明治末―大正期における農村青年教育の構造と機能
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A S t u d y o n t h e S t r u c t u r e a n d F u n c t i o n o f t h e
Adolescent Education in Meiji-Taisho Perieod
高
橋
満
Mitsuru Takahashi
Ⅰ
問題 の設定
本稿では,地域 における教育が,農民支配 (逆 にいえば,農民の主体形成の過程) といかにかか わ るかを考察す る。具体的 には,明治末年 か ら大 正期におけ る地域の青年期教育の構造,とくに我が 国の教育制 度上特異な位置を占めた実業補習学校 (以下,実補 と略称)に焦点を据 えて, これ と国家 や地主 による農民支配 との関連および農民層の主 体的 な成長 の過程 との関連 を問いたい と思 うので あ る。 ここで中心的 に取上げる実補の性格や機能 につ いては,教 育学 は無論,歴史学等い くつかの学問 領域で既 に論 じられてい る。それ らの評価 は大別 して以下 の三点 にまとめ られ るであろ う。 まず, 第- に,実補 を中等教育の 「代位」機関 として位 置づける見 解である。 しか も,そ こでは 「中等教 育 の大衆化 を拒否 し,教育機会均等の要求をす り か える形 で社会教育が学校教育の代位の役割 を果 した」(1)とその機能 が とらえられてい る。 第二 に,主 に歴史学者の ものであるが,地方改 良運動 との関連で,実補 を国民教化 ・組織化 の拠 点 を担 うもの として とらえる。すなわち実補の振 興 は,「地 域 におけ る通俗教育を学 校教育の体系 に と り込 み,小学 校教 育 に接続 させ た国民組織 化」(2)を意 図 した ものであるとい うのである。 第三の見解 は, これ らの点を認めつつ も,実補 が 「労働 と教育の結合」を実現す る(3)ものであ る, あ るいは 「そ こで教育 された農民が, もっとも合 理的 とはい えな くとも,無知 な農民の経営 よ りは 合理的な経営 をお こな うことを可能 にす る」(4),と 否定的なものに内在す る肯定的契機を別出す る。 従来の 「地域 と教育」をめ ぐる研究 においては, 教育の階級的性格や機能 に関 して無 自覚であ った が(5),先 の三点の指摘をみ るとき,この点で「地域 と教育」研究 に反省を促す と同時 に,農村社会学 にとって も重要 な問題 を提起 してい るよ うに思わ れ るのである。つま り,そ こでは実補整備が,国 民の教育要求 の高揚を吸収 し, さらに,国家権力 の支配の維持 ・強化の手段 として進 め られた こと が指摘 されている。それは国家権力 と国民諸階層 の教育要求をめ ぐる対抗関係を媒介す るもの とし て位置づけられているのである。それゆえ,以下 の分析では,国家権力 による体制的支配の維持 ・ 強化 の施策の一環 として位置づけ られた実補が, 農民支配 とい う視点か ら農村地域 において どの よ うな役割 を果 したのか (逆 に,それが農民諸階層 の主体的能力を陶冶す る契機を内在 させていたの か どうか,いた とすればそれはどの よ うな契機か) を明 らかにしたい。農村社会学の重要 な課題 のひ とつ に,農民支配の構造の解明があげ られ よ う。 私が先 に,農村社会学 における地主制研究を,主 に 「農民 の支配構造」 とのかかわ りで,言い換 え れ ば,小作争 議 とい う農民 の主体 的運動 の経済 的 ・社会的基盤の問題 として問 うたの もこ うした 課題 を踏 えてい るが(6),村落やそ こにおけ る諸集 団の分析 に視野を限定す る伝統的な農村社会学 の 領域を越 えて, ここでは一層広い視野の中で この 問題 を考察 してみたいのである。いや,そ うでなげ れ ば農村 の支配構造を十全 には明 らか にしえない と思われ る(7)0 ところで,先 の評価 は中央の政策的意図や動向 に基づ くものであるが,それ らが地域 においてい かなる内実を もって展開 したのか,つ ま り,その 政策 の地方への受容 ・変容の過握 は十分 に明 らか にされているとは言い難い。それゆえ,県の政策 的意図にも注 目して この政策浸透の過程 をまず検 討 しなければなるまい(8)。とい うのは,実補 の整備表1. 宮城県における実業補習学校生徒数、町村公費支出の推移 宮 城 県 実 業 補 習 学 校 生 徒 数 町村公学費実捕-の支出額 農 業 水 産 商 業 工 業 その他 計 明治 35 以前36 954人 -■- 人 - 人 19 人_ 人 973人 2,969 円 37 1.056 65 22 1.078 2,683 38 1.028 29 1,047 2,888 39 1.185 12 1,262 3,365 40 1,249 26 - - - 1,275 2,784 41 1,017 8 - 24 - 1,047 2,036 42 43 44 6,8651,369 130934 4562 -23 -92 7,95316,819,567 12,7744.9863,025 45 7.818 853 68 - 157 8,896 18,776 大正 2 8,125 785 103 - 176 9,192 19.263 3 8,815 551 158 - 433 9,957 18,626 4 9,924 730 157 161 467 ll.439 19,629 . 5 10,994 612 219 129 552 12,766 23,565 6 ll,558 557 47 188 608 12,958 22,386 7 13,504 161 105 156 830 14,756 39,234 8 15.278 198 102 129 - 15,707 60,307 9 14,371 434 104 200 503 15,612 72,023 注 ;F宮城県統計書Jより作成。 表2 宮城県実葉祐習学 校数推移 買 34 36 38 40 42 44 歪2 4 6 810 注 :「宮城県統計書」より作成。 の推進 は,体制的な一律的 な保障の もとに進め ら れたに もかかわ らず, この政策 を受容す る主体 の 階層的性格あ るいは受容の契機 は,体制的支配の 移行や資本主義の歴史的発展段階, さらには,也 域 における教育要求の蓄積水準 にも規定 されて多 様 な過程 ・性格 を とると考 えられるか らである。
Ⅰ
Ⅰ
宮城県における実業補習学校の
整備過程
はじめに 宮城県における実補 の整備 は,全国や東北諸県 と比較 して も著 しく遅 く,明治末年 か ら大正初期 にはじまるのであ るが(9), しか もそれ は後 にみ る ように,農民層の絶対的窮乏 と疲弊,町村財政が 破綻 にひん した時期 に当っている。 それゆ え重要 なことは,いったい県がいかなる政策的意図をも ち, どのよ うな困難を克服 しつつ整備 を進めてい ったのか, とい うことに注 目す ることにあ る。 こ うした点について,具体的には中埠村の事例に即 してみ るが,まず,県の整備の動向を考察 しよ う。1
第一期一実補不振の時期 明治3
5
年,文部省は実補規程 を全面的に改正す るとともに,実補の趣 旨お よび施設方法 を訓令 し, ここに 「小学校 ノ補習」および 「職業 二要 スル知識 技 能 ノ 修 得 」 を 目的 とす る 実 補 の 整 備 が 本 格 的 に始 ま る(10)。 宮 城 県 に お け る実 補 は, これ よ り 大 分 遅 れ て 明 治
3
3
年 に初 め て 設 立 を み て い るが , しか し, そ れ 以 降 も表1
, 表2
に み る よ うに 明 治 42年 ま で 停 滞 を み せ て い る の で あ る。 結 論 を述 べ れ ば, この 不 振 の 最 大 の理 由 は, 当 時 の 県 教 育 会 の 焦 眉 の課 題 が , 義 務 教 育 段 階 の就 学 確 保 に あ っ た こ とに 求 め られ る。そ の 背 景 に は , 凶 作 等 に よ る農 民 層 の 窮 乏 化 が あ る。 これ に つ い て は後 に み る が , 表3に み る よ うに 明 治30年 に 至 る ま で 就 学 率 は70%余 に と ど ま っ て い た 。しか し, 県 に よ る強 力 な督 学 奨 励 に よ り明 治34年 に は90% 表4 宮城 県 実業補 習学 校整備 過程 (県 の動 向) 表3
宮城 県 の就 学率推 移 (明治10-明治40年) 38 40 22 24 26 28i30 32 34 36 注:「宮城 県統計 書」 よ り作 成 。 年 月 日 記 事 内 容 ・訓令第2号 ・亀井県知事教育会への諮問 「補習教育 の簡易 に して普 く実施 し 得べき方法如何」 ・郡市教育会 ・県教育会第18次総会建議 41. 2.25 41. 7. 41. 42. 5. 43. 9. 44. 5. 44. 8.15 大正 6. 1.16 6. 6.10.05 ・県令 「公立私立実業補習学校教員採 用解職並 二其 ノ制限 二関スル規程」 ・県教育会第19次総会建議 ・郡市長会議 における知事の訓示 ・県教育会第20次総会建議 諮問 ・県教育会第21次総会建議 ・県教育会第22次総会諮問 答 申 ・県令第18号 ・通牒 ・通牒 ・訓令第22号 ・文部省令実業補習学校規程 に沿 って設立促進 ・半途退学者、不就学者対策 として認識 貧困者児童、郡市教育界へ下す ・実業教育の素要ある教 師を招蒋す るのは- 町村経済上困難 兼任-有志講習会 ・ 「実業補習学校費 二県費 ヨリ補助セ ラレンコ トヲ知事 二建 議 スル ノ件」・・・-可決 ・ 「宮城県実業学校 二実業補習学校 ノ附設 ヲ建議スル ノ件」 --・可決 ・教員の認可 について ・ 「実業補習学校教員 ヲ養成セ ラレンコ トヲ知事 二建議スル ノ件」 (教員 二乏 シキ-不 振ノー大原因)--可決 ・実業補習学校不 振なるは甚だ遺憾 ・ 「県下各種の実業学校 に実業補習学校を附設せ しめん こと を知事 に建議するの件」--可決 ・ 「実業補習学校の設置を普 くし且之を有効 な らしむ る方法」・
