<記録>『Thy Will Be Done―聖和の128年』を刊行
して (第44回関西学院史研究会)
著者
山本 伸也, 小見 のぞみ
雑誌名
関西学院史紀要
号
22
ページ
91-119
発行年
2016-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/14332
永田 第四四回学院史研究会に お集まりいただいて感謝い たします。私は関西学院学院史編纂室長の永田と申します。 きょうは、 『 Thy Will Be Done ― 聖和の 128年』を刊行して と題しまして、聖和史の話をしていただこうと思っていま す。関西学院大学は「関学学」という学問、春学期秋学期 も関西学院の歴史を学ぶ授業があります。関西学院という ものの在り方を私たちは考えるのですが、聖和の在り方と いうものをきょうは皆さんとともに学んで、将来どう歩む かということ、そのようなことの研究会になれ ば いいと思 い ま す。 「 聖 和 の 128年 の 歩 み に は、 一 九 五 〇 年 の 短 期 大 学 設置までに五つの学校が存在しています。これらの歴史編 纂 の 作 業 を 通 じ て 気 づ か さ れ た の は、 そ こ に「 関 西 学 院 」 が何度も登場し、 聖和の歴史に様々な影響をあたえ、 関わっ ているということでした。研究会では、聖和史刊行のプロ セスから、改めて見えてきた関西学院について、お話しし たいと思います」と案内をさし上げましたが、同時に聖和
﹃
Thy Will Be Done
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聖和の
128年』を刊行して
講師:山本
伸也
関西学院大学教育学部教授 学院史編纂室運営委員 聖和史刊行委員会委員長小見のぞみ
聖和短期大学教授 聖和史刊行委員会委員 司会:永田雄次郎
学院史編纂室室長 会場:吉岡記念館 3 階・会議室 1第
44回関西学院史研究会
(二〇一五 ・ 一〇 ・ 二六)
の長い歴史、その独立性、自立性についてぜひお話してい ただけたらと思っております。 講 師 と し て お 願 い い た し ま し た 先 生 は、 山 本 伸 也 先 生、 関西学院大学の教育学部の教授でいらっし ゃ います。関西 学院学院史編纂室の運営委員にもなっていただいておりま す。そして聖和史刊行委員会の委員長を務めていただきま し た。 そ し て 小 見 の ぞ み 先 生 は、 聖 和 短 期 大 学 の 教 授 で、 宗 教 主 事 と し て 皆 さ ん も よ く ご 存 知 の 方 で す が、 先 生 も、 聖和史刊行委員会の委員として、この本の刊行に非常に力 を発揮されました。その刊行に関わられたお二人の先生方 を中心に、聖和の 128年の歴史を語っていただき、関西学院 との関係を我々は共々に考えてみようと思います。 それでは、最初に 聖和の歴史刊行の経緯を山本先生に お 話をしていただきます。そのあと編纂作業から見えてきた 「関西学院」について小見先生にお話をしていただきます。 そして質疑応答と、みなさまにいろいろなご意見や知ると ころをお教えいただきたいと思っております。時間は一六 時五〇分から一八時二〇分を予定しております。それでは、 山本先生からよろしくお願いいたします。 山本 山本でございます。本日はお忙しい中お集まりいた だきましてまことにありがとうございます。今回は二部構 成の発表という形で、まず最初に、私が刊行の経緯を導入 という形でお話させていただき、その後本論として、第二 部で小見先生に映像を交えてお話をしていただきます。ま ず、レジュメの資料をご確認ください。 最初に、聖和の歴史刊行の経緯を簡単に お話させていた だきます。二〇〇九年四月一日、学校法人聖和大学は、学 校法人関西学院と合併したことにより、学校法人聖和大学 は解散いたしました。この合併を機に、聖和の歴史書を刊 行したいという要望が聖和側から関西学院側に出されたこ とにより、合併後に学校法人関西学院のもとで歴史書を刊 行することとなりました。これを受けて、二〇〇九年四月 に、旧聖和の教職員を中心とする聖和史編纂委員会が設置 されましたが、事情により、四年後の二〇一三年四月に編 纂委員会を解散し、新たに聖和史刊行委員会を組織して刊 行の作業にあたりました。その時点で合併から既に四年を 経過していましたので刊行を急ぐ必要があり、二〇一四年 度中の刊行を目標としました。刊行委員会としての実質の 編纂作業の期間は、約一年半でした。公務をこなしながら の作業はそうとうに厳しいものでしたが、二〇一五年三月 に『 Thy Will Be Done ― 聖 和 の 128年 』 B 5 版 で 三 百 十 一
頁の書として刊行することが出来ました。それまで、記述 をもとにした通史としての聖和史は、一九六一年に発行さ れた『聖和八十年史』のみでしたので、今回の刊行は聖和 の歴史をよりよく理解するためにも有益ではないかと思っ ております。 書名は『 Thy Will Be Done ― 聖和の 128年』としました。 〈 資 料 1 〉 を ご 覧 く だ さ い。 こ の 名 称 に し た 根 拠 は 記 載 の 通 り で す。 「 合 併 を 繰 り 返 し て 歩 い て き た 聖 和 の 歴 史、 そ れは、神の意志、み心を一心に辿ろうとした歩みであった と言えるだろう。これからも変わることなく、神の意志が 成 し 遂 げ ら れ て い く こ と を 願 っ て、 本 書 を『 Thy Will Be Done 』 と し た 」。 こ れ は、 「 主 の 祈 り 」 の な か に 出 て く る み言葉です。大学の歴史書のタイトルが英文で、しかも聖 書のみ言葉であるということは、異例に思えるかもしれま せんが、聖和の過去の歩みと、もはや学校としての目に見 える形はありませんが、これからもさまざまな形で存在し 続ける聖和を表すのに、相応しいタイトルではないかとい うふうに考えました。 作業を始めるにあたって、刊行まで二年の猶予しかない ということでしたので、本の分量は自ずと制限されました。 従いまして、限られた紙面ではありましたが、できるだけ 多 く の 人に 読 ん で も ら い た い と い う 願 い か ら、 「 読 む 年 表 」 を 編 集 方 針 と し ま し た。 第 一 部 で は 歴 史 的 事 項 は 出 来 る だ け 詳 し く 説 明 し、 ま た 解 説 も 加 え て い ま す が、 そ れ だ け で は 残 さ れ て い る 貴 重 な 資 料 を 生 か し て 聖 和 の 歴 史 を じ ゅ う ぶ んに 記 述 出 来 な い と い う 考 え か ら、 小 見 先 生に 二 十 六 の コ ラ ム を 選 ん で い た だ き、 執 筆 し て い た だ き ま し た。 大 学 の 歴 史 書 と し て こ の よ う な 形 式 は や や 異 例 か も し れ ま せ ん が、 編 纂 し た 個 人 の 見 解 を 含 ん だ 物 語 性 の あ る コ ラ ム が、 むしろ本書の特徴のひとつとなっていると思っています。 構 成 に 関 し て お 話 し い た し ま す。 〈 資 料 2 〉 の 目 次 を ご 覧 く だ さ い。 本 書 は 大 き く 分 け て 二 部 構 成 と な っ て お り、 第 一 部 は 一 八 八 〇 年 の 神 戸 女 子 神 学 校 か ら 一 九 五 〇 年 ま で の 聖 和 女 子 学 院 ま で、 第 二 部 は、 一 九 五 〇 年 設 立 の 学 校 法 人 聖 和 女 子 短 期 大 学 か ら 学 校 法 人 聖 和 大 学 の 二 〇 〇 九 年 ま で と な っ て い ま す。 沿 革 チ ャ ー ト の 左 頁 を ご 覧 く だ さ い。 一 八 八 〇 年 創 立 の 神 戸 女 子 神 学 校 を 含 む 三 つ の 学 校 が あ り、 そ れ ら は 後に 聖 和 女 子 学 院 と な り ま す。 こ れ を 第 一 部 と し、 右 頁に あ り ま す 聖 和 女 子 短 期 大 学 以 降 の 歴 史 を 第 二 部 と い う 構 成 に し ま し た。 研 究 会 の ご 案 内 に も あ り ま す よ う に 、 第 一 部 が メ イ ン と な っ て い ま し て、 第 一 部 は 見 開 き 左 頁に 事 項 を、 右 頁に は 事 項に 関 す る 解 説 を 記 載 し、 先 ほ ど 申 し
