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Title
長岡宮会昌門の楼閣遺構とその意義
Author(s)
金子, 裕之
Citation
金子裕之: 古代都市とその形制(奈良女子大学21世紀COEプログラム
集Vol. 14), pp. 48-71, 138
Issue Date
2007-08-31
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/2540
Textversion
publisher
展 開密会 晶㌍
習碍楼 閣遺構 とそ碍意義
金子 裕之 は じめ に 2005年 10 月、長 岡宮朝堂 院南門 にあた る会 昌門南西部の発掘調査で は、門の東 西 に 延 び る翼廊SC43705とそ こか ら南 に屈 曲す る南北回廊 SC44307、その先端 に付属す る楼 閣跡SB44404を検 出 した。翼廊 は 「建物の左右 に突 き出 した廊」 (『広辞苑 』)の ことで、 一連 の遺構 に類似 した施設 には平安宮応天門が ある。 陽明文庫本 『宮城 図』(1319年写) による と、平安宮 の応天門では門の東西 に と りつ く 東西回廊が後述 の閑のよ うに途 中で屈曲 して南北回廊 とな り、その先端 には棲鳳稜 と糊登 楼 とい う楼 閣を付す。 発掘遺構 は この応天門西側 の南北回廊 と糊鷲稜 に相 当す るので あろ ラ.応天門の翼廓 。 南北回廊 と楼 閣は 866 (貞観 8)年 間 3月 10日のいわ ゆる応天門の変関連記事で確認 で き るが (「夜、応天 門火 、延焼棲鳳 。期鷲両楼」)、指 図は 『宮城図』で知 られ るだ けで あ り、施設 を遺構 として確認 したのは初 めての ことで ある。 発見遺構が提起す る問題 は大 き く二点があ る。- は長 岡宮の復元案 に関す る ことで、 こ れ までの この宮 に関す る復元研 究 の うち、会 昌門が二条大路 に面す る とい う説 (山中章、 1992年、2001年) に対 して再考 を迫 る もの とな る。 二条大路 は平城京や平安京で は宮城南面の大路で あって通常、 ここに開 くのは朱雀 門な ど宮城門 (外 門)で ある。宮城 内部 に位置す る朝堂 院南門の会 昌門が京 の路 に接す る こと はあ りえな い。会 昌門が直接京 の大路 に開 く現状 の復元案 では朱雀門がな い ことにな って しま う。 この説 は長 岡宮 の特異な造営過程 を説明す るための苦 肉の策で あるが、朱雀 門がな い欠 陥都城では礼的秩序 を重 ん じる古代 国家 の面 目は立たな いで あろ う。 第二 は、一連 の遺構が 中国の門閥 に起源す る と考 え られ る ことO門閥 につ いて は次節以 下で述べ る として、長 岡宮で門閥遺構が明 らか にな った ことで、古代都城 の構造 につ いて 新 たな意 味づ けが必要 にな った。 この間題 は さ らに二点 に分かれ る。 - は類似施設のルー ツにつ いてで ある。似 た構造 の平安宮大極殿 は院政期 の寝殿造 の も とにな るな ど後世へ の影 響 は大 き く、そ の起 源 を探 る ことは重要で ある。 二 は長 岡宮会 昌門に門閥が ある ことの意義 。唐で は天子 の居城である =宮城"は皇城 と 宮城 に分かれ、各 々の区画 に開 く正門 には門閥が ある。 門閥の機能 には様 々な ものが あるが、六朝期で は、①官僚 。百姓か ら皇帝 に対 して直接 上表文 を提 出す る際の取 り次 ぎ装置、② 百姓 。生民の再審請求の場、③ 犯罪者放免 。大赦 発布 の場、④ 異民族 との外交 関係取 り次 ぎの場 、な どが あ り、開門はそれ によって皇帝 の居住す る聖界 と外界 とを区別す る とともに、両界 をつな ぐ役割 を果た した、 とい う。 こう した門閥機能 の多 くは唐代 にいた って承天門の東西に置かれ た東西朝堂 に吸収 され るが (渡辺信一郎、2003年)、いずれ に して も門閥は単なる象徴ではな く、きわめて政治的な 施設であった。長安城宮城門の承天門の門閥遺構 は未発掘で不詳だが、洛陽城の則天門 (応 天門)では巨大な遺構 を発掘 して いる (洛陽市文物工作隊、1988年)0 長 岡宮では以前にもまして唐風都城の実現 を目指 し、皇城 と宮城分離のために会 昌門に 門閥を付 した とす ると、内裏の移動 とも関連す る事柄 とみ るべ きであろう。長岡宮では第 二次 内裏がそれ まで位置 した大極殿 。朝堂院の北方か ら太極殿院の東側 に移動す る。 これ は宮廷儀式の変化 に基づ く動向 とされたが、唐風化 を目指 した動 きの一環 として併せ考え るべ きであろ う。 小稿では、長岡宮会 昌門の門閥遺構が示唆す るこうした問題点 と意義 について述べ る。 l楼閣遺構の発掘 遺構 につ いてはすで に向 日市埋蔵文化財セ ンタ←か ら報告書が刊行 されてお り (松崎俊 郎、2006年)、 これ をもとに概要 を摘記す る。 長 岡宮朝堂院南門にあたる会 昌門南西部の発掘調査では、門か ら西に延びる複廓の南面 西回廊 SC43705、そ こか ら南 に屈 曲す る複廓の南北回廊 SC44307、その先端 に付属す る 楼 閣跡 SB44404 を発見 した。遺構 は礎石根石の一部や足場穴、凝灰岩壇正積基壇の地覆 石抜 き取 りや雨落溝跡な どであるが、遺構 の残存状況 に問題が あ り柱間な どは一部が不詳 で ある。 南面西回廊 SC43705は会 昌門か ら西 8間 目で南折 し、南北回廊 SC44307になると同 時 に築地塀 SA43706 に接続す る。南面西回廊の この姿はいわゆる翼廃 にあたる。建物 の 左右 に突 き出 した廊で ある翼稜 は、建物全体 を荘厳す る施設で ある。 南面西回廊 (翼廊)SC43705か ら南に折れた南北回廊 SC44307は柱間 7間で楼 閣跡 SB44404に接す る。楼 閣跡 SB44404は礎石建の総柱式建築で、平面形が凸型で 南側 は桁 行 5間梁間 3間、北側が桁行 3間梁間 2問のよ うである。回廊 と楼閣建物 は各々その中 軸線 をそ ろえたよ うで、互 いの柱筋が通 らない。 楼 閣SB44404の柱間は中の間が 10尺、他の間が 8尺であろ うか。軒の出は 10尺 (約 3m)のよ うで ある。 平 面形式か らみて上層の屋根 は東西棟 で、途 中か ら南北方 向に北 に 延び るよ うである。 会 昌門の東側 は未発掘であるが、楼 閣 SB44404の対象位置 には糊登楼 にあた る楼閣が あって会 昌門を荘厳す るのであろ う。 これ らの遺構が提示す る問題 は大 き く二つO-は遺構 の性格で あ り、二は遺構が 「二条 大路」上 にある こと。 まず、遺構 の性格か らみるとこれ は会 昌門を荘厳す る施設で、平安宵応天門の期響稜 に
