近年日本文化史研究の勃興しっゝあるのは虞に菩ばしい傾向である。西洋文化の輸入に急にして久しく怠ら
れてゐね白本白身の文化に漸く着眼するに至ったことは日本がいよいよ猫自の文化む創造するに至る前兆と見
てもよい。特に思想界の傾向が模倣を脱して創造に漣みつゝあるのは軍忙大き、.い進歩圭式はなけれ、ぼならぬ。私は平生地方発賢の研究に注意を梯ってゐる着であるが葦に讃岐勤王家ともて有名なる冒柳燕石の爆記を研究し
第三笹 井二.耽日 柳 燕右 の 思 想
﹁∵踏 二、純 詩 人 三、野島思想 四、犠夷思想 五、壌夷準備 六、肩甘御恩想 七、持 −、緒 論 時 代 の時代 ¢時代 り時代 ¢時代本 田 忠
雄
︵︼東国︶ 七六て彼の常勤の源泉となつてゐる思想を解剖して見た。彼は文化辛四年桜井村匿生れて明治元年仁和寺宮大漁督 の史官として北越柏崎め陣中濫渡するまで五十二年間最後の従寮の﹂牛を除いては殆んど郷里に止つでゐる故 に其事業の寒々しさはない一。嚢面上博徒の親分として田園に隠れ七自ら詩隙と柄して擾溶自適してゐたが共葦 彼の精紳は昏豊接夷を以て燃えてゐた、■彼わ全生涯は棟英次行の箪の挙兵準備を以て経ってゐるのである。彼 の位相は豪放で任侠である。大和の有名なる儒者森田箇興が訪問の折、君は﹁大和の儲なるか﹂の仙喝で節轡を髭 かしめたこと\金銀の勘定を殆んど数ふることをしなかった等は彼の豪快を物語るものであるが、之に叫鮎の 集火を輿へ喪ものは即ち時勢である。彼若し覚永元疎の頃′に生れたならば仙侠客として経ったかも知れぬ、若 し亭抹寛政の閲に生れたならば﹁儒者として終ったかも知れない。然し彼は牽か不幸か幕末に生命を辛けて出 て来た。そして故初は花明柳時の巷に詩を作って楽しんだが常時の儀螢は彼に皇国が玉造の図であることを明 瞭に戯へた。そこで彼は党づ尊皇磯節の瓜想を懐いた。間もなく英米露仰の船舶は頻りに我図に来航して、太 平の夢を破って、鎖国の民を解かした。尊皇愛国の念盛んなる彼は鼓に始めて抹夷論者となるに至つた。英数 宵の子分五引率して仙朝有事の際に馳せ参ぜんとした串は兜聾たる丸砲の菅田櫓仙に宛てゝ﹁夷磁二響すれば 則此聾を以て卒伍を編み、埠蟻の微力聯か閑寂に報払んと欲す﹂の手紙に於て明かである。而も後年安政の大 獄以来は幕府の専断の慶澄を恵んセ奮起し、多くの志士を庇護して途に高松港に依って投獄されるに至ったの は彼の任供の精榊が而らしめ食用であらう。故に彼の思想を研究するに常つて之を国分して詩人時代、尊皇思 唱排熱石の思想 ︵一荒立︶ セ七
撃三巻 疫こ孤
〓空ハ︶ 七八想時代、捷夷思想時代、凍夷準備時代、戊碁思想時代として順を迫ふて解改して見る。然しこの思想は時勢に
順臆した表面上の分類で挙つて、其根本に於て彼が各点愛陶を以て盲ハしてゐることは勿論である。裁に彼の
作詩及文薯を濃紫編纂して燕石全集及柳凍整附託難詣の二番を獲別して態々寄贈を辱ふしたる高松苗梶原猪之
松氏に厚く謝意を表する次第である。
一 こ、絶 勝 入 時 代
後年骨壷捷夷の主唱者として讃岐を動かした沌宕は幼年時代よ.り眈に孝迫に於て俊れて居た。甘て件の臥床申女数人の群が釆て歌舞を為した時共座の老は残らず鬼に行ったが燕石のみは残って看病してゐたのを侍の鬼
石崎近潔が見て後年必ず偉器とならんと激賞したが文政七年彼八哉の時財田村の自宅へ辿れ躍って四書五務め
類を教へてゐる。十四歳の時伯父の門を節して琴平山附の備轡三井寄航に就いて英人の没するまで二十年間教
を受けてゐる.。然し始めは無論弟子であつねが次第に燕石の詩才は牽達して途に兜4を凌駕するに至ってゐる嘉永三年雪航象没年の前年燕石ほ雪航翁を押して﹁家暫を業とし刀豊の暇、捲く群書に捗り故も謹に探し。詩は
菅茶山に淵源す。故に巧にして織ならす。苓にして能雅。然して共名臥に絨はれす。人目以て牧詩車の流と残す
鵜驚同税と謂ふべし。﹂と云ってゐる。︵牧詩年も亦琴平の有名盈紺人である︶雪航は山陽にも仙オ教を受けてゐるが管茶山の系統から云っても串間は程宋の蓼に相違はない。然し毅が絆人であつね様に燕石も亦諭琴品†の
