はじめに 古来 、 九月十三日 の 夜 は、 八月十五夜 と 並 ぶ 名月 の 夜 とし て 「 十三夜 」と 称 さ れ 、その 月 は 平安時代 から 詩歌 の 題 材 とし て 広 く 用 いられて き た 。 屋代弘賢 が『 古今要覧稿 』におい てすで に 指摘 し て いるように 、 文学 に 十三夜 が 最初 に 登場 したのは 、 延喜年間 に 詠 まれ た 凡河内躬恒 の 和歌 だと され る 。 弘賢以前 には 、 菅原道真詩 の 存在 を 主張 する 説 )1 ( や 藤原忠通 の 詩 をそ の 最初 と 見 る 説 )2 ( もあったが 、 日付 が 確認 できる 現存最古 の 作 はや は り 躬恒詠 であ り 、 従来 はそ れが 定説 と さ れてき た 。しかし 十三夜 は 、その 躬恒詠 の 後 、 文学作品 に 長 らく 姿 を 見 せな くな る 。 ようや く 盛 んに 詠 まれ 始 めるのは 十一世紀初 めで あり、そ れ 以降 は 近世 にいたるま で 途切 れる ことなく 詠 みつがれて い く と いう、 特異 な 事情 を 持 つ。 十三夜詠 の 表現 につい て 、 本間洋一氏 は、 天喜五 ( 一 〇 五七 ) 年九月十三夜 に 行 われた と さ れ る 『 六条斎院歌合 』 女子大國 お 第百六十号 平成二十九年一月三十一日
和歌における十三夜の月
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素材
の
表現
と
展開
に
関
する
再検討
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山
中
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を 例 に、 「 十五夜 の 月 の 詩歌表現 に 共通 したパターンを 有 し、 必 ずし も 十三夜固有 の 表現 が 見 られ ると いうわ け で は な さそう で ある )3 ( 」 と し て いる。だが、そのように 言 い 切 る こ とは でき るのだろうか。 今夜雲浄月明 。 是寛平法皇今夜明月無双之由 、 被仰出云々 。 仍我朝 、 以九月十三日夜為明月之夜也 。 ( 今夜雲浄 く 月明 らか なり 。 是 れ 寛平法皇今夜 の 明月無双 なる 由 、 仰 せ 出 ださる と 云々 。 仍 りて 我 が 朝 、 九月 十三夜 を 以 て 明月 の 夜 と 為 すなり。 ) ( 『 中右記 』 保延元 ( 一一三五 ) 年九月十三日条 ) とい う 記事 の、 寛平法皇 すな わ ち 宇多上皇 の 言説 を 起原 とす る こ と の 真偽 は 定 かで は な い が 、 十三夜 が 本朝独自 の 習俗 であ る こ と は 確 かなこ と で あ る 。 十三夜 とは 、 十五夜 とい う 名月 がすで に 存在 して い な が ら 創出 され た 、 新 しい 名月 で あった 。そのような 月 を 詩歌 に 詠 むとき、 十五夜 と まったく 同 じで は、 十三夜 を 詠 む 必然性 は 失 われ て し ま う 。 十三夜 が 文学的素材 とし て 受 けつ が れ て い く ことを 考 える と 、 歌人 らは 、 望月 に 満 たな い 晩秋 の 月 であ る 十三夜 に、 十五夜 とは 異 なる 何 かを 見出 したはず で ある。 また 、 十三夜 の 素材 とし ての 定着時期 につい て、 本間氏 は、 和歌 におい て は 「 十一世紀中 ば 過 ぎ 頃 」 、 漢詩文 におい ては 「 崇徳朝頃 」と 結論 づける 。そし て 、 瓦井裕子氏 が、 そ の 定着期 の 和歌 に 着目 し、 躬恒詠 を 十三夜詠 と 見 なすこ と につい て 注意 が 必要 であ る と し た う え で 、 十三夜詠発生 の 背景 には 、 源頼実 による 『 源氏物語 』 摂取 があった と い う 新 たな 主張 をし た )4 ( 。その 初例 とさ れる 歌 より 二百年以上 もの 断絶 を 経 て 盛 んに 詠 まれ ると いう 過程 は、 確 かに 不可 解 で あり、その 始点 や 展開 につい て も 改 めて 検討 する 必要 があ ろう。 そこ に 詠 まれて い る 月 は、 「 十三夜 の 月 」と いう 名月 とし て 詠 ま れ て いるのか 。そ れとも、 明月 を 詠 じた 日 が 偶然九 月十三日 で あ った こと により 、 「 九月十三日 の 月 」を 詠 んだも の に 過 ぎないのか 。そ れ に よっ て、 歌 の 持 つ 意味 は 大 き
和歌 における 十三夜 の 月 く 変 わる 。 本稿 は、 月 を 詠 む 際 のそのような 意識 に 焦点 を 当 て、 十三夜 とい う 素材 の 発生 と 展開 の 過程 と 、その 表現 を 再検討 する こと で、 十三夜 の 文学的素材 とし ての 意義 を 明 らかにしようとす る もの で ある。 一 、 十三夜詠 として 見 る 躬恒詠 九月十三日 と 日付 が 明記 され た 最初 の 歌 で ある、 躬恒詠 を 見 てい こう )5 ( 。 清涼殿 の 南 の 端 に、 御溝水流 れ い で たり 。その 前栽 に 松浦沙 あり 。 延喜九年九月十三日 に 賀 せしめたま ふ。 題 に、 月 に の り てさ ゝ ら み づ を も てあ そ ぶ 。 詩歌心 にまか す 。 10百敷 の 大宮 ながら 八十島 を 見 る こ こ ちする 秋 の 夜 の 月 ( 『 躬恒集 』 第四類 ) 詞書 は、 延喜九 ( 九 〇 九 ) 年 に 行 われた 清涼殿 での 「 賀 」における 饗宴歌 であ る と する 。 御溝水 や「 松浦沙 )6 ( 」な る 作 り 物 がある こ とに 加 えて 、 「 月 に の り てさ ゝ ら み づ を も てあ そ ぶ 」 と い う 題 が 設定 されて い るなど 、 水 に 関 する 景物 が 多 いこ と が 注目 され る 。 こ の 題 は、 『 文選 』 巻二十六 (ほかに『 芸文類聚 』 巻六 ) 所収 の 南朝宋 の 謝霊運 「 入華子崗 、 是麻源第三谷 」の 「 且申独往意 、 乗月弄潺湲 ( 且 つ 独往 の 意 を 申 べ、 月 に 乗 じて 潺湲 を 弄 ぶ) 」 で あり 、 詩 が 作 られ た 可能性 もある が 、 今 は 伝 わらない。 この 歌 は、 「 延喜十九年九月十三日御屏風 に、 月 にのり て 翫潺湲 」と いう 詞書 で 、「よみ 人 しら ず 」 の 屏風歌 とし て『 拾 遺和歌集 』 ( 1106)に 入集 する 勅撰集歌 で も あった。 『 拾遺和歌集 』と 同 じく、 『 躬恒集 』 第一類 )7 ( ( 220)と 第三類 ( 126)も 、 直近 の 詞書 に「 屏風歌 」 「 屏風 」と あ っ て 屏風歌 であ る と する )8 ( 。 一方 、 第五類 は、 先 に 挙 げた 第四類 のように 饗宴歌 と して 伝 えて いる。 「 清涼殿 の 南 の 端 に 御溝水巡 りい で た り 。 まづ 延喜十九年九月十三夜 その 宴 せさ せ 給 へり 。その 心 の
