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沖縄マンガ史・試論-沖縄マンガの黎明期-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

大城, 冝武

Citation

沖縄キリスト教学院大学論集 = Okinawa Christian

University Review(7): 29-38

Issue Date

2010-12-24

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/9548

(2)

沖縄マンガ史・試論

一 沖 縄 マ ン ガ の 蕊 明 期 一

大 城 宜 武

要 旨 本稿は、1832年から1945年までの沖縄マンガをレビューしたものである。沖縄マンガの淵源を葛飾北斎の「琉 球八景」に求めた。ついで明治初期の琉球帰属問題を題材とした調刺画の検討を行なった。八重山蔵元絵師・宮 良安宣の画稿、さらに、沖縄で最初の商業新聞である『琉球新報』に掲載のマンガを調べた。明治34年および35 年に調刺画が掲載されていたことが見出された。また、琉球(沖縄)生まれの下川凹天の業績について検討した。 下川凹天は、沖縄ではなく東京で漫画家として大活躍をしていた。明治45年に『琉球朝日新聞』に4コママンガ が連載されていたことが明らかにされた。戦時中の1945年に、米戦闘宣伝部は宣伝新聞『琉球週報』にマンガを 掲載していた。 は じ め に 本研究の目的は、沖縄マンガ史の構成を目指した試 論である。沖縄マンガ史については、断片的な論考は い く つ か な さ れ て い る が 、 通 史 的 な 研 究 は 始 ま っ た ば かりである(大城、2010a、2010b)。大城(2000 は 、 沖 縄 マ ン ガ の 始 ま り を 大 正 期 の 下 川 凹 天 に 措 定 し ていたが、文献的にはもっと遡れそうである。もっと も、これは沖縄マンガをどう位置付けるかによる。大 城(2000は、マンガではなく「コミック」の表記 の も と に コ ミ ッ ク 概 念 に つ い て 「 コ ミ ッ ク 的 な も の を コミックと呼ぼう」(p、182と、,思いきった定義を与 え、沖縄コミックについて次のように述べている。 沖縄の作家による、沖縄をテーマにした、沖縄で 発 表 さ れ 、 沖 縄 で 流 通 し て い る 「 コ ミ ッ ク 」 と 定 義 していいのかどうか。(同) こ こ で は 、 ① 沖 縄 の 作 家 で あ る 、 ② 沖 縄 を 題 材 に し ている、③沖縄のメディアに掲載されている、の条件 のいずれか一つを満たしておれば、沖縄コミック、す なわち沖縄マンガである、と定義しておこう。

1沖縄マンガの禦明:中島蕉園(葛飾北斎)

中国皇帝によって琉球王国に遣わされた冊封使・周 埠の復命書である『琉球国志略』(1757刊行)に、琉 球の景勝地を描いた「球陽八景図」が添付されている。 『琉球国志略」の日本版が1831年に徳川幕府から刊行 されている(浦添市美術館(編)2010参照)。浮世絵 師の葛飾北斎に琉球の景勝地を描いた「琉球八景」が ある。浦添市美術館(2010)は「1800年代には、江 戸上りに伴って非常に多くの琉球関連物が出版されま した。北斎が描いた「琉球八景」もその中の一つで、 1832年の江戸上りにあわせて制作されたと言われて います」(p.l)と記している。 おそらく幕府版「琉球国志略』の「球陽八景図」に インスパイアーされて「琉球八景」が描かれたもの、 と推測される。単なる摸写ではなくパロディー的創作 が 加 わ っ て い る 。 「 球 陽 八 景 図 」 中 の 2 作 に は 富 士 山 を連想させる形状の山の遠景が描かれている。北斎は 「球陽八景図」に触発され、原画中に、日本人馴染み の富士山を描き加えたものと考えられる。「中島蕉園」 (図1参照)の原画には描かれていないが、「琉球八 景」では北斎は富士山と‘思しき山と孤舟を描きこんで いる。北斎が琉球を訪れた史実は確認されていない。 琉 球 を 描 く 8 作 品 中 3 作 品 に お い て 、 琉 球 で は あ り えない富士山が後景に配されているのが興味深い。ま た、原画には描かれない舟や人物も追加されている。 短歌における本歌取りである。北斎は「球陽八景図」 のパロディとして「琉球八景」を創作したものと解釈 できる。琉球の景観は中国を経て日本に伝わり、北斎 の想像力を掻き立てたのである。 また、北斎は源為朝に材を採った滝沢馬琴の『椿説 弓張月」の挿絵を描いており、北斎にストーリーマン ガの萌芽を見ることが出来る。

2 明 治 日 本 で 描 か れ た 琉 球 ・ 沖 縄

明治初期、琉球王国の帰属をめぐって、清国と日本 の間には国際的な葛藤があった。この問題を中心に日 本の調刺パロディ雑誌は、多くの調刺画を掲載してい − 2 9 −

