――目次――
1,口絵,スタイン氏蒐集燉煌出土古写本
2,切支丹史中フランシスコ会の伝道(上),姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-20.
3,起信論の成立に関する史料について(上),鈴木宗忠,Sōchō SUZUKI,pp.21-55.
4,ジムメルの宗教社会学,特に氏の初期論文『宗教社会学論』 Soziologie der
Religion について,林恵海,Keikai HAYASHI,pp.56-86.
5,十二部経に関する研究,林屋友次郎,Tomojirō HAYASHIYA,pp.87-115. 6,宗教研究の一考察,赤松秀景,Shūkei AKAMATSU,pp.116-126. 7,宇井博士の『印度哲学研究』,佐藤泰舜,Taishun SATŌ,pp.127-139. 8,平等君の『馬鳴と解脱法品との関係について』を読で,池田澄達,Chōtatsu IKEDA,pp.140-144. 9,スタイン氏蒐集 燉煌出土支那古写本の調査,矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.145-163. 10,稲の霊魂について,宇野円空,Enkū UNO,pp.164-172. 11,新刊紹介,pp.173-178. Posted in 1928(昭和3)年
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㌧′●ll ● ■ L・i 、 JⅣ ノ−閉教以後の嬰動ヾJフランシスコ含の停道参加
︳ ナビエルの開放以非、日本に於けろ切支丹宗門が五十年に近い侍造の成耕を鬼げた頃には.内外共に種々の藁動が生じ、それが切支丹用迫の上にも影草すべき璃琴で促して釆た。国内の弔備とし
ては.秀ぉの天下統一が最も韮大の弔で.此が切支丹の仲通に影撃で及ばしにのほ多方面lニ亙る。 之の︰11︷ち堅別に呪はれた準欝は、その動機の如何一で諭せ†秀吉の切支丹嫌忌で一のつて、天正十五 年︵〓ヨ︶の故師追放令と亨り.文段五年末︵︼弓可︶の切支丹火あぶりとなつた。.国内に此の昼勤 の生じっ、みる時.切支升の本源たる西洋にも.稚々の蔓勃が生じてゐた。その最も直接に閉房あ る分でほ、イス.ハニヤのヒリビン杭比が進んで首都†ニラの建設となら︵−ヨN︶、此がポルトガル人 一・〃r の天川し義軍する械になって姐た。此の両都市︵雨観民︶の競軍は・:敢骨の中に於ける布政財偲たるゼスス曾と他の三郎偲との対立にも聯洛すろほになつた。といふのは天川の宗門は、印度のゴ
アと結びて殆ど全くゼスス合の猫占であトI日本の切支丹布教も,天川一竺鱒披にしで充たのに封L 切支丹史中フヲンシスコ甘の付遭切支升史中
妨 崎 正 治
フランシスコ曾の停遣 ︵上︶
■■ ■■ 〓 周文丹史中フランシスヲ曾の序濾 て、†ニラの方にはフランシスヲ曾とドミニヲ曾との敢帥が多く︵その他も少々ふ丁ワ︶、此等の即位 が口本付近に立入る班になれば、対抗反目とまでは行かすとも、競守乃至疎隔の妙にぢらのほ自然 である。 間数四十砕年に互つた文経年∵トは、此等内外縫勒の影響が歴々として切支丹㌫門の上に現れて 凍た。秀圭の奥へた放初の打坪はその名ほどの大姉でぢかったので.日本の切支丹侍造は・′・の進運 に比して教師の映乏を楽しっ∼あつた︵日本人の教師を養成するに忍カと斑大とが足又㌫った恥 もー田でウ0が.それは略して︶。そこで、他の布教阿膿の掟勢一で待て之を祁光せうとの講は、一五 七九聖火正七年︶=本に凍たゼスス曾の巡察員ワリニヤニ︵く乙官21Cが之一で掟試した。此の問題 は・:・マトリド、リスボン、天川.長崎に亘っての交渉一で要し、中々決定を抱なかったが、一 五入五年︵大正十三年︶.法皇グレニヲリヨ十三の敢群で、ゼスイト以外の垂加七許さすといふに決し、 それ以外り歌仙で支那日本に渡る老は、敢曾の苅利一で利†・匂粥となつた。此の決定に、巳むを得な い勢の致†研でもあり.又市政上野別の裁決であつて.敢琴い文には.新締政の人民が輿凪の敢帥 に接して.まごつくのはJく号十といふ恥など・く和由止して説明してぁり、此の如き弊は燵に攻 年地相数仰の混入して凍た結果に現れてゐる。然し.澤世の席数托勧盲つヽぁる。丁〓フの繁‖Uは、 どうしても天川をして日本との通商を覇占せしめ†.又通苗牲衆が開けて凍れば.布教安辿も.▼
8 ラフと日本との問に飴王らぎるを得ない。況やフラソシスコ食もドミニヲ曾も.西洋に於ても.或 る意味でゼスス骨の麗辞着であ丁ワ.その教師専の布敦熱心は、単に信仰の動横の上からも.歎して 坐就し得ない勢でぁつた。 そこへもつて凍て、秀苫の得意野心、或は誇大妄想に食ひ入った仕事師原田孫七郎等が、マニラ との交渉を始め∵一方には征服と耕し、他方には通商と耕して、渡りをつけた。その結果、一▼エラ 組懲の使者として凍たのは、フランシスカソでイス.ご一ヤ人たるぺドp、ノウチスク︵ヮ乙rO苧ま訂ヱ であつて、彼が三人の同輩致師土貴族と共にマニラを覆したのが一五九三年五月升且詣詣︶. .年月王到着し、長崎で先着の致師ゼスイトの人々ビ合し.而して名古屋で秀吉に謁したのがその陽 暦八月。使節用件の串は別にして、ぺドpは伴侶三人と共に日本に留まり得たのみならす、太閤の 公許を祷,その保護の下に京都に上って布教を始めた。ナビエル以茶四十四年でゼスイト以外の布 致が始まつたのである。此間に於けろ彼等の仕郎は、先に商人として日本に凍て日本語を知ってゐ るガテシア︵GO−一旦訂Gr罵㌻︶を師匠とし、又先着着から行た文典と語虫とによつて日本語を畢朝し た串である。その志ある所は、云はすも明かである。
二 フランシスカンの侍邁に封する重初の大打撃
胡支升史中フランシスコ曾の停道4 切支丹姐中フランシスコの相伴道 四 秀盲は、此帖九州から折り、伏見城の通史に熱中してゐたが.フランシスカソ故帥はそこでも秀 吉に謁見して、京都でよい家・ピ苅ふ約束をし.又寺をも建て.盛に儀式を行ひ、公然布敬一で始めた。 京の奉行前田玄以は、それに干渉もしなかった︵或は好意一で表したともいふ︶。そこへ.その年︵文祓 二年︼写βの末には、又々総督の使節としてフランシスヲ曾のゼロニモ︵GerO︼一二一一〇︵一eJ箋且示二人の 歌帥を韓ひて︵他の一人途中死亡︶来着して謁見し.歓帥は七人になつた。大阪に修道院一で建て、長嶋 にナン・ラサロの苛と附嵐の前院二つ一で経てたのは、つゞいての串であつた、布教活動は愈よ公然 の串になって発た。四五年前の追放令以来表面沈歎してゐたゼスス含め教師が、此を見て、不安一で 成じ.新来の数帥等が串備に通せす、大塘に串を行ふに対して不快に思ふに至った宣触⋮理はハ与い。 ゼスイトの■此の不安不快は本国へ造った報告に歴々現れてゐるが、それは単に嫉成とのみ見ては ならぬ。此の如くすれば、又々禁令の厄に蓬はうといふ憂慮が大に力ある串であつた。而して、そ れは早くも串賓となり.京都では信者の寺院忠詣一で鹿追する訴になつた。それ一で又フランシスカソ の方ではゼスイトの陰謀から出たと怨み、此の如くにして丙曾は段々反日の舵鰻に入った。ゼスィ 寸の側からは.グレニヲブヨ十三の教撃で府にして自揉の覇占椎をま張すれば、フランシスカソの方 / は使節だといふ郎一で府にとり、且っ太閤の許しを得てゐるから仙人の干渉を受けへ甘いと抵抗する。 此・ど裁決寸ペき司教は在位で一の・勺。二派が相容れない形勢は省長するばかりであつた。
