帝国期日本の法学者の婚姻史研究と東アジア —「招婿婚」概念の成立と展開を手掛かりに—
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(2) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日) (3). この進化道程は大体間違ひなく推断せられるように思はれる」。その上で中 川は、柳田の「聟入考」を日本における婚姻の「進化道程」を証する根拠と して引用し、それは「古代の招壻的形式の名残りとして説明されることだろ (4). うと思ふ」という。中川の婚姻史分析は世界の婚姻史が普遍的発展段階に基 づくという前提に立っており、その世界的な歴史研究の枠組みのなかで柳田 の民俗学的研究を扱うことにより、 「婚姻風俗は今と昔と丸で変つて居るが、 それが何時から変つたか、又如何なる事由に基づいて変つたか」という柳田 の問いに応じたのであった。 しかしこの中川の整理は、戦争をまたいでさらに 10 年後の 1948 年、有賀 喜左衛門によって批判される。有賀は柳田の「聟入考」が「庶民婚姻に於け る聟入中心の婚姻と嫁入中心の婚姻との二形態が存在する事を示し、前者か ら後者へ推移した事とその推移は武家婚姻の模倣に依るものである事とを説 いた」と説明し、特に柳田が日本の婚姻について、それが「聟入」と「嫁 入」という「二つの部分から成立してゐる関係を明確にされた事は、婚姻史 (5). 研究に於いて非常に重要な意味を持つてゐる」としてその意義を強調した。 他方で中川の分析については、国外の研究で論じられている「matrilocal (母方居住)と patrilocal(父方居住)との関係」のなかに「不用意に日本の. 婚姻慣行を混入させて説明した」と批判し、中川の見解は柳田とは異なって いると指摘する。「日本の婚姻の儀式は聟入と嫁入との二つの手続によつて 成立してゐるのであつて、聟入を中心とする方式と嫁入を中心とする方式と が取り上げられたとしても、そのいづれも嫁入又は聟入を欠くわけではな い」ことが柳田の見解の前提とされているのであり、その片方しか手続き中 (6). に存在しない「招婿婚と娶嫁婚と混同する事はできない」。 確かに、中川の「婚姻史概説」のみからは、 「日本の婚姻慣行」がなぜ世 界普遍的な歴史の枠組みのなかに位置付けられうるのか、ということを読み 取ることは難しい。ただこれはあくまで「概説」であり、中川の婚姻史研究 が世界の婚姻史と日本の婚姻史とを結びつけたことが「不用意」な所為であ ったかどうかは、より慎重な判断が求められるように思われる。特にここで 焦点となっている「招婿婚」という概念の持つ意味については、今まで十分 な検討が加えられてこなかった。後に高群逸枝が語源として中国における 「招婿」の語を挙げ、家父長制下で貧家の男子が他家に入って労役する「入 婿婚」を意味する「贅婿」と同義の語であると指摘し、日本の「招婿婚」概 51.
(3) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 念は、意味は異なっているが元はその語を「転用したものと思われる」と推 測し、}matri local marriage~の訳語としても「招婿婚」の語が使われる場 (7). 合があることにも触れている。確かに以前から、中国における男性を婿とし て迎え入れる形の婚姻慣習は一般に知られているものであった。例えば、18 世紀初頭に編纂された『康熙字典』の校訂本として 1887 年に出版された渡 (8). 部温編『訂正康熙字典』では、 「壻」の項で次のような説明がある。 「家貧シ イリ ムコ. (9). ク出テ妻ノ家ニ贅スルヲ贅壻 ト曰 フ」。あるいは、1889-91 年に出版された ヨメ. 『言海』では「いり-む古」(入聟)の項で「婦 ノ家ニ入リテ聟トナルコト。 イヘ ムスメ. (10). 家 女 ヘノ聟養子。贅婿」と説明されている。しかしここには「入婿」を意 味する「贅婿」という言葉は登場するものの、いずれにも「招婿」という単 語は掲載も使用もされておらず、 「招婿」という言葉の使用は一般的でなか った。特に、後に明らかにするように、 「招婿婚」という語の登場と普及が、 岡松参太郎の婚姻慣習研究に多くを負ったものであることは、今までほとん ど顧みられることがなかったように思われる。 なぜ中川は、日本の婚姻史と世界の婚姻史が同じ発展段階を辿るものであ ると考えたのか。そこには「不用意」な国外の理論の援用にとどまらない、 日本の婚姻史研究に即した分析があったのだろうか。本論ではここで用いら れる「招婿婚」概念に注目し、岡松から中川に至るまでの法学者たちによる その定義と使用の変化を辿ることで、その問題を明らかにすることを試みる。. 1. 台湾原住民の婚姻慣習調査と「招婿婚」概念の登場. (1) 清律から生まれた「招婿」の語 「招婿婚」概念の登場の背景には、日清戦争の結果割譲された台湾に対す る植民地支配に伴って、それまで未知であった台湾の原住民の体質や生活様 式、社会構造、経済活動等についての調査が行われたことがあった。その先 駆者として伊能嘉矩や鳥居龍蔵など複数の名を挙げることができるが、婚姻 慣習について掘り下げた研究は多くなかった。例えば 1895 年の台湾領有と ともに陸軍雇員として渡台した田代安定は、1900 年の報告書『台東殖民地 予察報文』で「阿眉蕃人」 「卑南蕃人」 「高山族」など原住民の呼称や人口規 模には言及するが、「平地住民トシテハ」扱う必要がないとしてその内容は 52.
(4) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日) (11). 触れていない。同じく 95 年に通訳として台湾入りし、長年にわたって原住 民調査を行なった森丑之助も、後年著した論文でパイワン族の婚姻慣習につ いて長子相続であることに触れており、『台湾府史』からの引用として「長 男は婦を娶り長女は贅婿」すると書いているほかは、詳細な分析を試みるこ (12). とはなかった。 そのなかで、1900 年に書かれた伊能嘉矩の『台湾蕃人事情』は、台湾原 住民の婚姻慣習について詳しく分析し、整理したもっとも早い時期のものだ といえる。各民族を分析した伊能は、 「プユマ」族について「族制ヨリ言ヘ ハ分類族制ニシテ且女系統ノ家族組織ナリ乃家ヲ承クルモノハ長女ニシテ他 (13). ノ次女以下ハ渾テ分産承受ノ権ヲ有スルモ男子ハ之ヲ有セサルモノトス」と して母系制かつ母権制であることを述べ、結婚についても「全ク贅婿婚ニシ (14). テ娶婦法ナシ〔……〕男子ハ女家ニ入リテ婿トナルモノト ス」と説明する。 同様に、「アミス」(アミ)族も「族制ヨリ云ヘハ分類族制ニシテ且女系統ノ (15). 家族組織ナリ乃チ女ヲ以テ家ヲ承クルヲ常例トス」、結婚も「全ク贅婿婚ニ (16). シテ男女自ラ好配ヲ求メ男子ハ女家ニ入リテ婿トナルモノトス」と書いてい る。この記述は、台湾原住民のうちに見出せる母系的な婚姻慣習を日本語で 説明した初めてのものではないかと思われるが、いずれも「贅婿」という言 葉が使われ、 「招婿」という単語は登場しない。 「招婿」という単語を日本語で説明している最初のものとしては、臨時台 湾土地調査局が 1901 年に出版した『台湾旧慣制度調査一班』という報告書 を挙げることができる。そこでは簡単ではあるが、養媳の慣習を説明する部 分で「他ヨリ男子ヲ招キテ之〔養媳〕ニ結婚セシムルアリ之ヲ招婿又ハ招贅 (17). ト云フ」と紹介されて いる。また、その報告書の英訳版では、この慣習が (18). 「chio-tsoi(招贅)または chio-sai(招婿)と呼ばれる」とあり、日本語ではな く漢語表現を引用していることが発音から読み取れる。 こ の 報 告 書 を 作 成 し た の は、民 法 学 者 で 京 都 帝 大 教 授 の 岡 松 参 太 郎 (1871-1921)であった。臨時台湾土地調査局とは、植民地統治に際し台湾の. 土地所有や土地売買の法慣習を明らかにするための調査を行う部局であり、 岡松は児玉源太郎台湾総督と後藤新平民政長官の委嘱により 1899 年から臨 時台湾土地調査局嘱託となっていた。1901 年 4 月、土地に限らず様々な方 面の台湾現地の慣習を明らかにするために臨時台湾旧慣調査会が発足すると、 岡松は第一部の部長に任命された。旧慣調査会第一部は岡松のほか、委員 1 53.