「尋常小学校本科正教員を実業補習学校の有資格者 とせ ら れん ことを其筋 に建議するの件」 ・ 「実業補習学校の設置を普 くし且之を有効 な らしむる方法」 地方実業の種類 ・習俗 ・財政 ・小学校の状況等を参酌 し設 置 ・ 「実業補習学校教員俸給補助規程」 ・ 「季節実業補習学校並青年団 ノ夜間教授 二関 スル件」 ・ 「実業補習学校教授並 二青年団体 二於ケル夜 間教授 ノ実科 担任教員 トシテ地方 二於テ甲種実業学校卒業以上 ノ資格者 若-適 当ナル篤農家等 ヲ講師又-嘱託 トシテ実業教育 ノ振 興 二資 スル件」 ・ 「義務的実業補習学校 二関スル件」 注 ; 「県庁文書学事編」および 「宮城県教育会雑誌」 よ り作成。以上の就学率を確保す る。い うまで もな く,一定 水準の就学率,出席率が確保 されてはじめて, こ れに続 く国民教育体制 の整備が義務教育年限の延 長,あるいは実補等の青年期教育の問題 として問 われ るのであるか ら, この期の不振 はある意味で 当然の事態であ った。 しか し, この間 に県当局が実補整備に全 く取 り 組 まなかったわ けでは無論 ない。 まず, この県の 施策を表
4
に してみてお こう。これにみ るよ うに, 例 えは,明治3
9
年亀井知事 は県教育会 に対 して「補 習教育の簡易に して普 く実施 し得べ き方法如何」 とい う諮問を提 出 している。 また, これ以降 も, 郡 ・市教育会-の諮問や,4
1
年 には訓示,4
0
,4
2
年 の諮問 と,連年 同趣 旨の検討を加 えている。 こ の ことは県当局が実補整備 をいかに重要視 してい たかを教 えて くれ るが,同時に,そ こか ら当時の 実補普及の不振 ぶ りを窺 い知 ることができるので ある。 これは4
1
年 の訓令において も 「普通教育の 普及 に対 して実業補習学校の不振 なるは甚だ遣感 とす るところな り」 と指摘 されている。実際,町 村か らの設立 ・廃止認可の申請 をひとつひとつ追 ってみ ると,設立後生徒不足 によ りす ぐ廃校 とな るな ど動揺を く り返 しているのが この期の特徴で ある。 ここで実補の重視 にもかかわ らず,何が権桔と な り動揺 を くり近 さね はならなか ったのか, これ をいかに解決 しつつ整備 を進めていったのかを確 認 してお こう。 小学校 の就学 率の低 さと並んで,実補不振の原 田 として,第一 に,4
1
年 の訓令では 「普通教育の 発展 に伴 うて一般青年が漫 に向上心 に駆 られ父兄 の資力を計 らず して只管中学 に人 らん と欲」(ll)す ることを指摘 している。当時の仙台市長であ り, 後 に県報徳会長,農会長 も務め,県政の指導的地 位 にあった早川智寛 も 「自分の分限力量事情の如 何を顧みね はな らぬ児童 な ども少 し物学 びをす る と千人が千人で皆大臣大将 を望んだ り--・羨んだ りして遂 に家業 を卑 しんだ り厭ふた りす る」(12)こ とを実補不振 の要因 としてあげている。 ここか ら 我 々は, 自小作零細農 の中にも一定の教育要求の 高 ま りが存在 していること, しか し,複線型の教 育体系の中で,中学校等への進学 を拒否 し,その 教育要求を実補 に流 し込 もうとす る意図を読み と ることがで きる。つ ま り,実補評価 の第-の見解 において指摘 されているとうり,一般国民の中等 教育-の大衆化を拒否 し,実補 によ り教育機会均 等 の要求をす りかえようとす る意図を読み とるこ とがで きるのである。 第二 に,財政的理 由があげ られ る。郡長 ・教育 会 は,実補不振の原因のひ とつ として,
「要 スルニ 経費 ノ不十分 ナル カタメ・・・・・・成績挙 ラス」(13)と指 摘 している。 この点については後 に町村財政の状 況で も確認 したいが, この諮問 に対す る討議 にお いて も 「之 ヲ挽回シ之 ヲ拡張セ ン トスルニ町村 ノ 経済-其施設 ノ資カナク故 二県 ヨ リ相当 ノ補助金 ヲ交付 シ補導 セ ラレル」(14)よ う建議 している こと か らみて,実補整備 にとって一般的 な,そ して深 刻 な問題であった と思われ るのである。なお, こ れ とかかわ り,凶作時の教育施策 として,この期, 県 は各校独 自の学校基本財産の積み立てを進めて いた ことに注 目しておきたい。 第三 に,財政上の点 ともかかわ り,教員確保が 困難だ とい う直接的 な問題があ った。 これ も明治4
1
年 の知事への県教育会 の答申において,「実業補 習学校増設セ ラレサル-其原田種 々ア リト錐之 二 適当スル教員 二乏 シキ-其一大原因 タル ヲ以テ」 「実業補 習学校教員 ヲ養成 セ ラレル コ トヲ知事 二 建議」(15)している。しか し,教員養成 は一朝一夕に で きるものではない。そのために明治4
3
年 の第2
1
次県教育会では 「実業補習学校の訓導たるべ きも のは小学校本科正教員 と限定 しあ るも」,教員不足 を考慮 して 「資格範囲を拡張 し尋常小学校本科正 教員を有資格者 とな し諸種 の不便 を除 くよ う」(16) 応急対策を提案 している。 以上 の よ うな事情 にみ るように,実補 が町村に 十分浸透す るには,児童の就学確保,財政的補助, そ して教員の量的 ・質的確保 とい う,主に,三つの 課題が克服 されなければならなか った。 しか し, これ らの課題 は,教育会等か らの建議 によ り確認 され る段階 に止 ま り,その達成 は次期以降に持ち 越 され ることになったのである。2
第2
期一実補急増 の時期 明治4
0
年代か ら,先の表1,2
にみ るように, 農業補習学校を中心 として急激 に全県に浸透 して い く.これには後にみるように凶作を契槙 とす る実 業教育振興 とい う背景があるが,直接的には,明-2
2-治44年 の県令 「実業補習学校俸給補助規程」 によ り大幅 な財政的援助がはか られた ことに要 因が求 め られる。 つ ま り,先の建議が ここに実現 した こ とを意味す るが, この県令が発布 され るのを見込 して明治42年頃か ら表の よ うに設立があいつ ぐ。 これ よ り先,本吉郡では独 自に設置 した実補 に対 して郡費の補助を与 えていたが,折か らの財政緊 縮 によ り郡費補助を打ち切 るや3校が廃校 してい ・た。 これにわか るよ うにJ財政的援助が実補 の設 置 と存続 に きわめて重要 な意味を もっていたので あ る。 この県令 の施行によ り実補教員の有資格者 に対 して,県 よ り3分の1以内の財政的援助がな され ることとな った。表
1
の右欄 は町村公費の実補-の支 出額 を示 してい るが,そ こにみ るよ うに,明 治43年 に比 して44年 には実 に3倍の増額 を示 し, これ と併行 して生徒数 も増加を とげていることが 察知で きる。 ここで, さらに重要 な点を指摘 しておけば,捕 助 を受ける資格校 を,第一条のH において 「修業 期間ニ ケ年 以上 トシテ通年教授 ヲ為 スモ ノ」 と限 定 してい ることであ る。県教育会 は知事 に対 して, 「実業補習学 校 は其地方実業の種類習俗財政,及小 学校教育の状況等 を参酌 し且つ通学の便否男女別 昼夜教授 の区別等に依 りて其 の設置計画を定むべ し」(17), と比較的地域 の実情 を重視す るよ う建議 していた。 実際,県令以前 に設置 された実補 のほ とん どが,比較的農業の閑な冬期の2,3
ケ月間, しか も夜間教授 によ り実施 されていた。 また, こ の当時には,例 えば,西多賀,亘理郡 の実補 の よ うに青年団が設立主体 として設置 され るとい うよ うに制度的規制 は緩やかであったのであ るが, こ うした点か らみれば, この県令は実補浸透 の直接 の契機 とな った ものの,他面では各地域の実情 を 無視 して制 度化を進め よ うとす る意図を内蔵 させ るものであ った といえよう。 3 第三期一実補完成の時期 さて,第二期の県 による実補の普及がいかに強 力的に進め られたかは,それ以後の停滞傾向の中 に読み とれ よ う。 しか し, その停滞の中に実補 の 内実が整 え られていった ことも確かである。 これ を基盤に して県 は大正6年 に県令 「義務同様 ノ実 業補習学校 二関 スル件」を発布 し, これによって 実補設置 は町村 に実質的 に義務づけ られ ることに なる。 この県令の内容をみ ると 「尋常小学校卒業後上 級 ノ学校 二入学セサル児童 ヲ必 ス之 二就学セシメ ニ ケ年間義務同様 ノ教育 ヲ施 ス」 とい うよ うに実 補への就学が事実上義務づけ られ, さらに 「当局 者-宜 シク該標準 二則 り地方 ノ実際 二鑑 ミ適切 ナ ル施設 ヲ為ス」 として,設置標準 をあ らか じめ詳 細 に規定 し,内実的な統制 を一層強めてい くので ある。 しか し, この ように制度化を進 め,就学 を 義務づ ける上で,第一期 に指摘 した よ うな課題が 依然 として残 されていたのであ る。 第- に,財政上 の問題 について どの よ うな措置 が とられたであろ うか。 これについて まずみてお こう。例 えは,