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た 。 琉 球 ・ 沖 縄 問 題 を 題 材 と し た 作 品 群 で あ る 。 2.1龍宮の争い(明治10年3月) 文 献 的 に 確 認 で き る 、 沖 縄 が 調 刺 画 と し て 描 か れ た 最初の作品は、図2に示す「龍宮の争・い」(『園園珍 聞」明治10年3月14日)であろう。作者は、署名や 落 款 が な い の で 判 然 と し な い が 、 お そ ら く 本 多 錦 吉 郎(ほんだきんきちろう、嘉永3年12月2日(1851 年1月3日)−大正10年(1921年)5月26日))であ ろう。本作は『園園珍聞」の創刊号に掲載された。調 刺 画 は 「 狂 画 」 と 呼 ば れ た 。 あ る い は 、 於 東 京 絵 ( お どけえ)と呼ばれた。『園園珍聞」は、於東京絵を標 傍している。創刊者の野村文夫(1836年-1891年) は、脱藩密航留学経験があり、西洋の事情に通じてい た。一時内務省のお役人をしていたが辞職、在野にあっ て政府批判の急先鋒となった。 琉 球 王 国 は 、 日 中 両 属 の 国 際 関 係 か ら 、 清 国 と 日 本 国の間に領土問題があった。すなわち、両国とも琉球 の領有を主張していた。「龍宮の争い」は、「りゅうきゅ うの争い」である。龍宮ではないが、龍宮を想起せし める効果がある。図の中心に琉球を表象する子供を置 く。子供の頭部は「球」である。球は玉であり珠であ る。珠は掌中の珠であり、とても大切な子供である。 さ ら に 、 琉 は 龍 で あ る 。 龍 の 子 を 目 的 に 清 国 と 日 本 国 の親権争いの様である。 左右の龍は、右が撫髪で中国装であることから清国、 左は日本髪、和服であることから日本だと知れる。詞 書きの最初は、清国、続いて日本国、図中底辺部には 琉球の主張が記されている。琉球の主張は「どっちで も い い が 、 身 体 が 一 つ で し か た が な い よ 」 と な っ て い る。詞書きを著述したのは、梅亭金鴬であろう。戯作 者である。 『園園珍聞』は、その後も「琉球処分」を巡る問題 に関心を持ち続けた。『園園珍聞』の姉妹誌『駿尾団 子』も琉球帰属問題をテーマとした調刺画を掲載して いる。 2.2親方が凱旋する(明治12年1月) 明治11年末、琉球使節が密書を持って、外交条約 を締結していた仏、米、蘭に接触を図るという「事件」 が起こった。日本国の琉球併合に危機感を抱いた結果 であった。仏、蘭は拒否し、米国は本国に間合せると い う ス タ ン ス で あ っ た 。 図 3 は 、 こ の 事 件 を 詞 刺 す る。琉球の清国への親和’性を強調している。してやっ たりの琉球、,慌てふためく日本、傍観する米国。 この事件は、政府を激昂させた。琉球使節は東京退 去処分にされた。民権派であったはずの『朝野新聞』 は 、 領 土 問 題 に つ い て は 国 粋 主 義 で あ っ た 。 高 橋 基 一 記者の激烈な批判文を掲載した。 甚だしいかな琉奴の我が日本帝国を蔑視するや甚 だしいかな琉奴の支那国に傾慕するや我が厚遇を忘 れ我が寵春に背き斯くの如き無礼不敬の文章を作為 し 之 を 外 人 に 捧 げ 猶 顕 然 と し て 我 が 東 京 に 駐 在 す (明治12年2月10日、|日漢字は新漢字に書き換えた) 「琉奴」などと悪態をついている。 2.3判を剣に=藩を県に(明治12年4月) 明治12年は、沖縄が日本に併合された年である。 この事件は格好の調刺テーマであり『我楽多珍報」 (明治12年創刊)は、辛諌な調刺画を掲載した。図4は、 琉球における廃藩置県を認刺する(明治12年4月12日)。 明治5年に明治政府は、一方的に琉球国王を「琉球藩 王」に陸した。この時点で琉球王国は消滅し、琉球王 国は琉球藩にされた。当然琉球側が肯んじるはずがな い。しかし日本国は松田道之を遣わし、また、警察と 軍隊でもって王宮首里城を占拠してしまう。いわゆる 琉球処分である。画中剣を振りかぶる人物が処分官松 田道之である。洋装であるのに草履をはいている。ち ぐ は ぐ さ は 松 田 へ の 、 ひ い て は 日 本 国 へ の 潮 笑 い で あ る。塵を帯で掃いているのが木梨精一郎である。県令 心得を拝命している。判=藩を剣=県にしようとする 暴挙を弧刺している。判には「龍宮」と刻まれており、 琉球藩である。あくまで藩であって琉球王国ではない。 詞 書 き で 、 日 本 政 府 が 琉 球 側 の 対 応 に 苛 立 っ て い る 様 が記述されている。久保田米遷(1852年-1906年) の筆になる。 『我楽多珍報』はこの他にも、琉球処分帰属問題の 調刺画を掲載している。 2.4紙細工製造所(明治12年8月)

