――目次――
1,
宗教学徒の使命,日本宗教学会第6回大会開会に際しての挨拶,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-4.
2,
基督教団の政治機構について,相原一郎介,Icirōsuke AIHARA,pp.5-7.
3,
宗教的実存,青地正長,Masanaga AOCHI,pp.8-13.
4,
宗教即生活への一考,藤本一雄,Kazuo FUJIMOTO,pp.14-23.
5,
宇宙観の如何と宗教の職分,帆足理一郎,Riichirō HOASHI,pp.24-29.
6,
宗教における合理性の問題,星野元豊,Genpō HOSHINO,pp.30-34.
7,
宗教的関係における主体の問題,石津照璽,Teruji ISHIDSU,pp.35-41.
8,
仏教の解脱的態度と宗教,近藤嘯雲,Shōun KONDŌ,pp.42-47.
9,
宗教における現実止揚の問題,諸井慶徳,Yoshinori MOROI,pp.48-53.
10,
宗教と系図観念の問題,村田格山,Kakuzan MURATA,pp.54-59.
11,
論理の超越と超越の論理,長沢信寿,Shinzyu NAGASAWA,pp.60-66.
12,
宗教的儀礼における生と死,中村康隆,Kōryū NAKAMURA,pp.67-73.
13,
宗教と科学,西谷啓治,Keiji NISHITANI,pp.74-80.
14,
宗教的社会結合,宗教集団の類型とその性格,小口偉一,Iichi OGUCHI,pp.81-87.
15,
救済論を中心とするブルンネル神学と親鸞教学について,岡邦俊,Kunitoshi OKA,pp.88-95.
16,
宗教と弁証法について,柴野恭堂,Kyōdō Shibano,pp.96-101.
17,
宗教と政治,島原逸三,Itsuzō SHIMABARA,pp.102-106.
18,
最原始民族の神観念について,棚瀬襄爾,Zyōji TANASE,pp.107-113.
19,
宗教的人間学の構想,田沢康三郎,Kōzaburo TAZAWA,pp.114-119.
20,
仏教と国家性,禿氏祐祥,Yūshō Tokushi,pp.120-122.
21,
国家と宗教との関係と基督教の寄与,富森京次,Kyōji TOMIMORI,pp.123-128.
22,
供犠論の整理,宇野円空,Enkū UNO,pp.129-133.
23,
初代教会における殉教思想,有賀鉄太郎,Tetsutarō ARIGA,pp.134-140.
24,
「神の国」について,福富啓泰,Keitai FUKUTOMI,pp.141-145.
25,
初代基督教会の信仰告白とピリピ書2・6-11,橋本鑑,Kan HASHIMOTO,pp.146-151.
26,
神名,ヤーウェーについて,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.152-157.
27,
中世仏教徒の神祇観とその文化,鏡島寛之,Hiroyuki KAGAMISHIMA,pp.158-163.
28,
サンバイさん,神根悊生,Tesshō KAMINE,pp.164-172.
29,
イエスの譬に関する一考察,特に其の神学的意味内容について,菅円吉,Enkichi KAN,pp.173-181.
30,
道教の仏教的擬装,金山龍重,Ryūzyō KANAYAMA,pp.182-188.
31,
本邦における山岳修行について,岸本英夫,Hideo KISHIMOTO,pp.189-194.
32,
明治仏教企業の特質について,上坂倉次,Kuraji UESAKA,pp.195-200.
33,
仏教特に禅宗の儀式が我国風俗に及ぼしたる影響,来馬琢道,Takudō RAIBA,pp.201-206.
34,
我国における鏡の宗教的意義,前田泰次,Yasuji MAEDA,pp.207-213.
35,
日本戦史に現はれたる宗教体験,西沢頼応,Raiō NISHIZAWA,pp.214-228.
36,
イエス並に同時代のラビ,ヒレル,大畠清,Kiyoshi ŌHATA,pp.229-232.
37,
上代における聖徳太子信仰についての一二の考察,小倉豊文,Toyohumi OGURA,pp.233-238.
38,
神学としての原始基督教史,岡田稔,Minoru OKADA,pp.239-244.
39,
日本学より見たる降臨思想について,小野正康,Masayasu ONO,pp.245-251.
40,
自信の体制としての回教,佐木秋夫,Akio SAKI,pp.252-257.
41,
中世の神仏相関思想,竹園賢了,Kenryō TAKEZONO,pp.258-262.
42,
源氏物語の神祇観,多屋頼俊,Raishun TAYA,pp.263-269.
43,
三世実有説の一考察,舟橋一哉,Kazuya FUNAHASHI,pp.270-276.
44,
維新の教化政策と仏教,古田紹欽,Shōkin FURUTA,pp.277-283.
45,
法爾の思想,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.284-289.
46,
本仏実在論,河合陟明,Akira KAWAI,pp.290-295.
47,
秘密行法の性格,加藤章一,Shōichi KATŌ,pp.296-301.
48,
仏成道を中心とする大乗仏教々判,木村日紀,Nikki KIMURA,pp.302-310.
49,
浄土真宗の仏性論について,桐溪順忍,Zyunnin KIRITANI,pp.311-316.
50,
禅の本質構造と心性の問題,増永霊鳳,Reihō MASUNAGA,pp.317-323.
51,
異門(paryāya)といふことば,長尾雅人,Gajin NAGAO,pp.324-331.
52,
遵式の浄土思想に現れたる『往生要集』,苗村高綱,Takatsuna NAEMURA,pp.332-337.
53,
阿閦仏国経における浄土の意義,西尾京雄,Kyōo NISHIO,pp.338-344.
54,
有自性論における仮説と唯識論における仮説について,野沢静証,Seishō NOZAWA,pp.345-351.
55,
仏教典籍上における高麗義天の事業並に其価値,大屋徳城,Tokuzyō ŌYA,pp.352-357.
56,
王法為本の溯源的考察,佐々木憲徳,Kentoku SASAKI,pp.358-363.
57,
三世両重因果と異熟業感の実践的意義,全体と個の関係を中心として,佐藤密雄,Mitsuo
SATŌ,pp.364-369.
58,
漢訳法華経の有翻闕本について,塩田義遜,Gison Shioda,pp.370-376.
59,
親鸞聖人の国家観,杉紫朗,Shirō SUGI,pp.377-381.
60,
聖徳太子御製維摩経義疏における二三の問題,田中順照,Zyunshō TANAKA,pp.382-388.
61,
支那における無量寿仏と阿弥陀仏,塚本善隆,Yoshitaka TSUKAMOTO,pp.389-394.
62,
唯識の破析する極微説について,山口益,Susumu Yamaguchi,pp.395-400.
63,
日蓮聖人の国神観,山川智応,Chiō YAMAKAWA,pp.401-405.
第6回大会記事,pp.406-410.
Posted in 1940
(昭和15)年
今日の世界が如何なる欒他の時期を経つつあるか、何人も目前に激欒を見てゐる。併し此の欒此が人類文化に とつて如何なる意義があるかについては伺ほ深く考究すべきものがあらう。政治や経済の事のみならす、進んで 精紳文化の根底に入つて一大韓換のあるべことは何人の考にも浮かぼうが、その深い意義について何人か展性叉 的確にその意義を捕へてゐようか。我等宗教研究者にとつて此の問題は賓に重大の課題である。 この記念すべき年に、その奉祝の意を表して此の犬舎を開く事は、我々共々慶成し、叉意義深い事と考へる。 又今岡は始必て東京以外の地に開くについて、特にこの千年の古都、日本宗教の淵源に禽合し得ることも、研究 といふ事に加へて感慨の濃かなものがある。而して此をなし得るには、偏に龍谷大拳の御好意に依る事で、其鮎 を畢長始め嘗局各位に感謝し、諸君と共に厚く謝意を表したい。 譲政孝徒 の 使命
宗教拳徒の使命
− 日本宗教学合第六同大合開合に際しての挨拶!