如き道徳拳はあまり意に介せす専ら詩作に放つでゐる。これ一耐彼の性格にも依る桝であらうが常時の琴平の 鞄たるや有名なる花柳術を有し琴平、援井ほ年中賭博が開か′れでゐたと云ふ朗で燕石せ亦育年時代は飲博に其 家産を蕩姦したと云ふ有様であるから到底造畢先生の看板は揚げられなかったのでぁるり即ち十八九から既に 詩作を凌表して雪航老人はじめ丸砲の薄儀巌村南爵及び尾池松薦、青田鶴仙の徒を幣かしめてゐる。天保七年 彼二十歳の時に﹁象山竹枝﹂を著はtて琴平花種の放歌の様を為してゐる。天保十年二十三歳の時に﹁十容詞﹂を 著はして春の山水を詠じて得々たる朗純然たる詩人であつて全く平和医事焚的気分が張ってゐる。此時大和の 有各なる詩人山陽の弟子の森田箇酉が訪ね七衆て魂石宅に於て親友荒川楽園と三人で超過してゐる。共時の模 様を粟国が左の如く云ってゐる。﹁附︼一躾頼︼逢こ向卓知。題名叫巻十春詞。沓窓今夜同論レ史。吟席何時重共レ 唐。夙抱−︼縦横男子皐。敢夢摘婿女郎詞㌔東啓三梯元非レ.類。酬怪襟懐似三相胡一。﹂此頃燕石自らも詩人を以 て任じ英日常生活も亦風流を極めて常任羽織を離星なかった等は有名な試である。 ﹁春色疾レ人秋色悲。山年故好菱和時。墓茅鼻痩︼試−u清水㌔ 五時一山嘩Ⅷ∵編工短鮪㌔闘雀辞レ妻花外堕。戯魚 携レ妙技蓮梢。悠然袖レ手書窓午。叉諦8長山静詩。﹂ ﹁午偲初漁茶剛杯。桐陰冷塵紙芯絨填︼。詩風或擬㌣氾揚陸㌔窒法粗譜=蘭竹梅㌔無力璧化自然落。有レ時任客 衆知釆。閑中愛レ潔相成レ癖。況レ硯焚レ香日首回。﹂ ︵廿五歳の作︶ 彼の詩才は殆んど犬歯祈とも云ふべきで森羅萬象胃に入力耳に開くもの凡て詩となつて規はれると云ふ有様で 日柳燕石の思想 ︵一恵七︶ 七九
鱒主塔第こ耽
︵鵬五入︶ 八〇ぁったつ彼の詩作は殆んど日記の如く、且つ螢び且つ作り、ニ芋川五歳で固熱境に達してゐる。呑象橡甜抄の
序に於て京都わ江馬天紅は彼を稲して﹁梯之四。名芯於節老。僅に不遠一義革簡弓冒柳柳触其這。﹂と咲
辞してゐる。而lして彼は所謂詩人の.詩を嫌って、あまり平伏等にかまつでゐない。播州の許人河野餓兜が訪ね て木て、燕石の日本有−義人㌔英名9楠公㌔換生芯千曳些。捉レ創夢英雄∴の詩を以て先棒と非難せるに劉し燕石は﹁詩は志なり口を衝いて出るを眞詩とす。常今余を知る者。唯腐手成にあらずんば楽手締か﹂と喘い
た有名な記がある。燕石の文才は詩に於てのみならす小説款に於ても次第に著はれて、素永三年た金郷春夕柴
の著述があり、宗永六年に柳束軒各稿の著あり。此頃に至りて燕前の詩塾絶境に達し山陽許妙の難女に封しで
も、山陽詩誼を著はして天下を驚かしてゐる。彼の詩才が二十歳の頃より三十六七蔵頃に至る章で素晴らしく
教展してゐる闘に彼の注意が史論に惹かるゝに至って三十蔵前後より次第忙倉皇の思想を決くして行った。
三、尊皇偲偲の時代
燕石は作詩の封象を田園花街等ぬ求めたが仙畠山陽に私淑するに至り、日本外史全部を大判二つ折に細字椚
番を以て全部書為してしまつた位に傾倒して以解禁組も亦陳兜が増して釆て居る。この事嘉永主雇主十偶成の
時の普柳束軒詩話把於て﹁山陽顔翁晩兜十二律、多く典故を用ひ、・湊合宜しきを得、蓋し満腹鮮敗溢れて約語
と残る。後輩茎疎の徒者⊥之に緻へぼ即ち暴家の界琉に誇り珍番目を驚かすと脛も絶えて古色無き︵が如し︶っ本邦草堂大卒漠に詳しくして哉に暴なり。甚だしきに登っては即ち潅ゞ鵜熊の金時たり、七物の桝慶たるを識
るのみ。彊翁除虫薮唱へてより後白面黄口傭能く国史を議論するを知る。毅の文噂に於ける功倖なりと云ふべ
きなり。﹂と山陽を祷上げ・てゐる。唐采明の胚史に通暁tてゐるのは常時の漠塾審としては常然であるが図兜に限を着けて之を盈祓してゐる斬に後年彼が勤王運動を起す素地が蕃はれてゐる。而も彼は尋常の史論家ではな
く大なる識見を以て評論を就みてゐるノ。其の史論の大部分は﹁柳東軒詩話﹂に多く蒐錐されてゐる。友人植田葡