ました二十六のコラムを挟んであります。学校法人聖和女 子短期大学設立の一九五〇年以降の歴史を扱う二部は、事 項のみを記載し、第一部と第二部の間には、一九五〇年以 降の出来事を記録した写真を掲載しています。 最後に 、聖和の歴史に ついてお話しいたします。これは 第二部の前提となるものですので、 〈資料 3 〉の沿革チャー トをご覧いただけれ ば と思います。聖和は三つの源流とな る学校を持ち、それらが合同を経てひとつの学校になった と い う 非 常 に 特 異 な 歴 史 を 持 っ て い ま す。 最 も 古 い 学 校 は、一八八〇年から始まる女子伝道学校で、この一八八〇 年が、聖和の創立の年となっています。一八八八年にはメ ア リ ー・ イ ザ ベ ラ・ ラ ン バ ス が 神 戸 婦 人 伝 道 学 校 を 設 立 し、後にそれはランバス記念伝道女学校となります。メア リー・イザベラ・ランバスは、ご承知のとおり、関西学院 を設立したウォルター・ラッセル・ランバスのお母さんで す。 一 八 九 六 年 に は、 広 島 女 学 校 保 姆 師 範 科 が 開 設 さ れ、 この保姆師範科が、聖和の幼児教育・保育の直接のルーツ となります。左ページのこれら三つの学校は、合併を行い、 一九四一年に聖和女子学院というひとつの学校になります。 このような複雑な歴史の中でも、とくにランバス記念伝道 女学校については、あまりよく知られていませんでしたの で、本書では詳しくその歴史が述べられています。これら にあわせて沿革チャートの各頁右側には幼稚園の歴史を記 載しておりますのでご覧ください。聖和キャンパス内にあ る聖和幼稚園は、一八九一年に設立された英和女学校付属 幼稚園を始まりとしています。 聖和の歴史の最後の部分に 少し言及させていただきます と、合併後は、沿革チャートに記載の通り、学校法人聖和 大 学 の 聖 和 大 学 短 期 大 学 部 は 学 校 法 人 関 西 学 院 聖 和 短 期 大 学 と し て、 ま た 聖 和 大 学 付 属 幼 稚 園 は 学 校 法 人 関 西 学 院聖和幼稚園として存続しています。四年制の聖和大学は、 二 〇 一 三 年 三 月 十 九 日 に 五 名 の 学 生 が 卒 業 し、 そ の 年 の 一〇月に廃止が認可されました。このように、一二八年と いう聖和の歴史を編纂していますと、 その編纂過程で、 様々 なことが浮き彫りになり、そのなかのひとつが聖和と関西 学院との結びつきでした。従来、聖和と関西学院は互いに 関係が深いといわれ、ある程度分ってはいましたが、誰が、 いつ、どのようにという具体的なことはあまり知られてい なかったのではないかと思われます。それでは、次に「編 纂作業から見えてきた関西学院」と題して小見先生にお話 をしていただきます。よろしくお願いします。
小見 それでは、ここから聖和の歴史に ついてお話してい きます。けれどもこれは非常に長いうえに、起源となる学 校がいくつもあって、それぞれの歴史があるため、 ダ ブル、 トリプルになっている時期もありまして、都合何百年にも なってしまうものということになります。 そ こ で、 今 日 は、 特 に い ち ば ん 最 初 の ル ー ツ で あ る 神 戸 女 子 神 学 校、 こ こ の 話 を 中 心 に し た い と 思 っ て い ま す。 チャートをご覧くださると、いち ば ん左に書かれているの が神戸女子神学校です。教派的にはアメリカンボード(会 衆派/組合教会)が創りました学校で、神戸女学院と創立 者のひとりが重なる、そのグループのミッションスクール です。 チャートの二番目に 書いてあるランバス記念伝道女学校 は、もう名前で分りますように、メアリー・イザベラ・ラ ンバスの学校です。今日の話では、その前にチャートの三 番目にある広島女学校の方を先に入れます。最初に「神戸 女子神学校」のことを、 次に「広島女学校」を、 そして「ラ ン バ ス 記 念 伝 道 女 学 校 」、 そ れ か ら ラ ン バ ス 記 念 と 広 島 が 合併した「ランバス女学院」にいって、最後に「聖和女子 学院」という順番で話をしていきますので、いまどこにい るのかなと考えながら聞いてくだされ ば と思います。 私は、千九百年代のあたり同じ時代を何度もウロウロし て、各学校をみたものですから、話をしている途中でよく どっちがどっちの人だったか分らなくなるのですが、二つ 目と三つ目にお話しする学校、広島女学校とランバス記念 と い う の は、 両 方 と も 教 派 的 に は メ ソ ジ ス ト の 学 校 で す。 もちろん、名前から分るように関西学院と同じルーツ、同 じ教派です。ですので、関西学院から見るとこの二つの学 校については、かなりご存じで、関学の歴史と重なると思 いますので、今日はとくにアメリカンボードの創りました 神戸女子神学校のお話をできるだけして、残りの時間で他 の学校のことをとりあげ、聖和の歴史のなかで、関西学院 はどんなふうに関わっていたのかを、写真を映しながらお 話できれ ば と思っています。 神戸女子神学校 神戸女子神学校は、日本で初めての女性のための神学校 で す。 一 八 八 〇 年 の 創 立 で、 こ の 写 真 は、 「 最 初 の 六 人 の 生徒たち」といわれているものです。床に座っている、こ の背中が、創立者ジュリア・ E ・ ダ ッドレーで、あとはご 覧のとおり、いろんな年齢の女性たちが生徒として写って います。神戸女子神学校は、ここに出した、 ダ ッドレーと
マーサ・ J ・バローズの二人が創立者で、ジュリア・ ダ ッ ドレーの方が神戸女学院の創立者のひとりでもあり、タル カット先生と共に神戸女学院を創ったという関係です。 神 戸 女 子 神 学 校 は、 花 隈 で 女 子 伝 道 学 校 と し て 開 始 さ れ ま し た。 花 隈 の 鈴 木 方、 鈴 木 大 老( SUZUKI TAIRO ) 宅 と 記 録 さ れ て い て、 ど の 鈴 木 さ ん な の か よ く わ か ら な かったのですが、今回出版作業をする中で、おそらく神戸 教 会 の 初 期 の 信 徒 で あ る 鈴 木 清 に 関 わ る 方 で は な い か と、 私は思っています。 レ ジ ュ メ を 見 て い た だ く と、 一 八 八 〇 年 に 始 ま っ て 一 八 八 三 年 に は 中 山 手 の 五 十 九 番、 六 丁 目 に 移 っ て い ま す。もともと花隈で始まって、神戸の中山手にあった学校 だということで、ほんとうに明治初期に神戸で伝道を始め た学校だということがわかります。下線を引いてあるとこ ろが、ランバスファミリーがこられた時期です。一八八六 年に来られています。メソジストの場合は、中国宣教を盛 んにしていましたので日本宣教、神戸の伝道開始というの はちょっと遅かった。そこで神戸のプロテスタント宣教は、 まずアメリカンボードが入ってきて、そして神戸教会、い まの日本キリスト教団神戸教会を創っていきます。この神 戸宣教をサポートしていたのが三田の九鬼の殿様、旧三田 藩の人々でした。そこで、神戸女子神学校も、三田、九鬼 家の支援を受けてやっている、本当に神戸の学校だなとい う気がします。 R CC の出された『ミナト神戸の宗教とコ ミュニティー』にも描かれている明治期の神戸の文化とか、 神戸での宣教に関わっていた三田の人たち、その文化の中 で学校をやっていたと、強く感じる神学校ということにな ります。 この写真が中山手の五十九番で、花隈からここへ移った わけですが、ここはもともとギューリックがしておりまし た「 七 一 雑 報 」 の 印 刷 所 で し た。 そ こ を 学 校 に、 ギ ュ ー リックのお宅を教師宅にするという形で、本当に神戸の最 初 の キ リ ス ト 教 の 始 ま り の と こ ろ に 関 わ っ て い た と い う こ と が わ か り ま す。 そ し て 同 じ 場 所 の 中 山 手 五 十 九 番 で、 一 九 〇 八 年 に 新 し い 校 舎 を 建 て ま す。 校 舎 新 築 に 際 し て、 さきほどの元々の建物は、神戸教会の日曜学校の校舎とし て移設しています。神戸教会とは深い関わりのあった学校 だということです。 レジュメには、その当時、一八八三年の担当教師に 小 こ 磯 いそ 吉 よしたり 人 と書いてあります。これは小磯良平のお父さんで、お 医者さんで看護学などを教えていただいていた。その三行 下、 田 た 中 なか 兎 と 毛 もう が教頭になるとあります。そこ(会場の吉岡