相 当 しよ う。 ここでは棲鳳楼 と左右対称 になって応天門を荘厳す る。似た施設 には平安宮 の大極殿、豊楽殿東西の楼 閣等 にあるが、長 岡宮以前の諸富では明 らかではなか った。奈 良時代 には平城宮東院東南隅の楼 閣のよ うに廊の先端 に楼 閣を付す施設 もあるが、 これ は 一種 の隅楼で あ り、SB44404 のよ うに翼廊 をもつ ものではな い (蓮沼麻衣子 。浅川滋男 他、1988年)0 次 に遺構 と 「二条大路」 との関わ りである。 長 岡京 (784-794)の条坊痕跡 は廃都後 に施行 された条理地割 りによって消 された こと もあって所在地の発見が遅れた。関係者の努 力によって長 岡京 の解 明はかな り進んだが、 疑問点 も少な くない。なかで最大 の点は宮域の南面が確定 しな い ことである。 これ には朝 堂院南門の会 昌門が京 の大路 の二条大路 に面す るとした山中説 (山中章、1992年、2001 年)と、宮城大垣 はさらに南で会 昌門が面す るのは宮 内道路 と考 える国下説の二説が ある。 前者の山中章説 による二条大路 は幅員が約 47m、平城宮 の二条大路が約 35m で あるか らこれ をはるか に凌駕す る規模で あ り、長岡宮 を桓武天皇 の叡智の賜物 と称揚 して止 まな い山中説の象徴であった。 この説 をもとにした清水みき氏 は、会 昌門南側の京城が同氏 の 云 う長岡宮後期造営 によって宮 内に繰 り入れ られ、官街街 にな った と説いた (清水み き、 1986年)0 これ に対 して会 昌門の南 に長 岡宮 の当初か ら官街街 を想定す る国下民 らは山中説 を再検 討 して、二条大路説 を否定 した。すなわち この遺構 は斜行す る近世の溝であ り、長岡京二 条大路側溝ではあ り得ないとして 山中説 を否定 した (国下多美樹 。中塚 良、2003年)0 次 いで長岡宮南面の整地状態 を検 討 し、宮城南面一帯の工事 はダイナ ミックに一気 に行 われた事 を突 き止めた。 これ は長 岡宮 には二時期 (前 。後期) の造営があった とす る清水 説が、嘗南面では成 り立たない ことを示 している。 国下説が依拠 した調査結果 は、宮城の建設が大規模 にそ して周到 に行われ る ことを物語 って いる。古代都城の建設 はいずれ の京 にあって も周到 に準備 された ものである。長 岡宮 もまた例外ではな く、朝堂院南門である会 昌門が京内道路 に面す るな どといった ことは考 えがた い 〔注 1〕。国下説 の通 りな ら、会 昌門は長 岡宮 の造営 当初か ら宮 内道路 に面 した ことにな り、長岡宮が都城 としての体面 を保つ ことにな る。 Il平安宮の翼廊楼 閣遺構 長 岡宮会 昌門の楼閣遺構 に関連 した遺構 には平安宵 の応天門や大極殿 。豊楽殿東西の楼 閣が ある。 これ らについては周辺 の発掘調査 は何度か行われているが、後世の破壊が激 し く大極殿院ではその規模推定が可能 になるといった一定 の成果が あるものの (家崎孝治 、 1993年)、応天門では基壇外装の一部か とい う凝灰岩切石の発見な どに留 まる (寺升初代 、 1994年)0 他方で史料や絵巻物、絵 図類 に記録が比較的豊富であ り、以下ではそれ らを検討 した 『大
図 1 検 出遺構 による長岡京条坊図 (国下多美樹2007、p.85、図6)
図 3 東西楼閣復元図
(松崎俊郎2006、p.81、図50)
内裏図考証 』をもとに述べ る。 先 に述べたよ うに、朝堂院の南門である応天門 (5間2間)の東西 には複廊型式の翼廊 が あ り、南折 した南北回廊の先端 には棲鳳稜 と粕鷲稜がある。その構造や立面の一部 は陽 明文庫本 『宮城 図 』、 『伴大納言絵巻 』、『宮城 図』な どにみえる。そ の考定が 『大 内裏 図 考証 』第三 中 「拠諸図考定棲鳳楼及北廊図、糊驚廊倣之」である。 ここでは応天門の東西廓 を応天門東廊 。西廊 (『神泉苑 図』『京兆図』)な どと呼んで い る。東西の廊 は 10間o南折す る 11面 目か らの廊 を棲鳳楼北廓、期登楼北廓 と呼び、間 数 については 8間説 と 7間説が ある。 これ は複廊の数え方 の問題で、廊 自体 は 7間のよ うである。 問題の棲鳳稜、糊登楼 は特異な平面形で、『神泉苑所伝図』は平面2間の楼 2棟 を主軸 をず らせて南北に重ね る形 とす るが、『大 内裏 図考証 』は初層平面 を方4間の総柱式 とし、 南 と東、 も しくは西 に 3間の庇 を出す形 とす る.東西の庇 は棲鳳稜では西側 に、糊鷲稜 では東側 に出 して左右対称 とす る。廊屋上の闇は方 1間で、南北 に雁行す る形 とす るよ うで ある。 立面は明 らかでな いが、『伴大納言絵巻 』では楼 閣の破風 と鴎尾の尻が見 え、東西方 向 の棟か ら南北方向の棟が北に延びるよ うに描 いて いる (松崎俊郎、2006年)0 平安宮太極殿の東西 には蒼龍楼 (東) と白虎楼 (西)がある。両楼の位置は朝堂院回廊 の起点で もある南面回廊の東西隅にあたるが、平安宮では大極殿の南面が龍尾壇 とな って 南面回廊がない ことと、東面回廊 と西面回廊 の途 中か ら大極殿の東西 に回廊が延びて と り つ くために、南か らみ るとあたか も大極殿 の東西か ら派生 した回廊が南折 して延び、そ の 先端 に楼 閣が建つよ うにみえる。 蒼龍稜 と白虎稜 の構造 につ いて は陽明文庫本 『宮城 図 』な どにみえ、『大 内裏図考証』 第三 中には、請書 を総合 した考証が ある。 これが 引く 「年 中行事画蒼龍楼」には、 年 中行事画、御 斎図、蒼龍楼南面三間 西南俊之、上音磯 、下粉壁、壇輿廊壇連接 、 封以条石石版、廊屋上有 闇、叉有小閑四相依 四隅開、各東西栄四柱、屋脊両端有感尾、 在 中者二 層、而三 間中有戸二扉、左右並青瑛 閣、板護、以軒濫 四隅者、各三 間、 閣板 護有軒艦、白虎楼微之 とある。 ここで は平面形 を南面三 間 とす るが 、 『大 内裏 図考 証 』 「拠古 図及諸 図所考定 蒼 龍楼及東廊永 陽門東龍尾道 図西倣之」は、初層 を四間 とし廊屋上の間を方二間に考証す る。 なお、京都市岡崎 にある平安神宮 は平安宮太極殿 をモデル に規模 を5/8に縮めて復元す る。大極殿の東西楼 閣は この 「年 中行事画」が もとであろうか。 せいけいろう 豊楽殿の東西 には栖霞稜、寮景稜が ある。稜 は豊楽殿の左右 にとりつ く北面回廊の東西 隅部 にあ り、大極殿 の南東 。西 にあたる蒼龍 。白虎楼 とは大 き く異な る。栖霞 。寮景稜 の 平面 は方 4間で、廊屋上の間は方 2間 とす る (『大内要図考証 』第三下)0 『大内裏図考証』をもとに、簡単 に応天門の糊響 。棲鳳楼 と太極殿 の蒼龍稜 。白虎稜 、
図4 復元された平安宮大極殿 と東西楼 (平安神宮、上‥大極殿 左:白虎楼 右:青龍楼) L;SJ . 乳 エ 1・・yl・・ ・・. ぎ ∼_」 甘
