ワイマー・t・ル比例代表制の展開と改革の動き
武 永淳
は じ め に 1982年,参議院に比例代表制が導入され,83年にはその制度の下ではじめて の選挙が行われ,日本国民は,これまであまりなじみのなかった比例代表制を 否応なしに体験することとなった。この参議院比例代表制については,いくつ 1) かの憲法上の疑義が提起された。もっとも比例代表制が採用されたといって も,第二院である参議院の一部の議員の選出についてであり,議会全体の構成 原理として比例代表が採用されたわけではない。このような部分的導入とその 統治機構上の意味と機能については,全般的に比例代表制が導入された場合と は,必ずしも同様には論じることはできない。しかし,一応部分的にではあれ, 比例代表制をとっている以上,他の国の比例代表制の問題点と共通する部分も 存在するであろう。この意味で,典型的な比例代表制についてその問題点を整 理しておくことも,今後のわが国の選挙制度の問題を考察していくうえで必要 といえよう。 比例代表制は,歴史的にはその理念をフランス大革命の時代にまでさかのぼ ることができるが,具体的な制度の提案としては19世紀中葉から登場してく る。さらに比例代表制が現実に多くの国々で採用されるにいたるのは,第一次 ヨ 大戦後のことである。20世紀初頭は,憲法史的には,近代立憲主義から現代立 1)佐藤功「比例代表制の憲法問題」法学セミナー320号(1981年1月)20頁以下。拙 稿「参議院への比例代表制の導入一そのいくつかの憲法上の問題について一」彦根論 叢224号(1984年)149頁以下参照。 2) Karl Braunias, Das Parlamentarische Wahlrecht, 1. Band, Berlin/Leip2ig lg32, S.195.詳しくは,森口繁治『比例代表法の研究』(1925年),拙稿「比例代表制の展開80 彦根論叢第230号 憲主義への変容の時期であり,議会についても議会制民主主義の確立期あるい 3) は近代議会制民主主義から現代議会制民主主義への転換期と位置付けられる。 この現代型憲法の原型ないし先駆としてワイマール憲法が,通常取り上げられ るが,比例代表制が大国において本格的に採用されたのもまさにこのワイマー ル・ドイツにおいてであった。ワイマール・ドイツにおいては,比例代表は憲法上 の原則にまで高められ,具体的制度としても,極めて徹底的な比例代表制が採 用された。本稿ではワイマール憲法の統治構造の中で比例代表制がいかに機能 したかにつき概観するとともに,ワイマール期においてその問題点が主に政党 のレベルでどのようにとらえられていたのかについて瞥見することとしたい。
1.前
史 ワイマール期における選挙法,選挙制度の発展を考察する前に,第二帝政期 における選挙制度の問題について素描しておこう。ドイツ帝国においては,ラ イヒ議会選挙については,普通,平等,秘密,直接の選挙法が採用されていた のに対して,邦議会レベルでは,プロイセン三級選挙法に代表される普通,不 平等,公開,間接の選挙法が行われていた。この非民主的な選挙法の改正,即 ちライヒ議会選挙法化は重大な政治的争点であった。さらに,ライヒ議会選挙 法においても,選挙区間の有権者数の不均衡と決選投票を伴う小選挙区絶対多 数代表制の採用によって,各党の得票数と議席獲得数との一致,即ち「代表の の 正確性」の確保は大きく妨げられていた。そしてその最大の被害者は,当時, と正当化の理論一第一次大戦前の比例代表制論について一」彦根論叢214号(1982年) 88頁以下参照。第二次大戦後のヨーロッパの比例代表制については,西平重喜『比例 代表制』 (中公新書,1981年)参照。 3)影山氏は,ワイマール型議会制民主主義を議会制民主主義の「確立」と同時にその 「危機」としてとらえている。影山日出彌「現代国家と民主主義」法の科学2(1974 年).109頁以下。これに対して樋口氏は,「近代」議会制民主主義という類型を設定 することにより,議会制民主主義の「確立」期をそれ以前とする。樋口陽一「議会制 民主主義における近代と現代」法律時報49巻7号(1977年5月),12!頁以下。 4)詳しくは,拙稿「ワイマール比例代表選挙制の成立過程」(1),法学論叢,108巻6号 (1981年3月)50頁以下参照。「帝国の敵」とされていた社会民主党であった。このことは,同党の民主主義 観と結びついて,「ドイツにおける選挙法の歴史は同時にドイツ社会民主党の 5) 歴史である」といわれるごとく,選挙法の問題の解決を同党の重要な政治課題 の一つとした。そして,その後実際に同党はドイツの選挙法の形成・展開に中 心的な役割を担うこととなった。したがって,ドイツにおける比例代表制の歴 史においてもまた社会民主党の果たした役割は極めて重要である。 1891年のエルフルト党大会においてカウッキーとベルンシュタインによって 起草された綱領が議決されたが,その中で当面の要求の第一点として次のこと が掲げられていた。 「あらゆる選挙,投票について,性による差別のない,満20歳以上の全うイヒ所属者 の秘密投票による普通,平等,直接の選挙権および投票権。比例代表制,その導入まで は,人口に応じた法定の選挙区再配分を行うこと。2年の立法期。法定の休日における 選挙および投票の実施。選出された代表者への補償,禁治産者の場合以外の政治的権利 6) のあらゆる制限の廃止。」 社会民主党は,婦人に投票権をあたえ,選挙年齢を引き下げることを要求し, まさに進歩的選挙法の先駆けとなると同時に,比例代表制をドグマにまで高め 7> た最初で唯一の政党となった。カウツキーのエルフルト綱領の解説は,比例代 表制の理由づけをなんら含んでいなかったし,当初は,ヴィルヘルム・リープク ネヒトのみがこの注目されない綱領の表現に好意を示していたにすぎないが, その後同党の内部において比例代表制についての議論は高まり,機関誌rノイ 8) エ・ツァイb』においても,比例代表制を肯定する一連の論評が現れた。1893 5) Friedrich Schlifer, ,,Sozialdemokratie und Wahlrecht‘’, in: Verfassung zand Yer− fassttngswirklichkeit, (Bd. 2) Jahrbueh 1967 S. 157. 6) W. Treue, Dezatsehe Parteiprogramme i861−」96f, Gbttingen 196!, S. 76. 7) Braunias, a. a. O., S. 198. 8) Die NTeue Zeit,!983/94,12. Jhrg., Bd。1, S.470のベルンシュタインによる, Heinrich Rosin,,,Minoriatenvertretung und Propotionalwahlen“の書評。 Peter Braun, ,,Ftir zahlengerechtes Wahlverfahren“, in: Die Neue Zeit, !983/94, 12. Jhrg. Bd.2, S.303ff.スイスの制度との比較1が, ebenda S.828f.にある。さらに,,Das Proportionalwahlsystetn und die deutschen Reichstags“, in: Die 2Veg{e Zeit 18gs/ 96, 13. Jhrg., Bd. 2, S. 68ff.
