論 説
日本国憲法無効論とオーストリア
荒 邦 啓 介
1.はじめに 2.菅原裕と日本国憲法無効論 3.オーストリアにおける憲法移行 4.若干の検討 ── むすびに代えて1.はじめに
本稿は、極めてシンプルなものである。それは、以下の一節に係わる問 題について、若干の検討を加えようとするものに過ぎない。 「1938年ナチスによってドイツに併合されたオーストリアは、1945年 ナチスドイツの崩壊により、独立を回復した。その併合自体が違法で あり無効たるべきものである以上、独立回復と同時に固有の憲法が復 活したことは当然であるが、併合の無効と旧共和国の復活宣言は、 1945年4月に行なわれ、旧憲法の復活確認は、翌5月に行なわれた。 /このことはオーストリアはもちろん英、米、仏、ソにおいても是認 したところであって、他国の違法行為によって廃止された本来の憲法 が、後日国家の正常化に伴ない当然復活したことを肯認したもので、現代における先例というべきであろう」 1 。 後にその詳細を見るように、この一節の書き手・菅原裕は、日本国憲法 無効論に基づいたうえで 2 、憲法の効力の「復活」の「先例」として、こ うした1945年のオーストリアの事例を挙げている 3 。 現行憲法が有効か無効かという論点はさておき 4 、無効論に立つ者が、当 時のオーストリアの事例を挙げることは、説得的な議論を展開することに なるのであろうか。本稿において検討を加えてみたいのは、まさにこの点 に外ならない。
2.菅原裕と日本国憲法無効論
ところで、菅原の書いた上掲の一節は、いかなる文脈で出てきたものな のか。ここでは、その点を含め、菅原の日本国憲法無効論について整理を 行っておこう。 1 菅原裕『日本国憲法失効論』改訂版(時事通信社、1962年)69頁。なお、本稿では 引用文中、旧漢字などの一部を改めた。また、引用文中の/は原文における改行を示 し、〔 〕内は筆者(荒邦)による注記である。 2 菅原の主張については、その著書名(前掲注(1))の通り、一時的には日本国憲法 の効力を認めるものであったから、日本国憲法無効論とするよりも失効論としたほう がその論旨をより良く示しているのだと思われる。このことが留意されている先行研 究もあるが(たとえば佐藤功『憲法研究入門』上巻(日本評論社、1964年)131-132頁)、 しかし、①そうした研究にあっても菅原の議論を無効論に括っていること、②本稿の 目的からすると、この点はさして重大な論点ではないことから、本稿では、菅原の議 論も無効論に一応括っておくことにしたい。 3 なお、同じくオーストリアの事例を挙げるものとして、たとえば、井上孚麿『増訂 憲法研究』第15版(神社新報社、1971年)253-254頁、小森義峯『正統憲法復元改正 への道標』(国書刊行会、2000年)2頁、同『現行日本国憲法の包含する諸問題』(国 民会館、2000年)204-205頁、231-232頁。 4 差し当たり、これまでに筆者がこの論点について整理したものとして、荒邦啓介「明1894年10月9日、長崎県の諫早に生まれた菅原は、1918年明治大学を卒 業、1923年から弁護士として活躍した(ただし、1938年文部大臣秘書官に 就任し、弁護士登録を取り消し、後に再登録を行った)。戦後になって、 1958年には東京弁護士会会長となったほか、法務省法制審議会委員や法曹 政治連盟副理事長なども務めた。弁護人として携わった著名な事件として は、五・一五事件の裁判と極東軍事裁判とを挙げることができる。1979 年、この世を去った 5 。 菅原裕という人物は、一介の弁護士であったとはいい難い。とりわけ戦 後になって、憲法問題において見せた彼の動きは、注目されて良いもので あろう。その際、彼が熱心に唱えたのが、日本国憲法無効論であった。 (1)憲法無効論 日本国憲法無効論は、かなりシンプルなものである。たとえば、日本国 憲法の成立を説くときに「憲法の根本建前」とか「法律学的意味における 革命」とかに触れる八月革命説と比べると、そのシンプルさは際立ってい る。 煎じ詰めると無効論とは、いくつかの理由に基づき、日本国憲法を無効 であるとし、その無効の確認と明治憲法の復原とを行い、もしも憲法改正 が必要ならばそこから改憲をスタートさせよ、というものだといって良 い。菅原も、基本的にはそうした主張を行ったわけだが、佐藤功が注意を 促すように 6 、ある時期に限っては日本国憲法が効力を有していたとする 点に特徴があった。 5 菅原の経歴については、法曹公論社編『日本弁護士大観』(国際連合通信社、1962年) 227頁などを参照。 6 佐藤・前掲注(2)131-132頁。
