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神秘体験と日常世界

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Academic year: 2021

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(1)神 秘 体 験 と 日常 世 界 芦. 田. 良Б. 徹. 神 秘体験 とは何 か (1)オ ウム真理教事件 の衝撃 1995年 に一挙 に露呈 したオウム真 理教. (以. 下 「オウム」 と表記)を め ぐ. る諸事件が現代社会 に与 えたシ ヨックには,は か り知 れない ものがあ る。人 びとの驚 きが無差別殺人など,一 連 の出来事 の凶悪 さに由来す ることはい う まで もないが,教 団や信者 の「分か りに くさ」がその衝撃 をいっそう増幅 し てい るとい う側面 がある。「あち ら」側 の思想や行動 と「こち ら」側 の それ とのあい だには,超 えがたい壁が立 ちふ さが っているよ うに思 えるので あ る。それにもかかわらず,少 なか らぬ人たち. (と. くに若者 たち)が その壁 を. 「あちら」側へ やすやす と超 えた とい う,ま ぎれ もない事実が 「こち ら」倶 1. の住人の困惑 をさらにか きたてる。 「オウム」 の「不可解 さ」 を端的 に示す もののひとつ に,「 ネ 申秘」 なるもの の強調 を指摘す ることがで きるであろう。 この教 団では,初 期 の段階 か ら 「神秘体験」 や 「超能力」が強調 されていた。教団の宣伝 パ ンフレッ トな ど では「霊性の向上」 や「神秘世界 の実体験」 に誘 う言葉が踊 つてい る し,教 祖や信者 たちの「空中浮揚」 の真偽 は,早 くか らテ レビや週刊誌 などを賑 わ した ものである。 また,教 団の出版物 などには,修 行や儀式 をとお しての身体 の震動や跳躍 や しびれ,霊 的エ ネルギーの覚醒 ,身 体離脱 ,金 色 などの強烈な光の照射. ,. 独特 の快感や至福感 ,等 々の体験談 がおびただ しく掲載 されてい る。あ るい は, と くに後期 になっての退会者な どか らは,地 獄や餓鬼 などの恐怖や苦痛.

(2) 62. 神秘体験 と日常世界. の「ヴイジョン」 の経験 も,数 多 く報告 されてい る。 さらには,「 オウム」教団が らみの数 々の犯罪が明 るみに出てか らも,た とえそれが事実であるに しても,自 分 自身の「神秘体験」 もまた確 かな真実 であるか ら,「 オウム」 の宗教的正統性 は否定 で きない として,教 団 を離 れ ようとしない信者が数多 くいたことも,印 象深 いことであ った。あ るルポラ イターは,「 オウム」信者 にとっては新聞やテ レビの報道 よ りも「神秘体験」 のほ うが 1次 情報 のはずだか ら,い くらかで もそ こに近づ くためにと,一 種 の体験修行 をしている (大 泉. 1996)。. 国民 の教育水準が上昇 し社会生活 の合理化が進んだはず の,こ の今 になっ ての「神秘」 である。 しか も,一 流 といわれる大学に学 び,さ らには自然科 学 を修 めた理系エ リー トさえ,近 代科学 では説明のつかない「神秘世界」 の 実在 を確信 してい るようである。そ して,そ の「神秘体験」 なるものが この 「狂気」 の新宗教へ の重要な入信契機 とな り,さ らには,た ぐい まれな「反 社会的」教団の教義 と実践 の正 当化への大 きな根拠 にされてい る。 このあた りが,お おかたの人びとの,な んとも腑 に落 ちに くい ところであろう。 い ま どきこの 日本で 「神秘」 とは,い ったい どうい うことなのか。 このエ ッセイ では,そ の意味 と意義 を,合 理化が進んだはずの現代社会の特質 とか らめて 考察 したい。. (2)非 合理的文化の広がり 「オウム」 の 凶悪 で不可解 な事件 をとお して注 目され た「神秘体験」 とい うものは, じつ は,今 日で も必ず しもこの教団 に特有 の ものではない。 とい うの も,近 年 の新宗教界 では,「 超古代文献」 や イ ン ドやチベ ッ トの仏教的 伝統 ,西 欧ス ピリチ ュア リズムの霊学, さらにはニ ュー・サイエ ンスの学説 などを採 りいれて,新 たにシンクレテ ィック. (習 合的)な 創造 を行 なうとと. もに,神 秘や奇跡や霊術 を強調する新 しい教団の動 きが活発だからである。 これ らの特性 が顕著 な教団群は,近 代 日本 の新宗教 の なかで も,従 来型の も の とは区別 されて,や やあい まい な概念なが ら「新新宗教」 とよばれること.

(3) 芦. 田 徹. 郎. が多 い。 さらに,こ うした (新 )宗 教界 の現状 の背後 には, とくに若者 を中心 にし た「非合理的文化」 とで もい うべ き時代状況 の広が りを指摘す ることがで き る。 1973年 には,コ リ ン・ ウ イルソンの 『オカル ト』 の翻訳 や,五 島勉 の 『ノス トラダムスの大予言』が出版 されベ ス トセ ラーになる。1974年 には. ,. ユ リ・グラーによる「ス プーン曲げ」 のテ レビ実演が放映 されて話題 を呼ん だ。 1980年 前後 か らは,オ カル ト雑誌 もい くつ か刊行 され,同 類 の漫画. ,. アニ メ,コ ンピュータ・ゲームなども根強 い人気 を誇 ってい る。そのほか. ,. 少 し大規模 な書店に行けば,密 教 ,諸 心理学 ,ニ ューサイエ ンス,自 己変容 や 自己開発法 など,い わゆる「精神世界」 の出版物が小 さか らぬスペース を 占めてい る。 「オウム」 の台頭 とこ うしたサ ブカルチ ャーの拡大 との関連 を指摘す る論 者 も多い。 この教団の比較的初期 の段階では,麻 原彰晃教祖がオカル ト系月 刊誌 の 『 トワイライ ト・ゾーン』や 『ムー』 に掲載 した「空 中浮揚」 の写真 と記事 が,若 者 たちの入信 に大 きな影響 を与 えた とい うの も,よ く知 られた ェ ピソー ドである。 しか し,こ うした新新宗教 や非合理的文化 を外側 か ら眺める視線 は,必 ず しも好意的なものではない。「オウム」信者 たちが主張す る神秘体験 や超能 力 についてのマス コ ミの一般的論調 も,虚 偽や トリックや錯覚や錯舌しとい う ことで片付 けたがってい るようである。事件発覚直後 の洪水 のような論評 は ともか く,学 界 で も,「 オウム」やその社会的 ・文化的・心理的背景へ の ま ともな取 り組 みは,今 までの ところ きわめて限 られた ものに とどまってい る。 こうした研究者 の一般的ス タンス に,こ の ような問題 自体 を忌避 しよう とする姿勢 を読 み取 って も,あ ながち邪推 とはい えないであろ う。. (3)神 秘 体験 と宗教 好意 的 に理 解 す るにせ よ,批 判 的 に把握す るにせ よ,は た また消極 的 に敬 遠す るにせ よ,「 ネ 申秘体験」 (へ の 関心 )が ひ とつの社会現象 となつてい る事.