図5は、『稔猫珍報」に掲載された調刺画である。

本誌は調刺画を「戯絵」と表記している。調刺画の作 者は不明である。 3 0

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図5紙細工製造所の図(『文妙戯化鯨猫珍報』第4号、明治 12年8月19日) 缶 図1中島蕉園(葛飾北斎『琉球八景』のうち)浦添市美術館蔵 IJ9jl︲︲11︲4111.111トー91101111.6ⅡIl01I1III1l1jI﹃9︲llIIrIⅡP4ⅡⅡU6676日FlIlLI■■■■■■■■1■■■1Ⅱ日司4○0口01割lP.lサゴ60■0r■Ⅱ■■0日ⅡⅡⅡⅡⅡⅡ71ⅡⅡⅡⅡⅡⅡ901■■■lⅡ■■0ⅡⅡ00Ⅱ■Ⅱ0ⅡU−0■l■0日P 厭き犀が鴎野撚士 やら乱み¥◎ 握れて、見て尼北温 へぞ錆一ご餅の読も 盤へいつP鞭い、4 熱蝿払だ銑年詠鍛や 唾湖物か備定略曾の 負△あん吃.ごRn誌一屯蛇雰句 縁侭鋳共里人か4カ つ、そ分寸盈劃く退へ を詮したが共騎手魂 亭ミで,や鯉い”上&め い蝿。ご出て大椀恥粉 0︲。Fざつ移、二心 ・・・引取彪室や錘琴扱 “写ら&歩。■●・令勺﹀浄 瀬粥へ寓誕か知て恩 鼎﹂ぬ△1.口、叩らノ ジァ・火か外潔潅が何 ○ひ巳●しず﹄凸、. でも!ろ一角共’く1 4a︾︲pJ︲合、.□■︲凸■r︲◆ ■c妙■毎口.、■■●b 隣i己目今霞、麗式 Bうう己宰捉 熟,!︾て篭an蕊・諺へ ・毎患篭奮一“字︲+う 一夫魁局己自n日行 4。ごい乙舜参へ翼やこ予予a 卿客批上眼か大いが 氏唱むど砂湛︲0も一夷尿、 ,恥同意も鋤碓善卵鯛質 かもロ如穴や8斗哉踊 輔い知己日が生闘 さ・邸o・へ。、島切 一十二口﹄曲函か内碑ハ︽“ 〃師9,﹃が免訴〃卜 と児島押撫誕島小オ ーム℃ペマ 詞郡蝿へ﹄て 少 媒人一 り多色 O罷一 ◎◎ かょ虫な ◎◎蛇 からの他 炉くぺつ 格別かれ 。0.◎ ったんだ 釘と のこども哩思は なければなんでうんなに肩をいれるものう﹂ ﹁さきだつ のう一 くれてつ 。O gなわん 釦もが︽って ぽかさな いっ たと盲て ◎。◎ らに険ん 封つ 這ちらぅ ったのだ 匂うあわそい 宮の零 0◎ 一のよせいの退官たって

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坐 . な た ゑ つ が 身 鯵 い も ち 吾 v , が ク で 一 蝋 が い で っ 一 鯖蛤が芋を盗るの図(『人間菖事興し静誌』第4号、明 治10年3月14日) 図 6 龍宮の争い(『国園珍聞』明治10年3月14日) 図 2 で u ウ尉 鴎

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むずかる子をあやす図(『嬢尾園子』第50号、明治12年 10月8日) 図 7 親方が凱旋する(『妙妙雑姐』明治12年1月17日号) 図 3 一一 ● 一 一 一 ロ ● す ● 一 △ 且 ■ 屯 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ▽ 一 一 一 一 一 ゆ ● 一 ○一 一 一 一 一 口 − − − − L = 一列︾︲だもきめ砂子耐卿乎江鋤で唯自訓.言奴ハw︾斗 一瓢︽,,、‘T伽︲リゾ十ソウハョ幸せ,九堂の不恥きん〆が一 一一F叫鱗I﹂球“以出雅子へむし蝿I4や.欺湘飯ソー﹄、¥:りか 手捌晦がコレ化小照り1沖肌糸駄ぱなし〆脚んしも汝rrも一 声ルル蛎峠”峠順畔峠順岬岬岬岬崎畔畔岨噸仙咋峠脈いい鵬陸IiIIIiI1II﹄ − ● わ 一 も − 一 ー ー ‐ ー ●

一 一 = 一 二 龍宮判処分される(『我楽多珍報』明治12年4月11日号) 図 4 和漢の争い(『文明静音同楽相談』第5号、明治13年4 月11日号) 図 8 3 1

(5)

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、∼リ 図13男女の図(『八重山蔵元絵師画稿集』より)石垣市立八 重山博物館蔵 〆

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雲・除笥斜・篭・垂釧当Ⅷ副川副 図14丑年を寿ぐ(『琉球新報』明治34年1月1日) 罫クー巴・裂洲狸 図10琉球芋の蒸返しの図(『能弄戯珍誌』第17号、明治14 年9月20日) 9 球 ヨ . ユ 何 r 剛