さて、その菅原の無効論は、次の一節に凝縮されている。 「私は、現行の日本国憲法は、如何に『憲法』と名づけても、占領軍 の日本管理法の一つに過ぎない。故に、占領終了と同時に、実質上は 無効となつてゐると信ずるものである。唯我国指導者の無自覚と、実 際上の独立の遅延の為、今日迄、慣行的に、占領憲法が実施されてゐ るに過ぎない。故に、国家としては、一日も早く、形式上も、かゝる 占領憲法の失効を確認し、同時に本来の憲法〔=明治憲法〕の復原を 宣言すべきである。少なくとも此の際、日本国民は、一国固有の永久 憲法は、敵国の一時的占領管理に依つて、根本的に抹殺されるもので ないことを、認識すると共に、此の認識の下に、祖国復興の第一着手 として、国家組織の根本であり、万法の淵源である憲法の自主的復活 を取り上げるべきである」 7 。 このように、①日本国憲法を「占領軍の日本管理法」だと捉えること、 ②それは「占領終了」時に「無効」となっていること、③したがって、日 本国憲法の「失効を確認」して本来の憲法(明治憲法)の「復原を宣言」 せよと求めること、といったものが彼の無効論の基本骨格であった。これ らについて、もう少し細かく見ておくことにしよう。 菅原は、次のようにいう。 7 菅原裕「占領憲法無効論」報国新聞社編『憲法改正の主張』(報国新聞社、1957年) 54頁。
「日本国憲法を無効と解するのは、純法理論に基づくものであって、 日本国憲法が嫌いだからとか、帝国憲法に郷愁を覚えるからといった 感情論や、政治的考慮に基づくものではない」 8 。 そのうえで、①改正の「時期」、②改正の「方法」、③改正の「内容」、 そして④国際法の観点で、日本国憲法を有効な法だと考えることはできな いと論ずる。 それぞれ簡潔に見ておくと、①では、占領下であったことが指摘される。 つまり、国家主権が完全ではなく、国民の意思、国家の意思も自由ではな かったため、そこでの憲法の制定改廃といったことは「当然無効である」、 とする 9 。次に、②では、GHQによる「強度の圧迫」や「脅迫」について縷々 指摘されている 10 。さらに、③では、憲法改正限界説について菅原自身も 「憲法学上正しい見解」だと考えていると述べる。そのうえで、「現行の日 本国憲法自体が、いわゆる改正の限界を逸脱して」明治憲法1条ないし4 条を改正したことを論難する 11 。最後に、④では、GHQのとった占領下で の行動がハーグ陸戦条約に違反しており、そのもとで行動させられた日本 の国家諸機関の行為も違法性を免れ得ず、日本国憲法は無効たるべきもの といわなければならないとする 12 。 こうして日本国憲法は無効であると主張する菅原は、しかし、上述のよ うに、ある時期に限っては0 0 0 0 0 0 0 0 0 、日本国憲法が効力を有していたことを認めて いる。 8 菅原・前掲注(1)31頁。 9 同上31頁以下。 10 同上41頁以下。 11 同上50頁以下。 12 同上54頁以下。
このことは、《占領軍は、占領中であれば、その占領管理遂行のため、 必要なら被占領国の法令を改廃したり、新たに制定することができる》と いう前提があってこそであった。それを踏まえたうえで、日本国憲法とい うのは、「憲法を僭称するけれども、占領軍が日本国の諸機関に指示し、 国家組織の基本に関し規定せしめた占領管理法である」 13 と菅原はいって いる。 ただ、このような占領管理法たる日本国憲法は、先ほどの前提に立つな ら、占領管理遂行のためのもの、という条件がついていることになる。だ から、「その効力も占領期間中に限られ、占領終了とともに失効すべきで あることは言をまたぬ」 14 とされるのである。 菅原にとって、日本国憲法とは、憲法としては当然無効のものであって、 ただし占領法規としては占領中に限って有効なもの ─ このような法で あった。 (2)「復活」とその「先例」 さきほど、菅原の日本国憲法無効論について、①日本国憲法を「占領軍 の日本管理法」だと捉えること、②それは「占領終了」時に「無効」となっ ていること、③したがって、日本国憲法の「失効を確認」して本来の憲法 (明治憲法)の「復原を宣言」せよと求めること、といったものがその基 本骨格であった、と書いた。このうち、①および②については、上述の通 りである。では、③はどうか。 この③に関し、菅原は以下のように述べる。 13 同上58頁。 14 同上59頁。
「日本国憲法を、正統憲法として無効のものと解しても、あるいはま た、占領管理法と解しても、占領終了の今日、この偽憲法が、法理上 効力を有しないことは明瞭である。しかし、いったん法として制定公 布された以上、有権的に無効が宣告されない限り、事実上有効のもの として取扱われることは否定できない。そこで国家としては、法の権 威を保持するため、すみやかにこれが失効宣言をし且つ経過的立法措 置を講じて、理論と実際とを調整しなければならぬ。/すでに偽憲法 の失効が確定すれば、棚上げされている本来の憲法〔=明治憲法〕が、 当然その効力を復活することは申すまでもない。したがって日本国憲 法の無効ないし失効の確認と同時に、帝国憲法の復活が行なわるべき である。ゆえにことさら、帝国憲法の復活宣言をしなくとも、日本国 憲法の失効宣言をするだけで十分である」 15 。 このように菅原は、日本国憲法が事実上有効なものとされている点に鑑 み、その「失効宣言」を行うことを求めた。そして、それによって、当然 に明治憲法の効力が「復活」する、という。 その際、別に明治憲法の「復活宣言」をしなくても良いとしているが、 この点は、「本来の憲法〔=明治憲法〕の復原を宣言すべき」 16 としていた 先の菅原の一節とはいささかニュアンスが異なる。その真意は計りかねる が、ひょっとすると、これについてはどちらでも構わないというのが正直 なところであったのかも知れない。あくまでも、菅原の主張の重心は、占 領管理法たる日本国憲法が長々と事実上有効なものとされてきてしまった ので、その「失効」を宣言し、それと同時に明治憲法の効力が「復活」す 15 同上64頁。 16 菅原・前掲注(7)54頁。