さ 司教マルチネス︵ゼスス曾︶.γ作付一で安け.代見に若したのは.文政五年︵≡三︶晩秋て.謁見も
好都合に清む仁.つ、、
与り時に、所謂ろサンヘリぺ︵船名︶串件が関根甲とへ†りつ∼あつた時で.・′あ船 の爽組員.㌻暴喜一で放ったきIiから.イス.ごーヤは任路の月に敢帥一で派泣了Qのだといふ妊琴か有力に なつて鱒だl一串件の内零は周知の串であるから、給して.兎に角.之の結果桟再び切支丹J迫蕃と なり教師の殺裟とハ㌧つ∴ノ勿論此一事のみが原田でハ㌧いが二虹技の刑故になつた︶。文緑五年十月二 十且彗呵虻首都と大賢切支升に封す一還捕令が突如として出た。始ほ切支丹の讐−撃し輔へよといふにあつたが、石目冶部が緩和して、ヒリビンから凍た老の罪状を款へて、之一室軍描する郡に・
定め∴と云ふ。そいま眈の令状が出にりが十月廿四且塁記︶。弄都で捕へた者十七人と大阪の七 人と・看せ.車にのせて弄の市中引攣でしたのが十一月十五日︵障㌘︶。大阪一で緯て堺に机上が.船 にlは乗せ†.態々陀路一子′−らせ.陰暦十一月廿一口、堺.十二月十五日、博多、同十人口彼杵、翌 日長蛇、ナソ・ラザロの骨壷で滋枝の依式をすませ、海岸に近い丘上、後に蛮人例といはれ・0蹟では りつけの刑に行lまれた。一′・の人数は、先の二十四人に途中で加はつた二人を併せ.畔は文紘五年十 二月十九日︵膵㌍︶り夕刻近くでぁつた.。 此の一事は.蕾昨欽禽側に於て、日本最初の大殉教として淀い成勒一で以て迎へられ、北ハ以托ら. 日本に迫害が進ふ.殉敢が略すと共に、その先轟としての令敬哩褒一で以て迎へられ∵それに尉†る詮 明文升史中フランシスコ曾の仲通 五¢
六
切支丹史中フランシスコ曾の博通
認や又記準の刊行がつゞいた。而して‡末に日本が再び開園したので、布教の再興も望高一Q恥となった横合に、一八六二年、その二十六人を聖者に列する大儀典を港行した。その月に此の殉致は非
常に理想化せられたものとして、宗教的熱情を政て見られ.焉にその歴史的位託が却て暖昧になつ てゐる。秀盲の貯鮮、四奉行問の閉係等は暫く揃いても.天川と†ニラとの封抗ともつれ合ってゐ るゼスイトとフランシスカソの反日.二者の侍造方法憩皮の差異が、此の不皐を来す一国になつて ゼスス曾の日本人故帥三人は・大阪に居住し布教してゐた焉にまきぞへに捕はれたのに外灯らす.而った。石巴一じ部の斡旋はその鮎を浦へて、ゼスス曾の外観歓師には観れない抜にしたのである。
囲俄の拡別を考へる除裕はなかったに蓮ひないが、マニラから水た奴等といふことは確に念所にあ
於ても紙製に於ても特にフランシスコ食の侍道に封する打黎たることは軍へない。秀膏には.布敢令の記鉄にも現れてゐる。串は、日本に於ける切支丹全憶に亘る不幸には速ひないが、その成行に
には・秀笥の宮廷に勢力を扶植してゐたゼスイトたるロドリゲスの呼吸のか∼つてゐることは、政ゐる郎は注意哲要する。仮令ひゼスス曾の方から此を刺放した串はないとしてヰ石田泊部の斡旋
そこで兎に角精巣についていはゞ、働敢二十六人の中二ハ人は三ラから雑たフラソジスカソ歌
師であり、二何の位節で雅た老Ⅵ中一人ゼ三毛が掛図したのを除いで、数師は全滅した評である。
して残る十五人の小・ゼスイトの慰問伐として同作して凍て.途中で召捕山中にぶち込まれた二人J ・で除いて.十三人の信者及兄童は、督フランシスコ骨聞係着でぁつた。勿論.天ま致命に於ける布 ′ 教師僚の別は、借款の宗派とは意味を異にしてゐるが.それでも日本の禁教記銭にも門派と補し.
明治の始にも此の語を製用してゐる通り、派別には泣ひなく、信者もやはりその寺院や修院に結び
ついて、特別の修業もしたのであゎ、此の殉教が韓にフランシスコ﹁門泥﹂に封する打轟でぁつて、
ゼスス﹁門泥﹂は殆ど直接の喜一で破むなかったのである。
三 ゼロニモの潜入ざ家康の委托
此の如くにして文線五年末︵畑昆矩琵︶の殉教は一般に及ぶ禁教でなくて:ニラから充た布教 の禁止を表した。勿論.長崎では右の殉教につゞいて.次の年ゼスス曾の者一でも追放したが.追及 服従は表面の串に過ぎす、賓際は老衰者や病者を送達し.又修業の焉に青年を天川に造るに止まつた。そこへ、その年︵度量二年︼冨︶初琴二人のフラソシ
†ラフから長嶋へ忍び込むだ。その中は一人ゴノまLl一訂GO2且は正に捕はれて遼遠せられたが、 他の一人ゼ︰⋮は四年前に使節として来朝し.殉教の少し前まで日本に居元ので、多少日本語も 出来、うまく内地に潜入してしまつた。そうする問に”太閤の病琴死亡.時勢は換はつて.家康 が段々に勢力を加へて凍た。而して今去で上方を俳梱してゐたゼすニモは.伊勢或は伊賀で役人に ヽ Ⅶ支丹凰中フヲンシスコ曾¢停壇 七入
切支丹ぬ中フランシスコ甘の博通
だいふさ三 見つかり・曹時伏見にゐた内府撲︵家族︶の虞へ召出された。而して此がフランシスカソの珊東布教 を開く基になつたといふのは.要するに家康が外観通番を希望してゐて.ゼ三毛をそれに利用せ ようとした秀でぁる。此に関するゼU二一毛の通倍に日く︵多少省略︶、此の日本の惜める切支丹を助ける超に†ニラを出費したのは、一五九人年五月、それ以聖
人で此別に隠れ忍び今言、伴侶ゴメスを捕へ烏と同校t此身■ざも捕へ班とする着の日をかす空し今日に及むだ。此園の同胞が苦められるのを見ては、そフシヨ、断食、デシピサナ等一で以
て聖母にお新♭むさゝげ、此の苧けのなくなる様に、又この軟骨の厄一箪慰あ・。抜に麒ひ、且っ
此の聖き信仰の焉に身命をさゝげて、日本中に深い感じを奥へた†ルチレス連の御名替を全う
する披にカを鼓して参った。此の厄難苦惜の最中で、デクスは御霊を奴等の上に垂れさせ給ひ、
芳御冨の祭の浄︵媚什二︶、即ち丁竺年前に葺濯い兄弟禁召管れ妄︵訳望
M十︶、暴叉哲の粒承た・量帝︵堅から使が凍て召出された。此命の充た時、逃れる路は全くな し・デクスは先に兄弟達に下された恩命を此身にも下され.クルスの上の死によつて他界へ行く 捻をお開き下さるのだと畳惜した。君王の前に引出され.どうして前回の召捕に漏れたかと問 はれたので・その頃、新に仲甲で募る焉に†ニラへ行って居た墾切支丹の人々を政府する鰯王.†ニラから再び凍て、先の兄弟達与同じくクルスの上から不滅に旅立たうと男悟してか・最な
9 ど.返答した。皇帝ほそれ一できいて.後生にハ㌧いと数へる絞れの罪迦宗の考に照してか.又は わしが死一で恐れる1し‖心ってか、微笑してゐた。それから丁寧にわしを扱ひ.云ふには二▲此から は恐れろことはいらぬ、にげ応れすろ.にも及ばぬし、又法服一ざ若してよろしい。わしの甜分は 開架にあるが・その終に恋着するカステラ人︵声管は交りたく・それ等の人許で新イスバ′ ニヤに往復するに常って.額内の港へ凍れば、その必要品一ぎ供給するから、日本の放と交易し、 又銀街探据の方法をも侍へてほしいと思ってゐる。而して死ぬまでにはそれ等の墾で成注げた いから.その方法・ギ示してほしい。﹂此に答へて、先にナン・ヘリビ魔の如く船が岩に粟b上げへ与 どしない械にす・りには、イス.ごlヤの水先室内が凍て海の深さを測鼓する必要がぁり、それ一で ニラ総督に周旋して戴かうといふ串を申上げた。君‡はその事で容れ.その結華群生れの 士を伐として此寧で持たせてやる串に相成った。それ故、この佐一で厚遇していだゞきにく、又 イス.♪∵lヤ人に完全へ号自由を奥へ.我等の教団が編者を説くにも何等の陀もない抜にするが肝 要で、今京で一の修道院一ざ得やうとしてゐるのも、デクスの御取斗ひと思はれ申す。皇帝には、 此墾で願ひ、デクスの御名巷一で隼び、†ルチレス連の名一ざ拐げる校にしたう考へ申すが、今皇 帝は閲束即ち板東へ出費の間際でぁる故、今は暫くそれ一で美技へ、その折らる∼一で待つつlpLリ である。∇壬憲Ⅴは問束で我等の住むべき家・ざ撰び、又関係すべき準で見介する盛王一鮨に凍い 切支丹史中フランシスコ命の停近
