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岡鹿門『観光紀游』訳注―その六

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Academic year: 2021

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全文

(1)

柴  

田  

清  

萩  

森  

まほろ

岡鹿門

観光紀游﹄

――

その六

﹁日本語日本文学論叢﹂ 第十四号 抜刷 平成三十一年三月十五日   発行

(2)

岡鹿門﹃観光紀游﹄訳注︱︱その六

柴  

田  

清  

萩  

森  

本稿は本誌第八∼十一の各号及び第十三号に掲載させていただいた岡鹿門﹃観光紀游﹄訳注の続編である。第八∼十一の各 号と同様 、柴田が本学大学院文学研究科日本語日本文学専攻の担当科目︱科目名は ﹁国際交流研究﹂から ﹁多文化理解研究﹂ に改められた︱において行った読解作業の成果である。 今回掲載させていただくのは 、巻五 ﹁燕京日記﹂巻上の序 ︵張煥倫 ・斎藤一馬︶ 、及び九月二十七日から十月十四日までの 部分である 。このうち 、十月九日から十二日までの部分は 、既に高柳信夫氏が翻訳され 、詳しい訳注も付けておられる 1 。訳 文は正確かつ流暢、訳注も詳細かつ周到で、ほぼ全面的に信頼できるが、原文の解釈において我々が見解を異にする部分が数 箇所あるため、それらのみ記述した。 今回取り上げた十八日間に、鹿門は上海から北へ向けて出発し、芝罘、天津を経て北京に到着する。 底本、訳注の形式等については、本連載﹁その一﹂冒頭の説明をご覧いただきたい。また、参考にした文献の主なものは巻 末に掲げた。 ︵柴田清継、二〇一八年十二月四日記す︶ 1  新編   原典中国近代思想史第 2 巻﹃万国公法の時代︱洋務・変法運動﹄ ︵岩波書店,二〇一〇年︶所収﹁観光紀游︵抄︶ ﹂︵高柳信夫︶ 。

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燕京日記

南摩綱紀題

原文   余束髪交天下士 、獲直於友者 、葢鮮矣 。因疑人情悪直 、直固無悪於人也 。国無直臣 、則喪其祚 、士無直友 、則喪其徳 。 宝直不暇、而奚悪焉。歳甲申日域岡君鹿門来遊、介姚君 ① 書識余、口不相習、以筆語焉。毎見輙尽十数紙。君好詼嬉、興所到、 芻狗 ② 倮蟲、 土木軒冕、 蔑如也。終日相対無声息、 維謖謖紙筆声、 与呵呵狂笑声相間、 不止。若意有不慊、 則筆間便颯颯挟風霜。 君之来也、値法禍亟、君切憂唇歯之義、語及時事、慷慨激発、酒酣耳熱、勃勃不可遏仰、間吐驚人語。侍立者掩耳閉目、郤走 不敢聞。 而余怡然不為忤、 且歆聴焉。 人或尤余。 余曰、 ﹁岡君直友也。 岡君寧維直其道於友、 且将直其道於天下也。 岡君以文 眎 余、 余薙之潤之 、 余不自為僣 。 君亦怡然不為忤 、且歆聴焉 。岡君寧維直其道於友 、且楽其友直其道於已 ︿己﹀也 。人或曰 、﹁ 岡君 則然爾。子何不直其道於東邦乎﹂ 。余曰、 ﹁岡君遊中土、親目其状、慨乎言之。余於東俗、雖亦有聞、未目其実、而妄言之、非 瞶聴即盲視爾。且子将使余以口舌為報復乎。則岡君固深愛我邦者。岡君一日請屏左右、警余、曰﹁寇深矣。策安出。余願聞﹂ 。 君曰、 ﹁請於   朝、発重使、仮特権命若李 ・ 曾二公者、輔親藩 ③ 以行、直詣法廷、明是非曲直、法必聴許、而親藩習外邦事、帰 且有大裨益﹂ 。余曰 、﹁是誠良図己 ︿已﹀ 。 然余方以狂直触時流之忌 、動手触蟄 、挙足陥羅 。故屏居教授 、期与同志講是義 、以 竣諸異日而巳 ︿已﹀ 。若使貿貿焉持君策語人 、其不為献璞而 刖 足者幾何 。方言是時 、君頰赤髯張 、意色渥摯 、燭尽視跋 、刺刺 不肯休、及聞余言、爽然若有微慍者。君今将遊京師、余 媿 不能直君言於   朝、於君行也。文君之言以為序。京師輦轂、英豪輻 輳、公咫尺天威、必有能直君之言於   朝者。苟遇其人、盍以余文示之。   大清光緒十年甲申仲秋之月    上海   張煥倫拝手謹序 ︻注︼① ﹁姚君﹂姚文棟 ︵字子梁︶のこと 。 ⇒ 六月九日注① 、六月十日注① 。 ② ﹁芻狗﹂祭祀に用いるため 、草を結んで犬の形にした物 。祭

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祀が終わると捨てられるところから、役に立たなくなった物・人のたとえとして使われる。③﹁親藩﹂天子の親族で分封を受けた者。 訳文   私は成人して天下の士と交わるようになって以来、直ということを友に得ることは、思えば、稀である。そこで、人間 は直を嫌がるものなのかと思ったりもするのだが、直であれば本来人に嫌がられるようなことはないのである。国は直き臣下 がいないと、 その福禄を失うし、 士は直き友がいないと、 その徳を失う。これほど直は貴重なものなのだから、 どうして嫌がっ たりして良かろうか。甲申の年、日本の岡鹿門氏が来遊し、姚氏の書状を介して私と知り合った。口で話すのは互いに慣れて いないので 、筆を使って語り 、会えば決まって十数枚の紙を費やした 。氏は面白いことを言うのが好きで 、興の至るところ 、 ある種の人間を芻狗のように言いなし、高官を土くれや木切れのように言いなしては、取るに足りぬ者としてけなした。終日 相対しても音は立たず、 ただサッサッという紙 ・ 筆の音と、 ハッハッハと狂ったように笑う声とが交互に起こって止まなかった。 そして、 もし納得のいかないことがあると、 筆の立てる音はザクザクと風や霜のような厳しさを帯びるのだった。 氏が来たのは、 ちょうどフランスの禍が危急を告げている時だった。氏は切に唇歯輔車の義を憂え、話が時事に及ぶと慷慨激昂し、酒が回る と勃々として抑えが効かなくなるのだった。時としてびっくりするような発言をし、侍立する者が耳を覆い目を閉じ、後じさ りするようなこともあった。しかし私にとっては楽しいことだったので、逆らうことなく、しばらく喜んで耳を傾けた。その ような私を咎める者も、中にはいたが、私は﹁岡氏は直き友なのだ﹂と説いた。もっとも、岡氏は友に対して直き心で接する だけではない。天下に対しても直き心で相対そうとする人である。岡氏が私に文章を見せ、私はそれを添削してあげる。私は 自らを僭越だとは思わないし、 氏も逆らうことなく、 喜んで耳を傾けてくれる。 岡氏は友に対して直き心で接するだけではない。 友が自分に対して直き心で接してくれるのをも楽しむのである 。中にはこんなことを言う者もいた 。﹁ なるほど 、岡氏はその ような考えを持っているわけだ 。なら 、あなたも日本に対して直き心で相対さないといけないではないか﹂ 。私の答えはこう である 。﹁岡氏は中国に来て 、親しくその有様を目にし 、慨然たる思いで発言しているのだ 。一方 、私は日本の風俗について