「義務化」についての建議 に際 して 牡鹿郡長 は 「実業補習学校 ヲ義務同様施設 スル′、 時代 ノ趨勢 二徽 シ専心其必要 ヲ感 スル ト雄 モ町村 ヲシテ独立補習学校 ヲ設置之 ヲ経営セ シムル-経 済上頗至難 ナル ヲ認 ム」(18)と指摘 してい る。 この 財政上 の問題 の解決をはか るために,県は大幅 に 援助額 を増加 している。それは表1
の 「町村公学 費実業補習支 出」 の急上昇に読み とれ よ う。 第二 に,零細農民の子弟を義務的 に実補 に就学 させ るとい う問題があった。志 田郡で は このため, 町村当局や在郷軍人会,青年 団,農会等 々を実補 の商議員 とし,生徒 を強制的 にか りた てる体制 を 確立 している。 この点は後 に具体的 にみ るが,小 学校を単位 とし,他の教化諸団体 と連携 しあって 奨励がはか られてい ることを確認で きる。 第三 に, これ ともかかわ るが,実科担 当の教員 を確保す るため,大正6年 に県は通牒 「実業補習 学校並 二青年 団体 二於 ケル夜間教授 ノ実科担当教 員 トシテ地方 二於 テ甲種実業学校卒業 以上 ノ資格 老若 ク′、適当ナル篤農家等 ヲ講師又/、嘱託 トシテ 実業教育 ノ振興 二資 スル件」 を発 している。 これ については次 に内容を示 してお こ う。 実業補習学校並青年団体二於ケル夜間教授 ノ件通 牒相成侯二就キテ-其趣旨ノ徹底二関シ夫々指導上 御計画中 卜被存侯-共地方二依 リテ/、実業科担任教 員ノ適任者 ヲ得難キノ不便モ往々可有之承知致侯錐 斯クテ-時勢 ノ進運二併ク実業教育振興上甚夕遺憾 ノ次第二有之侯条是等 ノ地方二於テ甲種実業学校以上 ノ資格 ヲ有スル老若ク-地方篤農家等有之侯′、′、 講師又ノ、嘱託 トシテ採用
〇〇
〇相成実地指導或-請 義等ノ方法二依 り詳料ノ普及振興上遺憾ナキヲ期セ ラレ度尚此趣旨二依 り講師嘱託等御採用相成侯際′、 其 ノ都度左記様式二依 り御報告相成度依命此段及通 牒院也 教師には小学校区の各部落 に居住す ることが奨 励 され,教 務 のか たわ ら村 民 に対 す る教化,育 年 団の指導 の他,
「補 習学校の訓導域は教員を兼 ね,其の教務 を担 当す るか故 に,・・-・多忙 なる, 殆 ん ど寸暇 な く,実 に同情 に価すべ き点」(19)があ った。 しか し, その教師の 「大多数 は技術 (農業 一引用老)方面 に於 て欠 くる所多 Lと断言す るに 蹟錯せず」(20)とい う状態で,とうてい「農業 こ閑 ス ル知識技術 ヲ授 クル」ことは困難である。農民層の 農業に関する教育 ・学習要求の高ま りは後にみ るが, 県の施策はこうした教師の状況に対する対応措置 と 考 えられ よ う。先 の 「義務化」 についての建議で は,牡鹿郡長 は,
「実科 ニア リテ/、可成実業教育履 習 ノ老若 ク-地方実業 (当業)老又郡技師嘱託 シ 実施指導 こ当 ラシム」(21)と提案 していた。 これ らの措置 によ り尋常 ・高等小学校 を卒業 し, 上級学校へ進学 しえない者が実際に就学 を義務づ け られ るよ うになったのだが,それ以降 も制度的 な枠組 の強化が はか られている。す なわち,従来 小学校 に附設 されていたのが併設 と改め られ,刺 度的 には独立の学校 として規定 された。 さらに, 大正1
0
年 には訓令が発布 され,1
村1
校への統合 がはか られ るとともに,(丑 「現在籍生徒-適当ナ ル方法 二依 リテ学力考査 ヲナシ相当学年 二編入 ス ル コ ト」,(参「従来 ノ青年 団夜学会等 二在籍 スルモ ノニッキテ/、前項 同様相当学年 二入学セシムル コ ト」,③ 「其他青年 団員処女会員 ニシテ入学資格 ヲ 有 スル者 ニッキテ-前項 同様相当学年 二皆就学 ヲ 期 セシムル」措置 が とられた(22)。 これ らの過程に よ り,青年訓練所 か ら青年学校-連 なる道筋を辿 る前提が整 えられた とい えよ う(23)0 次に,中埠 村 とい う一行政村を とりあげて,以 上 の よ うな実補 の整備過程を村の農業生産 の展開 や青年期教育の全体的構造の中に位置づ けて考察 しよ うと思 う。.
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ 中枠村の農業構造 と青年期教育
- 農業生産 の特徴 と階層構造1
中埠 村の農業の概 況 農業生産力 の発展 とい う視点か らみれば,宮城 県 におけ る明治末年 か ら大 正期 にか けての時期 は,大 きく2
つ に分ける ことがで きる。その特徴 を前 もって展望 しておけば,後期 (明治35-大正 5年頃)は,連続 す る凶 作 に よ り農 民 層 が窮 乏 化す る一方,米穀検査を契機 として農事改良が積 極的 に進 め られ るとい う特 徴を もつ。 前期 (大 正6年以降) は,農業生産 の安定 ・上昇を基底 と して自小作農民層の経営的安定 と地主 に対す る自 立化が進行す るのである。 この時期区分に沿 って 農業生産の展開を簡単にみたい と思 うが, まず, 中埠 村の農業 の概要をつか んでお こう。 中埠 村の産業構造の一端 を大正4
年の職業別戸 数でみ ると,農業が80.7%で,農村雑業層を加 え る と圧倒的 に農業 の比重 が高 い ことが察知 で き る。 しか も,すでに明治初年 には水田化率が80% を越 え,典 型 的 な稲作単 作 地帯 であ った。 この 稲作に若干の 自給的畑作 が加わ るが,農政の浸透 とい うことや商品生産の進展 とい う点か らは,義 蚕業 が重要 であろ う。表5のように,凶作対策 もあ って明治末年 か ら奨励を受 け,大正以降約3分の 1の農家が これに従事 している。 表5.中埠村の養蚕戸数および収繭高の推移 飼 育戸数 l掃立枚数 収 繭 量 石 石 杖 石 ち 131 79 317.6 314 62 125 102 306.9 270 83 132 121 346.8 327 93 148 148 444.0 394 183 157 165 460.0 515 183 165 160 472_0 502 197 156 143 419.0 413 166 143 167 1,507.0 4,903 2,695 153 177 1.484.0 4.471 3,494 162 184 1,646.0 5.479 3.593 153 ⊥83 1,544,0 5.137 4,233 151 182 1.391.0 4,503 3.405 年 44 2 3 6 7 8 9 11 12 13 -5 2 3 0 7 8 9 9 2 5 2 0 8 5 2 7 9 9 7 6 6 7 7 0 3 4 5 6 6 5 5 9 0 3 9 7 7 9 9 7 注 ;「宮城県統計書」より作成。次に, この農業 を担 う農民層の構成 についてみ てみ よ う。 資料的制約か ら中埠 村 の小作地率 ・自 小作別農家構成 の推移 をみ ることはで きないが, 郡全体をみ れば,明治末 に県内でも最 も地主制進 展 の著 しい遠 田郡 札 表6のよ うに地主的土地所 有 の一層 の進展をみせている。 さらに, この遠 田 郡 は,山形 の庄 内,新潟 の蒲原地方 と並 ぶ大地主 地帯 として著名であ るが, この中埠村の明治
4
3
年 の表7
耕地所有規模別農家戸数 にみ るよ うに,5
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町 の下級大地主1戸,5町以上の小地主2
4
戸 と数が 少 な く, それに対 して3町未満 の自小作層が農民 層 の中核的存在 として厚 い層をなしていた ことが 明 らかであ ろ う。 表 6. 郡別耕地小作地率の推移 (単位 :%) ・地 帯.郡 名 明治20 26 - 33 39 43 . 単 作 也帯 遠 田 55.1 42.3 43.3 48.0 60.3 志 田 31.5 32.7 40.6 49.0 55.0 桃 生 34.6 42.3 47.2 51.3 55.1 登 米 34.4 31.7 39.5 42.6 47.8 栗 原 33.8 31.3 32.7 36.1 39.0 義 亘 理 32.2 36.9 47.7 51.6 50.8 蛋 伊 具 25.8 29.3 33.0 49.9 53.2 也 柴 田 26.2 38.8 43.7 48.3 49.9 帯 刈 田 17.2 25.8 57.3 38.5 42.0 申 黒 川 16.6 22.3 29.0 27.8 44.6 問 宮 城 24.4 31.8 33.9 41.0 41.2 也 名 取 27.2 26.4 25.4 28.3 35.7 帯 牡 鹿 28.4 31.2 38.2 43.1 48.8 山 玉 造 13.3 ll.3 25,4 38.8 39,2 問 也 加 美 17.7 21.9 25.5 25.8 33.9 帯 本 吉 19.3 29.9 17.6 25.1 22.2 都市 仙 台 15.8 ll.9 13.0 32.2 35.4 注 ;『宮城県農民運動史』(中村吉治)より引用。 表7. 明治43年耕地所有規模別農家戸数 (単位 :戸) - 1 1- 5- 10.- 50-価 - ≡和一1
,
【
m
93 78 25 47 12 13 4 1 -59 68 20 41 9 9 6 - -146 121115 47 80 41 2615 8 21 1 次 の表 8で中埠 村 の5
0
町 以上地主 は今野 良助 (明治3
9
-4
3
年,大正2-1
0
年 に村長就任)家であ るが, これ も大正期には村外へ分家を出 し,財産 分与を したため,昭和5
年現在では2
2.