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図15虎登場す(『琉球新報』明治35年1月1日) 織蝿 豚芋畑を荒さんとする図(『生久楽心誌』第5号、明治 14年9月23日) 鋸・ 毛 . _ 務 図11 .︲ず・廷 4〆官金蕊一溌扇繍奉 職 ′ 狸 図12男女の図(『八重山蔵元絵師画稿集』より)石垣市立八 重 山 博 物 館 蔵 図16広告マンガ(『琉球新報』明治35年7月28日) − 3 2 −

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日刊〃別β砧″貝〃q″且〃L〃、″bU0″刀〃昂で、〃?’、″、″、″q″もβq″了名刀I〃凸″RJ9J、〃うf Je七︶コレワ、ワタシノe八︶テノゥチニ、今ル

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− 図17神出鬼没マゴジものがたり(『東京毎夕新聞』大正11年 3月) ︲1 ゆ●B● 狸、: f00r0ⅡI.1.1口qDf■■■■96ⅡⅡⅡ009Ⅱ8,9.111日■心b■ⅡⅡ806ⅡⅡⅡUL&■■■■■■■U■■■■■gaI■■■且■B■ⅡⅡⅡ■■■■■且■■■■図08■■■。、■1JⅡ■■Ⅱ05DDI■■■■■■■■IlllりりLP︲。■■l・IIlp0lⅡUll ?つr呼詫もつ呂 鴎厄介な駄々児農島諜が琴で#ても瀞てL冒卜く とざらがる唯球値準舜鐸諏画冷嘩へて瞬電ろこ皇でしで露せるがそれでし奉だ港野迂 令や〃いみの己宅§ ぬサイトウ厄介な室坊 図19女は国宝(『沖縄朝日新聞』大正15年2月10日) 卒 兵 耳 大 と 尉 大 瓜 南 図20南瓜大尉と大耳兵卒(『琉球週報』第1号1945年4 月29日) 図18厄介な駄々っ児(『東京毎夕 新聞』大正元年11月4日) 明治12年4月1日は琉球王国が日本に併合された日 である。5月には県令・鍋島直彬が赴任した。詞書き に「大和屋の新店」とあるのは、琉球国が日本国の版 図 に 入 っ た こ と を 意 味 す る 。 図 中 右 の 2 人 は 琉 球 人 で あ る 。 髪 に 2 本 の 善 を 挿 し て い る 。 小 さ く 描 か れ た清国人に対して低姿勢の態である。しかし、これは 清国に対する日本の優位を印象付けるものである。清 国の軍事力に対して、紙細工ほどの位置づけしかして いない。 支配されているとはいえ琉球の地位は暖昧のままのよ うである。 2.6むずかる小児(明治12年10月) 『園園珍聞』の姉妹雑誌「駿尾団子」も、琉球処分 問題を取り扱った調刺画を幾度となく掲載している。 図 7 は 、 日 本 の 指 示 に な か な か 応 じ な い 琉 球 に 対 し て 、 あ の 手 こ の 手 の 策 を 弄 す る 日 本 政 府 を 調 刺 し て い る。 画 の 中 央 の 泣 き わ め き む ず か る 小 児 は 琉 球 、 そ し て 琉球王・尚泰である。まわりでいろいろ機嫌を取ろう とする男女は日本政府の琉球施策である。「ジ令」の 短冊が気を惹く。右手の鍋は鍋島直彬(1843∼1915 年)である。初代沖縄県令、そしてのちに県知事であ る。琉球処分のこの年(1879(明治12)年)に琉球に 赴任。37歳の若さであった。彼は、肥前鹿島藩の第11 2.5靖蛤が芋を盗るの図(明治12年9月) 図 6 は 、 琉 球 処 分 を 調 刺 し て い る 。 画 家 は 不 明 で ある。錆蛤は日本を表す。豚は清国を表す。芋畑は琉 球王国を表す。明治政府は琉球王国を処分し、自国の 版図にしてしまった。琉球にとっては琉球王国だが、 日 本 にと って は琉 球藩であ る 。 国際 法 上、 日 本 に 実 効 − 3 3 − 凸 a 1 国 蝿 I − 席 ー︻4 ■■■ F▼可 、 ■■■ F▼可 、 = 園 可凶■■ & 鰯