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聞きかじった事柄はあるけれども、その実際を目にしたことはない。にもかかわらず妄言したなら、見当違いのむやみな発言 となってしまう。それに、あなたは口舌をもって岡氏に報復せよと言いたいのかもしれないが、岡氏は深く我が国を愛してい る人なのだ﹂ 。ある日、岡氏は私に人払いをさせてから、私に警告するように、こう言った。 ﹁外敵の侵略が深刻になってきま した。どんな対策をお考えですか。お聞かせ願いたい﹂ 。そして、 氏が言うことには、 ﹁朝廷に次のようなことをお求めなさい。 つまり、全権の大任を負う使臣の派遣です。李・曾二公のような方に特権の命を与えて、親藩の補佐としてフランス政府に遣 わし、 是非曲直を明らかにさせるのです。フランスは聴許するに違いありません。それに、 親藩が外国との交渉を経験すれば、 帰って来てから大いに裨益することになるでしょう﹂ 。私はこういった。 ﹁ それはまことに良い考えですね。しかし私は、放縦 率直な言動のため、目を付けられている状態で、手を動かせば虫に刺され、足を挙げれば網に陥ってしまいます。故に家に引 きこもって同志たちに教授し、彼らと義を講じて、他日これを実行せんと期しているのです。もし軽率にあなたのおっしゃる 対策を人に話したなら、 必ず刑罰に処されることになるのです﹂ 。こんな問答をしている間、 氏は、 頰は紅潮し、 髯はぴんと張り、 表情は真剣そのもので、灯りが尽きて燃えさしばかりになっても話をやめず、私の発言を聞くと、茫然としつつも多少の憤り を覚えているようだった。氏は今まさに首都へと旅立とうとしている。恥ずかしながら、私は氏の言葉を朝廷に届けることが できない。氏が行くに当たり、氏の言葉を文章に著して序としよう。都には英雄豪傑が輻輳し、高官たちは天子のおそば近く に仕えている。きっと氏の言葉を朝廷に届けることのできる者がいるだろう。そのような人に会えたら、是非私が書いたこの 文章を見せてやってほしい。   大清光緒十年甲申仲秋之月    上海   張煥倫拝手し謹んで序す 序 原文   鹿門先生将游漢土 、輦下諸名士壮其行 、 張祖筵 上水閣 、 華賓楊惺吾 ・姚志梁 ・黄吟梅以下 、会者八十餘名 、一馬 ① 亦

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陪席末 。有起而言者曰 、﹁往年竹添漸 ② 游漢土入燕京 ③ 、歴燕趙之郊 ④ 、登秦長城 、望塞外莽蒼 、曠野連天 、出函谷関 、経蜀 棧道 ⑤ 、拝劉先主 ・諸武侯 ⑥ 祠 、一帆下巫峡 、過灔 澦 ・瞿塘 、観彭蠡洞庭之湖 ⑦ 、窮岳陽 ・黄鶴楼之壮観 、而出上海 、著棧雲 峡雨記、 紀此游。李中堂及兪蔭甫先生序之、 中外伝播、 名籍一時。朝廷擢任外務省、 摂朝鮮公使、 擁節旄 ⑧ 、 従輿馬、 駐剳韓京、 士林栄之。今先生以文章気節自任、 所著尊攘紀事 ・ 米法二史、 文辞簡核︿ 賅 ﹀、 議論適切、 盛行天下。毎一題至手、 立草千百言、 鏘然鏗然、皆為金石之音、観者歎服、以是技、游中土。中土士大夫待先生、有加漸、而無不及也。他日東帰、拝高爵、列撫 仕 ⑨ 、徘徊廟堂之上、如於漸今日也必矣﹂ 。先生惕然不敢当、曰﹁僕奥羽鄙人也。往年奥羽抗六師、僕在其藩、己︿已﹀不能 画一策以靖其乱、又不能棄一命止其逆。今也聖主龍興、群賢彙進、盛節偉業、意気如雲。僕亦曾読書、畧知廉耻、縦令薄技有 可録、為二三巨公所抜擢、復何顔汚朝官塞賢路、恬然自安乎。僕此游一目中土文物之盛、宮闕之宏、江河之大、嵩華之崇、以 少遣遅暮之感而己 ︿已﹀ 。子期僕以漸之栄達 、 非特僕所不勝 、抑亦僕之所敢不為 。敢辞﹂ 。嗚呼先生豈以区区利禄為心者乎 。 一馬侍側聞先生言、私慨世浅視先生、遂序以送。   明治甲申五月    会津   斎藤一馬拝序 ︻注︼① ﹁一馬﹂斎藤一馬 ︵一八五〇∼ ? ︶もと会津藩士 。明治十六年から会計検査院に勤務 。 ② ﹁竹添漸﹂竹添進一郎のこと 。漸はそ の字。 ⇒ 六月二十四日注④。③﹁燕京﹂北京。④﹁燕趙之郊﹂河北省北部及び山西省西部一帯。⑤﹁蜀棧道﹂ ﹁棧道﹂は険しい所に板な どを並べて棚のように造った道。かつての長安方面から蜀︵現四川省︶へと通じる険しい道をこういった。⑥﹁劉先主・諸武侯﹂ ﹁劉 先主﹂は三国の蜀漢の初代皇帝劉備 。﹁諸武侯﹂は蜀漢の丞相諸亮 ︵字孔明︶ 。⑦ ﹁彭蠡洞庭之湖﹂彭蠡湖は江西省北部の鄱陽湖の こと。洞庭湖は湖南省北部の大湖。⑧﹁節旄﹂天子から使者に与えられる任命のしるしの旗。⑨﹁撫仕﹂意味不明。 訳文   鹿門先生が中国へ旅立たれることになり、都の諸名士が壮行せんと、墨田川畔の楼閣に送別の酒席を設けた。中国から

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の賓客楊惺吾・姚志梁・黄吟梅以下、会した者八十余名。小生も末席を汚した。その席上、立ち上がって次のような発言をし た者があった 。﹁往年竹添漸氏が中国を旅して来られました 。燕京に入り 、燕趙の郊を経て 、秦の長城に登り 、茫洋とした 長城の外の景色や、天に連なる広野を眺め、函谷関を出て、蜀の棧道を通り、蜀の先主劉備や諸武侯の祠を拝み、さらに舟 で巫峡を下って、灔 澦 峡・瞿塘峡を通り、彭蠡湖や洞庭湖を眺め、岳陽の黄鶴楼の壮観を目にしたうえで、上海に出て、棧雲 峡雨記を著し、 その旅の有様を記しました。その棧雲峡雨記に李中堂及び兪蔭甫先生が序をしたためたため、 中外に伝播して、 その名が知れ渡り、かくて朝廷が漸氏を外務省の高官として抜擢し、朝鮮公使を代行させることになりました。漸氏は節 旄を擁し、車馬を従え、韓京に駐箚し、文人士大夫の間でその栄誉がもてはやされました。さて、先生はその文章と気節を自 任しておられ 、先生が著された ﹃尊攘紀事﹄ ﹃米利堅志﹄と ﹃法蘭西志﹄は 、文辞は簡潔に 、議論は適切にして 、天下に盛行 しています。先生は一つ題が届けられるたびに、立ちどころに何千何百言を草され、それらが力強い響きをもった素晴らしい 文章となり、 見る者は感服するのです。このような技量をもって、 中国を旅されるなら、 中国の士大夫は先生をもてなすこと、 漸氏以上となることはあっても、それ以下となることはありますまい。後日帰国されたら、今日の漸氏同様、高い爵位を 拝し、 撫仕に列なり、 朝廷で活躍するようになられるのは必至です﹂ 。すると、 先生は憂わしいご様子でその賛辞を受け入れず、 こうおっしゃった 。﹁私は奥羽の田舎者でして 、往年 、奥羽が官軍に抗いました時は 、私は藩内にありながら 、藩内の混乱を 治める策を画することができず、また、一命を賭して藩内の反逆を制止することもできませんでした。今や英明なる天皇陛下 が皇位にお就きになり、多くの賢臣が力を合わせ、すばらしい節操と偉業により、意気盛んなものがあります。私も学問をし てきた人間ですから、 一応の廉恥心は備わっております。仮にいささかの技能により、 二三の大家に抜擢されたとしましても、 何の顔 あって朝官を汚し、賢者任用の機会を奪って、安穏としておられましょうや。私の今回の旅は、一度中国の文物の盛ん さ、宮殿の広大さ、河川の大きさ、嵩山・華山の高さを目のあたりにし、もって人生晩年に至った悲哀を多少なりとも晴らし たいだけなのです。あなたが私に漸氏のような栄達を期待されましても、私の力では不可能でありますと同時に、また、私

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の敢えてなさざるところでもあります 。お断りさせていただきます﹂ 。先生は区区たる名利のみが心を占めているような方で はないのだ。小生はお側に侍り、先生のお言葉を聞き、先生が世に低く見られているのを嘆いた次第である。以上序して、お 送り申し上げる。   明治甲申五月    会津   斎藤一馬拝序す