題 あり 。 人 〳〵 歌奉 る 。 」 ( 105)と いう 詞書 には、 「 まづ」 「その」が 具体的 に 何 を 示 すの か な ど 不明 な 点 もある )9 ( 。また 、 第四類 には「 賀 」 、 第五類 には「 宴 ) 10 ( 」と あ っ て 何 らかの 場 が 設定 さ れ て いたようだが、 該当者 が 見当 たらないために 算 賀 の 宴 で あった とは 考 えられず 、 宮中 での 前例 がないの で 月宴 であ る と も 思 われない 。 こ のよ うに 、 詠歌状況 が 判然 とし ない 歌 であ る が 、 屋代弘賢 『 古今要覧稿 』が 「 九月十三夜賞月 の は じめ なる べし」 と 述 べて 以降 、こ の 躬恒詠 が 十三夜詠 の 初例 と 考 えられてき た。そ れ に 対 して 、 瓦井氏 は 以下 のような 疑問 を 呈 する 。 ( 前略 ) 真実九月十三夜 の 名月詠 で あったのか どうかについ て は 、 十分 に 注意 する 必要 があ ろう。 躬恒 が 歌 うの は 「 明 月 」で は あ る が 、 「 名月 」で あ る 根拠 には 乏 しく 、その 内容 も、 八十島 と 見紛 う 庭園 の 賞賛 に 主眼 が 置 かれて い る よう で ある。 瓦井氏 は、こ の よ う に 述 べながらも 、 躬恒詠 を 十三夜詠 と 見 なす か 否 かについ て は 「 今 その 判断 は 措 く」 と 明言 を 避 ける が 、 これは 重要 な 指摘 であ る と 思 う。こ の 歌 は、 確 かに 「 九月十三日 の 月 」を 詠 んだ 明月詠 ではあ る が 、 では その 月 を 名月 で ある「 十三夜 の 月 」と して 詠 ん で いるかについ て は 、 疑問 が 生 じるの で ある。 屏風歌 であ れ ば 謝霊運詩句 を 題材 とし て 描 かれ た 屏風 を、 饗宴歌 であ れ ば 現実 にある 清涼殿 の 庭 を 見 て 躬恒 は 歌 を 詠 む。 宮中 にいるのに 大海原 を 見 て いるようだ、 と その 眼前 の 景色 を 賞賛 する 。 屏風歌 であ っ て も 饗宴歌 であ っ て も 、 御溝水 や「 潺湲 」から 想起 され る 、 広大 な 水 の 世界 を 利用 して 宮中 を 詠 むことこ そが、 こ の 歌 の 主眼 であ る と い え よ う 。 月 と い うのは、その 光景 の 照明 に 過 ぎない 。 しかもそ れは、 何 の 修飾語 も 持 たな い 単 なる 「 秋 の 夜 の 月 」な の で ある。 よっ て、 瓦井氏 が 注意喚起 したように 、 十三夜 の 初例 とさ れる この 歌 を、 積極的 に 十三夜詠 と 見 なすこと はで き な い。 この 歌 は、 九月十三日 に 月 を 詠 む 歌 で は ある 。しかし 、 歌 の 中 にその 月 を 名月 であ る と 詠 む 意識 が 見 られ な い 以上 、 やはり 十三夜詠 とは 認 めがたいの で ある。
和歌 における 十三夜 の 月 二 、 十三夜詠 の 盛行 とその 始点 躬恒詠 を 十三夜詠 では ない と す る と 、 そ の 始点 はもっ と 後 にな る 。 結論 とし ては 、 十三夜詠 が 十一世紀初 めより 盛 んに 詠 まれて い くこ と か ら、 十一世紀初 め 頃 をそ の 始点 とす る こ とが でき よう 。 現存 する 和歌 におい て その 最初 とな るのは 、 長暦二 ( 一 〇 三八 ) 年九月十三日 に 源師房 が 主催 した 『 源大納言家歌合 ) 11 ( 』の 歌 と 、その 撰外歌 で あった 。 こ の 歌合 は、 八月 に 予定 されて い たも のが 九月 に 延期 になり、 そ れ によっ て 萩題 が 紅葉題 に 変更 され たと いう 事情 が、 『 故 侍中左金吾集 ( 頼実 ) 』 53の 詞書 に 記 さ れ て いる。 ではま ず 、 頼実 の 撰外歌 から 見 てみ よ う 。 長暦二年九月十三夜 、 源大納言 の 家 に 男女 かた わきて 、 歌合 せられけ るに 、 男方 の 九人 が 内 に 召 されて よ め る 月 54常 よりもの どけき 空 にみつるかな 世 をながつ きに すめる 月 かげ ( 『 故侍中左金吾歌集 』 ) ここで の 題 は「 月 」と な っ て い るが 、 歌合 の「 秋夜月 」に 該当 する もの であ ろ う 。 「 常 よりもの どけき 」 と 詠 んで、 普段以上 に 穏 やか な 空 であ る と し た う え で、 そ の 月 の 光 を 「 な が つ き 」 の 月光 だと 限定 する 。 秋夜月題 の 歌 で あるの で 、 秋 の 月 であ れ ば 七月 でも 八月 でも 構 わ な かった ところを 、 敢 えて「な が つ き 」 の 月 を 詠 み、 さ ら に そ れ が 普段以上 だ と 賞賛 す る。そ こ に はその 月 を 名月 と 見 る 意識 があらわれて いるだけ で な く、 その 月 を「 な が つ き 」 の 月 、 つまり 「 十三 夜 の 月 」と 見 なす 意識 がある。
さて 、 実際 『 源大納言家歌合 』の 秋夜月題 で 番 えられ た のは、 侍従乳母 と 源為善 の 歌 で あった。 秋夜月 左 1の ど かにも 見 ゆる 空 かな 雲晴 れて 入 るこ と や お す そ き 秋 の 夜 の 月 右 ためよしの 朝臣 2大空 に 月 の 光 のあか き 夜 は 槙 の 板戸 もささ れ ざり けり 1番歌 の 侍従乳母詠 は、 第四句 を「 入 るこ と お そき 」と す る 書入 れがあり 、 他出 ( 『 秋風和歌集 』 341、 『 雲葉和歌集 』 524、 『 続古今和歌集 』 401)で は す べて 「 入 るこ と お そき 」と い う 本文 にな っ て いる。 月 が 入 るこ と が 易 い 、あるいは 遅 いと 詠 むわ けだが、 前者 であ れ ば 、 「 満月 に 比 べて 簡単 に 沈 んで し ま う 」 と い う 意 に 解釈 でき、 月 の 入 りが 早 い 十三夜 の 特徴 を 捉 えた 表現 となっ て いる 。 これが 「 入 るこ と お そき 」で あ っ て も 、 冬 に 近 づくほ ど 月 の 入 り 時間 は 遅 くな る ので 、 晩秋 の 月 であ る 十三夜 の 月 を 意識 した 表現 だと いえ よう 。それ に 対 して 、 為善詠 の 月 は 何 の 特徴 も 持 たな い 。 真木 の 板戸 を 閉 ざすこ と がで き な いほど の 月光 は、 特別 な 月 の 光 で あるか もし れない が 、 十三夜 の 月 であ る 必然性 は ない。 こ のよ うに、 同 じ 場 のために 詠 まれ た 歌 で あ っ て も、その 月 に 対 する 意識 には 差 があった ) 12 ( 。 同時代 の 歌 を 見 てみ る と 、 頼実 や 侍従乳母 のように 、 「 九月十三日 の 月 」を 名月 であ る 「 十三夜 の 月 」と 意識 して 詠 まれ た 歌 が、ほかにも 存在 する 。 九月十三夜 、 時雨 はし ながら 月 のあかかりければ 38あ や にくに 時雨 くら せど 名 に 高 き 今宵 の 月 は 曇 らざり け り ( 『 伊勢大輔集 』 ) 月 にむ かひ て 秋 を 惜 しむ と い ふ 題 、 九月十三日 の 夜
