他力 他力他力 他力 たりき 本願 本願 本願 本願 ほ ん が ん 浄土真宗・浄土宗 浄土真宗・浄土宗 浄土真宗・浄土宗 浄土真宗・浄土宗 浄土真宗 浄土真宗浄土真宗 浄土真宗 浄土の一宗を創唱した法 ほ う 然 ね ん (源空)の門弟親鸞(1173―1262)によって開かれた仏教の一派。 真宗とも略称する。古くは俗に 一 向 宗 いっこうしゅう 、門徒宗ともいわれた。浄土宗鎮西派 ちんぜ いは や浄土宗西山派 せいざ んは 、時宗 じ し ゅ う などとともに日本浄土教の主流を形成し、日本の総人口の約 20%を占めている。 歴史 歴史歴史 歴史 最初叡山 え い ざ ん に学び、1201年(建仁1)法然の専修 せ ん じ ゅ 念仏 ね ん ぶ つ に帰した親鸞は、1207年(承元1)法然が 四国方面へ流罪となったとき還俗 げ ん ぞ く させられて越後 えちご 国府に流罪となる。4 年ばかりの配所の生活を 送るころに恵 え 信 し ん 尼 に と結婚、その後、越後・関東・京都にわたる非僧 ひそう 非俗 ひぞく の在家者 ざいけ しゃ 的な念仏教化生 活を送るが、その態度は、彼の主張内容と相まって、僧俗一体平等の同朋 ど う ほ う 教団としての歩みを形 成する。 教義 教義教義 教義 親鸞の『 教 きょう 行 ぎょう 信 証 しんしょう 』などの主張をその根幹とする。したがって、大乗仏教経典なる『無 量 寿 経 むりょうじゅきょう 』 『観 無 量 寿 経 かんむりょうじゅきょう 』『阿弥陀 あ み だ 経 きょう 』を正依 し ょ う え の経とし、 龍 樹 りゅうじゅ 、天 て ん 親 じ ん (世親 せしん )、曇鸞 ど ん ら ん 、 道 綽 どうしゃく 、善導 ぜ ん ど う 、源信 げ ん し ん 、 法然の七祖の聖典、覚如 か く ご と ・存 ざ い 覚 か く の諸著、蓮如 れ ん に ょ の『御文 おふみ 』などが重視される。南無阿弥陀仏と称 と な え る 称 名 しょうみょう 念仏 ね ん ぶ つ の実践において、人間の自我欲中心的な生き方を、無我・縁起 えんぎ 因 縁 生 いんねんしょう の真理の現れ としての阿弥陀仏の浄土の悟りの躍動力なる本願力 ほ ん が ん りき 他力 たりき (第十八願力)の光・呼声 よ び ご え のなかに、心 底深く内省せしめられ、つねに 清 浄 土 しょうじょうど の実現を願いつつ無我・平等・大慈悲心のあふれる現実生 活を開拓することを力説する教えである。 浄土宗 浄土宗浄土宗 浄土宗 日本仏教の一宗派。法 ほ う 然 ね ん 上 人 しょうにん ・源 げ ん 空 く う を開祖とし、阿弥陀仏 あみだぶつ に帰命 き み ょ う し、その本願を信じ、称名念 仏によって、その浄土への 往 生 おうじょう を期することを教旨とする。知恩院(京都市東山区)を総本山と し、増上寺(東京都港区)、金 こ ん 戒 か い 光明寺 こ う み ょ うじ (京都市左京区)、知恩寺(京都市左京区)、 清 浄 しょうじょう 華院 け ん い ん (京 都市上京区)、善導寺(福岡県久留米市)、光明寺(神奈川県鎌倉市)、善光寺大本願(長野市)を 大本山とする。 歴史 歴史歴史 歴史 開祖源空は比叡山において天台宗をはじめ広く仏教を学んだが、善導の『観 無量寿経 疏 かんむりょうじゅきょうしょ 』を読 んで浄土念仏の確信を得、叡山を降りて布教に踏み切った。1175 年(安元 1)43 歳のおりのこと といわれ、この年が浄土宗開宗の年とされる。源空の主著『選択本願念仏集』は、浄土宗の立宗 宣言ともいうべきもので、従来の八宗、九宗に対して新たに浄土宗をたてるゆえんを説いている。 源空の周囲には多数の門人が集まったが、源空没後、それぞれの説をたてて争うようになった。 そのうち主要なものは、 隆 りゅう 寛 か ん の多念義(長楽寺流)、弁 長 べんちょう の鎮 ち ん 西義 ぜいぎ 、幸 こ う 西 さ い の一念義、証 空 しょうくう の西山 せ い ざ ん 義 ぎ 、 長 西 ちょうさい の諸行本願義(九品寺流 く ほ ん じ り ゅ う )、親鸞の一向 い っ こ う 義 ぎ などである。
