緒 言
私が舌側からの矯正臨床に関わり、本格的な治 療を始めてから約 20 年経過した。その間多くの 先人達の功績に助けられ、技工操作システムの確 立、治療期間の短縮、適応症の拡大、ブラケット による歯牙コントロールの適正化、インプラント アンカーの応用など、唇側からの矯正治療と比較 して質の向上、さらに咬合の安定性に大きな差が なくなったことを実感している。今回、成人女性 の Angle class Ⅱ div. 1症例 を舌側からの矯正で治療し、保定終了から 7 年経 過した患者さんの資料をもとに、咬合の安定に関 わる Esthetic、Biology、Function、Structure の 4項目について検証したので考察する。
症例と方針
Ⅰ.症例 初診時年齢:24y 2m 動的治療開始年齢:24y 3m 動的治療期間:2y 4m 保定治療期間:2y 5m 保定終了後経過:7y [ 初診時所見 ](図1) 既往歴および家族歴:父親は出っ歯で、母親は乱 杭歯である。 主訴:出っ歯、乱杭歯 が気になる。 顔貌所見:正貌は左右対称で、中顔面が長く下顔 面が短い。また口輸筋の緊張が強く、ガミースマ イルを認める。 側貌は convex type である。口元の突出感を認 める。安静時には Inter labial gap は大きく、口 唇閉鎖不全が認められる。 口腔内所見:上下顎ともに小臼歯部に中等度の叢 生を認め、歯列弓形態は鞍状歯列である。また、 上顎前歯は唇側傾斜している。歯列正中線は、上 顎に対し下顎が右側に偏位している。オーバー ジェットは大きく、オーバーバイトは深く、正面 観で咬合時に下顎前歯部がわずかに確認できる程 度である。 模型所見:上顎左右側犬歯に著明な摩耗が認めら れる。臼歯関係は、左右側ともに Angle class Ⅱ で、オーバージェットは 9.0 mm、オーバーバイ トは 5.0 mm である。 セファロ所見:骨格系では、SNA 77.5 ゜、 SNB 71.0 ゜、 ANB 6.5 ゜、FMA 33.5 ゜、Facial angle舌側矯正装置を用いて治療した長期経過症例の考察
Investigation in a case of long term observation treated by lingual appliance
犬童 寛治 Kanji INUDO犬童矯正歯科クリニック Inudo Orthodontic Office 〒866-0857
熊本県八代市出町5-9
77.5 ゜と骨格性上顎前突の様相を呈する。歯系で は、U1-SN 110 ゜で、上顎前歯の唇側傾斜が認め られる。 パノラマ X 線写真所見:パノラマ X 線写真より、 上下左右側に智歯が存在し、下顎においては左右 側ともに水平埋伏を認める。
診断:下顎骨後退を伴う Angle class Ⅱ division 1
Ⅱ.治療方針
成人である故にさまざまな社会的な制約を考え ると、当時のⅡ級メカニズムでは、上顎左右第一 大臼歯の遠心移動及び下顎左右第一大臼歯の近心 移動は困難であり、Ⅱ級関係の残った咬合関係 や、 ICP, CR のズレた dual bite になる可能性が 高く、Ⅱ級の治療の改善、および咬合を安定させ る事は難しいと判断した。 そこで患者と相談の 上、上下顎に舌側矯正装置を装着し、上顎は叢生 の解消と前歯部の後退のため、左右側第一小臼歯 を抜去することとした。また下顎は、舌側に装置 装着する事によって、唇側に装置装着した場合と 比較すると、垂直的な力の作用点が抵抗中心に近 い分、前歯部では圧下力が加わりフレアウトしに くく、臼歯部は遠心にアップライトする傾向があ る。本症例はこの特性を考慮し、水平埋伏してい る左右側第三大臼歯を抜去し、近心傾斜している 臼歯部を整直する事で、小臼歯部の叢生を改善し、 プラークが停滞しにくい歯周環境を構築する方針 とした。 改善項目を下記に示す。 ① 叢生の改善 ② 上顎前歯唇側傾斜の改善 ③ 犬歯、大臼歯関係の改善 ④ 口腔周囲筋の緊張の緩和 ⑤ 側貌の改善 ⑥ 咬合の安定 [ 使用した装置 ] [ 治療手順およびワイヤーシークエンス ] Leveling:.014, .016 TMA wire