崎 正 治
βgJ宗教畢徒の使命
二
古雅歴史の韓換斯に際して、人間精紳の動括が種々の形で著しい現象む呈し発ことは今;述べるまでもなからう。韓換が深刻であればあるほど、人間は共に伴って自己の蓬命又は使命について深く考へるもので、其が或
ひは疑惑や失望になる専もあらうが、その失望の中にも何かの光明を見出さうとし、或は新な理想の感激となつ
て人間の運命叉使命に新方向む開巻して雄た専も少からすある。その感激が如何なる形をとつても必ずや何か宗
教的色彩と熱情とを呈することも、今までの歴史が我々に示す所である。其等の新気運に封して宗教が尭導にな
った場合もあれぼ、その結果として現れた費例も、一々列車する要もない位であつて、文化樽換の動揺には、云
はゞ地の底深く湧き出す力を誘ひ起こし、人生観又信念として一世を動かす運動が生する。此の如き運動が組織
を得、定形を具へて宗教となる。郎う形を具へた宗教としては、多く文化韓換の結果として、文人心動推の跡始
末として硯はれるが、その根底たる感激や理想の湧起は、文他の欒特に埜止ち、共を促す原動力として、前代文
化の路を告げしめる力として動く。此等の消息を歴史資例によつて指摘し、又其の意義を蟄揮することは我々畢
徒の重要任務であるが、今こゝにはその説明講究には入らすにしておかう。
そこで現在の文化欒韓を観察して見るに、直凛には東西両方にある戟季につれて主として政治経済の問題に現
れてゐるが、其等眼前の事欒を起させるに至った根底がどこにあるかといふ問題が、我々にとつて重要である。
願れぼ所謂る現代文化は三四百年前の新大陸牽見や新科畢特に物理的諸畢科の開巻で、党つ利用厚生の道を昌に
し、人間生活の諸方面を豊富にした事は畢ひ得ぬ眼前の草葉である。然し、此の利用厚生が果して人間の生活む
異に宰相にしたかと問ふて見ると、徳渾の方面に眼が眩むでゐる人でない限り、現代文化が眞に人生の内容を充
β∫β資したとは云はれない。何故といへぼ、人間の欲望は、これで飽和鮎になるといふ終局のあるものでなく、新な
満足は又更に新な欲望を誘聾して轟きない。而して蓋きない欲望を追求して止まる所を知らないといふ状態には、
一方︸歩一歩欲望の勝利を占めるといふ喜びと勇気とが現れるが、其と同時に叫画に必ず、あせり、もがき、いらだつ精細状態む伴ひ、其が欲望む過度に刺激してはどうしても菅悶煩悩の深みを加へる。現代文化を色濃く染
め出してゐるスピード熱、闘争精細、又神経過敏や痙攣状態などは、皆その現れでなからうか。現在、物資の最
も豊富で利用厚生の最も高等に達してゐるアメリカなどで、此等の徴俵が最も激しく現れてゐる鮎に、我等の眞
面目な考究を要するものがあらう。而して此の如き動托激動の中に、人類の精神的要求はどう動いてゐるか、文
具が今までに出来上つて形む具へた宗教にも、又その様な組織をももたぬ宗教心にも、如何の反應を呈しっつあ
るか其が此から後如何なる方向に如何なる力で贅勤し、又其が脾衆人類をどう導いて行かうか、此等こそ我々に
とつての最も重要で叉切迫した問題を輿へてゐると息はれる。
我竺学徒は視覚目前の事象に冷淡であつてはならぬといふ事は勿論の次第である。其は此の国民に封する現箕
切迫の要求として、その克たる畢徒が、超然であつてはならぬといふ事のみならす、現代の如き深刻な文化韓
換斯は我三示教峯徒にとつて無上の研究資料を提供し又深く考慮すべき問題む眼前に顔出して迫りつつあるとい
ふ事をも含む。即ち直哉有形の動揺についてその表面に含まれてゐる事茸や問題については、各種の方面から、
覚用なり文理論なりの研究があるべく、我々もその一面に加はり得やうが、我々の本釆の使命は其等よりも深く
精細生活の根底に入るべきもの、従って直接現在の材料や問題を扱ふ拝しても深く根底む探り、又遠く揮発に亘
宗教畢徒 の 使命 6∫7譲教畢徒の使命
四
る見地を見失はない様にしたいと点ふ。此が如何にLて行はれるか、又如何なる方法む執るべきかといふ鮎については、合貞各自の御考へもあるペく、叉措定すべき事でなからうが、右に述べた如き見地仝餞については合点
の間に大きな異見のない事を斯侍し又希望致したい。
右の如き希望が不嘗でないとすれば、その結果として、我々の研究に電場の必要に應する諸科畢と趣を異にす
る鮎があるといふ事も自ら出て来る結論と考へ、而してそこに我々の使命が一骨深く又遠いものがあるといふ事
を自覚すべきと考へる。此もー偶の私見であるは勿論ながら、其等の鮎も今岡畢合の諸種の研究報骨なり、叉今
後合点各位の研究にも現れて凍て、公明な討議を澄んことを切望する次第である。
β∫β基督教囲の政治機構を現存の情態に於いて、統理権と致命観念との二鮎から観察してその強度なるものを右極 に置き漸次左方に配列して見る。尭づ第一に羅馬力卜ザックであるが、之れは他の語数囲と封既的な形態を作っ てゐる。統治の上から見ると、全教囲が幾多の地方教直に分たれ、各教直は一司教︵監督︶ に依って統治せられ、 互に相犯すことがない。統理横は全然教職に属し所謂教職政治を成してゐる。司教等は定期的に地方的に合議を 開くことあるも、拘束的のものでない。教養に関しては史上屡々世界合議に依り、信僚の決定を見たが、一八七 〇年のヴァチカン合議に於いて、教皇無謬権の成立を見るに至つて、全教囲の統理樺は教皇に統一辟結し、其形 態が完成した。 之に直援次ぐものは東方正教合︵一名希臓敦倉︶で、教区制に依る監督政治であるが、羅馬カトリックの如く 教職たる教皇の代りに、国王を以つて最高の統理者となした。膏露国正教や東欧語囲に其例を見る。之に類した ものに、英国敦食や革命前の猫逸プロイセン及びバイエルン等がある。此等の教囲では統理榛の一部即ち俗務に 基督故国の政治機構に就いて
基替歌固の政治機構に就いて
相 原 一 郎 介
五 βJタ関しては信徒も開興する事を得.只教養信傑に関しては教職階級の専有する構内に展する。然るに英次に乗る長
老政教圏に於ては、統理俸は原則として教職信徒金牌に巌するが、庸長老といふ一階級を認めて、運用され、三
段の合議に依って統治せられる。此形態に於ては完全にデモクラチックに成り、カトリック的猫裁政治と裁然封
立する。
次に置くべき合衆政治形態もデモクラチックな鮎に於ては長老政治と異ならない。只長老階級を炊き統理俸が
薄弱で中央機関等教囲組織が長老制度よ少ルースなるは、本来此政治形態が、次の猫立主養教脅の聾展した結果
から凍て居るし猫立主義とは一箇の地方的教禽をのみ認めるもので、何等他と交渉なく、其小範園内の統治に終
始してゐるものである。最後に位するものは一切の教合政治や組織を否定する無教合主義である。此虚に釆りて、
宗教改革以釆、帝王と監督と長老脅からの自由を追求して信仰猫立の要請が極鮎に達したのである。
次に上述の諸政治形態と教合観念との間には又密凄な関係がある。カトリック教は教囲を以て唯一金一のもの、
所謂唯﹁神聖、使徒的、公同にして不可分のものと見る。他に教圏があつてもそれは離教でありセクトである。