記念館会議室の壁)に絵がかかっている田中忠雄さんのお 父さんです。 神戸を代表する洋画家のお二人のお父さん方が先生をし てくださっている、こんなところをみても、なんというか、 神戸文化のにおいのする学校だったんだなという気がしま す。 その非常にレベルの高い文化的な、当時の最先端の芸術、 科学を学校に持ち込んだのが、写真にある、この学校の中 興の祖であるゲルトルート・コザートという方です。この 方は『神戸のロマンス』を著していて神戸居留地のことと か 昔 の 伝 承 や 歴 史 を 記 し て い ま す。 ま た コ ザ ー ト が 校 長 だった時に、ちょうどラビンドラナード・タゴールが来日 する。そのタゴールの講演を聞きに学生たちを連れて行っ ています。学校にも来ていただいたようです。学校の雰囲 気を語るエピソードだと思います。 そして、これは一九二一年の卒業写真です。これが田中 兎毛教頭先生で、これが若き日の賀川豊彦です。賀川豊彦 に 社 会 学 を 教 え て い た だ い て い ま し た。 こ の と き 学 校 は、 中山手の五十九番にありました。 中山手三十五番が 「三十五 番のランバス」といわれたランバス記念伝道女学校で、賀 川豊彦の授業はランバス記念の生徒たちとの合同授業だっ たようです。神戸で、お隣で一緒にやっていたということ になります。神戸女子神学校は、社会学を非常に大事にし て、最後は社会事業科という学科ももっていました。 この時期の、他教派からの先生としては、ここに 織田や すという方がおられます。彼女は日本で初の女性の神学者 で、コザートが一度米国に帰りましたとき、彼女を日本へ 連れて帰って、一九二一年から一九二八年まで教師をされ ました。この時代に、日本人の新進気鋭の女性神学者を専 任教員として迎える、という学校だったことになります。 この神戸女子神学校で、他に 何度もお名前がでてくる関 西学院の方というのが、一九一〇年のところに書いていま す三戸吉太郎です。原田の森の関西学院構内に日曜学校の ためにハミル館を建てた三戸吉太郎、そして、二一年のと ころにあります吉崎彦一という方がいます。この方はずっ とランバス記念の先生ですが、神戸女子神学校にも教えに 来ていただいていたということが出ています。他には曾木 銀次郎、あとでランバス記念のところで出てきます。関学 関係者としては、三戸吉太郎、吉崎彦一、曾木銀次郎など の先生方にお世話になっていたというのがわかります。 学校は、この辺りまでは結構よかった、高い水準で一生 懸 命 や っ て い た ん で す ね。 と こ ろ が、 一 九 二 五 年 を 見 て
いただきますと、米国婦人伝道会(アメリカンボード)の 援助金が三分の一となり学校運営が厳しくなります。ここ からは聖和の歴史に繰り返される、いつも学校経営に苦し い、苦しい歴史が始まるわけなんですが、一九二五年ぐら いから、いよいよお金がカットされる。いままでは、ミッ ショナリー、アメリカンボードの宣教団のお金で運営して いたものが、日本の組合教会がその運営を担っていく方向 に動いていきます。田中兎毛先生などが学校に来られたの も、日本人の組合教会の牧師さんたちの関わりが出てきて、 経営を教会の方で考えるようになっていった表れです。 一九二七年を見ていただくと中央委員会、管理委員会の 設置と書いています。この中央委員会というのが、組合教 会の中にある常議委員会(常置委員会)のようなものと考 えていただいたらいいと思います。そして、管理委員会と いうのは、神戸女子神学校の理事会だったものです。それ が管理委員会という名前になって、日本の組合教会の方が、 学校運営の主体へと変わっていくわけです。そして二七年 には、日本各地でミッショナリー(アメリカンボード)が やってきた事業を、組合教会が主になって経営を考えるこ とになり、共同経営にしてはどうかと思われる学校や施設 の名前が挙げられます。その第一に神戸女子神学校、次が 頌栄ですね。頌栄は幼稚園と保姆伝習科と両方挙がってい ました。それから淀川善隣館、岡山博愛会などもでていて、 学校は、たいへん厳しい状況を迎えます。この頃同窓生は 一生懸命になって、学校存続を願い、募金活動と祈祷会を しています。 しかし、一九三〇年、中央委員会で神戸女子神学校の継 続は困難であるとされ、廃校することを組合教会の総会に 提案することが決議されるところまできて、ほぼ廃校が決 まりました。一九三〇年は、神戸女子神学校創立五十周年 にあたる年でしたが、この「五十周年記念は学校の葬式に なるだろう」と言われていて、同窓生もみな、それを覚悟 していたのです。 ところが、どういうどんでん返しが起こったのか、校地 を移転することと、教育課程を変更することを条件に、女 子神学校の継続が突如決まります。この条件の文言は、そ こ に か か わ り の あ る 部 分 だ け 書 き 出 し て い ま す が、 ま ず、 い ま 神 戸 女 子 神 学 校 が 建 っ て い る 土 地 は、 「 頌 栄 の 永 久 的 位置にする」と書かれ、では、この土地を出ていくこの人 たち(神戸女子神学校)はどこに行くかということで、 「永 久的位置は神戸女学院、関西学院の付近たること」と書い てあるのです。
レ ジ ュ メ の 横、 下 線 の と こ ろ に あ り ま す よ う に 、 一九二九年に関西学院は上ケ原への移転を完了していまし た。神戸女学院も岡田山に動くことが決まっておりました。 その両方の学校の付近に移転することが、神戸女子神学校 存続の大前提になっていたわけです。その上で教育課程を 見直し、金銭面でも努力するなら、という条件で、存続が 決められた。神戸女子神学校は、関学の上ケ原移転があっ て、一九三〇年で終わってしまわずに、命を繋ぐという経 験をします。 そして岡田山にやってくるわけです。一九三二年、神戸 女子神学校岡田山に移転。写真のように草原にヴォーリズ の三棟の校舎が出現しました。この『基督教世界』の記事 を見ますと、神戸女学院の校舎が、次々と岡田山に姿を現 し て く る の で、 周 り の 人 が び っ く り し て い た と、 「 そ の す ぐ北隣で、関西学院や甲山に面して楚々たる二棟のクリー ム色をした建物が竣成した。知らない人たちは、やはり神 戸 女 学 院 の 一 部 か 関 西 学 院 の 校 舎 だ と 思 う か も 知 れ ぬ が、 これぞ今秋から移転し来った我が神戸女子神学校の新校舎 と寄宿舎である」と書いてあります。状況はこの写真、右 後方のこれが甲山だと思われますから、この辺に関西学院 の 上 ケ 原 が あ り、 こ ち ら 側 が 神 戸 女 学 院 と な り ま す。 現 在はこの草がぼうぼうに生えている位置に一号館、本館が 建っているわけですけれども、最初はいまも残っておりま す ダ ッドレーチャペルのある四号館、旧五号館、この裏に 小さな宣教師館という三つのヴォーリズの建物と、日本人 教師住宅の、わずか四棟だけのキャンパスでした。神戸女 学院の北側にちょっとくっついて、上ケ原の関西学院と女 学院の間に位置していたということになります。 神戸におりましたときは、学生たちは皆日曜日の夕拝は、 各教会に行っていたと書いてあります。ところが、岡田山 に上がってきますと、日曜日の夜までそんな所にいられな い。 見 て く だ さ っ て 分 る よ う に、 草 し か な い よ う な 所 で、 危ないので学内のチャペルで夕拝をすることになりました。 そこにやってきたのが神戸女学院の職員の方、寄宿生の方、 そ し て 関 学 の 学 生 た ち と い う こ と が 書 い て あ り ま す。 「 関 西学院の専門学生や女学院の寄宿生、職員などが参加する ため、山上静寂の小会堂に、五十人から六十人の参加者が あった」と。ちょうど位置も真ん中でしたので、両方の学 校から集まって、ここで夕拝を毎週していたといわれてお ります。 でも、岡田山へ移転して来たものの、やはりお金はない。 そして一九三〇年代ですので、どんどんと戦争に近づいて