Retraction:.016 s.s. wire
Establishment torque:.016 × .025, .017 × .025 TMA wire
En masse retraction:.016 × .025 s.s. wire Finishing:.017 × .025 TMA wire
結果と考察 Ⅰ.治療結果(図2〜図6) 顔貌所見においては、動的治療前後の比較で正 貌の対称性に変化はみられなかった。側貌では適 切な被蓋関係の獲得によって、初診時にみられた 口腔周囲筋の緊張が解消され、口元の突出感、口 唇閉鎖不全が改善した。またこれに連動して下顔 面高がわずかに増加していた。保定時また保定終 了後 7 年経過時に関しても動的治療終了時の顔貌 は維持されていた。 口腔内所見においては、動的治療後に上下顎と もに小臼歯部の叢生が解消され、U 字歯列が獲 得された。オーバージェットは 9.0 mm から 3.0 mm へ、オーバーバイトは 5.0 mm から 2.0 mm へ変化した。 保定終了時また保定終了後 7 年経 過時に関してはオーバージェット、オーバーバイ トともにわずかに増加傾向であった。 セファロ分析所見においては、 骨格系では動的 治療終了時、保定終了時、保定終了後 7 年経過 時にほとんど変化が見られなかった。歯系では、 U1-SN が動的治療前後で 110 ゜から 92.0 ゜へ、そ の後 92.5 ゜、95.0 ゜と変化した。 パノラマ X 線写真所見においては、動的治療 に伴う抜歯、また保定治療中の抜歯により歯数の 減少が認められる。また動的治療終了時には下顎 左右側第二大臼歯の遠心の歯槽骨レベルが低く、 保定終了時、保定終了後 7 年経過時と右側はレベ ルの増加が認められるが左側ではほとんど変化が 認められなかった。 Ⅱ.考察
本症例では上顎前歯部をバランスよく後退させ るため、前歯部のトルクコントロールと弱い矯正 力を用いるように心がけた。さらにトルク付与 やボーイングイフェクトへの対策として class Ⅱ elastics を併用することで歯列の一体化を確立で きた。 また、非抜歯でのスピー彎曲のある下顎歯列の レベリングに際し、大臼歯部やとりわけ下顎前歯 部への歯根側への垂直的な影響が強い舌側矯正を 用いた。これはブラケットにかかる垂直的な力が 唇側矯正より抵抗中心の近い所をとおるため、前 歯部では圧下力が加わり、臼歯部では遠心にアッ プライトしやすいことを意味する。本症例はこの 舌側矯正装置の特性を考慮したこと、さらに下顎 左右側に水平埋伏した智歯を抜去し歯列後方にス ペースを確保したことで、前歯部がフレアウトせ ずに、小臼歯部の叢生を改善することが出来た。 2.長期治療経過の評価について 1)Esthetic(図7) 正貌観では初診時はほぼ左右対称で、中顔面が 長く下顎面が短い。また、口輪筋とくにオトガイ の緊張が強く認められた。動的治療終了後は、顔 貌のバランス、特に口腔周囲筋の緊張が緩解され、 7 年経過後においても維持されている。また、経 年的な変化で豊麗線が認められる。 側貌観では初診時は E-Line に対して上下口唇 ともに前方に位置していたが、動的治療終了後に 上下口唇は後退し、初診時に認められた突出感は 解消された。これは保定終了時、7 年経過後もほ ぼ同様に維持されている。さらに重ね合わせにお いて上下口唇の位置が下方に位置していたが、こ れは経時的な変化で口唇の位置が下方に緩んだも のと思われた。 2)Biology(図8) 初診時、上下前歯部および下顎小臼歯に軽度の 歯肉の腫脹がみられた。またそれに関連し、著明 な咬耗が認められた。動的治療後は , プラークが 停滞しにくい歯周環境を構築したことで保定終了 時まで良好な状態を保っていた。その後の 7 年経 過においても軽度の叢生が認められるが、ほぼ歯 周環境は維持され特記すべき問題はない。 3)Function(図9)