82 彦根論叢第230号 年10,月18日のケルンでの党大会はエルフルトにおいて確定された路線を保持し た。アウグスト・ベーベルは自ら選挙法に関する報告を行い,さらに同党の態 度の根拠について,この報告と関連して公刊されたr社会民主党と普通投票権, 婦人投票権と比例代表制をも特に考慮して』という論文で次のように説明して いる。 「普通,平等,直接,秘密の選挙権が民主的選挙権であるとしても,それに対し,そ のような選挙権が取り扱われる方法はなお非常に不完全なものである。選挙の目的は選 出された議員によって選挙人の声を可能なかぎり写真のごとく正確に表現することであ る。しかしこのことは国を選挙区に区分することやその選挙区の内部で投票の絶対多数 によって選出を行うことによっては決してなしえない……すべての政党に選挙人と被選 出者の間の適正な比率をもたらすためには,選挙区における選挙に代えて,議員の配分 がもはや選挙区ではなく.全ドイツのおいて一つの党に投ぜられた票に基づいてなされ るような選挙制度が登場しなければならない……比例代表制はすでに多くのスイスのカ ソトンにおいて実行されており,まもなくそれは全スイスのすべての選挙についても使 用されよう。普通,平等,直接,秘密の選挙権の原則に基づく比例代表制は,選挙制度 D) の理想である。」 このような言葉によって比例代表制は社会民主党にとって当面絶対的なもの となったのである。 議会が,君主によって任命される宰相とその政府に対して,国民の声を代弁 する役割のみを担っていた統治制度の中で,当時のライヒおよび邦(Staat)の 選挙制度によって同党の議会への参入が阻害されていた状況の下では比例代表 10) 制の採用の要求は,理由のあるものであったろう。エルフルト綱領に掲げられ た要求は,同党の選挙法についての態度を規定したが,一方では政治関係は基 本的に変化しつつあった。そしてワイマール共和国の誕生は,同党の選挙法に 9) Schafer, a. a. O., S. 167f. 10) もっとも,1893年のライヒ議会選挙以後の社会民主党の躍進により,逆に同党の進 出を阻止するための選挙法改正の動きすらあり,同党の第一の課題は,現勢こは現ラ イヒ議会選挙法の維持であった。Handbueh伽プsoxialdemokrαtische Wtihler. Der Reichstαg J893−1898, Berlin 1898, S.60ff.なお,第二帝政期ライヒ議会選挙結果に ついては,E. R Huber(Hrsg.),1)oflermente Ztir Deutschen Yerfassungsgeschichte, Bd, 2, Stuttgart 1964, S. 536ff.
ついての要求を実現したが,その時には,統治機構における議会の位置づけ は,第二帝政期とは異なるものとなっていた。 2、 ワイマール憲法における統治機構と選挙制度 1919年7月31日,ワイマール憲法は,(多数派)社会民主党,キリスト教人 民党(=中央党),ドイツ民主党のいわゆる「ワイマール連合」の賛成によって 成立した。この憲法の特徴は,次の3点にあるとされる。即ち,帝政の連邦主 義的要素の継承,プレビシット的要素の採用,そして決定的要素としての「統 治機構の議会主義的一大統領制的二重構造parlamentarisch−prtisidiale Doppel− 11) struktur des Reg量erungssYstems」である。 ワイマール憲法は,その第1条において,ドイツ・ライヒが共和国であり, 「国家権力は国民から発する」と規定し,国民主権の原則をドイツにおいては じめて確定した。ライヒ議会議員は,普通,平等,直接,秘密の選挙によって 選出され,4年の任期であり,議会はその憲法上の地位を強化された。ライヒ 政府の議会主義化ということで1918年秋になされた帝国憲法改正を手本に,政 府は議会に依存するものとされた。このことは,ライヒ議会が立法機能を有す るとともにとりわけ憲法第54条がライヒ首相および大臣がその職務を遂行する ためには,ライヒ議会の信任を必要とすると規定している点に現れている。 しかし,ライヒ議会の地位は,憲法の連邦主義的要素とプレビシット的要素 とによって制限されていた。第一に,擬似第二院ともいうべきラィヒ参議院が 11) K. D. Bracher, ,,Entstehung der Weimarer Verfassung“, in: Derselbe, Deutsch− land izvisehen Denzoferatie uftd Diktatur, Bern/Mdnchen/Ztirich 1964, S. 31. B. Vogel, D. Nohlen, R.一〇. Schultze, Wahlen in Deutschlctnd, Berlin/New York 1971, S.142f.またワイマール共和国の統治機構の全体像については, Fritz Hartung, Deu− tsche Verfa∬ungsgeschiehte, Stuttgart 1950, S.324ff.同書の邦訳として,成瀬治, 坂井栄八郎訳『ドイツ国制史』(岩波書店,1980年)445頁以下,山田晟『ドイツ近代 憲法史』(東京大学出版会,1963年)94頁以下参照。憲法のテクストは, Verfassung des Deutschen Reichs vom 11. August !919 (RGBI. !919, S. 1383ff.), Huber (Hrsg.), Dokumente xur Deutschen Verfassztng’sgeschichte, Bd. 3, Stuttgart/Berlin/K61n/Mainz 1966, S. 129ff.
84 彦根論叢第230号 各ラントの代表として存在し,ライヒ議会の議決した法律に対する異議権を有 していた(第74条)。第二に,ライヒ大統領の直接選挙と並んで,国民請願と国 民表決による国民の直接立法が,憲法のプレビシット的性格を表現しており, ライヒ議会の立法権を大きく制約していた。即ち,ライヒ議会の議決した法律 は,議員の3分の1以上の請求によって公布を延期され,大統領命令のあると きおよび有権者の20分の1の申出のあるときは,国民表決に付された(第72条, 第73条)。また有権者の10分目1が法律案の提出を請求した場合,ライヒ議会が なんら変更なしにその法律案を可決しないときには,国民表決に付された(第 ラ 73条第3項)o これらの制約以上に,ライヒ議会の憲法上の地位にとって決定的な意味をも ったのは,ライヒ大統領の極めて広範な権限である。大統領は,普通,平等, 秘密,直接の選挙により,第1回投票では絶対多数で,第2回投票では比較多 数で選出される。大統領は,7年の任期であり,その被選挙権は,満35歳以上 13) の有権者にあった。大統領はライヒを国際法上代表し,国防軍の最高司令官で 12) ワイマール議会制の崩壊にとって「国民投票制度」の果たした役割は,重大である が,その検討は本稿の課題を超えるものである。ワイマール期の国民投票制度につい ては,河村又介『直接民主政治』(1934年),大石義雄『国民投票制度』(1939年)参照。 また,井口文男「国民投票制度の諸問題」神戸学院法学9巻4号46頁以下では,「議 会主義の是正・補完,あるいはケルゼソ流にいうならば,『民主主義的要素をさらに 一層強める方向』での議会主義の改革をめざすものとして期待せられた国民投票制度 は,具体的歴史的にはその有効な役割を果しえていないし,むしろ逆に議会主義を制 約するものとして機能したといえ」,ワイマール・ドイツにおけるごとく「規範的国 家意思形成を国民代表に委ねるという議会主義の原理と国民自身が立法過程に直接参 与し,何らかの決定を下すという国民投票制度とを結合するという試み自身がそもそ も矛盾していたのか,それとも特殊ドイツ的要因に規定されるところが大なのかにつ いては慎重な吟味が必要であるとしても『議会主義原理そのものの利益において』国 民投票制度を導入するという理念には疑念を表明せざるをえない」とJその問題性が 指摘されている。 13)憲法制定国民議会により選出された初代大統領フリードリヒ・エーベルトは,1922 年10月27日の憲法改正によって,直接選挙の例外とされた(憲法第180条)。彼の任期 は,1925年6月30日までに延長されたが,任期をまっとうすることなく1925年2月28 日に死去した。Hagen Schulze, Weimar:Deutschland 1917−1933, Berlin lg82, S 293.