い く と き で す。 一 九 三 六 年 に は こ ん な 記 事 が あ り ま し た。 「 困 窮 す る 学 校 の た め に 関 西 学 院 記 念 祭 で バ ザ ー を 開 き ま し た 」 と、 同 窓 会 の「 会 報 」 に 出 て お り ま し て、 「 関 西 学 院校内に堂々と神戸女子神学校売店を開きました」と書い てあるのです。なんとなく絵が浮かびそうで、たぶん「神 戸女子神学校売店」と揚げて、一生懸命に何か売っていた のではないかと思っております。またこの頃は、し ば し ば 関西学院での農村伝道講習会に参加などの文字も出てまい りまして、一緒にいろんなことをしていたのがわかります。 けれども学校の経営は大変に なって、ミッショナリーが みな本国へ引き揚げていくという状況の中で、一九四〇年 の 十 月 に は「 長 坂 日 誌 」 と い う 当 時 の 校 長( 長 坂 鑒 かん 次 じ 郎 ろう ) 先生の日誌なんですが、警察の調査が入ったとある。とく に学校の宣教師に関して聞いていく、このあとに神戸女学 院、関西学院の事までも聞いていったと書かれています。 そんな中、一九四〇年の十一月に は神戸女子神学校は立 ちゆかないということで、廃止案が出されます。廃止にす るのに、四つのオプションがあって、一つ目が廃校、とに か く や め て し ま う。 二 番 目 が、 ラ ン バ ス 女 学 院 と の 合 流、 メソジストの学校と一緒になることが出来るかということ です。三番目が同志社への合流、四番目が組合教会の一機 関となって奨学金を出してやっていく。 実際には、この四番目が有力だったということで、神戸 女 子 神 学 校 を 止 め て、 組 合 教 会 の ひ と つ の 養 成 機 関 に な り、女性の信徒を何らかの形で訓練するという形を考えて いたようです。ところが、この翌月、一九四〇年の十二月 にランバス女学院との合流問題が急浮上します。これはあ とで申し上げますが、あちらはあちらで、ランバス女学院 も非常事態になっておりましたので、長坂先生によれ ば 先 方、 つ ま り ラ ン バ ス 女 学 院 は 突 進 的、 当 方 は 悠 然 と 書 い てあります。そんな状況の中で十二月 ば た ば たと事柄(合 併)が決まりまして、一九四一年三月、ランバス女学院か ら多くの人が移転してきます。そして四月には入学式を行 い、二十六日に兵庫県知事より神戸女子神学校の校名変更 という形で聖和女子学院への認可を受けることになります。 ランバス女学院は後で見ますが、大阪で非常に大きな学校 でした。しかしその人たちがみな、理由があって追われて ここへ来ることになるんです。 神戸女子神学校というのは、教派がメソジストではない ので、メソジストの関西学院とは関係がないというふうに、 私はこの編纂をするまで思っていました。ところが、まず 関西学院が上ケ原に動いてくださっていて、これがなけれ
ば 神戸女子神学校は、おそらくあのまま神戸で終っていた。 そうやってこの場所に来た神戸女子神学校が、 ここ(西宮) にいてくれたために、今度はランバス女学院が助けられる という、本当に両方ともがいなけれ ば ならなかった。そう して合併することによって、聖和というものを創りだすこ とが出来た。そんな歴史を、神戸女子神学校の方を見てい ると感じるのです。 神戸に ある学校時代は、同じ神戸のランバス記念や原田 の森の関西学院の先生方にいろんなことを助けていただき、 西宮時代は上ケ原の関西学院に売店まで出させていただい てお世話になり、またここで終わりという時に、メソジス ト派のランバスの学校との合併で生きながらえてきたとい うことになります。 広島女学校保姆師範科 次は広島女学校ですが、こんなふうに 詳しくやっていた ら、とても終わりません。ここからの二つの学校は、関学 と同じ、ランバスファミリーによって創られていますので、 広 島 の こ と は、 こ の 写 真 の 三 人 の こ と だ け を 採 り 上 げ て、 少しだけ申し上げたいと思います。 広 島 女 学 校 保 姆 師 範 科 が、 聖 和 の ル ー ツ に な り ま す が、 広島女学校自体の創立者は砂本貞吉というこの人物で、校 祖と呼 ば れています。こちらの、ナニー・ベット・ゲーン ズは、聖和に とっては創立者と言っていますが、この人は 保姆師範科を創った方で、広島女学院では校母と呼 ば れて います。広島女学院に行かれた方は、見られたことがある かもしれませんが、講堂に入りますと今お見せしているこ の三人の大きい写真が架けてあります。そこにもうひとり いるのが、よくご存じのウォルター・ラッセル・ランバス ということになります。この方(砂本)が創立者で、この 方(ゲーンズ)は校母で、保姆師範科を創った、それと同 時にウォルター・ラッセル・ランバスがいなけれ ば 出来な かった学校ということになるわけです。 砂本貞吉という方は、ウォルターが十一月二十四日に 日 本にやって来て、その二日後、十一月二十六日に神戸に読 書館を開館しますが、その開館式でアメリカの事情につい て話をしています。開館式のプログラムのなかに名前があ ります。ランバスファミリーは、中国から日本の宣教へと 動いてきました。砂本貞吉という人は、以前アメリカにい て、受洗をして日本に帰ってきた人で、英語を理解し、日 本人で、クリスチャンだった。その砂本が、ランバスファ ミリーが来日した神戸にやってきて、広島での伝道を助け
てくれと言います。 そのことを、ウィリアム( J ・ W ・ランバス)は、マケ ド ニ ア ン コ ー ル と い っ て、 喜 ぶ ん で す。 ( * 注 : 使 徒 言 行 録に記された、キリスト教が異邦人伝道へ向かうきっかけ となったエピソード)ランバスファミリーは、マケドニア 人が私たちを呼んでくれていると、砂本の来てくれたこと を理解する。そして、この経緯から神戸で始まったメソジ ストの伝道というのが、瀬戸内伝道圏にむかっていく。西 中国、中国地方と四国へと動いていく。ランバスの売店が あるのもあっちの方(*注:広島県庄原地方へ W ・ R ・ラ ンバスは伝道に行き、現在、国営備北丘陵公園内の売店に 「売店ランバス」としてその名前が残っている)ですね。 神戸から西へと出かけて行く、そのきっかけに なったの が 砂 本 貞 吉 に な り ま す。 で す か ら 広 島 女 学 校 と い う の は、 いまの広島女学院ですが、ランバスファミリーが産みだし た学校ということになります。 またナニー・ベット・ゲーンズという人は、もともとこ のウォルターとデイジー夫妻に憧れて、それで日本にやっ て 来 た と い う 人 物 で す。 で す か ら、 こ の ラ ン バ ス フ ァ ミ リーがいなけれ ば 彼女はもちろん来ていないという状況で すし、 学校創立当初に は、 メアリーも行っていますし、 ウォ ルターとデイジーも子どもたちを連れて行っています。広 島は低地で、太田川の氾濫がよくおこった。