(4) 64. 神秘体験 と日常世界. 実 を,否 定す ることはで きない。 ところが, どのような立場 をとるにせ よ. ,. そ もそ も「神秘体験」 とは何 か とい うことになれば,た だちにやっかい な問 題 に直面す る ことになる。宗教的経験 について重 要な業績 を残 したウイリア ム・ ジェイムズ (James,W.)は ,神 秘体験 の最初 の標識 として「言 い表 し よ うが な い と い う こ と」 をあ ↓ デて い る. (ジ. ェ イ ム ズ 19ol_19o2:下 183. 頁)。 「言 い表 しようがない とい うこと」 について論議 しなければならない と ころに,神 秘体験 を語 ることの最大の矛盾がある。 まず,こ の難問を確認 してお く必要があるが,実 際 にはおびただ しい数の 神秘体験が語 られ,ま た論 じられてきた。そ して,そ の主流は,宗 教的経験 の一環 に神秘体験 を位置 づ けるものである。ジェ イムズは,「 ネ 申秘的状態 に おいて私 たちは絶対者 と一つ にな り,同 時 にまた私 たちが一体 であることを 意識す る」 (ジ ェ イムズ 19ol_19o2:下 244頁 )と い う。宗教心理学者 ・松 本滋 も,「 ネ 申秘体験 とは,神 的あ るいは究極的な実在 と感 じられる もの との 接触あ るいは融合 の直接的直感的体験 である」 (松 本 1979:167頁 )と 定義 す る。 「絶対者」や 「神的あ るい は究極的な実在」 とは,宗 教 についての無数 の 定義 にほぼ共通 してみ られる中核的要素 に他 ならない。松本 によれば,こ の 体験 こそが 「当の個人 (体 験者)に 強烈な感銘 を与 え,宗 教的な覚醒 をもた らす」 (同 )の であ り,「 ネ 申秘 の体験 は宗教 の始原 であ り,ま た究極 で ある」 (松 本. 1979:180頁 )と い うことに もなる。 したが って,ジ ェ イムズが述 べ. るように,「 信仰状態 と神秘状態 とは実際 には変換 ので きる二つの言葉 なの である」 (ジ ェ イムズ 19ol_19o2:下 251頁 )と い うこともで きよう。 ただ,神 秘体験がある種 の宗教的経験であるとい うことについては,い く つ か留意すべ きことが らがある。 ひとつ は,こ の体験 にみ られる,「 歓喜」 と「恐怖」 とい う相反する印象 の共存ない しは融合 とい う特性 についてであ る。 ドイッの神 学者 で あ り宗教学者 で あ った ル ドル フ・オ ッ トー. (otto,. R.)は ,あ らゆる宗教的感情 の最深部 にある「戦慄すべ き秘儀」 (mySterium tremendum)の 重要性 を強調 した。「秘儀」 とはラテ ン語 の mysterium,す な.

(5) 芦. 田 徹. 65. 良Б. わち「神秘」 と同 じことだが,そ れは「戦慄すべ き」 ものだとい うのであ る。. オ ッ トーによれば,こ の宗教感情 は「救 いの信仰 や信頼や愛 などにまさる もの」 である。それ は「静かで深 い冥想的気分 をただよわせ ることがある」 し,時 には「激 変 して急激 に心 を破 り出 ることがある」。 さらには「不可思 議 な興奮 と陶酔 と法悦 と入神 とに導 くことが あ る」 し,「 荒 々 しい悪霊的な …略…〕 ほとん ど,妖 怪 の ような恐怖 と戦慄 とに引 き沈 める 形態 を持 って 〔 ことがある」 とい うわけであ る. (引. 用文中の 〔 〕内は引用者 による注記。. 以下同 じ)。 「戦慄すべ き」 (tremendum)と は,こ う した性格 をす べ て包み こんだ感情 を表 わ してい る。 (オ ッ トー 1917:23-24頁. ). 宗教的経験 ない しは神秘体験 のこうした両義牲 は,エ ミール・デュルケー ム (Durkheim,E.)が 強調 した「聖観念 の曖昧 さ」 にも通 じるものである。 ただ,神 秘状態 にみ られる「楽観論」 と「悲観論」 (ジ ェイムズ)と い う二 元論 の うち, どちらが よ り本質的であるかを決 めることも難 しい。 ジエイム ズは,「 ネ 申秘的状態 は,私 たちの うち にある否定 の機能 に訴 えるよりも,む しろ肯定 の機能 に訴 える」 (ジ ェイムズ 1901_19o2:下 239頁 )と い うが. ,. 山折哲雄 は,そ の著 『神秘体験』 を,か れ自身が体験 した「悪魔的ヴ イジ ヨ ン」 のインパ ク トか ら書 き起 こ してい る。「不思議」 な体験 は,お うお うに して「不気味」 な体験で もある。 この ように, もともと宗教や信仰 には多かれ少なかれ神秘体験が一定 の位 置 を占めてい るわけであるが,絶 対者や超越者 との直接的合一の意義や,そ こに至る儀式や修行が と くに強調 される場合,そ れは狭義 の意味 で「神秘主 義」 と呼 ばれる。 いわゆる未開宗教か ら仏教 ,キ リス ト教 ,イ ス ラム教 など の普遍宗教 にいたるまで,こ うした系譜 をた どることは容易 であ る。 ただ. ,. 一般 に宗教展開の歴史的方向性 には,少 な くとも表向 きには,神 秘や呪術 を 「迷信」 として しりぞけ,「 合理化」 を進める傾向がある。 したが つて,宗 教 史の なかで神秘主義 は,そ の底流 に確 かに位 置 しなが ら,ど ちらか といえば 傍流 ない しは異端的な位置 を割 り振 られる傾向が強か つた といってよい。.

(6) 神秘体験 と日常世界. (4)神 秘体験 の諸相 神秘体験 と宗教 的経験 との 関連 につい て 第 二 に留意す べ き点 は,み て きた よ うに神秘体験 が 宗教 の核心部 に位 置 しなが ら,他 方 で は宗教 の範疇 に収 り 切 らない とい う,こ れ また矛盾 した性格 につ い てであ る。 ここで もジ ェ イム ズの言葉 を借 りれ ば,「 ネ 申秘 的経験 の範 囲 は極 めて広」 く,「 特別 に宗教 的意 義 を要求 しな い現象」 か ら「極端 に宗教 的 で あ る と見 られ る現象」 に まで及 んで い る (ジ ェ イ ムズ 1901_19o2:下 186頁 )。. 言葉 の一般的 な用法で 「神秘」 とい えば,要 す るに人知 を超 えた「不思 議」 のことであ り,そ の範囲は広 い。神秘主義が強調す る神的 なもの との合 一 とい うことは,不 思議 な体験 の なかで も, もっとも起 こ りに くいこと,す なわち言葉の もっとも本来 の意味 において「有難 い」 とい うことであろう。 しか し,オ ッ トーのい うところの「静かで深 い冥想的気分」や 「不可思議 な 興奮 と陶酔 と法悦」,あ るい は「妖怪 の ような恐怖 と戦慄」 の体験 は,必 ず しも特別 の信仰 や宗教的背景 をもたない人においても,そ の濃淡 を異 に しつ つ さまざまな場面で起 こ りうる。 た とえば,ジ ャーナ リス ト・立花隆の報告 でよ く知 られてい るが,地 球環 境 を飛 び出 した宇宙飛行士たちの多 くが,宇 宙でのある種 の神秘体験 につい て語 っている。その うちのひと りは,そ れまで と くに信仰心が篤いわけでは なか つたに もかかわらず,月 面 に立 った ときの経験 を「私 のそばに生 きた神 がい るのがわかる。そ こにいる神 と自分 の間 にほんとにパー ソナルな関係が 現 に成 りたち,現 に語 りあ っているのだとい う実感がある」 (立 花 1983:121 頁)と 述べ ている。 これは もう,宗 教的経験 としての神秘体験その もの とい ってよい。 近 ごろ よ く話題 にな る「臨死 体 験」 も,神 秘体 験 と重 な る ところが 多 い (た. とえば,立 花 1994)。 い くつ かの パ ター ン を組 み あ わせ る と,次 の よ う. な もので あ る。瀕死 の床 にあ る 自分 か ら魂 が抜 け出 して,自 分 の 身体 や まわ りの様子 を見降 ろ して い る。美 しい花園や橋 の 架 か った 川 の前 へ 出た り,暗 い トンネ ル を明 る い輝 きに向けて急速 に通 り抜 けて行 くこ ともある。花 園や.