燕京日記巻上

原文   古人曰、 ﹁読萬巻書、 行萬里路 ① ﹂。 余兀兀至老、 所読不下二三萬巻。 此游北窮幽燕 ② 、南及粤南 ③ 。 此亦読萬巻書、 行萬里路者。 而頭白道路、 無一所為、 独不愧公孫弘笑人索寞 ④ 乎。巻成、 会得韓地電警 ⑤ 、 慨然投筆滬上広業楼燈下。于時甲申十二月十三日。 ︻注︼ ① ﹁読萬巻書、 行萬里路﹂ 明の董其昌の ﹃画旨﹄ に見える言葉。② ﹁幽燕﹂ 今の河北省北部。③ ﹁粤南﹂ 今の広東省南部。④ ﹁公孫弘 笑人索寞﹂ 出典不詳。⑤﹁韓地電警﹂朝鮮のソウルで起こったクーデター、甲申事変。 訳文   古人の言に 、﹁万巻の書を読み 、万里の路を行く﹂というのがある 。私は懸命に努力して老年に至るまでに 、読んだ書 物は二三万巻を下らない。また、今回の旅は北は幽燕まで、南は粤南にまで及んだ。これまた万巻の書を読み、万里の路を行 くという言葉が当てはまるだろうが、白髪で奔走したものの、何ら成し遂げた事はない。うだつの上がらない人を笑った公孫 弘に恥じ入らずにおれようか。この巻ができあがったころ、ちょうど朝鮮からの電警が届いたので、上海の広業楼の灯下で慨 然として筆を置き、執筆を中断した。時に甲申十二月十三日。

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原文   九月廿七日︹八月九日︺同奥書記 ① 、 峰 ・ 小室︹信介︺ ② 二姓及姪濯、 乗輪船武昌号発上海。峰、 奥氏属員、 小室、 日報社員。 二宮 ・ 関 口 ・ 田 辺 ・ 豊 島 ・ 光元及僧孝順 ・ 無適送至輪船。船劃三室、奥 ・ 峰二氏占上室、余与小室及濯占中室。同乗者百餘名、 皆中客。中客雖顕貴、皆占中室、葢不欲伍欧人也。   正午開輪、出呉淞江口。砲臺亘十数里、面海一方、雞籠変後所増築。不見一軍艦、曰移繫長江口、以備法虜。濁浪排空、四 望淼漫。已而夕陽沈海、冥色遠至、唯見候臺燈火、熒然照海。 ︻注︼①﹁奥書記﹂九月九日の日記には﹁清輔﹂の名で出ているが、 ﹁青輔﹂が通行の呼称だったようである。既に同日の本文に簡単な注を 付 けたが、 若干補っておく。一八四六∼一八八七。鹿児島生まれ。明治七年官界に入り、 十七年七月権大書記官に昇った。② ﹁小室 ︹信介︺ ﹂ 一八五二∼一八八五。もと丹後宮津藩士。明治十六年、東京の自由新聞の社員となり、十七年当時は﹃自由燈﹄の編集に当たっていた。 訳文   九月二十七日︹八月九日︺奥書記、峰氏・小室︹信介︺氏及び姪の濯とともに、汽船武昌号に乗って上海を出た。峰氏 は奥氏の部下、小室氏は日報社員である。二宮・関口・田辺・豊島・光元の各氏及び僧孝順・無適の二氏が船まで見送りに来 てくれた。船は三室に分かれ、奥・峰の二氏は上室に入り、私と小室氏及び濯は中室に入った。同乗者は百余名で、みな中国 人だった。中国人乗客は貴顕な者でも、みな中室に入っていた。欧米人と一緒になるのを望まないのであろう。   正午に出航し、呉淞江口を出た。砲台が十数里にわたって、海に向かい合っていた。鶏籠の変後増築したものである。軍艦 は一隻も見かけなかった 。長江口に移して係留し 、フランス軍の攻撃に備えているということだった 。濁った波が天を突き 、 見渡す限り海面が広がっていた。やがて夕日が海に沈み、夜色が遠くから迫ってきた。見張り台の灯火だけが、あかあかと海 を照らしていた。

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原文   廿八日︹十日︺天日晴妍、 海波熨平。諸客皆曰、 ﹁秋間多暴風、 平穏如斯、 真希遇者﹂ 。甲板上仰臥竹榻、 読﹃弢園文録﹄ 。 其論海外大勢 、剴切確当 、大快人心 。余視紫翁溺毒烟 、輙称病苦 、以為非復前快人 、何意腹中有如斯議論也 。唯翁渉彼大体 、 未究彼学術、故間有論未透者。如論我邦、為徒学欧米皮毛、則是也。我邦免至今日、無他、以学得彼皮毛也。若夫神髄、豈一 朝所学得乎。 訳文   二十八日 ︹十日︺ 空は晴れて美しく、 海はないでいた。客は口々に、 ﹁秋は暴風の吹くことが多い。こんなに穏やかなのは、 めったにないことだ﹂ と言っていた。甲板で竹のベッドに仰臥し、 ﹃弢園文録﹄ を読んだ。海外の大勢を論ずること適切妥当で、 とても痛快だった。私はアヘンの毒におぼれた紫詮翁の姿を見るたびに、病み付いてしまいましたねと言い、もはや以前のよ うな快活な人ではなくなってしまったと思っていた 。ところが 、なんとその腹中にはこのような議論が蔵せられていたのだ 。 もっとも翁は欧米の概略をつかんでいるだけで、その学術を究めているわけではない。故にまま透徹せぬ議論が見られる。我 が国をいたずらに欧米の上っ面を学んでいるだけだと論じているのなどが、その例である。我が国が侵略を免れて今日に至っ たのは、他でもない、欧米の上っ面を学んで身に着けたからなのだ。神髄に至っては、一朝にして学び取ることのできるもの ではないのだ。 原文   廿九日 ︹十一日︺西北望連山層起 、皆山東沿岸諸山 、或曰泰山 。入芝罘港 、小船上岸 。抵公署 、見東領事 ︹次郎︺ ① ・ 上野書記︹専一︺ ② 、延楼上酒飯。公署新築、一模洋製。曰朝議擬新開航路、自釜山 ・ 仁川、経牛荘 ・ 天津、抵芝罘、再歴韓地、 東還、以盛三国貿易。芝罘一名烟臺、与登州相隣。毎春夏、往往現烟霞楼臺、故有此称。東坡有﹁登州観海市﹂詩、為世所称 也久矣。本一漁落、 鏟 山脚開市塲、遠近移住、人口三萬餘、物産繭絲・麦稗・豆餅。麦稗供製帽、豆餅供糞田。出入輪船歳踰 六七百、海関税三十萬洋元云。

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︻注︼ ① ﹁東領事 ︹次郎︺ ﹂ 東次郎 ︵一八三五∼一九一一︶ 。もと盛岡藩士。維新後、 外務省に入り、 芝罘初代領事となった。② ﹁上野書記 ︹専一︺ ﹂ 上野専一 ︵一八五六∼一九三九︶ 。 長崎県出身。 明治七年、 漢英両学習得のため上海へ渡航。 上海総領事館書記生を経て芝罘領事館に勤務。 訳文   二十九日 ︹十一日︺ 西北に連山が幾重にも重なってそびえている。みな山東沿岸の山々である。泰山だと言う者もいた。 芝罘港に入り、小船で岸に上がり、公署へ行って、東領事︹次郎︺と上野書記︹専一︺にまみえた。楼上に案内され、酒と食 事を振る舞われた。公署は新築で、全面的に洋風を模してあった。朝議により、釜山・仁川から、牛荘・天津を経て、芝罘に 至り、再び朝鮮を経て、東に戻る航路を新たに開き、三国の貿易を盛んにしようということになったとのことだった。芝罘は 一名烟台、登州と隣り合っている。毎年の春夏、往々煙霞にかすむ高楼が現れる。故にこの名が付いたのである。東坡に﹁登 州にて海市を観る﹂という詩があり、人々の口の端に上るようになって久しい。もとは一漁村だったのだが、山麓を削って市 場を開くと、遠近の人々が移住し、人口三万余になった。物産は繭糸・麦稗・大豆かすである。麦稗は帽子を作る材料、大豆 かすは田畑を耕す肥料となる。出入りする汽船は年に六七百隻を超え、関税収入は三十万洋元という。 原文   三十日︹十二日︺出観市塲。塡海構屋、街路四達。欧米公館、屹然負丘埠。一臺聳起山上、曰﹁望見輪船指港口、則表 旗 、使人為備 。貿易埠口皆有此設﹂ 。山背大石突起二三丈 、著地処一二尺 、岌岌乎危 。石面刻 ﹁造化奇観﹂四大字 。傍一石 刻劉九標康熈年間所題七律 ① 。過一鄽合順号。寧波豪商葉王二氏所設。寧波為互市塲最旧。故各埠商賈多寧波人云。   東領事饗洋饌、 英人堅弥爾 ② 与焉。 談及蒙耳氏動物変生論 ③ 。 曰﹁往年在澳太利亜、 親見土蕃生長於群猴中。 毛髪蒙葺、 変為真猴。 亜弗利加那答臘多 ④ 有動物学士 、養二小猴 。与童孩群処 、飲食言語 、一如群童所為 。後授学術技藝 。知覚挙動 、無一異人 。唯 面貌稍異耳。此二事可以証蒙耳氏説不妄﹂ 。