それで伝染病 が流行るというようなこともあり、ウォルター夫妻が小さ い子どもたちを連れて行かないようにと、祖母のメアリー が助けに行ったりしていて、このファミリーが広島に通っ ては、助けて創ったわけです。 またウォルターがお金を工面して、校地を獲得したと書 いてあるのですが、なかなかウォルターという方は、原田 の 森 を 買 わ れ た 時 の こ と も い ろ い ろ と 逸 話 が あ る よ う に、 先見の明というかビジョンをもってきちんと土地を買って いかれる方のようで、広島でもそういうことをしています。 広島では「居留地外に於いて土地購入 若 も しくは家屋を建築 する等の事は外人の 為 な し 得 う べからざる規則なるに 夫 そ の 耶 や そ 蘇 教 きょう 宣 教 師 共 ども は( こ れ、 ウ ォ ル タ ー た ち の こ と で す が、 ) 此 の規則を破って広島に土地を買った」ということが芸備日 日 と い う 新 聞 の 非 難 記 事 に 出 て い ま す。 「 当 地 居 留 の 宣 教 師ランバス氏は、流川町某氏の地所を借り受け耶蘇教場の 建築をするよしにて」というようなことが書いてあります。 何 回 も 大 変 な と こ ろ を 広 島 女 学 校 は 通 り ま す け れ ど も、 創 立 当 初、 一 回 完 全 に 撤 退 し て 神 戸 に 戻 っ て い く と き に、 ウォルターがその土地を押さえていたということがあって、
学 校 が 再 出 発 を 果 た す。 本 当 に ウ ォ ル タ ー た ち ラ ン バ ス ファミリーがいなけれ ば 、広島の歴史は無かったなという ことを感じられる学校です。その点で関西学院と同じだと 思います。 これは一九一〇年の創立記念写真ですが、ここに 、先ほ ど申し上げた三戸吉太郎が写っています。私は『関西学院 の 人 び と 』 で 三 戸 先 生 の こ と を 書 か せ て い た だ い て、 お か げ で 三 戸 吉 太 郎 先 生 の 顔 は、 ど こ に あ っ て も 分 か り ま す。神戸の御影教会におられて、そして原田の森のハミル 館を建て、日曜学校のことをずっとしていた三戸吉太郎が なぜ、この広島にいるのかといいますと、広島のご出身で、 一 八 八 七 年 ク リ ス マ ス に、 広 島 で ウ ォ ル タ ー・ ラ ッ セ ル・ ランバスから受洗しておられます。 そこから関西学院神学部に 学 ば れることに なり、メソジ ストのなかで日曜学校教育の中心的な指導者になられまし た。この人が、広島の学校で何かあるたびに駆けつけてい たということがわかります。そのほかにも神学部の第一回 の卒業生田中義弘先生、この方は広島女学校の一八九二年 の開校式で、たぶん流川教会の牧師として赴任しておられ た時だと思いますが、聖書朗読をしておられます。そして 松 本 益 吉 先 生、 関 学 神 学 部 の 教 授、 後 に は 関 西 学 院 の 副 院長もされた方、このお二人が一八八七年に広島でジェー ムス・ウィリアム・ランバスから受洗している。関西学院 の神学部に入った何人もの若い人たちは、広島でランバス ファミリーから洗礼を受けて、関西学院へと動いて行った ことになります。 田中義弘先生は流川に いるときに は広島女学校に 関わっ ておられたということがわかりますが、松本益吉をなぜこ こに書いているかといいますと、広島女学校保姆師範科一 回生の芝春枝さんという方が、結婚したのが松本益吉さん で、このあとは松本春枝として聖和女子学院の理事もして おられます。 こんな形で関西学院と、聖和のルーツの一つである広島 女学校は、もちろん母体が一緒だから当然ですが、深く関 わりを持っていたことになります。 この学校、広島女学院はこの後もずっと歴史をつないで 今日に至るわけですが、一九一九年の段階で、米国南メソ ジスト監督教会の年会は、婦人部に 属する広島女学校保姆 師範科と、神戸にその頃ありましたメアリーの学校である ランバス記念伝道女学校の合同をきめます。キリスト教活 動の高等教育機関として、十分に整備されるということを 願い、その新しい学校は、校地の価格が許せ ば 、当時いち
ば んの大都会であった大阪に設置すること、とされていま す。これは南メソジスト監督教会にとってセンテニュアル の記念大事業で、アメリカから多額のお金を寄付していた だいて、広島の保姆師範科と神戸にあったランバスの神学 校の両方が、大阪に移転して、ランバス女学院を作るとい うことになったわけです。 ランバス記念伝道女学校 三つ目の学校に移ります。この写真がメアリー・イザベ ラ・ランバスです。見るからにきりっと意志の強そうなメ アリーです。信仰と信念の人という感じがします。若い日 に「五ドルと私自身を捧げます」という言葉を語り、その 通り、三十二年間を中国宣教に捧げたのちに日本へとやっ て来た、ウォルターのお母さんということになります。 この人が自宅である山二番で、これが最初の記事ですが、 下 山 手 通 り 二 番 館 に ラ ン バ ス 夫 人 が「 婦 人 学 舎 」 を 設 け、 女性たちのために英語、算術、習字などを無謝儀にて教授 すると書いてあります。ここで、学ぶということが無かっ た日本の女性たちのために学校が開かれたわけです。この 学校が関西学院と近いかということは、いわないでも分る という感じですが、関西学院の歴史をひも解かれる時に必 ず最初に出てくる写真が、聖和にとっても大事なルーツに なる、それがランバス記念伝道女学校ということです。 次の写真は、学校創立が決定された日本宣教部第二回年 会で、ここにメアリーこれがウォルター・ R ・ランバスと デイジーです。そしてこの二人の子どもをメアリーが抱っ こしていて、これが老ランバス、ウィリアムです。このと きに、ふたつの学校の設立が決議されるのですが、片方が 広島女学校、もう片方がランバス記念伝道女学校というこ とになります。 ここから言い始めたら、ありとあらゆることが繋がって い る の で、 特 に 大 事 か な と 思 っ て い る こ と に し ぼ り ま す。 ランバス記念伝道女学校は、最初山二番で学校として宣教 部に認められて、費用を出してもらって始まりますが、中 国語は堪能だったメアリーたちも日本語はまだ出来ません。 そこで、最初に日本人の女性教師として来たのが岡嶋初音、 活水の E ・ラッセルのもとから、卒業して送られてきたわ けです。岡嶋初音は本当に有能で素晴らしい働き手であっ たと言われていますが、年号を見ていただくと分るのです が、 「 一 八 八 八 年 活 水 か ら 岡 嶋 初 音 が 女 性 伝 道 者 と し て 神 戸に赴任」 します。 九月の中旬です。 そしてメアリーとウィ リアムを助けていました。学校でも、日本語で教えてくだ
さったわけです。ところが、十二月三日に岡嶋初音はいま の神戸栄光教会で、ウィリアムの司式により吉岡美国と結 婚しているのです。すごく速い、と思いました。いつ来て いつ結婚したのかと。この吉岡美国先生は、八八年三月に 山二番の仮会堂でウィリアムから受洗しておられます。そ して八八年、同じ年の夏に彼女が活水から来たのです。そ して年末には結婚していた ― 。 ランバス記念やその後のランバス女学院の歩みをみてい ますと、本当に吉岡美国先生、吉岡夫人 ― とこの後は出て きます ― には、いろいろとお世話になっています。こちら 側からみると岡嶋初音さんは、早々に取られて(?)しま いましたが、吉岡夫人に代わることで、関学とのつながり ができている。吉岡先生の側からすれ ば 、ウィリアムから 受洗をして、メアリーの学校で教師をしていた岡嶋初音と 結 婚 式 を し て も ら っ て、 ウ ォ ル タ ー の 創 立 し た 学 校 を 引 き継いで第二代院長となったわけです。 (*注:初音の妹、 岡嶋マサ、ナルは、吉岡の義妹として関西学院グリークラ ブの草創期に深いかかわりを持つことになります。 ) ランバス記念の初期は、吉岡夫妻とランバスファミリー とによって支えられて学校をやっていたという感じがしま す。