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では高台基壇 (これ を母関 とい う) の一端 に子闘をだす形が あ り、発展形 には子 閑の数が 一個 もしくは二個、 また方向 も単方向、 もしくは直角に二方向に出す形な どがある。 そ して外面 は遠 くか ら目立つよ うに華やか に彩 ったよ うで、晋の雀豹 『古今註 』巻上 に よると、閑の上層部はみな朱の塗 り壁で、下層部 には雲気、仙霊、珍鳥 、怪獣 を描 いてい た とい う (渡辺信一郎、2003年)0 壁画 には唐代の例がある。高宗李治の乾 陵にある絃徳太子李重潤墓 (706年葬) には墓 道入 り口に門閥の壁画があ り、外壁 に忍冬唐草文を描 いている (陳西省博物館 ・陳西省文 物管理委員会編、1974年)0 中宗李顕 の長子であった太子 (680-701) は独裁者の則天武后 のため に若 くして落命 し た。名誉 回復 されて高宗乾陵の陪葬区に改葬 されたのは武后死後 の 706年の こと。その 壁画 は太子 の身分 に相応 しい内容 を備 えるとい う。 関には門や宮殿等 と結合 した類型が あ り、中国建築史の王魯民氏 は三類形に分 ける (王 魯民、1997年)0 第一類型 ;閑 と門が結合 して入 り口を形成 第二類型 ;閲 と主体建築 (宮殿)が結合 して複合建築を形成 第三類型 ;門閥 と城稜が結合 して城門を形成 第-類型 は、関 と門が結合 し入 り口を形成す るもの。閑の屋根 を重層 にす るものや下部 構造の高台基壇 (母開)の一端や二方向に複数の子閑をだす形があ り、唐代では三出式の -母二子 閲が最高格 とい う。 洛陽城 の則天門は 『元河南府志』によると、門の上には紫微観があって南開に連なった こと、両関の高 さは 120尺で約 35m に達す るとい う。 これはほぼ 11階建ての ビル に相 当す る。楊鴻劫氏 は この門閥を北 と東西の二方向 に子 閑を出す三 出式閑 として図 7のよ うに復元す る (楊鴻劫、2001年)0 第二類型は閲 と主体建築 (宮殿)が一体化 した もので、唐大明宮 の含元殿が これ にあた る。大明宮 は長安城の東北 に揺す る龍首原 に営んだ施設で、当初は離宮で あったが三代高 宗李治の662(龍朔2)年 4月に大規模 に拡充 して宮城 とした。大明宮 (この時は蓬莱嘗) の成立後 は太極宵 との間で儀式 。政務の使 い分 けがな された。 この正殿が巨大な含元殿で ある。裳階 を含 めた桁行 13間、裳階 を含 めた梁間 5間で、東西には棲鳳 闇、丹風 聞が あ る。 雨間 ともに-母二子 閑の形態 をとるよ うで、含元殿 とこれ らとは一部が飛廊 (空中廊) をなす東 西及び南北回廊 によって接続 した (中国社会科学院考古研究所西安唐城工作隊 (安 家瑞 。李春林)、1997年。楊鴻劫 、1997年)0 含元殿 の前面 には広大な広場 (朝庭)がある。含元殿 は高 さ約 12m の基壇上に造成 さ れた ともいわれ 、 これ は ビル 4階分 に相 当す る。そ して広場 は南 に向か って 9%近い勾配 で傾斜す るか ら、広場南端か ら見た含元殿 は高い壇上にそそ り立った ことであろ う。広場
か ら含元殿へは、東西両 開基壇 の基礎 に沿 うよ うに屈曲す る碑積みの道である龍尾壇 を上 った 〔注
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〕。 第三類型は門閥 と城稜 の結合形である。典型例 としては明 。酒代の皇宮で ある北京 の紫 禁城 (故宮)の午 門が これ にあたる。午門 と城稜 の基壇 は一体化 し、第二類型の棲鳳 闇、 丹風 聞が さ らに発展 した形態 とい う。含元殿 についてはもともとは宮殿ではな く、門にあ たるとす る見方が あ り (博裏年、1999年)、王魯民氏の分類 もこれ を支持 している。 以上の三類形 と長岡宮 。平安宮 の遺構 との対応 をみると、会 昌門および応天門の楼 閣は 第一類型 に、平安宮大極殿 は第二類型 にあた るのであろう。建築構造 自体 、彼我の違 いは 大 きいが、平面形の一部 を入 り隅状 に造 る ことな ど関の母 閲 と子 閲の重な りに似せて いる のであろう。 IV唐風化指向の長岡宮 関の類型 と長岡 。平安宮 前節 までの検 討 によって、長 岡宮 (784-794)で 中国関の第一類型 を模倣 しこれが平安 宮 の応 天 門楼 閣の もとにな る とともに、平安宮 (794-1185)で第二類型 を模 した可能性 が高い。長 岡宮段階で第一 。二類型が同時 に出現 した とす る考 え方 もあ りうるが、長 岡宮 大極殿院の構造 は第二類型 とは異な ってお り、無理が ある。 長岡宵の大極殿 院は南面 に龍尾壇 を設 ける平安宮形ではな く、南面 に太極殿回廊がめ ぐ り、その中央 に大極殿間門が開 く平城宮型で ある。平城宮第二次太極殿 院では この位置 に 楼 閣な どの施設はない。 また、平城宮 と違 って仮 に、楼閣があった として も南面回廊が あ る以上、含元殿型 とは似て非な るものである。 以上の関係 を図表化す ると次 の通 りにな る。 宮 城 閑 と門の結合形 唐宮城の門閥 ? J 長岡宮 会 昌門楼 閣SB44404 J 平安宮 応天門、期鷲楼 +棲鳳楼 閑 と主体建築 (宮殿)結合形 大明富合元殿、棲風 間+丹風 聞 J 大極殿、蒼龍楼 +白虎楼 このよ うに中国の門閥に由来す る宮殿構造 を長 岡宮、平安宮で順次採用 した可能性が高 い。以下では会 昌門南面西回廊 SC43705。南北回廊 SC44307。楼閣 SB44404を時 に門 閥 と呼ぶ こととす る。 皇城 と宮城の分化 長 岡宮 の構造 に関す る これ までの疑 問は、会 昌門での門閥 (楼 閣 SB44404)の発見 に よってかな り解消 され、古代都城 の展開過程 にお ける長岡宵 の位置が明確 になった。 これi l-妄語 図6 唐鼓徳太子墓壁画 にみる門間 (王仁波 1973、p.383、図3-2) 図7 洛陽城則天門の門間復元図 (楊鴻劫 2001、p.379、図330) 58 図 8 長安城大明宮含元殿復元図 (楊鴻劫 2001、p.436、図387)
につ いて項 目を分 けて述べよ う。 門閥は長岡宮では会 昌門に付属 した。他方 、平安宮では朝集殿院を含めた朝堂院全体 の 南門である応天門にで ある。両者の違 いは、長 岡宮では会 昌門が応天門を兼ねた ことにあ る。長岡宮では 8朝堂が ある朝堂院 と南 に開 く南門を検 出 して いるが朝集殿 院は明 らか ではな く、長岡宮後期造営段階で会 昌門の南 に朝集殿院を推定す る考 え もあった。 しか し、門閥の発掘 によってその可能性 はな くなった。 これ まで も宮城 門に相 当す る と された会昌門の南 に、朝集殿院な どあ り得な い。会 昌門が応天門を兼ねたのは、長岡宮朝 堂院では宮城構造 を大幅 に簡略化 したためで ある 〔注
3