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と云はれる。皇帝の考は富来で云ひ得る以上に熱心であられる。
の他切支升に好都合の時であつ
ゼ三毛が代見で家批に謁見した頃は.長帖での爬迫も演じ、そ た。その後ゼロニ毛は、江βに行き.pゲッコの寮母と名ける寺宝聾し.闊東組数の始・でなした。 此は多分慶追四年︵⋮ロ︶の斡でそれから彼の任命一で托した家駄の使が†ニラへ行き.その筈硝使 の船が雉破して追弔が遅くれたので、ゼ三毛自らが催促の佼に立ち.彼が同作と共に紙幣の財物 を鵜へて出費したのも・凰の為に引返さゞる・貨得左くなった。彼は出改し.先に同伴して一度潜入 したゴメス︵どisGOコ岩ェの外にブルジョス︵P︷一1■。de苧⋮gi−1。S︶を伴って、終に年月に到新した のは、段丘七年︵−GO柑︶の秋でぁつた。それから長崎では司教︵ゼスイエに倉見し.進むで荒都で家康に謁見して、愈よ油苗基他の取廠一ざする場合に病死した。彼は京の再興したフランシスカソ寺
院に非られ、信者は篤く之一で敬した。ブ〝ジョスが之に代って三ラへ引返し−日本て†ニラとの聯紡は愈よ確立トそうになつて充た。焉にゼ︰モの伏見謁見以凍四年竿の歳月を綻ての恥であつ
’︼○ †
四 謂敦因の侍道開始ミフランシスコ曾の樽造方法
了二フでは前から多少の計基もあつたが.一六〇〇年致皇クγノシス人世が、光年の発したゼスス Ⅶ支升血中フヲンシスコ命の怖道11 骨燭占一で二軍分撤去したので、待ち構ってゎにゼスス愈以外の三敢樹は、昨摺到非とM心ひ/\に涙 泣の人・ど定め.ド・、∵:曾は磋摩の島津一で日常に、オプスチノ骨は加藤清正の紹介を創りにし.フ テンシスコ骨は、始から家康といふ撃仏日標を以て汲水し、此方の一行八人は今までから長崎に止 任してゐる上長Tド,グチ︵ゼスス曾の同名と隅別を要す︶に率ひられて京に上った。家康は.通 商の事をそこのけにして.人人もバテレンの凍たに驚いたといふが、敢て排斥はしなかった。︵又 此間に土佐や紀州へ凍たイチご一ヤ船の挙があるが省く︶。京都では.方に五年このかたのフ.ラ∴/シ スカソ侍造の役典であつた。有力の市民コチモ押珊︵此は二十五年校長崎で迫寄と闘った紙子屋浮 甜と同一人と思へ一ヱがその家を寄附して修迫院に宛て、伏見にも堺にも貧窮ながら寺が出凍た。 のみならす.教師の中四人は圃束へ行く許可を得て、江戸︵但し昔時は別の射であつた渡草︶で. 先のマザヅ﹂の寺に加へて病院を建て、此から江月がブラシス。骨侍道の重要中心となb.それか ら閣文法固へも.又東北地方へも手を延ばすに至った。右江月に行った外の四五人は直に鈴観Lた
ー
らしいが、次の年︵−GOい︶には又三人が加はった。布教の方は、此くして兎に角地歩一で得たが、通 商の方は一向に運ばないので.家康は大に不満でぁる上に、兢事者なるオランダ人が入b込むで凍 て.▼一;通商は愈よ不利となつて凍た。それが又フランクスカンの侍造にも、切支丹皇位にも寄 を及ばし.家康の切支丹排斥は、改発と共に個人風情の上の費落雷王し.ニラとの通商を断念す 切支丹史中フヲンシスコ●の停遭12 切支丹史中フランシスコ命の仔道 一二 ると共に、教師等を監成する楼になった。然し教師の熱心は同じ串で.その翌年︵芸雲︶には.後 に政宗のロ†追使に役者となるソテエーゝ甘蟹e一〇︶は同伴数人と共にイスバー−ヤ舶に乗って︵中夏 †一;出帆︶やって凍て.阿東に向ふ途中難破に赦したが、江βにあるpずリヨの聖母一で斬って助 かったといふ。兎に角、彼の一行は江戸に止去ら.京都等と併せてフランシスコ骨の教師は九人に なつた。此に次で何堂ハ人が加はり︵その中には先年水かけて引返したムノス写⋮芸もゐ・〇︶全 便で十四五人の教師を算するに至った。而して慶長十三年︵−芸00︶には開港地といふペき浦川︵今 の浦賀︶にも専一ど経てた。 フランシスカソの侍道には常に病院が件ひ、特に秘病寧ピ牧察するので.涜草の病院の一つは鰯 病原であり.薪水のムノスは大阪の寺を横張し.又欝癌・ピ施し.京都の守にも病院が附威してゐた。 紀州ではそ針君侠が瀬に似た病にか\一Lリ.それが治療で癒えたので、和歌山に病院を起し・且っ寺 と修院とを寄附したといふ。此は多分ムノスの偽造に基くであらう。それ故に、信者町中にも悶衰 が雷・後にも述べるが、将軍家の典革たる新野豪も夙に信者と竺た。又大賢は奉行︵片桐9●︶ とその子の病を治して借用を待たこともあるといふ。ツタ℡が政宗に附係一で結ぶ様になつたのも. その妾の病・ざ治してやったに始まるといふ。 何一つの偽造方法は、所柵帥る で、特志の信者は、出家わ新と刷
13 抜の鱒い軍で帯び/′、れ一でしるしにして信拒む煉る。丁腔ド.と一⇒ コ何に於け・:ザ宮司の対lに想叫 するものであつて.此の組に威する者lよ、又多くは所祁・0﹁夢二曾員﹂で一のつて、男女共に世俗生 活をしぃuがら、出家に似た戒を守る。此の組織は付近山進歩と共に整ひ、信者の心一竺解凍したので. 後に迫害が起った時に、堅く信仰七守り、殉放の死・で注げた老には、此等の組員や撃膏貝が多加 った。つまり中葉の鍛放に加へて、危機に於けろ組員相互の圃籍や激励が有効でぁつたのでぁる。
玉 江戸に於ける最初の厄難
最初の使節以爽約二十年、大殉教の枝十円玉年、江βに最初の寺が出奔てから十二三年.付近の●
地歩を占め、致師も揃ひ、慶長十六年︵︼G=︶には江月王二土ヂざ樹し.結いて上野や駿河にもや是 て、駿府から阿東一都は.他敦囲の入込もぁろが、先つフランシスコ曾の何温地となつた。然るに その頃は三代措置の代でぁつて、彼は父よhも保守的であつたから.その治世の窄慶長十年︵︼G冨︶ に.一度江戸市中の切支丹捜索をやった位であろ上に、江戸と壌府とで、偶然の串から.・徳川御家 、 人中の切支丹一で槍摩す声援になり、江βでばバゥニュ岡本大入、駿府ではデーゴ小笠原棺之毎などが、 その常串老でかつた。此の槍容は御家人のみで︰;レや一般信者には及ばなかったが、此が禁令 屈行の端緒となら、先づ泣草の寺が破捜せられ、永年に一骨の迫嘗の起るペき前編となつた。此は 即貢丹象中フランシスヲ曾の愕濾14 ● 一 一日 切支丹虹中フランシスコ命の伴道 京都にも波及して、氾和な所司代板倉伊賀守の拗皆で、京での一手で放くづして罰b彿はぎ・匂・で得 ぎるに至った。但し伏見のは▲︺たそのまゝで一¢つたといふ。 右取毀に逢った寺院の補充として.江戸の受持た・Qソテローま紡病収容所の一隅に疏邦餌・で設け. そこで信者を生めてミサを執行した。