教師として、アリス ― メアリーの二男ロバートのお連 れ合いです ― にピアノを教えてもらったり、もちろんメア リーも聖書や音楽を教えていますが、それを日本語で強く 支えたのが吉岡夫人という具合です。 さて、ランバス記念伝道女学校は、九九年に 新校舎を完 成 し て 山 二 番 か ら 三 十 五 番( 中 山 手 四 丁 目 ) に 移 り ま す。 「 三 十 五 番 の ラ ン バ ス 」 と か「 三 十 五 番 の 学 校 」 と 呼 ば れ ていたようです。こちら中山手四丁目、神戸女子神学校は 中山手六丁目です。近くだったので、先ほどもうしあげた 賀川豊彦の授業は合同でなされ、ランバスの人たちが神戸 女子神学校に昼休みに走っていったと書かれています。 そんなご近所でしたが、このランバス記念は、神戸の同 じような場所にありながら、同じキリスト教の女性のため の学校でありながら、ずいぶん神戸女子神学校とは違いま す。そこが非常にランバスの思いを伝えている学校だなと 思う部分です。 こ の 写 真 を 見 て い た だ く と 分 り ま す が、 こ れ は、 「 欧 亜 混血児学校」です。ユーラシアンですから、ヨーロッパと ア ジ ア の 混 血 児 の 学 校 を こ の 時 期 に 開 い て い る わ け で す。 それからマッチ工場などで働いている女工さんといわれる 人への伝道であるとか、被差別部落と思われるところの無 料託児所であるとかを、学校の事業としています。それか
ら、ここに Y ・ M ・キムと書いてあるのは Dr.キム、女性の お医者さんです。ランバスファミリーは、中国宣教で行っ ていたような医療宣教の実施を考えていました。一時、無 料診療所を作っています。中国では、本当に貧しい女性や 子 ど も た ち の た め に、 メ ア リ ー は、 「 捨 て 子 」 を 拾 っ て 育 てていました。それと同じようなタイプの働き、いち ば ん 底 辺、 い ち ば ん 社 会 か ら 隅 に 追 い や ら れ て い る 女 性 た ち、 子どもたちのために活動していく ― そういう学校になって います。 それから、ランバス記念伝道女学校がどれだけ名前を変 えたかという表(注:本文一三五頁)を資料に付けていま す。これは、こんなにも目まぐるしく名前が変わったこと を見ていただきたいというよりは、この中にある多様な事 業 を 見 て い た だ き た い と 思 い ま し た。 「 欧 亜 混 血 児 全 日 制 学校」に、ランバス「手芸学校」 、女性の職業訓練ですね。 料理や手芸を教えていました。そして「パルモア学院」の 英語教育や夜学がその中に入ってきたり、診療事業や、無 料保育、そして日曜学校、そういったいろいろな働きを含 んで、学校にしていた。女性たち子どもたちの現状に即し たところで、やっていた学校だということがわかります。 そ れ か ら も う ひ と つ、 名 前 を 見 て い て 感 じ る の は、 神 戸 女 子 神 学 校 は evangelistic と い う 言 葉 を 使 っ て い ま す。 Kobe Woman's Evangelistic School で す。 と こ ろ が ラ ン バ ス は、 ev an ge lic alと か ev an ge lis tic と か th eo lo gic al を 使 わ な い の で す。 こ れ だ け 名 前 を 変 え て い る の に 単 に School, Institution, Training School です。バイブルウーマ ン( Bible woman ) の 養 成 所 で あ っ て 訓 練 校 で あ る と 言 う 意味で、女性伝道者の学校(伝道女学校)でしたが、いわ ゆる Theological School や Evangelistic School という女子 神学校ではない、こういう意識をもっていた学校だったと 思われるのです。 これがメソジストの、もしくはランバスファミリーの掲 げたミッション、関西学院がいまも "Mastery for Service" という言葉でもち続けているものに通じるひとつのことで はないかと、私は思っています。同じ神戸の中山手にあり な が ら、 ラ ン バ ス 記 念 と 神 戸 女 子 神 学 校 は、 あ る 意 味 で、 全くと言っていいほど違っていた。もちろん神戸女子神学 校も日曜学校を実施していますし、女性の学びのためにい ろんなことをしていた。社会的養護の課題は、 「社会事業」 という学科として、あそこ(神戸女子神学校)ではち ゃ ん と学問できるように出てくるのですが、こちら(ランバス 記念)は、本当に学校自体がその課題のなかにあって、実
際に活動していたと思います。 あともうひとつ、ここの特長的な性質で、聖和の歴史に とって大事なことが、ランバス記念幼稚園です。この写真 は、パルモア学院内(山二番)に移転したランバス幼稚園 ですが、一九一七年にはランバス幼稚園は、その「パルモ アのよいお家」から「もう一つのよいお家」である三十五 番のランバスへ移転したということが出てきます。 このランバス記念という学校は、神学校、バイブルウー マンの養成、いわゆる女性伝道者を養成していました。そ の部分と保育・幼稚園の部分 ― その保育者までを含んで ― をあわせた学校になっていきます。ランバス記念が、この 両方をやっていてくれて、広島(保姆師範)との合併が出 来てくる。ランバス記念が幼稚園事業を一緒にするという 考え方をしてくれたので、社会福祉とキリスト教、バイブ ルウーマンの養成と保育者の養成が重なっていったと思い ます。これは、メアリーたちランバスファミリーのもって いた宣教論なのかなと、いつもこの学校を見ていて思いま す。 少し飛 ば しますが、この写真はメアリーが亡くなったあ と、ウォルターがメソジスト三派合同のために全権大使と して来日された一九〇七年に、ランバス記念伝道女学校が 実施し始めた第一回の婦人伝道者会議に出席された時のも の で す。 こ れ が 吉 崎 彦 一、 こ れ が ウ ォ ル タ ー で、 こ こ に ニュートン先生がいらっし ゃ います。 こ こ に い る の が、 こ の 学 校 の 中 興 の 祖 で あ る、 モ ー ド・ バ ネ ル と い う 当 時 の 校 長 先 生 で す。 彼( ウ ォ ル タ ー) は、 このときポケットマネーだと思いますが、学校の壊れたと ころの修理代を出してくれている、そして生徒たちが学ぶ た め の 伝 道 旅 行 の 費 用 を 出 し て く れ た と バ ネ ル 校 長 が 書 いています。こういった婦人伝道者会議が始まり、それが、 ゆくゆくは教役者と保育者を合同した研修会へと展開して い き ま す。 そ の 場 に 参 加 し、 隠 れ て そ っ と 支 援 し て い く。 自分のお母さんが、最後まで命を懸け、気に懸けていたラ ンバス記念を大事に想い、貧しい人たちのために身を粉に して働いている女性たちのためにここを訪れている姿を見 ます。 ご存知の通りメアリーは、晩年体を壊して蘇州に いたノ ラ・パーク(娘)の所に行って亡くなり、上海の外人墓地 に葬られます。そしてウォルターは、自分をお母さんの横 に 葬 る よ う に 言 っ て、 お 二 人 は 上 海 に 眠 る こ と に な る ― 。 これを考えても、ウォルターとメアリーというのは、非常 にいろんな意味で共通な部分を持っていた。また、ウォル