全くLて一つな教圃︵教合︶に於て地方的に聖堂を設けて、信徒の機舞に供し教育するに過ぎない。そこには信徒の地方的な集りがあるのみ。此仝一的教国歌念は正教波及び英米聖公舎更に其から分れたメソヂストまで及ん
でゐる。即ち監督政治を取る教圏が之に属すると見るべきである。之に封立するのが禽衆政治形態と礪立主義諸
教合で、そこに金一教合の理念はあつても、神秘的結合に過ぎない。其具現である政治機構も単に友交的に止少
倫緊密を妖く所以である。此所者の中間に位するものが長老沢の教合観である。それは伺自己の教囲を谷二とす
基督敦圃の政治機構に就いて β甜る教国歌を持すると主張するも、個々の敦合に依って仝牒が組織せられ、随って場合に依っては、教固から一地
方教合の脱退も、叉反封に猫立教合の加入も可能とせらるゝのである。
最後に宗教圃牒法た依ると、上述の諸政治形態は、地方的敦合を以て組織せられた教圃を認め、しかも教禽の
股返を認めざるが故に聾固な金一的でもある。而して其統治様式は新教各派に見る合議中心主義に代りて、統理
者より地方教倉に一貫する行政機構を建て、合議は議決機関としてそれと並立若くは附随的地位に立つが故に、
我国基督教図牌爽の政治形麒は各種の停統駒形厳から漸次猫特な形態に移り行くのではあるまいかと漁想せられ
る。
基督故国の政治機構に就いて 1ニ ββ/賀春が封象認識を絶した主題的、作用的なる何ものかである限り、賀春が貿存することむほかにして、貿存の 硯貿といふ如きものはあり得ないであらう。而して資存が現賛的に茸現する時、それは単に形式的にでなくLて、 具鰐的、内箕的に賀春するのである。賀存が具鰹的、内箕的に貿存するとは、賀春がその ︼首i賢¢完n に於て賀 春理念を内合しこの賀春理念の内合によつて賀春の 宅琵が具饅的内箕的に決定せられてゐることを意味するに ほかならぬであらう。かくして具饅的、内箕的なる出舛訂ti①蒜nに於て、賓客は既に き訂註に中性的たること はできない。海ゞ我々は賀春の出払数①r①nを形式的に出洛ti①亨笹コの亡妻競に於て把へ、こゝに賛有形成といふ 如きものを考へることができるであらう。然し賓存形成といふも、賓客理念と不可分たることいふまでもない。 箕在理念なき賀春形成はあり得ない。寛容形成が多義的たる所以である。賀春の 廿首i賢宰宰 に於て、賀春形成 のD監訊は、賀春理念乃至は本務性といふ如きものの決意的選操によつて、内覧的に充溢されるのである。本釆 性への決意的自己集中をほかにして、賀春の現或はない。然し本来性は二零的に新興的といふのでなく、却って 宗 教 由 貸 存
宗 教 的 賓 存
青 地 正 長
′し 6β2それへの解答が寛有理念の決定である如き課題的性格をもつ。それ故に本葬性への間は、自ら寛容の欝梼漣を顧
は旺する已ととなるのである。
人間存在はその基礎的現有に於て可能的賀春である。馳ち存在の秩序に属すると同時に精細の秩序に廃するの
である。精神の秩序に深く解れるものとして、真布鱒1†現存がm邑票gEn乱宗。hたる把封Lて‡in d鍔 野i什m①hH巴s野itである。永遠に関れるのである。永遠に梱れるといふもそれは存在の秩序に巌するものとして、観念論的・抽象的・可能性の、精細の世界の如く紅、無現箕的・基想的旺無限ではない。然しそれは又精細
の秩序紅屠するものとして、箕澄静的・自然的・機械的・必然性の世界の如く把無可能性的でもなぃ。箕存はむ
しろ有限と無限、必然と可能、村討と梶野、時間と永遠といふ如く、賂野に矛盾するものの主調的緊謹的統﹁
綜合に放かならぬのである。それは矛眉の止揚ではない。矛眉は現箕の構造そのもの紅ほか洩らぬ故把、黄布的
自覚が深きるに随つて止揚されゆくのではなく、却っていよいよ顛はになるのみである。恭し矛盾の蘇合である
限具それは畢なる冒i眉巴ti昔①iオではない。矛眉は矛盾紅於て ﹁聯開﹂し、かくして統一的発布像の﹁秩序﹂を形成する。矛眉はそれが一定の秩序と聯闊を輿へられることによつて﹁綜合﹂される。
賀春は格封矛盾の綜合として、その最も危機的な表現たる、死、無、限界状況といはるる如き、青鬼的なるも
の紅画するものでなけれぼならぬ。否定的なるものへまでの童牒的・現箕的・極限的な過究なくLて箕存はない。我々は無旺面接し否定的なるものに贋くことによつてのみ封存する。
藷 教 駒 賛 存 九 脚一〇
宗 教 的 箕 存 否定的なるものへの画境を回避L、絶封矛盾を隠蔽する所に所謂﹁身饅の人﹂があるであらう。それが単に現 存的・基餞的人間といふのみならば、それは自明の同語反復にすぎぬでもあらう。身饅的現存が自覚にindi詳r①邑 なで乳乱臣︸i註k①itではなく、自覚関係的な]訝蜜許i註であカ、寛容資現の岩乱iumとして我々に託されたも のの性格を持つ故紅のみ、自覚可能態の自覚快除として、単なる現存は頑落的である。自覚にindif許β什 でな く、自覚の妖除である故に顧落である。 然し自覚映除が更にpO賢iくに、経験的現存の転封化を主張するならば、それは自覚排除の自覚形成といふ如 きものとなるであらう。それは自己の存在可能を敢て薇はんとするのである。本釆性といふも現存の自己主張を 措いて他にあり得ないが故に、精細的なA讐n∽は香足され、本来人間といふも①ineb①琶nd①r①ゴ宰胃什といふ にすぎない。それ故に本乗性への道は、精細を排除することによ幻、生命のせr呂gの中に同此することによつ てのみ開拓されるであらう。然し自覚排除の自覚形成が備酷酎、舞踏.麻酔剤といふ如き意識的技術を要する事 箕はへへ試①家臣①n。・ゴ①rが倍端的に①訂t註s各︰たり待ざることを示すものにほかならない。 然し絶封の矛盾が自己本死の運命であるならば、それは闇夜され回避さるべきではなく.まさに引うけらるべ きであらう。我々は死に面超せねぼならぬ。死といふも現存の客観的死ではなくして、自覚関係的なる賀春的死 である。現存の経験的意識からは、死はたゞ傍観され、回避され、忘却され隠蔽されるでもあらう。然し賀春的 死は交附の 句已乳首it賢 として、賀春に封しいはゞ p旨fきd な意味をもち、資存がそこに於て自覚的.人格的 ββ4に蒜品i宰enしゆく魔のものである。箕存は否定的なる運命的限界たる死を、自覚的.選捧的に引うけることに ょり、決意的な自己集中、自己決定に達する。そこに貿存の運命を賭する全慣的態度の選捧がある。 然しこの賢・Si臣・S①−b苧kOmm①nが、非本葬よカ本葬へとして、傭人間性内部に於ける移行にすぎぬならば、 それは自己意識の連層的昇騰として、侍人間のS①−b払tSi各年g㌘S。−bstb①告N の外に出でぬであらう。かくして は否定性は侍媒介的にすぎず、賀春は眞には侍終末論的なるものに画しない。そこには侍日常nwi∈gk註 があ る。賀春は我性的である。人間は GOtt習Wi旨te でもなくゴ籍 でもなくして、まさに自立的人間の謬i一乱臣・ sdb乳として、邑b諷訂邑i註に、eigβm紆hti的に、無を見、無と戟ふ。賀春の我的形成、寛容の自己充足であ る。かゝる賀春の主権と責任と自由への自己信頼の極限にートトもとよりそれは、自己肯定のパトスの極限に於て 却って自らを焼きつくすにすぎぬとはいへ 一 哉々は悲壮ともいふべき、ヒエブリスの究極の自己昂揚を見得る であらう。 宗教的賀春に於ては、死は人間性の範封否定の性格をもつ。全購入間の死である。媒介的死に於けるが如く、 人間性が死を根砥として成立するといふのみならす、それは倍賞存の根砥としての死として、傭人間性の中にあ るものにすぎない。か1る死は侍欒様され、中和された終末論の性格をもつにすぎない。宗教的否定性は、賀春 の自己的自覚面に現れるものでなく、却ってか1る自己的自覚画そのものの死である。我々はもはや戟ふことの できない無、覚悟することのできない死に煩く。全くの絶望である。絶望は薬ではない。薬は侍蘇生の期待に於 存 宗 教 的 ββ∫