白骨の御文(おふみ) 白骨の御文(おふみ)白骨の御文(おふみ) 白骨の御文(おふみ) 浄土真宗本願寺八世蓮如 れ ん に ょ が撰述した御文の 5 帖目第 16 通「白骨白骨白骨白骨 は っ こ つ 」は、御文の中でも特に有名な ものである。存覚の『存覚法語』を基に作られている。意味は今日・明日の事しか考えない人々 の姿を見て考えると、人の生涯は儚いものです。まるで幻のようなものです。今は元気でも、次 の瞬間には死んでしまうかもしれない。死は、年齢を問いません。だから、その日暮らしの生活 ではなく、これからの生き方を考えてください。それには阿弥陀仏に深く帰依し、称名念仏する 事を勧めます。 原文 原文原文 原文 それ、人間の浮生 ふ し ょ う なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ 儚 はかな きものは、この世の始中 し ち ゅ う 終 じゅう 、まぼ ろしのごとくなる一期 いちご なり。 されば、いまだ萬 ま ん 歳 ざ い の人身 に ん じ ん をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百 年の 形 体 ぎょうたい を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、 元のしずく、末の露より繁しと言えり。 されば、 朝 あした には紅顔 こ う が ん ありて 夕 ゆうべ には白骨 は っ こ つ となれる身なり。すでに常の風きたりぬれば、即ち二 つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃 と う 李 り の装いを失いぬ るときは、六親 ろ く し ん 眷属 け ん ぞ く あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半 よ わ の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ 残れり。あわれといふも、なかなか 疎 おろそ かなり。されば、人間の儚き事は、 老 少 ろうしょう 不定 ふ じ ょ う のさかいな れば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきも のなり。 あなかしこ、あなかしこ。 意訳 意訳意訳 意訳 さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ 儚 はかな いものは、人間の生まれ てから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。 それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人 の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕 私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先 であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。 それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常 の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむな しく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集ま って嘆き悲しんでも、どうする事もできない。 そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘 だ び に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、 ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関 わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏 に頼み申上げて、念仏申すべきであります。
自力作善 自力作善自力作善 自力作善(じりきさぜん) 歎異抄歎異抄歎異抄歎異抄 た ん に し ょ う 「その故は自力作善の人はひとえに他力をたのむ心欠けたるあいだ弥陀の本願に非ず」 自力の心とは何か。親鸞聖人は自力ということについて、四つ言われている。 1. 1.1. 1. 自らが身をよしと思う心。自らが身をよしと思う心。自らが身をよしと思う心。自分自身は間違いのない正しいものと考えている。我々の深い自己自らが身をよしと思う心。 肯定の心である。これが根本である。人は無意識のうちに自らが身をよしと思う心に立ってい る。 2. 2.2. 2.身をたのむ心。身をたのむ心。身をたのむ心。たのむとは頼りにするという意味で、自己の可能性を深く信じ、自己過信にな身をたのむ心。 っている。何でもやれば出来ると思い込んでいる。