念に在っては紳の恩恵に選ばれてゐるとの自己曜信がない、侶で紳 に選ばれてゐるとの恩寵曜詮を獲得せんが虜めに、疑惑と不安との宗教的意識が信者を駆って、職業従業の止む なき精進が最勝遣として蕨命される、止むなき職業従業のみが宗教的疑雲を排ひ紳の恩寵の催学豊息諾す左唯一 の膠道とする。之に反して選民たりとの精神的貴族の観念に在っては紳の恩寵に向つては何等の疑惑をさしはさ まない事を信者の義務と固く概念し、而して選民は選民としての高き使命を顕彰する矯めに尊大さを以って職業 従業に精進する。 ラウフヱヱンブルガーほ現質的精進の宗教的基礎に於けろ確認観念ミ椅紳的貴族なろ観念から来㍗ろ義務観念或は使命観 念ミを厳格に厩蒜警してゐる。而Lてウエーバーが現質的精進を圭写して確謹観念から説明︺意明ぜん写して英国及び新大陸 lこ付き之な事例︺㌣lこ封,して、ラウフヱンブルガーほ欧大陸に付きてもウエーバーの研究が安富、し縛ろや菅やを研究せんヾ1 意固︺、之が食めに彼lミニルサス、就中ミュールハウゼンの清教徒が近世に於一/し資本主義的賓業従業に鰭進Lた、あの現質 的精進性をウエーバーの理論に準墟lして精零し上席黒を費衷・した。︰れ﹁ヱルサスに於ける宗教ミ渾滑jなろ論文 ︹芦訂u・ 才コbur讐r.Rユigi〇n亡nd一ヨユ考訂コ山−−∵塁打率 − Ar各日づ⊇rmO且已声u●SO針す芦=記﹂篭PⅥ●望云−由巴.︶ でぁる。ラ ウフエソブルガーlこ墟れば、、、、ユールハウゼンのカルギン教徒の資本主義的精進性についてほウヱーバーが本来主演Lてゐ 主砲諾観念なろ宗教的基因は之に妥嘗ぜす、むLろウエーバーが副次的lこ要撃したゝチ=ろのぁの精細的貴族なる宗教的自制 観念から爽上る使命観念が該地の彼等の資本主義的精進性の宗教的基因ね構成・してゐ上のでぁろミ断定すろのでぁろ。︵s. ∽柏柏1∽㌍−︶ 日く﹁彼等新教徒は全力な悉﹂て職業生活に向つて積極的に精進†る、而Lて之が目的は其構造的結果に於て前 の恩寵に選げれてゐる=ヾしの確謹をげ管見ぜんミすろのではない、む・しろ彼等は紳の柴光を此土に顔現すべ三晶き佗争で現 茸界に通行■し得.へ与=ヾ﹂をば確定ぜんが食めでぁろ。此意味で彼等は現茸的生活に向つて多大の精進ヾJ努力ミを志す。之れ 確認観念の放含学的概念 β7タ

(29)