あり,ライヒ首相および首相の提案に基づきライヒ大臣を任免する。さらに首 相の同意に基づき議会を解散でき,また大統領緊急命令権を有していた。 ライヒ首相および大臣は,ライヒ議会に責任を負っていたので,議会は政府 をいつでも崩壊させることができた。しかし,議会の側でその後継者を任命す る必要はなかった。それは,「政府の二重の依存性」が存在する「二元型」議 i4) 院内閣制であった。憲法は,議会に基礎をおいて政府が機能するためには,ラ ィヒ議会多数派と大統領との政治的構想と目的における合意を要求していた。 両者の意図が矛盾するならば,議院内閣制は強力なライヒ議会多数派が存在し てのみ可能なのであり,そのうえで大統領と政府の人的構成が問題となる。し かし,議会に強力な多数与党が存在しない場合,大統領は内政上の決定的権力 とならざるをえず,ライヒ議会は,帝政時代に演じたような消極的な立法府と しての地位にとどまらざるをえない。この点で,ワイマール連合の諸党が築こ うとした議院内閣制の安定性と活動性にとっては,政党制の構造が現実には重 ヱの 要な意味を有していたといえよう。 さて,そのうイヒ議会の構成に重大な影響を与える選挙制度には,社会民主 党の要求が実現されていた。憲法制定国民議会の選挙においてすでにドソト式 の比例代表制が採用されていたが,ワイマール憲法第22条第1項が,「議員は, 普通,平等,直接,秘密の選挙により,比例代表の原則に従って,満20歳以上 14)Vogel, u. a., a. a. O., S.144.内閣が君主と議会の両者の信任に依拠する議院内閣 制の伝統的な型が「二元型」である。歴史的には,議会の信任のみに依拠する「一元 型」へと移行するのであるが,「二元論」こそ「真正」の議院内閣制であるとするレ ズローブの理論が起草者フーゴー・プロイスを介してワイマール憲法に影響を与えた とされる。君主が公選の大統領に代えられたことにより,民主的正当性の分裂という 新たな問題をも包含している。樋口陽一『議会制の構造と動態』 (木鐸社,1973年) 3頁以下参照。 15)K.D. Bracher,,,Parteienstaat−Prtisidialsystem−Notstand“, a. a. O., S.38.西ド イツの憲法学における政党制(Parteiensystem)の理解については, Konrad Hesse, Gnttnd2tige des Verfassungsrechts der BandesrePzablik Deutschland, 13., erganzte Auflage, Heidelberg 1982, S.67f.邦訳,阿部照哉他面『西ドイツ憲法綱要』!71頁以 下参照。
86 彦根論叢第230号 の男子および女子により選挙される」と規定し,さらに,第17条第1項が,ラ ントについて「議会議員は,普通,平等,直接,秘密の選挙により,比例代表 の原則に従って,すべてのドイツ国民男女により選挙されなけ’ればならない」 と規定したことにより,ラントでも民主的選挙権が確立し,そして比例代表制 の採用はドイツのあらゆる議会選挙の原則にまで高められた。ライヒ議会選挙 については,憲法制定国民議会選挙令の「欠陥」の除去と比例代表制の「完全 16) 化」をめざして,1920年4月27日のライヒ選挙法が制定された。 同選挙法の特微は,厳正拘束名簿方式を採用し,議席配分にはいわゆる自動 方式をとり,残余票の活用のために三段階の選挙区制を採用したことである。 即ち.同選挙法では,ライヒが35の選挙区に分割され,残余票の利用のためその上部 に数選挙区からなる16の選挙区連合が作られ,さらにその上部にライヒ選挙区が作られ た。各政党は,選挙区での候補者の名簿として区候補者名簿を提出し.それらを選挙区 連合内で結合し,連合区候補者名簿とする。さらにライヒ選挙区にライヒ候補者名簿を 提出する。区候補者名簿とライヒ候補者名簿に同一人が載せられてもよい。選挙区にお いて6万票ごとに1議席が区候補者名簿に配分され,選挙区連合では,結合されている 区候補者名簿の中で3万以上の残余票を有する区候補者名簿について集計を行い.6万 票ごとに1議席を配分する。3万票に満たなかった選挙区の残余票および選挙区連合で の配分後の残余票は,ライヒ選挙区に送られる。ライヒ選挙区においても,6万票ごと に1議席が割り当てられ,残余票は,3万票を超える場合に1議席が割り当てられる。 議席は,各候補者に対し,名簿中の順位に従って与えられるものとされた。 3. ライヒ選挙法とワイマール議会政治 (1)政党の細分化(Parteienzersplitterung) ラィヒ選挙法の自動方式では,集中化が強制されることなく,あらゆる傾向 が議席に反映される可能性がひらかれたので,選挙に参加する政党の数は増加 した。国民議会選挙では19の政党が名簿を提出したのに対して,1920年の第1 回ラィヒ議会選挙においてすでに名簿提出政党数は24に達していた。そして 1932年7月選挙では42に達している。自動方式によって得票と議席の極めて正 16)拙稿,前掲(2完),法学論叢,ユ09巻2号,101頁以下参照,Reichswahlgesetz vom 27. April 1920, (RGBI. !920, S. 627ff.)
確な一致が,可能になったにもかかわらず,ライヒ議会選挙において,憲法制 定者の期待に反して,場合によっては,ドント式で行われた国民議会の議席配 分のとき以上にかなりの数の考慮されない票が生じた。それは,1924年5月選 挙で1,171,186票,1928年選挙で1,548,762票の最高値に達していた。このこと は,政党の細分化の進行の結果である。自動方式にもかかわらず,極端な政党 細分化の結果,議席を獲得できたのは比較的少数の政党であり,その数は15で あった。名簿を提出した多くの政党は,選挙法の二つの「阻止条項」をのりこ 17) えることができなかった。 (2) 「小党分立」と「連合」 比例代表の原則を憲法に規定することについては,憲法制定国民議会におい て,比例代表制が二党制を不可能とし,それゆえ議院内閣制をも困難とすると ユ8) いうフリードリヒ・ナウマソの有名な反対論があったが,大勢は,「比例代表 制の中に議会制民主主義の全く自然な成り行きを見」,その政党制さらに議会 主義に及ぼす影響について深刻には議論されなかったし,ライヒ選挙法の制定 についても同様であった。しかしまさにワイマール比例代表制の最:大の問題点 としてしぼしば指摘されるのは,それが「活動能力ある議会多数派」の形成を 阻害しそれゆえ「活動能力ある政府」の形成を妨げたという点である。 17)Vogel, u. a., a. a.0., S.!51f.もちろん,「阻止条項」といっても,現在の西ドイツ の選挙法のように厳しいものではない。二つの阻止条項とは,第一に,区候補者名簿 提出するためには,20年法では,50名の署名が必要であった(14条)。24年3月13日の改 正で,500名の署名か,500名の支持者の存在を疎明できるなら20名の署名が必要とさ れた。RGB1.1924,I S.173.第二は,ライヒ名簿には,区名簿で獲得されたと同数の議 席までしか配分されないとの規定である(32条)。選挙に参加した政党数と議席獲得 政党数(E]内)は,次のごとくである。19年19[10],20年24[10コ,24年①29[12コ, ②27[11],28年35[15],30年32[15],32年①42[!4コ,②36[13コ,33年ユ5[11コ。 33年の減少は,もちろんナチスの圧力の下での選挙であったからである。ワイマール 初期から比べると議席獲得政党は増加しているが,第二帝政期のライヒ議会の1912年 の選挙では,15以上の政党が議席を獲得しており,第二帝政期と比べて増加している わけではな:い。Eberhard Schanbacher, Parlamentartsche Wahle7z und Wahlsystem in der Weinearer RePublik, Dtisseldorf 1982, S. 218f. 18) Verhandlungen der verfassunggebenden Deutschen Nationalversammlumg, Bd. 336, S. 242.