儀が共助を書いてゐる。日く 憎
﹁植村つて後軽婁を知る。皮有って後嚢短を知る。単著盲を考へ今計壷芸。植皮我に備はるに非ざれぼ即ち
萬巻の鷺を看破するも亦為す如きのみ。柳、士換長六尺に満たす、炒然たる小犬夫のみ。而も精悼独力、審
を読み事を論じ己の胸憶を行ふて、臆の毀啓を願す。而して其冨多く妓に中る。﹂︵註、手放は燕石の耽︶琴平の如き田舎に在つて其議論の相手は博徒の子分か伶侶輩である。未だ天下英俊の士に交らすして燕石が
仙′の史眼を備へてゐたのは彼が非凡の士たることを讃するものである。此闇斎肢以外へ巡遊を試みたのがこ回
ぁる。一は弘化元年四月詫間の億国富山攻寄と共に九州に遊び四聾柑草を著はしてゐるが升過ぐる用開門から
小倉、久留米、′柳川に至り肥後に入つて島原に渡り長崎に滞在し癌嘩博多を経て春の末に躍ってゐる。叉茶
永元年に阿波に進んで大阪の瞼を越えて願ってゐる。何れも純然たる詩人の政行であつて天下の名士と食って
議論をしてゐない。即ち彼は−窒に亀戻して市人を上下してゐる。寄の軽重長短を知る鋭い頭脳の持主でなけ ・日椰蒋石¢思想 ︵一恵九︶ 八︼ 二=≡…三⊇宰些.第三懸 弟二舵 ︵∵六〇︶ 八二 ればなし行ないことである。彼の史論の析慶は箇挽である。人の田鹿進温が諒に叶ふや否やにある。Hく
﹁予嘗創意作︼二済二高野。日薇。日菊。臼歯也。葦攣伯夷、陶潜、却息唐、共箇操相似山地。頃盆㌻憲人仙
製工此間一。以夢二臨㌔叉作レ賛云。酉山之薇。東歌之菊。鄭蘭椴レ之。千載軍レ改。﹂
蓋し彼の好む研気箇であるが故に伯夷、淵明を以て思らく理想の人の考へてゐたのであらう。方孝紹に就て
も鄭成功に放ても彼は満腔の同情を漉いでゐる。此時自分も次第に落睨して僅かに残して居つね二傾の田も蕾
食して、械門に腔を屈して柴達観求めることの出来ない彼は清負に甘んじなければならぬことゝなつて幾分同
病相憐れむの心情もあつたであらうが彼の天性たる任侠の精和が特に不遇の古人に涙を漑がしめた研が大であ
ったのであらう。彼の観史論を観れば厳に論鋒鋭利で快哉を叫ぽしめる研が少くない。彼の鼓も崇辞したのは
柄公である。平賽盛である。﹁病人、留侯孔明郭子儀岳鵬撃等廠以て三代以下聖人と為す。若し之に準ぜば則小
松内府、楠廷尉亦東方没入と科すべし﹂と云ひ、叉侶武以後の∧材としては林子平、高山彦九郎を推して
﹁濁囁庵円く、侶武以来豪傑の士四人。伊藤仁鰭、物神妹、山鹿素行、熊浮了介なりと。サは即ち林子平、
高山正之等を以て之に代へんと欲す﹂と云ってゐる。
蒲生常平も叉彼の桝謂豪傑の士とした朗であらう。史に出色の議綺とすべきものは彼が平氏を褒めて淑氏を
彪してゐることである。華氏が最後まで同族英行動を北ハにしてゐるに反し源氏は始終同族相戦ひ骨肉柵喰むの
醜態を呈してゐることを罵つてゐる。此新木下順庵の藤平優劣論に和してゐる。
﹁平家多敲艮“可レ恰相国耳。梯花藻詞淀。牡丹態度美。源門輿レ之輿。骨肉互仇祓。猪武突如レ猪。鬼武狩
如レ鬼。誰以芯成敗︼論。馬作霊性怜子。卓哉木児生。差損夢平氏㌔﹂ ︵春象桜遺稿︶叉管茶山翁が瀕義解を褒めて楠氏の守に加へて攻忍の勇を賞した詩を痛烈に駁して日く
﹁大柄公之用レ兵也。鬼謀後驚以獲義挙。養耗反レ之。攣鳥寧日二鮮風㌔壷衝突。鞘鹿不レ替。拳骨三
甲氏要撃。唾レ手成レ功。是非義経之知モ兵。唯由工宗盛之悼惜準レ謀也。設使下表経典︼南公︼同レ世間生㌔
亦不レ過−一学部官公綱一耳。﹂.叉織田信長論に於ては大儀帆足萬里が之を貌の曹操に比し天子を挟んで闇路を征伐すと非難せるに封し猛烈に
摺苦して、常盤を罵つて腐備としてゐる。
﹁鳳詔高攣攣載璧峠洲政令復維新。狗儀何物眼如h豆。柾比一叫銅基狐婿人叫。以上を以て彼の識見高邁にして容易に人に下らざる風貌を見ることが出来る。而して彼の困史論の尺度は即
尊皇であつて﹁束方君子国。萬苗叫紳孫。不レ似芯唐長主㌔膵譲開−議遠㌔﹂と云ひ管雇斬の思想を明輝に意識し、織田右府を闇註するも此鮎に在り、源氏を非難するも此鮎より出覆し↓源氏援朝以下、皆王墓の罪人な
