• 検索結果がありません。

人見・中川両苗と新撰組-幕末における二つの「郷士」集団-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "人見・中川両苗と新撰組-幕末における二つの「郷士」集団-"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

はじめに

本稿は、近世に馬路村に存在した人見・中川両苗と呼 ばれる血族集団=「郷士」が、幕末に直面した事態につい て、特に新選組との関わりから考察するものである。 冒頭で考察の前提となる基本情報を確認しておく。馬 路村は丹波国桑田郡に属し、現在の京都府亀岡市域、具 体的にはJR山陰線の千代川駅から大堰川を挟んだ東方に 位置する。近世前期は天領で、その後は旗本杉浦氏領と して明治維新を迎えた。丹波地域には中世から複数の土 豪集団が散在したが、近世になるとこれら戦国時代の「負 け組」の遺臣は、武士にも百姓にも属さない特殊な存在 として地域社会を生きていくこととなった。全国に存在 した「郷士」の丹波版である。丹波地域の「郷士」は横断的 結合を形成して「弓射連中」と自称したが、なかでも人見・ 中川両苗は馬路村に集住した同姓集団であった。 これまで人見・中川両苗の近世的実態については、村 政史の観点からその有り様を多面的に分析した同志社大 学の研究グループによる研究(1)や、幕末における両苗の 活動にも目を向けた岡本幸雄氏の研究(2)などが代表的で ある。また維新後に関しては、両苗が戊辰戦争の際に西 園寺公望の山陰道鎮撫に随従した点をうけ、創立者中川 小十郎の実父禄左衛門が当時両苗の惣代だった関係から 立命館大学の大学史等で研究が積み重ねられてきた(3) この他、『新修 亀岡市史』などの自治体史においても成 果が刷新され続けている(4) こうした両苗の研究史だが、近世末期の実態解明とそ の位置づけについてはいまだ十分とは言い難い。一方で は史料の残存状況もあり村政史が、他方では西園寺公望 との関わりが中心となってきたため、中央政治など他要 素の影響が不可避的に関わってくる幕末については岡本 氏の古典的成果ぐらいしか本格的研究がなく、それも史 料や問題設定の時代的制約、この間の幕末政治史の進展 を考えれば、乗り越える時期に来ていると思われる。予 め内容を先取りしていえば、当該期の両苗をめぐる動き

人見・中川両苗と新選組

 

―幕末における二つの「郷士」集団―

奈良 勝司

は、中央政治、村落社会、近世由緒の近代的展開(変遷) の問題が互いに絡み合うなかで起こっており、その実態 を史料に即して丹念に見ていくことは、ジャンル毎に細 分化された既存の研究手法ではわからない当該期の問題 を、精緻に、しかし同時にある種包括的に浮かび上がら せることに寄与すると考える。本稿では、これまで事実 自体がまったく知られてこなかった元治二年(慶応元年) 両苗と新選組のかかわりについて基礎的考察を行うこと で、上記の課題に応える一助としたい。

1.両苗の由緒と領主との対立

両苗と新選組が初めて接触するのは元治二年(慶応元 年、一八六五)の春であったが、その背景には「両苗一件」 と呼ばれる両苗と地頭役人の対立が存在した。以下、先 行研究の成果も参照しながら、行論での必要の限りでこ の出会いに至る経緯・要点を確認しておく。 第一に、近世から続く両苗と地頭役人の対立構造であ る。前に両苗を「郷士」と表現したが、この「郷士」という 位置づけは近世を通して両苗に安定的・静態的に付与さ れていたわけではなく、村政における他の身分階層との 緊張関係のなかで常に揺れ動いていた。いわば両苗は近 世を通して「郷士」的立場をめぐるせめぎあいのなかに生 きており、この語に括弧を付しているのも、【両苗=郷士】 という構図自体が、諸問題を論じる際の前提ではなく、 諸問題を発生・展開せしめた要因そのもの、つまりは文 字通りの争点だったからである。 そして、その対立は主に地頭役人とのあいだに展開さ れた。領主の杉浦氏の家臣団は基本的に江戸におり、丹 波地域での直接の領政は在村の有力者が地頭役人となっ て代行していた。馬路の土豪集団であった両苗は、近世 初頭時点で身分的・経済的に村内ヒエラルキーの上層に 位置したから、地頭役人も多くは両苗から有力者が就い た。その意味で、両苗と地頭役人は出自が同じなのだが、 地頭役人が世襲されたことで彼らは自己の立ち位置を両

(2)

苗としての同族的結合から領主の代官へと移し、近世中 後期には、村政をめぐって時に対立する別個の主体に なっていたのである。もっとも、村内対立は地頭役人の みと展開したわけではなく、「小番」と呼ばれる中下層の 農民層(両苗はこれとの対比で「両番」と呼ばれる階層を 形成していた)や一部これと重なる「八十三人組」と呼ば れる両苗への隷属的由緒をもつ集団とのあいだでも展開 した。「郷士」身分をめぐるせめぎあいは、上層階層への 挑戦と同様に、下層階層からの挑戦に対する防御・抵抗 の試みとしても展開したからである。しかしその場合で も、経済的事情から地頭役人と台頭しつつある下層階層 が結びつくことが多かったことから、結局対立は地頭役 人とのあいだに展開されることが多かった。 第二に、幕末政局の展開のなかで両者に新たに生じた 対立である。これは元治元年(一八六四)の禁門の変の際 に両苗の数十人が上京したことに端を発するもので、長 州勢との関与が言われてきたが、実は一橋慶喜と接触し たものであった。すなわち「六月十一日一橋様重御役人 御出役被成下、厚蒙り御意」(5)という出来事をきっかけ に両苗が「以来より一橋様え参殿仕」(6)ったことを、地頭 役人が「地頭不憚(中略)一橋様え度々罷出種々 工 たくらみ致」(7) として取り調べたため、維新まで続く混乱を引き起こし ていた。この事件の内実はそれ自体が興味深く、中央政 治と村政に複雑な相互作用をもたらしたと思われるが、 紙幅の関係もありここでは掘り下げず、後稿を期すこと としたい。本稿との関わりで押さえておくべきは、地頭 役人はこの出来事を両苗が近世秩序を逸脱した不法行為 と考えたのに対し、両苗はなんら自分たちに責任ありと はせず、互いの言い分が真っ向からぶつかったことで、 近世を通して構造的に存在した先述の対立状態が先鋭化 し、深刻な事態へと発展したことである。具体的には、 元治元年九月末から地頭役人と江戸から派遣された杉浦 家臣による両苗の拘禁・尋問がなされた後、一二月には 京都東町奉行所による庄屋を介した取り調べが行われる も、中断・凍結という両苗にとっては不可解な棚上げ状 態のまま、新年を迎えていた。