88 彦根論叢第230号 そのような状況は,すでに1920年6月6日に行われた第1回ライヒ議会選挙 に現れている〔表1参照〕。選挙の結果,ワイマール共和国を支えることが期 待された「ワイマール連合」は459議席中205しか獲得することができず多数 派となりえなかった。そして共和国に敵対的な政党がその票を倍増さぜた。こ の結果,ワイマール連合は崩壊し,中央党を中心とするフェーレンバッハ中道 内閣が誕生したが,この内閣も議会に多数の基礎をもつものではなかった。そ の後も当然,単独で過半数を制する政党は存在しなかったので,政権は連合政 権の形態をとった。そのパターンは,おおまかには4つに類別できる。即ち, ワイマール連合(社会民主党〔SPD〕,中央党,ドイツ民主党〔DDP〕),大 連合(ドイツ人民党〔DVP), SPD,中央党, DDP,バイエルン人民党 〔BVP〕),中道連合(中央党, DDP, DVP, BVP,その他),中道右派
連合(中央党,DDP, DVP, BVP,国家人民党〔DNVP〕)である。大
連合および中道右派連合の場合には,多数派内閣であったが,その他の場合に は少数派内閣にとどまった。 フーバーによれば,ワイマール期においてシャイデマンからシュライヒャー まで20の内閣が登場したが,その中で議会多数派内閣は8つにすぎない。そし て,フェーレンバッハから大統領内閣と呼ばれるブリューニングまでの14のう ちわずか5つが多数派内閣であるにすぎない。したがって,内閣は議会内に明 確な支持基盤をもたないまま,不信任決議がなされないがゆえにその職務を遂 行しうるという状態が多くの場合つづいたのであった。それゆえワイマール期 の内閣は,平均8ケ月の短命であったが,内閣が,不信任決議の成立によって 退陣したのは3回しかなく,連合に参加している政党の態度変更による連合の 20) 崩壊による場合が6回もあるという状況であった。〔表III参照〕 一般論としては,単独政権より連合政権の方が,不安定であるということは できょうが,連合する政党の質および政治状況によっては,必ずしもそのよう ユ9) Voge1, u. a., a. a.0., S.154f. 20) ER. Huber,1)eutsche Verfassungsgeschichte seit 1789, Bd. VI Stuttgart/Berlin/ K61n/Mainz 1981, S. 328ff.にはいえない。しかしワイマール期のドイツの激動状況とともに当時の政党と 政党制は,安定的な連合の継続を保障するものではなかった。 (3)名簿式比例代表制の採用による政党の構造変化 比例代表制,とりわけ拘束名簿の採用ということによって,全ての政党にと って,名望家政党から組織政党への移行,中央指導部の強化,活動的党組織の 構築が促された。多くの政党にとっては,大戦回すでに形成されていた社会民 主党の組織形態がモデルとなった。それは,支部協会,選挙区協会,地区連盟 もしくはラント連盟,ライヒ組織とヒエラルキー的に組織されていた。このよ うな構造は,革命期においても,社会民主党が独立社会民主党(USPD)の 分裂をのりきることができた大きな要因であり,同党の安定化要素として作用 したが,同時にそれは組織保守的傾向を生みだし,同党の機動性を制約し,変 り 化する状況への適応を困難にするものでもあった。 そして,区名簿問の結合,候補者のライヒ名簿と区名簿に重複登載が認めら れたことは,政党中央による候補者擁立の権限の強化をもたらし,その結果, 憲法第21条によって自由委任が保障されているにもかかわらず,政党組織が院 内会派および個々の議員にたいする過度の影響力を有するに至ったとされる。 さらに候補者の基準は,帝政期とは異なるものとなった。党組織内での地位の 上昇の終着点がライヒ議会選挙での名簿への登載であったから,いわゆる党官 おう 僚の評価が決定的な意味をもつものとなった。そして拘束名簿では,候補者の 決定=当選者の決定となり,その決定は政党に委ねられることになるので,議 お 員と選挙民の間の疎遠化(Entfremdung)が問題とされるようになる。拘束名 簿はさらに,諸党がその支持基盤である種々の利益集団を名簿の構成の際に一 層考慮せざるをえなくさせた。いわゆる利益政党以外にも,種々の経済団体の 21)Vogel, u. a., a. a.0,, S.149f.そのような影響を受けたのは,いわゆるブルジョア 政党であり,両翼の政党,とりわけナチスは,有名な「指導者原理」をとっており, 例外的存在とされる。 22)比例代表翻の反対論者であるヘルメンスも,この問題を指摘している。F. A. Her− mens, Denzokratie oder Anarchie?, Frankfurt a, M, 1951, S. 177ff. 23) Axel Misch, Das Wahlsystem 2wischen Theorie v.nd Taktik, Berlin !974, S. 210.
90 彦根論叢 第230号 強力なグループがラィヒ議会にまた政党内に存在することとなり,政党の行動 に大きな影響力を行使するようになった。利益団体の政党への影響力の増大 は,連合の形成を困難とし,政府の政策遂行にあたって団体間の利害が衝突す 24) る場合には,連合の崩壊をもたらす原因となった。 (4)小 括 比例代表制が政党の細分化に一定寄与したことは疑いない。しかし,選挙民 の急進化ならびにナチスの台頭が第一に選挙制度の帰結であり,相対多数代表 おの制はそれを防止しえたという主張は,選挙制度の役割を過大評価するものであ る。第一に,多くの微小グループは,阻止条項により議席の獲得に至らず,そ れゆえライヒ議会の勢力関係にとっては意味をもたなかった。第二にワイマー ル期の政党の異質性,非妥協性は,特殊ドイツ的なものも含めて各種の要因に よるものであり,比例代表制もその一つと考えうるにすぎない。とりわけ,本 来世界観ならびに社会的経済的利害によって異な:る政党によって党派的分立主 義(Parteienpartikularismus)となっていた帝政期の展開によって,そして選 挙行動の急進化を引き起こし,種々の利益政党の発生に決定的に影響をあたえ た経済危機によって多党制(Vielparteiensystem)は形成された。さらにまた ラ「ドイツ社会の継続的な社会的かつ宗派的分裂状態」ならびに広範な国民とそ れを代表する急進的政党の共和国敵対的行動が実質的には議会政治の不安定性 ヨア を促進したのであった。 とはいえ,憲法現実の中で議会制度を原則的に承認した諸政党の行動は,ラ イヒ議会の地位の弱体化にとって決定的であった。r旧」政党の幾つかは,新 しい党名によってその国民政党的性格を強調しようとしたが,以前の世界観も しくは利益政治に導かれたままであり,ライヒ議会においては種々の社会的経 24)Voge1, u, a, a a.0., S.153.なお,選挙に参加した利益政党の数と議席獲得政党 数([]内),議席数は次のごとくである。19年6[2]5,20年6[3]9,24年 ①8[3]25,②11[3]29,28年17E7コ51,30年14[6コ68,32年①19[6コ11, ②16[5]12,33年3[3]7。Ebenda, S.301. 25) Hermens, a. a.0,, S.161ff, 26) Bracher,,,Parteienstaat−Prlisidialsystem−Notstand“, a. a.0., S.35. 27) VQgel, u. a、a a. O., S.152f.