(5) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日) (19). 人と補助委員 5 人の体制で調査に当たったという。第一部が 1903 年に出版 した報告書を読むと、岡松が用いた「招婿」の語の出典が明らかになる。報 告書の「招夫」を説明する節には、 「招壻ハ須ラク憑二媒妁一」(戸律婚姻・男女婚 姻) 「再招婿者杖一百」(戸律婚姻・逐婿嫁女)といった条文が清の法体系で. ある清律から引用されており、その上で「招夫ハ清例ニハ前ニ示スカ如ク招 (20). 婿(又ハ招夫)ト云フ」との説明が付されている。報告書の分析では、台湾 の旧慣は成文法としての清律と、台湾のなかで発展した慣習法との「二種ニ (21). 大別スルコトヲ得」ると考えられる。 「招婿」という単語は清律にみられる 言葉であるが、台湾で通常用いられる言葉ではなかったようで、「台湾ニ於 (22). テハ通常招夫又ハ招子婚ト云フ」と説明されている。 (2) 「家」の制度と「招婿」の矛盾 1909 年には旧慣調査会に台湾原住民調査のための蕃族科が設けられ、森 丑之助などが調査員として加わり、台湾原住民の慣習の詳細な調査も開始さ (23). れるなど、台湾独自の婚姻慣習、親族形態についての調査は徐々に進んでい た。しかし、それらの法制度への反映はほとんど行われていなかったため、 司法では現地の慣習の取り扱いに苦慮することになった。覆審法院長の石井 常英は、児玉の後任として台湾総督になった佐久間左馬太に宛てて 1908 年 に送った建議で、次のように訴えている。「本島人間ノ親族関係ニ付テハ未 タ成文ノ規定セルモノナキニヨリ従来ノ慣例ニ徴シ之ヲ知ルノ外ナシト雖ト モ由来慣習ニシテ果シテ法ノ効力ヲ有スヘキモノタルヤ否ヤヲ決スルカ如キ ハ執法者ノ往々其取捨ニ苦シム」。旧慣調査会の調査は「一応終了」したも のの「詳細ノ如キニ至リテハ今尚ホ衆説区々」であると石井は述べ、 「本島 (24). 人間ノ親族ニ関スル」法律の「制定ハ刻下ノ急務」であると主張している。 このような背景から、台湾における特別立法の実現に向けて臨時台湾旧慣調 (25). 査会法案審査会が開かれた。特に、1913 年 8 月 26 日から開催された第 4 回 会議の 8 月 28 日の議論では、 「招婿」慣習が問題となった。審議会委員には 1912 年に起草された『台湾親族相続令第二草案』が配布されていた。この (26). 草案は小島の調査が元となっており、審議会にも参列員として小島、起草委 員として岡松、石坂音士郎、雉本朗造が列席し、草案の質疑にあたった。 問題となったのは、女性を家長とし、女家の姓を継ぐ「招婿」と「招夫」 という習慣が、男性を家長とし構成員は家長の姓を名乗ることを前提とした 54.
(6) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 明治民法の戸籍制度と整合が取れないため、 「招婿」 「招夫」の場合でも台湾 親族相続令上は「妻ハ婚姻ニヨリテ夫ノ家ニ入ル」(第 18 条)、つまり夫の (27). 姓を名乗ることと定義したことにある。委員からは、夫の姓を名乗ることを 強制しないなど、旧慣に合わせた形に条文を書き換える提案がいくつかなさ れるが、いずれも法律の整合性の観点から話がまとまらないままこの議題は 棚上げされる。「招婿」とこの草案との整合性について、起草者たちは「招 壻、招夫ハ全然我国ノ婿養子縁組及ヒ入夫婚姻トハ其性質ヲ異ニスルヲ以テ 之ヲ女家ノ家族ト観ルヨリハ寧ロ或期間女家ニ同居スル者トスルヲ妥当ナリ (28). トス」と説明して いる。これは、調査会の委員らがこの時点ではまだ「招 婿」について知悉していないことに起因する混乱であった。後に岡松自身が 研究する台湾の「招婿婚」の定義に比しても、このような「招婿」の理解は 誤っていたし、審議会における岡松の「招夫招壻ノ旧慣ハ全ク不明ナリ」と (29). いう述懐からも、「招婿」への不十分な理解が窺える。とはいえ、調査会は 単に「招婿」慣習を無視したわけではなく、1911 年の『台湾親族相続法第 一草案』では「変例ノ婚姻」という節を立て、 「招入婚」という款で 11 条に (30). わたってこれを定義しようと試みて いた。しかし、1914 年の『台湾親族相 続令第三草案』でも第 18 条の規定は変わらず、最終的にはこの法案が実現 しなかったために、「招婿」の立法上の問題についてはその後俎上に載せら れることがなかった。 1900 年代から 10 年代前半にかけては、日清戦争と台湾の植民地化の結果 として生じた、台湾の法制度における清律から日本法への移行という状況の なかで、岡松によって「招婿」という単語が発見され議論の俎上に載せられ たのであったが、その内容や定義についてはそれほど掘り下げられることな く終わった。. 2. 岡松における「招婿婚」研究の三つの動機. (1) 1915 年の大審院判決に対する岡松の判例評釈 (31). 1913 年以降の岡松は京都帝大の教授を辞して「閑居」しており、それゆえ (32). 執筆活動としては多作の時期であった。そのなかで、岡松を家族法の研究へ と向かわせ、「招婿」の問題に岡松が再び戻ってくるきっかけとなったのが、 55.
(7) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日) (33). 婚姻をめぐる損害賠償請求に対する 1915 年の大審院判決であった。 この裁判は、挙式後数日のうちにささいな理由で相手方の男性に離別され た女性が、名誉毀損だとして損害賠償を請求したものである。そこで問題と なったのは、この二人が挙式をしたものの婚姻の届出は行なっていなかった ため、二人の間にどのような契約関係があったものとみなすべきか、という ことであった。大審院の判旨は、これを婚姻の予約があったものとみなし、 「当事者の一方が、正当の理由なくしてその約に違反し、婚姻を為すことを 拒絶したる場合においては、その一方は、相手方がその約を信じたるが為め に被りたる、有形無形の損害を賠償する責に任ずべきものとす」として、婚 姻予約は契約として有効に成立するもので、その履行を理由なく怠った場合 は債務不履行で損害賠償責任を認めることを明示した。このこと自体は、 (34). 「婚姻予約」を有効とすることで、事実婚の法的保護の先駆けになった。た だし、原告は債務不履行ではなく名誉毀損で訴えていたため、敗訴となった。 この判例は、それに対する穂積、中川の学説も含め、婚姻予約有効理論と (35). 準婚理論を対比する観点から今日まで参照されている。しかし、この大審院 判決に対して準婚理論的立場から初めて批判を行ったのが岡松参太郎である (36). ことは、あまり注目されていない。この判決は岡松に大きな疑問を抱かせ、 岡松は『法律新聞』上で四回にわたる連載でその判決に対する批判を繰り広 げているのである。 岡松は、この裁判がそもそも当事者男女の関係を婚姻予約とみなしている ことを誤りだとする。婚姻予約ではなく、婚姻の事実があると岡松は主張す るのである。「大審院の確定せる事実によれば決して婚姻の予約あるにあら ず既に婚姻存す」。そこで問題は、 「予約の不履行あるにあらず婚姻届出義務 (37). の不履行あるもの」という点にある。岡松の見解によれば、届出はなくとも 「既に婚姻の式を挙げたるときは実質上婚姻成立」するといえるのだから、 原告の女性は婚姻の予約の不履行による損害ではなく、 「婚姻(実質的婚姻) が無効となりたるより生ずる損害」について賠償請求できるものとするべき (38). だと考えられる。つまり、岡松は届出による法律婚と挙式による事実婚を法 律上同等に扱うべきだと主張するのである。岡松はこのような見解の利点に (39). ついて論を展開し、最後に余論として「貞操は婦女に取り第一の名誉」であ り「主として婚姻を口実としてその節操を弄ぶ場合」はそれを「名誉の侵 害」として被告の行為は名誉毀損の要件を満たしているとし、大審院の判決 56.