2.新選組による取調とその実態

(1)一度目の拘禁とその背景 本章では、かかる経緯のもとで起こった、新選組によ る両苗の拘禁・尋問(拷問)の経緯についてみていく。拘 禁は二度にわたったが、以下、一度目から順を追ってみ ていこう。 元治二年(一八六五)二月に両苗内で作成された「〔伺書 (案)〕」には、以下のような記述がある。執筆者は不明だ が、中川禄左衛門の弟の中川武平太だと思われる。 去月十七日、東( 東 本 願 寺 )六条御門跡年頭御礼トして、両苗一 統御対願無滞相済帰国仕候、然ル所旧来持伝候教如 御門跡御真筆修復旁、人見軍治・同瀧蔵、旅宿法林 寺ニ滞留仕候処、兼而御届ケ申上置候郷士表札も有 之候ヲ、如何之次第ニ候哉、当月朔日夜八ッ時頃壬 生新選組多人数押掛、乱入召捕、指物并ニ雑物ニ至 迄持帰り、翌二日東( 京 都 東 町 奉 行 所 )御奉行所え引渡し候由、内々承 り候には、揚り屋入ニ相成候趣、一統当惑仕、何等 之御調共一向相分り不申、誠ニ以心痛仕候、是等も 全地役人共之仕返しと奉存候(8) これによれば、正月一七日に両苗の者が年頭御礼で東 本願寺に参向を済ませ帰国したが、家伝の本願寺教如の 真筆を修復するため人見軍治と人見瀧蔵が西洞院出水下 ルの法林寺に引き続き滞留していたところ、二月朔日夜 に突如新選組が多人数で押し入って二人を拘束した(慶 応二年八月に作成された「関東直訴口上書之下案」(9) は、二月二日となっている)。二人は翌日京都東町奉行 所に引き渡され、揚り屋入りとなった。執筆者は事態を、 「全地役人共之仕返し」と、地頭役人による両苗への報復 だと推測している(10) では、具体的に何に対する「仕返し」だったのか。それ を知るためには、年末の京都東町奉行所とのやり取りを 見る必要がある。先述の通り両苗と地頭役人の対立は前 年秋より続いていたが、一二月一三日に京都東町奉行所 より馬路村の庄屋・年寄・頭百姓に宛てて、一五日に役 所に罷り出るよう差紙が届いた。そこで庄屋貞八が出向 いたところ、掛り与力の田中寛次郎から、「帯刀百姓とも」 が多人数上京しているので、彼らの宿所である法林寺に 出向いて人数を調べて報告するようにと「達而御申付」で あった(11)。ここからは、軍治と瀧蔵が捕えられた法林 寺を、前年より両苗が利用していたことがわかる。これ に対し庄屋貞八は、「村用之儀ニ在之候得は、私共より 取調差上候得共、両苗ニ相拘り候儀は惣代え被仰付」べ

(3)

きとして、自分ではなく両苗の惣代へ連絡して欲しいと 述べ、両苗側も同様の意向であったため、一六日に断り を入れている。しかし奉行所では重ねて翌一七日に以下 のような差紙を出し、九月に地頭役所で取り調べた両苗 の五人を伴って庄屋が出頭すべきと命じ、彼らの苗字を 削って通達した(紙幅の都合上、人名表記等の改行を一 部省略、手を加えた)。 尋る儀在之候間、明後十九日五ッ時東御役所へ急度 可罷出候、若於不参可為曲事もの也 子十二月十七日 京都番所、印 丹州桑田郡馬路村 定治・貞三郎・勝治・武造・佐太郎 右之者何れも本人ニ付添人差添可罷出事 右村 庄屋・年寄かたへ(12) これに対し、今度は庄屋武助が改めて「両苗之者共義、 私其取扱可致筈ニ無之」ことを理由に「御請不仕旨押而申 上」たが、奉行所側は「一橋様之儀を彼是被申」て応じず、 強硬に「百姓共彼是申候得は、可召捕旨」を告げた。そこ で庄屋はとりあえず差紙を両苗に廻し、これを受けた両 苗は翌一八日に返答書を庄屋・年寄に託して奉行所に提 出した。 以上のやり取りからわかるのは、庄屋を介した奉行所 と両苗のやり取りが、内容以前にそもそも誰にどのよう に要求を伝達するかという形式の段階で、すでに両者の 根本的認識に関わる厳しいせめぎ合いを表出させている という点である。庄屋は両苗の出身で、基本的に両苗側 に立った対応をしているが、庄屋と両苗は奉行所が庄屋 に両苗の状況を調べさせたり両苗を出頭させること自体 に抵抗しており、この問題を庄屋に担わせること自体が、 両苗を独自の立ち位置を占める「郷士」ではなく、他の百 姓などと同質に位置づけてしまうという危機感が見られ る。庄屋と両苗が反発したのもそのためであった。他方 で、奉行所の側では敢えてこのような形式でことを進め ることで、両苗が「郷士」ではなく百姓であることを前提 化しようとしていたと考えられ、差紙のなかで両苗の五 人を苗字を削り名前だけで表記しているのも、「郷士」と しての特権を否定する態度が象徴的に表れたものといえる。 ただし、奉行所の態度が両苗への感情的な敵意にもと づいていたとはいえない。この時点で奉行所は恐らく地 頭役人からのみ一方的に九月以来の両者の対立経緯を聞 いており、そこには地頭役人の側に立った現状認識のバ イアスが存在したと考えられるからである。事実、以下 に述べるように、両苗側の反論をうけて奉行所は当初の 認識を改めていく。 奉行所から庄屋を通して召喚された両苗は、結局出頭 することはなく、数度の書面をもって奉行所に自らの言 い分を訴えることとなった。すなわち、一二月一八日に、 ①:寛永元年(一六二四)に村内で神事能の見物作法をめ ぐる両苗と小百姓の争いが生じた時に、その解決のため に京都所司代に願い出た際に仲介にあたった日置村百姓 による書付、②:万治三年(一六六〇)に①の際の取り決 めに違背したとして両苗が再び小百姓を訴えた際に、京 都代官五味備前守が下した「裁許書」、③:両苗が百姓と は別個の存在であることを認めた②の「裁許書」の内容 が、禁裏守衛総督一橋慶喜、老中稲葉正邦、京都所司代、 東本願寺門跡によってすでに承認され、両苗が「郷士ニ 紛無之趣」「郷士御取用ニ相成候事」が認められたとする 「覚」、④:①~③を背景に一つ書きの形式で両苗の正当 性と地頭役人の不当性を訴えた「箇条返答」(13)の四点を 提出した。また奉行所から反論や確認をうけて、一九日 には⑤:二度目の「返答書」を、二一日には⑥:三度目の 「返答書」と⑦:馬路村の長林寺が両苗の「郷土」としての 立場を証言した関係書類を、二二日には⑧:「書付之内 一橋様始外方之趣意」に関する「下ヶ札」と⑨:享保年間 の訴訟に関する「書付」(14)を提出している。 この結果、二一日ないしは二二日の時点で、奉行所の 掛り役人から「両苗由緒を以天下え之忠節」は「尤之事」で あり、外国はともかく「日本国ニおゐてハ其儀彼是申者是 有間敷」と申渡された。また一三日に出した出頭要求につ いては、「就而は先達中差出置候差紙、日限も相定候ニ付 差戻候と被仰付」と、事実上取り下げ、これを受けて庄屋 は「御差紙返納」し、帰国を命ぜられて「引取」った。そし て「其後ハ何事も御尋無御座候」という状態で新年(元治二 年)を迎えていたのであった。結局、この一二月の奉行所 との折衝では、両苗は庄屋を介した出頭要求を拒みぬき、 由緒とその正当性を認めさせたうえで、差紙を撤回させ るに至ったのである。消化不十分感は残ったとはいえ、 いったんは両苗有利に事態を収めたといってよいだろう。 では、この時の両苗の代表者とその論旨の実態はいか なるものだったのだろうか。両苗が提出した①~⑨の書

