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ローマの広域支配についてのノート : 吉村忠典教授業績と要約

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(1)145. ローマの広域支配についてのノート 一書相思典教授業績と要約-. 木. The. Achievements. 村. 英. of Professor. Yoshimura. on. the Foil.nding. Emplre. tbe Roman. Hidesuke. 亮. KIMURA. 本稿は本学部歴史学教室の吉村恩典教授の業績の一部を選び,内容を要約してみたもの である。氏は1953年5月に東京大学文学部より着任されて以来すでに35年間本学部で研究 ・教育にたずさぁってこられ,. 1990年春定年を迎えられる。私ほ1974年10月以来これまで. 14年間同じ歴史学教室でソ連現代史を中心として研究を行なってきたが,この間,著書や 抜刷をいただき,またご一緒に学生の卒業論文の審査などをするなかで,ローマ史につい てもいくらか知るようになった。. ディクタトゥーラ〔独裁〕といったラテン語の概念等についてたずねたこともあり,ソ 連邦という多民族国家の研究に,広大なローマ帝国の歴史を学ぶことから何かのヒントが 得られるのでほないかと考えたこともある。これまでほ断片的であったので,今回系統的 にまとめて読んでおきたいと思ったゆえんである。本来ならソ連史研究の立場から再構成 すべきであるが,力と時間の不足のため内容紹介にとどまった。ローマ史の研究状況・論. 争点等に不案内のため,誤解もあるかも知れない。 氏の論文は,無駄のないわかり易い文章によって,明確にされた基本的な概念の上に論. 理的に組み立てられており,史料を自在に使って裏付けられ説明されているので,他の解 釈がありうると思えない程説得的であり,歴史学の研究・記述の方法についても大きな示 唆を受けた.どの論文でも人間とローマの支配という大きい問題が考察されており,この. 意味で卒業論文で評価されたサルステイウス(氏の表記でほサルルステイウス)の方法が 貫かれているように思われる。 私の手許にある氏のおもな仕事ほ下記の通りで, 百科事典類は省いた。. ○印ほ本稿にとりあげたものであるo.

(2) 村. 木. 146. ○. Orakel,. 亮. 『史学雑誌』第59編第6号,. サルルステイウス小論, Italiscbe. 英. ≪La Nouvelle. Clio≫t.. 7-8-9,. 1950.6.20. No. 7-10,. 1957. 王政・共和政時代,ローマ文化,相川堅太郎編『世界史大系』第4巻ギリシアとロ 1959.9.30. ーマ,誠文堂新光社, 0. PoⅡ1peiusの1egio Annuario. 『西洋古典学研究』. del. vernaculaについて,. 《IstitutoGiapponese. di Cultura. No. 1,. Roma≫,. in. 1960.3.29. 8号,. Roma,. 1963. にドイツ語で再録. 地中海の制覇,動乱の一世紀,富永惣一・相川堅太郎編『図説世界文化史大系』第 6巻,ローマ,角川書店,. 1960.ll.30. 『古代ローマ散歩』,社会思想社, 0. 1961.9.30. 属州クリエソテーラと補助軍,太田秀通他編『古代史講座』. 1962.10.. 5,学生社,. 10. 0. 属州クリエソテーラと補助軍Ⅱ, Die. Auxiliartruppen. H2'storia,. 『古代史講座』 7,学生社, die. und. in. Provinzialklientel. 1963.3.10. der. Ⅹ, 1960の日本語版. 1963.7.20 訳.ウォールバンク『ローマ帝国衰亡史』,岩波書店, 『教養人の世界史』上,板倉勝正・三浦一郎と共著,社会思想社,. 訳.ポンペイウス, 筑摩書房,. 0. 1987.3.24,筑摩文庫『プルタルコス英雄伝』下に再録. 『世界歴史の旅・大帝国ローマ』,小学館, とローマ,. リーウィウスにおける外民族のprincipes 波書店,. 1969.2.10. 『古典古代の社会と思想』,岩. 1969.7.30 1969.9.18. ローマ元首政の起源,岩波講座『世界歴史』第2巻(古代),岩波書店, 1972.12.20 訳.ボールスドン『ローマ帝国』,平凡社, 1974.3.15. 訳.ビアンキ・バンディネルリ『ローマ美術』,新潮社, 訳.ビアンキ・バンディネルリ『古代末期の美術』,新潮社, 0. 