それが何か大寺を建てた械に侍はったので、筋耶は大に位現 つづい せよとの命を下し、ソテpと共に貼病原にゐた二十七人の新が召捕られて火.ろぶりにぢら、 ︸︸h一丁●ヽ て召捕られた中で、先つ江βめ牢から十七人・で引出し、鳥払の刑場で斬甘.七日問甘をさらLた。 此寄り萬丑ハ佑、天下の御掟む破りノしバテレンの法な準じ、且つ組か作りてその祓領㍗るに依て押付正に畢・る者也 七月一日 此は慶長十人年︵︼G−︺︶で院新入月十六日であつた。その中の一人ミグ〝笹mの子ルイスほ、攻 までもソテUに随身して、十一年稜共に殉致に死苧Q。その翌日は捜草の祥から.十四人一ど引出し て、同じく新竹したが、此には﹁一口二︼ろぶと郡って之に背いた﹂老だと邦訳を怒げたが、それは その小のE人の串を指したに外ならぬ。その名前から見て、前日の分には士分が多いが、聖口の分 は署町人たろき1iが知れる。その他 、刑に光って牢死した者もあつたが.最も禿い者は後に剋はされ. 二十三−1︵闇仙︶〓㍍で最も有力者でぁつたジュァノ民部外E人︵中には小姓初の人もあ・こが同じ く斬打っ他のい人リレソソ板倉はE年m牢にわて死んだ。ePち全焼々、約六十五人の殉教があつた符
】5 でろるが.此がい者の全数でなかつたのでぁるから.信者に可㍍ちの欽に近してゎた姉才知・りに足
る○
信者は此く殺されたが−款師た巧ツー7讐は政宗のカで出獄し、間もなく仙董に出かけて、それか らロ†遣使といムー芝居を打つことになる。ソ一7p以外の故師はその前に江月を去ってゐたらしく.江月には、此くして一人の教師もゐなくなつた。
六 慶長十九年の大追放ご京阪地方に於ける活動
.フランシスヲ曾の侍造は.十六年前に京阪で大打撃で受け.技に又江月で大打好一で受けたが.未 年.慶長十九年︵−雲亭は関西の故師信者を集空し外囲に追ひやつた大迫放の年でぁる。此年の始 に.フランシスコ骨の修院が十、病院が九ぁつた。然し教師の中には†ニラへ録♭去った宕があつて在留者は十人になつてゐた。段々危機が近くに従って、長帖ではゼスス曾以外の三勘が、敬備わ
列をやつて一種の示威を行った。その第一は.フランシスカソで.陽暦四月の始でぁつたが.そめや り方は頗る成侶的のものでぁつた。即ち敦囲の長チチャン︵ロiegOd09己一己l︶は先づ大説法一ゼし、 をれから翫病者十二人の足を洗ひ、之に接吻し.自分は下着一枚のみになト、現に純一でかけ、凱に は衣を塗り、重い十字架を屑にし.自分の身億を糾った耗を望旦に牽かせキリストの引立てられる ● 切支丹史中フランシスコ●の霹道16
切支丹史中フランシスコ命り博通
〓ハ
姿に擬して先頭に宰り、信者は之につゞいて二アシビタナで身標を打ち、血一で乾しっゝ行列進行し.代官村山束安とその要ジュスクも之に加はつた。但し村山一家はフランシスカソではなかった。然
し野際追放せられたフランシスタンの外観人故帥は七人の中四人で一のつたが.それも菅後に述べ・〇如く再び潜入して凍た。此等の教師は高山右空行と同船してマニラへ追はれたので二二他の船が
頑甲で出帆したのは九月二十五日と二十六日・︵諸汁㌫︶とであつた。 此の大迫放の行はれた後、l一ケ月足らぬ中に大坂冬の陣が牢︺ち、茄肝は暫く切支丹迫軍ど克く したので、教師の活動す.べき好機曾であつた。居残っ王ハ人の中でフランシス↓一のデーゴ︵D百三e 印字書。訂且は、長崎から上方に上って飲ケ月.それから美準£誓し江月に出で.ソユノロの去った彼 の映一ざ充たし.煽病所に隠れてゐたの一で.次年≡月七且脂詣︶輔はれた、その事は後に述べる。ゴ メス︵ど訂GO≡eN︶は先に述べた如く、慶長七年︵−GつN︶入別してから十六年になり、上方に親ふ が多いので.大迫放の後はデーゴと共に上方に出、それから十人年間京阪の間に布致して後に捕は れる。前後三十年問の樽泣着である。ジュアン︵・↓一一⋮計∽●冒ユP︶は、次年大村で召捕られ∴劇 都に造られて板倉伊賀守の寛大ぢ既成の下に在牢しっつ、多少の借着と接触したが、三年の後・元和 / 四賢竺十六日︵蟻詔八︶雫引習の攻寄守られた。莫のべデニP乙−・。≡ゝ⋮−乙三−︶ は大迫及前.六年間日本にゐたが▼後三年間は痘崎逸に隠れ∵冗和三年︵≡ご討か沖で珊へられ・17 大−・−︰㍍∵申l・1.せ∴ルハ﹂。柁乙二人フランコ︵ゝ〓一=〓ニ喜㌻︼J・⋮8︶と.ヘドロ・ノゥチメタ︵先王tほぴ で死た一三コこぎt・㌃;と川名鼎ハ人︶は.ゼスス倉の四人.オプスチノ愈の一人と共に.大陸元帥に 龍城した。フランコに多分Uドリケスと一班に舐たのて.最も永く日本にゐにl人でぁるが.慶長 二十年︵≡ひ︶証の陣で大阪■い落城・で最後まで丘上で見届け.それから兵乱の巷をくゞ♭氾けて長 姉に鋸り.そこで二年彼に輔はれ、大村の牢に居ること五年 元和八年︵︼昌1.︶大殉敦の拉に.大 村の山中︵恐ら︿黒木︶で殺された。他の一人ぺドゥ・ノウチスクは、慶長十年︵︼苫ヱ八川故に到着 し 大迫放を逃れ、今戊は大阪城′で出て上方に留ったが、翌年イス.ご−ヤ王の使節L共に日本を 去つに。十一年附の祁敢者であるが.殉教しなかった少数者の一人でぁる。兎に角大迫放の絶大臣 嘩り頃は、フランシスカソの何泣が京阪地方に力を入れた時期でぁつたか、●でれも悶もハ与く林招捷せ
らろべき運命にぁつた。
七 滞伏状態の侍道
たに十九年の大迫放は、その賞臨の効果如何に拘らサ、禁致の上に於ける一時期一で刺すぺき重要
−−i作で一のる上に.そS次の年に大阪が滅亡して.徳川氏は名賀ともに天下の柁戚・で起ら.遠慮なし にその威令を全観に行ひ得る様になつた。且っ外因通商の方面ではオランダとイギ,スとが、段々 切支丹史中フランシスコ打の博通l烏 −入 切文升姐中7ランシスコ倉の伴近 党行者の勢力′で舐ったので.茄腑は通商を目的に切支丹敦帥一で利用†・Q必要がなてなら.かたがた 禁教政宗と共に歌仙の入団禁止を属如し待た。それ故に、此綾の切支丹付近は潜伏胱媛に入り、迫 窮ににれ襲い.迫圧︰と戦っての化姉になつて米に。但し放帥の教に於ては、お人者は、、そS稜十五 年ばか・りの問にフランシスカソが二十人近くもあり、此も先着着と共に段々殺されはしたが、一時 は十人仕向時にゐた昨もあるので、最も盛に公然の和訳一でした時代には劣ても.致勢が正に束へた といふのではない。且っ傍迫系統の上から云へば、l方長崎が小心にはなつてゐるが、他力京都の 方から進んで、江月が依然として一方の中心であ♭、所刑⋮お埠冗に食ひ入り、それから東北カ所に 手を延ばしてゐて、い信新の飲も可な♭あり.特に乞食猫荊老の悶に僻迫は舐がつてゐた。されば. 大迫赦後二十五年、切支升伯迫の最後一ざ告げた江β最後の火刑には、東北で端へられたフランシス カソの敢帥二人がその節郎粛として殉歓の花を吹かせた。井上筑彼守が宗門改の記銘に.窪阪以西 の切支升はコソ.ごーヤ︵ゼスス愈︶、以東はフラグ︵・フランシスコ倉︶に威すると都留めたのは、勿論 正経でないが、フランシスカソの付近が後までも、閃光に狐がつてゐたきIi欝の反映であろ。 大迫放を攻‖にして前校二期とするならば、前期には二阿の打紫のぁつたに射して、柁期にはそ / れほど一群の大打矩も㍍い代りに、打撃窮迫は常任の串になつて凍た。但し/イれでも後期の初に は多少組まつた市郎かあら.後にな・Qに従って、′踵々に散在した個々の迫害約款になつてゐる。此