済的構造が強く反映されていた。そして「疑いもなくこのような事実は,敗戦 後の経済状態によって強まり」,「政党が選挙民の社会政策・経済政策上の要求 に固執することを促した。」それは,政党制の統合およびライヒ議会における 連合の形成を困難にした。とりわけ,政党を統治の責任から締め出していたビ スマルク憲法体制の下で成立,発展した大多数の政党は,所与の政党状態の下 での妥協および連合の準備が,議院内閣制が機能するための必要条件であると いうことを全面的には理解していなかった。しかも,ライヒ議会の会派は,統 治機構の二重構造に基づいて多数派形成のために集合する必要がなかったの で,実質的には帝政時代の「反対党」のままであった。政府は,議会の多数派 によって指名されたとしても,「与党によってではなく,種々の反対党の連合 う によって支えられたのであった」。 4. 選挙法改革の動き ω 憲法規定の拘束 1920年4月27日のライヒ選挙法によって確定された「完全な比例代表制」 は,その実施の結果,20年代後半にはナウマソが予想したごとき政治的結果を 招いたとされるようになる。上述のごとく,ライヒ議会に代表されていた政党 の数は,増加し,政府形成にとって十分野多数派は議会の中には存在せず,し たがって少数派の集積としての「連合」が強制された。議会に基礎を置く政府 の形成と維持は, 「連合」の成否にかかっていた。 シェーファーによれぽこのような事態が,選挙法の結果であると政治家の多 の くは認識していたとされる。したがって,議会制民主主義の機能が保障される 方向で選挙法を改正しようとの試みが幾度かなされることになる。「議会制憲 28)Ebenda, S.!53.政党,利益団体の性格と行動については,飯田収治・中村幹雄・ 野田宣雄・望田幸男『ドイツ現代政治史』(ミネルヴァ書房,1966年)241頁以下参照。 またJワイマール議会政治の構造的不安定性に関する研究としては,山口定「ワイマ ール共和国における議会主義政治体制」(1),(2)立命館法学24号,25号が,詳細であり, 参照した。 29) Schafer, a. a. O., S. 177.
92 彦根論叢第230号 法を有する国家において議会の任務は,国家に指導部を付与することである。 この任務は,政党がとめどなく細分化していくような状態では,果たすことは 30) できない」と考えられたのである。 しかし,全ての改革案は,比例代表制を確定した憲法の規定から出発した。 当該規定を改正する試みは企てられなかった。諸修正案は,議席算定方法のみ に関するものであった。1920年以降提出された全ての提案は,一旦導入された 自動方式に固執していた。それらは,選挙区の縮小や剰余票移譲の制限を行う ことによって,議席の獲得に必要な得票率を事実上高めることを意図したもの れ であった。多くの政党は,憲法改正においてその既得権が危険にさらされるこ とに危惧を抱いていたのであるが,社会民主党にあっては,むしろ比例代表制 の放棄によって革命の成果が捨て去られてしまうとの考えが優勢であった。 ライヒ首相ミュラーは,1928年7月3日目政府声明において次のように述べ ている。 「選挙改革は,ライヒ政府があためて着手する。現行選挙法が被選出者の選挙人から の疎遠化および政党の細分化へと導く欠陥を有していることは知られている。憲法上確 定されている比例代表制を維持しっっ,同時に選挙人と議員との間の密接な関係を作り お ラ だすことこそ改革の課題である。」 また,ゾルマン議員は,1929年6月7日の予算審議において,「あなたは, あなたが欲するように選挙法を改正することができる。ドイツにおける政党 の,否,政治的教会の固定化を変更することに成功しないなら,技術的にあな きの たはその問題に対処しえない」と述べ,議会政治の危機の原因を政党の欠陥に 30) Georg Kaisenberg, ,,Wahlreform“, in: Zeitschrift ftir die gesamte Staatsterissen− schaft, 1931, S. 460. 31) Friedrich Schafer, ,,Zur Frage des Wahlrechts in der Weimarer Republik“, in: F. A. Hermens, T. Schnieder (Hrsg.), Staat, Wirtschaft und Politik in der Wei− marer Repmblik. Festschrift fifr Heinrich BrUning, Berlin 1967, S, 123tf. 32)Verhandlungen des Reic1ユstages, Sten. Ber., Bd.423, S.38.(以下Verhandlungen と略す) 33) Verhandlungen, Bd. 425, S, 2168B.
求めて,選挙法改革に消極的な姿勢を代表していた。 一 そして,諦めを交えながら,ライヒ内務大臣ゼーフェリングは,つづく1929 年6月8日目ライヒ議会で次のように述べた。 「同僚のクルッ博士でさえ私とともに,憲法改正に必要な特別多数が本院において得 られないがゆえに,維持せざるをえないという意見である。残された方法は,したがっ 34) て選挙区分割の変更,おそらくまたライヒ名簿制の変更,廃止である。」 社会民主党においては意見が分かれた。ライヒ議会会派の多数派は,第二帝 政の反対物として形成されたワイマール共和国と広範に同一視されるこの好ま しい比例代表制から離れることはできなかった。健全かつ議会制民主主義に対 する進歩を信じる理想主義が,いわば権力獲得の意欲をしのいでいた。ゾルマ ソ議員は,1930年6月16日,次のように述べている。 「私はまた,選挙改革の問題に現在取り組まなくてはならないのか否かを問題にす る。諸君は,我々が革命以来実際一度も正常な政治関係の下で選挙を行ってはこなかっ たことを考えてみる必要がある。私は,選挙法がこれまで適切であったかもなかったか 35) もしれないという議論には反対である。」 社会民主党は,結局,内政上の危機の緩和を選挙制度の技術的改革からは期 ヨの 待しなかった。 図 反議会主義的傾向 社会民主党が,ワイマール憲法の構造に潜在的に含まれている危機は選挙制 度の技術的改革によっては除去しえ・ないとしたかぎりでは正しかった。既に述 べたごとく,憲法第53条により,大統領が,ライヒ首相およびその提案に基づ きラィヒ大臣を任免し,第54条によりその職務を遂行するについては議会の信 任を必要とした。憲法はしかし議会の明示的信任を要求してはおらず,逆に, ラィヒ首相およびライヒ大臣の職務遂行の基礎としては不信任が確定していな いことで十分なのであった。旧帝国憲法の下で君主によって付与されていた信 [4) Verhandlungen, Bd. 425, S. 2209D. 35) Verhandlungen, Bd. 428, S. 5459A. 36)Schafer, a. a.0.(注5), S.177。
94 彦根論叢第230号 37) 任の基礎が,ライヒ議会ではなく,ライヒ大統領に移ったのであった。ライヒ 議会はしかし一方ではかなりの権限を与えられていたので,「アメリカ型の大 統領民主主義の要素とヨーロッパ型の議会制民主主義の要素」との衝突が,憲 法の改変によってのみ解決されうる強度の緊張を生みだしていた。このような ウ 事実は少なくとも1926年以来,一般的に知られていた。 それゆえ,議会制民主主義の政治的反対者は,議院内閣制のための憲法状況 の事実上の改善を意味した選挙法のあらゆる改正に冷淡に対立し,かわりに大 統領制強化の方向への発展を要求することとなる。国家人民党議員ベルント は,ライヒ議会の1926年3月11日の討論において次のように述べる。 「実際わが国の状況の根本的改善がなされるべきとすれば,そのためには,ライヒ憲 法第54条を完全に削除するか,あるいは実質的に政府権力の強化という意味で改正する ことが必要である……第54条の削除によってライヒ大統領は,現在有している以上の広 範で完全な権力を保持し,もはや解決し難い政府危機の際に議会の解散を行うか,ある いは第48条を利用する状態に置かれることはなくなろう。ライヒ大統領の地位は,第54 条の削除によって,以前ワイマール憲法の起草の際にこの憲法の起草者の頭に浮かんで いたようなアメリカの大統領の地位に大幅に接近する……ラィヒ憲法は,国民による大 統領の選挙を規定するが,他方でその職務にふさわしい権能をなんら与えておらず,む しろ第54条の規定によって徹底的ないしは広範に大統領を抑制しているという憲法の誤 おう りを,それにより除去することになろう。」 人民党のカルドルフ議員は,同様な意味のことを次のようにいう。 「私は,すでに今日次のように言うことができよう。わが友人たちはなんらかの根本 40) 的かつ徹底的な選挙改革をする気はさらさらないであろうと私は信じますと。」 ベルントは,さらに1929年7月7日号ライヒ議会においてライヒ大統領の地 位の強化に賛成して次のように述べている。 「議院内閣制はドイツおよびドイツの諸関係に適さない……それゆえライヒ大統領 に,アメリカの大統領のモデルに従がって,議会に依存しない政府の首班の諸権限,大 37) Schtifer, a. a.0.(注31), S.122. 38) Sch…lfer, a. a.0.(注5), S.179. 39) Verhandlungen, Bd. 389, S. 6140. 40) Verhandlungen, Bd. 389, S. 6145.
