我“は現代宗教に封して率臘なる思想とのべたい。如徴に知 見した感想に就て厳密なる批列は籾ておき現代宗勢が此の如き 状態にあるといふ概念を把握して我々は我々の認識臘内に於け る提示を試みやうとするものである。職密約に其の宗敦問題莚 見るに、宗教の指導性を忘失して如何に時代に追随し若しくは 適鵬せんかの苦慮は、巳に周知の事鍵と言はねばならない。 我々は戯會といふ大きな奔流を充分に検討し理性批列を加味 して破邪顯正の法を以て指導せねばならない。我々がか上る使 命の下に思惟し活動し、往昔の日蓮を見倣ふて其の生活水準を より窓義的に開拓したならば理想とする佛図土の没現は可能な ると恩ふ。 然るに現今宗教界特に現軟幽に於ける其の暹嬢振りは箪舌の 範閣外なり。其の綜括的立場にある人物は到底称庵の畏敬し渦 仰するだけの憤値を認めず多くそれ等の人物は敏腕家なる事を 代表語とせらるべきもの多数なり。我々は久成の伽を信じ、祁 の絶對性と普迦性と超人的なる班を認む。然し共必備仰の一片 は人間崇拝の現象を免れず、我々は宗敷的人物の一撃手一投足 は能く其の範ともなすなり。然るに其の慨値的人物は礎天の足 よりもまれにして求めんとすれども澗購欧住.我趣は愛橘する 作
吾人は斯く思惟す
啄 画 、 集 人 Q 生 ものなり。一人の荊腕家の登場は下府寺院に於ける弱者の多数 を必要せり。慨者ばか上る弱者ありて存在する、故に弱者は艇 者、遜者の手段として存在の意義を見出す如き感痛切なり。我々 は此所に彼の虚無哲學者ニーチェの思想の一端を見るべきなり 脅年の眞鎚なる叫びも、宗敬的乃至學的の煥悩も、純粋宗學の 理念の發展も正義の訴訟も皆之文字として、個人として、空鑪 の薔騨蛎波として、其の結果は空寂に蹄するなり。我々の恨思 なる愛法謹持者の言は正しく一片の蝿霧となって虚空に消滅す るのみ。それはか坐る地雛に宗門行政の椛威者逓非人桁的なる 人を以て在らしむるの溌謬より出褒するものなり。我々は此の 根本解決をなさずんば如何なる努力も水泡に蹄するな“り。我々 は其の人物の思惟と行動が法の如く激の如く、如妬の言行者を 希望し、我々の思想と行動との腿害者、中傷者たるべきものを 速断に徐外すべきが急務たり。 か坐る行政的教副は弱肉誕食なるを以て要たり。中流寺院の G 経済的安心淑は伽藍脅築、信徒取楽を以て本務となし、港も宗 教的椅操の啓發をなさざるなり。新興蹴似宗教蝉隆盛は一つは 我々に冥醒と刺戟の針なりと言ふべきに、敦剛人は傳統ある既 成宗敏匙誇耀して、其の鍵展経路の跡逵見ざるなり。か坐る敦 圃人は類似宗敦の如何に腿會的に布敬要素を内包しおるかとい ふ方法を思考せず徒らに彼等を非難攻撃して得々たるは,又何 と無噸蒲なる単純なる頭脳なる事だらう。如何に新興宗激、は たまた邪激と雷ひ、浅薄なる教義といひ一言にて噸笑的態度を 二 五寂るは早急なる蒙昧者と見るべきなり。我々は知性を持って彼 の一憂一姪を解剖して學募だけの雅歎を欲するものである。 既成宗教が固定化した寺院組織と、教義内容を持って時代趨 勢の馳騒に指導せむとも適應せんさするは努力は賞に、去暦咋 食よりも無爲なる努力といはねばならない。我々が媛も憂へ悲 しみ、皿っ慨嘆に慨する砺柄はか辿る時代に無自覺な宗教家の 特に中層部に於ける法燈者の認識なり。童して一・人者的地位に ある無路醍さは、棚夜矩火なきよりは更に渡りに船なきに、徒 らに彼岸を髄慨するに似たり。 教閲人は須くか1る僻見を是正して、教義内容の固定化には 新鮮なる時代の洗除をなし。議せる人絡者の淘太をはかるぺき なり。 現代職會は超世本位の思想より、漸時現出本位の傾向なり。 唯物思想の淡践的愉、化畢的世界槻の成立、感怖を主慨とする 丈學の化學化0之等は宗教方面に於て祁本主義より人本主義と 進行せり、彌陀大日の住む念佛思想は疎遠せられ、凡て現世的 に、.即身的に、人本的に發逵を見たるものなり。故に宗敏問題 に於ても問題は動揺を招き宗教自磯の否定か改造か、之等の二 黙の歸蒲は或は唯物思想の前者を取る傾向等となりて、疑問覗 野の鋤大は其の範閲は益々庇範に展出してゆけり。