(4)

類は、直接の訴え(④⑤⑥)、それを支える由緒や参考書 類(①②③⑦)、事後書類(⑧⑨)に大別できる(③は直接 の訴えとしての側面ももつ)。このうち、直接の訴えに あたる④⑤⑥の差出人名を見てみると、④が「郷士惣代  人見軍治・中川種次郎」、⑤⑥がそれぞれ「郷士 人見・ 中川」「馬路郷士 人見・中川」となっている。両苗が提 出書面に逐一「郷士」と明記することで先述した奉行所 (地頭役人)側の【両苗=百姓】構図の既成事実化を図る動 きに対抗していることがわかる。あわせて、一ヶ月後に 捕われる人見軍治の名前が惣代として登場していること にここでは留意しておきたい(15) 一方、論旨の面に目を転じれば、かなり激しい口調で 地頭役人との対決姿勢を鮮明に打ち出していることが指 摘できる。すなわち、「郷士身分を彼是申立」ることは「地 頭心得違」であり、「何分地頭之申立は自侭」と判断せざ るを得ない(④)。両苗が地頭役所や奉行所に出向く際は 「帯刀致間敷旨」の請書を提出したとの内容を地頭役人が 奉行所に申し立て、そのために奉行所からの呼び出しの 際に苗字を削ったとのことであるが、そんなことはない (「先祖共苗字を削り候御請は不仕」)。調べてみたところ、 天保一四年(一八四三)の改革の際に「御公儀より五味備 前守殿御書印」(②のこと)を「御改」(確認・踏襲)してお り、(たとえ近世の一時期は苗字・帯刀などの特権が制 限されていたとしても)「両苗郷士」の待遇は元の通りに 「又々相改」っている(⑤)。地頭より認められたものであ れば「地頭郷士」かもしれないが、一橋慶喜らの許諾を得 た(③のこと)今では(「御公儀より由緒御調ニ而御取立ニ 相成候は」)「天下之郷士」だと心得られるし、それを「自 侭ニ取扱」ったことが「差縺」の原因である。「御公儀より 苗字帯刀被下置候を、地頭自侭ニ取上る抔と認有之候書 類」もたくさんあるが彼らの理解は「相分り不申」(首肯で きず)、他にも地頭役人の「私し了簡を以、或は揚り屋入、 又は入牢申付候義」もあったが、これも「一切相分り不申」 (⑥)、などである。「自侭」「心得違」「私し了簡」「一切相 分り不申」といった鋭い表現が並んでおり、人見軍治と 中川種次郎を惣代とする両苗が、地頭側の言い分を全否 定していることがわかる。また「地頭郷士」に対置させる 形で「天下え郷士」という概念が登場していることは、村 落内で完結していた近世秩序をめぐる対立が、幕末状況 下で性格を変えつつあったことを示しているといえよう。 以上見てきたように、元治元年一二月のやり取りにお いては、京都東町奉行所が呼び出し手続きの段階から両 苗を「郷士」ではなく百姓と規定した上で尋問しようとし たのに対し、両苗側は出頭を拒否、惣代の人見軍治と中 川種次郎を中心に地頭役人の行動と論理を激しく批判 し、結果自らの言い分を奉行所側に認めさせた。しかし このことは逆に、奉行所を背後から焚きつけた地頭役人 の側からみれば、屈辱以外の何物でもなかった。こうし た経緯を踏まえれば、彼らが年をまたいで報復の機会を 窺っていたことは十分に考えられ、本節冒頭に述べた二 月朔日の新選組による人見軍治と人見瀧蔵の拘束は、地 頭役人が新選組に働きかけて実現させたものであった可 能性が高い。「〔伺書(案)〕」の執筆者が事態を「地役人共 之仕返し」と記したのには、かかる背景が存在したので ある。「兼而御届ケ申上置候郷士表札」にも拘わらず捕 まったのも、両苗の主張の前提の否定であったといえる。 ただし、この一度目の拘束では新選組は二人を翌日に 京都東町奉行所に引き渡している。近年、改めて超法規 的武装集団としての性格と町奉行所軽視が強調される(16) 新選組だが、さすがに直接洛中の治安を乱したわけでも ない二人を屯所に留めてはおけなかったのだろう。なお、 新選組はこの年閏五月一三日に平田派国学者の近藤治部 を捕縛した際も二日後に身柄を町奉行所に引き渡してい るが(17)、この時は近藤は拷問にあったという(18) 奉行所では「子年之廉立戻」、つまり前年の一橋慶喜との 関わりが再度問われ、一二月に指名された者のうち佐太郎 を人見立之進にかえた五人が召し出され、彼らは病気を理 由に延引した後に一七日に出頭した。取り調べの内容は「身 分何と相心得在之哉之事」であったが、これに対し両苗は 「郷士百姓と相心得罷在候」と述べて、証拠の有無を問われ ると「従往古将軍家御代々御加勢」してきたことに対する 「御感状数通」を「頂戴所持罷在」と答えている。それに対し 奉行所では「其侭御聞取」となり、五人は三月二一日に、人 見軍治と人見瀧蔵は四月七日に釈放され、神泉苑町御池通 下ルの住吉屋に引き取られている(19)。東町奉行所側の冷 静な対応のもと、嫌疑不十分で釈放されたとみてよいだ ろう。 (2)二度目の拘禁と拷問 新選組による最初の拘禁は、前年に続いての奉行所主 導の捜査のもと約二ヶ月で収束した。ところが四月九日 に事態は急変する。釈放されたばかりの人見軍治と人見

(5)