うぬぼれている。 3. 3.3. 3. 悪しき心をさがしく顧みる心。悪しき心をさがしく顧みる心。悪しき心をさがしく顧みる心。悪しき心とは、我々の心の中には腹が立ったり人を嫉んだりす悪しき心をさがしく顧みる心。 る心があり、後で考えると「しまった、どうしてあんな事したのだろう」と思う。さがしくと は賢げにわが心をあれやこれやとあつかいまわして自己卑下する。初めには強い自己過信をも っているようであるが、裏を返せば強い自己卑下、劣等感になる。自己過信を表とすれば劣等 感は裏である。 4. 4.4. 4. 人をよしあしという心。人をよしあしという心。人をよしあしという心。人の事については冷たい批判、厳しい批評をする。これらは人間の殻人をよしあしという心。 であり、この自力の殻の中に人間は閉じこもっているのである。他力の心というのはどういう のか。他力とはその殼を打ち砕かれた時に顕われる如来心 に ょ ら い しん をいう。 自力とは、自己中心の小さい殻の中に閉じこもって相手を責めたて、自分は間違いないんだと いう迷いの心をいう。 作善とは廃悪 は い あ く 修 善 しゅうぜん いう。悪いことをやめよう、善いことを実行しようという心。これをいう。 善いことをやり悪いことをやめようというのは、人間の深い理性、知性でありけなげなことであ るが、それを自力作善という。考えねばならぬ問題がある。それは人間存在の持つ限界、人間の 分際を知らねばならぬということである、力の程を知らないのではあるまいか。悪いことをやめ 善い事をやるというのはけなげではあるが、自らを神様と考えているのではないか。 人間のいる所は、たといはじめはきれいであっても、それが時間と共に必ず汚れてくるという ことを知らねばならない。その中にあって、善い事をやり、悪い事をやめようということがどこ まで続くか。それがわからないのを自力作善の人というのである。善いことが出来るんだ、悪い 事をやめるんだ、やれば出来るんだということに囚れて人を責める。自分が出来ないことがわか らない。その心の根底に、深い深い仏を知らず自己が高上りした心があるのである。これを自力 作善の人という。けなげな心ではあるが、人間の分際を知らないのである。
不退転とは 不退転とは不退転とは 不退転とは (1) 屈しないこと。かたく信じて変えないこと。「―の決意」 (2) 〔仏〕「不退(1)」に 同じ。(3) 「不退(2)」に同じ。 「不退転」とは、浄土の仏地に足がついて迷いの世界に退転しないことをいい、覚りの側から 言えば、必ず仏に成る位ということで「 正定聚 しょうじょうしゅ 」ともいいます。これは道心が定まって退転し ない位、という意味です。(参照:{五十二位と、親鸞聖人・蓮如 れ ん に ょ 上人の教学の違い})。 理由は色々ありますが、菩提心が喜び(歓喜地 かんきち )として信受することができるということ、ま た仏の智慧 ち え が開けて浄土の内容を直接領解できるからです。不退転の菩薩は、仏としての功徳は 足らなくとも、仏としての自覚ができ、智慧 ち え が開けているので、仏としての真の歩みが解ってく るのです。つまり 往 生 おうじょう 即 成 仏 じょうぶつ で、即得往生すればすでに成仏を果たしているからこそ、仏本来 の道が足元から開かれ、真の仏としての真の行が始まっていくのです。このことを親鸞聖人は、 「如来 に ょ ら い とひとし」と言われました。 さらに、経 典 きょうてん に書かれてある様々な内容と、自身の生活内容や人生観が、念珠 ね ん じ ゅ の珠のように一 つにつながっているのを確認できますので、仏と我、浄土と穢土 え ど の境目が、きちんと見えつつも 関係が無碍 む げ になってくる(入出無碍)のです。この境目が見えないのは邪 よ こ しまな悟 さ と りです。 ただし「不退転」は「無退転」ではないので、不退転の菩薩であっても迷って退転することは あります。しかし退転するとすぐに浄土の呼び覚ましがあり、仏性がはたらきますので、地位か ら転落することはありません。それどころか、退転するたびに不退転の内容が深く領解できるよ うになるです。 日本や中国では「言行一致」といって、「解って言葉に表すことができても、その通りに行動で きなければ語る意味がない」というような共通した観念がありますが、経典にはそうは書かれて いません。もっと丁寧に人生を語ります。まず解ること、そして解った内容に基いて行がともな うこと。この二つをまずは分けて考察し、段階を踏んで一致させるのです。解ることが「智慧」 で、これは「往生することを願う」ことで浄土の智慧が回向 えこう されるのです。これを往相 お う そ う 回向とい います。