(8) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日) (40). が誤審であると断じた。 岡松の主張の背景には、明治以前の日本各地の慣習に基づく事実婚主義と、 (41). 明治民法における法律婚主義との齟齬がある。明治民法が施行されるまでは、 挙式すれば婚姻したものとされ、夫婦関係が認められるという慣習が日本各 地に存在した。しかし、明治民法が施行されてからは、届出をしなければ夫 婦とは認められないこととなった。しかし、慣習から届出をしない夫婦が少 なくなかったために、事実婚をした夫婦、特にその妻が法的な保護を受けら (42). れず、様々な不利益を被ることとなったのである。岡松はこれを、現実の慣 習を反映していない現行の法律の不備であると考えた。 (2) 旧慣調査会のプユマ族調査と「招婿婚」概念の登場 そこで岡松は、婚姻慣習に関する一連の研究によってこの問題を解決しよ うとした。末川博が 1917 年に岡松と会った時のやりとりを振り返って書い たところによれば、その研究構想は「妻の地位などについて」非常に深く掘 り下げたものであり、岡松はそれを成し遂げるのに「二百年くらいかかる」 (43). と事も無げに語っていたという。岡松は、この大審院判決にからんで「法律 上に於ける妻の地位を研究する」うちに、旧慣調査で見出された台湾原住民 (44). における婚姻の慣習を想起したという。 この頃には、台湾原住民の婚姻習慣についての調査が大きく進展していた。 旧慣調査会が 1913 年以降 1921 年まで刊行した『蕃族調査報告書』には、各 族の慣習が詳しく記載されている。母系制の婚姻慣習を持つアミ族とプユマ 族の結婚について記述した部分には、男性が女性に求婚し女家の了承を得て 婿入りするまでの詳細な経緯とそのなかでのそれぞれの立場、権利関係など (45). が明らかにされて いる。しかし、岡松が特に注目したものは、1915 年から 刊行され始めた『番族慣習調査報告書』の方であろう。アミ族とプユマ族に ついて包括的な慣習の調査報告がなされた報告書第二巻では、「招婿婚」の 語がプユマ族の婚姻慣習を指し示す言葉として明確に位置付けられ、「嫁娶 婚」と対比されている。 プユマ族の「婚姻」の節は、 「本族ハ婚姻ヲ「プルマ」ト称ス、招婿婚ヲ 正則トシ之レヲ「ムカムサバク」トイヒ嫁娶婚を変則トシ「ピナクラバク」 トイフ」という説明から始まる。それに続いて、 「招婿婚」の内容について 「婚姻ノ成立」「婚姻ノ効果」 「婚姻ノ解消」について 14 頁にわたり細目が詳 57.
(9) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 説されている。そのなかでは、「夫ハ表〔妻〕ノ家ニ入リ其家族タル身分ヲ 取得シ、其家長権ニ服ス」 、 「夫死亡セハ其妻タル者ハ高齢ナラサル限リ必ス 後夫ヲ迎ヘ以テ貞節ニ欠ケリトナサス、二夫ニ見エストイフ如キ観念ハ彼等 社会ニ存セサル所ナリ」 、 「妻ハ家長ノ実権ヲ採リ、家事一切ニ付キ強大ナル 権利ヲ掌握セル」、「風俗上妻タルモノハ財産上ニ強大優越ノ権利ヲ有シ、夫 ハ唯タ同意権ヲ擁スルニ過キサル如キ」など、婚姻と家族における妻の高い (46). 地位が様々な面から示されている。. (47). 1914 年 12 月にこの報告書を書き上げたのは、河野喜六であった。台湾原 住民における婚姻慣習を掘り下げ、 「招婿」の語に「婚」の字を加えて「招 婿婚」という婚姻慣習として明確に定義したのは、河野が初めてであろうと 思われる。河野の行なった調査の詳細や学問的知見を示す他の資料は今のと ころなく、河野がどのような経緯で「招婿婚」という語を用いたのかは不明 (48). であるが、「ムカムサバク」という現地語と対比されていることから、 「招婿 婚」が日本語として用いられていることは明らかである。1914 年の段階で、 旧慣調査会の発行したもの以外の資料において日本語として「招婿」の語を 用い、説明している文献は見当たらない。河野は旧慣調査会における活動の 内部で「招婿婚」の語を見出したものと思われる。 このような、旧慣調査が明らかにした母系制の婚姻慣習を持つ台湾原住民 における妻の地位の高さは、それを本国日本の状況と比較した時に、岡松に とって大きな意味を持つものであった。旧慣調査会の婚姻慣習の調査と、 1915 年の大審院判決とは、こうして結びついたのである。 (3) ヨーゼフ・コーラーと民族=比較法学派の影響 岡松は「妻の地位」を改善する法制について、一方では前述の通り国内の 法律体系のなかで、1915 年の大審院判決の判例評釈という形で問題提起し つつ、他方では、植民地の法律をも「模範」とすることで、そのあるべき形 を実現しようとしていた。 例えば 1905 年 2 月 7 日、岡松は台湾で講演を行なっている。その冒頭で 岡松は、日本の「内地法律は完全なりというの信認」に基づいてこれを台湾 にも適用しようとする発想を、強く批判する。岡松は、日本民法は独仏の法 律を折衷して「最も悪く」できあがったものだから、「之に模倣すべき価値 あるものなるや否やは大いに疑わし」と述べた上で、帝国イギリスが自国の 58.
(10) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 立法において植民地インドの慣習を取り入れていることに触れ、むしろ「大 小何百も何千も」の欠点を有する日本の民法が「台湾法を模範とする」こと (49). でより良いものになる可能性を主張した。あるいは 1912 年の審査会でも、 「旧慣は錯雑しおることと思う」と議長内田嘉吉の問いかけに岡松は、台湾 には「全島を通して確固たる慣習ありて一致しおれり」と反論し、「膨張的 日本国民としては英国に倣い地方的慣習を認めるを得策とすべし」と主張し (50). ている。 このような、ある地域や文化の枠組みを超える普遍的なものとして法律を 比較検討する発想は、民族=比較法学派の学問的方法論から着想を得たもの であった。特に、台湾原住民の婚姻慣習の研究の意義については、ヨーゼ (51). フ・コーラーからの直接の提起があったという。コーラーは「比較法学」研 究の第一人者であり、A. H. ポストの「民族法学」などとともに、日本の法 学者に強い影響を与えた人物である。民族=比較法学派と呼ばれるこれらの 研究分野は、その名の通り、個々の民族や慣習に着目し、それを歴史的地域 的に比較研究するもので、19 世紀ヨーロッパにおける社会進化論や民族学、 (52). 人類学の影響を受けて立ち上がった法学上の一分野である。明治期以降、穂 積陳重をはじめとして後に大家となる多くの法学徒が日本からドイツへ留学 し、民族=比較法学派の研究成果を学んだ。岡松も同様に、民族=比較法学 派の研究に依拠して「招婿婚」の分析を進めた。岡松は後述する 9 本の論文 およびその後出版される『台湾番族慣習研究』を通じて、3 冊の外国文献を 主に参照していると述べているが、それはいずれも民族=比較法学派の研究 (53). (54). 書である。2 冊はポストの著作であり、1 冊はコクーレック、ウィグモアに (55). よる編著で、岡松が引用しているハワードやホブハウスに加え、コーラーや タイラーなど、当時の民族=比較法学派や人類学に関わる分野の主要な論客 (56). による論文が数多く収録されている。 つまり、岡松が「招婿婚」を研究する第三の動機として、民族=比較法学 派の大きな影響があったといえる。岡松はこれを参照しつつ、日本の女性の 婚姻上の立場を分析するために台湾原住民の慣習に目を向け、法と慣習にお いて本国と植民地の間に優劣をつけず、双方を相対化して考察し、よりよい 親族法の立法に結びつけようと考えていたのであった。. 59.