(7) 田. 芦. 徹. 67. 郎. 川の向 こうか らは,亡 くなった知人が手招 きする こともあるが,別 の近親者 に思 い とどまらされた り,神 や仏 に助け られた りして,生 き返 る。その時の 気分 は,が い して霊妙 な快感 に包 まれてい るとい う。 また,厳 寒や酷暑 や高所などの極限状況 で,あ るいは飢餓 や不眠や疲労 の 極 みにおいて,さ まざまな神秘的ヴイジ ヨンを体験 したとい う報告 は多 い。 幻覚剤 や覚醒剤 や麻酔剤 などの薬物 によって,一 種 の神秘体験 が得 られるこ ともよく知 られてい る。 さらに言 えば,ひ とが アル コール を求めるのは. ,. 「ふだんは冷 たい現実 と正気 の ときの仮借 の ない批判 とによつて抑 えつ け ら れてい る人 間性 の神秘的な能力 を刺激す る力 をもっている」 か らであ り ,. 「酪酎 した意識 は神秘的意識 の一片 である」 (ジ. ェイムズ 19ol_19o2:下 193. 頁)と い う解釈 に,わ が意 を得 る思 いの人 も多 かろう。 その他 ,芸 術的感動 や性的エ クス タシーの体験 の記述 にも,至 高性や超越 性 の感覚やえも言われぬ陶酔感 の強調な ど,宗 教的神秘体験 の報告 と区別 し に くい ものが多 い。逆 に,宗 教的体験 か ら審美的要素やエロス的要因 を取 り 除いて しまえば,そ の神秘性 もおそろ しく色あせて しまうにちがい ない。そ れにもかかわらず,芸 術的体験や性愛的体験 と宗教的体験 とを同一視 して し まうことには,各 方面 か ら抵抗 があろう。 あるいは,内 的意識経験 としての神秘体験 とは別 に,身 体 の感覚器官, と りわけ視覚 をとお して経験 (観 察)で きる「超常現象」 もよく話題 になる。 これ も,「 不思議」 の体験 とい うことでは,一 種 の神秘体験 と言 えな くもな い。超常現象 を物理学 の立場か ら批 判的 に考察 してい る大槻義彦 は,そ れ を,霊 治療 ・占い・テ レパ シー 0ス プーン曲げ・念写な ど,人 為 を介 して実 現 される「誘導的超常現象」 と,火 の玉 ・UFO・ ミステ リーサ ー クル・幽霊 ・ポルターガイス トなど,人 為 によらず出現す る「 自発的超常現象」 とに大 別 してい る。 (大 槻 1993:13-15頁. ). 大槻 のい う誘導的超常現象の なかには,忘 我悦惚 の「 トラ ンス」 のような 異常心理状態 に入 つた人物が,神 や精霊 ・死霊 など超 自然的存在 と直接的 に 接触 し,交 流 (交 霊)や 操作 (操 霊 )に よつて,占 いや予言や託宣や病気直.

(8) 68. 神秘体験 と日常世界. しなどを行なうものがある。一般 に,こ れ らの霊 能者 は「シャーマ ン」 とよ ばれ,そ の呪術的 ―宗教的な技法 と信念 の体系 は「シャーマニズム」 と名づ けられて, 日本 もふ くめて世界 に広 く分布 してい る。 シャーマニズムでは. ,. 内的な神秘体験 と外的な超常現象 とが,霊 ・超能力を媒介に して結 びついて い るのである。. (5)神 秘体験の メカニズム と意味 づけ 以上の ような「神秘体験」 を真正で現実 の体験 とみるか,一 時的な幻覚や 錯誤 もしくは精神疾患 の一兆候 とみなすか,あ るいは合理的 に説明可能な通 常現象 にす ぎない と考 えるか,見 解 は大 きく別れる。 こうした立場 の違 いが 顕著 に現 われるのが神秘体験 のメカニズムについての説明である。 さきほど述べ たように,一 種 の極限状況やある種の薬物 の摂取 によって. ,. さまざまな「神秘体験」 が得 られる ことはよ く知 られてい る。「オウム」信 者 も「極限修行」 などと称する人為的に強 い られた極限状況や薬物投与 によ る神秘体験 を語 つているが,こ れは,古 今東西 の宗教上の修行や儀式 で広 く 用 い られる修法 と似ているところがある。 ところが,「 オウム」信者 の宗教的経験 が「洗脳」や 「マ イ ン ド・コ ン ト ロール」 として否定的ない し批判的な立場 か ら議 論 されることが 多 い よ う に, しば しば,こ うした極限状況や薬物使用 とい う「客観的」条件 こそ,神 秘体験 とい う「主観的」感覚 の真実性 を否 定す る もの とみな されるのであ 、 る。つ まり,こ れ らは,ひ との健全な′ 亡 身の営 みが,生 理学的に阻害 された ことによる幻覚や錯乱 であ って,場 合 によっては治療 を要す る病理現象か. ,. 処罰 されるべ き犯罪行為であるとさえ考 えられがちである。 そ うした メカニズム を科学的 に証明す る もの として,脳 内で分泌 される 「エ ン ドルフィン」 などの化学物質の種類 と作用 も,徐 々 に明 らかにな りつ つある。純粋 に内省や瞑想 によってのみ得 られた とされる神秘体験 に して も,独 特 の呼吸法 に起因す る過換気性症侯群や脳 の低酸素血症 による幻覚 と い うことで,「 合理的」 に説明で きないわけでは ない らしい。歴史上著名 な.

(9) 芦. 田 徹. 良Б. 宗教家 の神秘体験 の事例 についても,実 は精神分裂病 の症状やてんかんの発 作 なのだ といった,精 神医学的な診断 も多 い。 さらに最近では,一 点の疑 い もな く合理的にプログラムされた,コ ンピュータによるヴァーチ ャル・ リア リテ イで一種 の神秘体験が得 られることも,ほ ぼ常識 になってい る。 しか し,こ うした神秘体験 の脱神秘化 の試 みが 当の体験者 には大 した意味 がないの も, また確 かである。「オウム」信者 の「救済」 グループで も,「 喜 びの体験 とい うものは,本 人 には絶対的な意味 を持 っている 〔 のであ って〕 何物 にも還元 されない「生の リアリテ イー」 が,そ こにはあ る」 のだか ら. ,. 「お前 が見たのは薬物や脳内麻薬がつ くり出す幻覚 なのだぞ とい くら説明 し て も,あ ま り効果 は期待 で きない」 と認 めてい る (救 済ネ ッ トワー ク 1995: 192頁 )。 それ はそ うであ ろ う。「生命学」 を提唱 し,自 らも「神秘体験」 がある と い う森岡正博 もい うように,「「神秘体験 は単 なる脳 の生理学的プロセスに過 ぎない」 といった科学主義 では,恋 愛 も感動 も,単 なる脳のプロセスにす ぎ ない とい うことになる」 (森 岡 1996:109頁. )。. したが って,「 宗教 的意見 の. 価値 は,〔 その原 因や背景 を詮索す る ことによってでは な く〕直接 にその意 見 その ものに くだ される精神的判断 によって確定 され うるばか りで あ る」 (ジ. ェ イ ムズ 19ol_19o2:上 35頁 )と い う規準 は,神 秘体験 に もひ とまず. は,そ の まま適用 されて しかるべ きであろう。 もっとも,「 オウム」 の ように,神 秘体験 もさる ことなが ら,そ れを根拠 にして修行や儀式や教義や教祖 まで もが神秘化 される傾向が強 い場合には. ,. そのメカニズムの科学的解明に よって,一 種 の「毒気 おろ し」 を期待 した く もなろう。サブカルチ ャー論 の視点 か ら「オウム」問題 について発言 してい る宮台真司 は,「 ある舞台装置 を設定 して,手 順 を踏んでエ クササ イズ を施 してい くと,相 手 に幻覚 を見 させた り,神 の声 を聞かせた り,自 分 の体 か ら 高熱が発 してい るように感 じさせることはそれほど難 しくない」 と,自 分 の 体験 を語 つている。そ こか ら,「 ネ 申秘体験 は体験 として実在 して も,そ れ を 引 き起 こす手順 は神秘的でない とも考 えられるのだ」 (宮 台 1995:54-55頁. ).