瀧蔵が、杉浦家臣の「小管間殿」と地頭役人の人見団五郎 が滞在していた大宮通三条上ルの旅館近江屋に「乱入」し たのである。両苗側も「不正之筋有之」と事実関係は認め ている(20) 詳細は不明だが、最初の拘禁が地頭役人から新選組に 頼み込んだ(少なくとも一方的な情報を流した)ことに因 るのは状況からみて間違いないように思われるから、取 り調べの過程でそれを聞いたか察知した人見軍治と人見 瀧蔵が、釈放直後に報復行為に出たのではないだろうか。 この後の再度の取り調べの際、新選組は中川武平太に「其 方共義、地頭所へ 退(ママ、対カ)し、差縺之義申立甚以埒之立不申、 其義小管間殿・人見団五郎殿、両人ゟ当組へ相願出候ニ 付、此方ニ而取調べ致ス」と語っているが(21)、このよう な慫慂は二度目の拘禁の際に初めて起こったものではな いだろう。ともあれ、これはある意味では、二人が地頭 役人の挑発に乗ってしまったことを意味した。一度目と は異なり、今度は具体的な行動に及んだことに言い逃れ ができないからである。新選組はすぐさま二人を再逮捕 し、ついで両苗の一〇人余に召状を発して今度は屯所に出 頭させた。ちなみに新選組は三月一〇日に屯所を壬生から 西本願寺に移転したばかりで、両苗はこの新たな屯所で取 り調べを受けた最初の者たちであった可能性がある。そし てこの二度目の拘禁は、格段に厳しいものとなった。 以下、この間の経過を中川家文書中の「日誌」(22)という 史料から見てみよう。これは慶応元年四月一三日から六 月二二日までの日記体の記録で、新選組による二度目の 拘禁に関わる事象を記したものである。筆者は明記され ていないが、中川武平太だと思われる。これによれば、 四月一三日の朝食後に武平太のもとに中川与右衛門から 呼び出しがあり出向いたところ、昨日新選組から中川禄 左衛門と中川与三郎の両人宛に上京を求める書状が届い たとのことで、「家業第一之時節」であったが、両人の代 わりに保津谷経路で上京した。一四日の四ッ時に新選組 の屯所に出頭したところ、帯刀を取り上げられて腰縄の 状態で抑留された。その上で馬路村にいる中川定次・人 見立之進・中川禄左衛門・中川与三郎・人見勝次・中川 武造・中川貞三郎・中川次郎左衛門・中川昌次・中川兵 右衛門、および庄屋武助の一一人に召状が出され、一六 日にこのうち所労の昌次以外が出向くこととなった。 一六日は庄屋武助だけが「内小手縄ニ而留置」になり、 他の者は「是迄之手続申上候処、有増事柄相治り、先達 ゟ差留置候武平太義は、一統へ相渡ス」こととなった。 一同はいったん宿所にしていた住吉屋に戻った後、翌日 に再び出頭した。一七日は与三郎一人だけが尋問され、 さらに翌一八日にまた呼び出され五ッ時に出頭したとこ ろ、与三郎、禄左衛門、立之進、武平太の順で取り調べ を受けた。その内容は、「先達而大宮三条へ乱入致し候は、 石川堅次郎、人見郡( 軍 治 )治、同龍蔵、右三人之者ニ相極り候 由、喜助ゟ口上り候、是全ク其方共四人之者ゟ相頼候事 ニ有之哉、白状ニ及べ」というものであった。つまり、 近江屋への「乱入」事件の首謀者として四人が疑われたと いうことである。四人は否認したが、「最早格別之御せ ん義、すでニ命もあやうき事」となった。拷問を加えら れたのである。彼らは「喜助」(23)との「対決」を願ったが 聞き入れられず、「高聲ニ而歎より外之事ハ無之」という 状態に置かれた。この後も屯所での拘禁は続いたが、 二〇日の取り調べは以下のようなものであった。 た ( 武 田 観 柳 斎 ) い長様ゟ被仰渡候は、禄左衛門・与三郎・立之進・ 武平太、右四人之者、此方共義は甚以不埒至極之や つ、昨年来ゟ一橋役人平岡円四郎・川村恵十郎、夫々 之者へわいろを以て取入、地頭所ヲ相手取候段、重罪 じやぞよ、附而は、石川堅次郎・郡( 軍 治 )次・瀧蔵、 極(ママ、局カ)ノ 松原忠司頼込、大宮三条へ乱入為致さ候、甚以不埒 至極と之事(24) 「たい長」とは、六番組の隊長を務めていた武田観柳斎 のことであるが(後述)、ここからは新選組が両苗と一橋 慶喜の接触を「わいろを以て取入」ったものと考え、「乱 入」事件もその延長上に捉えていることがわかる。「不埒 至極」「重罪じやぞよ」といった表現からは、尋問の様子 が生々しく伝わってくる。石川堅次郎とは「石川先生」と 呼ばれていた人物で、前年一一月に両苗と共に活動して いることが確認できるが詳細は不明である(25)。最初の 拘禁で捕まったのは軍治と瀧蔵の二人であったが、釈放 後に近江屋に「乱入」したのは石川も加えた三人であった ことがわかる。また、松原忠司は新選組のメンバーで、 当時七番組の隊長を務めていた。組の結成初期からの幹 部の一人である。こちらも文意がやや明瞭でないところ があるが、実は中川武平太が一四日に出頭した際に最初 に面会したのが松原であった。 その時の様子は、四ッ時に武平太が屯所に到着した際、

(6)