5
町 に転落 してい る。 さらに,主 な地主 をあげてお くと,明 治末年 か ら米穀商 を始め,大正期 には3
5
町余の土 地集積 を とげた佐 々木家,同 じく米穀商で大正期 に2
0
町 に達 した芦 田家があ る。 これ らはいずれ も 大地主 としての成長 を とげ るもので は なか った が,そ こか ら以下の点が明 らか となろ う。すなわ ち,米穀市場 の展開を損汗 に地主的土地所有が進 展 していること, また,時期的には比較的遅 く集 積が行 なわれた こと, しか も,地主 の系譜か らし て当初か ら生産 よ りも流通過程に主 な関心が寄せ られていた ことである。中埠村 は不在地主 の比率 が高いのであるが, これ と相俊 って村 内地主層の 村政支配の基盤は比較的脆弱であった。 2 農民層の窮乏化 と農事改良(
-農民陶冶) さて, こ うした地主層 の対極に位置す る農民層 の状態 を次 に考察 しよう。 それは実補や他 の青年 期教育 の組織 に包摂 され る青年層の客体的 ・主体 的諸条件 を明 らか にす ることになる。 宮城県においては 「維新以来,豊作の極めて稀 なるに反 し,凶作 は既 に数回に及べ り」(24)とい う よ うに, 日露戦争 を前後 して,明治3
5
年 の凶作,3
8
年 の大凶作,4
2
年 の米価大暴落,4
3
年 の大水害, 大正2年 の凶作 とい うよ うに,農民 に立 ち直 る暇 を与 えることな く災害 ・凶作が襲い続 けている。 県全体 の平均収量 に比 した減収率 は,表9のよ う に,明治3
5
年 が5
0.
2
%,3
8
年が実 に8
7.
6
%
,そ し て大正2
年3
8.
4
%
に達 してお り,惨濃た る状況が 容易に想像 され るだろ う。 中埠 村 において も明治3
5
年 の凶作で既 に各区の 備荒倉 は貸尽 され,機能 を全 く停止す る状況に な ったが, この疲弊 の回復 しない3
8
年 には一層可酷 な災害 に見舞われている。 この年 には連続的な冷 害,災害 に加 えて, 日露戦争 による増税,度馬の 徴発,愛国公債の公募 によ りその疲弊 が倍加 され 212 てい ることも見逃せない。没落 して北海道へ移住 466 す る者,流浪老 とな り食 を求めて俳桐す る境偶 に 注 ;1. 遠田郡治一班による。 2. 「小牛田町史」 (中)より引用。 陥入 る窮民が続 出 した。 ちなみに,全県では窮民 と判定 された家 は5
2
%
に達 してい る。 さらに明治4
3
年 には,
「稲 ノ結実最中未曾有 ノ大水害 ノタメ表8 中埠村5町歩以上地主一覧 氏 名 職 業 田 畑 計 自 作 所 在 地 小作人 今 野 良 助 . 農村米 穀 商
〟
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′′長■ 19.0町 3.5町 22.5町 町 中土中埠村〝
′′′
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卒.沼部村〝
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20人 瀬 戸 一 郎 ll.1 3.2 14.3 4.0 ll 今 野 良右エ門 ll.5 0.3 ll.8 2.4 9 今 野 林 拾 8.9 2.9 ll_8 3.0 9 遊 佐 直之進 8.4 3.0 11ー4 3.0 9 小野寺 良 書 9.8 1.3 ll.1 4.0 7 佐 藤 松三郎 9.5 1.4 10.9 4.0 8 相 沢 郁三郎 7.1 1.4 8.5 3.0 5 尾 形 善之進 6.7 1.6 8.3 2.8 中埠 .田尻町中埠 .沼部村〝
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′ 6 芦 田 良三郎 7.4 0.6 8.0 2.5 6 佐々木 四良臨エ門 7.4 0ー3 7.7 2.0 6 戸 部 耕治郎 5.8 1.7 7.5 3.0 5 頗 戸 譲右エ門 農〟
′
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5.9 1.5 7.4 4.0 7 赤 間 与三郎 4,9 2.4 7.3 3.34.0 4 飯 野 文五郎 6.2 1.1 7.3 8 松 田 勇 助 6.8 0.4 7.2 4 佐 藤 惣之助 6.3 0.7 7.0 3.0 中埠 .沼部村中嘩村〝
〝〝
〝
4 佐々木 助治郎 5.3 1.3 6.6 3.0 4 荒 川 正 作 5.7 0.8 6.5 3.0 4 梁 川 良右エ門 4.2 0.9 5.1 4.0 3 表9. 凶作年の減収率 35年収量 平年収量 減収率 38年収量 平年収量 減収率 大正2申収量 平年収量 石 1,151,142石 ′′ 石 石 % 石 1,016,647石 573,219 50.2 142,718 1,151,461 87ー6 626,547 748,708 1,293,823 42.1 314,615 1,325.318 76.3 730,894 1,261.424 219,620 536,726 59.1 193,190 571,481 66.2 461.405 702,480 347,983 729,688 52.3 543,950 745,014 27.0 183,892 885,281 993,107 1,313,612 24.4 1,038.437 1,422,029 27.0 1,355,704 1,534,267 注 ;r
宮城県農民運動史」(中村吉治)より引用作成。 --濁 水本村 -殆 ソ ド全 部氾濫滞水数 日二渡 り至 大 ノ水害 ヲ被 り全 ク収穫 無」 い状態 とな った。 こ うして明治末年 か ら大 正初年 にか けては, 自然的 な災害 と国家 に よる強 力的 な収奪 が相俊 って,良 民層 の絶対的 窮乏化 が極 度 に進 行 した ことがわ か るのであ る。 従来, この窮民 の救済 は,部落 に設 け られた郷 倉 を中心 とした区有籾 , 区有金 の貸付 に よる相 互 扶助 や地主個 人 の金穀貸 付 に よる ものが唯一 の手 段 であ った。 しか し, 窮乏 の極 にひん した この期 になる と地主 層 の郡 ・村 政 を通 じての救済策 が重 要 な役 割 を果す よ うにな る。 と くに中埠 村 の よ う に大地 主 が存在せず,連 続す る凶作 に よ り部落 内 相互 の扶助 が不可能 とな っては,一層切 実 な村政 上 の課題 とな らざIaを えない。 このため 明治38年 には凶作対策 として,今野村長 の もとに県道 以西 の耕地整理 が, さらに明治43年 の水害後 には, 中 埠 ・田尻連合耕地整理組合 を設立 して279.2町 の事 業 を施行 してい る。表10は村 の歳 出の推移 であ る が,38年 につ いて は不 明であ るが,35年,43年 に-表10. 中年村役 場会計 費 目別 支 出割 合推移 (単位 :%)
費目
年度 明治31年 明治35年 明治39年 明治43年 大正 5年 大正 9年 大正12年 大正15年 役 場 . 会 議 費 25.4 28.0 20.8 21.5 27.7 23.7 27.6 27.1 土 木 費 14.7 14.3 0.7 19.3 2.5 9,2 13.0 10.6 教 育 費 38.9 27.6 35.2 30.2 41.4 33.9 42_4 45.5 衛 生 費 0.7 8.7 1.2 0.9 0.7 7.6 8.1 4.3 救 助 費 0.