(10) 神秘体験 と日常世界. と注意 を促 して もい る。 森岡正博 も,同 じく自分の体験 を振 り返 つて,「 修行 しな くたって神秘体 験 ぐらいで きる。信仰がな くて も神秘体験 ぐらいで きる。教祖や,師 匠や. ,. 霊的地位 の高 い人でな くっても,神 秘体験 はで きる。神秘体験 ったって,た かが,そ の くらいの もの なのだ」 (森 岡 1996:105頁 )と ,「 オウム」信者 に 頭 を冷やす よ う勧 めてい る。げんに,「 オウム」 の教 えによらない 自分 な り の修行 で も「神秘体験」 が得 られる ことを知 り,そ のことで「私 にとつての 「オウム」 は,反 面教師 となった」 (滝 本太郎 ・長岡辰也 1995:115頁 )と い う元信者 もい る。 そ うはいっても,信 者がその神秘体験 を教団の教えや指導者 の人格 と切 り 離 して考えるなどとい うことが,そ う簡単 に可能 だとも思 えない。 とい うの は,ひ とは,体 験 だけに 自足す る ことは むずか しく,そ の上 さらに,そ の 「意味」 を求 めて しまうものだか らである。体験 とは,つ まるところ体験者 個人の体験 である。その点では,他 者が何 といお うとその事実 を自分で確信 す ることもで きよう. (実. は,こ れ もかな りあや しい)。 しか しなが ら,そ の. 説明 ない し意味 づ けを,自 分 ひとりだけで引 き受 ける ことは荷 が重 い。「不 思議」 な体験 であればあるほど,そ の意味づ け (説 明)が 欲 しいの に,定 義 上,そ れを得 ることは難 しい。 体験 には,そ れが強烈であればあ るほど,そ こに自足す ることが困難 だと い う,逆 説があるように思 える。 ましてや,そ れが恐怖 や苦痛の体験である 場合 は,な お さらであろう。修行や儀式 で身体拘束や薬物 が多用 されるとと もに,「 ハ ルマゲ ドン」 (最 終戦争)の 教 えが強調 された後期 の「オウム」 の 場合,い わゆる「独房修行」 や 「イニ シエー シ ヨン」 での恐怖 の神秘体験 が,カ ルマや終末や最後 の審判 とい う恐怖 の説明で意味 づ け られる ことの 「真実味」 と「凄味」 は,想 像 にかた くない。神秘体験 の (少 な くとも今 日 的な)問 題 の核心 は,体 験その もの よ りも,そ れについての人びとの 「意味 づ け」 にこそある とい える。 それにして も,な ぜ ,い ま「神秘体験」 なのであろうか。.

(11) 芦. 田 徹. 郎. なぜ ,い ま神秘体験 なのか. (1)合 理化の果ての非合理 「オウム」教 団 とその信者へ の驚 きのひ とつ には,合 理化が進 んだ現代社 会 において,神 秘体験や超能力な ど「非合理的なもの」 が,な ぜ これほどま でに人の心 をとらえたのか とい う不審があ る。近代化 とは,神 秘や呪術 など を,無 知 ・無学 による錯誤 ・幻想や迷信 ・迷蒙の産物 として排除す る「合理 申秘的」 申秘主義」お よび 「ネ 化」 の過程 ではなか ったのか。 だか らこそ「「ネ とい う語 は, しば しば,私 たちがはっきりしない,茫 漠 とした,感 傷的 な. ,. 事実的 にも論理的 にも根拠 がない, と見なす ような意見 に投げかける単 なる 非難 のための用語 として使 われ」 (ジ ェイムズ 19ol_19o2:下 183頁 )て き たはずなのだ。 ところが,実 は,合 理化が非情 にも貫徹す るこの現代社会 こそ,非 合理的 なものの復興 と復権 の温床 なのだと考 えうる根拠がある。マ ックス・ ウェー バ ー (Weber,M。 )は ,「 呪術 の 園か らの解放」 とい う合理化 の過程 を,近 代社会 に不可避 の宿命 と考 えた。それは,計 算 も予測 もおぼつかない神秘的 な力へ の依存 か らの脱却 を意味 してい る。 ところが,「 精ネ 申のない専門人. ,. ヾ ′ 「最後 の者 たち」へ の憂鬱 な予感 亡 1青 のない享楽人」とい う. (ウ. ェーバー 1904. -1905)に 象徴 されるように,合 理化 の行 き着 く果 ての非合理へ の反転 の可 能性 に気づいていたふ しがある。 合理化 を際限 もな く推 し進 める近代社会 とは, と りもなお さず,非 合理 な ほどに非合理 を排除す る社会であ り,非 合理 なまでに合理化が進展す る社会 なのか もしれない。現代 の社会 一文化状況 についても積極的 に発言 してい る 解剖学者 ・養老孟司 は,昨 今 の「社会現象」 としての臨死体験 の流行 を論 じ て,「 その理由ははっ きりしてい る」 と断言す る。すなわち,「 予測不能,管 理不能」 なもの. (つ. まり「非合理」 と言 い換 えてよかろう)を 排除す る現代. 社会 の在 り方その ものが,「 ネ 申秘」へ の好奇心 をか きたててい るとい うので.

(12) 72. 神秘体験 と日常世界. ある。 自然の 中か ら発生 し,自 然の一部 である人間には, もともと,予 測 ― 管理不能 な「 自然」 に対す る強 い好奇心があ って,そ れ は ひ との「1生 向」 (こ. れ こそ「合理的」 ではないか)で ある。にもかかわ らず,社 会がそれ を. 排除す るのであれば,そ の好奇心 は人間の持 つ「神秘」 に向かわざるをえな い, とい うわけである。 (養 老 1992:80頁. ). か くして,神 秘体験 を引 き起 こす手順は必ず しも神秘的でない,と い う宮 台真司のひそみにならえば,現 代人の非合理的なものへ の強 い好奇心や知的 欲求 は,け っ して非合理的ではない ともいえる。森岡正博 も,「 この世界 を 動 か してい る未知の力や法則 についてはっき りと知 りたい」 とい う「知的欲 求」 を,自 らが神秘体験 や超能力な どに興味 をもち続けた第一の理由にあげ てい る。神秘体験や超能力 にひかれてい く人間 は,「 ネ 申秘 の前 で知性 を失 っ たのではな く,逆 に,神 秘 をとことん探求 したい とい う知性 と欲求 にと りつ かれてい るのである」 と。 (森 岡 1996:74-75頁. ). (2)「 生」の確証 を求めて. しか し,こ こで問題 は,神 秘体験 など「非合理」的なものへ の関心が,た んなる知的探求心 の レベ ルには とどまらないこ とにある。「オウム」信者 な どの手記 を読 む と,た だの知的好奇心 とい うよ り,「 生 きてい る」 ことの確 かな「あか し」 もしくは「 じる し」 を求 めたい とい う,痛 烈な実践的ない し は実存的な欲求が伝 わって くる。森岡 も,「 ネ 申秘体験や超能力 をほ しい と思 った もうひとつ の理由は,当 時私 が置 かれてい た 閉塞 した状況 を突 き破 っ て,自 分 自身の あ り方 を変 えてみたか ったのである」 (森 岡 1996:75頁 ,傍 点 は引用者)と 振 り返 つている。 一般 に,近 代欧米 のキ リス ト教文化圏 における知的伝統 では,「 宗教 とは 人 を彼の存在の窮極的条件 に関係 づ ける象徴的 な形態 と行為 である」 (ベ ラ ー :51頁 )と い うロバー ト・N・ ベ ラー (Bellah,Ro N.)の 定義 に代表 され るように,宗 教 を「究極的関心」 において理解 しようとする傾向が強 い。 こ れは,宗 教 に「生」へ の究極的意味 づ けの機能 を求 める立場 といって もよ.