る ─ という点にこそあったと見るべきである。そして、本稿冒頭で触 れたオーストリアへの言及は、ここで登場する。 菅原は、本来の憲法の効力の「復活」は、「無瑕疵の旧法の存在を前提 とし、それが革命もしくは占領等により改廃され、その改廃が重大瑕疵あ るため新法が当然無効たるべき場合」 17 に生じると指摘する。我が国に当 てはめれば、いうまでもなく、明治憲法はここにいう「旧法」であり、日 本国憲法は「新法」である、という扱いになる。 菅原は、こうした事例は稀有であるとするが、その数少ない事例のひと つが、「現代における先例というべきであろう」と彼が指摘する1945年の オーストリアにおけるそれであった 18 。そこでの菅原の言葉は、本稿冒頭 に引用した通りである。 要するに菅原は、1945年のオーストリアにおいて、憲法の効力の「復活」 という事件があったとする。それは、憲法の効力の「復活」というものが 決してあり得ないことではないという証拠である。そして、オーストリア 憲法史に発見できるこの「先例」は、明治憲法の効力の「復活」という主 張を支えるもののひとつとなる ─ このように菅原は考えたのだと思わ れる。
3.オーストリアにおける憲法移行
最初に述べたように、本稿の関心は、無効論に立つ者が、当時のオース トリアの事例を挙げることが説得的な議論を展開することになるのであろ うか、という点にある。 17 菅原・前掲注(1)65頁。 18 同上69頁。菅原は、先述の通り、確かにオーストリアについて言及していた。それ が無効論にとって説得的な素材たり得るかどうかを知るには、彼が取り上 げたオーストリア憲法史上の問題へと接近しておくことを必要とする。そ れゆえここでは、菅原の議論を検討するために必要な限りで、という留保 をつけ、オーストリア憲法史のうち、1945年前後のことを切り出しておこ う 19 。 (1)再 建 オーストリア憲法史、とりわけ20世紀前半のそれを眺めると、「憲法と いうのは硬直した文書ではなく、国民の持つ活発な政治的・歴史的な力の 表れである」 20 という言葉には、頷かざるを得ない。少なくとも、憲法が まったくもって硬直的ではなかったという点は、疑いようがない。 1918年から1966年までのオーストリア憲法史について、エルマコラは、 5つの時期があったと整理している 21 。その整理に従うなら、本稿におい 19 オーストリア憲法は、「極めて多種多様な法規範から構成されている」と指摘され るように(国立国会図書館調査及び立法考査局『各国憲法集(3)オーストリア憲法』 (国立国会図書館調査及び立法考査局、2012年)3頁(渡邊亙執筆))、その構造がい ささか複雑である。すなわちそれは、①連邦憲法(Bundes- Verfassungsgesetz)、② 憲法法律(Verfassungsgesetz)、③憲法規定(Verfassungsbestimmung)によって 構成されている。ただ、本稿ではそうした点には最低限の注意を払う程度としておき たい。なお、オーストリア憲法の構造については上記文献のほか、渡辺久丸『現代 オーストリア憲法の研究』(信山社、2006年)22頁以下、槇裕輔「オーストリア共和 国における憲法とその法源」法政論叢43巻2号(2007年5月)145頁以下など。また、 1945年前後のオーストリア憲法の状況については、奥正嗣「オーストリア共和国の連 合国による管理(1945-1955年)(1)~(3・完)」国際研究論叢28巻2号(2015年 1月)、同3号(同3月)、29巻1号(同10月)によって、すでに十分な概観が提示さ れている。また、通史的・概説的なものとして、高田敏「オーストリア連邦 解説」 畑博行ほか編『世界の憲法集』第5版(有信堂高文社、2018年)。 20 Ludwig Jedlicka, Verfassung- und Verwaltungsprobleme 1938-1955, in: Institut für Österreichkunde, Die Entwicklung der Verfassung Österreichs vom Mittelalter bis zur Gegenwart, 2. Aufl., 1970, S. 137. 21 Felix Ermacora, Österreichische Verfassungslehre, 1998, S. 50.