禄左衛門と与三郎の二人が体調不良で来られないことを 告げると、松原は「成程御病気之事ニ候へは、致方無之 次第、先暫時之間相待呉候様」と答えて、武平太に昼飯 などを振る舞っている。そしてその後約六時間も過ぎた 七ッ時頃に、「御重役并二十人計」が武平太に接見して告 げた内容が、「其方共義、地頭所へ 退(ママ、対カ)し、差縺之義申立、 甚以埒之立不申(中略)此方ニ而取調べ致スと之事」であ り、武平太が帯刀を奪われ腰縄をかけられたのはこの後 であった。この一四日の武平太の体験からは、新選組の なかでも松原は武平太にいち早く応対し、言動や処遇も 穏やかだったのに対し、他の「重役」たちは武平太を相当 待たせた挙句に厳しく接したことがわかる。両苗への対 応に関して、新選組のなかでも松原だけ好意的なように も感じる。 この経緯を踏まえてもう一度前に引用した「石川堅次 郎・郡( 軍 治 )次・瀧蔵、 極(ママ、局カ)ノ松原忠司頼込」という表現を考 えれば、両苗と松原のあいだには以前より何らかの個人 的なつながり、協力を可能とする関係が存在したのでは ないだろうか(26)。ちなみに、松原はこの年の九月一日 頃に謎の死をとげたことが知られており、諸説あるその 原因の一つは「失策をしたため切腹しようと刀を突き立 てたところを止められ、一度平隊士に下げられたが、そ の傷がもとで死亡した」というものであった(27)。両苗と のつながりが内通行為に準ずるものとみなされ、局内で の立場が悪化した可能性は十分に考えられるところだろ う(28)。本稿では、いまだ確証はないものの、軍治と瀧 蔵が最初の拘禁時に知己の松原から地頭役人の差し金の 事実を知り(あるいはこの時松原が二人の境遇に同情し てここから関係が始まったのかもしれない)、釈放後に 報復に走って、またそのことによって松原の方も二人の 〈有罪〉が固まっていくなかで立場を悪化させ、追い詰め られていったものと理解したい。 ともあれ、新選組側の対応が松原の手を離れた後は、 両苗への取り調べは直接の逮捕者(石川・軍治・瀧蔵)以 外の参考人へも拷問が加えられる非常に厳しいものと なったが、その中心にいたのは六番組の隊長であった武 田観柳斎であった。以下、その時のさらに詳しい様子を、 別史料である「関東直訴口上書之下案」の記述から窺って みよう。 武田氏被申渡候儀は、当月九日之夜大宮三条上近江 屋方え被乱入候は汝等無之哉之旨被尋之候得共、一 同頓と心得不申候儀御答候処、武田被申候ニは、不 存と申候も不相許、先達而人見団五郎殿ゟ被相頼候 儀無相違、急度可及白状旨被聞之候得共、実ニ心得 不申儀ニ候得は致方無之、何分ニも不存之旨押而御 答申上候処得( マ マ )共、御許容無之、成敗も甚厳敷、一同 及絶命候難計、依而就中武助と申者、其砌庄屋相勤 罷在候ニ、格別之御成敗ニ付不堪愁歎之至、無拠団 五郎殿え対決相願候所、御聞込ニ相成対決被申付候 間、則武助向団五郎殿従来之始末明白ニ申候而返答 可承旨申候処、団五郎殿一言も無之、赤面之体ニ被 罷居候得は、武田被申候ニは、人見氏被申候義、言 数は少候得共、事相分、武助兼而承通弁舌を言廻す 不埒成者と、又候厳敷御成敗ニ預り、六・七人之者 已ニ絶命ニも可相及所、其中軍治・瀧蔵御召捕ニ相 成、白状仕候ニ付、御成敗少々相柔ニ相成候、一同 助命難在奉存候得共、於尓 只(慶応二年八月)今 手痛 ・ 脚痛其外 所々痛所有之候間、日々申出紅涙を垂ぬ者無御座候(29) 要点をまとめると、①武田は「乱入」への関与を否定す る両苗を「不存と申候も不相許」「御許容無之、成敗も甚 厳敷」と激しく拷問し、「一同及絶命候難計」「六・七人之 者已ニ絶命ニも可相及」状態になった。②庄屋の武助が 地頭役人の人見団五郎と「対決」(一対一での討論カ)し打 ち負かしたが、武田は、団五郎は口数は少ないが信用で き、武助は「弁舌を言廻す不埒成者」だとしてこれを受け 入れなかった。③そのころ軍治と瀧蔵が(恐らく別のと ころで尋問を受けていたのだろう(30)「白状」したため、 取り調べは多少穏やかになったが、今―慶応二年八月で も体の各所が痛み、日々「紅涙」を流している、となる。 拷問の激しさと取り調べの理不尽さがわかるが、際立 つのは武田観柳斎の敵意に満ちた態度である。これは両 苗の口上書の草稿だから、被害者側に立った叙述である ことは大前提だが、それでも彼らが武田に存分に苦しめ られた様子がよく伝わってくる。武田は新選組の構成員 のなかでも、おべっかを駆使する酷薄な人物としてこれ まで描かれることが多かったが(31)、この取り調べの様 子からは、両苗の目を通したその一端が窺えよう。 結局、拘束は二一日まで続いたが、釈放のきっかけは 両苗が新選組の尋問に〈屈服〉したことであった。「関東 直訴口上書之下案」では軍治と瀧蔵の「白状」を挙げてい

(7)

るが、一日単位でより細かく尋問の経緯を書き記した前 述の「日誌」では、恫喝ともいえる追い込みの様子が窺え る(32)。前に引用した二〇日の取り調べの際、両苗は地 頭役人と揉めているのは事実だが近江屋への「乱入」には 自分たちは無関係であると返答したが、武田は「何程不 知と申立候得共、是迄出願手続之文面ニ置ては、急度同 腹ニ落るぞよ」と聞き入れていない。これまで出してき た歎願書をみれば彼らと軍治・瀧蔵の結託は明らかだ、 というのである。 もっとも、前年一二月には軍治が中川種次郎と連名で、 この年二月と三月には惣代人見太郎右衛門・中川兵右衛 門や「両苗中」の名で地頭役人を痛烈に批判した書面を提 出していたので(33)、軍治・瀧蔵らの行為も両苗全体の 意思と考えたこと自体は、一概に悪意のみに根差した偏 見とはいえまい。これに対して両苗は「奉恐入候」と返答 したが、武田は「此後改心致し候欤、改心致し候得は今 日ゟ地頭所へ差渡ス、若改心不致候 得(ママ) 、此侭奉行所差渡 し、右四人共同罪ニ行(ママ)」と告げている。地頭役人と新撰 組の言い分を大前提として受け入れた上でここで事態の 収束を図るか、それとも否認状態のまま「同罪」とされこ の後も徹底的に絞られ続けるか(そうなればたとえ奉行 所に担当が移っても善処は期待しがたいであろう(34))、 暴力を背景に究極の選択を突きつけられたのである。草 莽の志士のように特定の政治信念を背景に在所を離れて 政治活動に身を投じていたわけではない両苗にとって、 中核指導層の無期限拘留は在村での社会的基盤が根本的 に破壊されることを意味する。そして両苗の答えは、「此 後は何程ニも改心仕り候へは、何卒御たすけ被下候様奉 願上候」であった。新選組は三日にわたる拷問の末に、 かなり強引に両苗から「改心」を引き出したのである。