(11) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 3. 世界的位置付けを与えられた「招婿婚」. (1) 岡松による「招婿婚」の分析と定義 旧慣調査会の残した資料を素材として行われた岡松の婚姻慣習の研究成果 (57). は、1917 年から 18 年にかけて、 『法学新報』に「母系主義ト台湾生番」とい う題で連載した 9 本の論文の形で公にされた。ここにおいて「招婿婚」概念 は、民族=比較法学派との参照関係のなかで、世界的に位置付けられるので ある。 岡松は「嫁娶婚制及招婿婚制」の節で「招婿婚」の言葉を用い、その定義 を試みる。岡松によれば、台湾北部の「タイヤル」 、「セーダッカ」(セデッ ク) 、「サイセット」 、および南部の「ソオウ」(ツォウ)、 「アミ」、 「プュマ」. という六つの部族を調査した結果、それぞれの部族の婚姻制度を「二大形 (58). 式」に分けることができるという。それは、 「嫁娶婚」と「招婿婚」という 二つの制度であり、「嫁娶婚」は「女カ男家ニ入ルモノ」 、 「招婿婚」は「男 (59). カ女家ニ入ルモノ」である。 「招婿婚」の特徴として、 「成婚ト共ニ男子ハ女 家ニ定住」すること、「女家カ男子ヲ取得スル方法ハ無償」であること、と (60). いう二点を挙げている。この二形式のうち、 「招婿婚」の形式は「母系主義」 (61). をとる「アミ」「プュマ」の二族にみられる。なぜなら、 「招婿婚」の場合、 「家族中女子ハ皆家ニ留リテ婿ヲ迎ヘ男子ハ出婿シテ他家ニ入ルカ故ニ 〔……〕母系ヲ宗統トシ女系ニ依リ之ヲ伝承シ女系血族ヲ宗族ト為スニ至ル」 (62). からである。. (63). さらに、「嫁娶婚」と「招婿婚」の区別が「問題ノ中枢」であると指摘し、 その分析を深めている。まず岡松は台湾の特定の部族において「招婿婚」が 今日も行われている理由について様々な仮説を立てつつも、その理由を明ら (64). かにすることは「能ハサルヘシ」と述べる。そこで比較のため、漢民族にお ける「招入婚」を分析する。漢民族の「招入婚」は「招婿」「招夫」を行う 場合でも婿・夫が生家に帰ることを予定しており、その本質は「招婿婚」で (65). はなく「嫁娶婚」であると岡松は いう。このような詳細な定義と分類は、 1903 年の報告書やその後の審議会での議論では混乱のあった部分である。 前述の通り「招婿」は岡松によって清律から抽出された単語であったが、こ こで「招婿婚」が大陸中国の「招婿」とは異なる台湾の独自慣習として再定 60.
(12) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 義されているわけである。 岡松はさらに対象を世界に広げ、ポスト、ハワード、ホブハウスを引用し て「招婿婚ヲ行フ民族ノ事例トシテ挙示セラレタルモノ頗多シ」という。そ れによれば、 「招婿婚」に似た慣習は「豪州」 「南洋諸民族」「印度諸民族」 「米州「インヂアン」民族」 「亜弗利加ノ数民族」に行われている。一方で、 これらの事例には「母系主義ト母権主義トヲ混同」したり、「招婿婚ト婿入 婚トヲ同視」するなどの誤りがあり、確実に台湾原住民の「招婿婚」と同じ 特徴を有しているのはスマトラ島における「Manding ding 婚」とセイロン (66). 島における「Bcena 婚」だけだという。さらに岡松は、ポストとホブハウス が日本の「婿養子」 「入夫婚姻」が「招婿婚」の一例に加えることができる と論じていることに触れ、 「其研究ノ至レルニ感服セサルヲ得ス」と舌を巻 いているが、日本のそれら婚姻慣習が台湾原住民の「招婿婚」とは異なり、 (67). 「母系」や「母権」と関係していないことを指摘している。前に引いた英訳 版『台湾旧慣制度調査一班』でも、 「その娘のために夫を招くこと、これを cho-hun(招婚)または chio-tsoi(招贅)という。これは日本の「婿養子 mu(68). koyoshi」に酷似しているが、その語のような意味とは異なるものである」と 書き、その相違を強調している。 つまり、岡松の定義による「招婿婚」は、第一に居住形態において永続的 な妻方居住婚(妻方に定住)であること、つまり妻方・夫方居住婚(妻方に居住 した後夫方に定住)等ではないこと、第二に系譜において母系制であること、第 三に財産相続が女性にのみ認められていること、つまり母権制であること、とい (69). う三つの特徴を兼ね備えた台湾の婚姻慣習を指すものである。アミ族・プユマ族 の婚姻慣習にみられるこれらの要素は、先に伊能の研究でも説明されていたもの だが、伊能は「女系」(母系)と、 「分産承受ノ権」が女性にあること(母権). と、 「贅婿婚」とを並列の要素として記述している。しかし岡松は、民族= 比較法学派の研究との相違を明示するなかで、それらの慣習を包括的に「招 婿婚」と定義し、その慣習を形作る条件として居住、系譜、権利といった個 別の要素を規定したのであった。 岡松における「招婿婚」の定義の特徴は、民族=比較法学派と特に強い結 びつきを有していながらも、「招婿婚」の独自性を強調することで民族=比 較法学派の画一的な慣習理解に一定の留保を置き、さらに「母系及父系主義 (70). ハ必シモ進化ノ順序ニアラス」といい、母系制の一形態である「招婿婚」を 61.
(13) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 「進化論」的に位置付けることを戒め、それを遅れた慣習とみなすことはで きないとされていた点にある。そのことは、岡松が台湾原住民の慣習である 「招婿婚」と、日本で行われている婚姻慣習とを対等に比較し、より良い法 整備を行なっていこうとする意識に下支えされていた。この点は、後に見る 中川善之助の「招婿婚」の捉え方と比較した時に、興味深い相違となって現 れる。 これら「招婿婚」に関する一連の論文が発表され終えた 1918 年のわずか 3 年後、1921 年に岡松は死歿したため、遺稿をもとに同年出版された『台湾 番族慣習研究』が岡松の最後の著作となった。そこでは「招婿婚」について 「女カ生家ニ留リ婿ヲ迎ヘ男カ妻家ヘ入ルモノ」という簡素な説明しかなく、 (71). これ以上の展開はなされることがなかった。 (2) 佐喜眞興英によってvmatrilocal residenceの訳語とされた 「招婿婚」 1910 年代後半に、岡松によって「招婿婚」概念は学術的な検討を通じ、 台湾の婚姻慣習を指す概念として確立された。しかし、1920 年代を通じて、 (72). 岡松の「招婿婚」に関する研究を参照した論者はわずかであ った。岡松の 「招婿婚」概念を引き継いだほぼ唯一の研究書として挙げられるのは、沖縄 出身の裁判官であった佐喜眞興英(1893-1925)が著した『女人政治考』であ る。本書のなかで佐喜眞は、古琉球に母系制が行われた可能性を指摘し、そ れが成立した理由に関する先行研究を整理するなかで、岡松が『法学新報』 へ投稿した先述の論文を引用し、 「招婿婚」を「母系原因学説」の一説とし (73). て紹介している。 佐喜眞はここで「招婿婚」を、岡松が用いたような台湾原住民の慣習を指 し示す限定された概念としてだけではなく、「英米の学者」のいう}matrilocal residence~と同一の概念としても定義する。佐喜眞は民族=比較法学派 を参照しつつ、 }matrilocal residence~としての「招婿婚」を母系制の原因 (74). とみるのはタイラーが最初に唱えた説であるとし、「招婿婚又はその遺風と (75). (76). (77). 見ればみられる」例としてクローリー、ローウィ、ハートランドから様々な 族の事例を引用している。それらの例とともに佐喜眞は、 「日本古代」や 「古代支那」にも「同様」の「風俗」があったとして、妻方居住婚だけでな く、妻方・夫方居住婚、妻訪・夫方居住婚(子供が生まれた後夫方に定住)の 62.