19 の持出い勃に拾り一ナ結・一ち古h満仲といふ一いに/冗和二年︵≡︷−︶説鵡に江刀工於ける控蛮乱川であつ て.先の所司代般介仰れ守も.れ死の温和政軍で寝じて、位に礼別を加へ.京阪の切文升は一般に
非常の窮境に陥った。∵々の記銘はないが、フランシスカソもその厄・ど免れなかった。先に起した
サンタマルクのジュアンが二︰布川山根郡の年令に新て.最後晰骨せられたのも.此波動の一両であり、 上井に伯迫したベドロメク一′スクが.大阪陣の綾川ほつゞけて上方に居たのに、終に日本・ざ去った のも・窮迫の喬であり、その畔読邸にゎたルイス;ノ宗、一六二六年八月七且矯浣宍︶附で、常時‖本のどこかの睦にゐた“友人に出した手紙がその胱琴で示してゐる。
親愛の友よ、花等の兄弟遁.ぺドロ・.ハクチスタやイスバー一ヤ人の串l二川して、京や長蛇.又ル ソンから水・匂報迫は.貴く知ってゐられう。何ポち不運といふ外ない。デクスの和カでどうに か救ふていたゞく外へ㌧い。〓ハ望み一でおくのは、椚に合し、共に許し合ひ.此の心一堂引立てて那 ふいごIiの一け。然るに御まはそれ一で述ふガに御折田ヘリされるやうだが.結〃は何か好い結果に向 ふであらう。ロハ辛抱あ云の一け。御まが御慈悲一で以て、我等が御まの光発の男に基合し得・りlほに晋たい。票兄弟ムノエ餌箭㍍拍︶や†ル七品待㌍ほさ︶と通信の折雪ぺゎしが建
部にして御まの光先の秀に働いてゐること・で知らせ.又ぁちらからも撲チゼ知らせろ班に云ひ 造ってほしい⋮⋮⋮⋮:デクスが我等の上に化合を賜はる様に斬り申す。 切文升史中フランシスコ甘の付近ご0 切‡外政中フランシスコ倉の博通 二〇 此手紙の宛名琵−ユカタソナのジュアン︵Ju⋮de∽・C=三二一エといつて、元和元年︵︼己ヱ末に到新した ィスパニヤ†拓㍍㌣り∵行に加って米た一人である。此佳節と云ふのは.先に慶長十一中︵−GコG︶家此 が致帥ムノスに托して迂った快命に射する答絶と云ふ意味で水たのでぁるが。公位の外に右ジュア ン始め≡人のフランシスカソ一で作って凍た。而して約一年措定してゐた問.此の手紙の時には堺か 浦加=速に層て.使命塞をしくした苦川の中た月日一で造ってゐたのであるご′−れと云ふのは.この十 年の問に、は内が︰優してゐたので.使節一行ほ到弟後説へ上ったが、普帖仰ほ京に新た措祈亮恵 ち大和坪尻比も鍋見一で机・小、肘甲で安けす、之を迫ひ返した。一わの小の徽帥山人笹.そ山年江月 で祁川−二なつてゐたフランシスコのデーゴ・で江β上訪問せんとしたが、勿論許され互い。Mし後に 俗人二人がデーゴを隼介に訪問してゐるが、やはり持il忽むでの聯鈴はあつたので.後にデーゴは その蛤に熱組むでメコシコに出かける抜になつた。文盲の帖に述べろが、此の仕節が茄血の一部分 む鋤かした串も結氷に現れてゐろ。然し、侍道上には勅裁を梨げす、イスバニヤ通商の表徴がフラ ンシスコ骨仰泣を助け縛なくなつたしるしである。
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起信諭の成立に関する史料に裁て︵上︶
鈴 木 宗 忠
−序 言
警前に起った起信論に関する寒には、多少慧の慧の談論もあつ妄うで雪が、大憶に
於ては−畢術上布盛な多くの結警莞したことは、慧に考へる篭ば、何人もこれ毒害る
ことが出凍ないだらうe・この粘から見て・或る薯が、起信諭の問題は、急に立ち返るペきものであると論じ羞きは▼今義法品曾云はねば苫ね。しかし起信論の豊に讐ては、史料
の取扱方に就いても・本文の形式を分析し・及びその内容品等るに執心ても、繁多くの豊
が残されて居るやうに思はれる。私が弦に論.じょ・上するのは、かゝる問題に対して二の見警提供する月である。
しかし私は・多£人のするやうに、初めに諸家の霊品等ろこと盲は止芋、先づ問題
毘警明にし・正旨己の見解を述べることにする。勿論その際に、他の畢着から利害冨た
所は、これ訂自にする・と共に∵反封怠君持って屠る人に対しては、枕許†もことにも空で
魁偉翰¢成せに劇イるた群≠軌‡22 二二 趣信論の成立に闊†る史料に就て あらう。しかし成かペく、他の畢者の云はない竣に考へる、自己燭時の意見を中心として.論やぇ つもりである。尤も私は、かの起信諭々軍に閥係した人や、これに興味を持った人のみでなJ\一 般に傭敢の新研究に志ぁる人々を射手として、この議論を進めるのであるから.既に特殊な研究者 には、知れ切ったと思はれる姉項でも、行論上必要と認める場合には、これを詮述するでぁらう。 同一な史料を取扱ふにしても.考へ方が英♭、同一な本文を分析し、解辞するにしても、見方が興 って居る。殊に私は偶数に関する根本の見方が▼多くの人と典る所があると考へるから、これに因 って、起信諭に関する問題の解決も.自ら違ったものになるだらう。・ 私の考では、起信諭の成立を明にするには、この方面から研究するの必要がみる。一はこれに閲 する史料を吟味することで、他はその本文一で批評することである。此の度から、問題は自ら三偶に ■ヽ 分れて凍ると思ふ。第一は、起信諭の成立に関する虹料を批評することであるが、これは.起債諭の成 立に閲する問題の上から云へば、僅にその出費鮎をなすに過ぎない。史料の批評は、常然本文の吟味 に移らなければならね。本文を吟映するには、先つその形式を分析するのであるが、結局はその内 容を解辞するやうになつて.初めて問題各位の核心に達する。それ故に.琴一は、超信諭の中心思 想が問怯となる。成立の上から見ると、起信諭の中心思想は、加水寂思想と風耶思想との結合であ ると思ふが、ま要の位置を占めるのは、前者であつて、後者は単に附属的なものであるに止まる。
幻 亨Jで撃一に、この中心思想を軸とし∵−れに本属の形式と史料とを併せ考へて.起倍諭の成立開 祖を解決することが出水る。−
■ 私は以上の如く、二方面から研め、三問題に分けで、初めて起侶諭の成立を明にすることが出水
ると考へるのでぁるが、この論文に於て取扱はうとするのは、第一の問題である。先つ第一の問規
を解決して、次第に第こ、琴ニ.の問題に及ぶであらう。 信諭序.法減の大乗起信諭鶉記等が、それ†ある。琴一の史料は、起信論ほ馬鳴が作ったのでぁる二 眞諦繹肯定訣に関する史料の批判
起信諭は、.その成立の上から考へると.これに関する史料は、三縄類となすことが出水る。第一の史料は、起個諭は喘鳴が作↓、眞諦が評したょするもので、華長房の歴代三者記∵帝位の大乗超
が、眞諦の評したことを認め㌣もので−法経等の衆種目餞・塁延の大乗起債論魂疎・急遽の大乗起信論議親等が、これに属すると考へる。第三の史料は、起倍諭は馬鳴が作ったので
の評したのでもないとするもので、恵均の四諭玄鶉及び珍需の探玄記私記は、これに属すると云ふ
ペきものでぁらう。この三史料の中で、第一と第一一咤.馬鳴作を骨足する鮎に於ては、全く同一で、その典ろ黙は、畢諦評に関する朗にある。即ち一は眞諦繹も骨足するのに、他はこれを認めない。