り。而して足利高氏を以て第言なす﹂と論じ楠康成を詠じて、﹁大屋野傾不レ可レ支。北風吹義軍稲枝二∵孤
忠千載英雄恨、仝撃門天地知。﹂以て彼が青年時代より既に管盛観の瓜想を以て、特立してゐたことが分る
然し未だ思想として有してはゐたがこれが蜜際遊動に硯はれるのは数年の迂倣曲折を粧てからである。
首椰燕嘉ゐ思魁 ︵一六一︶ 八三行人食指児婿レ勤。 卿味欝盤恢肉葵。
然し彼は園外にあまり出なべも西洋事情及野澤船舶の氷柱を知る便宜があつた。それは琴平及桜井の地が天
領であつて藩の監督が無かったため四方の人士が眉由に出入出水、従つて洋書及西洋事柄の紹介者が自巾に手
に入る便利からである。彼は望屠場随分桝労してゐる。然L何分僻地で参るため洋薯を手に入れる等は随分 困難であつたことから推して灘石の努力は多とし懸けれぽ怒らぬ−。弘化四年香川願固藤村の勘‡衆小橋安叔は賢に遊び蓋利加般釆舵の状況を潤恋し八月に辟閲してや篭ふ蒜宕の許讐英串の票始めて出てゐるの
も其頃である翫から推して彼空耳義僚より西洋寄摘め研兇に番念したと想像せられる諺肱閣龍︵言シブ喝摘発思憩の時代
何事も時代より姦を先んじた燕石は望意想と前後して挟夷思想を懐くに至つてゐるぷ置に於ける彼の
軍澤に勘する考も亦讃岐に於ける児戯着であつたのである。少くとも彼は先覚者を以て白轄して屑った。故に
弘化元年廿八歳にして早くも長崎に至って卸蘭屋敷等を祓察し、滞木旬日にして鋸歯してゐる。
長
第∴ニ怨 第二抗八千聾屋倍山科。 琴隋紅橋接−姦邪㌔
彩旗高映竿天霞。
十字術頭鍾石平。
知是南開蘭舘近。
屠門酒庫嬰、逢迎一。 〓六∵し 八川ス︶を﹁批遊不二数百張夢﹂、伯徳見︵ぺトトル︶を﹁歴山王後只推レ君﹂、議垂頓︵ワシントン▼︶を﹁養似芯仲準功 泥亀﹂、郵波列毅︵ナポレオン︶を以て﹁聯才勝者並無塵﹂と吟じてゐる。叉﹁議洋書﹂と題して英闊を以て﹁暦数千 八百。英レ些大東琴。﹂と日本の萬≠二系に比し、亜墨利加の政膿を以て繹議と同税してゐるのは達見である。
湛東有︼仙新開㌔共 和政教敷。隣佗歳 々 着。膵謀撃一唐塵㌔
発に酉津人の性質を以て﹁四洋人大卒小勘伶例にして、特嘉魁典之士を求むるに幾何も無し﹂となし﹁意は利 の⋮字に在って唯、錯と妹を貪る。堂々大国主渾て是農璧の従﹂と叫親し、更に﹁酉渾都府の批碇なる者、彿 ロンド︰/ ロンドン ハりス 蘭酉、把埋斯英蕾利能動を以て最然と為す。近代龍動の感日に増し月に加はり、府内五番燈義あり、飾るに蚊 瑠を以てし光彩爛燦夜間部火し、数十奥の外自重の如し。諾し政財間諜を防ぐ。﹂に芦って燕石も亦常時の外人 を見れぼすぐ泥棒なりとする穣夷思想を漸く硯はしてゐる。時恰も仁孝天皇崩御逆され孝明天皇の御即位とな り、霧図は既に三十年前より北連を競ひつ1ある上に、更に新に英米舵は浦賀に至って温繭玉市を乞ひ、幕府 は鎖閣の夢を破られて周茸狼狽共棲に適し、俄に浦賀に砲轟を築くや諸藩に令して梅防を厳にするやら囲を盤 げて物納騒然たる有様であつたのである。常時は野澤事情が十分分からす特に封建時代の割接の燥習披け切ら す、共闘が阿牙概評に乗じて寄港を支部より奪ひ、英胎が薩摩に入港して狼粁して掃囲した等の事件は種々の 誤解を生じ燕石も亦多くの壌夷論者と其認を同じくしたことは已むを待ないことであつたのである。而して徳 川幕府の鎖国主義に就ては彼は如何に見たか、彼は鎖図を萬代不易の法としてゐるがこれ亦彼の穣夷論から〓 日印蒋前の思想 ︵二ハ三︶ 八束 d=豪遊饗してゐる。 ﹁昭代覇府之政。不レ許義春通商㌔是鷺寓代不易之旗也。清規源諭レ之云。紅英之寧日本義。畢︼共岸上 陸邸也。日本三十六島。港湾紛蚊。其海閣更多工於中国㌔其水戦火故傭不レ如毒図㌔止以一転戟之悍守岸 之厳㌔速足下野英夷遍印市舶上︵而不レ敢議間㌔叉以−嘉罪之断統合之寧。逸足下禁二邪教義和塊牙㌔而 英二取扱犯㌔由レ之親レ之。清人亦服工本邦之艮準也。