和歌 における 十三夜 の 月 15常 よりも 心 そら な る 月見 ずはかくま で 秋 を 惜 しままし やは ( 『 為仲集 』 ) 伊勢大輔 の 歌 は、こ の 月 を「 名 に 高 き 今宵 の 月 」と 称 し、 明 らかに 名月 であ る と 意識 する 。 時雨 が 降 って いて もこ の 月 が 明 るいのは 名月 で あるからだと 詠 み、 そ の 月 を 特別 な 月 であ る と 認 め て いるの で ある 。 為仲詠 も 同 じく 、 「 常 よ りも 心 そら な る 」と 詠 み 、その 月 によっ て いつもより 心乱 されて し まうと す る 。 それ は 、 そ の 月 が、 惜秋 の 感興 を 誘 うため で ある 。 後述 する が 、 これは 晩秋 の 月 を 詠 む 十三夜詠 ならで は の 表現 であ る 。 い ず れ も 九月十三日 に 月 を 詠 ん だ 歌 で あり 、かつ 、その 月 に 特別 な 意味 を 持 たせ る。 「 九月十三日 の 月 」を 、 名月 であ る 「 十三夜 の 月 」と して 詠 んで いるの で ある 。 躬恒詠 には 見出 せなかった 十三夜 の 月 への 意識 が、 こ の 頃 の 歌人 らの 歌 には 存在 す る 。こ のこ と か ら 、 少 なく とも これらの 歌 が 詠 まれ た 十一世紀初 めには、 「 九月十三日 の 月 」を 「 十三夜 の 月 」と して 詠 む 意識 が 発生 して いた と 考 えられ る 。 歌合 におい て は 、 天喜五 ( 一 〇 五七 ) 年九月十三日 に、 六条斎院禖子内親王 を 中心 とし て 行 われた と 思 しき『 六条 斎院歌合 』に て、 初 めて 「 九月十三夜 」が 歌題 となった 。 萩谷朴氏 はこ の 歌合 につい て、 「 恐 らく 当座即詠 の 純粋歌合 で あった と 考 えられ る ) 13 ( 」と 述 べて い る 。こ こ で も 、 「など か 光 のまさるらん」 ( 禖子内親王 ・ 1)、 「 今宵 ばかりの 光 な きか な」 ( 左衛門 ・ 6) 、 「 名 に 高 き 月 」 ( 丹後 ・ 8)など 、 こ の 日 の 月 を 特 に 素晴 らしい と 賞 し、 「 長月 の 長 き 夜照 らす 月 」 ( 出羽 ・ 7)と 、 長月 の 月 であ る こ と を 強調 する な ど 、 十三夜 とい う 名月 であ る こ と を 意識 した 歌 が 見 られ る。さらに、 歌合 の 題 となる と い う ことは 、 十三夜 が、 誰 もが 詠歌可能 な 題材 となっ て いた ことを 意味 する 。 十一世紀初 めより 盛 んに 詠 まれ 始 めた 十三夜 は、 十一世紀半 ばに は 歌人 らに 共有 さ れ て いたの で ある。 ただし、 これら 初期 の 十三夜詠 には 、 十三夜詠独自 の 表現 が 見 られ る わ けで はな い。 本間氏 が 指摘 する と ころの 、「 十五
夜 の 月 の 詩歌表現 に 共通 した」 表現 に とど まっ て いるの で ある 。 和歌 におい て 十三夜 が 名月 と 認識 され、 素材 が 歌人 らに 共有 さ れ るようになっ て も 、 表現 がそ れに 伴 って 発展 した わけ で は なかった。 三 、 名月意識 の 発生時期 名月 を 詠 むと いう 意識 が 見受 けられないために 、 躬恒詠 を 十三夜詠 であ る と 認 めが たい こと は 先 に 考察 した と おり で ある 。そし て 十一世紀初 め 頃 を 始点 とし て 盛行 して い く こ と か ら 、 少 なく とも こ の 頃 まで に は 、 九月十三日 の 月 を 名月 とし て 詠 む 意識 が 発生 して い た 思 われる こ とは、 前章 におい て 確認 した。 躬恒詠 におい て は まだ 「 九月十三日 の 月 」 で あったものが、 十一世紀初 めには「 十三夜 の 月 」と して 詠 まれて い るが 、 そ の 空白 を 埋 める 歌 が、 『 大斎院前 の 御集 』 に 存在 する 。 同 じ 月 の 十三日 、 御庚申 せさ せたま ふ に、 雲晴 れて 秋月 のど かなと い ふ 題 をた ま は せた れば、 宰相 365浮雲 の を さまりにける 秋 の 夜 は 空行 く 月 ぞ 物憂 かりける むま 366かかりける 雲晴 るる 夜 にすむ 月 の 待 ち 遠 なり や 秋 の 山辺 に ( 『 大斎院前 の 御集 』 ) 『 大斎院前 の 御集全釈 』で は「 十三日 が 庚申 で あった 年 は、 永観二 ( 九八四 ) 年九月 であ る ( 日本暦日原典 ) 14 ( ) 」 と 注 さ れ て いる。 「 同 じ 月 」 と あるのも、 直前 の 歌群 が 重陽 の 前日 で あるの で 、 九月 とし て 間違 いない。つまり こ の 二首 は、 躬恒詠 から 十三夜 が 盛行 す る ま で のあいだを 埋 める 歌 なの で あ る 。 これま で 十三夜詠 とし て 指摘 さ れ て は こ な かった が、 こ の 二首 も 九月十三日 の 歌 とし て 検討 すべ き で あ ろ う。
和歌 における 十三夜 の 月 歌 の 内容 を 見 てみ る と 、 ま ず 宰相 は、 浮 き 雲 の 憂 さは 晴 れ たのにその 空 を 行 く 月 は 物憂 そうだ 、 と 詠 む。 月 がゆっ くり と 進 んで い く 様 を 述 べ、 庚申 の 夜明 けま ではま だ 時間 がかかる ことを 意味 する 。 一方馬 は、 同 じく 晴 れた 夜空 の 月 は 秋 の 山辺 へ 沈 ん で いくの を 待 ち 遠 しく 思 って い る 、と 詠 む。 月 が 夜明 けを 心待 ち にし て いる と しつつ 、そ れ に 自 身 の 感情 をも 重 ねる 。 こ の 二首 の 月 も、 躬恒詠 と 同 じく 、 十三夜 の 月 の 特徴 を 備 えて は おら ず 、 名月 だと 見 る 意識 も うか がえない。 庚申 の 夜明 けを 待 つ 、とい う こ とに 歌 の 主眼 があるの で あ っ て 、 月 はその 時間 の 経過 を 示 す 役割 しか 持 っ てい な い 。 