Angle class Ⅱ div. 1の下顎運動は、その咬合 状態より不適正なアンテリアガイダンスの為、下 顎が水平方向においても前方、側方への動きが大 きく運動域が広くなり、結果として水平的な咀嚼 ストロークになりやすい。これは、咀嚼効率が悪 く、更なる摩耗を引き起こす要因とされている。 以上の事から、治療目標としては、アンテリア ガイダンスおよびバーティカルストップが確立さ れ、調和のとれた対顎 • 対咬関係を有する機能的 な咬合関係が重要になる。 初診時、Angle class Ⅱ div. 1下顎後退型で、咬頭対咬頭の咬合状態 を呈しており、下顎位の不安定性が模型分析と口 腔内の視診から確認出来た。ICP, CR において右 側 が 2㎜〜 2.5㎜ 差があり、左側はその位置で回 転する様に 1㎜〜1.5㎜ 程度であった。結果とし て、上顎歯列に対し、下顎歯列が左側へ偏位する 様な dual bite が認められた。 またこれと関連し、 側方運動時において、左右犬歯関係や模型上での 摩耗状態より、上顎犬歯の舌側遠心斜面を下顎犬 歯の近心斜面が滑走するガイドになっており、下 顎を後方に誘導しやすく、臼歯部の離開量が得に くい。またこの環境は、顆頭にとっても大きなス トレスなり、 TMD 症状の一つの要因と推測され る。動的治療終了後から保定終了時まで、著明な 歯列の変化や摩耗は認められず、咀嚼機能におけ る Function は安定していると考えられる。次に、 それと比較して 7 年経過後は、上顎左右犬歯の遠 心舌側斜面の摩耗が進んでいるのが認められる。 これは、元々下顎が後退した骨格性の要因に加え、 TMD 症状も認められた事、経年的な顆頭の位置 や下顎を支持している筋肉および靭帯、そしてそ の状態を保持している咬合など。また社会環境か ら影響される咬合も含めた生体へのストレスなど、 推測は様々である。いずれにしろ、Function から みた問題点は、経過後の歯列 • 咬合環境における 変化により、アンテリアガイダンスおよびバーティ カルストップに不安定な傾向が認められた。
4)Structure(図 10) 初診時、骨格的には上下顎骨の相違が認められ、 上顎前歯は唇側傾斜していた。下顎は劣成長傾向 で後退していた。口腔内は、上下顎歯列に多少の 補綴処置が施された歯牙が認められるが、全歯と も生活歯で、歯質の強度や抵抗性は比較的強いと 考えられた。また、歯槽骨レベルもおおむね良好 と判断できる。動的治療終了後、下顎左右側小臼 歯から大臼歯にかけてアンギュレーションのコン トロールの問題が残るが、上下顎歯列が調和し歯 列 • 咬合は安定している。しかし、下顎左右側第 二大臼歯の遠心の歯槽骨レベルが、不安定性を認 め要観察とした。保定終了時においては、 上顎左 右側第二大臼歯がやや頬側に変化し、対合関係に 不安を感じる。その他は、下顎の左側第二小臼歯 と第一大臼歯に変化が認められるが、総体的に歯 列 • 咬合は安定している。また、下顎左側第二大 臼歯の遠心の歯槽骨レベルの回復がみられない状 態であったが、歯牙の動揺もなく歯列の乱れもな かった為、このまま経過をみることとした。さら に 7 年経過後は、上下顎左側第二大臼歯がさらに 変化し、軽く咬合する程度になっていた。その他 として、上顎右側中切歯、上顎左側第二大臼歯、 下顎右側中切歯に軽度な変化が認められた。また、 バーティカルストップの影響か保定終了時と比較 して、下顎前歯部の摩耗が認められた。総体的に は、下顎位の大きな変化はなく歯列 • 咬合もおお むね安定しているが、咬合の不安定性が認められ た。