そして、願生の菩薩が浄土の還相 か ん そ う 回向のはたらきを得て行ずることで「徳」を積むこと ができます。仏とはこの智慧と徳が 成 就 じょうじゅ した人のことをいいます。智慧によって「不退転」に住 し、試行錯誤の「業」が転じられて、そこから成仏への真の「行業」が始まるのです。 このことを親鸞聖人は「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す」と、 智慧が信心の徳であることを『華厳経 け ご ん き ょう 』を引いて明かにしてみえます。つまり、往相も還相も如 来回向の功徳であるということです。 一般的に「○○菩薩」と言いますのはこの 正定聚 しょうじょうしゅ ・不退転の菩薩のことをいいます。たとえ ば「龍樹菩薩」や「天親菩薩」は名にある通り不退転の菩薩であることが分かります。 では曇鸞 ど ん ら ん 大師は菩薩なのでしょうか。ご自身では、「われすでに凡夫にして、智慧浅短 せ ん た ん なり」と、 まだ地位に入っていないようなことを仰っていますが、これは当然、慢心を嫌っての発言で、往 還回向の門が見つかってその内容を書かれてみえるわけですから、当然不退転の菩薩なのです。 このことは親鸞聖人も見抜かれ、また梁国の天子 蕭 王 しょうおう の信にもあやかって、著書の中で何度も「曇
鸞菩薩」とあがめられてみえます。 ならば親鸞聖人は大師でしょうか菩薩でしょうか。本願寺では「見真大師」の名が掲げられて いますが、これは実に不名誉な名称です。親鸞聖人は大師ではなく、当然「菩薩」です。教団内 でなぜ「親鸞菩薩と呼ばせていただこう」という声が上がらないのか、私は実に不思議に思って います。 このことは、「慶ばしいかな、心を弘誓 こ う せ い の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」という一言だけ でもはっきりしておりますが、著 述 ちょじゅつ 全てにわたって菩薩としての論を展開されてみえることも見 逃してはならないでしょう。諸仏や高僧の著を参考にしてみえますが、浄土の実体験があるから こそ、新たな教学を打ち建てることができたのです。 ところが中にはひどい誤解があり、聖人ご自身が懺悔として 仰 おっしゃ る言葉に依 よ りかかり、「親鸞聖 人は凡夫のままで救われたのだ」などと、実に情けない理屈を言う人までいます。「凡夫」という のは、生まれたまま何の学びも成長もない、生きている価値を見出せない、見出そうともしない 人のことを言います。浄土の深い内容まで見えている親鸞聖人が、どうして凡夫でありましょう。 正定聚不退転の位に入ってみえたからこそ、尽せぬ懺悔と同時に浄土の内容が解るのです。 正定聚に住していない人は、道を求めながらもまだ暗中模索状態で、迷いの中にいて、きっか けがあると一気に底に沈む可能性があるので「退転の菩薩」といい、覚りの側から言えばまだ「不 定聚・邪定聚」で、成仏が定まっていない段階なのです。これは浄土の教えでいえば、たとえば 曇鸞大師が「楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし」(『往生論 注』巻下)と仰るような状態で、大経には「かの辺地の七宝の宮殿に生れて、五百歳のうちにも ろもろの厄を受くる」とあります。不定聚・邪定聚の菩薩は「胎生 た い せ い 」ともいいますが、様々な噂 を聞き、往生したいと願って阿弥陀仏の浄土に関心を示したことで既に功徳はふり向けられてい ますが、浄土の内容を知ったり仏の真意を聞き開こうと真に願うことがありませんから、念仏を 蔑 ないがし ろにする人の意見に惑わされたり、言葉に依りかかって言葉の指さす方向に心が向いていま せん。心を浄土の地につけることができない試行錯誤の段階です。 ただし、試行錯誤であればいずれ不退転に成る可能性がありますが、退転のまま落ち着いてし まう人も大勢います。これは宗教的動機が天人や声聞・縁覚 え ん か く に留まっているからです。安逸 あ ん い つ を求 めたり、法を聞くだけで満足したり、自分だけの悟りに満足することは「菩薩の死」であり「大畏怖 だいいふ 」 であり、地獄に堕ちるよりなお悪い、と龍樹菩薩は述べてみえます。 これが正定聚・不退転の菩薩に成ると浄土の内容がわかるのです。不定聚・邪定聚の人の座は 同じ安楽の場でも華びらが閉じていますが、不退転の菩薩の座は華びらが開いて、直接浄土の内 容を見ることができるのです。このことを大経には「願生彼国 即得往生 住不退転」(かの国に 生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん)と顕わしていますが、これは浄土を見 る智慧が回向されて開いているのです。心の眼が開けば、眼前に浄土が見え、同時に穢土 え ど も同居 していることも見えるのです。 『歎異抄 た ん に し ょう 』の「さるべき 業 縁 ぎょうえん のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」ということも、無自覚 であれば「いかなるふるまひもすべし」そのままですが、無明・煩悩が見えて懺悔する仏性が正