九月十三日 に 月 を 詠 んだ 歌 ではあ る が 、 歌 の 主題 は 月 で は ないの で ある 。その 月 に 対 する 歌人 の 視線 は、 躬恒 のそ れを 同 じと いっ て よ い 。 九月十三日 とい う 日付 を 有 する 歌 の 中 で、 一首孤立 する 躬恒詠 とそ れに 続 く『 大斎 院前 の 御集 』 詠 が 同 じ 態度 の 歌 であ る こ と を 考 える と、 これらの 歌 は、 九月十三日 の 月 を 名月 と 認識 する 以前 の 歌 であ っ たの ではない だろうか。 九月十三日 の 月 が、 どの 時点 から 名月 と 認識 さ れ たか を 厳密 にす るこ と は で き な い が 、こ の 『 大 斎院前 の 御集 』 詠 より 後 、 十三夜詠盛行 の 始点 にあたる 『 源大納言家歌合 』ま で に は 、 少 なく ともその 意識 が 発生 し てい た も の と 考 える。 なお 、 漢詩文 におい て も 同様 のこ と が いえ る。 九月十三日 の 月 が 漢詩文 に 登場 する 最初 の 例 は、 『 本朝文粋 』 巻十 ・ 詩序三所収 の 大江以言 「 七言晩秋於天台山円明房月前閑談 」と い う 詩序 であ る ) 15 ( 。 本文中 に「 于時 、 重陽過而四日 ( 時 に、 重陽過 ぎて 四日 ) 」 とあ る こ とか ら、 九月十三日 の 作 で あ る こ とは わ か るものの、 制作年次 を 特定 する ことは で きない 。 『 大斎院前 の 御集 』 詠 と 同時代 か、も し くは『 源大納言家歌合 』ま で の 間 を 埋 める 例 で あるが、 や はりその 月 を 特別 な もの とみ な す 表現 は な い。 や は り こ の 時期 は、 漢詩文 におい て も 九月十三日 の 月 を 名月 と 見 る 以前 で あった と 考 える べきで あ ろ う 。こ の 以言詩序 に 続 くのは、 『 詩序集 』 所収 の 大江佐国 「 秋夜於藤給事中文亭同賦月作詩家灯詩 」 序 で ある。 これは、 永承三 ( 一 〇 四八 ) 年 から 天喜五 ( 一 〇 五七 ) 年 の 間 の 作 で あるようだ ) 16 ( 。こ の 佐国詩序 におい て 十三夜 の 月 は、
「 九月十三夜者 、 我朝之習俗 、 翫月之佳期也 ( 九月十三夜 は、 我 が 朝 の 習俗 、 月 を 翫 ぶ 佳期 なり) 」 とさ れ、 ここでは 、 日本独自 のも の で あると いう 十三夜 の 特徴 が 明確 に 表現 されて い る。 それ 以降 の 漢詩文 でも 、 「 九月十三夜者 、 好事翫 月之佳期也 ( 九月十三夜 は、 好事月 を 翫 ぶ 佳期 な り ) 」 ( 『 本朝文集 』 五十五 「 九月十三夜於長楽寺詠山家秋月和歌序 」 大江有元 ) 、 「 十四十五之望 、 未如此夕之最好 ( 十四十五 の 望 、 未 だ 此 の 夕 の 最好 には 如 か ず ) 」 ( 『 詩序集 』 「 九月 十三夜同賦月下多軒騎詩 」 平光俊 )など 、 十三夜 の 月 が 特別 に 見 るべき 対象 の 月 で あ る こ とがくりかえし 強調 されて い く 。こ のこ と か ら、 漢詩文 も 和歌 と 同 じよ うに 、 以言詩序 が 作成 され たと 思 しき 十世紀末 から 、 大江佐国詩序 が 作 成 され た 十一世紀半 ばま で に は、 十三夜 の 月 を 特別 なもの と し て 詠 む 意識 が 生 じた もの と 考 える。 四 、 十三夜詠 の 独自性 本間氏 は 「 決 して 否定的 に 把 える べ き 事 で は あるまい」 と し て 、 十三夜詠 の 表現 につい て 十五夜 との 「 共通 する パ タ ー ン」 を 有 して い る こ と を 指摘 する 。 さ らに 、 十三夜 だと 明確 に す るためには 詞書 に 頼 るか 、 長月 や 暮秋 であ る こ と を 強調 す るほか 「 手 はなかったのかも 知 れない」 と 述 べ て いる 。しかしそのようにし て 名月 だと 明確 にす る 手法 は、 十五夜詠 でも 同 じ で あったの で は ないだろうか 。その 一例 とし て、 『 和漢朗詠集 』 秋 の 十五夜 の 歌 と 月 の 歌 を 比較 して みよう 。 「 白雲 に 羽打 ちか わし 飛 ぶ 雁 のかげさへ 見 ゆる 秋 の 夜 の 月 」 ( 月 ・ 読 み 人知 らず ・ 259) と あっ て も 、そ れが 十三夜 の 月 なのか 十五夜 の 月 なのか 、 そ れ とも 名 もない 単 なる 月 なのかは わ か らない 。しかし 、 「 水 の 面 に 照 る 月 なみ を 数 ふれば 今宵 ぞ 秋 の 最中 なり ける」 ( 十五夜 ・ 源順 ・ 251)と あれ ば、 そ の 月 は「 秋 の 最中 」の 月 、つまり 十五夜 の 月 だと 明 ら か にな る 。 こ の よう に 、 十五夜 の 月 も 十三夜 の 月 と 同 じ 手法 をとらなければ 、 十五夜 の 月 であ る と 明確 にす るこ と は 難 しかった 。 言 い 換 えれ ば 、 日付 が 限定 されて い る 名月 を 明確 に す るための 、もっ と も 簡単 な 方法 が、こ れ
和歌 における 十三夜 の 月 らの 手法 で あった ともいえる 。 つまり 、 十三夜 も 十五夜 と 同 じく 名月 だと 認識 さ れ て いたからこ そ 、 表現 が 共通 する の で ある。 実際 、 初期 の 十三夜詠 には 独自表現 が 見 られ な い こと は 先 に 述 べた 。そのように 無個性 な 名月 とし て 詠 まれて い た 十三夜 の 月 は、 長承三 ( 一一三四 ) 年末頃 に 成立 した と さ れ る 『 為忠家初度百首 』で 転換期 を 迎 える 。 十三夜詠 にお いて 初 めて、 十三夜 であ る こ と を 明確 に す るために 独自 の 表現 が 利用 さ れ た の で あ る。 『 為忠家初度百首 』は 、 「 十三 夜月 」と いう 題 を 初 めて 採用 した 定数歌 で あった 。 同 じ 題詠 であ っ て も 、 眼前 にその 月 を 見 ない で 詠 む 点 に、 『 六条斎 院歌合 』と の 大 きな 違 いが ある。 歌人 らに は 概念 とし て 十三夜 の 月 を 詠 むことが 求 められ 、 実際 にその 月 がない 以上 、 それ が 十三夜 の 月 であ る こ と を 言葉 によっ て 明確 にす る 必要 があった 。そのためには 、 十三夜独自 の 個性 を 詠 まなけ ればならなかったの で ある 。 ここで は 、 望月 では ない とい う 十三夜 の 特徴 を 強調 す るのに 、 〈 二夜足 りな い〉と 詠 む 表 現 が 使 われて いる。 420さ き まくり 今二夜 をばみ て ずし て く ま な きもの は 長月 の 月 ( 藤原俊成 ) 421数 ふれば 望 に 二日 は 足 らね ども 光 は 空 にみ て る 月 かな ( 源仲正 ) 424いかなればみたぬ 今宵 の 月 かげ の 昔 のよよりくまなかるらん( 藤原為経 ) 425望 をの み 盛 りと 見 るに 長月 は 二夜 も 足 ら で くまなかりけり( 源頼政 ) ( 『 為忠家初度百首 』 秋 ・ 十三夜月 ) 十三夜月題 で 詠 まれ た 八首 のう ち 半数 がこ の 表現 を 用 いて お り 、 い ず れ も〈 二夜足 りな い〉と 詠 むことで、 望月 の 二日前 であ る と い う 十三夜 の 特徴 を 明確 に 表現 し て いる 。しかしそ こで 前提 となっ て いる 「 望月 」は 、 必 ずし も 「 八 月十五夜 」で は な い。 それ が 顕著 で あるのが、 俊成詠 と 頼政詠 であ る 。 俊成詠 の 「さ き まくり」 と い う 語 は、 『 為忠家