1 0.
10
0
0
0
-0
警 備 費 9.
6 1.7 2.2 0.2 4.6 0.
1 0.8 0.8 諸 税 負 担 8.6 14.2 5.5 9.4 ll.9 20.5 2.3 1.8 雑 支 出 寄 付 金 0.7 0.7 0.10
2.0 0.6 3ー4 8.3公
債 費 2.8 0.6 1.8 0.9 8.3 1.8 0.9 -財 産 費 3.9 2.3 29.0 0 0 0.6 0.1 -予 備 費 0.3 1.4 1_10
0.9 1.2 0.5 -そ の 他 - - - - 0 0.7 0.9 1.5 注 ;「小牛田町史」 (申)より引用作成。 は土木工事 が突 出 してい る ことが明 らかで あ ろ う。 ここで重要 なことは,災害 ・凶作 に打ちのめ さ れた農民層 の救済 とい う直接の 目標を持ちなが ら も, これを地主層が農事改良の施策 と結びつ ける とい う点で あ る。そ こにこの時期の特殊性が端的 に表われてい る。す なわち,一般的 には, この期 地主たちは,生産力の上昇 ・安定による小作料 の 内包的拡大 と米穀検査を直接の契機 として産米改 良の運動 に取組 んでい くが,中埠 村の地主たち も 凶作対策た る先のよ うな耕地整理 の施行によ り基 盤を整 えつつ農事改良, とくに明治農法の普及 に 取組 んでい く。 これは明治4
4
年の 「中埠村農事奨 励事項」に明 らかである。それは以下の項 目である。1
種子塩水選及短冊苗代 ノ設置。 2 病虫害駆除予防。 3 苗代 跡作。4
養蚕飼育 二関 スル注意。 5 馬耕奨励。 6 滑水 及排水 ノ注意。7
推肥製造奨励。 8 稲 ノ乾燥。 この うち, とくに5,7
項が技術的に重要 とな るが,郡農会 は明治4
3
年 に「馬耕具購入補助規程」
,
35年 「堆積肥料 舎建設補助規程」をそれぞれ設け, 財政的な支持を与 えていた。 こ うした農事改良事業 は,地主層 に とっては小 作料の内包的拡大 を意図す るものであったが,農 民層 自体 にとって も,質- に,生産力の上昇 ・安 定 に よ り経営 が安定す る とい う重要 な意味 を も つ。つ ま り,小作料が固定化 してい るなら小作取 分の増大 となるか らである。第二 に,その ことは また,地主か らの 自立化傾向 と相侯 って農民層の 経営意欲 を促す ことになろ う。第三 に,農民層の 主体的成長 とい う点か らよ り重要 な ことは,それ がいわゆ るサーベル農政 といわれ るよ うに, また 地主 も罰則規定 を設けるなど,国家権力 ・地主 に より強力的に進め られた ものではあれ,従来の惰 性的 ・慣習的農法を脱 して,新たな農業技術や知 識を我が もの とす る農民陶冶の過程 となった こと であ る(25)0 3 農民経営の発展 と自立化の進展 こうした農事改良の浸透 と比較的安定 した天候 が競 いたため,中埠村の米の反収は,大正期に2 石台を記録 し,県や郡を陵駕す るよ うになる。 こ の結 果,地 主層 は契 約 小作料 -実納小作料を実 現す るこ とに よ り小作料 の実質的 増大をはか っ たが, 同時 に, こゆ した農業 生産 力 の上 昇 が小 作料 の固定 化 傾 向 と結 びつ いて小作料率の減少 とな り,農民 層 の側 での余剰部分 の拡大 となった。 さらに,第一次大戦 と資本主義 の発展 を背景 に,「食糧品の需給 均衡 を得 ざる為 め米穀 の価格 は 頻 りに暴騰 し其他 の物価 も亦通貸膨張 の為 めにや 騰貴 し吾人農家 の収入 は頓 に増加す るの好況を星 す るに至」(26)った のであ る。 これ は自小作層 の地主 に対す る経済的 自立化 を 促すが, これ と併行 して地主層が生産力主導層か ら完全 に退 くこととなった, とい う点が重要 であ る。宮城県では,一般 に,大正初期 を境 に して地 主 の寄生化 がみ られ るが,中埠 村で もこの時期 に その傾 向が顕著 となるO[捗各村 の-青年 は, これ を次 の よ うに述べ てい る。つ ま り, 明治末年 か ら 大正初めにかけての産米改良運動の中で地主たち は 「小作米 の速入奨励 ・米質改良の督励」 に取組 んだが
,
「現今 の地主 は徒 に,出費 の多大 な らざる 事 にのみ欲 し,農事改良上資金 を投 じて,利益 を 増 倍 す る事 を欲せ ざるは,極めて愚なる事 と言わ ざるを得」(27)ない, と。 地主層 にかわ る自小作農民層の農業生産力発展 の担 い手 としての,あるいは商品生産者 としての 成長 は,農業技術 の改良や苗代二毛作,野菜 の促 成栽培 の取組 みなどの生産面だけでな く,作物 の流 通販売面へ の関心 を促す が, これ も地主層 とは一 線 を画す る活動 として事業 を展開す る。例 えば, 郡農会が設 けた田尻農業倉庫 を利用 して 「混合保 管共同販売」を展開 した り,中埠 村について も部落 を単位 とした共同販売を始めている。また,購買信 用事業 として明治36年 に設立 された中埠 村信用購 買組合 が,大正期 には全村加入を奨励 し,一層活 発 に展開 され るのであ る。 こ うした 自立化 は,大 地主が存在 しない とい う階級的条件 の もとで,政 治的 に も彼 らに よる村政 の掌握 と結 びつ くことに なる。 これを象徴 的 に示 したのが,大正10年 の 自 小作層 の戸部村長 の就任であ った。 二 青年期教育 の構造 と機能1
貧困児童 の状態 と教育 先 に, この時期 の農業生産 の展開の特徴 を大づ かみにみてきたが,それ とのかかわ りで, 質- に, 教育受容の主体 た る児童 ・青年層 の状態 にいかな る影響 を及 ぼ した のか,第二 に,教育 につ いての 政策的意図の変化 や,第三 に, と くに青年期教育 の構造や機能 にいかなる規定 を与 えたのかを考察 してい こう。 まず,先 に指摘 した よ うな凶作や水害 が児童 ・ 生徒 にいかなる影響 を与 えたのかを学事報告 の中 にみ よ う。 そ こには次 の よ うに触れ られ てい る。 「県下 ノ凶作-其被害激甚 ヲ極 メ小学校教育上 二 及ホセル影響頗ル大ニシテ児童 ノ退学及欠席者 ニモ 多キヲ加-殆 ンド予想ス可 ラサルモノア リ--退学 者八百九十七人前月欠席児童五千五百七十九人ニシ テ出席 ノ児童 ノ内食 ヲ携帯 シ能-サルモノ四千九百 十人学用品 ヲ購入シ能-サルモノ七千二百四十九人 ノ多キヲ達シ尚陸続増加スルノ状況ナ リ」(28) この よ うに成人同様,児童生徒たち も当然貧困 の極 の中で教育 に対応せ ざるをえなか ったのであ る。 これ に対 して義損金や 当局 による救済 がはか 表11.不就学者数の推移 (単位 :人 ) 理 由 & 計 疾 病 貧 困 明治33年 猶 予 699 6,279 ll.013 免 除 741 3.294 34 猶 予 335 3,425 6,⊥27 免 除 630。
1,737 35 猶 予 287 2,258 4.567 免 除 654 1,368 36 猶 予 381 2,758 4,830 免 除 649 1,042 37 猶 予 189 3,217 5,241 免 除 535 1.300 38 猶 予 146 3.359 4,973 免 除 510 958 39 猶 予 191 2,921 4,363 免 除 470 781 40 猶 予 137 2,146 3.228 免 除 410 535 41 猶 予 165 1,803 2,757 免 除 394 395 42 猶 予 272 1,478 2,409 免 除 393 268 43 猶 予 926 1.413 免 除 487 44 猶 予 513 904 免 除 391 大 正 元 年 猶 予 351 688 注;「宮城県統計書」より作成 。られたが,中埠村の-青年 はこれについて
,
「当時 の余等小学 児童 に対 し衣服食糧学用品迄寄贈 され た る事実 に よ り今西 は忘 る ゝ不能所 な り」(29)と回 想 してい る。 表11は,県内の不就学生徒数の推移である。 こ れをみ ると,疾病 ・貧困を理 由 とす る猶予 ・免除 者数 は減少 してい るが, これは県が就学率をあげ るため強力的 な督学奨励をはか り,猶予 ・免除の 基準を引上 げたためであって,決 して貧窮児童 そ の ものが減少 したわけではない。 しか し, この表 の中で も, 明治3
8
年 を前後 して高い数値 を示 して い ることがわかる。 次に,当時 の凶作,また 日露戦争が教育 にいか なる影響 を及ぼ したであろ うか。これについては, 第一 に,教育財政 に及 ぼ した打撃を指摘 しうる。 例 えば,