也信論¢成立に#†る史料に就て24 也信論の成立に甚†る史料に就て 二日 それ故に私はこの二椰の史料を随別する焉めに、第一を眞諦評肯定設に閲する史料と云ひ.第二を 眞諦謂否定説に関する虹粁と耕する。第三の史料は、馬鳴作を否定する鮎に於て、第一及び琴一の 史料と相違する。それ故に私はこの史料の特色を明にする焉めに.これを庖鳴作否定説に関する史 料と名けることにする。 ︶ け 歴代三膏記に就いて 起信論の成立を明にするが虐めに、この三史料を批評するのが﹂本論文の目的であるが、本簡に 於ては、先づ具諦評肯定託に関する史粋から始める。この史料の第一位に在る歴代三賢寵は、薫長 .房が作製して、隋の文帝開皇十七年に朝廷に上進したもので.質の名は開皇三貿鉄と云はれるので あるが十玉谷から成hl現に蔵経の中に存する︵致六︶。第一巻から第三巷までに、帝王の年次を記 し、第四器以下が紅銀になつて居る。その第十一巻に、染の評踵を叙した所に︵整ハ、七六左︶.泉諦 の述作としで、十六部四十六暮を挙げて居るが、その中に、 大乗記信諭義朗㌍蛸陸 と云ふのがぁる。技に四年とあるは、前後の関係上染の武帝大清四年のことでぁる。普通に起債論 が泉諦評とせられるのは、結局はこの記事に基くやうに思はれるが、歴代三茸記は、勉倍論の成立 に節する史料として、それ程に償位のあるものであらうか。 ●
この種鋭の、上進せられた開基十七年は、西暦五九七年に曹♭、起倍論を記述するものとしては、 法鮭等の衆終日叙︵五九四︶を除いては、それは最も古い踵銀で牒る。殊にこの上進の時は、起信論 の評者と耕する眞諦の没した陳の宣帝大建元年.即ち西暦五六九年・ぞ去ること、僅に二十入年を越 えない。この粘から見て、歴代三茸記は、魔信諭に関する重要な史鼎と云はねばならね。更にその 筋栗に就いて考へるに、こ町経叙は、皆時に存した多くの経線を参照したと云はれるから.眞諦の やうな、諸所に流離し、その昔詳目叙の如きも、極めて不完全であつたと想像し得べき場合に於て は、轟々虹料としての慣位を対して氷る澤である。 席代三野記は、かやうに長所があるけれども、その欠鮎は更に大なるものがある。一般に云ふと、 この終倣は、多くの経傲を妄に取♭入れたが虐めに、 撰なものとなつたのである。この㌧Jとは貞元奴︵結七二一左︶王、 .金粉長房入寂鎖中。串賓殊勝。共闘本疑岱。皆塩入辣。窮焉不可。 とあるにても、その一般を知ることが出水る。特に眞諦の著評日銀に就いても、こ臥経銀の年代は. 眞諦に近いにも拘らず.その内容を検すると、願.る疑はしいものがある。この経銀には、具諦に関 して、前に輿げた染代評十六部四十六器の外に、その第九器︵致六、六五︶に.陳世評として、四十八 溢 部二軍二十谷を列記する。この陳世評の方は暫らく措き、抜では起信論の載せてある染代評に就い 絶伯論の成立に脚†る史料に放て
屯信論の成立に劇†る史料に放て 〓六 別 て考へるt 十六部四十六谷には、悉くその番目の下に、連作の年暗が附いて居る→︶。これを年時 の順にならべると、次の如くである。
合計十六部四十六審。
この記述を扱査すると、仝燈の上から考へても.個々の経論に就いて見ても.到底これをそのままに受取ることは出水ぬ。
第−。全敗の上から考へ.ると.歴代三冠記のこの記逓は、紹高付将にある晃諦やその弟子の侍記 ︵致二︶の串質と一致しない。この記逓に依れば、眞諦は五四九年から五五四年に至る五年閉に、十六部四十六黎の辞書をなしたことになるので、随分多くの任那を任務げたものと云はねばならね。
然るに備記で見ると、彼は大清二年︵五四人︶に、染の都建菜に着き、武前に謁したけれども.間も 犬猫三年︵五四九︶。 同 四年︵五五〇︶。 同 五年︵五五一︶。 承空元年︵五五二︶。 同 三年︵五五四︶。 仁王偵若班女笹。中論蹄二街。九識我詑二巻。相法論鶉馳一笹。計四部十一粒。 十七地論五巻。大乗埠倍論一巻。申詮一等。如買論一巻。十八部論一怨。本有今無給一巻。三世分 別論一巻。起信論疏二怨。 計八部十三巷。 金光叩疏十三巷。 金光研鍔七笹。 ㌦弼勒下生経一巻。仁王墳若純一笹。 計二部二巷。 .なく候景の乱が起ったので、都を逃れて尭土に行き、ヌ常春に到って.陸元肇の煤譲讐竺受け.裏め て十七地諭五器を硯辞した。宣にはその年時は書いてないが、三質記にあるやうに、多分大浦四年︵五 五〇︶でぁつたらう。それから天保三年即ち東亜元年︵五重一︶に、候景に招かれて、毒に行ったけ れども、兵乱相綬いて、落ち着くことは出水なかった。しかしその年の未に∵冗帝が即位して中和 になつたので、金陵の正軌寺に止まり、金光明解を礁辞した。これは三貿記にあるやうに、七巷で はなく、眞諦の評した金光明鮭は、確に三身分別、業障滅、陀羅尼最薄地、供奉満願の四品で︵合 部金光明経序.茸九、六三左︶、これに曇無識の辞した四谷十人品を合廿て、七巻二十二品となした のであらトフ。その年時に就いても、侍記には何とも書いてないが、この講評を記した直後に、三年 二月邁反辣章とあるから、三貿記にあるやうに、承垂元年ではなく、その翌年、即ち承垂二年︵五
重三であつた
持して、僅に一諭一経を礪辞するに止まり、三芳記にあるやうに、多大の薯評をなす程の僚裕は、 到底なかったと思はれる。弦に奥諦に関する記事に、明白な相違が存する。・この.二の記串の中で、 ・何れに適征すべきかと云へば、私は無論三賞記を捨て、侍記を取るのが、正常であると考へる。そ の理由を拳げると.︵一︶、府高冊侍は唐の道宣の作ったもので.歴代三賀記に比較すれば、迄に後代 灯 のものであるけれども、眞諦の染代の串蹟に関して、その記する朗は、眞諦の弟子志位が披大衆論 屯信論の成立に劇†る史料に就て28 過信論の成立lこ隅†る史料に就て ヽ 二八 序︵凍九、四六左︶に逓ペる併と、根本に於て.一致するから.正確な和栗を樽へるものとしなけれ ばならぬ。︵二︶、整且は何を材料として晃諦に閲する伯記を作ったかと扮するに.栢高付何には.泉 諦に就いて、伶宗の三城行状、智放の三城斌謬歴、管耽の三光別歴等のあつたことを侍へる。此等 の人は.何れも皆兵諦の弟子であるから、その記す所は、確賓なものであつたらう。迫宣は此等の 碓井な材料に依って、具諦に関する侍記を作ったと思はれるから、その記事は、大恐に於て、信用 してよからう。尤も歴代三資記も.具諦の染代錬にも︵致六、h七六左︶、叉その陳世殊にも︵同、六六− 七︶.叩枇の三蔵侍,若くは三蔵歴侍を引いては居る。これは績高滑樽の三親別歴と同一なものであ らう。しかしそこの文を能く見ると、陳壮健は、碓にまとしてこれに依ったと思はれるが.免状領 の方は、これに基いたとは考へられない。恐らくは曹批の記述は、確質ではあるが、物足らないも のであつたらうから、葉長房は他の不確賓ではあるが、整ったやうに見える材料に基いて、かの▼染代 銀を作ったのであらう。私はかやうに考へて、この場合には、三賓記を捨てゝ、侍記を取るのである。 第〓。個々の経論に就いて見るに、歴代三官記の記述では、眞諦は染代に経論の横澤に対して、 その洗疏を重いたことになつて居る。即ち仁王般若経一幕に対して、仁王般若疏六巷があら、金光 明鮭七黎に対して、金光明疏十三琴中諭一巻に対して、中諭撃雇、大乗起倍諭一巻に対して、 剋信論疏こ巷がある。
29 常時の評紐状蝮を考へると、多べの人々を悠め、桃評三波が先づ梵本一で執り、少しつ∼その意味 を述べて、これを梵淡雨語に通する侍評者に授け、偶語者が多くの人々に侍へたものをば、華安着 が珊受すると云ふやうな頗序になつて居たと思はれる。それ故に或る経論を構辞することは、同時 にその乱疏を述作することにもにもなるのである。さうして見ると、奥諦が経論を都許すると共に、 その祉一ど作ったと云ふのも、それだけで考へれば、別に不忠試写Jとではない。しかし弦に疑はし いのは、託疏が先に出水て、終諭の諏評が後に出水たと云ふ三賛記の記述である。即ち金光明就が