ては、第4番目の時期 ─ 1945年4月の独立宣言から始まって1955年の オーストリア国家条約に至るまで ─ が最も注意を向けられるべき時期 だということになる。なお、エルマコラの整理に基づく第4の時期は、① 1918年から1920年の共和政国家の形成期、②1920年の連邦憲法に基づく 1920年から1929年の時期、③1934年憲法に基づく1933・34年から1938年ま での一党支配体制期と、1938年から1945年までのドイツによるオーストリ アの占領期に続くものとして描かれている。 この第4の時期のキーワードは、《再建》 ─ Wiederherstellung ─ で あろう。1955年5月15日に調印されたオーストリア国家条約は、独立した 民主主義的なオーストリアの再建に関する条約であることがそのタイトル となっていた 22 。1945年の独立宣言から1955年のオーストリア国家条約に 至るまでの時期とは、つまるところ、独立と民主主義とを再建するための 道のりであった。 (2)1945年4月27日 1938年のアンシュルス以後、オーストリアは、ナチス・ドイツとその命 運をともにする立場にあった。そのオーストリアにソ連軍が入ったのは、 1945年3月のことである。翌月には、ソ連軍はウィーンに至った。 そのソ連の中心地・モスクワでは、オーストリアの行く末に係わる重大 な宣言(モスクワ宣言)がすでに1943年11月の段階で発せられていた。こ の宣言は、1943年10月19日から30日にかけて行われたアメリカ・イギリ ス・ソ連の3か国代表による会談の結果、出されたものであった。 22 なお、本条約20条に基づき、条約発効(7月27日)をもって、後述の連合国理事会 による管理協定はその効力を失うこととなった。Ludwig Adamovich, Handbuch des österreichischen Verfassungsrechts, 6. Aufl., 1971, S. 38.
同 宣 言 の 内 容 を 見 て み る と、 ド イ ツ に よ る オ ー ス ト リ ア の 占 領 (Besetzung)を無効だとした最初のものであった点は 23 、注目に値する。 とはいえ一方で、オーストリアは今次の戦争におけるドイツの共犯として 責任を負うべきことも指摘されていた 24 。また、オーストリアの独立の再 建が望まれるとされつつも、将来の憲法について特に何かが言及されてい たわけでもなかった 25 。 話を再び1945年に戻す。4月15日には、オーストリアに関するソ連政府 の宣言が出されている。そこには「赤軍は、1938年までのオーストリアの 状況が再建されることに寄与する」とあったが、これは権威主義的な憲法 を再度採用することを意味し得るものであったとの指摘がある 26 。ただ、 現実には、その後のオーストリアの憲法は、同月17日段階でカール・レン ナーがある手紙に書いていたように 27 、1920年の連邦憲法の立場に沿った 展開を見せていくことになる。 上述のモスクワ宣言の内容を基本的に踏襲したものだといって良いの が、1945年4月27日のオーストリアの独立宣言である 28 。そこでは、①同 国は、民主主義的な共和国として再建され、1920年の憲法の精神のもとで 設立されるものとすること、②1938年にオーストリア国民が強いられたア ンシュルスは無効であること、③この宣言を実施すべく、反ファシズム政 党の参加のもとで暫定政府(provisorische Staatsregierung)を設け、連 合国の権利を留保しつつ、暫定政府に完全な立法権と執行権とを委ねるこ 23 Ermacora, a. a. O.(Anm. 21) , S. 61.
24 Hans Spanner, Die Entwicklung, in: Herbert Schambeck(Hrsg.) , Das österreichische Bundes-Verfassungsgesetz und seine Entwicklung, 1980, S. 46. 25 Jedlicka, a. a. O.(Anm. 20) , S. 135.
26 Ebenda. 27 Ebenda, S. 135f.
28 Ermacora, a. a. O.(Anm. 21) , S. 61. Friedrich Walter, Österreichische Verfassungs- und Verwaltungsgeschichte von 1500-1955, 1972, S. 299.