1964.1.15. 『世界古典文学全集』第23巻,プルタルコス,相川堅太郎編,. 1966.10.31,. 永遠のローマ, 0. Republik,. r6mischen. 1974.9.15. 『古典古代における伝承と伝記』,岩波書店,. アンビオリクス,. 1975.2.26. 『歴史と地理』第245号,. ローマとギリシア世界一「自由」の名による支配関係-, 1976.2. 古代のローマ市域,呉茂一編『ローマとポンペイ』,講談社, 書評,弓削達「地中海世界とローマ帝国」, 0. 『支配の天才ローマ人』,三省堂, Zum vor. r6mischen Chr.. Journal. 『史学雑誌』第88編第2号,. 1979.2.20. 1981.7.30 in. Liberias-Begriff. American. 1978.4.10. of. der. Aussenpolitik. Ancient. Hz'story,. im. Vol.9,. Jahrhundert. zweiten. No.1,. 1984,. (発行は. 1988) ○. 編著. 『戦争の歴史2.ローマ人の戦争』,講談社,. 0. 条約締結国としてのメッサナ, ローマ時代のフランス,. 1985.9.20. 『古代ローマ法研究と歴史諸科学』,創文社,. 『ふらんす』, 1988.4を第1回として毎号掲載中. 1986.9.

(3) 147. ローマの広域支配についてのノート. サルルステイウス小論 氏の歴史観・歴史学観ほ,. 1950年24歳のとき『史学雑誌』に発表されたこの卒業論文に B. C. 86-. よってうかがわれる。ここにほローマの歴史家サルステイウス(Sallustius, 38?)の『カティリーナ戦記』. 『ユダルタ戦記』の分析を通じて,氏の見解が表明されてい. る。氏は1943年秋東大入学で45年にほ一時入隊, 第8号,. 47年に卒論に着手し(『歴史学教室通信』. 1984),戦中戦後の混乱のなかでこのような蓄積をもつ論文を完成されたのであ. 氏がサルステイウスを歴史家として高く評価する理由は,次の2点にまとめられるよ. るo. うに思矛っれる. 1.歴史記述を尭践活動として評価していること。 「タキトクスはローマゆえに苦しんだ。然しサルルステイウスはローマの為に闘った。 彼を歴史家たらしめたのは此の闘いであった。」 出しの部分には次の記述がある。. (61) -これほ論文の結びである。書き 「彼の作品と思想,思想と背景などが考えられる時,時. 代の党派,党派の時代なる事を思えば党派性を捨象しようとする態度は一見困難と思われ るかもしれないが,それほ必ずしも矛盾ではない。」 2.. (40). 2つの戦記を通して全ローマ史を論じていること。. 前2世紀後半コユリウスの第ニポニニ戦史がローマ最初の歴史モノグラフとして善かれ ているが,それが「或る全体からの部分の高揚でほなく,たかだか遊離であるに過ぎない と言う事,対象の選択に内的必然性がない」 (59),すなわち「外面的な波潤を描写した断 片が極めて多い」,また「歴史的な省察よりも文芸的な彫琢を事とした」のに対し,サル ステイウスは,この戦いの歴史的意義を論じているとする。 以下,ややくわしく紹介してみたい。. サルステイウスの思想の出発点は,. 『カティリーナ戦記』冒頭の次の主張である.. 「我々. の力のすべてほ精神と肉体とに存する。我々ほ精神(animus)の支配と肉体の従属をより 多く用いるo我々にとって,その-は神と相通ずるもの,他は獣と共通のものである。そ れ故に,肉体的な能力よりも天与の叡智(ingenium)を力として名誉を求め,かくて,人 生は短きものゆえ,出来る限り永き後の世までも名を残すことが正しいと思われる。何と なれば,富や外貌の名誉は移り易く且つ脆いものであるが,美徳(virtns)は輝かしく永 遠であると思われるからである。」. (41). インゲニウム(天与の叡智)という語が中心概念であるが,氏は両戦記全体からこの語 を集めて検討し,その概念を次の7点に整理する。 1.あらゆる人間に生まれつきそなわる普遍的なものである。 2.各個人が真の自己にかえる時にのみ到達しうる個人的な原理である.. を離れて冷静に己がnaturalis. 「凡ゆる執着. sapientiaを見凝めよ,と,これが彼の根本主菜であ. る。」 (42) 3.観想的なものではなく実践的なものである。 4.. naturaの完成態ほ品性(mos, ars)と呼ばれるo 5.理想的人物とほインゲニウムに即した品性を形成した者・インゲニウム人である.. 6.その反対の非インゲニウム人の条件は,慾情,怠惰,暗愚等である。.