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︻注︼① ﹁石面∼七律﹂康熙三十六 ︵一六九七︶年 、他郷で役人勤めをしていた劉九標が帰省し 、 時に福山知県の任にあった祁国祚とともに 煙台山に遊んだ際 、海辺に縦 ・横別の向きに立っている岩を見かけ 、直ちに祁国祚が ﹁造化奇観﹂と書きつけ 、劉九標が即興で詩を賦 したという 。その七律とは次のようなもの 。﹁誰将石壁劈成舟 、屹立山腰海上頭 。縦有風濤驚不倒 、雖無 槳 舵勢能游 。難供利客奔南北 、 止許高人宴夏秋 。却笑膠舟游楚水 、問王空自動斉侯﹂ 。② ﹁堅弥爾﹂仮に ﹁ケンミール﹂と訳した 。③ ﹁蒙耳氏動物変生論﹂ ﹁蒙耳氏﹂ はアメリカ人の

Morse, Edward Sylvester

︵一八三八∼一九二五︶ 。その著 ﹁動物変生論﹂ は我が国では、 米国博士ヱドワルド、 ヱス、 モー ルス口述、理学博士石川千代松筆記﹃動物進化論﹄ 、萬巻書楼蔵版として、邦訳が出版されている。④﹁那答臘多﹂仮に﹁ナタラタ﹂と 訳した。 訳文   三十日︹十二日︺市場を見物した。海を埋め立てて建物を構え、街路は四方に延びている。欧米の公館が丘を背にして そびえ立っている 。山上にそびえる台があった 。﹁港を目指してくる汽船が見えたら 、旗を揚げ 、みんなに用意をさせる 。貿 易をする波止場は、どこもそのようになっている﹂ということだった。山の背に二、 三丈の高さに突起した大きな岩があった。 地面との接合部分はわずかに一 、二尺で 、 非常に危なっかしい 。石面に ﹁造化奇観﹂の四つの大字が刻まれており 、 傍らの一 石には劉九標が康熙年間に題した七律が刻まれていた。合順号という商店に立ち寄った。寧波の豪商葉・王二氏が設けた店で ある。寧波は貿易場として最も古い町である。故にどの港にも寧波人の商賈が多いという。   東領事が洋食をご馳走してくれ、英国人のケンミール氏も同席した。話題がモールスの動物変生論に及んだ。ケンミール氏 が言うには 、﹁以前オーストラリアで 、サルに混じって生長し 、ぼさぼさ頭の本物のサルになってしまった土人を 、この目で 見ました。アフリカのナタラタの動物学者は、二匹の小ザルを人間の子供たちと一緒にして育てたところ、飲食言語、すべて 人間の子どもと同じようになり 、その後 、学問や技術を授けると 、知覚挙動 、 何もかも人間と異なるところはなく 、面貌が やや異なるだけだったそうです。この二つの事はモールスの説がでたらめではないことの証明になります﹂ 。

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原文   十月一日︹十三日︺気候頓冷。始着袷衣。致邵筱村書。見方道臺︹汝翼︺ 。権借人家設衙署、極為隘陋。余将出袞︿ 兗 ﹀ 州拝闕里 ① 聖廟、 問道路所由。佑民曰、 ﹁柬袞︿ 兗 ﹀曹沂観察、 以為子游道地﹂ 。帰寓、 嘱館人雇馬車、 曰﹁日来馬卒、 多応官募、 為兵。一車非給七十錠、則無応者﹂ 。一錠直洋金一元四十銭。余随姪濯別雇舌人。須車三輛。此非老措大所能給。乃止。   午後伴白井姓 ︹新太︺ ② 出観城隍廟。村優演劇、 士女堵牆。余与濯立観。満塲注目。蓋邦人来此、 一般洋服、 此間人始見東服也。 郭北門、題曰雲錦、門側兵営、題曰有備無憂。群兵箕踞門外、吹烟食果、相顧笑談。有兵如斯、未為有備也。就壁而右。陵埠 繚繞 。一宇標十字 。為耶蘇堂 。一園為洋人墓域 。攀一坂 。有道観 、占爽 、扁曰玉皇亭 。臨観 、全港浦 錯落 、市街縦横 。群 峯擁其背、 地勢甚似我長崎。道士出接、 供茶果。問秦碑 ③ 。曰﹁今不可知﹂ 。題詩書示、 不解。乞銭。投一元。右折下山入市街。 里斜歪、道路欹仄。   是地開埠、始為都邑。而街区漫無制度、牧守不用心此等事歟。家屋皆積石塗堊、洋館以外、不見一架楼者。 ︻注︼① ﹁闕里﹂山東省曲阜市内の孔子の故郷 。② ﹁白井姓 ︹新太︺ ﹂白井新太郎 ︵一八六二∼一九三二︶ 。 会津若松出身 。明治十一年 、東 京 に出て二松学舎に学び 、十六年 、岳父東次郎の芝罘領事赴任に従い渡清し 、 東の清国改造の志を助けた 。 ③ ﹁ 秦碑﹂秦の始皇帝が建国 の翌年から行った国内巡視の際に建てたと伝えられる七刻石のうちに、 ﹁之罘刻石﹂と﹁之罘東観刻石﹂があるが、そのいずれか、ある いは両方を指すと考えられる。いずれも現存しない。 訳文   十月一日 ︹十三日︺急に寒くなった 。初めてあわせの服を着た 。邵筱村氏に手紙を出した 。 方道台 ︹ 汝翼︺に面会し た。人家を借りて仮の衙署としていた。ひどく貧弱である。私は 兗 州を出て闕里の聖廟に参拝しようと思っていたので、その ルートを尋ねてみた。佑民氏が言うには、 ﹁ 兗 州の曹沂観察に手紙を書き、あなたの旅の地ならしをさせておきましょう﹂と。 宿舎に帰り、馬車を雇うよう服務の者に頼むと、言うことには、 ﹁ このところ馬卒は、お上の募集に応じて兵となる者が多く、

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車一台に七十錠出さないと 、応じる者はいないでしょう﹂ 。一錠は洋金一元四十銭に相当する 。私は姪の濯の意見に従い別に 通訳を雇うことにしたが、車三台を求められた。老書生にはとても出せないので、やめにした。   午後   白井 ︹新太︺ 氏を伴い、 城隍廟の見物に出かけた。村の役者が芝居を演じ、 見物の男女がひしめいている。私が濯と立っ て見物していると、満場の視線がこちらに注がれた。おそらくこの地に来る日本人はふつう洋服で、人々は初めて日本服を見 たのだろう。郭の北門には﹁雲錦﹂と記され、門側の兵営には﹁有備無憂﹂と記されているが、兵士たちは両足を前に投げ出 して座り込み、 門外で煙を吹き出し果物を食い、 顔を見合わせ、 笑いながら話をしている。こんな兵では、 いたとしても、 ﹁備 え有り﹂ とは言えまい。壁沿いに右へ行った。丘陵がくねくねと続いている。十字の印の建物があった。キリスト教会である。 庭園全体が西洋人の墓域となっている 。坂を登ると 、道観があった 。高く乾燥した所にある 。玉皇亭と書いた扁額があった 。 そこから見下ろすと、港全体、水辺が入り組み、市街地が縦横に広がっている。峰々が市街地の背後を擁し、我が長崎によく 似た地勢である 。道士が出て来て迎え入れ 、茶果でもてなしてくれた 。秦碑について尋ねたが 、﹁今では分かりません﹂との 返答だった。詩を書いて見せたものの、分かってくれなかった。金を求められたので、一元を与えた。右折して山を下り市街 地に入った。通りは斜めに歪み、道路は平らでない。   ここに港が開かれ、都市になったものの、通りの区画には全く計画性がない。長官がこれらのことに配慮しなかったのだろ う。家屋はみな石を積んで漆喰を塗ったもので、洋館以外、二階建て以上の家屋は一つも見かけなかった。 原文   二日 ︹十四日︺ 一華客因東領事求見。曰呉緯堂 ︹壬源︺ 。自言絶志仕進、 専修実学。問其所業、 曰 ﹁出入洋館、 掌往復文案。 前年従米人航朝鮮、草条約書 ① ﹂。 因問米韓二国事、不甚明瞭。   佑民来訪 。東君設茶菓洋酒 、 恭待 。余曰 、﹁法虜猖獗 、小人為中土寒心 。不知此事何所帰着﹂ 。佑民沈吟久之 、既而曰 、﹁ 今 日有公事﹂ 、卒然辞去。豈嫌与外人談時事、害国体乎。要不解事体者。