と、などがいわれていた 29 。 ところで、この独立宣言は4月27日付となっているが、それが掲載され た法令公報の発行は5月1日付である。これと同じく、4月27日に作ら れ、5月1日付の法令公報に掲載されたものが、独立宣言のほかに2つ あった。「暫定政府設立に関する告示」と「政府声明」とが、それである。 後述のように、これら3つのものは共通の考えを基礎としていた。簡単 に、暫定政府設立に関する告示および政府声明の内容を確認しておこう。 まずは、暫定政府設立に関する告示である。この告示では、カール・レ ンナーをトップとした暫定政府が設立されることに加えて、普通・平等・ 自由選挙のもとで選ばれた議会を招集するための準備を政府がすぐに行 い、戦況が許すならこれを実施し、議会に対して直ちに報告をするといっ たことが記されている 30 。なお、暫定政府の構成を一応確認すると、上述 のようにレンナーが首相(Staatskanzler)を務めたほか、3人の無任所 の長官(Staatssekretär)が置かれ、加えて、内務・司法・財務などの行 政を分担する長官が9名、さらに合計17名の次官(Unterstaatssekretär) が置かれた 31 。このうち、首相と、その政治的助言者たる無任所の長官と が、政治的内閣(politischer Kabinettsrat)を構成した 32 。 29 StGBl. Nr. 1/1945. 本 稿 で は、 オ ー ス ト リ ア の 法 令 公 報 に つ い て、RIS (Rechtsinformationssystem des Bundes)(https://www.ris.bka.gv.at/Bund/) を 参 照した(最終閲覧日2020年9月15日(以下同じ))。 30 StGBl. Nr. 2/1945. ところで、この告示は、レンナー首相ひとりの署名が末尾に備 えられて発出されている。それと比べると、先述の独立宣言には、レンナーを含む各 政党の指導者たち4名の署名がある。また、後述のように、政府声明には暫定政府の 面々の署名がある。恐らくこのことを踏まえたうえで、暫定政府設立に関する告示の ことを「首相の告示」(Kundmachung des Staatskanzlers)と呼ぶこともあるようで ある。Vgl, Adamovich, a. a. O.(Anm. 22) , S. 30. Walter, a. a. O.(Anm. 28) , S. 299. ただ、暫定政府設立に関する告示と首相の告示とを、恐らく別々のものと扱っている と思しき文献として、奥・前掲注(19)「(1)」59-60頁。
政府声明のほうは、暫定政府の基本的な方針を示したもので、レンナー 首相および全長官の署名を備えて出されている 33 。 上掲の独立宣言、暫定政府設立に関する告示、政府声明は、アダモ ヴィッヒ ─ 後に見る暫定憲法に関して政府の顧問を務めた 34 ─ によ ると、国際法上の継続性(Kontinuität)の理論に依拠したものだとされ る 35 。独立宣言が取り上げられた著書では、次にようにいわれている。 「1945年4月27日の独立宣言は、第一共和政と第二共和政とのあいだ での国際法的な継続性の思想に由来するものであった。それによれ ば、ドイツとのアンシュルスの時代のオーストリアは、国家として、 併合(Annexion)によって滅びていたわけではなく、ただ占領 (Okkupation)によってその行為能力が一時的に失われていたのであ る」 36 (下線部は原文ゴチック)。 こうした理解は、当時のレンナー政権でも採られていたものであっ た 37 。それは結局のところ、1945年4月27日のオーストリアは1938年3月 13日のオーストリアと同一の国家であり、一貫して同一の国際法主体で あった、という考えだといえる 38 。その立場からすれば、第一共和政はずっ と第一共和政のままだ、といっても良い 39 。 33 StGBl. Nr. 3/1945. 34 Jedlicka, a. a. O.(Anm. 20) , S. 136. 35 Adamovich, a. a. O.(Anm. 22) , S. 30. 36 Ludwig K. Adamovich/Bernd-Christian Funk/Gerhart Holzinger/Stefan L. Fank, Österreichisches Staatsrecht, 2. aktualisierte Aufl., 2011, Bd. 1, S. 93. なお、国際法学 における「行為能力」に関する議論については、差し当たり、山本草二『国際法』新 版(有斐閣、1994年)122頁。 37 Vgl, Walter, a. a. O.(Anm. 28) , S. 300. 38 Vgl, Ermacora, a. a. O.(Anm. 21) , S. 103. Spanner, a. a. O.(Anm. 24) , S. 47. 39 Wilhelm Brauneder, Österreichische Verfassungsgeschichte, 11., durchges. Aufl., 2009, S. 262.