確認思惟に勝る革も劣らざろ隠さで現茸的生活に作用するのである。﹂︵s.∽鍔︶ミ

却詮ウェーバーの説く清敦の現質的精進性の宗教的基礎には恩寵改定論なる信條に勤して信者が之を無自制に

ゼルナスト・コンゝ・P●−レ 厳格に信徒する場合の宗教的意識状態と∵信者が自制的に選ばれてゐると確信する場合の宗教的意識状態と

に應じて、選びの不梶葦従って不安から因由する確証観念と、精紳的貴族と想定するところから因由する高き使

命観念或は渇き義務観念とがある。只だ夫れ其何れの観念から現葦的・経済的精進が衝動せしめられようとも、

ペルーフ 信者は経済的精進即ち紳の召勅に精進する現葦的行男を代償として救漕が獲得されるとは夢想だに想厨しない、

解脱は人間の自力的行男による自己完成を以って獲得し得られるものではない、故鱒は純ら紳の稚封・自由意志

に上る選である、と信念する鮎は確証概念に於ても義務観念に在っても異るところはない。此意味からして其両

親念の何れもが原罪親に基礎するあの恩寵改定訣の敦説に淵源して洗出して来る宗教的意固であると言ひ得る。

勿論現賛的精進者の彼等の宗教意識には両親念が終始巌杏に現葦的には区域せられてゐない場合が毎り得る一

両概念が混蝕し、或は何れかが優位的に作用する場合が甚だ多い。併し乍ら分析的立場からは一之等両親念は論

理的、概念的には張番に区別して論定すべきである。而して其何れが現箕的精紳に封して重要さを待ったであら

ぅかば、ウェーバーに於ては、彼は、票数鹿骨畢論叢旨の各鬼に精進的新教の1精神的貴族﹂なる文字を使用

し、或は義務観念の意義を論述し、特に其﹁緒言﹂中には代表的に、構造的魔性の形成的要因は宗教的信仰に碇泊

したる倫理的なる﹁義務概念﹂宗cht喜1き義である−と述べてはゐるが、併し最初に述べた如く、1吾々の考察

にとつて根本的なる確謹観念﹂と断定し、或は他の債鬼で、彼は、人間の虞世行男を組織化し方法的に合理化す

確詮叔念の社食撃的概念 β飲)

(30)

る心理的衝動は宗教的信仰に碇泊し之から動機付けられた各種の宗教的意園に因つて湧き出で1来るのであるけ れども之等各種の宗教的意囲の中でも精進的カルギン教派に於けるところの恩寵改定説に出癒する掟記載念を以 って其最も膠れた心理的衝動を蕾んだものである、と認めてゐる。︵声S﹂・Ⅵ・−芦︶テンニィースも亦ウエーバーの 宗教敢曾畢を批判するに雷つても﹁精神的貴族﹂の観念よりも﹁碇澄観念﹂を重税してゐる。︵﹃・Tぎ1ies・只u−tu計・ deutuコgder謬︼igiOロ2n・−才bm〇ごersJa一1rb・芦J已︼rg●だ章PⅦ・−乃1−可・芦︶ラウフヱンプルガーの如く曜澄観念よりも 精神的貴族に於ける義務観念を重税してゐる者もあるが、之は特殊の場合であつて、一般的に載れぼ、宗教が融 合に封して輿へる文化的意明の鹿骨学的論考を試みる場合には先づ膵詮観念に着眼し之に出費すべきであらうと 思ふ。︵完︶ ︵附記︶。宗教の政曾畢的研究の主要な研究封象は宗教と赦曾との文化的聯閲を攻明するところに在る、・との見解 は現今の赦曾畢界に於ても優カな地歩を占めてゐる。併し宗教の祀曾拳研究封象に関する此見解に就いては説 明を要する、即ち宗教が融曾に封する文化的聯閲を攻明する場合と融合が宗教に封する文化的聯牌を攻明する 場合との二部門に宗教鹿骨畢の封象課題を厳格に区域する事が必要である。ウェーバーの宗教敢曾拳は主とし て宗教が祀曾に射する文化的聯踊を意明する事を直接の研究課題としてゐると載れば、ト・ロヱルチの宗教鹿骨 畢は赦曾が宗教に封する文化的聯閲を攻明せんと企固したものと親得る。今宗教が融合に謝する文化的聯繋を 主要問題とする時に、鹿骨畢的には﹁現葦的精進﹂が之の重要な研究課題として取り扱はれる。﹁修道院的精進﹂ 確認親念の社食畢的概念 2∂J ヽ

(31)

の如きは敢曾畢的研究の課題とはなり鴇はぬ、何となれぼ修道院的精進は直接には現葦的生活と寮接な結びつ きを持たないといふ意味に於て。之に反してー現賽的精進は.宗教的に意国にされた或は之に動機付けられた 人間行馬が必須的に現葦生活に直接結び付いてゐるし、叉斯る結び付きに因つてこそ人間の現箕的生活の文化 的現象の発動忙勤して或る種の要因的衝動を根本的に輿へるといふ意味に於て、此現賓的精進性は宗教政令拳 上に重要な論考の課題となるものである。ウエーバーに於ては斯る意味に於て此﹁現葦的精進﹂が宗教敵曾畢 上の研究課題となつてゐる。而して此現資的精進を直接宗教敢曾拳上の研究テーマとする場合、そもく現貴 的精進が如何なる宗教的基礎を持ち或は如何なる宗教的意固から動因せしめられたかを論攻する事が、現葦的 精進の融合的畢論考の場合には最初の且つ必須的な周題として要請せられる。本論稿の目的は現葦的精進の敢 曾畢的論考のこの要請に應じ又これに結び付く旛めに縫定職念の融曾畢的概念を論述したものである。 ︵昭和六年七月三十一日︶ 確定観念り紐合筆的概念 β占一之