3.釈放後の処分とその後の展開

尋問が一つのヤマを越えたことで、両苗は二一日に地 頭役人の小畠杢之允と人見団五郎に引き渡され、「縄手 鎖」に「腰縄」の状態で馬路村まで連行された。対立相手 に身柄が引き渡されたこと自体が、両苗の置かれた苦境 を表している。帰村後も引き続き入牢を命ぜられたが、 これは東町奉行所の計らいで二四日に釈放に至ったとい う(35)。二度目の拘禁に際して、地頭役人が「御奉行所蔑 ニ被致候筋」(奉行所の頭越しに新選組に掛け合ったこと) について東町奉行所は「甚御立腹之由」であったというか ら(36)、奉行所がせめてもの意地を見せて両苗のなし崩し の拘禁継続を止めさせたというべきか。ただしそれでも、 両苗は以後も「無宿同様」の取り扱いを受け、晦日には以 下のような形で事件の総括を強いられた。 同 (四月) 晦日、従御地役人被申渡儀は、一( 元 治 元 年 )昨年ゟ御進達 ニ相成候一件、御進達御下ヶ相成候様之願書可差上 旨被申付候ニ付、一統示談之上相認差上候処、御地 役御存分ニ不相叶趣ニ而、認直被申候ニ付、再三書 認、差出候得共、御存分不相叶、終ニは案文被書下、 此通相認調印可致旨被申付( マ マ )得共、私共最初ゟ之趣意 とは多分相違在之候間、達而相断候得共御聞入無之、 若於不致調印は又候御新選組え差出、人別成敗可申 付旨屹と被申付候ニ付、不得止事、案文之通調印仕、 差出候義ニ御座候御事(37) 新選組への再度の引き渡しをちらつかされながら、何 度もこれまでの経緯を示す願書の書き直し(訴えを取り 下げた上で地頭サイドの論理に沿うように)を命じられ、 最後には地頭役人の側で用意した案文への調印を強要さ れたことがわかる。現時点で願書の本文は確認できてい ないが、両苗が前年より度々提出してきたものとは異な り、「郷士」由緒やそれにもとづく村内での権利を前提と しない(両苗が百姓身分であることや一橋慶喜との関わ りにおける一連の行動の不当性を認める)かたちでの歎 願であっただろうことは、この間の経緯からみても間違 いないだろう。約二年後の慶応三年二月には、この事件 の重要参考人の一人であった中川定次が地頭役所から今 度は博奕の疑いで捕えられ、「覚無御座」にもかかわらず 数度の「厳敷打擲」と「村内往還引廻シ」という「余り非道 之取計」を蒙り、命の危険を感じて出奔するという事件 が起こるが、この際にも忰の新七郎に「書付案文」(事件 の顛末を説明するものだろう)が下され、「趣意柄相違仕 候得共、無拠右案文ニ調印之上差出シ」という事態になっ ている(38)。今日でも、警察等が用意した筋立てへ被疑 者を誘導、同意を強要した疑いが報道されることがある が、ここに記されている経緯は、その〈伝統〉が奈辺にあ るかを生々しく示すものといえる。 また、五月二日には取り調べの際に預けていた所持品 が両苗の元に返却されたが、このうち中川種次郎(39)

(8)

持ち物に関して、「金壱両三分三朱」「小柄壱本」「京都武 鑑壱枚」が紛失していた。これに対しては、「早速地役人 迄内々申籠候へ共、相訳り不申候事、定而新選組ニ而紛 失致し候哉と被察候」とのことであった(40)。真相は不明 だが、新選組が閏五月一二日に平田派国学者の矢野茂太 郎(玄道)を拘束した際に、押収した「書類の中に紙入に 五両金有之しか、奪掠して不返」という事例が宮地正人 氏によって紹介されているので(41)、あるいはこの当時 新選組が捕縛者から金品を没収するのが常態化していた のかもしれない。当時新選組およびその後ろ盾の京都守 護職松平容保が、江戸幕閣との内部対立のために財政援 助の凍結という〈兵糧攻め〉にあい、京坂地域の豪商らに 強引な御用金の調達を仕掛けるケースが頻発していた事 情を考えれば(42)、可能性のない話ではないだろう。 二度目の拘禁のきっかけとなった、近江屋「乱入」の当 事者である石川堅次郎・軍治・瀧蔵の三人のその後にも 触れておく。〈実行犯〉であった三人は、他の両苗が釈放 された後も奉行所に拘留され続けた。両苗は彼らの救出 にも尽力したようで、たとえば中川武平太は慶応元年閏 五月二日、同二三日、六月朔日、同九日と石川堅次郎宅 を訪れ、石川おみち(堅次郎の妻カ)と面談して善後策を 協議している(43)。二三日には金九両をおみちに託して 上京させ、彼女の帰村後に面談した際の様子を「至極上 首尾」と記している。おみちの上京目的が伏見奉行与力・ 亀山松平家の京留守居・京都東町奉行所への訪問で、か つ武平太が関係者の名前をメモしていることから、これ は恐らくツテのある役人への賄賂だったのだろう。この 間、庄屋・百姓および他村の関係者も町奉行所の要請を うけ上京・周旋しており、確定はできないが、総合的に 考えて石川堅次郎は助命された可能性がある。また、閏 五月二八日には軍治と瀧蔵の要望を受けて二人に「ふと ん三枚、筆物壱枚ツ丶、ざこ三本」を差し入れている。 ただし、他方で武平太は当時周囲で発生していた不穏 な動きについても記録している。それは、閏五月二日に 石川おみちを訪ねた際、五月二七日に「何国武士壱人」が 来訪して「種々咄シ」たこと、「婦人壱人亀山へ罷越シ、 馬路村両苗之内有増之者名前書記シ、帰り候趣」、五月 二〇日頃に「亀山藩中七・八人計出奔致し候趣」を聞かさ れたことなどである。これらの情報が直接事件と関係す るものであったか否かは定かでないが、軍治や瀧蔵たち が他の両苗の知らないところで何らかの政治的動きに関 わっていた可能性はあるだろう。 結局、二人は帰ってこなかった。武平太の日記の六月 二二日条には「郡( 軍 治 )次帰宅之ゆめを見る」とあり、同一六日 にも「ふしぎのゆめ」を見ている。しかし、軍治と瀧蔵は 釈放されることなく獄死する。「関東直訴口上書之下案」 では「当寅年二月廿二日、瀧蔵御仕置ニ相成候」と記述が あり、慶応二年に処刑されたようである(44)。続く地頭 役人批判のくだりでは、人見団五郎らが瀧蔵の死後に近 江屋で「酒宴歓楽」を催したと記されている。 そしてこのような流れのなか、四月二六日には地頭役 人から両苗に対して、「今日以後沙汰致し候迄帯刀不相 成」「若心得違ニ而も帯刀致し候もの有之候ハ丶、急度及 沙汰候」と、当面のあいだ帯刀を厳禁する旨が告げられ た。この後の細かな経緯は不明だが、慶応二年八月作成 の「関東直訴口上書之下案」でも、「当馬路村人見・中川 両姓之儀は他郷之百姓と相違、平生刀を帯候儀従古来之 仕来ニ候間、今更苗字・帯刀を取上ニ相成、平百姓ニ候 抔と被申立候得共、迚も往々治方とは相見不申」と、現 在の苦境が訴えられている。また慶応三年五月六日には、 地頭役所で役人立ち合いのもと「帯刀免許状」が「返却」さ れている(45)。以上を鑑みれば、二度目の拘禁後に下さ れた帯刀(および苗字)禁止の決定は、維新期まで両苗の 立ち位置を拘束し続けたといえよう(46)。新選組と地頭 役人の暴力・脅しに晒された両苗は、でっちあげられた 文脈に沿って一連のことの推移を〈認定〉させられ、結果、 「郷士」身分を認定させるどころか、既存の権利をも剥奪 されてしまったのである。