﹂ モタラ 常時の開国論者と云はれる者の中にも亦共闘囲の根接が外給打沸ひは却って国難を翳すと云ふにあつたの が多かった鮎から推しても、如何に英米霹彿を爽秋沌し囲を車げて之を恐れたかが想像せられる。故に勇気あ る者は開園論者を以て性情となし、和親を以て降服を意味すると解し、血戦以て神州男子の意菊を示さんとし たのは常然である。而らぼ燕石は何を以て操夷を行はんとしたか、彼は常時の山部論者の紳威を縛らんとする 思想に勤し、 ロシア ﹁郡辣之雪。併帝の鋒を挫く、紫海の殿、粒の艦を襟へす。皆天車と謂ふべし。然るに逝々たる武人にして 独和風を以て口嘗とする者あり。笑ふべし。﹂ と〓天に附して、彼の頼む朋は秋水三尺にあつた。 雑 イ・ギリス 〓夜憐曳劉。焼レ猪緒論昼。酔諾及義軍。談府飛罪々。主人穣レ轡日。公磨英曹驚小針輿ご大歩。 第三食 滞二筋 ∵六掴︶ 八六
只情夫枚挙。我有三尺刀㌔二三繋材レ嘲レ之。北陀龍山役。英風非レ難レ追。隣曳掃レ手日。先生論愁非。我
フン 邦昇平久。士風和衷蘭。紛今日面子。噴鬼葦口兄。慧ハ攣甲些。製絡倣義挙。保見−二ふ荒野。振動姦 馬師㌔逸機日以乏G国力日以疲。言遭二級冠1衣繹思紛披。講夢瀾清き。姦徒野囁雰今之急務。何必凝議睡㌔唯竪び義移㌔以富壷関学。主人夢其箋勃々怒張レ眉。﹂
これ常時の硬軟両派の代表の詮であつた。而して叉彼は外に寄集を布してゐる。それは日安岡盟詮と蝦夷人
を兵とすること之である。恰も現在の亜細亜聯盟と似通ってゐる。之を論じて円く
﹁西滞諸閲各結高盟㌔吉相救援。外攣姦図1内除義賊㌔此法雅㌔ハ開合縦之勢㌔於を日義及貸出。如二本部㌔宜輿工支部一緒レ好以防二洋人も。﹂
﹁西洋人以議運。夢軍卒㌔出札以義寧而易二駆使も。本邦宜以工蝦夷人品代レ之也。﹂
盈、嬢黄準備の時代
燕石も亦時代の千である。時代と共に其思想が推移すべきは常然である。彼の詩作は嘉永三、川年頃三千閤
五才に至って漸く園熱の層鮎に達し柳東軒詩話に於ては天下の詩人を碑睨して筆下の詩は新監綺艶なるも其弊
根鎖となし、鋲西の詩は椎漁簡潔なるも其弊拘縮となし、只大下造像を鋳造すべきもの岬巌以後只屋巌なり、
と断定を下せるを見ても此頃を以て革むべきを箪び諾して漸く弼白の生新に入らんとする時現にあることが分
軋抑薫ボの思想 ︵、二ハ五︶ 八七るぐ此頃詩風は枯淡を帯び来り朗々諭すべきもの少くない。 夜 生
竹問快雨牧。竣滴轡猶幽。夜色涼如レ水。一登簾外流。
早起見レ梅々巳輝痍軍レ枕曙香動。艶々数新雪。夜来夢不住。果輿︸叫梅花血別。
寮に淡雅の妙を廠めてゐるが更に彼が自己の心境を詠じた詩を見れば 倣然展レ脚笑−仙王侯叫 湘賢揃レ飽嘩欲レ流。滑只無レ患柳退レ興。書非レ索レ解且拍レ憂。沙禽輿レ我閑相似。風柳何心括不レ休。
哺 々英レ談名利寄。雨飴叫色端︼姦二讐
十年横門に叩頭せす而も振促生活に心を努せすして悠々清貧に甘んじて、足を展べて王侯む笑ふ朋正しく⋮ 隔の葦題である。﹁人情日刻踏。不レ復一高時敦叫韓非刑名法。今日是迂言。﹂として世情人情の頑頃を咲き韓非 子の法治主義さへ之を迂遠と感するはどにせを鶴中るに貰った結琴心有壷横森熟。身軸㌻俗薫蒸準堅使芯 心清樺産品身静”此是我家消暑方。﹂の如く膵の悟遺に近づいてゐる薇が署訝される。 斯の如く心名利を離れて枯淡に踵し,青年時代の奇矯を去つて漸く大人の風を帯びるに従って従来の思想も 亦欒超せざるを行ない。即従水食患を論じ穣夷を稲へるも望見机上論であつたに過ぎなかった。之を筈物の去欝三億 第二兢