五五一年に出水、その翌五韮土年に金光明群が出凍、五四九年に中諭疏が出水、その翌五五〇年に 中諭が山東元。起信諭は諭疏共に五五〇年に出水たけれども、仁王般邪経は、疏が五四九年が山水、
五年も鮭てから、五正円年に経が出水たのである。この鮎から見ても、眞諦の染代錬に関する歴代 三野紀の記述は、これをそのまゝに信することは出水ない。 第三。覇現に閥聯して特に盃じて麓きたいのは、九識鶉記のことである。若しこれが十七地諭の 罷跳でぁるならば、就二谷が五四九年に出水、諭玉谷がその翌五五〇年に出水たことになるから. 鞘現に述べた一例にヘサQ評である。果してそうでぁらうか。十七地諭は、早くから失はれたもので、 Mより碓禦互ことは列らないが▼ この名榊から見ても、頸勒の稔伽諭であることは明である。その 兢が宜港でぁることから推すと.恒本地分の山部謂悪くは抄評であつたらう。九識我記も現存しない 起信論り成立に闘†・わ史料に枕て30が、票にこの浮苧㍑これト印す乙もの1あつたことH・詔華竿・∴六た︶に、
ヽノヽ′一ヽノ
就此最中日常有人和典=謂伏北越等り其如九識語⋮冤 ′■、 とありハ立又囲測山解探求綜此甲賀鍍戒緯聖‡関金那川聖宍0︶に、 リハリつ 革空涙。依決定減論じ立九識詭じ如九識=⋮読。とあるにても、如きとが崇・㌔九識裁とは・前六識・署阿陀邪識、㌫入阿梨耶識・莞阿摩
と
莞宣言撃∵/、蒜色に、羞としての阿摩都識左撃品に誉とせられろ。異説藷の
描大乗論に基いた伍論㌫の根本義と去ってよからうじしかし兢宗論には・岸慧去ふ警な
く、泉諦がこれ蓋いたりはJ∴無性諭‡セあ云。九実記はこ完姦べ宝のに述ひないから・若しそれが十七哩論山荘胱である与れば・十←地諭は九霊姦いて空ければならぬ。警に
焼伽葦秦荘長って兄一り.と、八霊で・阿腰部識は説か互いじ尤も泉諦謂と祁す品定慧に阿座慧蓋いて■山品︵非六Jハり左︶走って∵1れに和琴去芳諾論硫決柁分︵空・
弄∴右・︶に比較与ると・文句竺羞卜し吊∵じ・昨阿便錐識が柏依となつて居るS︰か∵品和学 ぁ一子/、して見れば、十七拙論は、豊減曾川ほに・九霊蓋いて㌍であらう∵︶。℃十七地論が九霊蓋いて㌍与れば・九購求記ほ・その許此と考
へられないことも㌧か・シフ。しか
しこれにに加が票。︵︰︶、㌘錠で字、警嘉苧あ⋮と・︵二︶・諭が去であろのに− JE信八州り成人佑﹁闘丁︰・史料に就・\3l
は九識義記咤何れかの経論の証此ではハ甘く、革胡桃敢の中心‖蒜・竺墜蕊的に説いたものでれらうし
それ故にこれは彼の構花山勃知である染代に出水たも山でなく、如論l東S枇になり、鵬大衆論七構繹して二二無性論等に及び、〓芯的にも支那と親しみの葎じた後の米作でやらう。聞測が畢聖蔽。
伏決定此論。式九識義と云へ一〇は、こり椚止む洩したもいと附すべきである。この鮎から凡ても. 九識義記む展諦の染代融ヒ入れ左二光記レJ記串は、このま∼ではぃすaことが⋮−i水ぬし●
結論に就いて見ても.随分疑はくのくい
しいものがあ云。唯この中で樅暦㍍のは、畢誹が梁ぺに於て、十七地論と令光叩経とを礪謬したと云
ふことである。従って今の問題とす一り通ぃ論が、染レJ帖代に、革前に依って、湖澤せられたと云ふ のは.恨しいことゝなるのである。しかし羅に往志すべさは∴二署記が畢誹梁代鉛・リノ各北︰‖にその 年時ぉ肌記することである。︰般に緯蠍に於て、経論に布陣の附いて居るのほ.そい常時に存在し場合には、先つ碓
た原本に.作川年峠の胱︰いてあつたのに兆くだらうと〓心lヱれる。それ枚l二か1一り 打と見てよからう。けれども二︰封記の革誹染代倣に於ては、この例に従・ふことl1日水ぬと‖心ふ。何故なれば既に論じた如く、この記串は純増でないからである。それならば如両してこり年時の記述
が〓水王かと云・ふに、札の考では、二言粥怖に依るのではなかゥフかと‖心ふ。一は此等の各藩‖は▼
越信論り成就に脚†ろ史料に放て32 也惜論り成立に閥†ろ史料に就て 三二 川か仙瞑とした伯説があつて、異諦初期の構謂に締せられたと云ふ事情で.他は眞諦が染代に鞘辞し て、その年帖も樅鱈に知られて層たと思はれる、十七地論及び金光明絡の何れかに基いて、各昔日 の年怖が.堂山せられたと云ふ準備である。私は今起倍諭に就いて、このことを諭するであらう。 起い論が、歴代二い究記の拍差せられた常時、即ち隋の時代に、晃諦に錆せられて居たことは、三 雄記の記述のみでなく、それよユニ年以前関金十四年、即ち西暦五九四年に出た法控錐の記恥から 見て一b疑ふの除地はない。しかし起信諒は眞諦に録せられても.それが染代に出たか、若くは陳世 に出たかは.不朋で一のつたらうと‖心はれる。弦にこれを決定するの必要が起る。その際眞諦の陳世 華謂は比較的に知られて居たけれども.染代著謬は除りに明でなかったといふやうな事情や.又は その他り準備もあつて、起代諭は結局染代評となつたのであらう。既に起信諭が染代評となると、 更に進んでこれにもつと碓賓万年時々附けようとする要求の起って凍るのも.決して不可能ではな い。そこでこの要求に應する虐めに、椎茸な染代二繹の中で.古い十七地諭の講評に、関係させる ことになつたのであらう。このことは三野記に、十七拙論玉谷として、その下に大沼四年於常春陸 元習宅娼沙門欝伯守一十名糖評と書き、荘後に大.爽起信諭一巻として、その下に、同四年在陸元哲 宅机とみ一〇にても、容易にこれ一で知ることが出水る。かくして起信論に関する三野記の記串は出奔 たのであらう。
33 けれども少しく考へ乙と、起信諭のやうハ仏、形式に於ても、内容に於ても.非常に空った誼讃力 大沼四年と云ふやうへ号、眞諦の初評の時期七於て、現れて凍るとは、不思講へせJとである。そこで 起信諭の展諦澤一で信じながらも、その珊評年時を今少し眞諦の聞熟した時期に引下げようとする希 望の起官のは、常然のこと∼云はねばハ仏らぬ。この希望む表したものは、三軍記よりも五年彼、即 ち仁章二年︵六〇二︶に出た衆終日叙帥仁章叙と祁するものであらう。仁苺錐節一幕︵経二二〇右︶に . 起信諭一谷。三触⋮性諭一幕。右二諭院政皐締評。 として、起信諭を陳世の礪評とした。それより六十年ばかり後髄朔三年︵六六三︶に出た静泰の衆経 口鉄郎ち静泰鉄谷二結一、五右︶も.これを踏襲して、 起信諭一幕。二十三紙陳世畢祁評。 ヽ と云って層る。しかし不〓心誠なことには、静泰放と殆ど同時︵鱗徳元年六六四︶に出た大店内典鎌第 E谷︵紡二七一左︶には、これを斥けて、再び雁代三光記へ克ち細り、 逓信諭朗軌出違 ●◆▲︳一− とみ・0。錠に大同四年とめるは、触⋮論説で、一二軍記に大衆逓信諭一巻。同四年とあるのは.前に逓 大衆通信論。紘 一Kur 起惜論り成立に聞†る史料に就て 周囲咋准 元新宅出