ニー
凄艶職箕存
て璧ら鷲。熱し蘇生を斯侍する如き死昧、侍眞の死冨ない。而して璽姦得Lて警等なく、雷の 鋪
死から蘇る朗に、宗教的賀春といふものがある。死はそれほど庭哲謹潅的なのである。か1る死卵生とし七、宗 教的賢春とは、賀春の庵勤番慶庵於て成立する朗の寛容とい払得る。それは畢陀人間的な、人間嘩を展鹿とする 寛容ではなく、赫の前に於ける、赫を尺度とする寛容である。融の前虹といふ時、人間は本葬鮨であ為。而L、て そこ旺は危機的な断絶がある。驚布達横的な超越は、寛容の自己青鬼の極限旺放て求められ泡も取挺す哲ず、賀 春をして、超越的に基礎づけられたヒュブザスを誇らしむるのみである。宗教的賀春は匡笥nま︼li洛ei什 の死と L宅、ヒ立プリスから目ing各e へである。悲壮から安らひ︵G①bOr的空をei什︶ へといふことができる。ヒエブリ スの死は我の死、我の撫である。無計量である。然しそれは危機的現宜と⑳浪漫的宥和で接ない。それ政宗教由 寛存性安らひに於て偽悲壮である。然し我性的賀春の悲壮ではなくして、寛容形威の蓼藍⊥般の悲放である。 宗教的寛容は賀春形成の宅監に於てゞなく、そのD最 咤於で療姓なのである。殉教といふ如呑もの披か1る 賀春的性格をもつと考へられる。 寛春の語形成は、全館人間といふ如きものの諸契機めヤ面的強調といふのでなくLて、却つてそれらの自己主 張旺於て湊素性を鵜互魂除的に答へるものといふことができる。かくしてそれら綾それぞれ些濁立的であ男、自 己発給的であ鬼、非達磨的である。 それ故匿我々昧、寛容語形成の自己虫張を止揚し、そのA愚啓営声によつて金嘩人間に到少額るのではない。 重態人間の理念按却って寛春背理念の﹁中略﹂ある・のである。疇って賀春語形戌蛙芳書gき昏でなくA毎重富である。然し﹂旨払尋PEは、安寧のj①邑已gな決意の事柄であ少、そこには如何なるIntO訂r箪ヨ由もなけれぼ強 制もない。﹁面々の御計ひ﹂である。然し宗教的賀春に於て、之は単に邑註ま邑琶Fな主観的閉鎖菅ほ憩い。
宗教的寛容は、主構の。ハトス的轟揚とは轟く連に、主鞋的には無根なる、最も客観的な 孤乱臣各村註 の究極で
ある。それは自らの申に椒棲む有するのではなくして、その前に箕存が死して生くる底の根壕、牽已でのみ安寿
が息惟し、意志し、行動することの畢尭の意味が、眞に顛はとなるであらう所の蝦擦からし耳頻擦づげもれる、⑳
である。
宗教的賀春は∵それが単に宜存語形成に邑①n野呂d籍といふ.陀止らず、段階的、次元的l把よ多端吹であ亀とさるる場合に於てさへも倫、賀春形成の特殊的一転塾として、賀春諸形成把相野約に野草せぎ基盤感姦㌫かの
如くであり、随つて叉そこにAusw旨−といふものが春せざるを碍ないかめ如くやある。 然し宗教的箕存が単に自覚的といふのでなく、眞に琴邑i註といふ時、それ蜂箕有形成のj類撃よわもぎ訂 でなけれぼならぬ。眞にs覧Ei各﹁ に﹁ものに空かするぼか少なる﹂もののみが、眞に私なき無立場の立場に立ち得る。我が道であカ、道が我である時、宗教的箕存は単に世界観的でなく、却って無世界観的であ亀。そこに
は賀春諸形成の単なる選掻はない。単なる箕存的決意はない。宗教的決意は、本釆決意するものなき決意、選接
するものなき選掻の性格をもつのである。
宗 教 的 存 例汐宗教々育と言ふ古い語は、何か新語に番へたいと思ふ程、宗教と教育が義行動を執る時勢に成つて釆て、﹁宗
教釦生活﹂等と、些極端な離をも使つて見たい束も薦出した。本年七月十日には、東重日米畢校女生徒数十名が、
鶴見線持寺に垂絆し、新潟懸には、加茂朝畢校が公認され、葦酒の山門に入るを禁じ、女人禁制の捷の厳然を誇
っ空言にも、夫々彿敦短人倉を設打て、精進の字義さへ曾て経験せぬ様な愴侶の出現をも見る時代が追つて発
た。﹁樺尊が今時生れ直して凍られ芸、御自身の数理の餞りな激舜に喚驚かれる事で誓う﹂と、其博士の語られたのを
聞いたが、﹁末世に我法破すべしと、蓬撃回教に堅 いてあつても、果して亡びるかどうか、今日では、米国は勿論
欧洲に迄悌教の寺院を見る様に威つてゐる。クリスト教、マホメット教其の他の語数にも、関税時代に比べると、
定めて異常な欒遽があらう。柿崎博士が其の著﹁宗教と教育﹂の中で、﹁宗教も教育も、人間天飴の至情に基いて、人
性に率った生活の貨現を期するに至っては一つである。人生は慈愛の生括融和の舞蔓であり、又それと共に、永遠の権威が我
々の生命を支配する。⋮⋮宗教も教育も、人生の二方南の自覚を人に輿へるを以て目的とする。﹂
乗数郎包括への︼考宗教帥生活への一考
藤 本
一
雄
∂∂βと説かれて以爽、宗教々育の問題が次第に接頭した。大正の末期から昭和にかけての過渡期にも、前述の卓見 者はあり乍ら、其の方法論には皆苦しんで、一向に定めがつかなかつた。私の昭和七年第二同宗教畢大倉の蟄表 に潮しては﹁菜数々育に何の必要があるか﹂等の奇問さへも宗教拳徒の聞からさへ蟄せられた。然L文部省でも之を 公立畢校教材の中に取扱ふ専を承認香奨励し始め、近釆は、前記加茂靭拳校が、堂々と公立中畢校に加入して、 而も話〓人不審を抱く者の無い迄に進んだ。塊て師範峯校中峯校にも、宗教峯科の入れられる時が凍ると信ぜら れるし、事箕然うで無くてはなるまい。が、其の取扱ひを、一般の教材としてどう馬るかは、中々の大問題で、 前述加茂朝拳校の﹁仝校寄宿制匿、年前四時牛起床、全校鰹操冊分、校内清掃後坐繹冊分︰⋮・﹂は、甚面白い結構ではあ っても特殊教育の範囲で、到底一般へは向かない。公立拳校での宗沢宗教取扱は∵憐しまねぼならぬ。で、問題 は其魔に起る。若い者の嬢郎人格訓練に、宗教的信念出奔得べくんば信仰の力を加へると否とは、成人後の生活 に大きな影響がある。畏くも 上御皇室の御模範に逆く無宗教主張考き−幸徳秋水叫沢の様な無道な人々でも、 我子が藩道に迷ふのを喜ぶ筈は無いし、仝や宗教と関係の無い生活には居られるもので無い専は、性の問題と共 々、人生と不離の諸重要事項の中にある以上、一日も速に、殊に人々に正解せしめ、同心斯には通常に指導して、 出奔るならば信仰に入らせ、少くともこつの信念を抱く人物たらしめる事は、必要以上の専でなけれぼならぬ。 小中等拳校の生徒に就いて統計的に調べて見ても、宗教的雰囲気に親しむ家庭の子供程、操行もー般に良く叉人 物も確少してゐる。迷信は文化の進歩と共々次第に減少するが、侍指導の必要は快かされない。宗教と科畢とは、 故央吹博士の語を為倍カすると﹁璧別と一所じや暮されない、お前無しでは暮されない﹂間柄にはあると見られるが、 乗数即金括への︼考 ββ9