〓六六︶ 八八で知り人より聞いて膵試放伐の軍団が束より四より狭檜なる手段を以て我囲を優盤し来るを聞いて憤慨し共余 情を紙上に洩らしでゐるが之に勤し、如何なる方冤を以て望むべきか、少くともこ朝有事の際に如何なる手段 を以こ畠闊を擁護すべきかの猫自の見解は未だ立ってゐなかった。このこと安政二年に大和の詩人森田髄療南 近して嘗て天保十叫年即ち十六年前の訪問の折琴平の姥桜に於て共に豪遊を極めた繚に依って燕石に封して英 一著、﹁傑人市川蝦戚との問答書﹂と云ふ赤本を題して之に序を求められた折、燕石は色をなして叱して 00 ﹁詩人云はすや、士三日を別れば別許して之を待てと。公我を循つに哲端岩を以てするか。我近日面目大いに 麺す。朝に松夷を論じ夕に英雄を説く。嘲花誠柳之語を作らす。況んや俳優着流の寄に於ておや。﹂ と云って却けてゐる瓢から考んても彼の照想は嘉永元年か安政元年頃に至つて大いに改って釆た事が明瞭であ る。即ち彼の思想は次第に拙夷決行を以て己が任と草し、其の茶ふ肋の子分教育人を以て有革の際に陳を編成 して出陣の準備む整へ、只管共時現の到来を待つと云ふ密行約束分が濃厚となつ七米たのである。彼が常時外 人を如何に見たか、彼は寧ろ興し易しとしてゐる。 濱田細兵賓︼叫蟹人血固 唾手直檎芯虎穴虎叫 虎尾乍垂愉−一於鼠﹃
光巴酒耀轡外土。布レ膳有レ智眞丈夫。
−隔疎音何用レ賛。艶詮我春︼︼無人書” 打柳魚石の思想 短刀逼レ胸九寸氷。冷笑荊耐蝕術疎。
︵一六七︶ 八九渥上の月を敏る時にも ﹁君不レ間近水密帆時出港。囲避短風吹不レ城。安得︼叫脊振火輪酔再太平渥上磯工此月こと豪語し 冬日難題としても アメリカ ﹁老英何雛祭脾肉叫久我不望夢旦仙蛾眉﹃近氷唯布一一好奇癖苛抑レ客先譲二亜畢夷可﹂ 嘉永六年米胎浦賀に来って通商を乞ひ幕府明年を約して返らしむるや間もなくロシアのプチヤチン長崎に至 って通商を求むる等形勢愈切迫に連れて珠夷論益激しくなり水戸鍔昭は其急兜鋒で佐賀藩主、薩藩主何れも幕 府に穣英次行を建言する有様となつた。従って捷夷論者は次第に類を以て集まるに至り燕石も亦囲産材の小橋 安赦と気脈壱通じ、け特に琴平が天領である開係から讃岐及附近の志士は多く燕石の手許に集壷つて釆た。備中 から掛川文減来り、阿波から美馬君田来り按じ、ニ〟谷村の藤川三渓亦琴平に来った就中藤川は伯孝と訳し燕石 と親交があつた。韮に次第に凝夷の驚行違勤に取梯ったのである。 撃−藤川伯孝四十初度︼
第三鱒 弗 二鱗
せ俗薄青賓語耳。
不レ詮二罠毒劇発現レ死。 虜情須レ撃未レ可レ渕。 有レ臍輸嗣才縦横。穐梅松竹漫比擬。
方人丁我邦卿一一昇平叫 此時志士澄忘レ英。 ガ 叫 短風吹品蓮渥可 我今祀レ君典二其撰﹃ 菓有三股畢酉宥レ英。君今凶十方弧批。
0 0 0 0 0 0 0 好試芯利器⋮建芯功名可 ハ〓ハ八︶ 九〇邪不レ見人生上寿不レ盈レ腎。汚年義娩 叫 瞬時。不レ如レ留法名帝∵死中”
千秋万歳無︼仙経梯呵
燕石自身も亦出陣の準備に取幽って安故国年二月掛十二歳の時負襲を傾けて僻前長紡の嘉髭畏め喜び絶
損に述し勇気凛々たる詩を作ってゐる。
飼
買
鍛揖三八蒼龍泉。我ご見之l傾表象可十金購得欲レ顕。白光刑レ抑龍飛躇。繋気衝レ天盈鋸落。不レ折不レ境剛而鷲暦青木丈夫塊。愛レ之常毒騨可靡婆手難γ離。敬レ之常工磐†可部寄心可レ轡。看レ之可ヨ以撃情夫”
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以上を以て燕石が如何に熱心なる挟夷論者であつたかゞ薪はれるが彼悠貰る好戦的性格から∵礫夷を主張
したものでない。彼の穣夷は徹顕職尾昏畠論の攣形したものであつて平時から日本国濃の繹議放伐の囲に非す
して王道の囲なる桝以を感得して居る彼としては万表夷が此靭を冒すことあれぼ千古に類なき阿慣に取を附
日柳澤右¢思魁 ︵一六九︶ 九l。;』
第三奄 第二購
︵∵セ○︶ 九二 けると云ふことを憂ひたが故である。彼の思想の根底には大平和恵想が培ってゐる。田澤砲の如きは寧ろ後世 に憂を雄すもので、大英雄が出で1五州を統叫しかゝる砲を毀して曲読経を作るペしと云つてゐる。 擬ヨ答哲人閃こ本邦両紙々雫統帝‡家。万世金瓶不レ受.レ敢。嶽胱㌘三州皿白歯苗。
湖開−入罫線琵琶。鯛魚海内血仙双味。櫻梯人間第一花。
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嘲我戒秋新幻術。