(13) 芦. 田. 徹. 郎. い。宗教 は,人 が生 きることと死 ぬ ことの最終的な意味 を提示 し,人 びとに は,そ こに示 された理想や規範 を模範 として,魂 の永遠 の救済 に向けて 自己 の生活 を律 してい くことが期待 されてい るのである。 他方,近 代 日本 の新宗教的伝統では,貧 困や病気や不和 など現実的問題 の 解決 をこの世において求める「現世利益」志向が強 い といわれてお り,新 宗 教へ の入信動機 としては, しば しば生活上の剥奪体験 をもとにした「貧 ・病 0争 」 とい う定式 が用 い られて きた。 いわば,宗 教生活 にお い て も,「 生の 意味 の探求」 よ り「生の手段 の確保」 に相対的な優位があ るわけである。 ところが,昨 今 のい くつかの新宗教 に顕著 な「非合理」へ の傾斜 は,そ の いずれで もな く,む しろ,神 秘体験や超能力 など,有 無 を言 わさぬ生 身の身 体感覚 をその時その場 で直接的 に享受す るとい う,「 生の事実 の確認」 にウ エ イ トがかかってい るように思 える。言 い換 えれば,近 代西欧の宗教的伝統 が「理念 (倫 理)」 を重視 し,近 代 日本 のそれが 「生活. (御 利益 )」. 置 い て きた とすれ ば,現 代 の新 らしい宗教潮流 では「身体. に力点 を. (実 感 )」. の強調. がい ち じるしいのである。 「オウム」 における身体へ の こだわ りについ ては,す でに多 くの論者が言 及す るところで ある。「 とか く抽象的な理念や道徳観 に終始 しがちな宗教団 体 のなかにあ って,オ ウムは言葉 による説明 を必 要 としない,身 体 で実感 で きる圧伊l的 な説得力 を もってい た。 これは僕 に とって驚 きだ った」 (高 橋 1996:235頁 )と い う,あ る脱会信者 の述懐 もこの傾向へ のひ とつ の証言 に なっている。 神秘体験 において身体的実感 が強調 されるのは,通 常 は気づ かれずに自己 の身体性 に内在 してい る霊的な力ない しはエ ネルギーが活性化す ることで. ,. 超越的な宇宙意識や絶対的な神的存在 との直接交流が可能になると考 えられ るためである。そ こには,そ もそ も「身体」や「身体性」 とは何 か とい うや っかい な問題が残 るが,そ れは ともか く,「 体験」 や「実感」 が重視 される 背景 には,社 会生活 の合理化 と管理化が進 むことで,い っけん平和 で安定 し てい るけれ ども,そ の実,退 屈や無力感や孤独 の影が差 し込 み,い まひとつ.

(14) 74. 神秘体験 と日常世界. 生 きて い る手 ごた え を得 に くい ,日 常 性. (日. 常 的社 会秩 序 お よび 日常 的 自. 己 )の 「 閉塞 した状況」 か らの 脱 出 ない しは超越 の願望 が あ る ことは,ま ず 間違 い ない とい って よい。. (3)神 秘志向の開放性 と内閉性 ヽ 亡 ここで面 白いのは,神 秘体験 が しば しば 「開かれた′ 」 と結 びつ けて語 ら れる ことである。神秘学者 ・高橋巖 によれば,太 古 の人類 は「魂が外 に向か って も内に向か って も,現 代人の及 びもつかぬ くらい に開かれていたので. ,. それ によって現代人 よ りもはるかに,神 に近 い ところで生 きる ことがで き た」 (岩 波講座 1992:140頁 )の だ とい う。典型的 な現代 人. (あ. るいは「未. 来人」 の先がけ ?)の はずである宇宙飛行士 のひと りも,自 分 の神秘的宇宙 体験 にふれて,あ る体験が有意味 になるか無意味 に終 わるかは,心 が開かれ ているか どうかだと強調 している. (立 花. 1893:318頁 )。. 心が 開かれていてこそ神秘体験 は可能だ とい う立場 とは逆 に,体 験 こそが 心 を開 く契機 にな りうるとい う見方 もある。鎌 田東 二は,「 宗教 が宗教 の独 宗教的〕体験 であ」 ると指摘 した 善性 を抜け出てい くときの道のひとつが 〔 た後 ,「 体験 とい うものは,閉 じられるものではな くて, どん どん開かれて い く創 発 的契 機 に な って い く」 と強 調 して い る. (鎌. 田他 1993:110-lH. 申秘主義 は もともと教会 の権威や ドグマ を憎み,教 団の 頁)。 この見解 は,「 本 規範や祭儀 の形式 を否定す る傾向があ った」 (山 折 1989:52頁 )と い う山折 哲雄 の認識 と一致 している。 しか しなが ら,今 日的な神秘体験 にまつ わる最大の問題 は,そ こに到達 し うる資質 としてであれ,そ こに至 った結果 としてであれ,「 開かれた心」 と い う仮説 もしくは期待 に重大な疑間 を呈する余地がある とい う点である。世 界 の トラ ンス文化 に詳 しい文化 人類学者 の上 田紀行 は,伝 統的な ドラ ッグ (薬 物使用)文 化 を紹介 した後 で,現 代 の. ドラッグによる トラ ンス. 神秘体験状態 )の 「不幸」 について注意 を促 している 258頁. )。. (岩 波講座. (一 種 の. 1992:255-.