おわりに

本稿では、丹波国馬路村における人見・中川両苗と地 頭役人の対立が幕末政局の激動のなかでみせた展開につ いて、これまで存在自体が全く知られてこなかった新選 組との関わりを中心に詳細に検討した。その結果わかっ たのは、「郷士」身分の認定をめぐる近世以来の両者の軋 轢が、元治元年の一橋慶喜との接触を機に先鋭化するな かで、元治二年の二月と四月の二回にわたる新選組によ る関係者の拘禁・拷問へとつながり、両苗が一気に不利 な立場に追い詰められていったという事実である。その 結果、両苗は「郷士」身分を認めさせるどころか、その前 提たる苗字・帯刀の権利すら失い、二名の死者を出す事

(9)

態に陥った。主な関係者の相関としては、両苗と庄屋層、 地頭役人と新選組というそれぞれの連携・協力関係に対 して、中立的な立場から京都東町奉行所が調停を図るも、 地頭役人・新選組の動向に引きずられていくという大ま かな構図が確認できた。さらには、事態の趨勢がほぼ決 した後で、地頭役人が自ら用意した案文にもとづく歎願 書の書き換え、つまりは両者の対立に関わる事実認定の 改ざんを両苗に強要していた事実もまた確認することが できた。 以下では、新選組、および「郷士」を含む「武」に立脚し た「中間層」というより大枠の観点から、この事件がどう 位置づけられるかを展望して、本稿の結びに代えたい。 まず前者よりみれば、二度にわたる両苗の拘禁は、新 選組がその性格を大きく転回させたとされる時期とちょ うど重なっていることが指摘できる。近年の研究では、 新選組は当初「尽忠報国」を掲げる有志集団として発足 し、有事の際に武人として「一廉御奉公」(これは「尊王攘 夷」とほぼ同義である)することが目的であったのに(47) 元治二年=慶応元年の初旬から性格を変じ、徳川政権の 手先として反対者を捕縛・弾圧するばかりの集団へ変わっ ていったとされる。松浦玲氏の言葉を借りれば、「新選組 は思想集団であることを止めた」ということになる(48)。も ちろん新選組が検挙していた個人や集団は他にもいたか ら、過大な影響を短絡的に認めるのには慎重であらねば ならないが、両苗が「武」に根差す「郷士」由緒を根拠に国 事を志していた点、それを地頭役人が弾劾した経緯など を考えれば、新選組が両苗の言い分を踏みにじり拷問を 加えて屈服させたことは、両苗のみならず、新選組自体 の性格をも大きく決定づける一つの画期になったといえ るのではなかろうか。特に二度目の拘禁に際して、近藤 勇・土方歳三・斉藤一・伊東甲子太郎といった多くの幹 部が隊士募集のため京に不在のなか、両苗への尋問の中 心となったのが権威主義に傾きがちになっていた近藤へ のすり寄りが著しかったとされる武田観柳斎であった点 は、象徴的といえるだろう(49) 次に後者の観点よりみれば、「郷士」という概念を狭義 の血縁的由緒にとどまらず、非武士身分でありながら武 術の心得を背景に現状を飛び越えて国事への投企を希求 する「中間層」の一部と位置付けるならば(50)、両苗と新 選組は近世末期=幕末という時期において、この広義の 「郷士」に親和的な類似の集団であったといえる。規模や 活動時期にも大きな差はなかった両者は、しかし活動の 方向性においては、この出会いを境に真逆のベクトルへ と進んでいく。すなわち、「尽忠報国」の有志集団から旧 体制の「爪牙」(51)に転じた新選組とは対照的に、両苗は 一橋慶喜への士官をめざす動きが挫折させられたこと で、結果的に徳川の支配を相対化する視座を得て戊辰戦 争の際には山陰道鎮撫総督となった西園寺公望の軍に身 を投じるという賭けに出ていくのである(52) 【A勤王⇔B佐幕】という古典的な構図によれば、幕末 期に新選組はA→Bの、両苗はB→Aの経路をそれぞれ辿っ たことになり、行論で扱った事件・時期は、異なる方向 から歩みを進めてきた両者が正面からぶつかり、すれ 違って相手のいた側に駆け抜けていった、まさしくその 歴史的画期であったとも考えられる。そしてこのことは、 階級対立の前提にもとづく当該期の「郷士」層の台頭に、 【勤王⇔佐幕】というイデオロギー対立構図がなんら必然 的にリンクしておらず、この構図で当該期の政局を読み 解こうとする古典的理解自体の限界性を改めて我々に示 唆しているといえよう。両苗と新選組の対照的な軌跡は、 非武士階級たる彼らの社会進出という近世末期=幕末期 の構造的・不可逆的な動きが、【勤王⇔佐幕】のいずれと して表れるか(あるいはどちらからどちらに向かってい くか)は、政治的・社会的諸要素に左右される偶然性の 高いものであり、必然的な相関関係にもとづくとは言え ないことを示している。むしろ両者の軌跡を通して看取 できる構造的・必然的な動きは、彼らが共に「武」に対す る自負を梃子に近世秩序の限界や閉塞性を打ち破り、「日 本」という想像力を獲得し、同時にそのこと自体を流動 化する情勢下での新たなアイデンティティにしていくと いう流れである。しかし、この点に関してはやや筆が先 走りすぎた。以上の展望の妥当性については、さらなる 諸事例の検討を通して諮られなければならない。 1 吉川秀造編『近畿郷士村落の研究』同志社大学人文科学研究所、 一九六四年。 2 岡本幸雄「近世丹波馬路村における『両苗郷士』の存在形態(一)」(『立 命館経済学』第五巻第五号、一九五七年)、同「近世郷士の存在形態 (上)」(『立命館経済学』第六巻第五号、一九五八年)、同「近世郷士の 存在形態(下)」(『立命館経済学』第七巻第六号、一九五九年)、同「幕 末・明治維新における郷士の政治的運動の展開」(『立命館経済学』第 九巻第二号、一九六〇年)。

(10)