〕。言い換 えると、会 昌門の南 に はある種の官衛街 と朱雀門がなければな らな い。 長岡宮の朱雀門はいまだに不明で、朱雀門がな いとす る見方 もある。先に引いた山中章 説では会 昌門が二条大路 に面す る (すなわち外 門 とみる)か ら、朱雀門がな い ことになる。 しか し都城の格式か らみて もこれは考 え難 い し、最近の宮城南面の調査成果 に基づ く国下 説では朱雀門が想定できる ことになる。 次 に会昌門 と想定で きる朱雀門 との間には、ある種官衛街があったのではなか ろうか。 それ は会 昌門の門閥が長岡宮が唐風都城 を 目指す とともに、 日唐都城の間にある基本的な 構造 の違 いを越 える試みの一つ とみ られ るか らで ある0 日唐都城の基本的な違 いはい くつか ある。=宮城" に皇城がな い こともそ のひ とつで あ る。 これについて皇城 ・宮城は ともに天子 の居城 を指す語であるか ら、やや紛 らわ しい説 明 となるが。 唐 の長安 。洛陽城 にお ける宮城は、皇城 と宮城 の二区画 に分かれ る。北の宮城 には太極 宮が あ り、左右 に東宮 と披庭宮があった。太極宮 は皇帝 の朝政空間で太極殿、宣政殿な ど が あ り、東宮 はそ の名 の通 り皇太子 の、液庭宮 は皇后 の空間であった (図 9)。他方、南 の皇城 には三省六部 といわれ る中央官制の うち尚書省 を中心 とす る官街が集 中 した。二つ の区画は城壁で画 され、各面 に門が開いた。宮城正門は長安城では承天門、洛陽城では則 天門 (応天門)で、朱雀門は皇城正門で ある。 朱雀門か ら承天門には承天門街が通 じ、関 を備 えたであろう承天門 (遺構 は未確認) の 前には広 い横街 (東西路)がある。六朝の例か ら見て もここはきわめて政治的な場であっ た。 宮城の正門-承天門 (長安)・応天門 (洛陽) 皇城の正門-朱 雀 門 これ に対 し日本では皇城 ・宮城一体で、皇城 の考 え方があいまいであった (図10・ll)0 それ は二宮八省の主要官街 の配置 に明 らかで、平安宮 『宮城図』によるとこれ らの官衛 は 宮城 中心部の太極殿 ・朝堂院の周囲にあ り、国政 に関わ る外延の曹司は各宮 司が朝堂 に も つ朝座 に近い場所 にある (岸俊男、1988年a)0∩)周 礼 ・礼記
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唐長安城(
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宮の構造比較対照(
1
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岸俊男 「難波宮の系譜」 (岸俊男、1988年b)第 2図をもとに、難波宮 に朱雀門を補記。岸説は長安 城 と平城宮 を対比 し、そ こか ら =間接的" に難波宮 の構造 と中国都城の対応 を説 いたので あろ う。唐の 長安城や洛陽城ではいわゆる宮城は皇城 と宮城に明確 に分かれ る。太極宮や液庭宮 (皇后の居所)、東宮 か らなる宮城 は皇城の北 にあ り、官街街が ある皇城 はその南 にあって横街が間 を隔てるO 皇城の正門が 朱雀門である。 日本の場合、皇城 ・宮城の区別 は明確ではな く、宮街街 にあた る曹司は大権殿 院 ・朝堂 院 と -・体でその周囲にあるoこれ は "宮城=門の等級 にも表れている。次は、井上光貞 。関晃氏等 の業績 (井上光貞 。関晃他校注、1976年) をもとに、 日唐 H宮城"門の等級 を比べた ものである。 磨 :京城門-皇城門一宮城門-宮 門-殿 門一上間門 (唐令拾遺、宮衛令乙-、開元七年令) 日本 :京城門 宮城門一宮門一間門 (宮衛令など) 外 門 。中門 。内門 (大宝令) 日本では、唐の制度 を簡略化 し、唐では、五段階ある門の等級 を三段階にした とい う。 『大宝令』の外門、中門、内門が唐 の皇城門 。宮城門、宮 門、殿門 。上間門に対応す るな ら、宵城門 と皇城門が未分化 の状態で 『大宝令 』が成立 したため、その後 も外門を慣例的 に =宵城門H と呼んだ ことにな ろう。 外 門にあたる朱雀門が宮城門であ り、同時 に皇城門である ことを示すのが藤原宮 に関す る710 (和銅 3)年正 月の朝賀記事である。 ここには、 「皇城門外朱雀路」(和銅 3年正 月 王子条) とある。 京 の中心部 を南北 に貫 く朱雀大路 は宮城正 門の朱雀門が起点であるか ら、本来な らここ は 「宮城門」外 となけれ ばな らない。 しか し、皇城 。宮城 の区分が暖味だったため に続 日 本紀 は皇城門 とし、二つの語 を同義 に用 いたのであろう (岸俊男、1988年b)0 こうした状況で会 昌門に閑を作 る 目的は この門を唐風の宮城門 とし、宮城全体 の荘厳化 をはか ると同時 に、 ここを象徴的な場 とす るね らいがあったのではなか ろうか。 中国南朝 の例では門閥が天子 。皇帝 と宮城 。帝都 を荘厳す る機能 を持つ ことがみえる(渡辺信一郎、 2003年) 〔注4〕。 いわば皇城 と宮城 の分化で ある。 ところで、唐では宮城門の承天門 (洛陽では則天門) は朝堂 の北にある。 日本で これ に あたるのは大極殿門である。 この門は朝堂院 と大極殿院 との間にあるが、唐 とは違 って太 極殿 。朝堂院は一体である上 に、先 にも述べたよ うに朝堂院の周囲には二宮八省の官街 が あるので、 ここで宮城 と皇城 を分離す る ことはできない。 この形は一朝 にしてな った もので はな く、7世紀 に遡 る とい う。吉川真 司氏 による と、 日本の朝堂 院の姿 は 7世紀以前の大王時代 に起源が ある侍侯空間 と実務空間が一体化 し た ものである。すなわち宮 人が天皇 に侍侯す る空間が朝堂であ り、宮人が実務 を行 う空間 が曹司である。 この両者が 7世紀後半の前期難波宮成立 を契機 に統合 し、内裏や朝堂 院 の周 囲に内延 。外延それぞれ の実務 を行 う曹 司を配す る構造 となった。平安宮 はそ の最終 的な姿であるとい う (吉川真 司、2006年)0 朝堂 の制は本来的 には中国に由来す るが、東西 2堂 しかな い中国 と違 って 日本で は多 数が あ り、前期難波宵では 14 (あるいは 16 となるか)堂、藤原 。平城 。平安宮では 12 堂、後期難波 。長 岡宮で も8堂 と独 自性が強 い (鬼頭清明、2000年)。 こうした多数朝堂 の祖形 もまた前期難波宵 に求める ことができる。
- 、 発展を殿畿El殿凝陰閣 威麹殿望蚤拳 五四三覇祭殿嫁錬院 詣落語 :_L相関 資i=澱 山池準_甲準.手早池_…発㌃ E3FP(門浦黄門 酉上慨門去鞘】つ 岩国済 -翻馳 翻 殿 蔓 凌牽 閣魔 巧tl:JTj 胤辞 常三上fltPPii瑳化FLj武治門 東天門'l舛朝〕 永安閃き血西覇堂登漆発車澄 舌.∴tF-r3 ・ー,ir_lf::二日'L_I1し一、・L:・.it:・iLlこ:m 仁 濠姦歳療 広遷門東宮覇豊永夢門 m EB 氾 努に 工薫‡コ ( nTi. ド ー 雀脅朱雀門街トト -餐 安土門[垂直] 弼 撃 最愛蟻碍鴛城 済 . ∴・・ 、 ∴ ・、 同 園 は 河 図 は 、 転置俊男恩讐霧綴 海節食 望義盛 海 閉息譲 済 預望 琴蟻驚喜壁際習紺遺将夜露済 藍嘉濃済 息99詔頂済 専媛-添海野息離 ∋