㌻統五州仙改三共風彗痕石は始めから倒幕論者ではなかったヂ寧ろ使は倒凝などは夢想だにしなかった。彼の鈴虫諭は♯府の布在 と併宜して廿巧も矛眉を感じなかった。彼の捷夷諭に至っては幕府を邪魔硯す朗か却って幕府を必姿とした。弘 北二年の、江戸固忙題する諸に於て﹁大旗高揚扶桑日。雄府何論龍動城。不レ怪哲奴衆憾伏。‡中替紛悉豪英。﹂と 幕府を讃兼し、幕府の力を籍って捷夷を行はんとさへしてゐる。然し時勢の攣避は遽に糾延と幕府との正面衝 突を朝来して鼓に脛降なる態度を許さない仕儀陀立至った。それは即ち安政五年‡府が勅許を持たすして亜貴 利加と帥奈川通商恨億約を綺麗するに掌った′ことである。韮.に尊皇論者は造勅の罪を数へ、捷夷論者は開港反 封の意見を以て合流Lて、天下嫡粛として大老伊井直弼を非難するに至った。果断なる直弼は直ちに静豊壌夷 の志士を捕へ、安政の大嶽む起して桝断するに要って、鼓に従来の棟夷論者は遮に反幕の旗印を樹つる有様と なつてゐる。高稔蕗の梼夷鈴音長谷川宗右衛門父†の輔楓られたも此の時である。燕石も亦漸く反幕に心を傾 けたのは正に此暗からである。∵日く﹁八恨レ有責地獄叫我恨レ触㌻地獄呵地獄如兼在。天下快事足。兜設芯聾者獄叫 撃意義人族¶吏設二朝雄獄叫剖︼叫取酔東肉”﹂鞄人酷吏は云ふまでもなく彼の知友曽田松蔭等の罪無き者を刑し たる暮夏を指したことは明かである。松蔭を追悼しては ﹁此ナ如何罪。六年線紙中。身如レ虎投レ非。気相鶴 , 横レ基。擾レ母詞何例。扶爽志太雄。痩門十七士。首唱挙佗功可﹂と流沸してゐる。櫻田門外水戸浪士の義傘 冒柳燕右の思狐 ︵一七′一︶ 九三
第三巻 第二鶉
は叉穣夷論者を鼓舞する朗非常なもので燕石も亦詩を現して﹁栄怨積来操義軍刀槍電撃盲レ豆直斬工機
︵一七こ︶ 九四叉仙如レ殺レ鼠。鋒尖貫レ預血滴々。﹂
これより愈々燕石一味の戊幕運動露骨となり文久三年八月大和の藤本鉄石〓班の義撃に使者を遣はして気脈
を通じたと倦へられてゐる。自らも之を詠じて﹁配本初萌血外州。叫時拓動卜緒侯。屯呈葦伸武陵遵地。梯レ勝
掟王潜鹿部。﹂として成功を待ったが駄目となり、爽で京都の特使園座に乗って大畠大和行事外夷剋征の計喜を
骨げて、同誌勇躍して、多年の抱負珠爽を電視すべき時期到来とぼかり準備を恕へたが、大和行事は中止とな
り、七郷の長門落となつて之亦踵腰に経った。かくて燕石は元治元年尭日四十八鹿にて、頗る時勢を悲観して
﹁白悦韓躯瓦様金じ也無二策到一議般叫新正屈レ指唖然笑∵齢倍周郎破レ賊年。﹂自ら何等残すなきを悦ぢてゐる
然し横磯的にこそ遊動は出奔なかったが消極酌に倒幕運動正大なる功績を蔑すに至つだ。それはこの年より豊
年にかけて多くの志士を庇護陰徹したことである。就中最も有名なるは長藩の偉材高杉晋作の庇護であつて、
其罪を以て高松滞吏は幕命により途に燕石を捕へて同志藤川三渓、美馬君田等と獄に投じ、これより明治元年
に至るまで凶年に官盲燕石の獄中生活が始まつた。この故彼の四年間は期間こそ短いが燕前の感情の最高拗た
達した時期であり、燕石自ら既に其老齢を以てしては到底獄中の死を発れないことを覚悟して、、五十年来経て
来た経験をこの期に蟻搾して、率直に自己の所信を批彊してゐる。高松港を罵つて﹁麿蓼松秒あ林勢威躇品
等ヰ⋮虫組名咄々末流今忽濁。源泉正純本鞘レ清。﹂と云ひ尊王、捧英、報固の念の益高揚してゐる期、燕石の
河眉躍如たるものがある。
縦呑−錬・銭湯叫 不レ攣一男子脇叫 鳩ヱ我婆婆歌第 二 尊王尊王叉尊王。
縦攣創梯帖讐 不作三好人姿可 聴−一哉姿婆歌第二叫 嬢夷壊英文捷夷。
縦作王侯家政可 不レ夢皇国財叫 鴫︼叫我姿婆歌第三彗 戦闘報国叉報図。