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︻注︼①﹁条約書﹂一八八二年に調印された朝米修好通商条約か。 訳文   二日︹十四日︺ある中国人が東領事を通し、面会を求めてきた。呉緯堂︹壬源︺という人で、自分から﹁官途で身を立 てるのではなく 、 専ら実学を修めてきた﹂旨語った 。その業とするところを尋ねてみると 、﹁洋館に出入りし 、やり取りする 文案をつかさどっています。一昨年はアメリカ人に従って朝鮮へ行き、条約書の草案を作りました﹂と答えた。そこで米韓二 国に関する事を尋ねてみたが、さほど明瞭な答え方ではなかった。   佑民氏が来訪 。東氏が茶菓洋酒を出し 、恭しく接待した 。私が 、﹁フランス軍が狂暴を極めておりますため 、小生は中国の ことを思い、寒心に堪えません。フランスとの一件はどのような結末になるのでしょうか﹂と尋ねてみた。佑民氏はしばらく 沈吟した後 、﹁今日は公用がありまして﹂と言い 、卒然として辞去した 。外国人と時事を語り 、 国体を損なうことになるのを 忌んだのだろうか。要するに物事がよく分かっていない人ということになろう。 原文   三日︹十五日︺東君饗羊肉月餅、 曰﹁今日中秋。方道臺所餽。称曰節敬。中土公私応酬、 専事虚文。有節敬 ・ 贄 敬 ・ 修 敬 ・ 炭敬 ・ 別 敬 ・ 贐敬 ・ 謝 敬 ・ 喜敬 ・ 祝 敬 ・ 氷敬 ・ 使 敬 ① ・ 賻敬。敬餽物表敬意之謂﹂ 。余笑曰、 ﹁何敬多類﹂ 。東君曰、 ﹁節敬極為厚意。 唯毎贈遺、投金使人。使敬是也。真不知敬為何義者﹂ 。   入夜忽聞鉦皷斉起、吶喊四発。余驚為練水軍。曰﹁俗中秋群船放爆。爆有大小、無異大小砲﹂ 。轟然至夜半。 ︻注︼①﹁贄敬∼使敬﹂ ﹁贄敬﹂は学生が初めて教師に会う時の贈り物。 ﹁修敬﹂は教師への謝礼。 ﹁炭敬﹂は地方官が冬に中央官庁の有力 な高 官に贈る贈賄の品。 ﹁別敬﹂は別れに際して贈る餞別。 ﹁ 贐敬﹂は見送る時の贈り物。 ﹁謝敬﹂は謝礼。 ﹁喜敬﹂はご祝儀。 ﹁氷敬﹂は地方 官が夏に中央官庁の有力な高官に贈る贈賄の品。

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訳文   三日 ︹十五日︺東氏が羊肉月餅をご馳走してくれ 、こう言った 。﹁今日は中秋です 。方道台からのプレゼントです 。今 回のような贈り物を節敬といいます 。中国では公私とも 、応酬の際 、専ら虚礼に努めます 。節敬 ・贄敬 ・修敬 ・炭敬 ・別敬 ・ 贐敬・謝敬・喜敬・祝敬・氷敬・使敬・賻敬があります。敬は物を贈って敬意を表すの謂いです﹂ 。私は笑って尋ねた。 ﹁種類 が多いのは、どの敬ですか﹂ 。東氏いわく、 ﹁非常に手厚くするのは、節敬ですね。ただ、やり取りするたびに、使いの者に金 を与えます。それが使敬で、敬がどういう意味なのか、全く分かっていないことになりますね﹂ 。   夜になって、たちまち鐘と鼓の音が一斉に湧き起こり、叫び声があちこちから聞こえてきた。私はびっくりして、水軍の練 兵かと思ったのだが 、﹁中秋には船々が爆竹を鳴らすのが習わしです 。 爆竹に大小あり 、大小の砲と変わりがないのです﹂と いうことだった。けたたましい音が夜半まで続いた。 原文   四日 ︹十六日︺方佑民為余作紹介天津道臺書以寄 。館人請給金其使 。問何故 、曰 ﹁使敬﹂ 。無謂亦甚 。将発 、粧以待 。 既而表旗。東、上野二氏出送岸上。船号重慶、不類洋製。恐成於福州造船局者。出港口、転針北馳。怒濤如屋、不勝懊悩。一 吐就寝。自上海至芝罘、 洋海曰黒海。我九州西北洋称玄海。玄海、 黒海、 異称同義、 必有所由也。自芝罘至天津、 洋海曰渤海。 我邦旧史渤海使聘往来不絶書。按日本史渤海本靺鞨、 延袤二千里、 其土極寒、 不宜水田。有大祚栄 ① 者、 受唐爵命、 為渤海郡王、 始去靺鞨号、専称渤海。今不知何地 ② 。   晩餐薄粥。船動愈甚。 ︻注︼①﹁大祚栄﹂もと高句麗人で、 靺鞨族を糾合して、 六九八年、 震国を建てたが、 のち唐に入朝し、 渤海郡王に封ぜられた。②﹁今不知 何地﹂ 現在では、渤海国の領域は中国東北地方の南東部から朝鮮半島北部にかけての地域だったことが判明している。

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訳文   四日︹十六日︺方佑民氏が天津道台への紹介状を届けてくれた。使いの者に金を渡すよう、服務の者に求められた。そ のわけを尋ねると 、﹁使敬だ﹂とのことだった 。ナンセンスも甚だしい 。出発の時が迫り 、身なりを整えて待った 。やがて旗 が掲げられた。東、上野の二氏が岸壁まで見送りに出て来てくれた。船は重慶という名で、西洋で建造されたもののようには 見えない。福州造船局で造られたものだろう。港を出て、方向を転じて北に進んだ。一軒の建物並みの怒濤に揺さぶられ、懊 悩に堪えない。 一度吐いて就寝した。 上海から芝罘までの海を黒海という。 我が九州西北の海を玄海と称する。 玄海と黒海と、 名称は異なるが同義である。きっと拠って来たるところがあるのだろう。芝罘から天津までの海を渤海という。我が国の古い 史書によると、渤海との使者が往来し、文書も絶えなかった。日本の史書を閲すると、渤海はもと靺鞨で、二千里の広さがあ り、極めて寒いところで、水田耕作に適しない。大祚栄という者が、唐の爵命を受けて渤海郡王となってから、靺鞨の呼称を 去り、専ら渤海と称するようになったという。今ではどの辺りだったか分からない。   晩、薄粥を食べた。船の揺れはますます激しくなった。 原文   五日︹十七日︺海水皆濁。知其近白河口。小泊待潮満。機車鉤取艙室包米、 移載他船。自此河口、 故 减 積貨、 以軽船脚。 遙望旗幟林立 。此為大古砲臺 、其東一帯沙汀 、曰北塘 。英法之再挙 ① 、自此上岸 、出砲臺之背 、前後夾攻 、中兵不戦而潰云 。 方興土工、増修砲臺。白河比黄浦江更隘而輪船来往、畧無礙碍。岸上漁村塗泥為室、穿竇出入。殆陶復陶穴、未有居 ② 者。   日哺潮落、碇泊。問地名曰新荘。 ︻注︼①﹁英法之再挙﹂一八五六年に始まった第二次アヘン戦争のこと。一八五八年五月に英仏連合軍は大古砲台を占領した。②﹁陶復陶穴 、 未有居﹂ ﹃詩経﹄大雅・綿の﹁陶復陶穴、未有家室﹂ ︵穴居生活をしていて、材木で造った家を持たないの意︶に基づいた表現。