前期難波宮以来の朝堂 をとりまく慣習が定着 したために、 日本では殿門で もって皇城 と 宮城 を分離す ることは事実上不可能であった。限 られた状況下で唐の宮城構造 を真似 るな ら、宮城 。皇城が一体化 した朝堂院 (朝集殿院)南門を宮城門にす る他な く、その結果が 長岡宮会 昌門の門閥だったのではなか ろうか。 そ して、ある意味で中途半端な この構造 を解消 し、皇城的な構造 とす るために実施 した のが会 昌門の南に官街街 を形成す る ことだった と思 う。実際の配置な どは不詳であるが、 会昌門の南には基壇建物な どがある。 ではいつ、朝堂院南門を宮城門化す る意識が始 まったのであろうか。その萌芽は奈良時 代後半の平城宮 にある。 平城宮では会昌門ではな く応天門に相 当す る朝集殿院南門 SB18400があるために、 こ の南門が主体 となる。 ここでは南門 と壬生門 (朱雀門の東隣の外門) との間には式部省 と 兵部省 を左右対称 に配 した "官街街Mが成立 している。そ して南門 SB18400前が長安城 の承天門前に対比できるのが民の菟柾 (えんお う) を聞 く柱の存在で、 これは承天門前左 右 におかれた肺石、登間鼓の故事 に倣 うものであろう (図13)0 肺石は朝堂の外側 に置いた赤石の こと。平民が この石の上に立って地方官吏を告訴す る ことができるという。石の色が肺のよ うに赤 いことか らこの名がある。登問責は文字が書 けない平民が菟罪の再審や行政的処理 に問題があるときに鳴 らす太鼓で、 申し立ては これ を管轄 した公車府が皇帝 に上 申した。登聞鼓 は晋南朝時代では閑の東や西に懸 け られた。 766 (天平神護2)年 5月戊午 (4日)条 には、応天門にあたる中壬生門がみえる。 大納言正二位吉備真備奏 して、二柱 を中壬生門の西に樹つ。その一に台 して日く 「凡 そ宮 司に抑屈せ らるる者は、 この下に至 りて 申し訴ふべ し」 といふ。その一に日く、 「百姓菟柾せ らるることあ らば、 この下に至 りて 申し訴ふべ し」 といふ。並びに弾正 台をしてその訴ふる状 を受 けしむ (青木和夫他校注、1995年)0 とあ り、宮 司か ら不当な処置 を受けている者は訴え出ること、宮 司な どの誤 りを乱す弾正 台はその訴えを取 り上げるよ う命 じている。 中壬生門については朱雀門の東 にある南面東門の壬生門とす る見方 と、壬生門の内側 の 門、すなわち第二次朝堂院 。朝集殿院南門 とす る見方に分かれる (直木孝次郎、1996年)0 岩波本の補注 は 「宮内よ りはむ しろ人々の往来が多い壬生門前の方が穏 当であろう」 (育 木和夫他校注、1995年) とす るが、長安城の承天門の前に設置 し民衆 の不満 を聞いた と いう肺石、登聞鼓の故事 を考えれ ば、や は り直木孝次郎説が合理的である。 そ して奈良時代後半の平城宮で この故事 に倣 った ことは、 ここが承天門前相 当の場所 と す る認識があったのであろう。ただ し、中壬生門にあたる平城宮の第二次朝堂 。朝集殿院 の南門SB18400には糊鷲稜、棲鳳稜 に類す る施設はない。 門の左右 は回廊ではな くて築地塀 (奈良時代前半は掘立柱塀 SA18318・18420)で あ る上に (奈文研 、2003年)、門の南面西側の発掘区 (214次)等 に楼状施設な どの遺構 は
なか った (奈文研、1991年)。 この ことか らみて、少な くとも 710 (和銅 3)年の遷都 当 初 に糊驚楼、棲鳳稜 に類 した構造 を設ける意識はなか ったのであろう0 なお、 この南門 SB18400 と壬生門 との間の官街街は長岡宵、平安宮 にいたって朝堂院 南面の官衛街 として定着す る。 以上の関係 を整理 したのが図 13である。 これは図 10に大宝令の規定 と諸富 を加えた ものである。 北か ら東 に移る内裏 唐風都城 を目指 した長 岡宮では、中枢部で も構造変化がある。 いわゆる第二次内裏内裏 が大極殿 。朝堂院の東 に移動 し、大極殿院 と並列す る ことである。内裏は藤原 。平城宮で は宮城 中心部 にあって太極殿 ・朝堂院 と南北 に軸線 を揃 えて いたか ら大 きな変化であ り、 これが平安宵の内裏配置の原型 となる ことはいうまで もな い。 この理 由につ いては朝堂での政務運営法の変更、儀式の形骸化 によって これ らが内裏へ 吸収 された結果 とす る古代史研究者の説があ り (古瀬奈津子、1998年。橋本義則 、1995 年)、有 力視 されてきた。 しか し、儀 式の変化 によって内裏 と太極殿 ・朝堂院が一体 であ る必然性がな くなる ことと、長 岡宮の第二次 内裏が大極殿 の東側 にあって大極殿 と並列す る ことは同義ではない。長 岡宵の第二次内裏 の移動は唐風化の表れであ り、唐の宮城構造 にな らった結果 と思 う。 唐長安城の宮城 は先 にも述べたよ うに天子 の居城であるが、 ここを東西に三分 し中央 に 太極宮が、東 には東宮が、西には液庭宮があった。太極宮 は皇帝の空間で太極殿、両儀殿、 甘露殿な どがある。東宮 は皇太子 の宮、液庭宮 は皇后 の宮であった。 この配置は陰陽五行 説 に則 って即位 を目指す東宮 (春宮) ともい う皇太子宮 を東 (青龍) に、皇帝位 にある皇 帝 の太極宮 を南 (朱雀) に、そ して皇后位 の液庭宮 を西 (白虎) にそれぞれ配 したので あ ろ う。 渡辺信一郎氏 によると、 この東西軸 を重視す る ことは唐代の特徴で、陪唐以前の南北朝 時代 は南北の軸線が重視 された とい う。すなわち、三国魂の明帝 に始 まる太極宮型嘗関で は皇帝権 力の根源が天 に由来す る ことを示すため星宿 に象 って南北一直線 に配置 した. こ れ は四つの領域か らなる。 ①宮城最南端の闇開門 。大 司馬門、②朝政の中枢である正寝 としての太極殿 と内殿、③ 皇后 。皇太后の正寝である昭陽殿 と後宮、④ 園林空間である。 ところが唐代 になると南北 軸は東西軸 に転換す る。 「太極殿の北側 に位置 した検度 ・後宮 は、唐代太極宮では太極殿 の西側 に配置 され る よ うにな る。 また宮城 の外 に配置 された皇太子 の東宮 も、唐代 にあっては太極宮内東 部 にと りこまれ る。唐代の太極宮 は東側 に東宮、西側 に液庭宮 を配置す るよ うにな り、 東西軸 に再編 され る。 これ に対応 して、皇帝 の朝政の場であった太極 前殿、東堂西堂 は、太極宮 にあって
くり唐長 安城 (2)藤原 宮 (3)平城宮
匝憂国
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内 門-(間門) (間門)医憂頭
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) (意識は宮城門 ?) 式部 省 ・兵部 省 官衛街 ? 一 束雀 門- 一外 門一 一朱 雀 門一 一 朱雀 門 ?- 一 朱雀 門-(皇城 門) (宮城 ・皇城 門) (意識は皇城 門) (意掛ま皇城 門) (意識は皇城 門) 図 13 宮の構 造 比較 対照 (2) 岸俊男 「難波宵の系譜」 (岸俊男、1988年 b)第 2図をもとに、藤原宮、長岡宮 、平安宮 を加えた。 なお、藤原宮では外門にあた る朱雀門は、宮城門であると同時 に皇城門である (『続 日本紀 』和銅3年 正月王子条 「皇城門外朱雀路」)o岸俊 男は藤原宮の朝登院南門を雷 門に、朱雀門 を宵城門 あるいは 皇城 門にあてた。岸説の段階では朝堂院の南 に位置す る朝集殿 は区画がな く院 を構成 しな いと考え られ て い たが、2003年度の奈良文化財研究所の調査では、朝堂院回廊か ら宮城の南面大垣 に向か って延び る区画 があ り、朝集殿院 とな ることが判明 (『奈文研紀要 2003』)。 ここには上層 ・下層の遺構があ り、掘 立柱 による下層の塀 を上層では梁間 1間の回廊 に造 り替える。