初度百首全釈 』で は「 先回 りす るこ と。 独自歌語 ) 17 ( 」と 注 されて い て、 十三夜 の 月 が 望月 に 先行 する 明月 だと 詠 まれ る ので あ る 。 頼政詠 では 、 望月 を 盛 りで あ る と 述 べたあ と 、 十三夜 の 月 はそ れに 二日 も 足 りないのに これ ほ ど 明 るい 、 と 詠 む。 この 表現 は、 以降 もわ ず か な が ら 確認 され る 。 ( 九月十三夜 ) 398みち も て ゆ く 二夜 の 影 をお きな が ら 我 と 名 を 得 てすめる 月 かな ( 『 出観集 』 秋 ) ( 上西門院 、 法住寺殿 におはしま す に、 九月十三夜月 い と あか き 夜 、 人人 まゐり て 歌 よみしに) 144いかなれば 望 に 二夜 は 足 ら で しもあまりに 月 のかげは 見 ゆら ん ( 『 実家集 』 ) ( 九月十三夜 ) 448風 わた る 初霜寒 し 秋 の 月望 に 二夜 の 前 の 棚橋 ( 『 正徹千首 』 秋二百首 ) 足 りな いと いうこ と は 消極的 なこ とで あ り な が ら 、 いずれ の 歌 もそ れを 十三夜 の 月 の 美質 へと 転換 する 。 〈 二夜足 り ない〉 こ とが、 む し ろ 十三夜 の 月 の 明 るさ を 際立 たせるの で ある。そ れは『 為忠家初度百首 』に 見 られ る、 「くまなし」 とい う 語 にも あらわ れて いよう 。 十三夜 の 月 は、 望月 に〈 二夜足 りな い〉にも かか わ ら ず 、 それ に 匹敵 する 月 とし て 詠 ま れ るの で ある。 さら に 十三夜詠独自 の 表現 とし て 、 十三日 とい う 日付 を 詠 むことで、 十三夜 だと 明 らかに す る 表現 も 見 られ るよう にな る。
和歌 における 十三夜 の 月 九月十三夜 40ことわ り や 暮 れぬ る 秋 の 十日 あまりみよ と 思 へる 月 のかげかな ( 『 禅林瘀葉集 ( 資隆 ) 』 ) 九月十三夜 によめる 賀茂政平 1189暮 れの 秋 こと にさ やけき 月 かげは 十夜 にあまり て み よ と なりけり ( 『 千載和歌集 』 雑歌下 ) 内大臣家百首 81長月 の 十日余 のみかのはら 川波清 くす め る 月 かげ ( 『 家隆卿百番自歌合 』 四十一番 ・ 左 ) 十三夜 558数 ふれば 今日長月 の 十日 あまりみよ ともす める 山 の 端 の 月 ( 『 光経集 』 ) これらは、 〈 十日 あまり〉 と いう 語 とともに 、 「 みよ ( 三夜 ) 」 「 み か ( 三日 ) 」 と い う 語 を 詠 むこと によっ て、 十三夜 であ る こ と を 示 す。 そ れ だ け で な く 、 暮秋 ・ 長月 であ る と も 詠 み、 こ れ が 九月十三日 であ る こ と も 明確 にし て いる 。 また、 「 三夜 」に「 見 よ」 を 掛 け、 十三夜 の 月 が 見 るべき 月 であ る こ と も 強調 す るの で ある。 家隆詠 の 詞書 にある 「 内大臣家百首 」と は、 建保三 ( 一二一五 ) 年九月十三夜 に 九条道家邸 にて 披講 され た 百首 で、 当該歌 は「 河月 」と いう 題 で 詠 まれ たも ので あ る 。 披講 の 日付 にち な ん で 、 題 の「 月 」を 十三夜 の 月 とし て 詠 んで い るの で ある 。 ここで の 「 三日 」は、 山城国 の 歌枕 であ る 瓶原 に 掛 けられて い て 、 『 歌枕名寄 』 三香原篇 ( 673)にもとら
れて いる こ と から 、 瓶原 を 詠 んだ 歌 とし ても 評価 さ れ て いたようだ 。ほかに 〈 十日 あまり〉 と いう 語 とともに 、 歌枕 を 利用 して 十三夜 を 詠 むもの は 、 「 照 る 月 の 光 さしそ ふ 十日 あまり 三笠 の 山 の 長月 の 空 」 ( 『 新三井和歌集 』 双輪寺法親 王 ・ 253) と い う 一首 が 存在 する 。 こ こ で は、 三笠山 に 三日 を 含 ませ る。 三笠山 は 月 を 連想 させるには 名高 い 歌枕 で あり、 そのような 名所 の 月 と 十三夜 の 月 とを 重 ね 合 わせる こ と で 、 見 るべき 月 とし ての 十三夜 の 月 がより 強調 さ れ て いる。 同 じく 十三夜 を〈 十日 あまり〉 「 三日 」の 月 であ る と 解 して い た 一端 が、 『 雪玉集 』 6060~ 6098、 『 六帖詠草 』 839~ 851にも 見 られ る。 前者 は 文亀元 ( 一五 〇 一 ) 年九月十三夜 に 、 「なかつ き の と おかあまりみよ」の 一字 ずつ を 歌 の 上 に 置 いて 十三首 を 詠 んだ 歌群 であ り 、 後者 も 同 じく 「ながつ き の とを かあまりみか」 を 据 えて 詠 んだも の で あ る 。 こ の 表現 が 十三夜表現 の ひ とつ とし て 遊戯性 をも 有 しつつ、 近世 まで 引 き つ がれて いった ことを よ く 物語 っ て いる。 これら 十三夜独自 の 個性 を 強調 する 表現 は 、その 月 が 十三夜 の 月 であ る こ と を よ り 明確 に 詠 む ための 手段 でもあ っ た。 十三夜 の 独自性 を 主張 する 表現 が 存在 する とい う こ とは 、 十三夜 とい う 名月 が 詠 まれ る 理由 があった ことを 意味 し て いる。 十三夜 は、 十五夜 とは 異 なる 名月 とし て 詠 まれ た 無二 の 名月 で あったの で ある。 独自 の 個性 を 見出 され た 十三夜 は、その 素材 とし ても 独自性 を 有 して い た 。 〈 晩秋 の 月 〉と して 、 単 なる 明月 であ る だけで は なく、 惜秋 の 情 を 誘 う 素材 とし ても 詠 ま れ たの で ある。 月 にむ かひ て 秋 を 惜 しむ と い ふ 題 、 九月十三日 の 夜 15常 よりも 心 そら な る 月見 ずはかくま で 秋 を 惜 しままし やは ( 『 為仲集 』 ) 九月十三夜対月惜秋 12月 ゆゑ に 長 き 夜 すがら 眺 むればあかずも 惜 しき 秋 の 空 かな