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訳文   五日 ︹十七日︺ 見渡す限り海水が濁っている。白河口に近づいたことが分かった。しばらく停泊し、 潮が満ちるのを待っ た。機械仕掛けの車が船倉のトウモロコシを引っ掛け、他の船に移し替えた。そこから河口だから、積み荷を 减 らして船脚を 軽快にするのだ。遙か向こうに旗幟が林立している。そこが大古砲台で、その東一帯の砂浜を北塘という。英仏は二度目の攻 撃の際、ここから上陸し、砲台の背後に回って、前後から挟み撃ちし、中国兵は戦わずして潰えたという。土工を進め、砲台 を増築している最中だった。白河は黄浦江よりもっと狭いけれども、汽船の行き来には少しも差し支えない。岸上の漁村に見 えるのは泥を塗った家で、開けた穴から出入りしている。ほとんど陶復陶穴、未だ居有らざるものである。   日が暮れて潮が引き、停泊した。尋ねてみると新荘という地名だった。 原文   六日︹十八日︺平明開輪。江流屈曲。望見傑厦崇宇映朝暉。是為天津。輪船接岸、 架桟出入。猶上海然。鄭書記︹永昌︺ ① 、 佐佐木︹祐司︺ ② ・松原︹岩二︺ ③ 二姓来迎。抵公館見原領事︹太郎︺ ④ 酒飯、就一間室安頓行李。   佐佐木姓導観租界 。康荘四達 、左右植卉木 。各国公衙高掲国旗 、互竸宏麗 。而洋鄽十数戸 、他皆招商局曹舎 。行里許 、 沿江西折、望城壁屹然。道路狭隘、人馬旁午。舎車而歩、至帯河門。市店雑沓、穢臭衝鼻、覚頭痛 涔涔 。出門沿壁右転。並戸 皆業攻玉。中土重珠玉、玉工極夥。見一書肆。書多爛熟本。転出河岸、望見有物堆積如陵埠亘二三里。問之始知為食塩。露積 沙上、不蔽雨雪。直隷及新彊︿疆﹀中部、皆仰此塩云。発方佑民書求見盛道臺︹宣懐︺ ⑤ 。 ︻ 注 ︼ ① ﹁鄭書記 ︹永昌︺ ﹂ 鄭永昌 ︵一八五六∼一九三一︶ 。長崎出身。外務省漢語学校に学んだ。この年の四月十日に領事館書記として天 津に来着。 ② ﹁佐佐木 ︹祐司︺ ﹂ 原敬の ﹁天津日記﹂ 明治十七年五月二十二日の条に ﹁広業商会支配人鶴田及佐々木祐司を同伴して李鴻章を訪ふ﹂ とし て、 その名が見える 。③ ﹁松原 ︹岩二︺ ﹂原敬の跋のある中井弘著 ﹃合衆国憲法略記﹄ ︵明治十六年十一月︶の出版人である松原岩次郎であ る可能性がある 。 同書の奥付には ﹁山形県士族   松原岩次郎﹂とある 。 原敬の ﹁天津日記﹂明治十七年九月三日の条に ﹁松原岩次郎下

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婢同伴にて来着﹂とある 。④ ﹁原領事 ︹太郎︺ ﹂後に最初の政党内閣を組織し平民宰相と称された原敬 ︵一八五六∼一九二一︶のこと 。 ⑤ ﹁盛道臺 ︹宣懐︺ ﹂盛宣懐 ︵一八四四∼一九一六︶清末の政治家 ・実業家 。字は杏蓀または幼勗 。洋務運動の代表的人物 。この当時は 天津道の知事を務めていた。 訳文   六日︹十八日︺明け方に出航した。川の流れは屈曲している。高く大きな建物が朝の陽光に映じているのが向こうに見 える。そこが天津である。汽船が接岸し、 桟橋を架けて出入りする。上海と同じだ。鄭書記 ︹永昌︺ と佐佐木 ︹祐司︺ ・ 松 原 ︹ 岩 二︺の二氏が迎えに来てくれた。公館に着き、原領事︹太郎︺にまみえた。酒と食事を振る舞われ、一室に荷物を置かせても らった。   佐佐木氏の案内で租界を見て回った。大通りが四方に延び、通りの左右には草木が植わっている。各国の公館は国旗を高く 掲げ、 壮麗さを競い合っている。洋風の構えの店は々十数戸のみで、 他はみな招商局の庁舎である。一里ほど進み、 江に沿っ て西に折れると、屹然たる城壁が見えた。道路は狭隘で、人馬が交錯している。車を捨てて歩き、帯河門まで行った。店が建 て込み、不潔な臭いが鼻を衝き、頭が痛くなってきた。門を出て壁沿いに右に曲がると、軒並み玉細工の店である。中国では 珠玉が重んじられ、玉細工人が極めて多い。一軒の書肆をのぞいてみた。置いてあるのは、よく知られた本が多かった。転じ て河岸に出たところ、 堆積された物が丘のように二、 三里先まで延びていた。尋ねて初めて、 それが食塩であることが分かった。 砂上に剝き出しにして、野ざらしにしてある。直隷及び新疆中部は、この塩に頼っているという。方佑民氏に手紙を出し、盛 道台︹宣懐︺との面会を求めた。 原文   七日 ︹十九日︺朱舜江 ︹湛然︺来 、曰 ﹁盛杏蓀期明日在衙待臨﹂ 。舜江李中堂客 、 管東洋事務 。曰 ﹁十四年前東游 、購 得族祖朱舜水著書﹂ 。余知其為餘姚朱氏 、問知弢夫否 。驚曰 、﹁何縁知我堂兄 ① ﹂。乃告曩過餘姚見弢夫 、与伯幡 ・樹声訂交 ② 。

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舜江称奇遇。   夜与原領事酌 。坐客花岡姓 ︹園︺曰 、﹁前年過鉄門関 、抵承徳府 。康熙乾隆二朝避暑処 。有離宮 、同治帝避英法之難於此 。 長城以北家屋隘陋、面陽穿土牖。蒲伏出入。野皆青草、不見一樹木。至冬、燎馬糞取煖。土人不知字。問人名地名、輒曰問諸 先生。先生謂官吏也。見余書字、聚観為異。不知日本何国。出図指示、猶尚不解。愚魯概是類。唯身材偉大、鬚髯虯張、馳駆 原野、挌殺猛獣、噉肉寝皮。胆気之雄、筋骨之强、大異中土人。 ︻注︼①﹁堂兄﹂父方の同姓の従兄。②﹁過餘姚∼訂交﹂ ⇒ 七月十七日。 訳文   七日︹十九日︺朱舜江︹湛然︺氏が来て、こう言った。曰く﹁盛杏蓀氏が明日、役所で先生のお越しを待たれるとのこ とです﹂ 。舜江氏は李中堂の客人で、日本関係の業務をつかさどっている。また、こんなことも言った。 ﹁十四年前、日本を訪 れ、 族祖朱舜水の著書を購入しました﹂ 。私はこの人が余姚の朱氏だと分かったので、 弢夫氏を知っているかどうか尋ねてみた。 すると、びっくりした様子で、こう言った。 ﹁どうして私の堂兄をご存じなのですか﹂ 。そこで、先日余姚を通った時、弢夫氏 にまみえ、伯幡氏・樹声氏とも交わりを結んだことを話した。舜江氏は、奇遇ですねと言った。   夜、 原領事と酒を酌み交わした。同席した花岡 ︹園︺ という人が、 次のような話をした。 ﹁一昨年鉄門関を過ぎ、 承徳府まで行っ てきました。康熙・乾隆の二朝、避暑地とされた所です。離宮があり、同治帝は英仏の難をここに避けました。長城以北は家 屋が陋隘で 、日の差す側に 、︵ 土で造った家屋の︶窓をえぐり 、 ってそこから出入りします 。野原は一面青草で 、樹木は一 本も見かけません。冬になると、馬糞を燃やして暖を取ります。現地人は字を知らず、人名や地名を尋ねると、決まって﹃先 生に聞いてくれ﹄と答えます。先生とは官吏のことです。私が字を書くと、 集まってきて眺めながら、 へえーっと驚きました。 日本がいかなる国なのか分かっていません。図を出して指し示しても、理解できません。愚鈍なること概ねこのような具合で