臣の独立の任免の権限,議会決議に対する異議申立の権限.議会解散および国民表決の 41) 権限を付与せよ。」 この種の要求は,結局,相互に対立している憲法の二つの要素の一一方を強化 し,活動能力のある政府のための前提を成立させようとするものであった。し かし,そのことはうイヒ議会の,それゆえ.議会制民主主義の犠牲の上にのみ可 能であった。そして,その後,大統領国家への「憲法変遷」が進行していった 42) ことは周知の事実である。 (3)社会民主党内の新たな動向 しかし議会制民主主義の危機に直面し,社会民主党においても,一部に新し い動きが生じていた。例えば,ユリウス・レーバーは1927年12月20日自ら編集 しているLubecker Volksbotenにおいて,前年の選挙結果を分析したうえで, 次のように書いていた。 「わが国民の中でひとつの激しい気分の転換が,政府形成のための権力形態について しめやかに進行している。それはおそらくは理想的状態なのだろうか? この議論の余 地のない事実は,意味と価値をめぐる議会選挙戦において最:も重要なふたつの支えをも たらした。政権党と反対党である。ドイツにおいては一そのことは数年先まで大地のご とくゆるぎないが一中道派が支配するであろう。このような状態が呼び起さざるをえな い危険二専門家政府ないし官僚政府という危険が人々にはみえていない。ワイマール憲 法は,我々に西欧モデルに基づいた統治制度を贈った。しかし,それはさらに当該制度 に適さない選挙法をももたらした。ドイツの政党翻度はイギリスとは異なっているとは いえない一イギリスがわが国の選挙法を有していたなら,そこでも3政党にかわって7 政党が存在するであろう。しかしドイツにおいては今やあらゆるライヒ議会の行動は半 与党や完全与党の藪の中でにつちもさっちもいかなくなっているのである。政党は決し てフリーハンドではない。しかしまた政党は当該措置についての責任を決して公明正大 に担ってはいない。多くのことが審議され演説され連合がなされる一そしてたいていそ のままである。確かにわが国の名簿選挙は,あらゆる行政団体,ゲマインデ,ラントに とって理想的である。主に行政的任務を任せられている執行権と並ぶ人民代表の構成に おいてその一定の継続性は,利点となりうるであろう。しかしライヒ議会においては事 43) 情は異なる。」 4!) 42) 43) Verhandlungen, Bd. 425, S. 2171. Huber, a. a.0.(注20), S.336ff. Schhfer, a. a.0(注5),S,181. Julius Leberは,1891年生れ,1921∼33年Ltibecker
96 彦根論叢 第230号 しかし,具体的な新選挙制度をレーバーは提案しなかった。 カール・ミーレンドルフは,1929年,中央党の議員であるヨ・・ネス・シャウ フ編集の『新選挙法』という論文集において, 「比例代表制と現行名簿選挙制 度に反対する根拠」という論文を載せ,その導入部において,次のごとく述べ ている。 「名簿選挙方式は,ライヒ憲法においてライヒおよびラントについて規定されている 『比例代表の原則』の具体化の数多くの形式の一つに過ぎない。したがって名簿方式に ついてのすべての批判は,必然的に比例代表の方法の一つに対する批判につながる。た った10年ばかりの実践で,現行の選挙制度に対する自然的反感が世論として存在すると いう事実はすでに,比例代表制の導入に対しかつてなされたすべての警告の驚くべき追 認である」そして「政府形成の困難化および(他の原因と並んで)その結果永続的危機 44) 状態の中で存続する内閣はわが国の政治状況の特徴となった……」 にもかかわらず,彼はレーバーのごとく比例代表制のすべての功績を否認し たわけでたはなかった。しかし彼の見解によれば,その功績は過去においてあ ったのであり,革命後の危機の時代においてその比較的非政治的な形態は,「若 きドイツの民主主義がその初めの数年の嵐を難破することなくのりきれたこと 45) に」寄与したのであるとする。彼はそうして,強く固定した諸関係の下で「名 簿式」の比例代表制の継続は民主主義にとってなんら益にならないのみなら ず,それをまさに危険にさらすと述べた。 少数者保護の原則に基づいて国民代表を構成することがさらに維持されるべ きか,あるいは,選挙では政治的権力の決定こそが重要であるということを選 Volksboten紙主筆。23・一33年社会民主党所属 ライヒ議会議員。33∼37年逮捕拘留。 45年1月5日抵抗運動参加者として死刑。ワルター・ホーファー著,救仁郷繁訳『ナ チス・ドキュメント』(ぺりかん社,1962年)索引30頁。 44) Carl Mierendorff, ,,Die GrUnde gegen die Verhtiltniswahl und das bestehende Listenwahlverfahren“, in: Johannes Schauff (Hrsg.), Neues Wahlrecht, Berlin 1929,S.!4 f. Mierendorffは,1897年生れ,1930・一一33年社会民主党所属ライヒ議会 議員。33∼37強制収容所に抑留。43年12月4日空襲により死亡。ホーファー,前掲 書,索引33頁。 45) Mierendorff, a, a, O., S. 18.