宗教軸生活への︼考
〓八
草箕宗教の研究は科挙的で無ければならす、而も信仰の一面には、科挙的に詮明のつかぬ虚のあるのを首ひ壷し
たものであらう。執れにしても、正しい信念敬虔心又信仰に導き入れ1ば宗教の使命は立つし、之紅依つて人々が立沢な理想に溶き得る様に成れぼ、訓育の目的も亦貫徹する。で、教育は、人間盈静悌の大道に導く業であつ
て、其の窮極理想を日ざして力めてやまぬ迄に人々を働かせる廃郎大理憩境、前の園触の境地であつて、之が一
囲の教育理想で無けれぼならぬ。
心身の聾達的欒化が兄童の生命であつて、達境のカは元よ少、或る程度進通俸のカに反故しても、其の心力む
強くし、善良に導く事の出奔るのも、此の時代に限られてゐる。心理単著ウイリアム・ワッL∴yンの看であつたと息ふ、﹁五歳迄の躾如何か、成人後の厚顔無恥な無頼漢や悪好とも、又粗厚篤資な紳士淑女とも成る基礎を形造る﹂⊥こ聖
正に一大眞理で無けれぼならぬ。小才小我に走力、非常識無理想に捕へられるのも、這此の時代の躾如何に定
まると断言出奔ると信する。スターバック教授は眼光を特に鋭くして、﹁Ch旨笥i芸fund昌①邑已邑eg宰y鼠 。吉thinkingPb邑tben賢r¢。f r邑iぎと力説されたが、此の原理按、兄童割に特別頻しい現象即発化から立言出奔ると息はれる。心持の上で、成人と殆ど或は重々別の世界に住んでゐる兄童を、或る人々は自分達が骨
て同時代にあつた専を忘れて終って、我健勝手に叱カつけー叱る事を怒ると︼般に云ふ程二者は混用されてゐる寸罵
倒して﹁蕨格﹂ とか自負してゐるが、子供の心に取り返へしのつかぬ傷のつく事を考へないのであるし、衷、教
師の命として、子供の自由意志を束縛し、純然たる成人故にして居るのであつて、大自然の眞意に逝く毒しい人
々であつて、信念が無いからそんな事にも成る、従って斯る人々は、親、教師の資格が無いと新富した㌔兄萱妊
β才α紳彿の恩意に依って青身に授けられたものと感謝し、之を弄する心で誠意溢れる指導をすべきものではあるまい
か。宗教的信念信仰の力で訓育に従はねぼならぬと主張する所以は此虚にある。性教育の如きも、最近の畢誼で
は、﹁小峯投入車道に、子供の質問を巧に導く事に依って、敬虔な態度で虚心平気に敦へてゆき、決して一時放れの嘘など甘
ってはならぬし、又其の疑問を打滑したり叱りたりしてはならぬ﹂とカ祝してゐる。宗教的にさへ導けば、何も不安は
無い尊貴上神秘な事である。文兄重斯竺見愚と息はれる棟な者も、必ず特徴は持ってゐるから、縛強が周梨♯
陀伽を導いた態度に鑑み、其の特鮎を見出し、断じて之む棄てゝはならぬ。人の日把つく秀才や良い旗境の子ば
か幻標準にし、入沢に煽れぬ魔で生きてゆく大切な人々の指導を忽にする事は、我見や不良兄を顧みぬと岡﹁
大自然カの無税である℃親、教師の精神が即子供の精神に成るのであるから、執れもまづ自が借忙入少且つ畢び
乍ら、其の意力を子達に移してゆかねぼならぬ。ボルトン教授望芦ふ。﹁教育は自給法則た雛盲て行揉ねらばなぬ愴
入鹿は、蓼化、修正、取捨、最適者挨擢の意味を持ってゐる。教育印度活であり、教育的政見ありといふ串は、自鱒の餞の音
盤な宮木を、訴和的意床の下に育てる活動を綾けてゆく掟に希求しな伊れぼならぬ意味を持つて屠る﹂と。宗教的倍愈を炊
いては、虞の教育は究成せぬと恩はれる。
成長に伴つて自覚に入斗大鰐に於て成人としての生活基礎が寧雷7義子は〓鱒野栄庭女手は最近我歯檻も専門の職に就いて一生を通す者があるが、大餞結婚に依ってご寧卑見め、而も双方親化成打始める革が青年の生
命である。兄童斯の終ゎ嘆から起り始める同心斯に入力、反省しては自己を知る生括が始まるから、出奔る限り
/ 宗教精師に導き、能ふペくぼ信仰に入らしめ、二田反覆訣に鑑みさせ、個饅牽生め順序を歯抒−能く雷知つで 併 漂政財金治への︼考宗教即金活への一考 ︼八 決してえらさうな顔せぬ人間に仕立てなければならぬ。彼のトルストイが八十歳で侍求める魔があゎ家を披け出 てアスターポーの寒辟に倒れた、あの死に至る迄求めてやまぬ、孔子の所謂、﹁朝に遭を聞き夕に死すとも可なり﹂ の大精神む、若い心に深く刻み着けねぼならぬ。年長者への反抗心、強い自我心好奇心異性への憧繚等々を利用 善導して、多感の頃の訓育に、萬一の誤少があつてはならぬ。無絨砲式の記憶は、大饅満十八歳が演上であるか ら、畢に赴く者には語峯数理の基礎も此の問に形造り、技術に進む者には、其の根本智能を、急いで授けなけれ ぼならぬ。巷間の誼に依れぼ、彼の拘摸は、満十八才を過ぎると、断然弟子入力は許さぬ由、理由は間ふ必要が プラトニックラブ ない。敢て﹁鼠賊でも:⋮⊥と言ひたい。清浮愛の問題、結婚への観念、容姿整理、職業への不動心、男は男らし く、女は女らしくの性教育の仕上げも、皆宗教的信念に導く事に依ってのみ完成する重大問題。要するに、青年 の指導を誤る者は、旛て国家を誤る着である。バーナード・ショウの言であつたと思ふ、﹁一国の釈態を探らうと ならぼ、青年と雑誌を調べよ、外は眺める必要がない﹂ は、一大眞理である。此の時期は、生理的にも病気正確甘易 く、癒るも悪化するも、共々スピードの速い危険斯であるから、親も教師も常任に注意しなければならぬ。 キャラクターエデュケーション 孜以上二期の訓育法に、目下日本にも入りつゝある性格教育といふ研究が存在して、文人格訓練とも呼ぼ れてゐる。ハートショーンは﹁C訂r琶t躍im呂罵言f賢in巴 と言ってゐるが、社食実に封する理解と賓現への 意識の働きが性格と成つて現はれる人生には、立沢な人格者とLて、親、教師が尭づ立ち、若い者を立たさねぼ ならぬ。何程拳才が勝れて居ても、人格がまづけれぼ詮も封手にしないが、反封に、若干能力が鈍くても、人柄 さへ良けれぼ採用されるのが世間一般であるから、此虞で若人に宗教的塵心を養はせる事を必要とする。或る賢 β72
い動物は、本能に依るとは言へ、立沢な自制力を具へ、其の社命制度に従つてゐる。で、萬物の霞長たる地位を
恥しめさせぬ様、我億を調節するのは、特に此の二期で、﹁勝てば官軍﹂は世界を通じての一つの行き方ではあるが、
決して絶てゞは無く、負けて勝つの一手も確在する。日常の諸問題は、党づ以て結果論に経るし、善意に封する
見解は箕に六づかしい。怠らず試練して、明確な判断力を養はせ、節制力と結びつけた一大不動の信念で事に嘗
る人物たらしめなけれぼならぬ。此の性格教育は、全科修身給であつて、畢校内の仝生活は勿論、家庭叉社食と
も連絡をとり、行住坐臥悉く修身科と馬るゆき方で、軍資之で無けれぼ、人格の試練は出奔ない。只難鮎は、子