(15) 芦. 田. 徹. 75. 良Б. 上田によれば,伝 統的社会の トラ ンスのほとんどが幸福 な「 グッド・ トリ ップ」 であ るのに対 し,現 代 の トランスは,悲 惨 な「バ ッド・ トリップ」 に なる恐れが強い。伝統的な トラ ンスは,聖 なる. (集. 団的)儀 式 の中で起 きる. とともに,神 話的 コスモ ロジーによって支 えられていた。 ところが,現 代 の トラ ンスは,人 間関係的 にもコスモロジカルに も孤独 なままの体験 を余儀 な くされがちであ る。それゆえ,多 くの場合 , 日常 を超出 した魂は,癒 しもイ ニ シエー ションもな く「あて どな く異界 をさまよう」 のだとい う。 こ うして,上 田は,「 現代 の ドラッグにまつ わる問題 の核心 は, ドラッグ それ自体 よ りも,つ なが りの喪失 ,神 話的 コスモロジーの喪失 に こそある」 と結論づ けてい る。 こう した トランスの危険性 は,た んに ドラッグ体験だけ でな く,い わゆる神秘体験全体 に当 てはまるはずである。「つ なが り」 を喪 ヽ 亡 失 した神秘体験 には,「 開かれた′ 」へ の期待 にもかかわ らず,む しろ「閉 じられた心」 を連想 させるものがある。 いわゆる未開社会の宗教生活の分析 をとお して,宗 教 の基本形態 の解明 を 目指 したデュルケームは,宗 教 の集団的 ない しは共同的な性質をもっとも強 調 した論者 のひと りである。かれは,儀 礼 =祝 祭 における異常 な興奮 と熱狂 (集 団的沸騰 )を. 人び とが共通 に体験す ることで,社 会生活の道徳的基盤で. あ る宗教 的観 念 が 共有 され る こ とを論 証 しよ う と した (デ ユ ル ケ ー ム 1912)。. しか し,他 方 では,「 つ なが り」 (des liens)が 失 われ,儀 礼 や体験. や観念が共有 されに くい近代社会にあ って,孤 独 と不安 に悩 み,あ るいは放 縦 と焦燥 にさい なまれる人び との姿 も,「 エ ゴイスム」 (6golsme)と 「アノ ミー」 (anomic)と い う独 自の概念 で,は っ きりととらえてい た (デ ュル ケ ーム 1897)。 親密な人間関係 と共有 された世界観 とを欠 く現代 の神秘体験 は,い わば神 秘体験 の「私化」 (privatization)と して とらえる こ とが で きよう。「私 化」 とは,人 びとの生活 に占める「私 ごと」 の領域が拡大. (も. しくは優先)す る. 傾向をい う。その背景 としては,さ まざまな要因を考 える ことがで きるが 要す るに,個 人の「精神 の 自律」 と「生活 の 自立」 とが実現 した. (よ. ,. うに思.

(16) 76. 神秘体験 と日常世界. われ る)現 代社会 の現況 が あ る。 つ ま り,だ れの指 図 も受 けず ,だ れの世 話 に もな らない生 きかたが可能であ り,ま た望 ま しい, とい う (お そ ら く)幻 想 を背景 に して い るのであ る。 宗教 も,デ ュル ケ ームが 考 える よ うな社会や共 同体 の 問題 とい う よ り,一 人 ひ と りの個 人 の心 の 内面 の 問題 で ,ひ との迷 惑 にな らな い か ぎ り,外 か ら 他 人が (か ら)と やか く口 ば しをは さむ (は さまれ る)こ とが らではない と い うほ うが ,今 で は納得 されやす い。 つ ま り,現 代 の 宗教 も,私 化 の傾 向 を 強 め つつ あ るのであ る。 他 方 で ,神 秘 的 な「 身体感 覚 (実 感 )」 を強調す る新 ら しい 宗教 潮 流 も. ,. やは り,精 神 の 自律 と生 活 の 自立 とい う現実 (幻 想 ?)を 背景 に して い る と い って よい。 つ ま り,欧 米 キ リス ト教流 の 厳 格 な 「理 念 (倫 理 )」 は,う っ とお しい「説教」 と して しりぞ け られ ,近 代 日本 の新宗教風 の 「生活 (御 不U. 益 )」 志向 も,「 ゆたかな社会」 のなかで「間 に合 って ます」 とばか り,か つ ての ような吸引力 を失 っている。後 に残 った宗教 の魅力 は,結 局 「宗教 の始 原 であ り,ま た究極である」神秘体験 とい うことになるのであろ う。 この よ うに,宗 教 の私化 と神秘体験志 向 とは,「 ドグマ か らの解放」 と 「貧困か らの解放」 とい う同 じ時代的背景 を共有 してい ると,考 える ことが で きるのである。島薗進 も,宗 教 の「個人化」 (=私 化)と 宗教 「体験」 の 強調 との 関連 に注意 を促 してい る. (鎌. 田他 1993,104頁. )。. こ う して,現 代. の神秘体験 は,「 私 たちの体験」へ と広が るよりは,「 私 だけの体験」 に閉 じ こもりがちである。. (4. 神秘体験 のアノミー化 とエゴイスム化. しか し,私 化 と神秘体験志向 との結 びつ きは複雑 である。 とい うの も,私 化 と歩調 を合 わせるかのように神秘志向 も進展する反面,私 化 した現代 の神 秘体験 は,デ ュルケームのい うところの「アノミー」 や「エゴイスム」 に陥 、 の癒 しや共同性の回復 を るおそれがあるか らである。そのため, さらなる″ 亡 求めて,神 秘体験 は個人 =「 私」 の なかで自足することが難 しくなろう。.

(17) 芦. 田 徹. 貞F. ここで神秘体験 のアノミー化 といってい るのは,他 者 とのつ なが りの希薄 化や共有 された世界観 の欠如 の なかで,自 らの神秘体験 に満足 で きぬ まま. ,. 多種多様 な神秘体験 にむやみ と身 を委ねようとする「中毒化」 の傾向のこと を指 してい る。宗教的経験 に詳 しい精神科医の高橋紳吾 は,神 秘体験 の「快 感」 か ら逃れ られな くなった人びとを「神秘体験おた く」 とよんでい る (大 泉 1996:76頁. )。. 現代社会 では,「 ネ 申秘体験おた く」 をターゲ ッ トに して,す でに「神秘体 験市場」や「オカル ト・マーケ ッ ト」 とで もよべ るものが成立 してい る。 「オウム」 におい て も,い くつ かの段階の神秘体験 (修 行 )コ ースが設け ら れていて,そ れぞれの コース に応 じて「お布施」 の額が定 め られていたが. ,. これ もこの教団 に特有 の もので ない。情報文化 に詳 しい西垣通 は,コ ンピュ ー タによる環境 シ ミュレーションと してのヴアーチャル・ リアリテイを論 じ て,「「幻像 のダイナ ミックス」 と「資本主義 のダイナ ミックス」 とい う二つ を統合す る社会的装置 として,「 聖なるヴァーチャル身体」 が光臨す る」 (西 垣 1995:96頁. )可 能性 を指摘 してい る。. こうした「神秘体験 の商品化」 は,神 秘体験が いっけん日常性か らの解放 のようにみえなが ら,実 際 には,情 報 ―管理社会的な日常的秩序へ の身体性 の回収 と再収奪 の過程 であるおそれが強 い。西垣 も,ヴ ァーチャル・ リアリ テ イの近 い将来 を「 コンピュー タの環境 シミュレーシ ョンによって,身 体性 が 「復権」す るとい うのは正確 ではない。 む しろ身体性 は仮装環境. (シ. ミュ. ラー クル)の なかに「回収」 されてい くのであ る」 (西 垣 1995:97頁 )と 予 測 してい る。 他方,神 秘体験 のエゴイスム化 とよんだものは,同 じくつ なが りや コスモ ロジーの喪失状況 にあって,神 秘体験 の個人的な実感 はあ って も,そ れにど う対処 していいのか分 か らぬ まま,孤 独 な体験 をかかえて不安 にか られてい るような状態 のことである。「ネ 申秘体験者」 たちは,「 否定 しようのない確 か な体感」 などといいつつ,自 分 ひとりではその異常 な体験 をどう理解 してい いのか とまどう。私化 された神秘体験 は,直 接的実感 とい うことではこれほ.