(14) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 例も一括りに「招婿婚」の「遺風」として位置付けている。 岡松は前述の通り、 「招婿婚」が台湾原住民にのみみられる慣習で、他族 の慣習や漢民族の「招入婚」とも日本の「婿養子」「入夫婚姻」とも異なる ことを指摘していた。佐喜眞もその定義は引き継いでいるが、歴史上の日本、 中国、琉球などにみられるこれらの慣習がむしろ「招婿婚」と共通する部分 の多いものであることに注目し、これらを「招婿婚」の「遺風」と定義した。 これは、時代が下るにつれて}matrilocal residence~としての「招婿婚」が、 妻方・夫方居住婚、妻訪・夫方居住婚といったその「遺風」へと変化してい き、夫方居住婚(}patrilocal residence~)となる、という民族=比較法学派の 発展史的な歴史把握に基づいた説明と結びついたものではあるが、沖縄出身 の佐喜真は、国境を越えた東アジアという空間のなかで慣習の同質性がみら れるという点から、その理論の受容へと至ったのであった。ここで「招婿 婚」が}matrilocal residence~の訳語とされることで、 「招婿婚」は台湾の 慣習であるとともに世界各地の慣習を指す言葉としても用いられることが可 能となった。佐喜眞によるこのような「招婿婚」の定義の変容は、 「招婿婚」 を他の慣習を示す概念よりも普遍的な概念として用いることへの道を開いた といえる。 しかしこれ以降、「招婿婚」という単語は佐喜眞においても詳しく展開さ れることなく終わった。 『女人政治考』が出版された時、佐喜眞はすでに亡 (78). き人となっていたからである。 『女人政治考』も多くの読者を獲得したとは いい難い著作であった。「招婿婚」研究は再び埋もれかけたが、中川善之助 が改めてそれを見出すことになる。 (3) 中川善之助に引き継がれた「招婿婚」概念 佐喜眞の「招婿婚」概念を引き継いだのは、今日では身分法学の父と評さ れる中川善之助(1897-1975)であった。稲福日出夫の研究によれば、同年 10 月に中川は『東京日日新聞』紙上で「 『女人政治考』を読む. その紹介と. 短評」という表題の連載を 3 回にわたって行い、佐喜眞の研究に高い評価を (79). 与えている。翌 27 年に『社会学雑誌』へ掲載された書評でも『女人政治考』 (80). を取り上げている。中川が読んだ『女人政治考』の原本は現在、他の中川の 蔵書とともに専修大学に保管されており、中川の付箋と線引きの跡を確認す (81). ることができる。今日に遺されている中川の蔵書のうち、1930 年までに出 63.
(15) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 版された本のなかで「招婿婚」の概念を取り扱ったものは『女人政治考』の (82). 他にはなく、またその「招婿婚」を説明した部分に線引きがあることは、中 川の「招婿婚」概念が佐喜眞の定義を参照したものであることを傍証してい る。 中川は、1930 年の『略説身分法学』のなかで初めて「招婿婚」の概念を 用いる。その時点ではまだ詳しい定義がなされておらず、単にこれを「母系 (83). 家族制下に於いては夫は妻の家に移る」と説明している。さらに、 「入夫及 び婿養子」という項で、これら日本の慣習を「招婿婚」の一種とみなして (84). いる。この定義からも、中川がその定義を主には佐喜眞から引き継いだであ ろうことがわかる。 その後 1937 年に『家族制度全集』史論編第 1 巻に掲載した「婚姻史概説」 においてはより具体的に定義が示されている。中川は、「招婿婚」を欧米の 学者が}matrilocal~と命名しているものであるといい、その一例として岡 松の『法学新報』論文における台湾の慣習に触れている。ここでの説明を通 して中川は、「招婿婚」を台湾の慣習を指し示すものとはせず、}matrilocal~ の訳語として世界的に用いられる概念と同一のものと定義した。そして、岡 松が違いを強調し、佐喜眞もそれを「招婿婚」の「遺風」としてやや留保を おいていた「入夫及び婿養子」という日本の慣習も、中川においては完全に 「招婿婚」に包含されるものとなる。また、この定義により、台湾原住民の 独自の婚姻慣習を指し示すための言葉がなくなったため、中川はこれを漠然 (85). と台湾の「母系的なるもの」と呼んでいる。 ここでは、日本と台湾との間の慣習の違いを意識する岡松や佐喜眞に比し て、地域の慣習の独自性よりも、抽象化された概念で東アジアの各地域の慣 習を包摂しようとする中川の意図がより前面に現れている。その背景には、 民族=比較法学派の研究に基づいて中川が法学研究において重視した、「進 化」の論理があった。. 64.
(16) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 4. 婚姻史の「進化論」に位置付けられた「招婿婚」. (1) 1915 年大審院判決の解釈における中川の岡松批判 中川が最初に家族法に関心を寄せるようになったきっかけは、1923 年か ら 25 年にかけてドイツとイギリスへ留学したことにあった。この時期のヨ ーロッパでの勉強を通じて、「だんだんと家族の変遷というような点に興味 をよせるように」なり、帰国の頃には「身分法を特に勉強しようという気持 (86). ち」になっていたのかもしれないと中川は後に振り返っている。その言葉通 り、帰国後の研究活動においては「メーン、フュステル・ド・クーランジュ を通して入りこんだバッホーフェン、ミューラー・リール、ポスト、フレー ザー、モルガン、それからウェスターマーク、マリノフスキー、ブリフォー トなどの人類学的人種学的社会形態論」の勉強が一つの軸になっていたと (87). いう。 帰国後の中川が初めて著した長編の論文は 1926 年に『法学協会雑誌』で 5 回にわたって連載した「婚姻の儀式」という論説であり、ここでは婚姻の (88). 儀式とその成立との関係を軸にした発展史的分析がなされている。しかし中 川は、民族=比較法学派をはじめとする欧米の文献紹介にのみ終始すること なく、これらの議論を日本の現状へと接続する。そこで参照されるのが、前 述の 1915 年の大審院判決であり、そのなかで、岡松の「婚姻届出義務の不 (89). 履行」論を穂積重遠の論と併せて詳しく参照している。 「婚姻の儀式」およ びその後の中川の学説は内縁の法的保護のための通説となっている「準婚理 (90). 論」の基本をなすもので、今日も有効である。しかしながら、中川は岡松の 主張に対して重要な変更を加えている。 中川は岡松の主張を「事実婚主義の主張を高唱し婚姻が意思の合致によっ て直ちに成立すること、而してその有効条件たる届出のある以前にもいわゆ る前効力があり、その前効力とは要するに届出義務の負担にすぎないとせら れた」ものとし、「今日吾人はこの学説に聴くべき多くのものをもつ」とし (91). て重視している。しかし中川は、「届出なき婚姻」における「婚姻的効果」 を「内縁効果」と呼んでこれを区別し、 「法律的婚姻効果の全体中一部分は 内縁効果として儀式並びに届出の有無に拘わらず、婚姻たる結合に対しては (92). 常に付せらるべき」としてその効果を限定している。「内縁効果」という限 65.
(17) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 定は、事実婚は挙式をもって法律婚と同様に成立したものと認めるべきとす る岡松の主張を退けているだけでなく、岡松が事実婚の成立要件とみなして いた挙式をも不要としている。これらの点から、岡松が重視した事実婚的慣 習そのものを、現在の法学では扱う必要がないと中川が考えていたことがわ かる。岡松が、不当に扱われていると考えた事実婚の妻の地位の低さについ て、中川は、事実婚は婚姻ではなく内縁という別の条件に当てはまるもので あり、法律婚をした妻より権利が限定されていることは当然としたのである。 岡松は、1915 年の大審院判決の判例評釈のなかで、現実の慣習に見出せ る「実質的婚姻」を、現行の法体系が看過していることを問題とした。これ に対して中川は、現行の「法律」における「婚姻効果」として現実の慣習を 解釈するという立場をとる。この論理を支えるのは、婚姻儀式の世界史的推 (93). 移、「法律的婚姻」を最終的な到達地点とする「社会観念の進化」を辿った中 川の婚姻史研究である。ここには、「母系及父系主義ハ必シモ進化ノ順序ニ アラス」といって婚姻の多様な成立の仕方を相対的にみようとする岡松と、 いかなる空間でも一線的な時間軸に沿った「社会観念」の「進化」によって 「法律」は完成されてゆき、現実の慣習は過去のものとして一律に乗り越え られ、よりよい慣習に置き換えられるはずだと考える中川との間の思想の隔 (94). たりが、象徴的に示されている。しかしこのことは同時に、日本の古い婚姻 慣習が明治の立法や大審院判決などを経て結果的に乗り越えられたという新 たな時代状況を、中川が捉えていることを示している。明治維新から間もな く生まれた岡松と、明治民法施行の前年に生まれた中川との間には、その生 きた時代におよそ四半世紀の差がある。この間に生じた日本の婚姻慣習の変 化、「文明」化とされるこの過程こそ、中川が世界史的な発展段階に照応し うると考えた当のものであった。 (2) 婚姻史の「進化論」の上で遅れた慣習とされた「招婿婚」 1930 年代後半に中川は、日本の委任統治下にあったパラオ及びミクロネ シア連邦の慣習調査を行なった。その調査結果をまとめた報告が、1942 年 (95). の「ミクロネシア婚姻法」である。中川はそこで「招婿と娶嫁」という項を 立 て、「娶 嫁 婚」を}Patrilocal Marriage~、 「招 婿 婚」を}Matrilocal Marriage~と定義している。佐喜眞は「招婿婚」の特徴である居住形態を 重視し}matrilocal residence~と共通の語であると定義したのに対して、中 66.