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代 そ し て 最 後 の 藩 主 で あ っ た 。 当 時 の 琉 球 を 星 野 英 夫 (1954)は、「痛属の地、難治の国」(p.105)と評し て い る 。 「 痛 」 す な わ ち 熱 病 と 、 統 治 困 難 な 地 の 意 で ある。手を焼いていることが伺われる。さらに民情を 次のように説明している。 当 時 沖 縄 は 琉 球 玉 の 東 京 移 住 に 対 す る 旧 藩 士 の 激 昂、公の新県令としての赴任の反抗は秘密結社を設 けたり。清国に救援を乞ふものあり、|日藩士は租税 を横奪し、頑民は暗夜県官に石を投じて迫害するよ うな状態であった。(p.108) 酷い評言ではある。琉球側の非道を誹誇している。 琉球国王・尚泰は、東京赴任を拒絶していた。 2.7和漢の争い(明治13年2月) 琉球帰属問題はなかなか決着しない。年が明けても 格好の調刺対象の画題であった。 図 8 『 和 漢 の 争 い 』 の 画 家 名 は 不 詳 で あ る 。 い が み合う清国と日本、漁夫の利を狙う英国(ライオン) と露西亜(鳶または鷲)。外題の「和漢」は、いうま でもなく大和と中国のことである。画中に琉球を表象 す る も の は 描 き こ ま れ て い な い が 、 何 で 争 っ て い る の かに,思いを致せば、琉球帰属、領有権争いであること は自明であろう。 2.8車の音の図(明治13年12月) 日本は琉球藩を廃し、沖縄県としていたが、帰属問 題 は ま だ 決 着 し て い な い 。 明 治 1 3 年 当 時 、 清 国 と 露 西亜はイリ問題で緊張関係にあった。清国は露西亜と の交渉で日本との交渉に手が回らない。このため琉球 帰属問題の交渉は停滞していた。交渉の内容は、琉球 分割であった。一部は清国へ、一部は独立、一部は日 本に併合、という形に決着するはずであったが、結局 うやむやのうちに日本の領有するかに至った。 図 9 の 作 者 は 不 詳 で あ る 。 車 の 音 を 「 強 魯 」 と 表 記している。「魯」は露につながる。露西亜である。 どうやら、清国は劣勢のようである。大八車に蹴散ら されている。清露の詩いを日本は山頂から高みの見物 である。靖蛤は日本を象徴する。 2.9琉球芋の蒸返しの図(明治14年9月) 明治14年、琉球帰属問題はなお決着しない。三分 割案は雨散霧消した。図10は、琉球帰属問題が煉っ ていることを調刺する。芋を洗い、蒸し返すのは清国 である。芋洗いの盟には「しなのや」の文字が見える。 画 面左手 手前は 日 本、煙 草 を煉ら す は西欧 列 強であ ろ う。作者不詳。 2.10豚芋畑を荒らさんとする図(明治14年9月) 図 1 1 は 、 琉 球 帰 属 問 題 に 関 わ っ て 、 清 国 を 非 難 す る調刺画である。作者不詳。 芋畑から「泡盛」の壷が掘り出されている。芋も泡 盛も琉球の象徴である。画面左手の若旦那風なのが日 本 で あ る 。 2 頭 の 豚 は 清 国 で あ る 。 清 国 が 日 本 の 領 土を荒している、との調刺である。

3 男 女 の 図 一 宮 良 安 宣

八重山蔵元の絵師宮良安宣(1862-1931)に、後 に『八重山蔵元絵師画稿集』としてまとめられるスケッ チがある。喜舎場永殉(1977)によれば宮良は毛喬 氏 第 十 世 で あ る 。 宮 良 が 蔵 元 絵 師 の 職 に あ っ た の は 1891-1897であるので(石垣博孝、1983参照)、「男 女の図」が描かれたのは明治中期頃と推測される。画 稿 集 に 「 男 女 の 図 」 2 枚 が 収 め ら れ て い る 。 恐 ら く 2 枚組であろう。酒飲みの男、たしなめる女(図12)、 夫 婦 で あ ろ う 。 男 は 飲 み 続 け る 。 業 を 煮 や し た 女 が 長 煙管でもって男を打榔する(図13)。滑稽味が充満し た 作 品 で あ る 。 2 枚 続 き と す れ ば 、 続 き マ ン ガ の 体 裁 を と っ て い る と も い え よ う 。 本 作 が 純 粋 な 意 味 で の 沖縄マンガの始まりであるかもしれない。すなわち、 沖縄人による沖縄を題材とした作品であるからである。 た だ し 、 本 作 は 素 描 で あ り 、 宮 良 の 生 前 に は 一 般 に は 流布していない。

4 明 治 期 の 沖 縄 の 新 聞 メ デ ィ ア ・ 琉 球 新 報

沖縄で最初の新聞は『琉球新報』である。1893 (明治26)年9月の創刊である。大田(1983)は、琉 球新報の創刊者は「首里の│日支配階級の青年派に属す る20代の若者だった」(p.886)としている。この頃

「琉球新報』の他に、寄留商人の利益を代表する『沖

縄新聞」(1905年-1914年)、那覇・郡部の利害を代 表する『沖縄毎日新聞」(1908年-1919年)が創刊さ れていた。これら2紙については未調査であるので、 マンガ(調刺画)が掲載されたかどうかについては今 − 3 4 −