(18) 78. 神秘体験 と日常世界. ど確 か な もの は な い よ うにみ えて も,「 私」 だけの 体験 とい う こ とで は ,実 に頼 りな くお ぼつ か ない もの なので あ る。 こ う した神秘体験 の孤絶 と不安 か ら逃 れ るため , しば しば,体 験 の事 実 と そ の 意味 の確 認 を求 め て ,自 らの 神 秘体 験 の 他 者 へ の 譲渡 が行 なわれ る。 「 オウム」 にお け る信 者 た ちの 全 能者 とみ えた教祖 へ の 絶対 的服従 は ,ま さ しくこれであ った。「 グル」 (霊 的指導者 )か ら個別 に神秘体験 を与 え られた 信者 たちは,そ の 意味 づ け をグルに全面 的 に委 ね るこ とで ,自 らの体験 を再 譲 渡 す る。 い わ ば,こ こには,合 理 化 の 果 ての 非 合理 へ の 反転 に も似 た. ,. 「私化」 の 果 ての「私」 の 譲渡 と喪失 とい う,皮 肉 な「無私 化」 が み られ る ので あ る。 「 オウム」信者 たちの体験談 には ,修 行 や儀式 による 自分 の 身体 的 リア リ テ イの 変化 に対 す る素朴 な驚 きや悦 びが 数 多 く見 られ る。「 しか し,そ れ ら はす べ て麻原教祖 か ら与 え られた体験 ,あ るいは彼がす で に意味付 けて い た ものの追体験 として理 解 されてお り,彼 へ の絶対 的帰依 を本 人が確認す るた めの 道具 と しての役割 しか呆 た して い な い」 (救 済 ネ ッ トワ ー ク 1995:92頁 ) とい う指摘 は ,お お むね妥 当 であ る。 ここに見 られ るは,神 秘体験 の超神秘化 とで もよべ る傾 向 である。 とい う のは ,神 秘体験 が神秘体験 と して享受 され るだけで な く,修 行 や儀式 とい う 神秘体験 にい たるプ ロセス も神秘化 され ,ひ い てはそ う したプ ロセス をへ て 神秘体験 に導 い て くれ る指導者 の神秘化 =神 格化 がみ られ るか らであ る。人 格 の神格化 が進 めば,狭 義 の神秘体験 に限 らず ,お よそ教祖 の言動 とそれ に 関連す る経験 はす べ て神秘性 を帯 び,批 判 や反省 の余 地が全 くない絶対 的 な 真理 ・真実 となるであ ろ う。 そ して ,そ れだけ,神 秘体験 を共有 しない外 の 世界 との つ なが りは小 さ くな り,内 閉化が い っそ う進 む こ とになる。. (5)神 秘体験 の権威 私化 された神秘体験 には無視 で きない危 うさが は らまれて い る。 だか らと い って, もはや ,か つ て共有 された コス モ ロ ジー に戻 るこ とはで きない し. ,.

(19) 芦. 田 徹. 79. 郎. また戻 るべ きで もなかろう。上田紀行 は,伝 統社会での ドラッグ体験や トラ ンスが,神 話的 コスモ ロジーの共有 とい う安全 な場 において起 こっていたが ゆえに,癒 しや深 い共同体 のつ なが りを可能 にした ことを認 めつつ も,近 代 の個人主義的 な理念か らすれば,そ れが 「ひと りひと りに内化 された全体主 義的な暴力装置 ともな り得 る」ことに警告 を発 してい る. (岩 波講座. 1992:256. -257頁 )。 「オウム」 での神秘体験 とその意味 づ け は,ま さしく「内化 され た全体主義的な暴力装置」 の発動 であ った。安易 な共同体 の回復や神話的 コ スモロジーヘ のノス タルジアは,「 オウム」的 な暴発 を再生産す る「 自由か らの逃走」 (E.フ ロム)を 促す ことにな りかねないのである。 それでは,私 たちは「神秘体験」 とどう向 きあえばよいのであろうか。そ れを自分 の内倶1で 実際 に体験 した とい う立場 と,外 側 か らその体験 なるもの を聞か される側 とでは,こ の特殊 な体験 に対するまなざしに大 きな離婦があ る。神秘体験 が昨今 の流行 りだとはいって も,そ の外側 にい る多数派の視線 は,冷 やかであるか,む しろそ もそ もま ともに取 りあ わないのが普通であ る。 しか し,そ れでは,現 実 か らあえて目をそ らす もの といわ ざるをえない であろう。 森岡正博 も,「 オウム」事件 をめ ぐる議論 では,「 超能力や神秘体験 の問題 を回避 してい くような風潮」 がある ことに疑間 を呈 し,「 それ は我 々 自身の 内部 に潜 んでい る「超能力が欲 しい」「ネ 申秘体験 をしたい」「1吾 りを得 たい」 とい う願望 の存在 に,日 を閉ざして しまうことにつ ながる」 (森 岡 1996:72-. 73頁 )と い ま しめて い る。そ れは,宮 台真司 の よ うに「終 わ らない 日常」 を「 まった りと生 きる」 ことを勧 めた り,あ る弁護士 が「オウム」信者 に向 かって繰 り返 した よ うに,「 こち らへ 戻 つてい らっ しゃい」 とい うだけで は,問 題 の核心 に迫 りきれないこ とも示唆 してい る。 しか し,「 神秘」へ の希求 やその体験 の「真実性」 を否定す る必要 はない にして も,逆 に,神 秘体験 の特権化 も避 け るべ きであろう。「ネ 申秘体験 の な い ものに神秘体験 を語 る資格 はない」 として,日 常世界 の側か らの批判 に窓 を閉ざす尊大な態度 に出会 うことは まれではない。 しか し,そ れではかえつ.

(20) 80. 神秘体験 と日常世界. て,少 な くとも今 日的な,神 秘体験 のあるべ き位置 を見誤 るおそれがある。 これは,神 秘 の体験者 のみならず,そ れを研究す る者 にも当てはまることが らである。 オ ッ トーは,「 自分 の青春感情 や,不 消化 の不快 さや,社 会感情 は考 える ことはで きて も,独 自な宗教感情 を考 え得 ない人には,宗 教研究 は困難だ」 (オ. ッ トー 1917:18頁 )と 断 じる。 た しかに,一 理あるとは思 う。 しか し ,. 「私 自身の性質 として,神 秘 な状態 を享楽す ることが私 には全然 で きない と い っていい」 (ジ ェ イ ムズ 19ol_19o2:下 182頁 )と 告 白す るジ ェ イ ムズ は,そ れにもかかわらず,宗 教的経験 の諸相 に関す る貴重な業績 を残す こと がで きたのである。 ジェ イムズは,「 ネ 申秘状態 は,そ れが十分 に発達 した場合 には,普 通 ,そ の状態になった個人 に対 しては絶対的に権威 をもち,そ して権威 をもつ権利 がある」 と認 めつつ も,「 ネ 申秘的状態 の啓示 を,そ の局外者 に対 して,無 批 判的 に受け入れることを義務づ けるような権威 は,そ こか らはけっ してでて こない」 (ジ ェ イムズ 19ol_19o2:下 249頁 )と 釘 を差 して もい る。 この均 衡 の とれた姿勢 に,生 活者 として も研究者 として も,私 は共感 を覚 える。 密教学者 の松長有慶 によれば,「 ネ 申秘主義的な宗教 は,自 己 と絶対的な存 在 との一体化 を目ざすのであ るか ら,そ こでは一切 の社会的規範 は,か えっ て束縛 とな」 るわけで,そ のため「脱社会 を願 う行者 には,反 倫理的,反 社 会的な行為 はすべ て許 される」 だけでな く,「 かえって社会的な タブーを犯 す ことによって,自 己の絶対的な自由を確保 しようとする」傾向 さえあると い う (松 長 :26-27頁 )。 しか し, 日常か らの超越 を標榜する神秘体験 (者 )と い えども,必 ず どこ かで 日常的秩序に依存 してい る。要す るに,カ ス ミを食 っているだけで は絶 対 に神秘体験 (者 )も あ りえない, と断言 で きるのである。そ して,少 な く ともその限 りでは,そ れな りに日常生活 (者 )か らの検証 を受けて しかるべ きであろう。それは,神 秘体験. (者. つの手がか りになるはずであ る。. )の 側 にも,そ の質 を自ら見極 めるひと.