供に関係するあらゆる人々が皆修身教師と成らねぼならぬ虎にあつて、研究の興味も其虚に生する。が斯うして
深い信念を抱かせ、正しい理想へ導いてゆき、其の心の規はれとして無我赤裸々でゆける人格と襟首りで専を廃
し得る強い人間に仕立てゝゆかねぼならぬ。繹尊は最後の言として﹁成りしものは骨滅す、不逸故に勤修せよ﹂と訓へ
られたと停へるが、所詮百迄も兜づ生きられぬ我身、僅に、悩みの中に時折の後笑を求める外に行き場の無い複
雑怪奇の婆婆生活、其の問に何等かの目的意義を定めて進まねぼならぬ。老子は人間を上、中、下に分類し、繹
尊は九晶に別たれた。自分は果して其の執れに属するか、青少年をして其の何廃に依らしめ得るか。米国では専
門畢絞出の女性程離婚訴訟が多いと慨き、我国にさへ﹁高等教育を受けた者に巧妙な犯罪が多い﹂の聾も屡三向いと
成ると教育の僧侶が疑はれる。生れ乍らに大罪を犯す者はないから、問題は誘惑に勝つて小罪を根絶する様、信
ある人たらしめるにある。信念が快けてゐるから玉を抱くと罪を作る。一時間や三時間は詮でも聖人には成れる
が、期間の長い程倍が高い詣で、三日君子に終らしめぬ様にするには、宗教の力あるのみと言ひたい。若い人々
宗教郎生活への一考 ∂7Jニ0 素数由生活への︼考 に何事に勤しても、鰻丼讃嘆供養の態度でゆける棟、最も能く忍ぶ者が最も車両な入間である理由む食滞せしめ る事が訓練の義の一つ且無けれぼならぬ。繹尊は法敵提婆を修養の焉の良師友と眺められ、イエスは十字架土、 己に情ない者の篤に所を捧げた。 カントが時計の針の様に時刻を定めて散歩に出た事でさへも、逸話と成つて建ってゐる粗、知行合一の難い人 生であるから、人格試練の横倍は、只其の箕行如何に定まる。信念も貿行カの射い者には免づ揺らぬ。ヂ塵−才 一は、﹁一オンスの経ぬほ一トンの理論に勝る﹂と言うてゐるが、性格教育のあらゆる意義按、信念の集うた箕行に ある専を、思索の根本忙置いてかゝらねぼならぬ。紳彿への大道は、一に此虔に轟する筈である。所詮捧程願も て針程も叶ふかどうか解らぬ人生、紳彿への大道む、何虎進行けるかゞ、其の人の横飽の分岐鮎忙汲る。鼓境も 邁倦も世の障青も何のその、人音を謹無し、怠らす落書し且鬼籍しっ1箕行への努力者に、凍ての砂利が療すべ きで、恨へ世に出すとも、自、眞の意味に於て満足出奔れぼ可なヵではあるまいかせ スピノーずはストヲスブル グ大挙からの招暗にも旛ぜず、まさかに顔同程の晒巷では無か?たとしても、市井由︼隈境師の定職に甘んじて 一生を思索に終った二伸人であるが、入間をして此の境地に到らしめれぼ、人格訓練の一極地である主恩ほれる。 だが人の世には、庶壊の徒も多く、提婆の葦も少くないし、辱予以上の人物も到る廃に存在すれぼ、鼠ダやyヲ ヒストの仲間も蔽えないので、紳併の大道に進む事は中々の困難であるけれども、困難だからこそ意義も疎いし 思索研究の債倍も高い。底知れぬ愛、敵をも容れる大童も、亦此の大道にのみ箕現出乗る繹である。 ﹁乗数の必要を間ふ者蜂、生存の必要を疑ふ者に等しい﹂と西田博士は極青された。宗教をアルヨールに等しいと非難 ぜJイ
して寺院を破壊したロシア人も、レニ、ンの屍優には改めで鰻拝しで、廣義の宗教形式捜造つでぁぁ。宗教無Lで
はゆけぬ世の中故、私も世界各宗教指導の賓情は、或は貿地に叉焚書に、時に其の園の人陀電凌辱閲して蓮調べ
て見舞が、文化国去Lては、我国以外麿夫々に一発の方法を立で1居るし、米韓では大挙の一挙部に巷へ梅入してぁるし、オックスフォード太峯陀は、其の専門の車者ユックスレ一博士が現存してゐる。チエッコスロバキア
の二単著が﹁乗数指導の一定方針を立てずにどうして本常の教育が践爽る㌢−と日本の某教育碗泰雄行者鮫皮問L逸話 さへ開い潅が、宗教精赫を徹底きせずには、虞の教育訓練など出水るもので娃無払と警Lて博らないし∴療毅 郎生活﹂も決して極端な討では無いと信ずる。北京未峯長をしでゐる二畢考按F私峠儒教徒ギが、妾郡毎救ふも¢は勿甥ス下級であつて、真部遺徳儒教道教践、まだ精確的危瞼陀華して充分のカを億へてゐないらと童張してぁる由、魔の音
の記者タビッド教授は、日本の修身を許しで、﹁自己、家族、政食園家、人道、観民芸責任執念を、心身撃刀を通して
アラヒトガミ
硬ゑつ伊てゆく組織は、世界の何慶にも見嘗らぬ﹂と激碍しでゐる。我国民の圃楓並び陀硯人面 塁上陛下佗封し重患
借金は、箕紅顔義の∵犬宗教であつて、心ある世界人の驚嘆する廃∵命日迄の日本人を導いて按秀たが、更に争
一段、国家としての一般的宗教指導を必要と信ずる。此の上に乗れさへ徹底させれぼ鬼に金棒し鴻血の垂戟を好
機として闇取引する卑劣漢恵ど跡を断つであらうし、世界随一rの君子囲をしセ出由する桧産もないひ我園の宗教 指導も、狭h乍ら地方的には布はれてゐで、クサスト教の日曜畢校は勿静、北陸の沸教奉院中には、既転二三十 年前から巳曜畢校を遭って屠り、且今日各地に増加しっ1あ奥、愛知麻のある地方では、教師が生徒を連れて専念少せぬ主、攻撃する廃さへあると聞く。日曜峯校だけは、何宗に限らず、是非去竜顔め潅いものである。只我
凄艶軸塵添への二苛 (打方三︼
宗教郎生活への一考
圃の悩みは、故央吹博士の所謂﹁宗教の展鷺骨的準琴﹂ にあるが、之とても、今日迄徹底した研究が無かつたゞけ
で、取扱ひ方法が無い澤では無いから、国家として∵足の方法は是非立てねぼならぬ。
米国の性格教育は、千八百六十年死の研究から蟄達し、今日で堅盲七十飴ケ朗の大挙及びカレーヂ其の他で、
宗教々育共々講義し箕行に移Lてゐる。此の教育は、甫加大挙でほ哲単科に廃し、シカゴ大畢では宗教単科に、エールでは紳畢部に、コロムビア、ニューヨーク、アイオワ、ペルシルヴァニア、ハーバードでは教育単科に人
つてゐる。私は、宗教心理畢で有名なスターバック博士1ハーバード大串故ウイリアム・ジェームス博士の高弟1に 就いて性格教育を畢んだが、其の卒業論文⊇e蜃u針Inぎ望遠Onぎd①rn巴g註2ぎmtF①St呂d冒int Oh註罵p落籍E旨c註On﹂ の等八草性格教育方法論の中へ、﹁采数々育を全巻科で行へる﹂ と考へた私案を加入し て1性格教育の方法と私の宗教々育方法案が偶然一致してゐたので−、該教授から ﹁藤本君は教育界に甚大なる東欧を壊したと首ふぺきである⋮⋮立汲な研究であつて之を解語し推薦すべきものである﹂とか言はれて、元より何でもない事で
あカ、箕はどんな酷評を受けるかと哉々兢々でゐた廃とて、箕に驚の眼を見張つたし、其の記述をさへ一時疑っ
た次第であつ寛が、何は兎もあれ、教育中の最難鮎にある賞罰の問題も叉性教育の行き悩みも、宗教的信念1 信仰な少更によい1に依っての方法で解決されると信じて衆はない。最後に﹁宗教印生活﹂と力説したい所以は、人間がパンのみで生きてゆかれぬ郎如何なる生清音も、必ず慰安な
しではゐられぬ以上、一文化国家として、精細生活への指導研究は、−刻も忽に出奔ない問題であるからである。 ヒットラーがユダヤ人を排斥し、フランスも目下排斥にか1つてゐる所以は、彼の人達に、物慾以外、精神生活 ∂7∂も顧みず、圃豪観念は勿論親族への愛さへも廉いに近く、其の蕃毒は、躾て国家を亡ぼすのを慣れるに外ならな