(18) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 川は}Marriage~の方を重視し、婚姻形態としてこの語を用いるという違 いはあるが、日本、東アジア、ひいては世界に共通する婚姻慣習を指す語と してこの語が扱われているという点では、共通している。その上で、「婚姻 史概説」で書いたものと同様、「婚姻史の上からいえば」招婿婚、一時的招 (96). 婿婚、娶嫁婚という展開を辿ることが「大体原則である」という。中川は、 岡松や佐喜眞の用いた「招婿婚」概念が、日本と東アジア各地との歴史上の 婚姻慣習の共通性の上に立つことを踏まえているが、それに加え、ミクロネ シアというオセアニアの統治領の慣習をも日本の法体系のなかで捉える必要 に向き合うなかで、その各地に日本と同様の発展がありうべきことを想定し たのであった。このような状況のなかで中川は、「進化論」という言葉で自 らの婚姻史観を表現していく。 「ミクロネシア婚姻法」の緒言で中川は、19 世紀末から 20 世紀初頭にか けての民族=比較法学派や人類学における、メイン、バッハオーフェン、コ ーラー、ポストらの研究が同時代の「進化論」に影響されていることを指摘 した上で、「進化ということを前提として法律学を研究すれば、そこに原始 (97). 法の探究というテーマが必然的に浮かんでくる」と述べる。同時にそこには 「植民地の獲得と統治」を背景に、 「文明人」の国家と社会に「未開社会」と の繋がりが生まれたことで直面した「南洋全体の総合統治」という「現実の (98). 問題」の「要請」があった。ミクロネシアの「婚姻法」が「甚だ素朴であり 原始的」であり、「人間として野蛮であるかないかは別として、社会として (99). は一層原始的」だと述べる中川は、法律を「原始」から「文明」へと序列づ け、さらにそれを日本の植民地統治における法制度に反映させることで未開 社会の文明化を志向することに対し、民族=比較法学派の論理的基盤となっ ていた「進化論」によって学問的根拠を与えていた。植民地の「文明化」を (100). 志向する傾向は多くの研究者にとって共通していたが、中川の「進化論」は 東アジアの慣習の歴史的共通性を下敷きにすることで、日本の植民地や統治 領にも日本の経てきた歴史的変化を投影しうると考えていた点に特徴がある。 中川の「進化論」が統治の現実にどのように援用されているかは、例えば 1938 年の「南洋群島の裁判」という報告から読み取ることができる。この 裁判は、母系制の部族出身の男性が死亡した際、その配偶者である女性が遺 産を全て相続しようとしたところ、亡夫の母系親族が相続の権利を主張して 訴え出たものである。パラオ地方法院は「島民の他に関係者なき民事に関す 67.
(19) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). る事項については慣例による」(大正十二年勅令二十六号南洋群島裁判事務取扱 令)を根拠に原告の主張を認めたが、高等法院の控訴審では係争財産につい. て「共有的性質も少なくない」として和解を勧告し、厳しい対立を経たもの のそれが成立したという。中川はこれを「文明社会との接触が多かった地 (101). 方」の慣習の変化が引き起こす混乱の好事例として引用している。 「進化論」 的な見地に立った中川は、土着の慣習が外部からの影響に晒されて「進化」 し「文明」化されることを展望するという形で、日本から移入された法体系 (102). と現地慣習との間の齟齬という問題に一定の解決を与えていたのであった。 1930 年代後半の台湾における日本人研究者の「招婿婚」の扱いにも、中 川と同様の思想を読み取ることができる。1935 年、台北帝国大学文政学部 (103). 職員を中心に台北比較法学会が組織され、編著として 1937 年に『比較婚姻 法. 第一部』が出版された。世界各地の婚姻慣習研究を一冊にまとめたこの. 本は、日本の民族=比較法学派の研究の集大成ともいうべきもので、中川も 寄稿者の一人に名を連ねている。その本に収録された論文「台湾に於ける本 島人間の婚姻成立」のなかで、姉歯松平が「招婿婚」を説明している。姉歯 は「招婿婚姻」および「招夫婚姻」を合わせて「招入婚姻」とし、これは日 本の民法でいう「婿養子又は入夫婚姻と類似する所なきにあらざるも」と前 置きしつつ、「養子縁組と婚姻とが共に行われることなく単に婚姻のみ存す る」 「妻の家に入るもその氏を称せざるのみならず戸主相続の原因とならざ る」「招婿又は招夫たる身分を脱する場合ある」などいくつかの点を挙げ、 日本の「婿養子又は入夫婚姻」とは異なることを強調している。加えて姉歯 は、「招入婚姻」の慣習は「変態の婚姻であって文明国の婚姻としては妥当 を欠くことの甚だしいものがあるから一日も早く改むる必要がある」と主張 (104). する。台湾において姉歯のみた「招婿婚」は、岡松が「実質的婚姻」と見て いた日本の古い婚姻慣習と同様に、日本の現行の法制度と齟齬を来している が、それを特別立法によって法に組み込もうとした四半世紀前とは違い、中 川がミクロネシアにおいて論じたものと同様に「改むる」べきものとされた のである。. おわりに ここまで、法学者における「招婿婚」という概念の使用とその定義の変化 68.
(20) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). を辿ってきた。台湾統治のために台湾旧慣調査を任じられた岡松参太郎は清 律から「招婿」という語を見出し、1915 年の大審院判決に触発されて台湾 原住民の婚姻慣習を「招婿婚」として解明した。続いて佐喜眞興英は、歴史 上の中国、琉球、日本の婚姻慣習の共通性に注目し、各地の慣習を「招婿 婚」またはその「遺風」として解釈するとともに、}matrilocal residence~ という語の翻訳として「招婿婚」という語を用いた。最後に中川善之助は 「招婿婚」を、}Matrilocal Marriage~を意味する民族=比較法学派的な婚姻 史研究における学術用語として使用し、そこに「進化論」的な要素を付与し て婚姻史の発展段階のなかに位置付けることで、ミクロネシアの統治におけ る法解釈を示した。 最終的に「招婿婚」が位置付けられた中川の発展段階的婚姻史解釈は、民 族=比較法学派の特徴として指摘される二つの特徴とよく呼応するものとな った。第一の特徴は、 「単線的進化論」を志向している点である。この志向 は、各地の慣習を並列に比較するのではなく、歴史的な発展段階に当てはめ て序列化する発想をもたらす。第二の特徴として、「法の普遍性」を前提と する点である。このことは、様々な地域の特殊な慣習や法制度を、その固有 (105). の文化的地理的諸条件を超えて観念的に統合することを可能にする。その意 味で中川の理論は、その研究の枠組みを単に援用したもののようにも見える が、これは結果としてそのような形になったというべきであろう。ここまで 論じてきたことを踏まえれば、中川が世界史的な婚姻史のなかに日本の婚姻 史を位置付けたことは、有賀のいうような「不用意」な定義ではなかったこ とは明らかである。それは少なくとも、日本と台湾の婚姻法の相互参照の可 能性を見出した岡松の研究と、日本の婚姻史と東アジア各地の婚姻史との間 の共通性を重視した佐喜眞の研究を引き継いだことの帰結であった。そして その背景には、法学者たちが歴史上における日本、中国、琉球の慣習の共通 性や、台湾やミクロネシアの統治という、日本という枠組みの内側では捉え きれない帝国の現実に向き合ってきたことがあった。有賀は「日本の婚姻慣 行」の独自性を強調するが、柳田も有賀も日本国内の事例を取り上げるのみ で、東アジア各地の婚姻慣習との比較検討までは行なっていない。もし中川 の研究を批判するのであれば、台湾や大陸中国、ミクロネシアなどの婚姻慣 習の比較検討の上で、世界史的発展と異なる地域的独自性を示す必要があり、 それは必ずしも現存の国境と照応したものとはならないように思われる。 69.