3 立命館大学西園寺公望伝編纂委員会編『西園寺公望伝 第一巻』(岩 波書店、一九九〇年)、立命館百年史編纂委員会編『立命館百年史  通史一』(立命館、一九九九年)など。 4 亀岡市史編さん委員会編『新修亀岡市史 本文編 第三巻』(京都府 亀岡市、二〇〇四年)、「馬路町史」編さん委員会編『我がまち馬路』(亀 岡市馬路町自治会、二〇一一年)など。 5 (元治二年二月)「〔伺書(案)〕」、中川家文書11711。立命館史資料セ ンター所蔵。 6 (元治元年一二月)「箇条返答覚」(「東御奉行小栗下総守殿於御役所御 尋差縺返答手続書」、中川家文書11455)。 7 (元治二年三月)「奉差上口上書之写 中川武平太所持」、中川家文書 20057。 8 注5参照。 9 注29参照。 10注8と同じ。 11(元治元年一二月)「東御奉行小栗下総守殿於御役所御尋差縺返答手 続書」。以下、本節に関しては特に断らない限り同じ。 12同前。 13本史料は四つの一つ書きが続いた後に「月 日」と表記され、その後 にさらに九つの一つ書きが続いている。両苗のもとに残ったものな ので写し(あるいは覚)として「月 日」の表記は理解できるが、前後 で二つの史料にわかれているのか、それとも一続きの史料なのかや や判断に苦しむ。ただ本稿では内容の継続性から一点の史料と考えた。 14本史料は日付(提出日)が明記されていないが、前後の文脈から判断 した。 15惣代については短期間で異なる人名が史料上に登場することが確認 でき、現時点で判然としない点も多い。固定した職ではなく、折々 の代表が名乗ったのかもしれない。 16宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、二〇〇四年)、六一・ 六三・八〇頁など。 17同前、六八・七四・七八頁。 18同前、七六~七七頁。 19以上、「関東直訴口上書之下案」。 20同前。 21「日誌」慶応元年四月一四日条、中川家文書11698。 22注21参照。 23詳しくは不明だが、文脈からして地頭役人に近い馬路村の関係者と 思われる。 24「日誌」慶応元年四月二〇日条。 25(元治元年九月)「記録」、中川家文書20581。これは九月二九日から 年明けまでの両苗の行動を日記体で記録したもので、記述の大半は 一〇~一一月のものである。両苗が最初に地頭役人から呼び出され、 拘禁・取り調べを受けたときの両苗側の対応を示すもので、著者は この時中心となって活動した一人であった、中川種次郎である。 26松原は播磨ないしは大坂の出身で、文久三年に新選組が発足した初 期の時点で加入した古参隊士であったので、京都に知己を有してい た可能性は十分考えられる。 27大 石 学『 新 選 組  ―「 最 後 の 武 士 」の 実 像 ―』( 中 央 公 論 新 社、 二〇〇四年)、一四六頁。 28ただし、松原は五月下旬頃に新入隊士を加えて再編された新組織の なかでは四番組の組長となっており、すぐに冷遇された形迹は窺え ない。もっとも、両苗が二度目の拘禁にあった四月は、総長近藤勇 と副長土方歳三の二人ともが隊士募集のため京都を空けていた時期 でもあり(前掲大石著、一四五頁)、事実関係の確認などに時間がか かったことは十分考えられるだろう。 29中川家文書20997。本史料は、慶応二年八月に両苗が地頭役人から 蒙っている弾圧の不当性を「関東」(領主の杉浦氏であろう)に訴える ために作成されたものである。 30ただ引用史料の記述からは、禄左衛門や武平太らが尋問されている 時に捕えられたようにも読める。しかし、本稿では「乱入」後まもな く拘束されたものと理解する。 31たとえば、子母澤寛『新選組始末記』(中公文庫、一九九六年、初版 は一九二八年)、二四〇頁など。 32以下、本節に関しては断らない限り本史料による。 33「東御奉行小栗下総守殿於御役所御尋差縺返答手続書」。(元治二年 二月)「乍恐奉歎願口上書」、中川家文書20977。(元治二年三月)「乍 恐奉願口上書」、中川家文書40563。 34宮地前掲書七八頁には、町奉行所の牢獄に収監された政治犯の死が 描かれている。 35「関東直訴口上書之下案」。「日誌」慶応元年四月二四日条。 36「関東直訴口上書之下案」。 37同前。 38(慶応三年二月)「乍恐口上書」、中川家文書21011。 39「日誌」同日条による。ただ、本史料を含む関連史料からは新選組に 中川種次郎が出頭した形迹は確認できなかったが、ここでは史料文言 に従った。 40「日誌」慶応元年五月二日条。 41宮地前掲書、七一頁。 42同前、一一八~一二四頁。当該期の徳川政権内部の対立構造につい ては、拙著『明治維新と世界認識体系』(有志舎、二〇一〇年)、第七 章などを参照。 43「日誌」。以下、断らない限り同史料による。 44軍治については記載がないが、同時期に処断されたものと考えるの が自然であろう。 45「記録」同日条(中川家文書20582)。本史料は慶応三年三月二五日か ら同五月七日までの日記体の記録で、中川武平太の家に伝わったも のであるが、執筆者は不明。 46ただし、いつ帯刀召し上げが実施されたか、それがどの範囲まで徹 底されたかなどについては、現時点ではいまだ確定できていない。 47宮地前掲書、一三頁。 48松浦玲『新選組』(岩波新書、二〇〇三年)、一一〇頁。 49元治元年八月に永倉新八・斎藤一・原田左之助らの古参幹部が松平 容保に近藤の非行を訴えた際、「帰り道、武田観柳斎が来て、自分 たちが近藤の臣下として仕えるなどへつらったことを深く詫びたと いう」(大石前掲書、一三五頁)。近藤が当初の「同志的結合」に反し て権威化を進めた際、主たる支持者が武田であった傍証といえよう。 50「中間層」の定義・整理については、平川新「中間層論からみる浪士 組と新選組」(平川新・谷山正道編『地域社会とリーダーたち』吉川弘 文館、二〇〇六年)を参照。 51松浦前掲書、一一〇頁。 52現在からみれば、両苗の行動は勝者への便乗に見えるかもしれない が、鳥羽・伏見の戦い直後の時点では、未来はまだ全く不透明であっ たことに留意せねばならない。 付記:12頁の右段で言及した「願書」について、校正段階の調査で現物 を確認することができた。予想通り両苗の非を全面的に認め(さ せられ)たもので、書き直しが三度に及んでいたこともわかった。 詳細については、また別稿にて紹介することとしたい。

参照

関連したドキュメント

幕末維新期に北区を訪れ、さまざまな記録を残した欧米人は、管見でも 20 人以上を数える。いっ

最愛の隣人・中国と、相互理解を深める友愛のこころ

手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

子どもたちが自由に遊ぶことのでき るエリア。UNOICHIを通して、大人 だけでなく子どもにも宇野港の魅力

能率競争の確保 競争者の競争単位としての存立の確保について︑述べる︒

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

にちなんでいる。夢の中で考えたことが続いていて、眠気がいつまでも続く。早朝に出かけ