定聚に育っていれば、振る舞いの内容が見え、一時の迷いはあっても無明・煩悩に食い尽くされ ることはありません。 なお、不退転の菩薩と退転の菩薩の第一の違いは、一切衆生を恭敬供養(尊敬)できるかどう かです(参照: {供養諸仏の願})。「一切衆生悉有 しつう 仏性」といわれる仏性が聞 ぶ ん 見 み できていない退転 の菩薩は、自他の尊さに目覚めていませんから諸仏を供養できないのです。例えば、「私は信心 し ん じ ん を 得たから価値のある人間だが、あなたは得ていないから価値のない人間である」・「早く私と同じ ような信心を得なさい」などと言う人がいたらそれは慢心であり、相手を尊敬できていませんの で、退転の菩薩に留まったまま菩薩の死を迎えているのです。 逆に 親鸞聖人のように「御同朋 ど う ほ う ・御同行」と皆を尊敬し、皆とともに学び、「ともに念仏を尊 びましょう」、「私は愚かな凡夫です」というような方こそ本当は凡夫ではなく、不退転の菩薩な のです。(参照: {信仰に熱心なのは良いことですか? })。まだ眠っている仏性が育つためには、 ともに五逆や謗法 ぼ う ほ う を厳しく慎むと同時に、五逆や謗法のご縁をによってもお育てにあずかる場を 見つけることが必要でしょう。 もう一つ重要なことは、不退転の菩薩は、阿弥陀仏の浄土に往生したいと願うだけではなく、 自らの国を発見し、「自分の国も阿弥陀仏の浄土のような素晴らしい国土にしたい」と願いを起こ していることです。つまり、いつまでも阿弥陀仏の慈悲に依りかかっているばかりではなく、阿 弥陀仏から自立して、自らの国土を見出し、その国土を清浄・荘厳 そ う ご ん ならしめる願いを起こし、行 動するのです。これは大経の「往覲偈 お う ご ん げち 」に書かれていますので参考にして下さい。 たとえば、有名大学に入りたい一心で受験勉強しても、入学してからどうするのか解らない人 は、大学に入ってもその甲斐 か い がありません。大学で学んだことを活かして社会に出て自立しなけ れば大学に入った意味がないでしょう。 阿弥陀仏の浄土は、いわば一生学べる人生勉強の一流有名大学のようなもので、門は広く開い ていて誰でも入ることができますが、浄土で学んだことを活かして、自らの浄土を 建 立 こんりゅう する意志 があるのかないのかが問われるのです。この問いが還相 か ん そ う でありましょう。 また、他人から観ると、不退転の菩薩は「三千大千世界の王者の風格が漂う」といいます。こ のことを『大経』では、王よりも、転輪聖王よりも、帝 釈 天 たいしゃくてん よりも、他化 た か 自在 じざい 天 て ん の王よりも百千 億倍も輝かしい容姿 ようし を持つ、と述べています。実際、真の念仏者はそうした風格が漂っているの です。
虚仮不実(こけふじつ) 虚仮不実(こけふじつ)虚仮不実(こけふじつ) 虚仮不実(こけふじつ) ※「虚仮不実のわが身にて」・・・・親鸞聖人が85歳以降に書かれたご和讃 わさん です。その中の 正像末 しょうじょうまつ 和讃「悲歎 ひたん 述 じゅっ 懐讃 か い さ ん 」16首の1首です。和讃全文は以下の通りです。 《浄土真宗に帰(き)すれども真実の心(しん)はありがたし、虚仮不実のわが身にて清浄(し ょうじょう)の心もさらになし》 この親鸞聖人の言葉を直訳すると「私は阿弥陀仏を信仰しているが、その心には真実など微塵 もない。嘘偽りの我が身であり、清らかな心など全くない」と解釈できます。 親鸞聖人は、自らを「虚仮不実のわが身にて」と言われました。虚仮とは、うそ・いつわり、 そして不実とは、実(み)がない・真実でないことです。実がないとは、皮ばかりのことで、食 べ物で言いうと「らっきょ」のようなものです。 具体的には、私の顔のようなもので、ひと皮むけば、つらの皮、ふた皮むけば、うその皮、み 皮むけば、化けの皮です。そして妬み、やっかみ、欲深い清らかな心などまったく無い、見かけ 倒しの醜い私のことです。 これが真実の私であり、ごく普通の人間のことではないでしょうか。この「私」自身の「不実」 を「不実」と知り、悔い改め精進することが、仏心の「真実」に出遇うことだと思うのです。 この仏心の真実の前では、貪欲(とんよく・むさぼり)・瞋恚(しんに・いかり)・愚痴(ぐち・ おろかさ)の三毒の煩悩をはじめとするあらゆる煩悩をさらけ出し、苦しみ・悲しみ・悩みを持 って涙する愚かな私や衆生を仏心が、救わずにおれない、見捨てずにはおけない慈悲で煩悩の苦 しみから助けて下さると思うのです。 人には必ず仏心があると私は信じます。慈悲を仰いで朋 と も にいる隣人、多くの人に仏心を灯し、 明るく平和で穏やかな社会を造るのです。