「時局 ノ教育 二及 ホシタル影響 ノ大ナルモ ノ-教育費 ノ削減 ニシテ殊 二町村教育費 二於 テ甚 タシ トス--町村 ニア リテ-教員給 ノ大 ナル削 減」(30)が断行 された。さらに,明治3
8
年 の凶作 にお いて も,
「町村税授業料等 ノ滞納者続出シ,為 二校 費 ノ支 出-勿論教 員 ノ俸給支出 ヲ延滞スルモ ノ多 ク-・-町村経済 ノ困パ イ甚 シ」(31)と深刻 な打撃 を 訴 えてい る。当時の中埠 小学校の教師のひ と りも 日記 の中で当時の給与滞納に触れているが,また, 先の表10に関 して述べた土木費の著 しい増大 に比 較 しての教育費の低下 にもこの打撃を確認で きる・ であろ う。 第二 に,教育 内容に対す る影響があげ られ る。 この明治後期 は,教科書の国定化や戊申詔書 の発 布 によ り軍 国主義 ・天皇制 イデオ ロギーの注入が 一層はか られるが,他方,日露戦後経営策の一環 と して実業教育の振興がほかられるのは周知のことで あろ う。しか し,宮城県の事例に即 していえば, こ の後者の実業教育の振興 は,凶作対策 としての実 体 を持 っていた といってよいであろ う。例 えば, 凶作が連続す る中で,県 は教育上の施策 として次 の4
点を とくに強 く打出 している。1
実科加設 ノ奨励 実業思想 ヲ養成 スル ト共 二労働 ヲ愛 スル習慣 ヲ養成 スルニ努 メル 2 勤倹貯蓄 ノ奨励 種 々ナル労働 ヲ奨励 シ労 働 二依 リテ得 タル収入 ヲ貯蓄ス 3 基本財産 ノ新設及増殖 4 学校生徒樹栽 とくに注 目すべ きは, そ こにおいて実際的な勤 労作業 と自助 の精神 が貫 ぬかれてい るこ とであ る。生徒 には,特別作業 として封筒張 り,燐寸箱 蛋,縄絢草牲造 りか ら道路修繕,耕地整理 の手伝 いの砂運搬等,成人の凶作対策の施策 となんら変 わ らぬ内容のものが, しか も教育 の名のもとに課 されてい る(32)。また,それを支 える実業思想 とは, 具体的には,「濫 二救済賑他 ノ声 ヲ高 フシ貧民 ヲシ テ徒 こ依頼心 ヲ惹起セシムル ノ弊 ノ避 クル コ ト」 に留意 し,「罷災民 二副業 ヲ授 ケテ 自治 ノ途 ヲ得セ シメソ」(33)とい う報徳教的 な自立更生論 におけ る それである。 精神的 にも,物質的にも荒廃 し,疲弊 しきった ■農村を再興 しよ うとす るとき,教育 に大 きな期待 がかけられる。 そ うした教育実践 には, 自覚的 と いな とを問わずある特定 の人間像が横たわ ってい るであろ う。それを代表す るのが,当時凶作を契 機 として興 った東北振 興論 にお け る人間像 であ る(34)。そ こでは,明治末年 に連続 した凶作 とそれ による農民層の窮乏化の原田を,東北人に特有 の 「無気力」
「不活発 さ」
「保守性」
「停滞性」 に求め る。だか らその対策 についても, この東北人に対 す る侮蔑感,惰民感 に基づいた精神作更, 自力更 坐,備荒貯蓄論等 と,極めて精神主義的に, イデ オ ロギ ッシュに処理 され ざるをえなか った。 こう した特徴 は,先 の施策の中にも明瞭であろ うが, 対策の重点が精神主義的 な処理 に傾む けば傾む く ほ どに,逆 に,政策的に教育が重視 されるの も当 然の ことである。義務教育段階では手工科 が設置 され るが,実補整備 の過程 にみた よ うに,最 も農 村が疲弊 し切 った時期に県が強力にその普及をは かったのも, こ うした凶作対策 としての意 図を背 景 にしていた ことをあ らか じめ確認 してお こう。 2 農村青年教育の二重構造 県当局 は,凶作対策 としての実業教育の振興 と 並 んで,先 に述べた よ うに, この時期 に就学率確 保 を強力に推進 した。 これは前出の表3小学校就 学率出席率の推移か らも窺 うことがで きよ う。そ れによれは,明治3
0
年 までの就学率 は6
0
-7
0%
に とどまっているが,県 ・町村当局,教育会等 によ る強力な督学奨励によ り,明治3
2
年頃か ら急増 し,3
4
年以降 は9
6
%
以上の率を確保 してい る。 こうした督学奨励が,地域 において どの ように進め られたであろ うか。中埠 付におけるそれを簡 単にみてお くと,村の事務報告 において次の よ う に述べ られてい る。つ ま り
,
「教育事務 ニシテ重 ナ ルモノ/、学齢児童 ノ就学 ヲ督責 スル ト共 こ,該職 員 ノ勤惰 ヲ視察 スルニア リ,故 二益 々教育 ヲ奨励 シ,又学校 二於 テ-学校 卜家庭 トニ於 ケル気脈 ヲ 連絡セシメ」 るとい うものである。我 々は先のよ うな農民層の窮乏化,児童の状態を念頭 におかね ばならないが, そのよ うな中で村当局や教師は無 請,地域の有力者,つ ま り地主や重立たちが学齢 児童 とその家 とを掌握 しつつ就学を強力 に進めた ことを知 ることができるのであ る。 この結果,就学率 は急上昇をみせ るのであ るが, 同時に,多 くの欠席児童を生み出 していった こと も表か ら明 らかであろ う。その ことは教育的 な観 点 よ りも,主 に,軍事的 ・兵事的 な点か ら問題視 され,小作貧農 の欠席児童の学力を補 うために, 明治末年 には多 くの村 々で夜学会が設け られてい る。例 えば,明治4
3
年 の事務報告では,
「翌年身体 検査 ヲ受 クべキ壮丁弐月 ヨ リ十一月マデ二二 ケ月 間,小学校 内 ノ夜学 ヲ開キ,校長主催 トシテ,職 員交代教授 ノ任 二当」 っていた とい う。 さらに翌 年か らほ3ケ月間 に延長 され,やがて出席率が確 保 され るようになって後 も,青年団の事業 として 取組 まれている. ここでは補習夜学 は兵事的な観 点か ら強力的に上 か ら組織 されたのであ り,夜学 や補習教育の存在 自体では直抜農民層の教育要求 の高ま りと理解することはできないとい うことに留 意 しなければな らない(35)。 しか し, こ うした強制的な補習教育 と並 んで, 一部農民層 の中 には, 自らの生産 と結 びわ く教育 要求や教育実践 が存在 した ことも確かである。そ れは一般的 な教育要求ではな くて,農業生産 と切 り結ぶ要求であ った。中埠村で も青年の意志 によ って,明治30年代 か ら,農事講習会 とか,同 じく 講話会 なるものが催 され,農村の青年 に農業 に関 す る学理 を授 け る事が流行 した。 こうした講習会 や講話会のよ うな学習形態 とともに,「夜長 の侯 に 夜間若 しくは休 日等 には,学校や其の他 に於 て, 小牛田農学校 の先生松 田円次,鈴木次一郎 (鈴木 元郡長 の令息)や校長中村鉄太郎先生等 を講師 と して農業 に関す る知識 の修得 に努め」(36)るととも に,実際の試作 も試みている。注意すべ きは, こ れ らの青年 が,藩政以来の本百姓で,小地主, 自 小作上層の子弟であるか,規模は零細 なが らも旧 家中の子弟で身分や社会階層 の高い者 に限 られて いるとい うことである。それ は農事改良を進 めた 生産力担 当層 と重 なる階層 であった。 つ ま り, 明治30年代一大正期の教育の構造 は, 凶作 による疲弊 のために小学校を も欠席せ ざるを えない小作貧農層 のための強制的 な補習教育 と, 生産力の発展 を人格的に担 う小地主 ・自小作上層 の自主的 な,高度の農業教 育 とが併存 していたの である。 こ うした,いわ ば青年補 習教育の二重構 造 は,中埠 村にのみ特殊 なわ けではな く,かな り 一般性を有 していた と思われ る。 こ うした中で,凶作を契 機 としなが らも明治末 期 に耕地整理 をは じめ明治農法の普及 ・定着に積 極的役割を果 した地主か ら,大正期 には,自小作・ 小作上層 にまで生産力主導 層 のすそ野が拡が って るのは先 にみた とうりであ る。 しか も, この期 に 紘,農業技術の変革を背景 にその教育 ・学習を媒 介す るもの として農事試験場等が重要 となって く る。中峰 村 の-青年 によれ ば,
「農業学理琉関(
-農事試験場一引用老)発展・し著 しく進歩の度を高 め地方当業者 も之 に学ぶ老 多 く」
,しか も,これ ら の技術 を 「部落又 は組合 を設 けて国 々の田畑 に共 同試作地 を設 けて・--研究 をなす」(37)まで に至 っ ているのであ る。また,