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後の課題である。 4.1丑年を寿ぐ(明治34年1月) 近代沖縄の最初のマスメディア『琉球新報』に沖縄 を テ ー マ と す る 調 刺 画 が 掲 載 さ れ た の は 明 治 3 4 年 1 月 1 日 の こ と で あ る 。 落 款 も 署 名 も な い の で 作 者 は 現在のところ不詳である。(図14参照) 絵の中央に牛を配し、左手には鼻づらにつなぐ綱と 鞭を持つ少年、右手に甘蒔を描いている。空白部の多 い、いたってシンプルかつ静諦な作品である。訓刺性 はあまり感じられない。「牛口勢つき甘蒔も上作」 と賛が描かれている。明治34年の干支は丑である。 甘蒔(サトウキビ)で沖縄を表象している、と読める。 4.2寅年来る(干支の図)(明治35年1月) 『琉球新報」紙に最初の調刺主旨をもった画が掲載 されたのは、資料的に確認できるものとしては1902 (明治35)年1月1日号においてである(図15参照)。 この年、1902年の干支は寅である。図にみるように、 画の中心には寅(虎)を置き、右下には丑(牛)、画 面左上には卯(兎)を置いている。時間は画の右から 左方向に流れている。つまり、丑年から寅年へ移ると いう趣旨の作品である。過ぎ去る牛は如何にも貧相な なりで継ぎはぎの粗末な芭蕉布の野良着であり、杖を つき、背にクバ傘を負い、腰には煙草入れと煙管を帯 び、画面右手に巻き取られていく。虎は、洋服の一着 におよび自転車に跨り、卯年に向かっている。当時、 自転車は最先端のハイカラな乗り物である。虎が向か う未来には、銀行、博覧会、官業組合、会社などの経 済的富と豊かさが象徴されている。 この頃の「琉球新報」について大田は次のように記 している。 明治30年代も半ばごろになると、『琉球新報』同 人は、当初の計画どおり寄留商人の手から政治・経 済 上 の 支 配 権 力 を ほ ぼ 奪 回 す る の に 成 功 す る 」 (p、887 『琉球新報』同人は船会社を作り、銀行頭取に就い たり、議会議長に就いたりしており、この調刺画は、 琉球新報同人の得意な雰囲気をも写している。 「寅年来る」の作者は山口瑞雨である。山口は、栃 木 県 の 生 ま れ 、 本 名 は 丸 山 正 美 で あ る ( 結 城 素 明 、 1953、P.269参照)。山口については、新城栄徳の インターネットサイトに詳しい(URLR)。新城によ ると、山口瑞雨は1868年10月21日に生まれる。平福 穂庵に師事した。1896年12月に沖縄県師範学校兼中 学校に図画教師として赴任した。27歳の青年教師で ある。1903年から首里区立工業徒弟学校の図画教師 も兼任した。1903年、山口は沖縄を離れる。昭和6 年6月18日没、享年82歳である。沖縄美術界の牽引 役を果たしたようである。 4.3吹き出しもある(明治35年7月) ス ト ー リ ー マ ン ガ の 構 成 素 と し て 「 吹 き 出 し 」 は 必 須であるが、沖縄の新聞で明治35年にはすでに「吹 き出し」が使用されている。仁丹の宣伝イラストであ る。口から吹き出してくる吹き出し線を伴った吹き出 しである(図16参照)。作者は不詳である。

5 下 川 凹 天 の 初 期 作 品

下川凹天(1892(明治25)年5月2日-1973(昭 和48)年5月26日)は、沖縄県宮古島で生まれた。 父 親 は 教 育 者 で あ り 、 父 親 の 死 後 7 歳 の 剛 、 母 親 の 郷里鹿児島に移転、その後伯父に引き取られ東京に移 住。北津楽天の内弟子となる。下川凹天の事績は大城 に詳しい(URL②参照のこと)。代表作に『男やもめ の巌さん」『無軌道父娘』「鋼チャンの人生日記』その 他がある。漫画の理論書や教則本も著している。また、 日本最初のアニメーション制作者としても知られる。 5.1沖縄初期のコミック・ストリツプス 下川凹天のコミック・ストリップス(続きマンガ) は、恐らく図'7に示す「神出鬼没マゴジものがたり」 であろう。大正元年(明治45年)に上映され、日本 全国を席巻した「怪盗ジゴマ」からアイディアを拝借 したものと考えられる。絵と詞が分離している。6コ ママンガの形になっているが、いわゆる起承転結型の 構 成 で は な く 、 長 い 続 き マ ン ガ の 一 部 で あ る 、 と 認 識 される。 5.2下川凹天の初期調刺マンガ 下 川 の 最 初 の 著 作 『 ポ ン チ 肖 像 」 は 大 正 5 年 に 出 版されている。朝日新聞でマンガを担当していた岡本 − 3 5 −

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一 平 の 序 を 得 て の 出 版 で あ っ た 。 タ イ ト ル の 如 く 著 名 人 の 肖 像 画 が 中 心 で あ る 。 特 筆 す べ き は 、 友 人 知 人 の 漫画家が多数寄稿していることだ。その中で、下川凹 天の宮古での幼少時代のエピソードが描かれていたり する。 図18は、『東京毎夕新聞」に掲載の調刺マンガであ る。海軍大臣・斎藤実を詞刺する。軍人の軍備増強要 求を調刺している。この年、海軍大演習が行われてい る。