(21) 芦. 田 徹. 郎. 「オウム」 の場合 では,早 くか ら外部 の人たちの不安 を煽 つた り神経 を逆 なで した りす る発言や態度が 目立 った。 日常世界 の側 か らの反発は,必 ず し もすべ て的を射 た ものではなか つたか もしれない。けれ ど,そ の素朴 な怒 り や困惑 を素直 に受け とめ,自 らを顧 みる謙虚 さがあれば,神 秘体験者 を含 め た信者 たちにも,自 らの宗教性 の質 を問いただすチャンスは十分 にあつたは ずなのである。. (6)神 秘体験 と日常世界 加 えて,神 秘体験 には,そ の世界か ら日常世界へ の帰還 のルー トを確保 し てお くことも必要であ ろ う。神秘体験 の ない 日常生活へ の閉 じこ もりは,た しかにツマ ラナイか も知れない。 しか し, 日常生活 と断絶 した神秘的世界ヘ の閉 じこ もりはアブナイ ことを,知 っておいた方がいい。 日常か ら離脱 で き ない「神秘体験」 はその名 に値 しないか もしれないが,日 常 に帰還 で きない 神秘体験 は,い わゆる「魔境」 に迷 いこむおそれがある。 「精神世界」 に詳 しい鎌 田東二は,神 的な もの との出会 いが魔的なものの 体験 で もあるとい う両義性 を再確認 した後で,「 魔 を脱色 し,抜 け出す力が なければ,ほ んとに人間とい うものはもろ く,そ うい う力 と意志 に従属 して しまった り,埋 没 して しまった りす る」 (鎌 田他 1993:136頁 )と 警告 して い る。同 じく吉福伸逸 も,「 ネ 申秘体験 とか宗教体験 で大切 なのは,そ れをど うや って咀噛 して,ど うや って 自己のひとつの側面 として日常 の なかに持 ち 込んで くるか とい うこと」 (鎌 田他 1993:116頁. )だ と強調 してい る。. ここで示唆 されてい るのは,神 秘体験 に身 をゆだねて しまうことでは な く,そ の体験 か らふたたび身 を離 して,日 常性 の なかに再統合す ることの重 要性 である。それは,一 部 にみ られる神秘体験 の商品化 の ように,一 方的 に 日常的秩序 の なかに回収 され,従 属 させ られる ことを意味 しない。西 垣通 は,ヴ ァーチャル ・ リアリテイ体験者が 日常 の「リアル」 な世界 に戻るとき には,「 む しろ「 リアル」 を「ヴァーチ ャル」 のほ うに近づ けて とらえ直す べ きではないのか」 とい う,ケ オーの主張 を紹介 してい る. (西 垣. 1995:125-.

(22) 神秘体験 と日常世界. 126頁 )。 宇宙飛行士 たちが地球 と日常生活 を離 れて再確認 した ことのひとつ も,地 球が存在 し生命 (生 活)の 営 みがあるとい う,地 上にいては当た り前 のこと が らが 「神秘」 だ とい う驚 きである。飛行士 のひと りは,宇 宙 から地球 を眺 めると,「 ネ 申の恩寵 な しには我 々の存在その ものがあ りえない とい うことが 疑間 の余地 な くわか るのだ」 (立 花 1893:120頁 )と 語 ってい る。「あ の世」 を (半 ば)経 験す ることで,か えって「この世」 を前向 きに生 きるようにな つたとい う臨死体験者 も多 い。神秘体験 は, 日常生活 を見直 し,そ れを再構 築す る契機 にな りうるのである。 神秘体験 のあるべ き位置 は,お そらく,そ の商品化 のような「 日常化」 で もな く,「 オウム」 にみ られた ような「超神秘化」 で もな く,た んなる脳 の プロセス に過 ぎない といった「脱神秘化」 で もないであろ う。神秘体験 と日 常世界 のそれぞれに独 自の境位 と,相 互にチ ェックしあ う権利 を認 めあった うえで,両 者 のあいだを自在 に往還する方途 をさぐる必 要があ る。 地球 を飛 び出 した宇宙飛行士 にとってほかならぬ地球 と生命 の存在が神秘 であ ったように,神 秘体験 のあ るべ き位置 は,何 気ない 日常 の営みにこそ. ,. 神秘 が充ちてい ることに気づ くことなのか もしれない。それは,神 秘的なも の,不 思議 な体験 ,非 合理的な事象 にあえて 目をそむけ,あ るいは排除す る ことに懸命であった,近 ・現代社会の在 り方 を反省す ることにもなろ う。そ こか ら,ま た新たな日常 も開けるか もしれない。天空 と溶けあ うように広が る青 い海原 に向け,白 浜が長 く長 く伸 びる風景 を前 に して, しば し「ほ う」 とする折口信夫. (「. ほ うとする話」 1927,折 口 1975所 収)は ,あ るいは,そ. うした境地 にあったのではなかろうか。 引用・ 言及文献 ーバー ウェ ,M.1904-1905,大 塚 久雄 (訳 )1989『 プ ロテス タ ンテ ィズムの倫 理 と資本 主義の精神』岩波書店 (文 庫. ). オツ トー,R。 1917,山 谷省吾 (訳 )1968『 聖なるもの』岩波書店 (文 庫. ). ジェイムズ,w.19ol_1902,桝 田啓三郎 (訳 )1969-1970『 宗教的経験 の諸相.

(23) 芦. 田 徹. 郎. 上 ・下』岩波書店 (文 庫 ) デ ュルケーム,E。 1897,宮 島喬 (訳 )1985『 自殺論』中央公論社 (文 庫) デ ュルケーム,E。 1912,古 野清人 (訳 )1941-1942『 宗教生活 の原初形態. 上・. 下』岩波書店 (文 庫 ベ ラー,Ro N。 ,河 合秀和 (訳 )1973『 社会変革 と宗教倫理』未来社 岩波講座 1992『 宗教 と科学 3 科学時代 の神 々』岩波書店 ). 大泉実成 1996『 麻原彰晃 を信 じる人びと』洋泉社 大槻義彦 1993『 超能力 0霊 能力解明マニュアル』筑摩書房 折口信夫 1975『 折口信夫全集. 第二巻』中央公論社 (文 庫. ). 鎌田東二他 (島 薗進 ,島 田裕巳,吉 福伸逸 ,松 澤正博 ,岡 野守也)1993『 宗教 ・ 霊性 0意 識 の未来』春秋社 救 ,斉 ネッ トワー ク (オ ウム真理教信徒救 ,斉 ネッ トワー ク)1995『 マ イ ン ドコン ト ロールか らの解放』三一書房 高橋英利 1996『 オウムか らの帰還』草思社 滝本太郎 。長岡辰也 (編 )1995『 マ イ ン ド・コン トロールか ら逃れて 理教脱会者たちの体験 』恒友出版 立花 立花. 隆 1983『 宇宙か らの帰還』中央公論社 隆 1994『 臨死体験 上 ・下』文芸春秋社. 西垣. 通 1995『 聖 なるヴァーチャル ・ リアリテイ』岩波書店. 松長有慶 1991『 密教』岩波書店 (新 書. ). 滋 1979『 宗教心理学』東京大学出版会 宮台真司 1995『 終 わ りなき日常 を生 きろ』筑摩書房. 松本. 森岡正博 1996『 宗教 なき時代 を生 きるために』法蔵館 山折哲雄 1989『 神秘体験』講談社 (現 代新書 養老孟司 1992『 カ ミとヒ トの解剖学』法蔵館. ). オウム真.

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参照

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