和歌 における 十三夜 の 月 ( 『 在良集 』 、 『 新勅撰和歌集 』 秋下 ・ ) 18 ( 286) 九月十三夜 46惜 し と いへ ど 秋 のな かば の 月 はなほ 今宵 もあり と 思 ひなさ れ き ( 『 忠度集 』 ) 九月十三夜 参議正三位藤原朝臣資明 6惜 しむ べき と き は 今宵 か 長月 の 月 もふ け ゆ く 秋 のあはれを ( 『 建武三年住吉社法楽和歌 』 ) 為仲詠 と 在良詠 は、 そ れ ぞ れ 十三夜 に「 月 にむ かひ て 秋 を 惜 しむ 」 「 対月惜秋 」と いう 題 のもとで 詠 まれて い る 。 十三夜 の 月 が 惜秋 の 感興 を 誘 うもの で ある と 、 題 に 明示 さ れ て いるの で ある 。 特 に 為仲詠 は、 十三夜詠全体 から 見 て も 早 い 時期 の 歌 であ り 、 十三夜 が 惜秋 の 情 を 詠 む 素材 とし て 早 くから 認識 されて い たこ と を 示 して い る 。 十三夜 の 月 を 見 て 惜秋 の 情 が わ くのは 、 やはりその 月 が 秋 の 最後 の 名月 であ る と い う 意識 があるからで あろう 。 十三夜 の 後 に 九 月尽 があるにもかか わ らず 、 資明 が「 惜 しむ べき と き は 今宵 か」 と 詠 むの も 、 そ の 意識 のもと にある 。しかし 、そ こ で 生 じ て くるのはただ 「 惜 しい」 と い う 感情 だけで は ないようだ 。 忠度詠 を 見 てみ る と 、 十五夜 の 月 を 持 ち 出 し、 秋 が 去 って 行 くのは 惜 しいけれど 、 まだ 見 るべき 十三夜 の 月 があった と 思 わ ず にはいられない、 と 言 う。 晩秋 で あるのに、 秋 の 存在 を 感 じさ せる 名月 とし て 、 十三夜 が 詠 ま れ て い る の で あ る。 こ の よ う に、 十三夜 に 詠 まれ る 惜秋 の 感興 はさ まざ ま で あっ て 、 単純 に 行 く 秋 を 惜 し む だけ で はなかった。 また 十三夜詠 では 、 と もに 「 菊 」が 詠 まれ るこ と も 多 くあった 。 菊 は 重陽 の 象徴的 な 景物 で あるため 、 九月 に 詠 ま れ るに ふ さ わ しいもの で ある。そ れ に 加 えて 、「 此花開後更無花 ( 此 の 花開 きて 後更 に 花無 し ) 」 ( 『 和漢朗詠集 』 上 ・ 菊 ・
元稹 ・ 267) と あるように、 一年 の 最後 の 見 るべき 花 と さ れて おり、 十三夜 と 同 じく 行 く 秋 を 惜 しむ 素材 で も あった。 同 ジ 年九月十三夜 、 月照菊 12クマ モ ナ キ 今宵 ノ 月 ニヲ シナ べ テ 盛 リト 見 ユル 白菊 ノ 花 ( 新編私家集大成 師実 Ⅱ 『 京極大殿御集 』 ) 九月十三夜 に 月照菊花 と い ふことを よませ 給 ける 新院御製 ( 崇徳院 ) 126秋深 み 花 には 菊 の 関 なれ ば 下葉 に 月 ももりあかしけり ( 『 詞花和歌集 』 秋 ) 応安六年九月十三夜三首歌講 ぜられけ る 時 、 菊籬月 とい ふ 事 をよ ま せ 給 うけ る 後光厳院御製 557移 ろふと 見 るも かはらで 白菊 の 籬 や 月 の 色 はそ ふらん ( 『 新続古今和歌集 』 秋下 ) いずれ も 、 題 に 従 って 菊 に 添 う 月 の 光 を 詠 む。 菊 を「 盛 リト 見 ユル」 「 移 ろふと 見 る」のは、その 菊 が 重陽後 の 盛 り を 過 ぎた 姿 で ある こ と による 。 残菊 に 白 い 月光 がさ す こ と で 、 往事 の 姿 を 彷彿 とさ せる の で あ る 。 こ こ で も 、 十三夜 は 秋 の 存在 を 感 じさ せる 役割 を 担 って い る 。 ま た 、 崇徳院詠 は、 顕昭 『 詞花和歌集注 』に 「 セ キトハモノヽトチメヲ イフニ 、 菊 ノヽチニハ 花 ノナ ケレ ハ 云也 ) 19 ( 」 と あるように 、 『 和漢朗詠集 』の 元稹句 を 踏 まえて、 菊 を 関所 に 見立 てる 。 今年最後 の 見 るべき 花 であ る 菊 は、 去 り 行 く 秋 に 対 する 関所 であ る と と も に 、 月光 に 対 する 関所 で も あった 。その 関 所 を 通過 した 月光 は、 下葉 にて 一晩菊 の 関 を 守 り 明 かす。 行 く 秋 を な んと かと ど め ようと す る 関守 の 役割 を、 十三夜 の 月 が 担 っ て い る の で あ る。 こ の よ う に、 晩秋 の 月 であ る 十三夜 は 惜秋 の 情 を 誘 う 存在 であ り な が ら 、 そ こに 秋 の 存 在 をも 感 じさ せる 。た だ 行 く 秋 を 惜 しむ ので は な く 、 そこ に ま だ 秋 が 残 って い る こ と を も 示 す 素材 なの で あ る 。 そ れ
和歌 における 十三夜 の 月 こそ が 、 十三夜 とい う 素材 に 見出 され た 意義 で あったの で はないだろうか。 十三夜 は、 そ の 表現 におい て も 素材 の 持 つ 意義 におい て も 、 十五夜 とは 異 なる 独自性 を 有 して い た 。 十三夜 は 十三 夜 とし て 区別 され 、も うひ と つ の 名月 とし て 詠 みつがれて いったの で ある。 おわりに 本朝独自 の 個性的 な 名月 であ る 十三夜 は、 和歌 におい て も その 独自性 が 認 められ、 表現 におい て も その 素材 の 持 つ 意義 におい て も 、 十五夜 とは 異 なる 一面 を 持 っ て いる。しかし、 ここ に 明 らかにしたものは 十三夜詠 の 一端 に 過 ぎない。 「 九月十三日 の 月 」 で あったものが 名月 「 十三夜 の 月 」と 認識 され、 『 為忠家初度百首 』 以降独自表現 が 見 られ るよう にな るも のの 、 徹底 して そ の 独自性 が 強調 さ れ た わ け で はなかった 。そ れで もなお 、 文学 の 素材 とし て 受 けつ が れ て いくその 理由 は、 晩秋 の 月 とし て 十三夜 が 有 して い た 役割 にある と 考 える 。 十三夜 は、 秋 が 果 てる 九月 に 惜秋 を 詠 む だけで な く 、 まだ 美 しく 残 る 秋 の 姿 を 詠 むことを 可能 にす る 素材 で も あった 。 月 は 十五夜 、 菊 は 重陽 を 盛 りと しな が らも、 九月十三夜 に 再 び 見 るべき 姿 を 取 り 戻 す の で ある。 ここ ま で 月 のこ と を 中心 に 論 じて き た が 、 九月 に 行 われる 文事 の 流 れの なか に 十三夜 を 位置 づけ るならば 、 九日 の 重陽 、 翌重陽後朝 、そし て 九月尽 と、 多 くの 行事 の ひ と つ とす る こ とが でき る 。また 、 時期 は 限 られ るが 、 十三夜 が 盛行 した 十一世紀初 めからの 百年間 ほど は 、 十四日 から 十六日 には 、 勧学会 も 催 されて い た 。 重陽 から 勧学会 のあい だに 十三夜 が 位置 し、 立 て 続 けに 何 らかの 行事 があるような 状態 であ る 。 さ ら に 、 重陽 は 菊 、 重陽後朝 は 残菊 、 九月 尽 は 惜秋 、そし て 勧学会 では 法華経 と 狂言綺語 と いった 、そ れぞれ 特徴的 な 素材 を 持 つ。 そ こ に、 月 とい う 新 たな 景 物 を 有 する 行事 とし て、 十三夜 は 付加 さ れ て いるの で ある 。 名月 とし ては も ち ろん 前月 には 十五夜 が 存在 する なか で、