を 訪 ね た り、 訪 問 伝 道 を し て い ま す。 年 間 千 回 を 超 え る と 書 い て あ っ た と き も あ っ て( 注 : 一 九 一 四 年 に は 年 間 一七六〇回の訪問が記録されている) 、教室で勉強しては、 外へ実習に行く。実践的に子どもたちを集めては子ども会 をし、女性たち子どもたちが生きているところに、一緒に 生 徒 が い る、 学 校 自 体 が そ う い う も の と し て 歩 ん で い く、 「サーバントの学校」だったと思います。 この神戸の伝道女学校が、先ほど言いましたように 、メ ソジストのセンテニュアルの大事業ということで、広島女 学 校 の 保 姆 師 範 科 と 一 緒 に な っ て 合 同 す る こ と に な っ て、 神戸を去っていきます。 ランバス女学院 そうやって、大阪に 出来たのがランバス女学院です。こ の学校は、現在の近鉄上本町駅のすぐ北側(北東)の一等 地に建てられます。今は「大阪市立福祉センター」が一階 にあって上がマンションになっている建物で、すぐに分り ます。ここは、もともとはこの写真にある歯ブラシ工場で、 その建物を仮校舎として「ランバス女学院」の看板が見え ています。これを壊して、ヴォーリズの建築で、地上三階、 地 下 一 階、 セ ン ト ラ ル ヒ ー テ ィ ン グ と い う す ご い 建 物 を、 ターも、母をすごく大事にしていたと思います。これはラ ンバス記念の側、聖和の歴史から見ると、ウォルターとい うのはそういうふうに見えるというか、そういう人物でも あると思われます。 この写真は、一九一四年の第九回卒業式です。ここはメ ソジストの学校ですので、多く関西学院の先生方にお世話 になりました。これが先ほども言いました吉崎彦一、これ が西條寛雄で、これが若き日の賀川豊彦です。賀川豊彦は、 合同授業をしていたランバス記念の卒業式にも顔を見せて います。ここにいるのが釘宮辰生、これが赤沢元造、これ が N ・ベネットという宣教師で、幼稚園事業を中心にして くださっていました。ベネットと、この人 M ・バネルが宣 教師ですが、日本人の先生方の顔ぶれは、ほとんどが関西 学院からや、学院の出身者となっています。 このランバス記念の建物の正面の写真を見ていただくと、 こ の 看 板 で す ね、 門 の 左 に 「 ラ ン バ ス 記 念 幼 稚 園 」、 門 の 右に「ランバス記念伝道女学校」 、そして壁にあるのが「ラ ンバス日曜学校」です。こういうふうに学校が、表に三つ の看板を揚げている。 これは門の前の生徒たちですが、おそらく出かけるとこ ろだと。結構個人訪問とか、幼稚園や日曜学校の生徒の家
スパニッシュミッション形式で建てることになります。 こ こ( 建 物 正 面 外 壁 ) に Lambuth Memorial Training School for Christian Workers と い う 文 字 を 揚 げ て、 ラ ン バスを名乗りました。赤ち ゃ んを片手に、もう片方の手に はバイブルを持って、女性たち子どもたちのために伝道し たメアリーの名前を冠したといわれています。この大きな 建物に保育専修部と神学部がつくられ、こちら側(向かっ て 左 手 ) に 幼 稚 園、 「 ラ ン バ ス 女 学 院 附 属 幼 稚 園 」 が 創 ら れます。 この学校は、私がみてきた聖和の学校の中で、関西学院 についで、ウォルター・ R ・ランバスを大事にしている学 校ではないかと思います。もちろん学校の名前に、ランバ スとありまして、創立記念日が十一月十日ウォルター ・ R ・ ランバスの誕生日です。この日に、つまりランバス監督の 誕生日を創立記念日に据えたわけです。ここの学校のラン バスファミリーに対する思いというのは非常に強いと感じ ます。 それでこの学校は、細かくみていたらすべて関西学院に 繋がっていくので、お二人だけ特に写真を出させていただ きました。釘宮 辰 とき 生 お 、田中 貞 ただし 先生です。 レジュメに書きましたように 、関西学院からの教師陣で、 ランバス女学院は授業を助けていただいています。最初の 教師の中に窪田学三、真鍋由郎、松下 積 せき 雄 お 、堀 峰 みねきつ 橘 、 亀 き 徳 とく 一男、曾木銀次郎、今田恵のお名前があります。みなさん いろいろな形で関西学院の要職を務められた方、神学部の 先生方ということになるかと思います。 真鍋先生は、名誉中学部長ですか、関学の生物の先生で す よ ね、 い ち ば ん 初 め の 時 か ら、 「 博 物 」 の 授 業 を 持 っ て いただいて、さっきの歯ブラシ工場の仮校舎時代から教え てくださっていたようです。曾木先生のように、ランバス 記念のときからという先生もたくさんおられます。今田恵 先生は、ランバス女学院と幼稚園で、子どもたちの発達や 児童相談、心理学系統のことを特に教えてくださり、子ど もや母親教室、健康相談とか心理相談というようなことを、 ここでやっておられます。 一 九 二 九 年 の 学 校 の 記 録 に は、 「 創 立 以 来 教 授 を つ と め た曾木銀次郎、窪田学三が関西学院の本務の都合上辞職し、 七月より今田恵が関西学院より欧米留学へ出発」したと書 いてあって、先生たちが関学で忙しくなったり、関学から 留学をされると、ランバスで報告されている。そして、河 辺 満 みつかめ 甕 先生が来たとか、木村 逢 ほういつ 伍 先生が来たとか、関学か ら 後 任 人 事 を し て い る、 ほ と ん ど 関 西 学 院 と い う 感 じ で
やっていた学校だと思います。 さて、前に特に上げたお二人に もどります。まず、釘宮 辰生先生というのは(注:大分のウエンライト宅でキリス ト教と出会い、一八八八年に W ・ R ・ランバスより受洗) 、 晩年は関西学院教会の牧師をされた先生です。 M ・ M クッ ク院長代理の時に顧問としてランバス女学院を支えてくだ さ い ま し た。 大 阪 両 国 橋 教 会、 い ま の 東 梅 田 教 会 で す が、 の牧師をしておられましたので、初めに神戸と広島から二 つの学校が移転してきて、大阪で本拠地をつくってスター トするまでの間は、ランバス記念時代からのよしみで釘宮 先 生 が ず っ と 両 国 橋 教 会 を 貸 し て く だ さ い ま し た。 神 戸、 大阪から、 西宮に至るまで、 釘宮先生には支えられ、 関わっ ていただいたことになります。 聖和に は図書館に 残された図書、資料センターに あるも のの中に、たくさんの先生方の蔵書、三つの学校の遺産が あるのでえらいことですが、があります。その中でいち ば ん 多 い と 思 わ れ る の は、 「 釘 宮 文 庫 」 と い う シ ー ル が 貼 っ てある本です。おそらく先生はたくさんの本を、どの段階 か、ランバスの段階か、聖和女子学院の段階かわかりませ んが、寄贈してくださっています。 そしてもうひとり、田中貞先生というのは、関学の中学 部長になられるのですが、ランバスにとってかけがえのな い 方 で す。 ラ ン バ ス 女 学 院 は 一 九 二 一 か ら 四 一 年 ま で の 二十年間しかないのですが、その中で七年間院長をしてく ださったのが田中貞先生です。この先生が関西学院に引っ 張られた(すみません)時には、すごい嘆願書が関西学院 にいった筈で、 それには「引っ張らないで欲しい、 もし引っ 張るのであれ ば 田中先生のような人を送って欲しい」とい う趣旨のことが書いてあります。素晴らしい人格者で、ラ ンバスにとっての大恩人です。 この先生のお母さんの話をしていたら長くなるので止め にしますが、甥御さんが、宮田満雄先生になります。聖和 女子学院と聖和女子短期大学には、当時の名物寮監、舎監 と し て、 「 宮 田 の マ マ さ ん 」 と み ん な に 慕 わ れ た、 宮 田 あ いさんという方がおられます。宮田満雄先生のお母さんで す。その宮田あいさんと田中貞先生がご兄弟という関係も あって、田中先生が宮田のママさんや、宮田満雄先生を聖 和 に つ な い で く だ さ い ま し た。 ラ ン バ ス 時 代 は も ち ろ ん、 その後も、あらゆる意味でお世話になったということです。 そして、ランバス女学院は、田中先生に、本当に愛された 学校だったと思います。 ラ ン バ ス の 所 は い っ ぱ い あ る の で す が、 も う 一 つ だ け。