(21) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). さて、中川の「招婿婚」という概念は、高群らの婚姻史研究に引き継がれ、 古代日本や各地に遡及的に見出される慣習を指す概念として定義されること になったが、このような「招婿婚」概念の日本的定義は、もともと岡松が明 (106). らかにした台湾や中国におけるその定義とはもちろん異なるものである。高 群やそれを引き継いだ研究者による戦後日本の「招婿婚」概念史を辿り、改 めてその原義に即して定義することができれば、日本の「招婿婚」研究を東 アジアに開かれた歴史研究へと導くような、積極的な意義をもつものと考え られる。この点については、今後の課題としたい。 注 (1) 柳田國男「聟入考. 史学対民俗学の一課題. 」大塚史学会編『三宅博士. 古稀祝賀記念論文集』岡書院、1929 年、572 頁。この論文が書かれた経 緯については、宮田登「解題」『柳田國男全集』第 17 巻、筑摩書房、 1999 年、721 頁を参照のこと。 (2) 中川善之助「婚姻史概説」穂積重遠・中川善之助責任編集『家族制度全 集. 史論編第 1 巻. 婚姻』河出書房、1937 年、26-9 頁。. (3) 同書、31 頁。 (4) 同書、32 頁。 (5) 有賀喜左衛門『日本婚姻史論』日光書院、1948 年、2 頁。 (6) 同書、14-5 頁。 (7) 高群逸枝『招婿婚の研究. 一』(初出:1953 年) 『高群逸枝全集』第 2. 巻、理論社、1966 年、26-8 頁。 (8)「壻」は「婿」の異体字、「聟」はその俗字。 (9) 渡部温訂正訓点『訂正康熙字典』巻之二、渡部温、1887 年、84 丁オモ テ。 (10) 大槻文彦著、中田邦行・大久保初男・文伝正興校正『言海』大槻文彦、 1889-91 年、19 頁。 (11) 田代安定『台東殖民地予察報文』台湾総督府民政部殖産課、1900 年、 33-4 頁。 (12) 森丑之助「生蕃行脚」(初出:1924 年)楊南郡『幻の人類学者 森丑 之助』笠原政治・宮岡真央子・宮崎聖子訳、風響社、2005 年、198-9 頁。 (13) 伊能嘉矩『台湾蕃人事情』台湾総督府民政部文書課、1900 年、79 頁。 (14) 同書、81 頁。 (15) 同書、90 頁。 70.
(22) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). (16) 同書、93 頁。 (17) 岡松参太郎『台湾旧慣制度調査一班』臨時台湾土地調査局、1901 年、 附録 24 頁。〔〕内は引用者補足。 (18)Santaro Okamatsu, Provisional Report on Investigations of Laws and Customs in the Island of Formosa, compiled by order of the GovernorGeneral of Formosa, Kobe: Kobe Herald, 1902, Appendix p. 15. この書は次 に挙げるような台湾の植民地時代の土地制度制定史研究で参照され、 1971 年 に は 台 北 の Chéng-wen Publishing か ら 復 刻 も さ れ て い る。 Edgar Wickberg,}Japanese Land Policies in Taiwan, 1895-1945~ , Agricultural History, 43 (3), Jul. 1969, pp. 369-378. Lee Young-ho, }Colonial Modernity and the Investigation of Land Customs: A Comparison of Japan, Taiwan, and Korea~, Korea Journal, 44(2), Summer 2004, pp. 149-173. (19) 岡松参太郎「敘言」『臨時台湾旧慣調査会第一部調査第一回報告書』上 巻、臨時台湾旧慣調査会、1903 年、敘言 2-4 頁。 (20) 臨時台湾旧慣調査会『臨時台湾旧慣調査会第一部調査第一回報告書』 下巻、臨時台湾旧慣調査会、1903 年、174 頁。訓読は報告書の通り。清 律の該当部分を「招婿」とせず、「招クレ婿ヲ」と訓読する例もある(沈書 城編『増輯訓點清律彙纂』巻 7、須原鐵二、1874-79 年、37 丁ウラ・40 丁ウラ) 。 (21)『臨時台湾旧慣調査会第一部調査第一回報告書』上巻、1-15 頁。 (22)『臨時台湾旧慣調査会第一部調査第一回報告書』下巻、174 頁。 (23) 関口浩「「蕃族調査報告書」の成立. 岡松参太郎文書を参照して」『成. 蹊大学一般研究報告』46 巻 3 号、2012 年 2 月、11-6 頁。 (24)「本島人親族例ニ関スル件(覆審法院長同検察官長)」1908 年 9 月 29 日付、台湾総督府伯爵佐久間左馬太宛、覆審法院長石井常英建議(臺灣 總督官房法務部「自明治三十三年至明治四十一年建議集ニ關スルモノ 〔2〕 」 『臺灣總督府公文類纂』中央研究院臺灣史研究所「臺灣史檔案資源 系統」http://tais.ith.sinica.edu.tw、資料番号 T0797_13_009_0011、2019 年 7 月 26 日閲覧)。 (25) 近年、整理・公開された岡松参太郎文書の議事録などの史料から、審 議会の詳細な経緯を辿ることができる。岡松が所蔵していた資料は 1999 年に早稲田大学へ寄贈され、2008 年に文書が公開された。図書約 7,000 点については状態が悪いため非公開(2018 年時点、早稲田大学図書館回 答による) 。以下、岡松参太郎文書所収資料は、出典として目録(早稲田 71.
(23) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 大学図書館・早稲田大学東アジア法研究所編『岡松参太郎文書目録』雄 松堂アーカイブズ、2008 年)記載のリール番号と資料番号を記す。 (26)「親族相続の旧慣調査に付いては小島補助委員その局に当たりたるがこ の案を作るについても同人は関係せりよって必要の場合同人をして説明 の任に当たらしめ」たとある(『臨時台湾旧慣調査会法案審査会第三回会 議議事録』臨時台湾旧慣調査会、1912 年(岡松参太郎文書所収、R-28、 C 81) 、12 頁)。 (27)『台湾親族相続令第二草案』臨時台湾旧慣調査会、1912 年(岡松参太 郎文書所収、R-26、C 60)、4 頁。 (28)『台湾親族相続令第二草案. 第一読会修正』臨時台湾旧慣調査会、1912. 年(岡松参太郎文書所収、R-26、C 61)、27-9 頁。 (29)『臨時台湾旧慣調査会法案審査会第四回会議議事録』臨時台湾旧慣調査 会、1913 年(岡松参太郎文書所収、R-28、C 82)、13 頁。 (30)『台湾親族相続法第一草案』臨時台湾旧慣調査会、1911 年(岡松参太 郎文書所収、R-25、C 57)、19-21 頁。 (31) 岡松参太郎『無過失損害賠償責任論』京都法学会、1916 年、序文 3 頁。 (32) 春山明哲『近代日本と台湾. 霧社事件・植民地統治政策の研究』藤. 原書店、2008 年、310 頁。 (33) 大審院大正 4 年 1 月 26 日民事連合部判決(大正 2 年(オ)第 621 号損 害賠償請求の件)民録 21 輯 49 頁。 (34) 田口文夫「婚姻外男女関係の法的保護に関する一考察」『専修法学論 集』97 号、2006 年 7 月、48-9 頁。 (35) 例えば、「判例の「婚姻予約」理論は、不当破棄に対する救済には役立 つが、事実上の夫婦共同生活という実体に即して内縁継続中の諸問題を 解決するには全く無力である。そこで学説は、早くから、内縁を婚姻に 準じた関係(準婚関係)として把握し問題を解決しようとする準婚理論 を提唱し」 、それが通説となったとされる。川井健ほか編『民法(8)親 族〔第 4 版増補補訂版〕』有斐閣、2004 年、141-2 頁。また、内縁を解説 する内容を含む民法テキストのほぼ全てがこの判例に触れている。 (36) 星野英一ほか編『民法講座. 第7巻. 親族・相続』有斐閣、1984 年. (復刊版:2012 年)、59-65 頁は婚姻予約と準婚理論の対比でこの判例を 詳しく取り上げ、穂積や中川の論文に触れているが、岡松の論文には触 れていない。川島武宜が戦後すぐに法律婚主義と事実婚主義を論じた際 にも、後者を穂積と中川によって代表させている。川島武宜『日本社会 の家族的構成』学生書房、1948 年、187 頁。 72.