1945年4月27日というタイミングは、連合国側がすでにオーストリアに 入っていたとはいえ、いまだ一部ではドイツ軍による占領が続いている時 期であった 40 。そうしたなかにあって、独立と民主主義との再建のために、 1920年の連邦憲法に基づくということが定まった。民主主義的な共和国で あるということは、蓋し議会政治が停止してしまった1933年から1938年の アンシュルスまでの時代の続きであるということへの拒否であったといえ る 41 。 こうして、1945年4月末、オーストリアは、アンシュルス(1938年~ 1945年)を経てもなお一貫して同一の国際法主体であり続け、また、民 主主義的とはいえない時期(1933年~1938年)とのつながりも拒絶し た。オーストリアは、こうした考えのもと、再建の道のりを歩んだので ある。 (3)憲法移行法と暫定憲法 この再建の道のりで登場した特徴的な法として、憲法移行法と暫定憲法 とを挙げることができる。むしろ、先に触れた独立宣言などでいわれてい たことの実現は、この2つの法によってなされたといって良い 42 。 この2つの法は、上述の独立宣言などが掲載された法令公報(1. Stück) と同日付で発行された法令公報(2. Stück)に掲載された。独立宣言を出 したことや暫定政府を設立したことと並んで、この2つの法の制定を、「暫 定政府による極めて重大な措置」 43 であったとする評価がある。そのため、 40 Ebenda, S. 257.
41 Leopold Werner, Das Wiedererstehen Österreichs als Rechtsproblem-Ein staatsrechtlicher Rückblick, Juristische Blätter, Jg. 68, Heft 5, 1946, S. 85. 1933年3 月の国民議会の「自己停止」(Selbstausschaltung)については、参照、エーリヒ・ツェ ルナー著(リンツビヒラ裕美訳)『オーストリア史』(彩流社、2000年)622-623頁。
この2つの法をここで見ておきたい。 憲法移行法(Verfassungs- Überleitungsgesetz)は 44 、全7か条からな るもので、1945年5月1日から施行される旨の規定が置かれていた(6 条)。同法では、独立宣言などの趣旨を踏まえて1929年の連邦憲法を再度 有効なものとすることに加え、廃止される法令のこと、さらには後に触れ る暫定憲法のことなどが定められた。 いくつかの条文を確認しておく。まず、1条では、1933年3月5日の立 法状況を基準として、①1929年のテキストでの連邦憲法、②その他のすべ ての連邦憲法法律、③通常の連邦法律に含まれる憲法規定を再び有効なも のとする、とされた。また、2条は、1933年3月5日以降に公布されたす べての連邦憲法法律などが廃止される旨の規定であった。3条では、廃止 される法令が特に個別に明示された。例えば1934年の憲法は、ここで挙げ られている法のひとつである。 ところで、後年オーストリアの行政裁判所や憲法裁判所でも活躍した ヴェルナーは、「連邦憲法を完全に実効的なものにするという、国内にお ける最も重要な問題」を扱うのが4条であったと指摘している 45 。同条1 項2項は、以下のようなもので、暫定憲法に関する規定であった。 「(1)当分のあいだ、オーストリア共和国の暫定的設立に関する憲法 法律(暫定憲法)の諸規定は、1933年3月5日以来のオーストリアに おける議会活動の停止や強制された併合(Annexion)、あるいは戦争 44 StGBl. Nr. 4/1945. 45 Werner, a. a. O.(Anm. 41) , S. 87.
の結果、事実上、実施不可能なものとなっている1929年のテキストで の連邦憲法の代わりとなる。 (2)前項の憲法法律は、普通・平等・直接・秘密投票の比例選挙法 に基づき選出された最初の議会の招集後、6か月で失効する。」 ここで示されているように、1945年5月以降、オーストリア国内の統治 は、第一共和政のもとでの連邦憲法がいきなり用いられるのではなく、暫 定憲法にしたがって行われることとされた。ただし、それは期限付きのも のであった。 では、次にその暫定憲法(Vorläufige Verfassung)へと目を向けよ う 46 。それは、いわばこのときの統治のための基本法の体をなしている。 暫定憲法は、総則、政府、立法、行政、裁判権、会計検査、行政裁判所、 附則の8つの章、全50か条によって構成されていた。同法は、憲法移行法 と同じく、1945年5月1日から効力を有するとされた(49条)。 いくつかの条文も個別に見ておくと、1条では、オーストリアは再び民 主主義的な共和国として設立されるという、従来からいわれていた基本路 線がここでも明示されている。暫定政府の地位を示す基本的な条項として は、7条を挙げることができる。同条は、暫定政府がオーストリア共和国 の最高機関である旨の定めであったが、しかしそれは、普通・平等・直 接・秘密投票の比例選挙法に基づいて新たに選ばれた議会が招集されるま で、という条件付きのことであった。 暫定政府については、さらに、その構成(8条)、政府内での首相の地 位(9条)、首相と無任所の長官とがメンバーである政治的内閣(10条) のことなどが定められた。政治的内閣は、対外的にオーストリアを代表す 46 StGBl. Nr. 5/1945.