(32)

宗教を紳の問題として考察して禿た近世中期までの腰度に封して、宗教を宗教た於て、換言すれば宗教を人間

生活の直接の相に於て経験し味到する態度を誕生せしめたものは二般に濁逸に於ては、ロマンテイクの﹁時代﹂

であつた。所謂﹁時代﹂の蕾現とともにこのことは思想史上重大成されなければならぬ。

ロマンテイクの特質は二言にしていへば.哲畢的思索の内容を詩の形に於て表してゐることをその表徴とする

といつてよい。特異の生活情調を表明するものでその特質を平明な概念によつて捉へることは出来ない。そして

ロマンティケルの人々も、決してその生の思粟感知の内容を理性的哲畢的な鰹系の組織には潜らさなかつた。︵1︶

併しこの期の奔放不裔の情熱と直感と天才とは、生の意味と内容とに、吏らに生全鰹に斬らしい意味を覆現せし

めて、常に生命の祓奥に私む宇宙の謎を詩の形に於て開明したのである。彼等は殊更らに宗教を究極の生活とし

て朝望するのではないが、その眞葦相に於て経験せられる宇宙感人生感こそが如何なる形で意識せられるにせよ

宗教的なのである。ロマンテイクの人々はその至奥の特質忙於て紳秘的である。自然と人間との融合を期するが、

﹁生﹂lこ閲すろ青年ヘーゲルミヘルダリンの思想の連関

﹃生﹄に関する青年ヘーゲルとヘルグリン

の思想の連関

石 津 照 璽

欣縛

(33)

﹁生﹂lこ閲すろ青年ヘーゲルヾJヘルダリンの思想の連関 三二 自然に封する態度は啓蒙期の如くでない、時代史的にいへばその克服にロマンテイクの特質がある。寧ろ啓蒙胡 以降の表面的合理主義或は悟性主義を端的に厭って.直下に生に沈潜せんとし、そして彼等はこの特質を確知し. 生き通すといふこと貯直ちに宗教であると考へて、ハルトマンにして謬なくば屋上に屋をかさねる紳には箱心を ︵2︶ もたなかつたとさへいひ得る。このことはデイルタイが﹁紳秘的汎神論﹂として叙べる通りである。 悟性主義の啓蒙拘傾向に財政するこのロマンテイクの動向は、十八世紀の八十年代以降に時を同うして起った 濁逸観念論とその傾向を同じうするものである。濁逸概念論が思緋と思惟による鰹系忙於て追究したものをロマ ンティケルは直裁に﹁生﹂の裡に求めた。所謂る理念の葦相を生の裡に凝成したのである。 ことにこのロマンテイクの宗教的傾向、漢言すれば生を辿る紳秘的汎細論的傾向をもつ人を濁逸概念論の人々 の中に求めるならば、極めて形の襲った仕方ではあるがヘーゲルとシュライエルマツハーである。併しこの稿の性 質から、こ1ではロマンティケルとヘーゲルの関係に解れておくにlヒめる。ロマンティケルの一つの特質はハル トマンがいふやうに.そのあまりに偉大無遽の欲望を悟れるがために.到底行き惑し得ない悩みと悲劇とをかも すにある。ヘルダ”′ンが後に運べるやぅに亦この悲劇の邁命を迫った。カツシーラーが指摘するやうに諒と現茸 の荊離から起る悲劇である。︵。︶こ1にハイムの所謂ロマンテイクの限界がある。そのまl▲では恐らく絢爛の華に 終ったかも知れぬロマンテイクに組織の結賓を労らしたものはヘーゲルであつた。美的に構想せられた論理を. 物理、倫理を、摸言すればロマンテイクの詩と生活をその畢的契機として凡てこれをとり入れながら、彼は速に 理性の革能を信練としてこれを宇宙的な組織につけた。この意味でロマンテイクはヘーゲルに於て限界を劃し、 上汐4

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