煩悩即菩提 煩悩即菩提煩悩即菩提 煩悩即菩提 すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅すること は不可能と考えられ、また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれ ると考えられる。したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく) して存在する。これを而二不二而二不二而二不二而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。 これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。 この色(しき、物質的)の世界は空であるが、それ自体がすべて真如の表れである。したがっ て悟りを妨げる煩悩も真如の一面から現れたものである。したがって煩悩を離れて菩提は得られ ない。また逆に菩提なくして煩悩から離れることはない。これが煩悩即菩提であるとする。
悪人正機 悪人正機悪人正機 悪人正機(あくにんしょうき) 悪人正機は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他 力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡 夫たる「悪人」である。よって「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象 であることを知りえるという意である。 「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。こ こでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。 また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは仏の視点による善悪である。 法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さな い仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。 悪人 悪人悪人 悪人 衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な 「悪人」であると捉える。 阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一 つも出来ない極悪人であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。 善人 善人善人 善人 親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行 を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。 また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな極悪人でも救済 する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。 因果 因果因果 因果 凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行っ た事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もあ る。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。 本願ぼこり 本願ぼこり本願ぼこり 本願ぼこり 悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動 に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればと て毒をこのむべからず」と戒めている。
煩悩具足の凡夫 煩悩具足の凡夫煩悩具足の凡夫 煩悩具足の凡夫 心身を悩ませ、さわがせる貪欲(むさぼり)瞋恚(いかり)愚痴(おろかさ)を三毒の煩悩と 言い、それを身にそなえた者のこと。親鸞は常に自身のことを、煩悩具足の凡夫と自覚されてい た。 歎異抄 歎異抄歎異抄 歎異抄 た ん に し ょ う ( ( ( (14141414)))) 第九章第九章第九章 第九章 よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、い よいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、 煩悩(ぼんのう)の所為(しょい)なり。 しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)とおおせられたるこ となれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもし くおぼゆるなり。 また浄土(じょうど)へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあ れば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩(ぼんのう)の所為(しょい)な り。 現代語訳 現代語訳現代語訳 現代語訳 このことをよくよく考えてみると、教えの道筋からいえば、天におどり地におどるくらいに喜 ばなければならないはずです。しかし喜びの感情が起こらないからこそ、よりいっそう弥陀の浄 土への往生は間違いないといただくべきでしょう。なぜならば、喜ぶはずの心を喜ばせないよう にしているのは、煩悩がはたらくからです。 如来は永劫の昔から私たちを見通されて『煩悩具足の凡夫よ』とおっしゃっているのですから、 弥陀の他力の悲願は、このような私たちのためなのだと受け止められて、いよいよ頼もしく感じ られるのです。 また、阿弥陀の浄土へ喜び勇んでゆきたいという心が起こらなくて、ちょっと病気にでもなれ ば、死ぬのではないかと心細くなることも煩悩がはたらくからです。 あらゆる煩悩が具(そな)わっている私たち、そして、まるで燃えさかる家のように激しく移 ろいやすいこの世界は、すべてが嘘(うそ)偽(いつわ)りや絵空事であって何ひとつ真実はな い。ただ南無阿弥陀仏だけが真実なのである。 この言葉は聖徳太子の「世間 せけん 虚仮 こ け 、唯仏是真 ゆ い ぶ つ ぜ し ん 」を想起させる言葉です。 「煩悩具足」は「煩悩成就」ともいわれますように、まったく悟りを得る要素がないということ です。つまり煩悩で「この身」が成り立っているという事実に気が付かされたということです。 歎異抄 歎異抄歎異抄 歎異抄::::鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書。親鸞の弟子である唯円 ゆ い え ん によって書かれた、とさ れる。
世間 世間世間 世間 せけん 虚仮 虚仮 虚仮 虚仮 こ け 、 、 、 、唯仏是真唯仏是真唯仏是真唯仏是真 ゆ い ぶ つ ぜ し ん 聖徳太子のことばに、「世間虚仮、唯仏是真」 がある。 「世間は虚仮にして、唯だ仏のみ是れ真なり」。 しかし、このことばほど曲解誤解されているものは少ない。 たとえば、江戸時代の儒者たちは、「聖徳太子は摂政皇太子であったから、政治家であったはずだ。 その政治家が、自分が治めるべき世間を「虚仮」(いつわり)と見ていたのではいい政治ができる わけがない・・・」と攻撃をしている。だが、それは、聖徳太子のことばを曲解したものだ,わ たしはそう思う。 聖徳太子の考えは、わたしたちの生きているこの世間は、差別の世界である。大小、長短、男 女、美醜 び し ゅ う ・善悪・益害 え き が い と、さまざまな差別がある。しかし、そうした差別は「仮」のもの「虚仮」 なるものであって,それらの差別を絶対視してはならない。それらの差別を超えたところに、無 差別平等の仏の世界があり、その仏の世界のみが真実なのだ。われわれはその真実のほとけの世 界を忘れてこの世間の差別にこだわってはいけない。そう太子はいわれたのだ。 たとえば、わたしたちは学校で子どもたちをできる子・できない子に差別している。本当はど の子もすべてすばらしい仏の子なのに、子どもたちに点数をつけて差別しているのである。それ はよくないことだ。しかし、いま点数評価をいっさいやめると、現行の教育制度は崩壊してしま う。