る役割を担う(23条)ほか、たとえば一定の条約の締結を行う(24条1項) などとされた。 また、立法権(1929年のテキストでの連邦憲法に基づき連邦と各州とに 属するもの)については、議会が招集されるまでのあいだ、暫定政府が行 使するものとされた(18条)。この点は、前述の4月27日の独立宣言の内 容に対応している。なお、立法にも関係することとして、中央行政につい ては「法律の根拠に基づいてのみ」行われるという、法律による行政の原 理を定めた条文が置かれている(37条)。 ところで、この暫定憲法の特徴は、まさしくそのタイトルにあったとい える。法令公報では、同法は「オーストリア共和国の暫定的設立に関する 憲法法律(暫定憲法)」という名称となっている。ヴェルナーは、立法者 がこの法を《暫定憲法》として特徴づけたことに強く注意を向ける 47 。い みじくも憲法移行法4条1項が示していたように、国家社会主義に基づく 統治の崩壊や連合国によるオーストリアの占領といった当時の情勢は、 1929年のテキストでの連邦憲法へと即座に復帰することを困難にしてい た。実際、大統領選挙に関する規定や、中央・地方の権限に関する規定な どは、実施不可能であったとされる 48 。同憲法の事実上の実施不可能さに よって生じる《空白》を埋めるべく制定されたのが、暫定憲法に外ならな い。 加えて、ヴェルナーによれば、暫定憲法であるということは、憲法移 行法1条によって再導入される連邦憲法が暫定憲法によって廃止される というわけではなく、上述の空白を埋める憲法的暫定措置が作り出され ただけだ、ということを意味した 49 。したがって、連邦憲法それ自体は、 たしかに事実上実施不可能であるにせよ、「潜在的な法として」存在し続 47 Werner, a. a. O.(Anm. 41) , S. 87. 48 Ebenda. Adamovich, a. a. O.(Anm. 22) , S. 31. 49 Werner, a. a. O.(Anm. 41) , S. 87.
けているといえる 50 。また、あくまでも連邦憲法の代わりのものでしかな いという暫定憲法の性格は、暫定憲法の有効性について「関係的・時間 的な限定」があることによっても強調されているのだと、ヴェルナーは 指摘した 51 。 (4)第2次憲法移行法と憲法移行の完結 さて、こうした暫定憲法がその役目を終えたのは、1929年のテキストで の連邦憲法が再実施された日、すなわち1945年12月19日のことであっ た 52 。そこに至るまでの経緯について、以下、簡単に追跡しておこう。 12月13日、憲法レベルでの暫定政府による最後の措置のひとつとし て 53 、第2次憲法移行法(2. Verfassungs- Überleitungsgesetz 1945)が制 定された(同18日付の法令公報掲載) 54 。 同法は6か条から構成された。具体的には、新たに選出された国民議会 (Nationalrat)について、その第1回会議のために暫定政府が招集を行う 旨の規定(2条1項)のほか、連邦の立法権については連邦参議院 (Bundesrat)とともに行使すること(3条1項、なお連邦参議院の設立 については同2項)などとする規定も置かれていた。 同法ではまた、最初の連邦大統領の選出方法についても定められてい た。それによると、連邦大統領は、1920年の連邦憲法にのっとり、連邦会 50 Ebenda.
51 Ebenda. な お、Leopold Werner, Das Wiedererstehen Österreichs als Rechtsproblem-Ein Nachwort; zugleich ein staatsrechtlicher Rückblick auf das Jahr 1946, Juristische Blätter, Jg. 69, Heft 7, 1947, S. 137.
5 2 R o b e r t W a l t e r / H e i n z M a y e r , G r u n d r i ß d e s ö s t e r r e i c h i s c h e n Bundesverfassungsrechts, 6., durchgesehene und erg. Aufl., 1988, S. 31. Walter Berka, Verfassungsrecht, 7. Aufl., 2018, S. 11.
議(Bundesversammlung)によって選ばれることとされた(5条1項) 55 。 連邦会議は、連邦大統領の選挙を行うために、国民議会および連邦参議院 の招集後、国民議会議長によってすぐに招集される、ということも定めら れた(5条2項)。 この第2次憲法移行法の制定よりも前に、すでに国民議会などの第1回 目の選挙が実施されていた。11月25日に行われたその選挙は、10月に制定 されていた選挙法(Wahlgesetz)に基づいて実施された 56 。そして、先ほ どの第2次憲法移行法によって、12月19日に国民議会が招集されたのであ る。さらに同日、連邦大統領も選出された。周知のように、選ばれたのは、 暫定政府で首相を務めたレンナーであった。 先に述べたように、この12月19日をもって、連邦憲法が完全に再実施さ れたのだとされる。ここに、憲法の過渡的な状態が解消されたことにな る 57 。第一共和政以来の政治家・レンナーが大統領に選ばれたという出来 事は、ここまで進められてきたことの「クライマックス」であった 58 。と 同時に、暫定憲法が失効したのである 59 。 (5)管理協定 ところで、1945年12月19日の国民議会では、あるひとつの議決がなされ たという。 55 なお、この規定は、1929年12月に定められた大統領の選出方法(国民による直接公 選)とは異なるかたちで大統領を選ぶ、ということを定めるものであったことになる。 Werner, a. a. O.(Anm. 53) , S. 108. 56 StGBl. Nr. 198/1945. 57 Adamovich, a. a. O.(Anm. 22) , S. 33. 58 Werner, a. a. O.(Anm. 53) , S. 108. 59 なお、暫定憲法の失効後(つまり連邦憲法の再実施後)、暫定憲法のもとで 制定公布されてきた法の有効性について、Leopold Werner, Das Wiedererstehen Österreichs als Rechtsproblem-Ein Nachwort; zuglaich ein staatsrechtlicher Rückblick auf das Jahr 1946, Juristische Blätter, Jg. 69, Heft 8, 1947, S. 164.