6 女 は 国 賓 ・ ・ ・ 『 沖 縄 朝 日 新 聞 』

『沖縄朝日新聞」は、『琉球新報」の記者がスピン アウトして1915(大正4)年に創刊したものである (保坂広志、1983,P.429参照)。時に大正天皇即位の 当日である。 「女は国賓」(図19)は、沖縄の新聞メディア初の 4コママンガだと‘思われる(大正15年2月10日掲載)。 作者の尾上金城は、県外の作家である。マンガ家は相 田杜里夫であるが詳細は不明である。恐らく沖縄県外 者 で あ ろ う 。 作 品 は 「 連 績 漫 書 」 と 明 記 さ れ 、 掲 載 回 数が「(31)」となっている。1月の上旬頃から連載 が始まったものと推測される。さらにコマ番号表記が 17から20となっているので、4コマの連載4回目で あることが推測される。本作品は13日、14日の紙面 で も 掲 載 さ れ て い る こ と が 確 認 で き る が そ の 前 後 に は 確認できていない。本紙は欠落部分が多く、詳細は後 日の調査に譲りたい。この回の内容は、夫が妻の掌で 保護されている様を描いている。つまり、女‘性が男’性 を保護するという、女権拡張の含意がある。

7南瓜大尉と大耳兵卒・・・『琉球週報』

「琉球週報」は、米軍の沖縄上陸がなった1945年4 月29日に創刊号が出されている。発行元は米戦闘宣 伝部隊である(大田、2004参照)。大田はこの宣伝 新聞が「沖縄現地で印刷された」(p.226)と述べて いる。さらに、この新聞の概要を次のように述べてい る。 『琉球週報』米軍の前線部隊が沖縄で発行したも の 。 す べ て 手 書 き 。 米 軍 が 沖 縄 に 上 陸 し た こ と を 伝 え る 第 1 号 か ら 、 ド イ ツ 降 伏 を 伝 え る 号 外 を 含 め て、5号(5月20日発行)まで出された(p.227)。 日本終戦まで後3カ月である。『琉球週報』は米軍 による‘情報宣伝作戦としての媒体であり、本文は漢字 にルビがふられ漢字力に問題のある住民にも読めるよ うに配慮されている。マンガも掲載され、ソフトな内 容 に な っ て い る 。 マ ン ガ の タ イ ト ル は 「 南 瓜 大 尉 と 大 耳 兵 卒 」 、 作 者 は 不 詳 で あ る 。 日 系 二 世 の ス タ ッ フ が 関係しているらしいことが推測できる。このマンガは 『琉球週報』だけでなく宣伝心理戦を仕掛ける「布畦 週報」、『まこと」にも掲載されている(沖縄県公文書 館、(編))。図20は、ドイツの総統ヒトラーを話題に している。ドイツ語の「ハイル」と日本語「入る」の 発音の類似‘性を用いた地口で操りを狙っている。敵国 の 首 脳 で あ る ヒ ト ラ ー を 瞳 い も の に し 権 威 を 失 墜 さ せ る 意 図 は 明 ら か で あ る 。 第 2 号 ( 5 月 6 日 に は ヒ ト ラ ー 死 亡 の 記 事 が 掲 載 さ れ て い る 。 全 5 号 の う ち マ ンガ「南瓜大尉と大耳兵卒」は4回掲載されている。 マンガの内容自体は他愛ない軍隊生活の笑いを誘うも のである。そうだろうか。宣伝の意図があるはずであ る。このマンガが沖縄マンガであるかどうかは疑問の あるところである。しかし沖縄人(日本人)を対象と して描かれていることは確かである。戦時中の敵対宣 伝媒体である新聞にマンガを掲載するといった米国の 戦略は驚異的である。

お わ り に

本稿は、沖縄のマンガについて梨明期の状況につい て検討したものである。最初期の沖縄マンガ制作者を 浮世絵師・葛飾北斎と考えた。描かれた沖縄と呼ぶに ふさわしい。明治初期には、いわゆる「琉球処分」を 題材とした調刺画が描かれた。画家達は沖縄人ではな い。 明治中期ごろの八重山蔵元絵師の宮良安宣の、「男 女の図」が狭い意味での沖縄マンガの祖と言えるかも しれない。ただし、本作は素描であり、複製頒布され たものではない。 明治26年に、沖縄初の新聞『琉球新報』が創刊さ れ、同紙にマンガらしきものが掲載されたのが明治34 年である。さらに、調刺的色彩の強いマンガが現れる のは明治35年である。この場合も制作者の山口瑞雨 は県内居住者ではあるが、県外者である。 明治45年あるいは大正元年に、沖縄県の宮古島生 まれの下川凹天が作品を『東京パック(第2次)』や − 3 6 −

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『東京毎夕新聞」に掲載し始める。ただし、彼の両親 とも沖縄県外者であり、彼は沖縄をテーマとした作品 も 発 表 し て い な い 。 下 川 凹 天 を 沖 縄 の マ ン ガ 家 と は 呼 ぶには晴曙いがある。 大正期の終期に4コママンガが沖縄の新聞メディ アに掲載されるが、作者、画家とも沖縄県外者であろ う。 こうして、幕末から明治、大正期を通じて沖縄のマ ンガ状況は梨明期の段階であった、といえよう。