34 起惜論の成立に閥†る虹料lこ就て 三四 べた如く、犬猫四年の意味であるのに、内典銀がこれ一で誤って、染の武帝大同四年としたのである。 次に則天武后の天椚苗歳元年︵六九五︶に出た武伺刊定衆粁口叙第六笹︵結三、二四左︶も、内典似を 折畳して、 大乗起信諭一幕。右染代眞諦評。県内典銀。 と云って屠る。かうなつて凍ると、又この二設を析申するもの∼現れるのは、常然である。これが ノー 窄位の大系起㍍諒序の承聖硫詳説の現れて凍た所以であらう。 ㈱.大乗起信諭序に就いて 大乗起爪諭序は∵現存減経では、揚州付割位作として.大乗起信諭の前に就かれる︵凍十、三 左︶。 歴代三光記と同じく、起信諭一で畢祁詳とし、次のやうに去って居一り。 以大洗水準二年歳次発何九月十‖。於術州始輿邦雄輿寺。敬論法帥。赦演大乗。岡持和典。示導遥途。 迂講評期諭一幕。以朋論旨。玄文二十谷。大晶玄文四谷。十二田線杵柄谷。九識鶉章両港。樽語人天笠 岡パ支骨邦等。執筆人利根等。菅尾二年方託。 この序は、起信詮に閲す一〇史料としてに、舌凍取要なるものとせられた。殊に眞諦詳肯定故に於て は、構繹の年時に就いても、その場所に就いても、三賞記を捨て、起信諭序を取って居たやうに思 はれる。しかし稚く槍ペて見もと、この仔は、起信諭の成立に関する史料としては.歴代三冠記に
3う も略して疑はしい研がある。 第■。この仔には、揚州付和殿作と聾いてあるが.私の前に拳げた文を能く見ると.−、れは有性 の作としても叩いけれども、をの作としなくても差支へないやうである。思ふにこの序は、初めは 触⋮名でJのつにちのが、後に御殿作とせられるやぅになつたのではなからうか。そして普通にはこの 作新和隠は、畢諦の弟子とせられるが、畢抑の弟子は帝位ではなく、慧位であ 眞諦の郁大衆論及び倶弁論の礪鐸に閥係救も深く、自らこの二諭に序文一軍背いて居るが︵乗九、四六
1七.冬一、二︶∵その中に能く表れて居るのであ一心。しかし蕎高付侍の著者造宣は、誤って語憬一で智
橙と告いて居るから︵致二、八八−九.しかし慧位とした所もある︶、彼世智殿とするやうになつたの であらう。この鮎から見ても、起信諭序は.眞諦い弟子の番いたものとは、受取れ互い。 第〓。起㍍諭けは、その存在が認められるやうになつたのは、比較的彼眈のことで・のる。これは 起信論の礪澤年血右承聖二牢と寸るのであ乙が、歴代三者記に於ては.既に述べたやうに、これ一で 取らハ︺いで、大浦四年として居る。若⊥その碑⋮時に碓賓に泉諦の弟子の説いた承些二年説がみるな らば、弟長房がこれ一で耽らない菩はなかったらう。さうして九ると、五九七年頃には、起信諭序の 存推しハけかったことは桝でム∵る。次に仁詩叙にも、節点叙にも、仮に述べたやうに、起信諭は陳世 評として居一りから、前と同抜の理由に依って、六〇二年頃にも.又六六三年頃にも、起信諒序の布 拍持論り成立に聞†ろ史料lこ就て:ニ6 在しなかったことが利一り。又内兢ハ餓や武周餓は、既に述べたやうに、仁詔磁等の陳世澤説を捨て、 再び麿代二裏記へ沌戊トして、染代詳説少−詫服して居るから、六六川年頃にも、又六九五年頃にも、 通ぃ論序は在れしへ㌧かったと云はねはならぬ。この鮎 から見ても、逓信諭序は眞諦の弟子慧位の作 ● ったものとは、到底考へられない。 それならば起信論序は、何年頃に作られたかと云ふに、緯餓の上で、その存在が認められるやう になつたのは、開元十人年︵七三〇︶に揖に糊︰冗雅致餓に始まる0でぁる。閲元就第六幕︵精巧垂二 左︶ には、 大乗起倍諭壷。掴鋸㌫⋮諸相凱雛馴錮㌫㌍榊昭掴軌馴針酬⋮路側濡 とある。技には詮序・で明記し、且っこれに依って起信諭の綱謂彿時一ぜ立て∼屠るから、この踵磁の 出た七三〇年頃には、既に起︰1ii諭作の存在したことは、云ふまでもない。これが通信諭序の作られ た最下年限であ・¢。そして武川似には、既に述べたやうに、その存在は認められないのであるから、 六丸正年はその最上年限でJ再る。それ故に経餓の上だけで見ると、起信諭序は六九五−七三〇の三 十伶年間に作られたことになる。しかし法滅の大乗起信諭義記を考へると、更にその作出年時を限 定すそ︼とが出水る。載記は.後に述べるやうに、起侶諭の跳躍年帖一で水準二年となして㍍一心が、 これは起㍍諭序に兆いたものであるから、明にその存在一ぜ認めて層る。それ故に義記い作揖年時一で 投信論レI成文lこ粗守ろ軋別に就て
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明にすることが出水れば、起信諭序の年睦も限定せられる。法減の義記を作った年時は、圃朝隠の
廃滅法師之碑︵大正減耗節五十琴 二八〇︶にも、崖致遠のは減和桐佃︵同、二八〇1読︶にも書い てないが、彼は点軌十七年︵六四三︶に生れ、先天元年︵七一二︶に七十才で殺したから.義記の一作出は遅くとも七〇〇年頃まで遡ることが出水る。そうすると起信諭序の作出は、武伺叙の出た六九五
年を去る間もじいことでぁつたらう。
進んで起信諭序作出の過程に就いて考へると、第一、この序は、慧位の快食膵諭序や硫大衆論序
に擬して作られたもの・と思はれる。慧位が眞諦のこの二諭の構繹に最も閣係深かったこと、及びこ
の二諭に序文を作ったことは、軍はれない斬新である。二の論序は、共に初めにその諭の根本義を
詑き、後にその侍繹のきーi賛を述べて層畠。起倍葡序も、その結梯に於ては、供命諭作や硫大衆論序に興る所はない。快食諭や扱大衆論は、件数諭減としては頚要なものであるが、起侶諭も、その慣
俄に於ては、決してこの二諭に劣る所はハ仏いと云ってもよからう。そこで起信論序の作者は、眞諦
門下では、鶉解に於て、最も優れ、親しく両論の侍繹に㈲係して、その序文を作った慧憧に提して、
これを作ったものであらう。
第〓.諭序の作者は、その材料Jで措高仰伯や、その他に取ったものと考へられ一心。紙高相伯の眞諦伯では・訟∽式部が偶数の名帥一ぎ求める男めに、位一箪西城に出した結北として、泉諦が支邦へ凍
起信論の成立に開†ろ史料に就て38 ヽ 三八 払信論の成立に開†る史料に兢て たことになつて居るが、起信諭序でも同様である。尤も晃諦爛では、使を出した囲が.扶南とな って屠ち、諭序では、摩伽陀図となつては居るが、その結柿に於ては.英る所はない。更にこれよ りも多く諭序に脚係があると思はれるのは、眞諦謬とせられる金剛般弟披雅楽綻Ⅵ後記︵月九、三九 右︶である。︵4︶。畢諦に二の名がある。一は披腰元陀︵冒1・書巳≠エで罪諦と詳t、他は拘放水陀 ︵舞亡l呂蔓P︶で親依と許する。然るに金剛般弟後記には.殉服邦他。此云晃︰鱒とぁる。これは明に 視であるが、起信沿岸にも.杓蘭灘陀謬畢諦となつて居るから、二者の間には.閲係がないとは云 00 00 へない。更に揮後記では、嘱彼玄文。琵此奥説と云ひ、経本一笹。文栽十笹と云って居るが.諭序 00 00 には、講評斯諭一幕。以桝諭旨。玄文l手笹。大品玄文関谷。十l両線拝所黎。九識義章両港と.述. べてある。玄文二十琴 大品玄文四谷と云ふのは、諭序だけで見ると、何のことやら明でないが∵− れを経線記に比較すると、起信諭の注疏を意味したものだらうと云ふ想像がつく。十二因繰経両忽 は.何れかヰ取って凍たかは不明であるが.九識義章閉幕は.碓に歴代三悪記の九識義記二怨に関 係があるに速ひない。獅ほ諭序には/−の文の少し前に、骨鬼三年方路とあるが、これは慧橙の快 食論序︵各二二亮︶の捗二年文鶉方畢と似て居る研があるやうに思はれる。 第三、起倍論序が、起信諭凍評の年時を承聖年間とするは、耽に述べたやうに、大沼四年託と陳 世設と一で訴中した結果と思はれるが、将にこれ智東撃二年九月十uと定めたには、何れにか基いた