それ故、藤原宮では朱雀 門が宮城門に加えて 朝集殿院南門 (応天門相 当)を兼ねた。朱雀門 と別 に朝集殿院に南門が成立す るのは次 の平城宮で ある。 平城宮で は南か ら北 に壬生門 (朱雀門の東隣の門-官城 門)、朝集殿 院南門 (応天門相 当)、朝登 院南門 (会 昌門相 当-雷門)が並ぶ。ついで長岡宮会員門 に平安官応天門に先立って楼閣 (門閥)が成立す る。 これが長安城や洛陽城 の宮城 門 (長安城で は承天門、洛 陽城で は応天門) にあた るのな ら、長岡宮会 昌 門、平安宮応天門は宮城門 に相 当す る。は太極殿 ・両儀殿、大明宮 にあって は宣政殿 。柴庭殿 に再編 され 、東西軸か ら南北軸 へ転換す る」 (渡辺信一郎 、2003年) とい う。 第二次 内裏が大極殿 。朝堂 院の東 に移 勤 し、大極殿 院 と並列す る ことは こうした唐のあ り方 と関わ るので はなか ろ うか。長 岡宮第二次 内裏が唐 に倣 ってそれ まで位置 した大極殿 院の北方か ら移動 した とす る と、大極殿 院の東隣で はな く、長安城 と同 じ太極殿 の西方で な けれ ばな らな い。しか し、方向が逆で あるのは、平城宮以来 の宮城構 造 と関わ る と思 う。 平城宮 の中枢部 には二つの大極殿 ・朝堂 院の区画が並列す る。朱雀門の北が第一地区 (中 央 区)、壬生門の北が第二次地 区 (東区)で ある。前者 の朝堂院は朝堂 が 4堂 、後者は朝 堂が 12堂で ある。時期 による若干 の違 いが あるに して も、基本 的 に第 一次地 区朝堂院は 饗宴な どの、第二次地 区の朝堂 院は朝政 ・朝儀 の場所で、 この姿が後 の平安宮 の豊楽院 と 八省院の もとにな る。 豊楽院相 当施設が長 岡宮 にあったか否か は明 らかで はな いが、大極殿 ・朝堂 院の西 に類 似施設 を想定す る見方 もある 〔注
5
〕。 平城宮以来 の こうした施設が あるため に、唐 とは違 って大極殿 院の東方 に内裏 を移動 し た とい うことは十分 に考 え得 る ことで あろ う。 まとめ 長 岡宮 の会 昌門で の楼 閣関連遺構 (南面 西回廊 SC43705。南北 回廊 SC44307。楼 閣 SB44404)の発掘 を受 けて種 々検 討 を加 えて きた。そ の結果 、 これ が平安宮応 天 門の糊 鷲稜 と類似 し、そ の先駆形態で ある こと、 もとにな ったのは中国の門閥 と考 えるべ き こと な どが明 らか にな った。 この検 討 によって都城史 の中での長岡宮 の意義 につ いて あま り論 及 されなか った事柄が明 らか にな り、同時 に現在 の長 岡宮復元研究 の問題点 も浮かび上が って きた。 以下 に要点 を列挙す る と、 (∋ 会 昌門の楼 閣 SB44404な ど一連 の遺構 は、 中国の閑の類型 の うち門閥 (第-類型) 構造 と密接 な 関係が ある。 これ が の ちの平安 宮応天 門の期饗棲 。棲 鳳稜 に連な るので あろ う。 ② 平安宮大極殿 。楼 閣は大明宮含元殿 と密接な関係 にあ り、閑 と主体 建築 (宮殿建築) が複 合 した (第二類 型) に近 い。平安 宮 の太極 殿 。楼 閣は、長 岡宮 段 階で導入 した唐 の門 閥構 造 が独 自に発 展 した もので はな く、改 めて平安宮 の段 階で導 入 され た もので あ ろ うOす なわ ち、 中国の闘構 造 の うち第 - 、第二類型 を長 岡宵 、平安宮それぞれ の 段階で時間 をお いて導入 した可能性 が高 い。 ③ 中国の宮城 にあって、門閥 はきわめて政治的 。象徴的な意味が ある。閑 を付 した会 昌 門 を唐 に求 め る と宵城 門 (長安 城 で は承 天 門 、洛 陽城で は則 天 門) にあた る。長 岡嘗の宮 城構 造 を唐風 の皇城 と宮 城 とに分化す る動 きで あろ う。 ただ し、皇城 ・宮 城 が分 化 した唐 と皇城 ・宮 城未 分化 の 日本 で は宮 城構造 に基本 的な違 いが あ り、会 昌門の 閑 はそ の 日本的変形 といえる。 ④ ③ によって会 昌門の南 には皇城 にあた る官衛街 と、皇城 門で ある朱雀 門を想定すべ き こと とな ったO 前者 に関 して は会 昌門の南 にある基壇 建物がそ うした一部 の可能性 が あ る。他方 、後者 は長 岡宮 の会 昌門が京 の大路で ある 「二 条大路」 に直接 面 し、朱 雀 門がな い とす る長岡京 の復元研究 (山中章説) に再考 を迫 る もの とな った。 ⑤ 長 岡宮で は第二次 内裏が大極殿 院の北か ら分離 し、大極殿 院の東 に移動す る。 これ ま た唐 の影 響 で あろ う。 南北朝期 の宮 城構造 は唐代 に大転換 し、陰 陽の軸線 が南北軸 か ら東 西軸 に変化 し、長安城 の宮 城 で は太極 宮 と液庭宮 が東 西 にな らぶ。 この動 向 と長 岡宮第二次 内裏 のあ り方 は無関係で はあるまい。 ただ し、内裏の移動方向が唐 とは逆 の東方で ある。そ の理 由は西側 には別 の施設が あ ったか らで あろ う。平城宮 で は大極 殿 。朝堂 院の西側 には後 の豊楽院 に発展す る第 一 次 (中央 区)朝堂 院が あ り、長 岡宮 で も全容 は不詳 だが類似 施設が想定 され て いる0 ⑥ このよ うに、門閥遺構 の出現 、皇城 ・宮城分離、大極殿 院 と第二次 内裏 の分離 は一体 で あ ろ う。唐風化指 向 ともい うべ き この動 向が長 岡宮 の新 しさで あ り、 これ が平安 宮 の原型 にな る。 このよ うに、長 岡宵 と唐代都城 との関わ りは過去 の解釈 よ りも密接な ものが ある。 そ の観 点か ら見た とき、新たな課題 として浮かぶ のが平安宵応天門の名称である。 応天門の名前 については大伴 門転誰説が ある。すなわち藤原宵以降の宮城 には 12の宵 城 門が あ り、それぞれ に大伴 門、壬生門、若犬養門な ど大化 前代 に遡 る軍事氏族 の名前 を 冠す る。氏族名門号である。なかで も正門は大化前代以来の雄族、大伴氏 の名 を冠 した大 伴 門で あった。 奈 良時代 に平城宮正門が大伴 門で あった ことを示す史料が少数だが ある。毎年6月と12 月晦 日恒例 の大成 の場所 につ いて は、『法曹類林 』巻200、814(弘仁5)年6月3日付 け の史料 に引かれ た式部記文 に、 「於大伴壬 生二 門間大路」 とある。壬生門はすで に述べ た よ うに朱雀 門の東隣の宮城 門で あるか ら、 この大伴門は朱雀 門の こととな る。 また、平城宮東院の宮城 門下層溝 SD16040発掘木簡 には 「大伴 門友造 (略)」 と、大 伴 門 を警備す る門部の姓名 を書 いた木簡 が ある。伴 出 した木簡 には、奈良時代後半 の年紀 が ある。 そ の一方で、中国古代 に南 を守護 した聖獣 の朱雀 を冠 した朱雀 門 もまた、宮城正門の呼 称 と して あった (続 日本紀霊亀 2年正 月条、天平 6年 2月条)。そ して木簡 にもそれ を示 す ものが ある。 東 院の宮城 門下層溝 SD16040に近接 した南北溝 SD16300発掘木簡 には、 「(略)朱雀 門 (略)」とある (奈文研 、1994年。寺崎保広 、1993年)。 これ らによる と、朱雀 門 と大