い。其の意味に於て、宗教精神を普及して教育を徹底せトめ、其慶に健全なる圃豪の蟄達を希求して止まぬ、新
醍制に添つ至大精細を形造る必要である。で、短的に﹁宗教郎生活﹂と一括した次第、寄言を弄する意志は毛
頭ない。此の上とも讃者諸氏の御指導を、仰ぎ研究の纏繚を期してゐる次第である。
此の短文は、前記論文−千九育三十七年六月五日南加大串卒業の際星田−を概略したもので、此の一節々々が原文の一、二章に常る。其の各章の題目は、私の教育理想、兄童の生長と聾達、青年問題、性格教育の意義と目的の連関する虔、推理
思索、宗教と人生、性格教育と宗教、性格教育の方法論、結論、の九章百八十一節である。
敦郎生活への一考宗 β77︻ 宗教は生活の方面に患いて、人間的自我が超人間的他我と相互関係を整へんとする努力である。がその知
的方面において宗教は、未知の世界に封する直覚的鯛手に外ならぬ。そは知識と異り、事箕の詔儲ではなく、婿
ヴアダニス 死の漁想として信仰の形をとる。信仰はルウクアがいつたやうに、一種の冒険だ。信仰は憧憬や所願や要請とし
て、未茶の事賓を冒険的に夢想するのであるが、さうした夢想や憧障の白熱する虚、その希侍した専箕を生みだ
すことあカといふ不思議な、−種の創造性をもつ。僑僻的念願や憶慢なくLて、人間の理想娃賛現されない。借仰は生命の冒険として理想世界の建設に大きな役割をもつ。
素教的億仰をかやうなものと見る場合、そは字餞観の如何によ夢て、その成立を危くする。即ち宇宙がへエゲ
ルのいふ如く、汎翰理的な東成組織であるならば、宗教はその布衣理由を犬ふものではないか。宇宙が尭金匿論
理性をもつた尭威取結であるならば、牢宙の諸現象ほ数峯的に物理的把精密料率の法則を以て規定されてゐるも
のと鬼ぬぼならぬ。その場合、等倍と人間との関係を垂へんとする宗教的借倒の地位旺、極めて低い。凡ては静
宰領勒の如何と譲敦の職分宇宙観の如何と宗教の職分
帆 足 理 一 郎
餌場理の法則に支配されてゐるのであるから、論理的性格を尊重する暫畢こそ、人間的自我と超人的他我との関係を 蟄見し、規定するに適切なる文化専功だといふことになる。従つて宗教はその存在の飴地むもたないものとなる であらう。人間が宇宙の大法則について無知である間、直覚的場手である宗教の必要もあらう。だが、ショウベ ンハワァが云つたやうに、宗教は螢の如く.無明の闇があれぼこそ、その青白い光を輝かすのであつて、人智の 蟄蓬と共に、宇宙の論理組織は盆モ明噺となり、宗教の螢火を以て手埋りする必要はないといふことになるであ らう。 コムトが主張したやうに、かの複雑後妙で、たえす新奇な事象を加へ行くやうに見える社食現象でさへも、賓 讃科挙の威力の下には整然と迭則化されうるものとするならば、吾らの信仰的要素は次第に退却して、科峯萬能 となるに従ひ、宗教は此世から姿を隠すであらう。コムトが一切の社食現象を法則化しうると見たのは、ヘエゲ ルが宇宙を完成組織と見たのと同じ根摸に立ってゐるのであつて、そはへエゲル式に、世の中がいかに進化的に イムプリチット エキスプりチット 生成蟄展するが如く見えても、それは既に内合されてゐるものが、外に硯はれるといふまでであつて、何ら新 奇に創造的なものを加へゆくのではないといふことになる。この場合、宇宙の完成組織は既に輿へられた事賛で ある。ヘエゲルに従へぼ、眞に人間的なものは紳的であり、人間は既に紳的完全性を含蓄せる存在であつて、宇 宙の本鰹は質的に既に人間に宿ってゐるのであるから、人智の深昧を哲畢的に掘下げてゆけぼ、完全に宇宙を理 解し、完全に神性を蟄輝するといふことになる。むべなるかな、ヘエゲルは宗教を宇宙の寓意的解繹と見倣Lて、 之を華術と共に、山門の両脇に立たしめ、絶封精細の本尊は礪り哲畢の祭司をして、その神秘の靡を開かLめた 宇億劫の如何と宗教の扱分 β79
宇宙観の如何と宗教の職分 二六 のであつた。紳聾者として出聾したへエゲルは宗教に謝してこれだけの好意を示したのであるが、結局それは哲 畢をして滴り宇宙の眞理を悟る最高の権威たらしめたのであつて、宗教をその整頓から蹴落すものに外ならない。 〓 上述の如く、宇宙を完全に論理性の支配するものと見ることは、所詮、宗教を不必要ならしめるものであ るが、更に進んで、論理的に完全なる宇宙が、道徳的善美の鮎にぉいても完全なる絶封的資在であるといふこと は、同様に、宗教の職分を超香するものではあるまいか。宇宙が虞善美のあらゆる方面において絶封完全である ならば、人間の任務は別になく、その完全性む蟄見して、之を鑑賞し、歎莫し、叉埋草発するだけLか、なす飴 地はない。人間は宇宙の遅行に億値的な何物をも加へることはできない、何ら宇宙の資在に貢献しうる魔はない。 よし否定的に罪を犯し、宇宙の完全性を阻害して見た魔で、それが資際に人間の罪によりて汚されうる宇宙であ ヽヽ るならば、そはいふまでもなく、完全な宇宙ではないのであるから、宇宙が絶封完全であるといふことは、恵も 罪もない世界だといふのであつて、従って宗教を無用ならしめるばかりでなく、人生共著をさへ無意味ならLめ るものだ。 人間の生きがひを感するのは、自ら労働して僧侶を生産L、より善い世界を建設しゆくところにある。しかも 宇宙は既に絶封完全であつて、範封無限の僧侶を蚤輝してゐるといふならぼ、人間は只それを畢間的に蚤見し、 生活的に享楽するより外に、何の仕事も持たないであらう。さうした生活には断然宗教の必要なく、科挙や哲畢 による宇宙的完全性の認識と醒験があれぼ、それでよいわけである。廃が、現に、宇宙の絶封完全性は形而上畢 的に確認された専箕であるかといふに、むしろ反封で、スピノッアやへエゲル流の絶封観は今日否定される傾向 ∂β0
にある。二十世紀の相野性原理や創造的進化論、量子力拳や宇宙線誼、さては電子の行動にも綾見し難い自由意 イラチヨナル 志的な要素があつて、一切を論理的に規定することは不可能であり、そこに多大の非論理的な、新奇な、創造的 な生命現象や心的活動があることを認めねぼならなくなつた今日、吾らは完全性の蟄見にすぎなかつた総務の宇 宙哲拳を棄てさり、未完成未知数で、亀え套なく流動する世界、創造的に傾値の増殖によりて進化しゆく世界に、 吾らは住んでゐるのだ、といふ感懐を深めゆくものではあるまいか。そして創造的に進化しゆく、永遠に完成す ることなき世界においてのみ、宗教はその存在理由をもつと私は思ふ。 三 宇宙が創造的に進化する世界である場合、もろくの現象は一同的であつて、繰返しはない。繰返しのな い一回的現象の軒では、将来の後見は不可能であり、清爽の不安も虞資である。宇宙が完成組織である場合には、 終発の事件を因果関係によつて、適確に隷想しうるし、また末席の生活も安全に保障されるのである。が之に反 して、宇宙が未完成未知数の進化的世界である限り、虞惰、善意、美醜、聖済、混清して存在し.時としては眞 善美聖が、偽悪醜汚に打負けて退却することさへあ少、繰返しのない流時の世界においては、恵が結局勝を占め て、善は滅亡し去るのではないかと危ぶまれるほどまで、波の起伏を以て退化するとこもありうるのである。故 に、必ずしも一直線に創造的進他の歩を績けゆくものとは云へない。従って筒更.牌釆どうなるかといふことは、 科畢的に適確な改想も漁見も不可能な世界であらねぼならぬ。 さうした世界に紳があるとしても、その紳は絶封完査の紳でないことは云ふまでもなく、アレキサンダアヤブ ライトマンのいふが如く、紳自身が成長蟄展する七草pO邑雷d−g岩wingG邑であらねぼならぬ。紳は宇宙の 宇宙戟の如何と宗教の職分 ββ/