アダモヴィッヒによると、国民議会はこの日、特別な憲法法律によって 憲法移行の完結を確定しようとした。その憲法法律は、1929年のテキスト での連邦憲法について制約なく再び有効なものとすることを確認するもの であったが、連合国理事会(Der Allierte Rat)による同意が得られなかっ たためにそれが公けにされることはなかった 60 。このことは、連合国の管 理協定が関係している。 管理協定とは、オーストリアの関与なしに、4つの連合国(アメリカ・ イギリス・フランス・ソ連)のあいだで1945年7月4日に締結されたもの で(第1次協定)、翌年6月28日に改定されている(第2次協定) 61 。 この協定によると 62 、オーストリア政府は、法律の議決や、締結しよう とする条約のすべてについて、法令公報で公布して効力を生じさせる前 に、連合国理事会に提出しなければならなかった(ただし、4つの連合国 のいずれかと結ぶ条約については、その締結後に連合国理事会へ通知する だけで良い、とされた)。 特に憲法法律(Verfassungsgesetz)については、連合国理事会がそれ に対し文書によって同意を与えたときに、初めて公けにされ、効力を有す るとされた。なお、通常法律(einfaches Gesetz)の議決と条約に関して は、その案が連合国理事会に提出されてから31日以内に異議が唱えられな ければ、連合国理事会の同意があったとみなされる、ということにもなっ ていた。 この管理協定がある限り、オーストリアは連合国の制限のもとにあり続 けなければならない、ということになる。その姿は、到底、主権国家であ るとはいえなかった 63 。エルマコラがいうように、1929年のテキストでの 60 Adamovich, a. a. O.(Anm. 22) , S. 33. 61 Ebenda, S. 34.
連邦憲法が有効になることがオーストリアの独立を意味するわけではな かった 64 。結局、連合国による占領期というのは、オーストリアにとって 「自由意思なき憲法復原(Verfassungsstabilität)」 65 の時代であり、その回 復は、1955年まで待たなければならなかったのである。
4.若干の検討 ─ むすびに代えて
本稿の関心の向き先は、冒頭で述べたように、菅原裕の著作中に見られ た一節について、無効論者にとってそれが説得的な議論を展開することに なるのか、ということにある。 オーストリアの事例からは、確かに菅原がいう通り、憲法の「復活」と いうべき事態を発見することができる。ただし留意すべきなのは、そうし た「復活」が、オーストリアにとって「自由意思なき」時代に行われた点 であろう。 とりわけ憲法問題としては、連合国占領下のオーストリアにおける憲法 法律について、連合国側の同意を要する仕組みとなっていたところに、そ の「自由意思」の無さが端的に表れていたといって良い。1929年のテキス トでの連邦憲法を「復活」させたのは(第1次)憲法移行法であったが、 ほかならぬ憲法移行法 ─ 同法も憲法法律であった ─ についても、 1945年11月、連合国側が同意を与えるということがあったようである 66 。 こうした1945年のオーストリアの状況は、日本国憲法無効論にとって、そ の主張を補強してくれるものとはいい難い。 本稿でも取り上げたように、菅原は、日本国憲法が無効であると述べる 際、改正の「時期」について触れていた。すなわち、占領下という、国家 64 Ermacora, a. a. O.(Anm. 21) , S. 63. 65 Ebenda. 66 Jedlicka, a. a. O.(Anm. 20) , S. 137.主権が完全ではなく、国民の意思、国家の意思も自由ではなかった状況下、 そこでなされた憲法の制定改廃といったことは「当然無効である」という ものであった。もしかすると、憲法の「復活」だけは例外的に占領下で あっても認められる、という理解もあるのかも知れないが、そうした理解 は一貫性を欠くもののように感じられる。 つまるところ本稿の結論は、1945年のオーストリアにおける「自由意思 なき憲法復原」の事例には、菅原の主張を補うだけの力はないであろう、 というものである。