伴門が ともに用 い られたのであ り、 この状態 は平安初期 まで続 いたよ うである。 その宮城正門が大伴門か ら朱雀 門に変更 され る契機 となったのが、
81
8
(弘仁9)
年4
月のいわゆる唐風 門号への改正 とす る点では諸説が一致す る. 『日本紀略』81
8
(弘仁9)
年4
月庚 申条 には 「是 日、有制、改 二殿 閣及諸 門之号 一皆題 二 額之 ・」 とある。 この制によって大伴門が朱雀門に改め られ ると共 に、他の宮城門の門号 は美福 (壬生) 門、郁芳 (的)門な ど氏族名門号の訓
を好字二文字で表 した門号へ変更 された とい う。す なわち、他の諸門は氏族門号 に基づ く好字 に変え られたのに、大伴門のみは完全 に宮城門 か ら除かれたので ある。その原 因を横 田健一一説 は (横 田健一、1
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年)新興貴族 の藤原 氏の台頭 と、かっての雄族大伴氏の没落 に求めた。そ して、大伴門を朱雀門に代えた代償 として、宮城門の内側 にある朝堂院南門 を応天門 とした とす る。 これ は応天 と大伴 の音の 類似 を根拠 に して いる。 この応天門大伴 門転詑説は、それな りの説得力を持 っている。ただ し、宮城正門の名称 が朱雀門に変更 され る ことと、大伴門の名称が朝堂院南門の名前に転誰す る こととは別の 問題ではなか ろうか。 門号の木簡 をもとに、宮城門 (外門) と一つ内側の内門 との関係か らこの点を矛盾な く 補強 しよ うとしたのが館野和己氏の大伴 門応天門転誰説で ある (館野和己、2000年)0 すなわち、宮城 の諸門はすで に述べたよ うに外 門一内門 一殿 (閤)門か らなる.平城宮 の中心 には第一次 (中央区)朝堂院 と第二次 (東区)朝堂院の二つの朝堂院区画があ り、 それぞれ南面 には門 (内門)が開いた。 この門 と外 門 との関係 を次のよ うに考 える。 大伴 (朱雀)門 一 第一次 (中央 区)朝堂院南門 。中大伴門 壬 生 門 一 第二次 (東 区)朝堂院南門 ・中壬生門 そ の根拠 としたのは平城京左京七条-坊十六坪 の東脇 を流れ る東-坊大路西側溝出土 の 木簡 に 「曽雅 門 (略) 中大伴門 (略)」 とある こと (奈文研 、1
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年)。木簡 には、 曽雅 門や 中大伴門の警備 にあたった人々の名 を書 き出 している。 ここで焦点 とな るのは 「中大 伴門」である。 中大伴 門 とはいずれの門を指すのか。 館野氏は これ を平城宮関係の門号 とす る。そ して中大伴門は中+伴門であ り、伴 門に付 された 「中」を先 に述べた中壬生門 と同 じく内側 の門の意味 として、朱雀門の内側 の第一 次 (中央 区)朝堂院の南門にあてた.すなわ ち、平城宮では朱雀門内側の第一次 (中央 区) 朝堂 院の南門が中大伴門で、第二次 (東区)朝堂院南門の中壬生門 と並列 した とみ るので ある。 この基本構造が成立 していたために、宮城正門が朱雀門 とされた平安時代の81
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(弘仁 9)年 4月以降、 これ に伴 って宮城 門内側の中大伴 門を応天門に変更 した とした。 これ については朝堂院南門の位置が平城宮 と平安宮 とでは異なるので、少 し補足説明を加 えてお こう。平城宮 の二つ の朝堂院はのちの平安宮 ではそれぞれ豊楽院 と八省院 に姿 を 変える。 これ に伴 って全体 を西側 に寄せ、朱雀 門の北 に八省院を置 いた。 このため八省院 は直接宮城 門に面 したが、豊楽 院は西側 の諸 門が朱雀 門の西隣の皇嘉 (若犬養) 門に通 じ る宮 内道路 に面 したが、豊楽院の南門は宮城 門の位置か ら外れたので ある。そ して 中壬 生 門が 中大伴 門 とな り、 さ らに これが応天門にな った (中壬生門- 中大伴 門-応天 門)ため に、豊楽院の南門は門号民族名 とは関係がな くな り、豊楽門 とされた ことにな ろ う。 図式 化す る と次 の如 くにな ろ う。 平城宮 宵城 門 朝堂 院 平安宮 (818。弘仁9年4月) 朝堂院南門 朝堂 院 宵城 門 朝堂 院南 門 大伴 門一第一次 (中央 区)朝堂 院 。中大伴 門 -ヰ 豊楽 院
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一豊 楽 門?-豊楽 門 壬生門一第二次 (東 区)朝堂 院 ・中壬生門 -ヰ 八省院-朱雀 門一 中大伴 門?一応 天 門 この説 は民族 名 を も とに した宮城 門号が弘仁 9年 を境 に、大伴 門が宮城 門か ら内門の 応天門の名前 に転誰す る過程 を合理的 に説明す るかのよ うで ある。 しか し、疑 問 もな いで はな い。 それ は弘仁門号改正 の狙 いは唐風 門号 に改め る ことにあったはずなの に、すべてそれ ま での門号民族名 のみで説 明 しよ うとす る こと。古代都城 は唐 を常 に手本 として いるのに、 門号 に限 って はなぜ 、頑なな まで に固有の門号民族名 に固執す るので あろ うか。 他方、応天門 といえば東都洛 陽城 の宵城 門名 として名高い。 この名前 と大伴 門 に由来す る とい う平安宵応天 門 とは偶然 の一致なので あろ うか。そ うではな く、民族名の訓 に近 い 嘉名 に改める過程で唐 の門号 を参考 に した と考 えるのが 自然で あろ う0 平安宮応天門の名前の もとは洛 陽城 の宮城 門名、 とす る考 えはすで に平安時代 にある。 応天 門は洛 陽城宮城 門の最初 の名前ではなか った。665(麟徳 2)年 2月に この門が竣 工 した時は則天門で あった。 しか し、高宗皇后 の則天武后 (在位 684-705)が即位 し、次 い で 中宗が即位 した ことで名 を避 け、 さ らには火災 によって改名 を繰 り返 した。 『唐会要 』巻 30による と、 「神龍元 (705)年三 月十一 日。避則天后 (在位 684-705) 号 改為応 天 門。唐 隆元 (710)年 七 月避 中宗 (在位 683-684、705-710)号改為神 龍 門。 開元初(713-741)又為応天 門。天資二 (743)年十二 月四 日又為乾元 門。」 とある。すなわ ち、則天門一応天門-神龍門-応天門-乾元 門 と変遷 した とい う。 改名理 由の多 くは則天武后 と中宗顕 の名 を避 ける ことで あるが、乾元 門の場合 は、文章 博士 巨勢朝 臣文雄 は火災 のため とす る。 この一件 は応天門の変 をめ ぐる 『日本三代実録 』 の記事 にみえる。 平安宮 の応天門は 866(貞観 8)年 間3月 10日乙卯 の夜 に、伴 (大伴)善男が放火 した という応天門の変によって焼失 した。事件の概要は略すが、大伴門はそれか ら足か け 5 年で再建がなった。そ こで改名の問題が議 に上った。火災 もまた磯の一種であるか ら名 を 改めるべきとされたのである。 