「吾 々当業者 の 自ら,各施 設 (治水潅漑 ・土地改良 ・耕地整理等一引用者) に向ひ利害得失 を認識す るの能力養成 の必要 を 認」(38)め,学校教育のみならず,現在農業に従事 して いる 「農民 の智識補充進歩 を計 る為め,農事巡回 教 師 の依 頼 補 習 学 校 の設 立,農 業 共 進 会 品 評 会」(39)を開催 しているとい うことであ る。実補 の 教師や講師 として地元篤農 家 を招聴す る背景がそ こか ら明 らかであろ う。経営 の安定 と農業生産力 主導層-の一般農民の成長 が,彼 らにまで農業教 育への要求 を自覚化 させた のであ る。 3 農村青年 の統合過程 この節では, ⅠⅠ章 で考察 した県 レベルの実補整 備 の諸施策が,末端市町村 において どの よ うに受 容 されていったのか。それ は,農業生産 の展開や 農村青年教育の構造,とくに,自主的 な農業教育・ 学習活動 とどうかかわるのか。 また, この過程に おいて,農村青年 の統治捺橘 への組織化や地域教 - 30化綱-の編 入がいかにお こなわれ,そ こで どのよ うな教育的価値が内実化 されたのか,を中枠村の 事例 に即 して検討 しよ う。 まず,実補設置 までの前史的条件 として中捧小 学校 の沿革 を示す必要があろ う。 中嘩小学 校は,第七大区第二中学校区に属 し,明 治6年村内の玄松院の一画を借 りて創設 されてい 表12.中埠小学校児童数の推移 (単位 :人) 年 次 男学齢児童数女 計 男在籍児童数女 計 群 霧 Rna22牢 609 157 53 210 67.3 23 142 30 172 24 150 38 188 25 153 33 186 26 147 40 187 27 162 58 220 28 151 60 211 29 177 93 270 30 31 269277 111218 380410 32 43 623 520485■83.4 44 大正 9年 274281 2?4249 508530 注 ;1. 30年と31年の児童数の開きが大きいのは31年 に高等科を新設 したためである。 2. 「小牛田町史」 (申)より引用。 る。続 いて明治8年には新校舎の設立 をみ るが, 学校資金は民費以外に,一般村民 に対 し経費賦課 が強制 され, また地主 な どの有力者 の寄付金 に も 大 きく依存 していた。設立当初 の教師数 は2人, 生徒数 も40名で,就学率は極めて低い ものであ っ たが,表12のよ うに,明治 8年 には生徒数 は既 に 100名を越 え,21年 に至 って210名に達 し,急増 を 続 けている。 この時期 には, しか し,財政的 に も 乏 しく,教師について みても卒業生の優秀者を登 用す るなど不十分なものであった。 しか し, 明治後半期には,着 々とした歩みで は あるが,かの凶作 の打ち続 く中で学校施設 ・教育 課程の整備 がはか られ る。施設面 をみれ ば,明治 29年 に第二校舎を増築 (2,300円),続 いて33年 に も第三校舎 を新築(1,691円)してい る。教育課程 の面 において も
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年 の仮補習科,高等科の併置, さらに高等科には裁縫科が加設 されている。37年 には農業科,38年には尋常科に手工科が置かれ, これ らが包摂 されて明治43年 の実補 の設置 となる のである。 とくに,先にみた ような村財政の逼迫 した中でこれ らが実現 した点を ここで念頭に置か なければな らないだろ う。 この ように,明治後期 までの中埠村 における教 育施策上 の重要課題 は,第一 に,義務教育段階の 外的 ・内的環境 を整備す ることに置かれていた。 第二 に, これ とかかわ るが,生徒数 の推移 にみ る よ うに,就学の督励によ り就学率を上昇 させ るこ 表13. 中埠小学校における学田等の状況 年 度 学 田 小作料定 額 小 作 米価格 小作料実収 預 金 備 考 明治34年 23.122反. 18.497石 175.731円 117.86369.1525石 323.198円 御基本財産 (銀行預金 )こは1捗 余の畑を含む(以下同じ) 35 36 37 38 34.34.27.27.500500828828 28_28.22.35522.355.270270 277.202243.670305.373.164316 41 50..209 39.823 489.913 33.7636 43 44 55_90359.11864.414 43.770 586.518516.753657.037 13.948 江 ;1・ 米価はそれぞれの年の涌谷相場で計算 した。 2. 「小牛田町史」(中)より引用。とが問題の段階であ り, この督学強行の過程で壮 丁教育 とい う視点 か ら欠席児童 の補習夜学 が設 け られたのはみた如 くであ る。第三 に,凶作 によ り 困窮 した児童 の救済 もこの時期 を特徴づ ける施策 のひ とつであろ う。最後 に, これ ら諸施策の財政 的支 え として,学校基本財産 の積み立て,具体的 には,学 田が設置 され る。表13にみ るよ うに,凶 作 ・災害 によ り没落 した農民層の土地集積を進め, 明治末年 には5町,大正初めには6町の学 田を有 す るに至 ってい る。この学 田か らの小作料収入 は, 村教育費全体の約10%に達す る。 町村 においてみれば,具体的 には中埠村の事例 では,明治
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年 になるまでの教育上 の課題 は,義 務教育,つ ま り,小学校教育段階の内的 ・外的条 件 の整備 にあった ことは明 らかであろ う。先 にも 指摘 したが, この段階の整備の完了を待 って,実 補 のよ うな青年期教育の整備が具体的課題 となる のであ る。 中埠 村の実補 は,以上 の経過 を前提 に,明治4
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年 の 「補助規程」 を直接 の契機 として,43年 に農 業補習学校 として設立 されている。 この学則 によ れ ば,
「修業年限ニ ケ年」 (第三粂)とし,
「農業 二 閑 スル知識技能 ヲ授 クル ト同時 二普通教育 ノ補習 ヲナシ実業発達進歩 ヲ図ル
」 (第一条)ことを 目的 に している。入学資格 は「年齢一二歳以上」 (第八 条)で,
「父母若 ク/、後見人又-雇主」(第九条) の許可が必要であ った。授業面 についてみ ると, 授業時数週34時間 の うち農業 に関す る教科が18時 間, うち実習が10時間を占めてお り(第五条),農 業科が重視 されてい ることが窺 える。さらに,
「授 業料-貧富 ノ差 ノ程度 二依 り等級 ヲ定 メ」,1ケ月 1級30銭 か ら10級5銭 まで に分 けて徴 収 してい るO また,その設立時の予算書によれば,県か ら の財政的補助 は全支出額 の24%を占め,補助制度 の重要性を知 ることがで きるが, この支出のほと ん どは教員給与 に振 り向け られていた。以上の よ うに,中埠 村の農補 は, ほぼ 「補助規程」 に沿 っ た内実を有 していた。 ところで, この農補 は,年齢的 には1
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歳以上を 対象 としてい るか ら,それ は小学校 と青年団 とを 接合 させ,学校卒業後 の青年 を組織化す る位置を 占めていた。 この期 の青年期の教育 は,小作貧農 の欠席児童 を対象 とす る強制的 な補習夜学 と生産 力上昇を担 う農民層の青年 の 自主的学習活動の併 存 とい う, いわゆる二重構造 を有 していた。 この 農補 は 「農業 二関スル知識技能」 の修得 と 「普通 教育 ノ補習」 とい う二つの 目的を持 っていたが, 前者 の点では,生産力担当層 の一部青年 はその知 識 を直接農学校等か ら得 るとい うひとつのシステ ムを有 していたわ けであ るか ら,彼 らの教育要求 を満 たす もの とな りえな い の は明 らか で あ ろ う(41)。そ うい う点か らすれば,小作貧農 に対す る 強制的補習教育を, よ り対象を拡 げつつ制度化 し た もの と実体 は変わ らなかった といえよう(42)0 大正6年,県 は県令を発 し,実補 を義務づける とともに,設置標準 を詳細 に定めて,実補 に対す る内容的な統制 卑強めていった。 この県令を受 け た中埠 村の農補 の学 則 変 更 の主要 な 内容は以下 の諸点である。す なわち,(彰修業年限が一律2