参考・引用文献

保 坂 広 志 1 9 8 3 「 沖 縄 朝 日 新 聞 」 沖 縄 大 百 科 事 典 刊 行 事 務 局 (編)『沖縄大百科事典』上沖縄タイムス社p.429. 保 坂 広 志 1 9 8 3 「 沖 縄 毎 日 新 聞 」 沖 縄 大 百 科 事 典 刊 行 事 務 局 (編)「沖縄大百科事典』上沖縄タイムス社p.585. 石垣博孝1983「宮良安宣」沖縄大百科事典刊行事務局(編) 『沖縄大百科事典」下沖縄タイムス社p、608. 喜舎場永殉1977『八重山民俗誌』下沖縄タイムス社 栗原達男2009「北斎の沖縄」『翼の王国』通巻485号pp.40-63. 星 野 英 夫 ( 編 著 ) 1 9 5 4 『 鍋 島 直 彬 公 博 』 鍋 島 直 彬 公 四 十 年 祭 記 念 会 牧港篤三1983沖縄新報」沖縄大百科事典刊行事務局(編) 『沖縄大百科事典」上沖縄タイムス社p.538. 宮良安宣(石垣市立八重山博物館(編))1993『開館二十周年記 念 八 重 山 蔵 元 絵 師 画 稿 集 』 石 垣 市 立 八 重 山 博 物 館 沖 縄 公 文 書 館 ( 編 ) 不 明 『 太 平 洋 戦 争 に お け る 米 国 作 成 宣 伝 ビ ラ 』 1 沖 縄 公 文 書 館 大城亘武2000「沖縄コミック史」天空企画(編)『沖縄ポップ カルチヤー』東京書籍pp.182-192. 大城亘武2010a「沖縄マンガの展開」島袋直子(編)『沖縄マン ガ展』(図録)文化の杜共同企業体pp.40-41. 大 城 宜 武 2 0 1 0 b 「 沖 縄 マ ン ガ の 系 譜 」 上 、 中 、 下 『 沖 縄 タ イムス』7月21日、22日、23日。 大田昌秀2004『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店 大 田 昌 秀 1 9 8 3 「 琉 球 新 報 」 沖 縄 大 百 科 事 典 刊 行 事 務 局 ( 編 ) 『沖縄大百科事典」下沖縄タイムス社pp.886-887. 周 煙 ( 原 田 閏 雄 訳 注 ) 2 0 0 3 『 琉 球 国 志 略 』 椿 樹 書 林 浦 添 市 美 術 館 ( 編 ) 2 0 1 0 「 北 斎 の 描 い た 琉 球 琉 球 八 景 」 浦 添市美術館友の会 山崎英祐1981『園園珍聞』1(復刻版)平文社 結 城 素 明 1 9 5 3 『 婆 文 家 墓 所 誌 』 畢 風 書 院 U R L ①新城栄徳http://ryubun21.net/index.php?itemid=542&catid=2 ②大城宜武http://www.ocic.ac.jp/faculty/yositake/yositake/hekoten.html

附 記

l葛飾北斎・作「中島蕉園」(『琉球八景』の内)は、浦添市美 術館のご厚意で、掲載することが出来ました。記して感謝申し上 げます。 2明治初期の調刺画については、東京大学法学部│吋属明治新聞雑 誌文庫(現近代日本法政史料センター[明治新聞雑誌文庫]) の資料を使用しました。記して感謝申し上げます。 3「男女の図」(『八重山蔵元絵師画稿集』より)は、石垣市立 八 重 山 博 物 館 の ご 厚 意 に よ り 転 載 す る 事 が で き ま し た 。 記 し て 感 謝申し上げます。 4 本 研 究 の 実 施 に 当 た り 、 新 城 栄 徳 氏 よ り 山 口 瑞 雨 お よ び 「 女 は 国賓」についてご教示をいただきました。記して感謝申し上げま す。 5『琉球朝日新聞』の複写資料では不鮮明であったマンガ家名が、 沖縄県立図書館の斡旋と、原紙を所蔵している名護市立博物館の 厚意で明確にすることができました。記して感謝申し上げます。 6『琉球新報』のマイクロフィルム資料は、沖縄県立図書館蔵、 複写版資料は、浦添市立図書館蔵を使用しました。記して感謝申 し上げます。 7 『 東 京 毎 夕 新 聞 』 資 料 は 、 国 立 国 会 図 書 館 蔵 の マ イ ク ロ フ ィ ル ムからの複写である。記して感謝申し上げます。 − 3 7 −

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Yoshitake Oshiro

Abstract

This review covers Okinawa Manga from 1832 to 1945. This review traces the origin of Okinawa Manga in Katsushika Hokusai's "Ryukyu Hakkei (Eight views of the Ryukyu Islands)."

Also reviewed are satirical drawings of Ryukyu concerning the question of where Ryukyu fits in relation to China and Japan during the early years of Meiji Era. Moreover, satirical drawings published in 1901 and 1902 are examined from the Ryukyu Shinpo, the first commercial newspaper in Okinawa.

Also, included are reviews of the works of Hekoten Shimokawa, a native of Ryukyu (known today as Okinawa), who became famous as a manga artist in Tokyo. Discovered was a series of 4-frame manga pub-lished in 1912 in the Ryukyu Asahi Shimbun.

Lastly, discussed is anti-Japanese propaganda featured as manga advertisements in the Ryukyu Shuho during wartime.

参照

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