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す。ただ、体格は立派で、顎鬚や頰髯はぴんと伸び、馬で走り回って猛獣を打ち殺し、その肉を食い、その皮に寝ます。胆力 の雄々しさ、筋骨の强さは、中国人とは大違いです﹂ 。 原文   八日 ︹二十日︺伴佐佐木姓 、出観 。大 艑 峨艦 、巍然如城 。路上堆積物貨 、役卒蟻集 。皆南貨 、輸直隷及北彊 ︿疆﹀者 。 見茶匣山積。曰﹁俄人購取北輸者﹂ 。岸繫三軍艦。一隻俄艦、二隻英艦。曰﹁軍艦至氷沍、艦上覆屋、為萬間広厦、架梯出入。 無異在陸﹂ 。舟度前岸 、皆農家 。家屋至陋 。埴土成瓦状 、曝之天日 、積為四壁 。高丈五六尺 、葺以茅茨 。貧窶者束麦稗為屋 、 表面塗泥、 蔽風雨。北土乏木材。故家屋専用土瓦。以大小麦及白菜、 為常食。白菜我邦称山東菜 ① 者。尤適土性。隴上設桔槹、 汲河水、灌畝。如水田。葉茎沃若、尤為佳味。見一積瓦為塚状者。塚上有両池。深二丈餘、設機器、汲河水、注上池、疏至下 池。湛然清泉。更設機器、転注大艦、為飲水。此地飲炊、皆用河流、点礬除昏濁、相戒不飲冷水。蓋虞礬毒也。上海亦然。 ︻注︼①﹁山東菜﹂明治初年に山東省から渡来した山東白菜。 ︻参考︼明治十七年十一月五日の﹃朝野新聞﹄に﹁岡鹿門翁十月八日天津ヨリ送ル書簡ノ略﹂と題する記事が掲載されている。次の通り。 ﹁ 煙 台天津皆領事舘ノ優待有リ加之道台傔従輿馬弟ノ為メニ来訪セラル亦奇ナラズヤ明日ハ道台ニ一見明後日ハ李中堂ニ一見其明日ハ朱 湛然 ︵此人朱舜水ノ一族ナリ︶其翌馬車ニテ北京行ノ都合ナリ張経甫上海ヲ立ツ時ハ弟ノ為メニ別筵ヲ開キ出立ノ前日門送ニ来タリ 送序モアリ邵道台ニ行導モナセリ弟ノ文稿ヲモ論定ス因テ豊島氏ノ子語学ニ来航セシヲモ此経甫方ニ入塾サセタリ此游第一ノ知己ナ リ姚文棟氏モ此人ノ社中ナリ云々﹂ 訳文   八日 ︹二十日︺ 佐佐木氏を伴い、 見物に出かけた。 城のように巍然たる巨大な軍艦が停泊している。 路上には貨物が堆積し、 人夫が大勢集まっている。 貨物はみな南方産で、 直隷及び北方の国境地帯に送るのである。 茶箱が山のように積まれていた。 ﹁ロ

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シア人が買い取って北に送るのだ﹂ということだった。岸に軍艦が三隻係留されていた。一隻はロシア艦、二隻はイギリス艦 である。 ﹁海が凍結すると、 艦上に広大な建物を設け、 梯子を架けて出入りする。陸上にいるのと違いはない﹂ということだっ た。舟で向こう岸に渡ったところ、農家ばかりだった。家屋は至って粗末である。粘土を瓦の形にして天日に曝し、積んで四 方の壁とする 。高さ一丈五 、 六尺で 、茅葺きである 。貧しい者は麦わらを束ねて屋を造り 、表面に泥を塗って 、かに風雨を よけるのみである。北方は木材が乏しい。故に家屋には専ら土製の瓦を用いる。大麦・小麦及び白菜を常食とする。白菜は我 が国で山東菜と称しているもので、 非常にここの土質に適している。畝のそばに撥ね釣瓶を設け、 川の水を汲んで、 畝に灌ぐ。 水田と同様である。葉も茎もしっとりとしていて、非常に美味である。瓦を塚のように積んだものを一つ見かけた。その傍ら に二つの池がある。深さ二丈余り、機器を設け、川の水を汲んで上の池に注ぎ、下の池に通す。清い泉の水がいっぱいに満ち ている。さらに機器を設けて、大艦に転じ注ぎ、艦内の飲料水としている。この地の飲み水・炊事用の水は、いずれも川の水 を用い、明礬を点じて混濁を除き、冷水は飲まぬよう注意し合っている。明礬の毒が怖いからである。上海も同様だった。 九日∼十二日の高柳氏訳のうち、筆者が異なる解釈をした二か所を以下に挙げる。 十日   原文﹁顧康熈乾隆、四征不廷﹂     高柳氏訳﹁康熙・乾隆の時、四方への遠征が止むことなく、⋮﹂     拙訳﹁康熙・乾隆の時、四たび   王命に従わない者を征伐し、⋮﹂ 十日   原文﹁普人促見再三﹂     高柳氏訳﹁プロイセン人がたびたび面会を催促した﹂     拙訳﹁プロイセン人がたびたび   面会するよう促した﹂

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原文   十三日︹廿五日︺鶏鳴発館、傍城壁、度舡橋 ① 二次、一路高低、車輪 臲 兀。郭門猶閉。起門卒。良久始開。路出白河上。 寒風劈面。天明至楊村。毎戸掲旗、 書奉旨団練 ② 四字。粤匪之乱、 八旗 ③ 不為用。曾文正募義勇、 奏廓正 ④ 之功。今也法事方急。 故仿此例 、所在募義勇云 。憩一客店 。四匝土屋 、中設広塲 、繫馬車十数輪 。毎室二間 、累土為床 、下設坑爐 、熾石炭 、取煖 。 破席敗案、老僕鶉衣供点心。蕭索特甚。自是原田瀰茫、播種雑穀。此間白壌、毎霖雨、道路 踸踔 。已而泥乾、凸凹欹仄、不可 行車 。乃取捷田上 。田主以其害播種 、鑿溝阻車 。毎一溝 、回邪行 。車不施弾力 、毎過高低処 、左枝右梧 、不為亀之縮頸 、 則為鯉之点額。因謂北京百貨、 皆須天津、 猶我東京於横濵。若取石芝罘、 砕為礫塊、 修九軏︿軌﹀大路、 車施弾力、 御以洋法、 則晨発津口 、暮達京城 、其利人民 、便行旅 、果為何如 。 聞方議通滊車天津大古間 。余謂白河己 ︿已﹀通輪船 、修此間馬車道 、 最為急務。   午下勁風暴起、 気候頓変、 寒威砭肌。日暮抵河西務 ⑤ 。旅店陋矮、 一菜一肉、 ︿ 枵 ﹀ 腹果然。被洋氈而寝。風勢愈猛、 屋動有声。 恍為泊風濤中之念。是行雇僕、曰胡五。凡百拮据、能体人意。喜長鬚得其人。 ︻注︼①﹁ 舡橋﹂意味不明。 ② ﹁奉旨団練﹂ ﹁ 団練﹂は 正規軍 の ほ かに、そ れぞ れの地域で青壮 年男子を現地選抜して訓 練を 施す地主の武装 組織のこと 。ここでは、 そのような訓練を行うの意であろう。全体として、 命令 に従いそのような訓練を行うの意。③﹁八旗﹂清の軍制。 漢人 ・満人 ・蒙古人による各八旗の軍隊 。合計二十四旗 。旗の色で区別した 。④ ﹁廓正﹂ ﹁廓清﹂ ︵世の乱れを治め清める︶の誤りと思 われる。⑤﹁河西務﹂現在は天津市武清区に属す。 ︻参考︼明治十七年十一月五日の ﹃朝野新聞﹄に ﹁十月十三日一点鐘発天津車中口占﹂と題する鹿門の漢詩作品及び記事が掲載されている 。 次の通り。 ﹁残燈兀々聴鶏鳴、茅店沿江霜月明。蹈尽天涯千萬里、馬頭明日入燕京。   翁ハ天津ヨリ両日ニシテ北京ニ入リ夫レヨリ長 城ヲ一見シ卅日間北京ニ滞留シ保定ヲ過ギ再度天津ニ赴キ上海ニ帰ルト云フ   来書中一モ清仏戦争ノ事ニ及バズ江湖ニ報道ス可キモ ノ無シ大儒先生ノ胸襟ハ測ル可カラザルモノニテ詩賦文章ハ国家人民ヨリモ貴重ナルモノナルカ﹂ 。