(24) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). (37) 岡松参太郎「婚姻届出義務の不履行(一)」『法律新聞』1915 年 6 月 5 日、3 面。 (38) 同論文、5-6 面。 (39)「婚姻届出義務の不履行(二)」 『法律新聞』1915 年 6 月 10 日、3-5 面、 「婚姻届出義務の不履行(三) 」『法律新聞』1915 年 6 月 15 日、3-4 面、 「婚姻届出義務の不履行(四)」 『法律新聞』1915 年 6 月 20 日、3-5 面。 (40) 岡松「婚姻届出義務の不履行(四)」 、6 面。 (41) 阪井裕一郎「事実婚と民主主義. 視座の変容から考える現代的課題」. 『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要』74 号、2012 年、3-4 頁。 (42) その事例や統計については、湯沢雍彦『明治の結婚. 明治の離婚. 家庭内ジェンダーの原点』角川書店、2005 年、194-7 頁および湯沢雍彦 『大正期の家族問題. 自由と抑圧に生きた人びと』ミネルヴァ書房、. 2010 年、143-9 頁を参照のこと。 (43) 末川博「法学会の巨星岡松参太郎先生の思い出」『書斎の窓』3 号、 1953 年 8 月、2 頁。 (44) 岡松参太郎『台湾番族慣習研究』巻 1、台湾総督府番族調査会、1921 年、 (復刻版:青史社、2000 年)、敘言 2 頁。台湾原住民は当時の日本語 で「蕃族」と呼称されているが、岡松は「蕃」が差別用語であるとして 「番」を使用し「番族」と呼称している(岡松参太郎「母系主義と台湾生 番〔2〕 」『法学新報』27 巻 11 号、1917 年 12 月、20 頁)。本論では、引 用を除き現代の台湾史研究において用いられる用語である「原住民」を 採用した。 (45) 臨時台湾旧慣調査会『臨時台湾旧慣調査会第一部 阿眉族南勢蕃/同. 蕃族調査報告書. 馬蘭社/卑南族卑南社』臨時台湾旧慣調査会、1913. 年および、臨時台湾旧慣調査会『臨時台湾旧慣調査会第一部 報告書 阿眉族奇密社/同. 太巴塱社/同. 馬太鞍社/同. 蕃族調査 海岸蕃』臨. 時台湾旧慣調査会、1914 年。 (46) 河野喜六『臨時台湾旧慣調査会第一部. 番族慣習調査報告書』第二巻、. 臨時台湾旧慣調査会、1915 年、399-413 頁。引用中の「表」は明らかに 「妻」の誤植であると思われるので、〔 〕内に補足した。 (47) 同書、冒頭の序文(頁数記載なし)。 (48) 関口浩は、「河野の履歴については今のところ何も分かっていない」と しつつ、岡松参太郎文書を元にその経歴の概略を整理している。関口前 掲論文、33 頁。 (49) 岡松参太郎「日本民法の欠点を論じて台湾立法に対する希望に及ぶ」 73.
(25) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). 『台湾慣習記事』5 巻 3 号、1905 年 3 月、13-26 頁。 (50)『臨時台湾旧慣調査会法案審査会第三回会議議事録』臨時台湾旧慣調査 会、1912 年(岡松参太郎文書所収、R-28、C 81) 、9 頁。 (51) 岡松『台湾番族慣習研究』巻 1、敘言 8 頁。岡松とコーラーの関係に ついては、次の二つの文献に詳しい。石部雅亮「明治期の日本法学の国 際ネットワーク. 穂積陳重・岡松参太郎とヨーゼフ・コーラー」早. 稲田大学比較法研究所編『日本法の国際的文脈. 西欧・アジアとの連鎖』. 早稲田大学比較法研究所、2005 年、91-103 頁。田口正樹「岡松参太郎の ヨーロッパ留学」『北大法学論集』64 巻 2 号、2013 年 7 月、61-92 頁。 (52) 千葉正士『現代・法人類学』北望社、1969 年、63 頁。 (53) 同書、敘言 6 頁。 (54) Albert Hermann Post, Grundriss der ethnologischen Jurisprudenz, Bd. 1-2, Oldenburg: Schulze, 1894-1895. (55). John Henry Wigmore and Albert Kocourek comp., Primitive and. Ancient Legal Institutions, Evolution of law: Select Readings on the Origin and Development of Legal Institutions, vol. 2, Boston: Little, Brown and Co., 1915. (56) 編者のひとりウィグモアは、1886 年から 92 年まで慶應義塾で教鞭を 執っており、後年まで日本との関わりがあった。岩谷十郎「ウィグモア の法律学校. 明治中期一アメリカ人法律家の試み. 」『法学研究』69. 巻 1 号、1996 年 1 月、175-238 頁。 (57)『法学新報』27 巻 9・11 号、28 巻 1-5・7-8 号。全て同名の論文である ため、引用の際は便宜上、発行順に〔1〕〜〔9〕の番号を振った。 (58) 岡松における台湾原住民の分類は、岡松参太郎「母系主義と台湾生番 〔2〕」 『法学新報』27 巻 11 号、1917 年 12 月、20-6 頁で説明されている。 それによれば、「北番」として「タイヤル」族、「セーダッカ」 (「セザ ク」)族、 「サイセット」族の 3 種族があり、南番として「ソオウ」 (「ツ オウ」 )族、「プヌン」族、「アミ」(「アミス」)族、「パイワン」族、「ヤ アミ」族の 5 族がある。これを今日の台湾史研究の整理に照らしてみる と、前掲『蕃族調査報告書』に準じた分類であるといえるだろう。詳し くは、陳文玲「台湾原住民の分類及び民族名称の変遷一覧」日本順益台 湾原住民研究会編『台湾原住民研究概覧. 日本からの視点』風響社、. 2001 年、10 頁。 (59) 岡松参太郎「母系主義と台湾生番〔5〕」『法学新報』28 巻 3 号、1918 年 3 月、76-7 頁。この定義は前述の河野のそれを踏襲しているものとい 74.
(26) 比較家族史研究 第 34 号(2020 年 3 月 31 日). える。 (60) 同論文、88-9 頁。 (61) 岡松参太郎「母系主義と台湾生番〔6〕」『法学新報』28 巻 4 号、1918 年 4 月、11 頁。 (62) 同論文、13 頁。 (63) 岡松参太郎「母系主義と台湾生番〔9〕」『法学新報』28 巻 8 号、1918 年 9 月、54 頁。 (64) 同論文、61 頁。 (65) 同論文、64-5 頁。 (66) 同論文、67 頁。 (67) 同論文、70-7 頁。ここで岡松は日本の「太古の婚姻」に「母系」の起 源があるのではないかと推論している。「惟うに我邦の古俗招婿婚を本則 とし、男子は女家に入りその家族と為るを一般慣習と」しており、「母系 主義」が日本に行われていたのではないかと岡松は推論し、そのように 考えると「神代史及び上代史」の説明が容易になると指摘しており、後 代の婚姻史研究への先鞭をつけている。ただ、岡松はここまでの仮説を 示すまでにとどまり、「其の詳細に至りては更に之を後日の考究に待たん とす」として筆を擱く。 (68) Okamatsu, op. cit., Appendix p.12. (69)『台日大辞典』 (1931-2)には台湾語として「チヲサイ. 招-婿」という. 項があり、「招婿」を日本語の辞書に載せたのはこれが初めての例である と考えられる。そこには「娘の為に夫と為るべきものを家へ入れる婚姻 にして夫は婦家の姓氏及財産を承継する権利なきもの」(台湾総督府編 『台日大辞典』下巻、台湾総督府、1931-2 年、197 頁)と、岡松の定義に 沿った記述がなされている。見てきたように、「招婿」は清律にある言葉 で、台湾におけるその詳細は日本における婚姻史研究によって日本語で 定義された。それが 30 年代には、台湾語として辞書に載ったことは興味 深い点である。このような、台湾語をめぐる言語の枠組みの複雑さは、 すでに 1907 年に発行された『日台大辞典』において指摘されていた。そ こでは、「台湾における言語」を「漳州語、泉州語、客人語(又は広東 語)及び蕃語の四種〔……〕この外また、上記以外の支那語、及び日本 語の行われる範囲また少なしとせず」として、「台湾語」の範疇が複数の 言語をも巻き込むものであることが説明されている(小川尚義編『日台 大辞典』台湾総督府民政部総務局学務課、1907 年、緒言 1 頁)。また、 日本人にとっての「台湾語」そのものの認識と翻訳が、岡松の生きた時 75.
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