46) 挙制度においても明らかとすべきかを,彼は決定したいと考えた。「政治は数 学と同一視はできないし,選挙はなんら付随的任務でもない」とし,彼は,次 のように結論した。 「多数決原理は,選挙結果においては,より強力な変動を引き起こす。選挙人の『地 滑り』により,左翼多数派が,一夜で右翼多数派にあるいはその逆に変化する。そのこ とはしかし明確な多数派のみならず明確な責任をも与え,それにより政治生活は進行す る。なぜなら,幻想,すなわち真実の内容および実現可能性についての希望と計画を試 4t) みる機会がなんら存在しないとき,いつも存在する幻想を片付けるからである。」 このミーレンドルフの選挙法についての見解は,社会民主党の一部の代表で あった。彼らは,ワイマール共和国において新しい,可能なかぎり正当な形態 の中に第二帝政の継続をみるのではなく,共和国を共和国がそう在ろうとした 48) もの,即ち現代議会制民主主義と理解した。この若いグループは,”Neue Blti・ tter fttr den Sozialismus“,という雑誌を発表機関としていた。編者のアウグス ト・ラートマンは1930年次のように書いている。 「ドイツは全ての諸国のなかで最も公正な選挙法を有していると評判である。ドイツ は一旧国家の不公正な選挙法に対する反動としてt一一t比例代表制を導入した唯一の大国で ある。新選挙法が形成された視点は,一定賞賛に値する。しかし,すべての票が,平等 の結果価値を付与されるなら,いかなる少数派も,議会での代表から排除されないこと になる。それは,フランス革命から発生した見解の一つであるが,今日もはやフランス の社会主義老によっては主張されてはいない。イギリスの社会主義者はその健全な政治 的本能によって初めからこの正義への熱狂から守られている。ドイツ社会主義において のみ,その熱狂が宿命的な役割を演じている。なぜなら,ドイツ社会民主党は,選挙区 の新配分に基づき旧選挙法を維持した場合にも,それゆえ,国民議会選挙を規定した全 く『公正な』選挙法においても十中八九またその後の選挙に際しても議会において絶対 多数を有しうるとしていた。この権力の喪失を,社会民主党がその際少なくともその原 則に忠実であったということによって慰めるのは誤っていよう。実際には.選挙手続 46) Mierendorff, a. a. O., S. 33. 47) Mierendorff, a. a. O., S. 34. 48)Schafer, a. a・0・(注5), S・182.この若いグループtこは,アドルフ・ライヒヴァイ ン,フーゴー・ジンツハイマーらが属しており,機関誌の副題は,「精神的および政 治的創造に関する雑誌」であった。
98 彦根論叢 第230号 の問題に関する社会主義の原則は,極めて少ない。選挙法令のごとき政治的事柄は.個 人からではなく国家から出発することが重要である。民主主義はすでに国家を前提とし ており,したがってあら@る場合においてとりわけその存在の安定とその任務遂行の能 力を考えなければならない。社会民主党および国民議会はしかし第一に次のような原理 から出発した……選挙手続の国政上の目的は,.立法機関,すなわち議会の形成で毒る。 議会の形成においては,すべての個々の票は平等に考慮されなければならない一すでに 技術的制約がある一が,むしろその議会が活動能力を有するということこそ重要であ 4e) る。」 またミーレンドルフは,同誌においてさらに選挙改革に関する言葉を「若き 世代の合言葉」としてとらえた。国民議会でのナウマンのことばの引用をモッ トーとして最初に掲げたその論文は,とりわけ選挙改革の問題についてのうィ ヒ議会における自らの党の否定的態度を攻撃するものであった。その論文では 次のように言っている。 「ドイツの議会主義の健全化およびその将来は,社会民主党が民主主義の健全性にと っての選挙手続の意義と比例代表制の作用を認識し,党として改革に取り組むことが前 提となるということを,強調しなければならない……議会制度の信用を失わせようとす るなら,比例代表制以上の発明はほとんど無いであろう。それは見掛け上極めて公正で あるが,政治的不条理へと導く……議会主義と民主主義は,ドイツにおいては一般に比 例代表制を排除してようやく始まる。民主主義の機能破壊の原因がその本質的部分にお 50) いて今日の選挙手続にあるという認識は,前提である。」 彼は,もう一つの論文において,社会民主党に選挙法に対するその態度を再 考するように要求した。その論文は次の言葉で終わっている。「人はしばしば 今日若者の政治への寄与としてなにが可能かと質問する。比例代表制の廃止に いたる選挙改:革はその寄与である。それは,わが国の政治の活性化のための前 51) 提である。」 49) August Rathmann, ,,Ein Sieg des Parlamentarismus“, in: Nezee Bldtter fdir den So2ialismus, 1. Jhrg. 1930, S. !41. 50) Carl Mierendorff, ,,Wahlreform, die Losung der jungen Generation“, in: Neue Blditter fdir den Sozialismus, 1. Jhrg. 1930, S. 343. 51) Carl Mierendorff, ,,Wahlreform oder Faschismus“, in: Nette Bgdtter ftir den Soxialismus, 1. Jhrg. 1930, S. 412.
このような活性化にはもはや至らなかった。ナチスの勝利とひきつづく戦争 への突入は,レーバーとミーレンドルフらの思想の当時のドイツ社会民主党の 態度への影響を可能性にとどめてしまった。そして彼らは戦争を生きのびるこ とはできず,それゆえ戦後の同党に直接影響を与えることはできなかった。 ドイツへの比例代表制の導入とその維持について,社会民主党は極めて重要 な役割を演じてきた。ワイマール議会政治の現実に直面し,その社会民主党の 内部から比例代表制の「神話」に挑戦する人々が登場したということは,以後 のドイツにおける選挙法の展開にとって重要な意味を有する。ミーレンドルフ に代表される議論は,「公正な代表」と「政府形成能力の確保」を対立的に把握 し,一方的に後者に軍配をあげる比較的荒っぽいものであり,必ずしも比例代 表制が有する他の多くの問題点までも論じたものではなかった。しかし比例代 表制のドグマから社会民主党が,解放される先駆けとなったといえよう。同党 の有する政治的位置から,その選挙法に対する態度の転換は,戦後の西ドイツ の独特の選挙法の形成にとって重要な意義をもつことになる。シェーファーに よれば,「将来の国家とその憲法的形成を再考することから,1945年再建社会 民主党が出発したとき,12年の苦い断絶からは少なくとも,社会民主党が選挙 法との関係でのあらゆるドグマを放棄したという善が得られた。比例代表制な いし多数爆撃制の信奉者はたしかに存在するが,党自体は選挙法について確定 せず,選挙法をその貢献すべき国家形態および政府形態からのみ眺めた」ので ある。 むすびにかえて 以上,ワイマール期の比例代表制の実態と,主に政党レベルの改革の動きに ついて瞥見した。しばしば,「比例代表制→小党分立→政権の不安定→ファシ ズム」という図式が描かれ,比例代表制を「デモクラシーのトロイの木馬」で お あるとし,その議会政治への悪影響が指摘される。しかし,この図式が典型的 52) Sch註fer, a. a.0.(注5), S.184. 53) Hermens, a. a.0., S.141ff.山口,前掲24号20頁以下。