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訳文   十三日︹廿五日︺鶏鳴に館を出発し、城壁沿いに進み、舡橋を二度渡った。凸凹の道が続き、車輪がぐらぐらした。郭 門はまだ閉じていた。門番の兵士を起こした。開けてくれるまで、 しばらくかかった。白河のほとりに出た。寒風が顔を劈く。 夜明け頃 、楊村に着いた 。各戸 、﹁奉旨団練﹂と書いた旗を掲げている 。粤匪の乱の際 、八旗は役に立たなかった 。曾文正が 義勇軍を募り、廓清の手柄を成し遂げた。今やフランスとの一件が急を告げている。そこで前例に倣い、いたるところで義勇 軍を募っているのだという。一軒の旅籠で休憩した。土で造った家屋を四もにめぐらし、中に広場を設け、馬車十数台が繫が れている。屋ごとに二 間、土を積み上げて床となし、下に土中の囲炉裏を設け、石炭を燃やして暖を取る。蓆は破れ、物を置 く台は壊れている。 みすぼらしい身なりの老僕が点心を出してくれる。 ひどくわびしい感じがした。 ここからは田畑が広がり、 雑穀を播種しているが、この辺りは白土で、霖雨のたびに、道路が歩きにくくなる。やがて泥が乾いても、凸 凹になって、車 は通りにくい。そこで田畑のそばを行こうとすると、播種に害ありとして、地主は溝を掘り、車を阻むのである。溝に出くわ すたびに回し、斜めに進んだ。ところが、車に弾力がなく、凹 凸のある所を通るたびに、左に右に傾くため、亀が首を縮め るような格好になったり、 龍門を登れない鯉が額を打ちつけて帰るような格好になったりする。そこで、 次のようなことを思っ た。北京は、ちょうど東京が横浜に対してそうであるように、天津からの輸送を頼みにしているが、もし石を芝罘から取り寄 せ、砕いて小石にして九台の車が並走できるような大道を造り、車には弾力を持たせ、西洋流の御し方で御せば、朝天津を発 して暮れには北京に達する。人民を利し行旅を便利にすること、いかばかりであろうか。聞くところによると、天津大古間に 汽車を通すことを検討中だとのこと。私の考えでは、白河はすでに汽船が通っているから、この間の馬車道を造るのが最も急 を要する。   昼過ぎ、にわかに強い風が吹き出し、天候が急変して、厳しい寒気が肌を刺すようになった。日が暮れる頃、河西務に着い た。旅籠は粗末で、一菜一肉のみ。案の定、腹いっぱいにはならなかった。フェルトを被って寝た。風の勢いがますます強く なり、 旅籠の建物が揺れ動いて、 音を立てた。まるで風に吹かれ波に揺られる中で舟泊まりしているかのような思いであった。

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この旅には胡五という僕を雇ったが、苦労は何でも買って出て、よく人の気持ちが分かる。僕として持って来いの人物を得た のがうれしい。 原文   十四日︹廿六日︺鶏鳴上程。寒威凛冽。襲洋氈四重、猶冷。馬夫安坐轅端、揮鞭叱馬、蹊田畦踰丘隴、如不知沍寒為何 物。時窺車外、茫茫原野、不見一村落。此間樹皆楡柳野生者、不見他木。抵張家湾 ① 、午飯。自此村家隠見、時見大路通各村。 風愈暴、塵土昏霾、仰不見天日。馬卒迷路、行数里、始得大路。人馬絡繹、不似前路。此為赴通州官道。自天津溯白河抵通 州、為三日水程。此為官道。   入永定門。此為北京外郭。道路陥入為壑状。道上巨第、岌然猶陵阜然。坂路街四達。貼聯句門扉。或曰忠孝克家、或曰勤 倹興業。転出大路。路上塡石、 石多毀壊。触輪生火、 車上動揺、 如舟行怒濤之中。城壁屹然。仰見三層重閣、 巍然于半天之上。 此為崇文門。街上堆土如隄。馬車行隄上。左右市鄽、牌榜丹 艧 、爛燦眩燿。   抵四牌門 、右折抵六条 衚衕 公署 。巳 ︿已﹀昏黒 。見梶原 ② 少佐 、出酒 。呉書記 ︹啓太︺ ③ 伝 ︹榎︺本公使 ︹武揚︺ ④ 旨、 舎 門側一室、安頓行李。 ︻注︼① ﹁張家湾﹂現北京市通州区張家湾鎮 。② ﹁梶原﹂ ﹁梶山﹂の誤りである可能性がある 。 ⇒ 九月十七日注① 。③ ﹁呉書記 ︹啓太︺ ﹂呉啓 太 ︵一八五七?∼一八九五︶ 明治十一年通弁見習となり、 十四年外務書記生に任じ、 北京公使館在勤を命ぜられた。④ ﹁ ︹榎︺ 本公使 ︹武 揚︺ ﹂榎本武揚︵一八三六∼一九〇八︶江戸生まれ。旧幕臣であるが、明治政府の下で諸大臣を歴任。明治十五年八月から十八年十月ま で駐清特命全権公使を務めた。 訳文   十四日︹廿六日︺鶏鳴に出発した。厳しい寒さである。フェルトを四枚重ねたものの、なお寒い。馬丁は轅の端に安座

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し、鞭を揮い、ドードーッと声をかけ、畦道を踏み、丘を越え、凍るほどの寒さもどこ吹く風といった風情である。時に車外 を窺うと、茫茫たる原野に一つの村落も見かけない。この辺りの木はみな野生の楡と柳で、他の木は見かけない。張家湾まで 行き、昼飯にした。そこからは時々家を見かけるようになり、また、各村に通じる大きな道も見かけるようになった。風はま すます激しく、巻き上げられた砂埃で薄暗く、仰いでも太陽が見えない。馬丁が道に迷い、遠回りをすること数里、ようやく 本道に戻った。人馬の往来が絶えず、これまでの道とは様子が違う。通州に向かう公道なのだ。天津から白河を遡って通州ま では、水路で三日の行程で、公道なのである。   永定門に入った。北京の外郭である。道路が窪み、谷間のようになっている。道に沿った大きな屋敷は、丘のように高々と そびえている。坂道や大小の通りが四方に延びている。聯句が門扉に貼ってある。 ﹁忠孝にして家を克 くす﹂とか、 ﹁勤倹にし て業を興す﹂とかいったものである。転じて大きな道に出た。道に石が埋めてあるが、欠けている石が多いため、車輪に触れ て火花が出、車が動揺して、まるで怒濤の中を進む舟のような気分である。城壁は高く、三層の高殿が空の中ほどにそびえて いるのを仰ぎ見た。崇文門である。通りには土が土手のように積み上げられている。土は高く、馬車はその土手のような道を 進んだ。左右の店は、看板が鮮やかな朱色で、まばゆくてめまいがするほどだ。   四牌門で右折して六条 衚衕 の公署に着いた。既に薄暗かった。梶原少佐にまみえた。酒を出してくれた。呉書記︹啓太︺が 榎本武揚公使の意向を伝えてくれ、入り口の側の一室に泊まることになり、荷物を置いた。

参考文献

単行本   小室信介編 ﹃第一遊清記﹄ ︵自由燈出版局、 一八八五年︶ 。﹃漫遊見聞録﹄ 下編 ︵農商務省、 一八八八年︶ 。 外務商通商局編 ﹃清 国商况視察復命書﹄ ︵元真社、 一九〇二年︶ 。石川千代松全集刊行会﹃黎明期の動物講話﹄ ︵興文社、 一九三五年︶ 。生能久﹃東 亜先覚志士記伝﹄ ︵ 黒龍会出版部 、一九三六年︶下巻 。対支功労者伝記編纂会編輯兼発行 ﹃対支回顧録﹄下巻 ︵一九三六年︶ 。

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高田真治﹃詩経﹄下︵集英社漢詩大系第二巻、一九六八年︶ 。編集委員代表浦野匡彦﹃二松学舎百年史﹄ ︵二松学舎、一九七七 年︶ 。大東文化大学中国語大辞典編纂室編 ﹃中国語大辞典﹄ ︵角川書店 、一九九四年︶ 。原奎一郎編 ﹃原敬日記﹄第一巻 ︵福村 出版 、二〇〇〇年︶ 。森田憲司 ﹃北京を見る読む集める﹄ ︵大修館書店 、二〇〇八年︶ 。岡千仞著 、張明傑整理 ﹃観光紀游   観 光続紀   観光游草﹄ ︵中華書局、二〇〇九年︶ 。安岡昭男﹃副島種臣﹄ ︵吉川弘文館、二〇一二年︶ 。 論文等   林正子 ﹁上野専一︱︱日清戦争前の台湾認識の先駆者︱︱﹂ ︵﹃台湾近現代史研究﹄ 第二号、 一九七九年︶ 。友田清彦 ﹁内 務省期の農政実務官僚と勧農政策の展開﹂ ︵﹃農村研究﹄第一〇六号、二〇〇八年︶ 。   ︵しばた・きよつぐ   本学教授︶   ︵はぎもり・まほろ   本学大学院修士課程一年︶

参照

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