而も燕石は獄中何等の不平を云はす悠々端座して士魂の鏑磨を防ぐためには文大群正気の歌を諦じ、飴暇を 以ては安楽居詩集の感想録を作り外に椚劫飴話、畠問千字文の慮った著述があるが椚融供託は革氷以後の賛砦 と志士の逸事を記述したもの、皇囲千字文は云ふまでもなく我国歴史を詠じたもので﹂何れも燕右が此せへ封 する遺書の積りで書残したもので尊皇愛国の束充満し、〓損惜夫をして起たしむるの慨があるが小池には鬼録し ない。只嘗際死を兇惜して家兄改悪に後事を托した書を縦介しやう。 興−⋮晃 憩−蓄 秋風其涼故関知何。予入獄以来無レ意。獄苦惨亦如レ飴耳。但英償之寄。願多端則属角之丑未レ吋レ期也。諸因 日獄中夏可レ凌多難レ相即。予本長レ寒如レ虎。氷雪之候如傭在レ此則常二凍死¶然是亦天耳じ何鬼レ嵯乎。我齢巳 粗十九。位問之事経歴殆轟じ今死一剛此歩亦撃退恨∼其不レ遇芯捷夷之日二面死耳。我如児死。勿レ念レ仰勿レ諦レ 檜。唯唱−一文天辞施窺蔽或陸改易臨穀詩再以祭工我魂”此可工以夢山千部之経−也。頃習作︻叫某誌一今典レ左。他日 宜レ用レ之。鳴呼丈夫東レ此復何首。汝只自愛両翼仙我蕃叫柳兼詩人而憎レ夷者。其誌葉不レ路面死英唸。 臼椰熊石の思想 ︵∵七三︶ 九劇 、 こ、第三
︵∵宅四︶▲九大然し事は預想外に好賭して高松藩が伏見の警て朝敵となつて、土佐藩、丸亀薄の来討英が来るや搬石の従
誇されて明莞年漂雷を仰ぐことが拇釆た。披が獄中純銀夷を唱へてゐる聞に時代埠進輯して幕府は大
政を奉還して、国是は開園と牢つて時代は回樽した。
七、結
論
之を要するに誠宕竺盆殆んど扱夷論を以て終始してゐる。晩年被が戊赤黒笈快き、投獄されるに至つて
高松藩を﹁末流碍る﹂と彗てはゐるが彼が積極的に倒璧瑚を快いたか笛ては俄に弊▲㌫出水ないり安政の人
獄に依つて幕府常路の大官に怨磐を放つてはゐるがこれは寧ろ彼の侠気の而らしめ望見るを室常と解する。
直ちに之を以て倒幕論に改攣したと見るは早計である。′披は慶應年間の獄中に在つてさへ常に吟詠してゐるの
は捷夷蛋である。即ち彼の戊菅山憩盟簑崇㌫ら警た飴波に過ぎない。彼の反幕㍊加が積極的に倒詳論
に欒る簸でに、早くも世間から隔離されて入獄さる1に莞たものと解すペきでなからうか。此鋸彼を以て桝謂勤王家となし倒幕の主張を持って所動したと噺鑓する者と研か所見羞ハにする。蹄者或は人の∬想豊ハ作詩
文薯のみに硯はれすして時勢に依言は文外の思想をも察すペきものと云ふかも知れぬがそれ曙燕石の如、芙
毘樹準のまに按償てはまらぬや而も幕府に依って投獄され、飴命幾何もなき場合に、篠瀬己が志を遺す心算で
書く文雷誰を障る朔あらんやである。故に穣夷論は彼の骨張であつた主廃して差差からう。翻らぼ彼は保
守頑迷なる穣夷論者であつたであらうか。彼をして壊爽玲を懐かしめたのは彼の啓開諭から出費してゐる。自
00000 く﹁楊墨仝牧レ跡。彿老楯突レ術。何筒千秋→。→筈自レ西田。其詮非議無芸ハ珊太精琴今日之異端し非義盛者誓書品臍レ世。恨撃韓子撃ご即ち彼が爽秋の蓼を憎む理由は共精培にある。彼は韓愈が楊量の兵端を
排斥したる如く渾拳の精密を排斥してゐる。この鮎程戯が常時の革問を輿誠癒しT遣の明かならざるは異端之を啓するなり。昔の寄は近くして知り易く今の筈は淡くして桝じ難し。甘の人を惑はすや其の迷暗に来す。今
の人を惑はすや其の高明に依る﹂と云って常時の輿老の卑近を厭ふて高遠に変るのを排撃してゐると其揆計二
にしてゐる。佃石は之を端的に獲表して﹁読書嬰訣有り。何ぞ必ずtも博雅を川ひん。忠孝唯二字。之を知る・ 即ち単著﹂と云ひ、又﹁秦後悔書多し。〓択人をして愚ならしむ?放か知る迫害の罪。却って焼書よりも劇し﹂と云ってゐる。彼が如何に造を重んじたかが分る。故に彼の故も嫌ひなものは文字を知って韮を知らざる櫛儒
であつたのである。彼が大江頗元を馬つた詩に
﹁満腹経倫有用儲。替櫻室数匹僑無。嘉去棄周天子“年生甘夢非太天”北岡繚レ君擁議聖女闘従レ此先ユ
健闘︹智衷探出窓年発︶不ゝ護二男家山唯護レ躯。﹂とある如きは畢間其物を脅しとする腐儲から見れば欠伸するほどの酷評であらう。即ち彼の根本的大主張は忠
孝節義に在るのである。彼が嘩議放伐の酉繹を以て夷放と解したのは叉故ある哉である。彼の穣爽論がアメリ
ヵの排日の如き卑劣なる低級なる園家主義より出たものでない寄は昭々として明かである◇彼の主張を接夷論
日揮倉石の思想 〓七滋︶ 九七︵一七六︶ 丸久