100 彦根論叢 第230号 にあてはまるとされるワイマール;期の事例においても必ずしもその比例代表制 ばかりに議会制民主主義の崩壊の責任を負わせることはできないように思われ る。政権が「連合」の形態をとらざるをえないとしても,その政権の安定性 は,それを支える政党の質と現実の政治状況に大きく規定されていると考えら れるからである。比例代表制が,常に議会制民主主義にとって危険な制度であ るとはいえまい。そして議会制民主主義が,影山氏が指摘するように,そもそ も深刻な利害対立を包含したその「危機」として現象せざるをえないものであ り,その対立の統合あるいは一方の側の排除が政治過程のある段階でなされざ るをえないとしてもそれがどの段階でなされるかは極めて重大な問題である。 しかしどの段階が適切であるかは,各国の事情によって異なっており一律には 決定することはできないであろう。したがってこの統合過程にかかわる選挙制 度についても当該国家の具体的状況の中で検討されざるをえないであろう。 さて,本稿では,ワイマール期の選挙法改革の動きについて,社会民主党を 中心とした政党レベルでの議論について紹介したにとどまっている。本稿の前 半で指摘したライヒ選挙法の問題点についての議論のすべてを紹介したもので はない。ワイマール末期には,国法学者等の改革案も含めて,戦後の西ドイツ の選挙法に影響を与えた案が,提出されている。ワイマール比例代表制の問題 点がそれらではどのように理解されており,いかなる解決策が提示されている かについては,稿を改めて論じることとしたい。
表1 ワイマール期のライヒ議会選挙の結果 1 2 3 4 5 6 7 8 9
選挙期日
投票数(千票) 投票率(%) ユ0 ナ チ ス (NSDAP)国家人民党
(DNVP)保守人民党
キリスト教社会 人民奉仕党 Landbund Landvolkpartei 農 民 白鳳党党
レ障舳民済
r ︶ S P欺 V
%人①経
ユ9ユ9.L19 30524. 8 83.0 11 12 IS 14 15 16 17 18一民党
ノ人
ハ ン ・党ルの央 ッ一工V イァィ㊨ ドヴバ党中 民 主 党 (DDP)社会民主党
(SPD) 独立社会民主党 (USPD) 共 産 党 (KPD) そ の 他 3121. 5(10. 3) 44(!0.5) 1345.6( 4.4) 19( 4.5) 275.8( O.9) 4( !.0) 77. 3( O. 2) 1( O. 2)計綴翻
5979.7(ユ9.7) 91(2!.6) 5641.8(18.5) 75 (17. 8) 11509. 0 (37. 9) 163(38.7) 23!7.3( 7.6) 22( 5.2) 13ユ.8( 0.5) 2( O.5) 30400. 3 421 @ 1920.6.6 28463.6 79.2 4249.1(15.1) 71 3919. 4(1 3. 9) 65 218. 6( O. 8) 4 319.1( 1、ユ) 5 1238. 6( 4. 4) 21 3845. 0(13. 6) 64 2333. 7( 8.3) 39 6ユ04,4(2ユ.7) 102 5046. 8(17. 9) 84 589. 5( 2.1) 4 332. 1( 1.1) @ 1924.5.4 29709.4 77. 4 1918.3( 6.5) 32 5696.5(19.5) 95 574.9( 2.0) 10 2694.4( 9.2) 45 693.6( 2.4) 10 319.8( 1.1) 5 946.6( 3.2) 16 3E14.4(13.4) 65 1655.1( 5.7) 28 6008. 9 (20. 5) 100 235.1( O.8) 3693. 3 (12. 6) 62 930.8( 3. 1) 4 28!96.3 459 29281.8 472 @ 1924.12.7 30703.6 78.8 907.9( 3.0) 14 6209.2(20.5) 103 499.6( 1.6) 8 3051.3(10.1) 51 1006.3( 3.3) 17 262.8( O.9) 4 1135.1( 3.7) !9 4120.9(13.6) 69 1921.3( 6.3) 32 7886. 3 (26. 0) 131 99.2( O.3) 2711.8( 9.0) 45 500.1( ユ.7) 303!1.9 493 上段一得票数,O内得票率,下段Pt議席数。1919年の選挙は,当然,憲法制定国民議会選挙で ある。このとき,中央党はキリスト教人民党(CVP)の名称を使っていた。民主党は,1930年 からDeu亡sche Staatsparteiと名称を変更している。 Voge1, u, a., Wahlen inエ)eutschland, Berlin 1971, S.296f.の表をもとに作成した。102 彦根論叢第230号
123456789
012345678
!11111111
ト 一 一三ロ @ 1928.5.20 31165.8 75.6 810.1( 2.6) 12 4381.6(14.2) 73 199.5( O.6) 3 581.8( 1.9) 10 481.3( L6) 8 483.2( 1.6) 2 2679.7( 8.7) 45 1397.1( 4,5) 23 195.6( O.6) 3 945.6( 3.1) 16 3712.2(12.1) 62 1505.7( 4.9) 25 9152.9(29.8) 153 20.8( O.1) 3264.8(10.6) 54 941.3( 3.1) 2 30753. 2 491 @ 1930.9.14 35225.8 82.0 6409.6(18.3) 107 2458.2( 7.0) 41 290.6( O.8) 4 870.1( 2.5) 14 193,9( O.6) 3 1108.7( 3.2) 19 339.6( 1.0) 6 271.4( O.8) 1578.2( 4.5) 30 1362.3( 3.9) 23 144,3( O.4) 3 1059.1( 3.0) 19 4127.9(11.8) 68 1322.4( 3.8) 20 8577. 7(24. 5) 143 11.9 一 4592.1(13.1) 77 242.2( O.8) 34970. 9 577 @ 1932.7.31 37162. 1 84.1 13745.7(37.3) 230 2177.4( 5.9) 37 364.5( 1.0) 3 96.9( O.3) 2 90.6( O.2) 1 137.1( O.4) 2 40.8( O.1) 1 436.0( 1.2) 7 146.9( O.4) 2 46.9( O.1) 1192.7( 3.2) 22 4589. 4 (12. 5) 75 371.8( 1.0) 4 7959. 7 (21. 6) 133 5355.3(14.5) 89 130.7( O.3) 36882.4 608 @ 1932.11.6 35758. 3 80.6 11737. 0 (33. 1) 196 2959.1( 8.3) 52 403.7( 1.2) 5 105.2( O.3) 2 46.4( O.!) 149.0( O.4) 3 46. 2( O. 1) 660.9( 1.9) 11 110.3( O.3) 1 63.9( O.2) 1 1095.4( 3.1) 20 4230.5(11.9) 70 336.4( 1.0) 2 7247.9(20.4) 121 5980.2(16.9) 100 298.5( O.8) 35470. 8 584 @ 1933.3.5 39658.3 88.8 17277. 3〈43. 9) 288 3136.9( 8.0) 52 383.9( 1.0) 4 83.8( O.2) 1 114.1( O.3) 2 432.2( 1.1) 2 47.7( O.1) 1073.6( 2.7) 18 4425.0(11.2) 74 334,3( O.9) 5 7181.3(18.3) 120 4847.9(12.3) 81 5.0 一 39343. 3 647表皿 ワイマール期のライヒ内閣 首 相 シヤイデマン* (SPD) バ ウ ア 一* (SPD) ユ ラ 一* (SPD) フェーレソバッ ハ(中央党) ヴィルト(王) (中央党) ヴaルト(豆) (中央党) ク 一 ノ ー シュトレーゼマ ン(工)*(DVP) シュトレーゼマ ン(∬)*(DVP) マノレクス(1) (中央党) マルクス(皿) (中央党) ルター(1)* ル タ 一(■) マルクス(皿) (中央党) マルクスGV)* (中央党) ミュラー(a)* (SPD) ブリューニング (工)(中央党) プリューニンク (ff)(中央党) パ 一 ペ ン シュライヒャ一