あえて 九月十三日 にもう 一度月 を 見 、そし て 詠 む。 そ の 理由 こそ が 、 晩秋 であ り な が ら 秋 の 美 しさ を 詠 むことを 可能 にし、 そ こ に 秋 の 存在 を 感 じさ せる とい う、 十三夜 とい う 素材 の 持 つ 意義 にある と 考 える。 秋 の 最後 の 見 るべき 月 であ っ た 十三夜 は、 独自 の 表現 を 有 し て おり、 文学的素材 とし ても 十五夜 とは 異 なる 存在 で あったの で ある。 注 ( 1) 道真 の 十三夜詩 の 存在 につい て は 、『 本朝一人一首 』 巻六 に 「 既有 二 菅丞相詠吟 一 、 則延喜以前賞 レ 之明矣 」 と ある。そ れ に 対 し 『 日 本歳時記 』 巻五 は、 「 又菅丞相宰府 にて 作 り 給 へる 黄萎顔色白頭霜 と 起句 にある 律詩 を、 一説 には 九月十三夜 の 作 とす。しか れ ども 菅家後集 には、 九月十五夜 の 作 とあ れば 、 か な ら ず 其時 より 有 し 事 ともお ぼ え 侍 らず」 と その 存在 を 否定 する 立場 をと る 。 現存 の 道真作品 の 中 には 十三夜 に 関 する 詩 は 見 えないが 、 『 日本歳時記 』が 指摘 する よ う に 『 菅家後集 』 「 秋夜 」 ( 485)に 「 九月 十五日 」と 日付 が 付 されて い るとこ ろ 、 北野天神縁起 には「 九月十三夜 」と す る も の が あ り、 それ と 混同 し て いるよう で ある 。 参考 とし て 、 『 北野天神絵巻 』 承久本 の 本文 をあ げる 。 「 後集 の 中 におろかなる 耳 にも あはれ に きこ ゆるは 九月十三夜皓月心 す ませ 給 ける と き 作 せ 給 たる」 ( 小松茂美 ・ 中野玄三 ・ 松原茂 『 北野天神縁起 』 日本絵巻大成二一 、 中央公論社 、 一九七八年 ) 。 また、 『 北野天神御縁起 』には、 「 九月十日 」 ( 482)を 見 た 紀長谷雄 ほか 多 くの 儒者 が、 涙 を 流 した と 記 さ れ て い る。その 場面 は 「 九月十三夜 、 皎々 」 ( 『 北野 』 神道大系神社編一一 、 神道大系編纂会 、 一九七八年四月 )と 描写 されて お り、 十三夜 と 設定 され て いる。 ( 2) 『 和漢三才図会 』には 「 鳥羽天皇保安二年 、 関白忠通公九月十三夜有 二 翫 レ 月詩 一 。 今宵翫 レ 月始 二 于此 一 矣 」と あ り 、 藤原忠通詩 を 最初 だとす る 。 『 本朝無題詩 』 所収 の、 「 九月十三夜翫月 」と 題 する 二詩 のいずれ か を 指 すと 思 われる が 、 制作年次 は 明記 さ れて いな い。
和歌 における 十三夜 の 月 ( 3) 本間洋一 「 九月十三夜 の 月 ―その 詩歌 の 素材 とし ての 定着 と 表現 を めぐっ て 」 ( 『 秋桜 』 七 、 一九九 〇 年三月 ) 。 以下 、 本間氏論 の 引用 は 同論文 による。 ( 4) 瓦井裕子 「 九月十三夜詠 の 誕生 ― 端緒 とし ての 『 源氏物語 』 摂取 」 ( 『 国語国文 』 八五 ‐ 七 、 二 〇 一六年七月 ) 。 以下 、 瓦井氏論 の 引用 は 同論文 による。なお、 同論文 におい て 瓦井氏 は 「 単 なる 暦月暦日 を 言 う 場合 は 「 九月十三日 」 、 名月 の 夜 を 言 う 場合 は 「 九 月十三夜 」と して 区別 」す る 。 ( 5) 現存 する 『 躬恒集 』は 五類七系統 に 分 かれ 、 第一類光俊本系 ・ 第二類内閣本系 ・ 第三類丙本系 ・ 第四類西本願寺本三十六人集本系 ・ 第五類正保版本歌仙歌集本系 が、それ ぞれ 新編私家集大成 に 躬恒 Ⅰ から Ⅴ とし て 翻刻 されて い る。 第三類本 は 新編国歌大観七 、 第四類本 は 新編国歌大観三 にも 翻刻 されて い るが、 以下 『 躬恒集 』は、 系統 を 記 したうえ で 新編私家集大成 によっ て 引用 する 。 なお 当該歌 は、 第二類内閣本系 『 躬恒集 』にはない。 ( 6) 「 松浦沙 」に 関 して は 、 徳原茂美 「 清涼殿東庭 の 松 が 浦島 ― 西本願寺本躬恒集 の 本文校訂 」 ( 徳原茂美著 『 古今和歌集 の 遠景 』 和泉書院 、 二 〇〇 五年四月 〔 初出 鈴木淳 ・ 柏木由夫編 『 和歌解釈 のパ ラ ダイム』 笠間書院 、 一九九八年一一月 〕 ) と い う 論考 が ある。 ( 7) 第一類 の 三句 は「 雲 のうへ を 」 と なっ て おり、 「 や そしま を 」 と 異本注記 さ れ て いる。 ( 8) 小町谷照彦校注 『 拾遺和歌集 』 ( 新日本古典文学大系七 、 岩波書店 、 一九九 〇 年一月 )は 、 「 内裏月宴歌 か」 「 屏風歌 では なく 、 饗宴歌 であ ろ う 」 と し 、 藤岡忠美 ・ 徳原茂実著 『 躬恒集注釈 』 ( 私家集注釈叢刊一四 、 貴重本刊行会 、 二 〇〇 三年一一月 )も 『 拾 遺和歌集 』の 詞書 につい て「 これは 屏風歌 の 詞書 とし ては 要領 をえないし 、 「よみ 人 しら ず 」 と し て い る 点 も 含 め、 原資料 の 不 備 を 継承 する もの であ ろ う 」 と 指摘 し、いずれも 屏風歌 とす る こ と に 対 して 否定的 で ある。 ( 9) 田中登氏 による 新編私家集大成 の 解題 によ れば 、 正保版本歌仙歌集本 に 代表 されて い た 第五類 につい て 、 「 ( 前略 ) 『 古筆学大 成 17』 所収 の 伝西行筆本 は、 明 らかに こ の 系統 に 属 し、 しかも 書写年代 は 鎌倉極初期 と、 この 系統 でも 抜群 に 古 くて 注目 され る」 と 指摘 して い る 。 参考 に、 小松茂美著 『 私家集 』 一 ( 古筆学大成一七 、 講談社 、 一九九一年五月 )により 伝西行筆本 の 当