又教莪内容 を學問の進行にともなって其の研究的態度は顯著にして、異宗 敷にありても其の最善なる内葬は割除して、自己宗散の所競を なし、此の原珈は我が敏法に誘諦しあるなり。彼の数錠ば総見 竹 p m l 集 なり等ご識してゐる者こそ、資に哀憐に似L見解なり。アカデ ミックな研究方法ば巳に時代の落伍者なり。梵本は漢課に瀧課 和本は更膿洋本に、然して各幽語課に其の發逹の趣たるは、今 幾泄紀の趣Lを見るものあり。 マホメットに於けるハルクの意義等に於ては現宗側人が眠れ る夢中に、衣淑の交換にも似し、数義の逆作用を勝來するもの なり。 鐸迦の所説特に法華經にありては至深溌高宇宙の理法たり。 此の眞燕葵なる宗教的椛威の教義的内容を持てるは、我々の誇 りともなり、叉幸禰たるなり。丈底秘沈の法門は順く演開、開 倉して堂“流布すぺきなり。何時迄もか§る言を持って固執す るに非ず、正法流布のためには邪法と戦闘を宣告し正しい信念 を持って勇駁に、・徹頭撤尾必勝を期するものなり。海ふる畳醒 こそ、言を俟たず自己自羅によって宜くするを要となすなり。 我々ば此所に教團の知性人を見るなり彼等の大半以上が理に 走って事の等閑観すろを明かに知見するなり。或る人の如き宗 敬問題を列記し其の所論筏に鮮明にして首街するなれど、彼の 人物の心性を再穣討すれば、其の言恰も無利有害なり。瀞して 二重人絡者といふ。其の態度は哲人の如く其の眼光は人を射る 如き舸々さを具伽すれど、共の人の行動たるや以て問題観する に困難なる感あり.。然れば言はざれぱか、る批到的な槻察なけ れども、言ふが故に其の行動と言語との比較を見て前者の方の 遥か爬重麓なきを見るなり。かふるバランスなき人は自己の言 二五四
◆ によって自己が救はれ、然して化他時に普遜するこそ肝要なれ ど、さにあらず前述の如き傾向なり。か坐る現象は罪人が教識 師を腕敏寸るにも似たり。吾々の尊敬する人物ばか上る者に非 ず。法華經的情念の下に旦夕を思惟活動する人こそ欲すれ吾々 は此所に祗會的宗救を提示するなり。我々教圃人の理想は佛幽 土の淡爽、本門戒塊の離立にあり。華督教に於ける刺の脳の瓢 現、之等の理想は賦會進化的にして其の主旨は慈悲、博愛等妙 統一的宗験の建立を期とせり。 日蓮の教剣舞に於ける根本思想ほ l知し敏︹宗敦哲理的研究︶ l知し機︹個人應化的研究︶ 五義li知レ時︵時代應化的瀞究︶ I知し國︵剛性應化的研究︶ I知し序︹宗教進化的研究︺ か上る知到に援て前四列は后一列に其の意義の總括たるものな り。此の五義に価って佛救最商の眞理、末法救濟の要法たる灘 量品丈底の妙法五字を宗教的に建立して三開して三大秘法の内 容となすなり。即ち図解せば 1本鍬I森斌本佛1本果妙 三大秘法11題目l耳口意三業の妙行1本因妙 I戒境I國家的建立1本幽土妙一 要するに日蓮の主義は日本國は撞義的建國にして正法を擁護し 枇界の道法的統一をなすぺき火難ある幽なるを自覺し皇室と人 作 p m l 集 民と一同に此の法に蹄したる時.勅宜に山りて世界統一の本門 戒境を建立して國家を以て直ちに宗教的畷結とし以て、宗敦に 没際の統一力を有せしめ各幽家の遡法的中心統一を期するもの なり。 吾々は此所に数は救椛的雌敦的、思想は統一的中心的、儒仰 傾向は現撰的蛮行的.教化の方式の折伏的國家的、目的は世界 的癖化、中心人格は心理、説法の教主としては佛陀と顯れ、唱 導の師としては日蓮と現じ、戒境述立の願主として畏韮と生れ か坐る世界的宗教の傳道者たるべき我々は今此所に私利私慾に 走る徒輩を連に蹴放し、王佛冥合の理想を賞現すべく、自覺奮 起を希望するものである。︵十三、十、一・大泉糀舎言乙 ﹁中馬巷に蔽れ骸骨路に充てり、死を招くの誰既に大半を超 え之を恋しまざるの族敢て一人も無し。屍と臥せて縦と傭し、 脚を並ぺて橋と作す﹂とは宗祇御在仙雷時の有様を説かれた安 閏論の一溌である。之れ正法地に瞳ち邪法天下に蔓延せる故に Lて、されば三災四劫を雛出すること能はず、斯襟な鍬世を現 出するに至るのである。 法と側とは体と影の如しと言・名か些乙鎌倉時代に於て人心