ヶ 年 であ ったのが,前期 2ヶ年,後期 3ヶ年,研究 科3ヶ年 と多様 となった。② 内容的には,県令の 設置標準に基づ き各教科 目の授業細 目が学則 に盛 り込 まれ, とくに,修身 については,教育勅語の 主 旨に基づ く道徳 の実践 と 「公民教育 二関スル事 項 二重 キ ヲ置 キテ教授 シ国家及 自治団体 二対 スル 責務 ヲ領得セシムル」 ことがめざされた。③ 旧学 則では,年齢的 に実補 は小学校 と青年 団を接合 さ せ る位置に置かれたが, ここでは青年団 とオーバ ーラ ップし,青年団の事業のひとつに実質的 に組 込 まれた。 ここに農補 は青年団の補習教育のひ とつ に位置 づけ られたが,そ こで重要 な意味を持 ったのは青 年団による就学 ・出席 の奨励である。表1
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のよ う に,中埠農補 は就学率の上昇 によって 「義務化」 の実をあげてゆ くが,村 内の教化諸団体 との連携 の強化が これを支 えてゆ くのであ る。 とくに, こ の就学督励 は青年 団分団 ごとの競争, しか も相互 責任制 によ り強力に進め られた。 さらに, この青 年団 自体が小学校 を単位 とし,役員について も団 零 14・ 中埠農補出席歩合 (単位 :% ) 平 均 最 高 分 団 最 低 分 団 大正6年 86.26 94.25 80.17 7年 83.45 93.74 78.38 8年 90.98 95.33 81.26 9年 92.17 97.06 88.91 注;r県庁文書 学 事編」 よ り作成。長 には村長 ,副団長 には校長,幹事 には男子教 員, 顧 問 には地 主 な ど村 内有力者が就 いてその補導 に 当 ることに よ り指導 は強め られたのであ る。 農補 は, この よ うに実質的 に青年 団の事業 に組 込 まれたが, この補習教 育 は事業 のひ とつであ っ て,他 に教 育的活動 としては講演会,談話会,図 書館巡回文 庫等 が展開 されてい る。他 にも①共 同 生産事業 (共 同試作,作業,貯蓄),②公益風紀事 莱 (社会奉 仕),③神社仏 閣修理掃除及祭把 (神社 奉仕),⑥学 校奉仕,⑤共有林保護,⑥体育や娯楽 事業,等多様 な事業 が展開 されてい るが, ここで は前 の論述 とのかかわ りか ら教育 ・学習活動 であ る論浜会 お よび村農会 と共催 の青年事業展覧会 の 内容を考察 し,そ こでいか な る価値が内実化 され て いるのか をみ よ う。 まず,表15は,大正10年 になるが, この年 に実 施 をみた講 演会 の内容であ る。 それ によれば,育 表15 講演会内容 (大正9-10年) 団員数118名 題 目 ◎日露戦争 卜国勢推移 ・禅的修養 卜青年 ・死線 ヲ越ユル覚悟 ◎青年修養 卜家業 ・現代 卜青年 ◎謁国崩壊ノ訓へ ・新年 ト音年修養 ・大正10年ヲ迎へテ本 団ノ覚悟 ◎軍備制限論 卜青年ノ 覚悟 ・亜比利西出征実三軍 ◎時代ノ要求 卜諸氏ノ 覚悟 ・牛-馬 トノ表徴 卜現 代青年 ◎何ヲカ危険思想 卜云 ノヽン ・疏菜栽培法ノー端 l ・暁ノ自景 卜タノ星光 ◎秋蚕飼育法 ◎本村ノ特徴 卜本団ノ 努力点 ・規律的生活 卜団員ノ 修養 田郷曹長 三浦明禅氏 小牛田農校長 伊藤郡視学 木村智丈氏 菅原小牛田校長 中新田大友師 今野副団長 尾形軍人分団副長 尾形軍人分団副長 高橋山砲隊大尉 和久副団長 吾妻高女校長 木村智秋氏 遠藤農林教授 松島瑞巌寺師 郡農林技手 石部団長 瀬戸幹事 荏;「県庁文書学事編」より作成。 年たちの最 も関心の強 く,要求の高い農業技術 の知 識 に関す るものは
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「疏菜栽培法の一端」 (遠藤小 牛 田農林教授)と 「秋蚕飼 育法」 (郡農会技手)の 2件 に限 られ, 当時 の時代的背景 の中で,軍事的 思想教化が圧倒的比重 を占め てい ることがわか ろ う。農業に関す る ものについては, 実習地成績 の 中で次の よ うに触れ られ てい る。す なわ ち,
「特 二 本校-小牛 田農林学校 二近 ク比較的研究至優 ナル ヲ以 テ生徒 ノ研 究心 自 ラ猛 烈 ノ度 ヲ増 シ ツ ツア リ」 といわれ,生徒 の父母 も 「此 ノ頃 ウチ ノ息子 -葱作 リデ飯時 モ忘 レティマス」
「補 習学校 ノ生徒 ノ稲 - クマゲクモ ソデスネ」(43)と讃 嘆 の声 をあげ てい るとい うことであ る。 この声が実際一般農民 の ものであ るか,疑問が 残 るが,しか し,なに よ り農村青年層 の農業生産意 欲 を支 える学習活動が旺盛 に展開 されてい る点 に 注 目したい。 それ は内容 にみた如 く, 自主的農業 教育 につ らなる内容 を もつ ものであ った。 これ は 次の展覧会 に結 びついてゆ く。 この青年事業展覧 会 は,民力滴養 のため 「青年 ノ事業研究 ヲ喚起 シ テ農事改良 二資 スル ト共 二農村趣 味 ノ誘発」(44)杏 図 る 目的で,青年 団 と村農会が共催 し, 中棒 村小 学校 を会場 として開かれてい る。 その発表 内容 は 種 々であ るが,具体的 にあげ ると,種苗養成,作 物栽培,家畜 ・家禽,養蚕,肥料,土地利用,午 中行事,住宅改善,農家経済改善 か ら地方改良 に 関す るものまで に及んでい る。 最後 に,他 の教 化諸団体 との関連 をみ てお こ う。 実補 は無論,青年 団につ いて も,役員構成や財政 面 において も,制度的 に全 く自主性 を持 ちえなか った。 これ はさ らに,他 の教化諸団体 の網 目に位 置づ け られ,包摂 され る ことによ り一層強め られ る。具体的 には,中梓村 においては以下 の よ うな 趣 旨を もつ 「中埠 村 自治民育会」が設立 され, そ こに実補を含む各教化団体が位置づけ られ, しか も期待 され る機能 が明確に規定 され る。 その趣 旨 をやや長文 であ るが掲げてお こ う。 中埠村 自治民育会設設立趣 旨 町村内各種○能団体の仕事は広い意味の一種の教 育的の仕事 とな ります。 これ等団体の教育的仕事は 学校教育 と区別 して町村民青 と申します。町村民育 活動の内実が自治的 となるに及んで自治民育 となる図1 中 埠 村 民 育 会 系 統 案 一 覧 交通衛生 農林学校 長 涌谷女学校長 雨師範学校長 郡長視学 警察署長 都県農会技師手 く く 戸 主 会 (睦親講) 道徳経済上 ノ調和発達 ヲ計ル タメ村 内十三組 ノ睦親講 ソノ他 ノ会合二於 テ道綾上 ノ談話 ヲナス。 善行者 ノ表彰 ヲナス。 各戸 に納税袋 ヲ配布 シ (未納既納表各別ニアルモノ)納期 ヲ 予知 セシメ令書 ノ保存及納税 ノ便 ヲ計ル。 奨励規定 ヲ定 成績優良者 ヲ表彰 ス。各睦親講員 ヲシテ五 二 督励セ シム。 村有財産 ヨ))生 ズル金額並二寄附金,村基本財産、小学技基 本財産共 二二万五千円二速 スルマデ。 村基本財産 田二畝二十一歩、畑二丁六反八 七六歩、山林二丁 一反九畝二十六歩、債券額面一万円評価計二万十九 円八十五 銭。 学技基本財産 田九丁二反三 七二十五歩、畑七反三 七十三歩 , 山林三丁三 七十歩評価計三万三千九百六十九円五十四銭。 大正三年以来毎年稲立毛品評会 ヲ開キ五二競進 ノ道 ヲ講 ジ大 正九年 ヨリ吏二稲作増収競技会 ヲナ シ増収並二品質改良 ヲ計 ル。大正五年稲種子選種奨励法 ヲ設ケ主 トシテ赤米 ノ除去 ヲ 計 リ且品種選良 二努 メシム。 乾燥法 /改良 ヲ促 サ ンガタメ大正七年以来稲立扮乾煙格技材 料購入斡旋 シ其作業成績 ノ品評会 ヲ行 フ。 養蚕経営上 ノ改善 ヲ図 ラン ト大正三年荻 区二部落養蚕組合 ヲ設立成績優良、漸次村 内二普及 セ シメン トス。 藁綱工品 ノ製造販売 ノ改善 ヲ計 ランタメ副業奨励金 ト カス。 宅地利用 (慧 冨星・諾 慧喜 言霊 言器 竺冨望孟芸 完 ;.7 リ・今後 共同事業 tiE(霊芝諾妄苧冒芸警表芸讐 入、共同販売・稚蚕共同組合 品 評 会 (警 回生産物・酢 ・稲鶴 ・斡 事業等 /展覧会等 ヲ開 村 訓 (芸設諾 三悪F;謡 三雲雷完 警霊芸完 三栗田実施集会 ノ 実行規約 ( 出産婚儀其地謡祝事及葬祭等-成ベ ク質素 ヲ旨 トスペキ事、 道路水路及 工作物-互 二之 ヲ愛護○高 クモコレヲ-損 スル ガ如 キコ トナキ様注意 スル コ ト。学童-理由ナクシテ欠席 セ シメザル コ ト。 敬 老 会 (雪芸言㌘吉諾 岩志蒜 三三誓 言要望量慧㌻講演会的 会 講 演 会 (霊芝諾 霊員雪だ票 冨孟冒::≡;:o各種団休 ノ会員-会 補習教育 ('S芸琵霊讐 左孟宗芸芸警莞 望従事 セルモノニハ男女共柿 事 業 展 覧 会 敬神崇祖 く i く