該箇所 を 翻刻 する 。 せい れう てむ のみなみのつまに/みかはみつめくり て たりまつ 延喜十 / 九年九月十三夜 そのえむせ/させたまへり その こ ゝ ろのたい/あり 人 〳〵うた ゝ て まつる も ゝ し き のおほみ やなからや そしま を /みる こ ゝ ち す るあ き のよのつ き 正保版本歌仙歌集本 が 「めくり て たり」 を 「めくりい て たり」 と 改 め て いる ことが わ かる 。そのほかに 異 なる 部分 はなく 、 本文 の 不明瞭 さは 鎌倉時代 まで 遡 って も 解決 しな い。 ( 10) この 「 賀 」と 「 宴 」の 異同 につい て 、 高田信敬氏 は「 格別 の 修飾語 を 持 たな い 「 賀 」が 「 宴 」と 同義 に 用 いられ た 可能性 のある、 管見唯一 の 文証 」 ( 「 朱雀院 の 行幸 ― 紅葉賀臆説 」 ( 『 源氏物語 の 展望 』 三弥井書店 、 二 〇 一一年九月 ) ) と し て お り 、 こ こ で も そ れに 倣 う。 ( 11) 本間氏 は、 「 ( 前略 ) 九月十三日 の 和歌詠 とし ては、 天徳四 ( 960) 年 の「 庚申中宮女房歌合 」がこれ ( 稿者注 : 『 源大納言家歌合 』 ) に 先立 つよう で あるが、 寡聞 にし て その 内容 を 知 らない」 と 注 し て いる。 「 庚申中宮女房歌合 」 と は 、 『 新訂増補歌合大成 』 一 に 「 天 徳三年九月十八日庚申中宮女房歌合 」と あ る も のを 指 すか 。 こ の 歌合 は『 元真集 』 『 夫木和歌抄 』に 残 る 歌合 で、 本間氏 が 十三 夜 の 例 と したのは『 夫木和歌抄 』の 詞書 によるか と 思 われる。 天徳三年九月十三夜庚申 、 中宮女房歌合 とてこふがよめる 元真 4170高砂 の 尾上 の 萩 を 折 りつ れば 鹿 の 立処 やう すらぎぬ らん ( 『 夫木和歌抄 』 秋二 ) 一方 の『 元真集 』は 諸本 によっ て 日付 の 表記 に 揺 れがあり 、 『 新訂増補歌合大成 』は「 三正綜覧 によっ て 検出 す るのに 、 天徳 三年九月十八日 が 庚申 にあたっ て いるの で、 西本願寺本 ( 稿者注 :「 天徳三年九月十八日 にかうし」 と いう 詞書 を 有 する 。 ) の 所伝 を 正 しと して こ れ に 統一 した」 とす る。 ここで も そ れ に 倣 い、 十三夜 の 例 とは 認 めない こ とと した。 ( 12) 瓦井氏 は、 同歌合 の 頼実 の 霧題 ・ 鹿題 の 歌 で『 源氏物語 』 摂取 が 行 われた こ とが、 十三夜詠発生 の 契機 となった と 主張 する 。 特 に、
和歌 における 十三夜 の 月 鹿題 の 出詠歌 「 声 しげ み 小牡鹿 のな く 秋 の 夜 はき く 人 さ へ ぞ お ど ろ か れ け る 」 ( 『 故侍中左金吾集 』 63)は 、 夕霧巻 の 九月十三 日 の 描写 、 鹿 はた だ 籬 のもと にたたずみつつ、 山田 の 引板 にも 驚 かず 、 色濃 き 稲 どもの 中 にまじり て う ち な くも 愁 へ 顔 なり や 、そのあ と に 夕霧 と 落葉 の 宮 が、 鹿 が 鳴 くの を 聞 き 和歌 を 贈答 する 場面 などを 踏 まえ たも のだと 指摘 し 、その 頼実詠 を 目 にしたほかの 出詠者 たち に「 実際 の 九月十三日 に 著名 な 夕霧巻 の 九月十三日 を 重 ね 合 わせる と い う 新 たな 発想 、 夕霧巻 が 描 く 九月十三日 の 月 への 関心 」が 共有 さ れ たため 、 「 最初期 の 九月十三夜 への 意識 は、 頼実 の 源氏摂取 を 端緒 とし て」 い る とし てい る 。しかし 、 頼実 に「 夕霧巻 が 描 く 九月十三日 の 月 への 関心 」があったのだと したら、 月詠 にこ そ、 『 源氏物語 』 摂取 がなさ れ て しかる べ き なの ではない だろうか 。 鹿題 の 歌 も、 そ れ を 目 にした 歌人 らが 、その 場面 を 想起 する ほ ど 濃厚 に『 源氏物語 』 摂 取 が 行 われて いる と はいいがたい 。しかも 、 右 の 夕霧巻 の 場面 は、 「 九月十余日 」と して 描 かれ る 場面 で、 読 み 進 めて いけ ば 「 十三日 の 月 」が 登場 す るため 十三日 なの だ と わ か る も のの 、 素直 に 九月十三日 の 場面 とし て 想起 さ れ るかについ て も 疑問 であ る。そ もそ も、 頼実 の 霧詠 の 判 は 負 、 鹿詠 は 歌合 の 撰 にす ら 漏 れて おり、 その 歌自体 、 評価 さ れ て いた わ け で はなかった。 従 っ て、 頼実 による『 源氏物語 』 摂取 が、 十三夜詠誕生 の 端緒 となった とは 考 えられない。 ( 13) 萩谷朴編著 『 平安朝歌合大成 』 四 ( 再版 、 同朋社 、 一九七九年八月 ) ( 14) 天野紀代子 ・ 園明美 ・ 山崎和子共著 『 大斎院前 の 御集全釈 』 ( 私家集全釈叢書三七 、 風間書房 、 二 〇〇 九年五月 ) ( 15) これは、 山本真由子氏 のご 教示 による。 ( 16) 和漢比較文学会編 『 和漢比較文学研究 の 諸問題 』 ( 和漢比較文学叢書八 、 汲古書院 、 一九八八年三月 ) 所収 の、 佐藤道生氏 の『 詩 序集 』 解題 による。 ( 17) 家長香織著 『 為忠家初度百首全釈 』 ( 歌合 ・ 定数歌全釈叢書九 、 風間書房 、 二 〇〇 七年五月 ) ( 18) 『 新勅撰和歌集 』で は 、 第三句 が「ながむれど 」 となっ て いる。 ( 19) 松野陽一校注 『 詞花和歌集 』 ( 和泉古典叢書七 、 和泉書院 、 一九八七年九月 ) 所収本
〈 使用 テキ スト 〉 本朝一人一首 、 本朝文粋 ― 新日本古典文学大系 ( 岩波書店 ) 日本歳時記 ―『 益軒全集 』 一 ( 国書刊行会 、 一九七三年五月 ) 菅家文草 ・ 菅家後集 ― 日本古典文学大系 和漢三才図会 ― 寺島良安編 『 和漢三才図会 』 ( 東京美術 、 一九七 〇 年三月 ) 中右記 ― 増補史料大成 ( 臨川書店 ) 文選 ― 新釈漢文大系 ( 明治書院 ) 古今要覧稿 ―『 古今要覧稿 』 ( 国書刊行会 、 一九 〇 五年一一月 ~ 一九 〇 七年一月 ) 源氏物語 ― 新編日本古典文学全集 ( 小学館 ) 詩序集 ― 漢比較文学会編 『 和漢比較文学研究 の 諸問題 』 ( 和漢比較文学叢書八 、 汲古書院 、 一九八八年三月 ) 本朝文集 ― 新訂増補国史大系 ( 吉川弘文館 ) ※ 和歌 の 引用 は 特 に 断 らない 限 り 新編国歌大観 を 用 いた 。また 引用資料 が 漢文 の 場合 、 訓点 を 省 き 訓読 を 付 した 。 引用 の 際 、 適宜漢字 をあ て、 句読点 ・ 清濁 ・ 字体 を 改 めた 部分 もある。 ( 本学大学院博士後期課程 )