進化的精神として、範えす創造的に善美聖愛の世界を建設しょうと努力し給ふ紳であるであらう。しかもそれが 意の力に妨げられて、その理想目的を賓現することも容易ではないであらう。のみならす、宇宙は恒久無限に展 開し進化しゆくとしても、絶封完全な終局に到達することはなく、永遠に創造的進化の歩を繚けることが宇宙の 本質だと見ねぼならぬが故に、そは永遠に惑の抵抗をうけて、悩みの中に活きてゆくものであることも覚悟せね ぼならぬ。 世界がさうした悩みを包蔵し、善が意のカに打負けて傷つき又は滅亡するかも知れないといふ危険に晒されて ヴアダニス ゐる世界にあいてのみ、宗教は寛に人生最高の指導力として役立つ。信仰を冒険と見たルウタアには、絶封寓能 の紳ありしが故に、鷺は何らの冒険もなかつた。之に反して、絶封完全ならざる世界に住む書らにとりてこそ、 宗教は虞に冒険であるのだ。事資、有紳的宗教において、信者は萬能ではないが大熊の紳を信じ、完全ではない が創造的に善美の世界を茸現しゆく紳の力に信頼して、勇敢に意と戟ひ、いかなる苦難にさらされても、いかな る罪障に悩蛮されても、結局、善は最後の勝利者であるといふ確信に活くることができる。また礪ける人にとり ては、罪の填ひや恩寵の欣求も痛切となるのである。紳が創造的進化の紳である場合にのみ、人間は紳の味方と して意に適って立ち、菩実の世界の建設に、いかに些細な貢献にすぎないとしても、人間各自の猫自的性能によ りて、聖き愛の奉仕にいそしみ、以て礪自無双の貢献をなすことができる。碧海それによりて、礪自無双の個性 僧侶を蓉輝することもできるのである。 人格紳を認めない宗教においても、宗教が学績と人間との関係を整へんとする努力である限幻、創造的に進化 宇宙勒の如何と票数の職分 ββ2
しゅく世界にぉいて、人生に究極的意味を輿へるものは宗教に外ならない。繰返しのない一同的現象の世界にお
いては、法則的な科拳も、論理的な管掌も、措釆の不安を取去る力はない。宗教的信仰こそ、より良き世界の建
設を信じ、宇宙の眞寛なる神聖化を信仰させる。善美聖愛の蟄展に如賓に貢献しうる個我は、茎前絶後の一回的
存在であるだけ、それだけ永遠にその人格的業蹟の波動を俸へ、永遠に俸はる感化影響の中に永遠に活くる個我
の存在僧侶を失ふものではない。宗教はこの確信を輿へ、またいかなる苦難や不遇の中に立ちても、敢然、宇宙
の創造的進化を信じ、その重美此聖浮化を支持して、宇宙の一員たる自己の持場を守り、宇宙に謝する恩愛の誠
に清くる、これ即ち宗教的な渇仰奉仕の生活でなくて何であらう。
要するに、従来の宗教は書々が尭全世界又は完全な紳との神秘的聯開を求めるものであるやうに考へられてゐ
たのであるが、宇宙又は紳が既に完査であるならば、宗教を無用ならしめるといふ連理を結果し、むしろ之に反
Lて、宇宙が永遠に先金ならざる創造的重砲の過程にあれぼこそ、宗教は人生の指導原理として、その切資なる機能をもつといふ結論に達する。
宇宙叡の如何と宗教の職分 ∂βj近世の宗教哲拳や紳畢の合理主義的な宗教の理解に封して、最近は宗教の非合理性、宗教の超論理性といふこ とが強調されてきてゐる。宗教が単なる人間理性によつてわりきれないものであるといふことは確かに否定され 得ないにしても、はたして宗教は単に非合理性にのみつきるものであらうか。もし宗教が単に非合理性にのみ終 始するならば、宗教の虞理性の主張といふことは不可能ではなからうか。宗教の非合理性のみの徹底はバルト紳 壌の如く、紳と人間との質的断絶を示すに止まり、結局紳と紳の言と蘭語ることが出奔ないといふことを承認L、 その承認によつて紳に巣光を辟するより外はない。それ故に、バルトの紳畢の所謂締澄法的な道は単なる主張 ︵出色忘己pぎ義︶ の形式に止まらざるを得なかつたのである。シェーダーがバルト紳畢を許して目a訂曽、と︼禁札チ
h旨en の 哲h旨ke−葛iel にすぎないと云つ潅言葉は苛酷であるにしても、紳畢が単なる主張の形式に止まると
き、神輿はその宗教が虚偽や迷妄でなく、またその紳や啓示が妄想でなくして眞理であるといふことを説くこと は不可能であらう。併し乍ら、宗教は自らの虞理なることを主張し、紳畢はその宗教の眞理なることを耕讃しな 浣故に於ける合理性の問題宗教に於ける合理性の問題
星 野 元 豊
(;ざ.Jけれぼならない。然らざる限り、宗教も紳畢も完全なるものといふことは出奔ないのではなからうか。 私は宗教は単なる非合理性にのみつきるものではないと思ふ。マクス・シューラーも云ふが如く、宗教はそれ 自身の法則性それ自身の論理畢をもち、それ自身の虞理性を有しなけれぽならない。勿論、この法則性とは宗教 の心理畢的因果津則の如き宗教に師する畢問的法則性を意味してゐるのではなくして、宗教それ自身の有する法 則性を意味してゐるのである。宗教にはその非合理の内に宗教礪自の合理性がなけれぼならない。ルドルフ・オ ットーもヌミノーゼの非合理性を強調し、これをもつて宗教の本質的基本的要素なることを主張しながら、しか も、聖なるものを単に非合理的なるものと考へす、非合理的なるものと合理的なるものとの複合的範疇となし、 この両者の完全なる抱合をもつて宗教の完き状態であることを主張してゐる。かくオットーが宗教に合理的要素 を要求Lたのは、完全なる宗教が謬n註smu訊 や 害を計i付き房 に非ざることの資格を附興せんがためであつた と云ふことが出奔る。宗教が単なる妄想でない限り、そこには何等かの合理性が存しなけれぼならない。 併L乍ら、宗教に於ける合理性は決してオットーの云ふが如き合理性であつてはならず、また宗教の非合理性 もオットーの意味するが如き非合理性ではあゎノ得ない。オットーの意味する非合理性は深きが故に明かに解繹し 待ないものとして、凡ての理性以上のもの、絶封他者的なるものを意味してゐるのであつて、この鮎、一應は徹 底せるものと解することが出奔る。併し乍ら、詳細に検討するとき、ヌミノー′壱の非合理性は宗教の非合理性と いふことが出発ないのではなからうか。オットーはヌミノーゼを非合理的なるもの、絶封他者としながら、それ に適應するものとして魂の根耗、人間精細の障れたる素質を指示する。むしろオットーによれぼ、ヌミノーゼは 采故に於ける合理性の問題 βg∫