だから、文部科学省は差別の制度を守り続けるであろう。しかし、そのときでも、文部科学 省の役人や教師は,子どもを差別してよいとは思わないでほしい。人間を差別する権利は誰にも ない。差別せざるを得ないのであれば、それは仮に差別させてもらうのだ。涙をこぼしながら、 差別を許してもらう。それが「虚仮」の意味である。 企業の経営者は、社員の給料に差をつけねばならぬだろう。しかしそのときでも、働きが悪い ものは給料が低くって当たり前....と考えないで欲しい。申し訳ないが会社を運営していくため に差をつけさせていただく...と詫びながら差をつけるのだ。 そういうことを聖徳太子は教えられたのである。 阿弥陀仏の本願。浄土教・阿弥陀信仰の根本となる考えである
。
「他力本願」という言葉は、浄土 じ ょ う ど 真 宗 しんしゅう において、教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。 浄土真宗の宗祖である親鸞 し ん ら ん 聖 人 しょうにん がいわれた「他力 たりき 」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、 もちろん他人の力をあてにすることでもありません。また、世間一般でいう、人間関係のうえで の自らの力や、他の力という意味でもありません。「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無 辺な阿弥陀 あ み だ 如来 に ょ ら い の力を表す言葉です。 「本願 ほ ん が ん 」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀 あ み だ 如来 に ょ ら い の根本 の願いとして「あらゆる人々に、南無 な む 阿弥 あ み 陀仏 だぶつ を信じさせ、称えさせて、浄土 じ ょ う ど に 往 生 おうじょう せしめよう」と誓われた願いのことです。この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようと するはたらきを「本願力 り き 」といい、「他力」といいます。 私たち念仏者は、このような如来 に ょ ら い の本願のはたらきによる救いを、「他力本願」という言葉で聞 き喜んできたのです。ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの 尊 とうと さと意 義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。 改悔文 改悔文改悔文 改悔文 がいけもん もろもろの 雑 行 ぞうぎょう ・雑修 ざ っ し ゅ 、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我 わ れ 等 な ど が今度の一大 事の後生 ご し ょ う 御 お たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、 往 生 おうじょう 一定・御たす け治定 じ じ ょ う とぞんじ、このうえの 称 名 しょうみょう は、御恩 ごおん 報謝 ほ う し ゃ とよろこびもうし 候 そうろ う。この御 お ことわり 聴 聞 ちょうもん も うしわけそうろうこと、御開山 聖 人 しょうにん 御出世の御恩 ごおん ・次第 しだい 相 承 そうしょう の善知識 ぜんち しき のあさからざる御勧化 ごかんげ の 御恩と、ありがたくぞんじ候う。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期 いちご をかぎりまもり もうすべく候う。 「ただ念仏すればいい」という一見簡単そうに思っていた念仏の信心ですが、改めて読んでみ ると、容易なことではありません。自我のすべてを捨て去って、阿弥陀仏の救済だけを信じ、救 われているわたしなのだと実感ずることなど、とうてい困難なことです。 食べるにも、着るにも、住むにも不満は残しつつも、困窮欠乏の感じることのない現代。幸せ ということばが今ほどあふれている時代はないのに、幸せの実感が今ほど薄れてしまった時代も ないと思われます。 それは、大勢の他人の力や自然の恵みによって、生かされている自分であるという自覚の欠如 だと思います。 病気になれば健康になりたいと願い医者や薬局に通い、腹がすけば食べたいと願い食品店に通 い、物が足りないと思えば買い物に走る。 そのどれ一つでも、自分独りでは満足させることはできないのです。わたしたちは生かされて いる、そのあたりまえのことを忘れてはいないでしょうか。