火災な ど理 由にした古今の改名例 を挙 げて建議 したのは従五位上行大学頭兼文章博士の 巨勢朝 臣文雄であ り、そ こには東都洛陽の応天門が 743 (天資 2)年 11月に火災後 に乾 ヽ ヽ 天門に改めた ことがみえる (乾元門が乾天門 となっているのは、文雄が見た出典の誤 りで あろうか)0 結局 この議は否決されたが。注 目すべきは、平安嘗応天門の名が東都のそれによるか と す る ことである (「又洛都宮城門.是∴謂応天門 一一.案礼含文嘉 日.陽順 二人心 一応 二於天 -・. 然則応天之名。蓋取二諸此 -平。」『三代実録 』貞観13 (871)年 10月 21日契亥条)0 福 山敏男氏は これ に賛意 を表 し、 「ただ巨勢文雄が応天門の号の出所 を唐の洛陽の宮城 の応天門に求めた ことは当たっているであろう」とする (福 山敏男、1984年b)0 これは応天門の大伴門転詑説 と矛盾す るのであろうか。そ うではあるまい。大伴門に近 い門号を選ぶ に際 して、それ に近 い唐の宮城門号を選定す ることは充分 にあ り得 る。洛陽 は夷都 (陪都)であるか ら、陪都の宮城門の名を首都平安宮の門号 とすることに疑問をも つ向きもあるが、 これ も右 の理 由か ら説明できよ う。 北京大学の宿 白教授は、 日本の都城が長安だけではな く洛陽城の制度を合わせて採用 し た ことを明 らかにしている (宿 白、1978年)0 平安京では左京 を洛陽、右京 を長安 に擬 してそれぞれの坊名 を付す ことや、平安宮の宮 殿名な どを唐風 に改めることはよ く知 られている。応天門にあって もこうした故事 を考慮 す る必要があろう。 「二条大路」以南を拡張 して官街域 にした との想定 に対 して、南面全面ではな く 一部 とみ る説が ある。長 岡京では南面の東部一郭 に含 まれ る左京三条-坊八 。 九 。十 。十五 ・十六町 に藍畑 な どが ある。吉野秋二氏 は藍畑 を平安遷都直後 に 諸宮街 に下賜 した関連史料 「延暦十四年正 月二十 九 日太政官符」を検 討 し、遷 都か らわずか三 ケ月後 に勅 旨省、近衛府 に下賜 され た ことか ら、右 の地 区 を欠 いた南面が宮内にとりこまれた とす る (吉野秋二、2005年)0 〔2〕 『唐会要』巻 100「日本国」によると、第 7次遣唐使の栗 田真人 (702-704)は 703 (長安3)年、含元殿の北にある麟徳殿で宴 にあずかった。則天武后 (在位684-705) の時で、麟徳殿 にゆ くためには含元殿 を通 る必要が ある。 また、752 (天平勝宝 元)年 に渡唐 した藤原清河 (大使)、大伴古麻呂 (副使)等第 10次遣唐使 は、 翌天宝12 (753)年 に蓬莱 (大明)宮含元殿で玄宗皇帝 に接見 した
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『続 日本紀 』天 平 勝 宝 6年 正 月 丙 寅 条 )0 〔3〕 宮 城 の 中 枢 部 に あ る 朝 堂 院 は 12堂 や 8堂 な ど 多 数 の 朝 堂 が 並 ぶ 。 朝 集 殿 院 が な い 上 に 8堂 し か 朝 堂 が な い 長 岡 宮 は 変 則 的 で 、 こ の 宮 の 基 本 設 計 が 副 都 の そ れ で あ る こ と を 示 す 。 〔4〕 508(天 監 7)年 正 月 、 南 京 の 建 康 城 の 端 門 に 神 龍 開 、 大 司 馬 門 に 仁 虎 開 (白 虎 開 ) が 建 造 さ れ こ と を 歌 っ た 陸 イ垂 『石 闘 銘 』 に は 閑 の 機 能 が み え 、 困 窮 者 や 菟 罪 の 訴 え を 聞 い た り 、 政 治 方 針 を 宣 布 し 、 法 令 を 掲 げ た り 、 王 者 の 住 居 を 正 し く 表 示 し た り 、 帝 都 を 荘 厳 し た り す る も の で あ る 、 と い う (渡 辺 信 一 郎 、2003 年 )0 〔5〕 太 極 殿 。朝 堂 院 の 西 に 隣 接 し た 現 勝 山 中 学 校 の 敷 地 に は 掘 立 柱 で 区 画 さ れ た 施 設 が あ り 、 豊 楽 院 的 な 施 設 か と す る 推 定 、 南 院 か と す る 推 定 が あ る が 、 実 態 は 不 明 で あ る 。 (向 日 市 埋 蔵 文 化 財 セ ン タ - 『向 日 市 埋 蔵 文 化 財 調 査 報 告 書 』 第 69 集 と し て 2006年 度 中 に 刊 行 予 定 )0 引 用 文 献 (日本 ) 青木和夫他校注 『続 日本紀 』4、岩波書店、1995年、p.504、補注 27-21 井上光貞 ・関晃他校注 『律令』日本思想体系 3、岩波書店、1976年、p.615 家崎孝治 「平安宮大極殿の復原」 (杉山信三先生米寿記念論集 『平安京歴史研究』1993年)pp.17-25 岸俊 男 a「朝堂の初歩的考察」 (『日本古代宮都の研究』岩波書店、1988年、初出 1975年)p.258第 1図 岸俊 男b 「難波宮の系譜」 (前掲 『日本古代宮都の研究』1988年、初出 1977年)pp.339-378 鬼頭清明 「日本における朝堂院の成立」 (『古代木簡 と都城の研究 』塙書房、2000年、初出 1984年) 国下多美樹 ・中塚良 「長岡宮の地形と造営-丘と水の都」 (向 日市埋蔵文化財セ ンタ-年報 『都城』14、2003年) 国下多美樹 「長岡京一伝統 と変革の都城」 (吉村武彦ほか編 『都城-古代 日本のシンボ リズム』青木書店、2007 年) 清水みき 「長岡京造営論-二つの画期をめ ぐって」 (『ヒス トリア』110、1986年) 関野雄 「石開」 (『世界考古学大系 7東アジアⅢ』平凡社,1959年)pp.40-41 舘野和己 「大伴氏 と朱雀門」 (『高岡市万葉歴史館紀要』lot2000年)pp.11・26 寺崎保広 「奈良 ・平城宮跡 (1992年出土の木簡)」 (『木簡研究』16、1993年) 寺升初代 「平安宮の復元」 (古代学協会 ・古代学研究所編 『平安京提要』角川書店、1994年)p.154 直木孝次郎 「平城宮詣門の一考察一中壬生門を中心に」 (『飛鳥奈良時代の考察 』高科書店、1996年、初出 1987年) 奈文研編 「東院地区の調査 第 243・245-1次」 (『1993年度 平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』1994年)pp.24-41 奈文研編 「兵部省の調査 第 214次」 (『1990年度 平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』1991年)pp.16-27 奈文研編 「壬生門北方の調査 第 224次」 (『1991年度 平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』1992年)pp.39-47 な ど 奈文研編 『平城宮発掘調査報告 ⅩⅠⅤ』(奈良国立文化財研究所学報 51、1993年) 奈文研編 『平城京左京七条--坊十五 ・十六坪発掘調査報告』1997年
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