この写真は、ランバス大運動会のものです。創立記念日に 大運動会を、この方たちはよくしていました。もちろん幼 稚 園 が あ り ま す の で 幼 稚 園 の 子 ど も た ち と、 ( こ の 辺 が 近 鉄上本町の駅で、ここに線路が走っています)そのあたり の近所の人たち、そして学生、教職員を含めて、大運動会 を十一月十日ウォルターのお誕生日に行うのです。 この年は、吉岡美国先生が来られています。これが田中 貞先生です。吉岡先生が来て下さったときに語られた講演 が、ランバス女学院「季報」に残されています。メアリー の こ と を、 「 ラ ン バ ス の お ば あ さ ん 」 と 呼 ん で い た と 吉 岡 先生が語られた記事です。 そ こ で は、 「 ラ ン バ ス 女 学 院 は ラ ン バ ス の お ば あ さ ん が 土台である」ということを言っていて、そして「ランバス の お ば あ さ ん と い う の は、 あ ま り 達 者 な 方 で は な か っ た 」 と書かれています。他ではあまり読んだことがなくて、私 はメアリーというのは強い人だと思っていたのですが、メ ア リ ー は、 「 小 柄 で あ り ま し た が が っ ち り し た 体 質 の 持 ち 主でありました。ぜんそくが持病でこれが発作を起こすと 大変な苦しみであったが、少しもそれを色に表されなかっ た。病気で休んでいるとは申されませんでした」と吉岡先 生が語っておられるのです。ぜんそくを抱えながら、忍耐 強く、家事万端をこなして、多くの客人と訪問者をウェル カムしていた、そういうメアリーの姿です。 そして「ランバス監督(ウォルター)のような大人物を 作られたのは一にお ば あさんの教育による」ものだと言っ て お ら れ ま す。 「 殊 に ラ ン バ ス 監 督 の よ く 働 か れ た そ の 性 格はお ば あさんの血を受けた為でありましょう」というふ うに語っておられます。先ほど見ましたように、若き日に 洗礼も授けていただき、また結婚式をしてもらった吉岡先 生にとって、ランバスファミリー、特にメアリーとウォル ターは、 このような印象だったのだと思います。 監督と 「お ば あさん」は、持っているものが似かよっている、ウォル ターにはその姿が出ているのだと。こんなお話を、運動会 の時にしてくださっています。 ランバス女学院というのは、とても「ランバス命」のよ う な 人 た ち だ と 私 は 見 て い ま す。 こ れ 分 り ま す か ね、 ( 校 庭に学生教職員が人文字で 「ランバス。 」と描いている写真) 「ラ・ン・バ・ス」でここに「。 」で一人(子どもが)おり ます。ここに田中先生がおられて、これは近藤先生、中江 先生、そして、あの人たちは何をしているのかと、近所の 方々が門の外から覗いています。この学校は大阪のど真ん 中で、本当に特別な空間を作っていました。そして「ラン
バス」ということに対しての誇りと、ランバスファミリー のもっていたミッションというものに対して、学生も幼稚 園も、非常に大事にしながらやっていたわけです。 保育部と神学部があり、全部女子で、幼稚園をしていま した。一九二一年に出来て、一九三〇年代になってくると、 戦争の影響でこの学校も大変な状況になって、徐々に米国 からのサポートや、ミッショナリーが引き揚げていかざる を得なくなる。同窓会では、学校存続のためにいろいろ画 策をしていますけれども、お金を集めたところで、なかな かこれを維持していくことが出来ない状況に立ち到ります。 同 窓 会 の 会 誌 に は、 「 ラ ン バ ス の 名 は 校 名 と し て は 失 う 時 ありとしても、ランバスの精神は失うべからず」というす ごい意志を感じる文章があります。ランバスの創ってくれ たものを、その精神を受け継がないといけないと考えた学 校だったと思います。 戦時色が濃くなっていくと、この写真は、たまたま神戸 女子神学校と合同で、橿原神宮の勤労奉仕隊に出ている様 子です。これがマーベル・ホワイトヘッド先生、宣教師が 自ら「もっこ」を担いで橿原神宮の砂利敷きを手伝う、学 校をあげて何とか体制に協力して、本当に涙ぐましい努力 をしながら、大阪の地で学校を維持しようとしていきます。 け れ ど も、 一 九 四 〇 年、 「 ラ ン バ ス 最 後 の 半 年 」 と 書 き ましたが、四〇年の夏のことです。学校は、先ほどお見せ した立派な校舎を持っていましたので、愛国婦人会という ところが、女性と子どもたちのための病院をこの場所に作 りたいと、ついてはここを供出しろという話をもってこら れるんです。当時の大阪府知事、半井知事の奥さんである 半井久子が中心になっている愛国婦人会というのが、夏に 訪問してくる。それでランバスは、非常に困るわけですが、 四の五の言っておられない状況で、学校は土地建物の財産 の全部を愛国婦人会に譲渡しなけれ ば ならないということ が十二月に起こります。 愛 国 婦 人 会 は、 「 無 償 譲 渡 と し、 金 一 封 五 十 万 円 」 を 宣 教師社団(メソ ヂ ストのミッショナリーのことですが、こ の辺りになってくるとカタカナでは出てきません)に渡し ます。ミッショナリーは、その全額を学校へ寄付してくれ て、すべてを失ったランバス女学院に五十万円だけが残る、 という状況になってしまったわけです。 夏休みに訪ねてこられて、十二月初めに は譲渡が決定し、 行く先も何も分らないのに、学校の場所が無くなるという 状況になった。 それで、 先の神戸女子神学校の方で出た、 「先 方(ランバス)は突進的」になるわけです。学校を追われ
て出て行かなくてはいけない状況の中で、ランバスは神戸 女子神学校に合併の話を持ちかけることになります こ こ の 場 面 で は、 最 後 の 最 後 ま で 関 西 学 院 に お 世 話 に なっております。宣教師社団が学校に寄付してくださった お 金 に よ っ て、 あ と で 西 宮 の 河 原 町 の 土 地 建 物 を 購 入 し、 幼稚園や寄宿舎を作ることになるのですが、最後の理事会 記 録 に は、 そ の 宣 教 師 社 団 へ の 感 謝 と 共 に 、「 必 要 と あ ら ば 上ケ原構内のハミル館を使用してよいと申し出た関西学 院に謝意が伝えられた」という文章が残っています。本当 に困っているのを見て、ハミル館を使って何とか学校をし たらどうかということを言って下さったということだと思 います。 こうして、この人たちはここを追われていきます。この 写真は、ランバス最後の日曜学校の様子です。これが、廃 校と合併の苦労を負われた広瀬ハマコ院長です。先生たち や学生たちは、西宮に移っていくことが出来ましたが、こ こに写る、ランバス幼稚園の出身者が多かったと思います が、子どもたち、園児たちは、大阪から付いて行くことは 出来ません。子どもたちは、近くの聖公会等いくつかの幼 稚園に別れていったようです。 そのときランバス幼稚園の最後の園児でここに 写るお一 人が、後に聖和短大に入学してこられます。卒業後は、先 生もしてくださった方で、そういったこぼれ話を、本では コラムの形にしています。ともかく、ランバス女学院とラ ンバス幼稚園にとって、本当に辛い廃園、廃校のときが来 るわけです。そうして、あの大所帯のランバスが、この小 さい神戸女子神学校に引っ越して来る、そして、聖和女子 学院を開校します。 聖和女子学院 こ れ が、 岡 田 山 で の 聖 和 女 子 学 院 の 開 校 式 の 写 真 で す。 第一回の理事会には、資料をご覧の通り、上手に組合教会 の人たちとメソジスト教会の人たち、神戸女学院や同志社 の関係の方たちと関西学院の方たちが、メンバーとなって 両方理事会に入っておられます。阪田素夫さんというのは、 阪田寛夫さんのお父さんで、もともと広島女学校の幼稚園 の卒園生で、南大阪教会の方。それから釘宮先生が入って くださっています。 中村金次というのは、 『南美宣教五十年』 を書いたメソジストの先生です。松本春枝さんは、広島の ところでお話した、松本益吉の妻になった芝春枝さん、そ して田中貞先生、このあたりがメソジスト側です。 その後、 戦争状態に なるとき、 この写真は、 ちょうどパー