(4) 148. 木. 英. 村. 亮. 7.理想的な行為とはインゲニウムに即した立派な行為である。. このような概念を前提として,まず『カティリーナ戦記』をみる。 この戦記の主人公カティリーナは非インゲニウム人の典型として措かれている。. 「カテ. ィリーナほ人を誘惑する事に於いても,誘惑した者を堕落させる事に於いても,堕落させ た者を陰謀に駆りたてる事に於いても,極めて巧妙な老として措かれている.更にほ放射 である事,仮面と偽善に長けている事,弁才が豊かである事,等もあげられている。一言 サピコ=l/ティア. で言えば彼には智慧が与えられている.智慧一然しそれは叡智ではない。」. (46-47). テーマは,カティリーナがその一味の老とともに醸し出した社会の危機の描写である。 『ユダルタ戦記』においても.措かれているのほユダルタ戦争であり,非インゲニウム ●. ●. 人によるローマの混乱・危槙がメテルルス,マリウスというインゲニウム人によって救わ れた事を述べたものである。 したがって両戦記からひき出されるのほサルステイウスの,ローマの状況に対する危機 感であるとし, 『カエサルに寄す』 2篇から,ローマの危機を述べた文を引く。すなわち, かつては「何びとの権勢も法を超える事なく,高貴な老は卑しい老を富や倣慢ならずして よき評判と強き行為によって凌駕した為にプレブスほ自由を享けていた。 --然し怠惰と 貧困とが彼等を徐々に土地から追い出し,任所の不定を強いた時,他人の財産を求める事, 自己の自由を国家と共に売物と考える事が始まった。かくて次第に,君臨者たり全種族の 号令着であった人民ほ類廃し,共同の支配権の代りに各人が個人的に自己の隷従を得た周 囲の人々について「如何に正しく穏和な人でも権力があれば悪を括く事が出来る,. -・-・権. 力ある老は邪まに事を図り,治下にある者に対しては悪虐であればある程,それだけ自分 が安全であると考える」と見,やがて市民は市民との闘い,諸王外民族の餌食となるであ ろうと述べる。 (55) 危機脱出の道はインゲニウム人による再建と協和(concordia)による平和の維持にある。 そのさいインゲニウム人としてカエサルに期待し,ポンペイウスほ幸運によって大をなし たが,. 「人ほ自己の運命の制作者」であり,カエサルほ美徳によって運命の女神を克服し. て指導者とならなければならないとしていると説く。 属州クリエンテーラと補助軍. 1961年西ドイツHl'sioriaに発表され,. 61. ・. 62年に『古代史講座』に訳哉された属州ク. リエソテーラ補助軍の分析ほ,氏のローマ史論の出発点をなしているように思われる。 ローマの軍隊ほ,ローマ有産市民によって形成される正規軍団(1egiones)とイタリア. の同盟諸市から出される補助軍団(a】ae)とからなっていたが,イタリア農民層の没落, 人口の減少によって兵員が不足してくると兵役に要求される財産資格がしだいに引き下げ られ,マリウスのときにはついに,プロレタリイ(ローマ市民のうち,ある常に達する財 産を持たない貧民)が軍団兵として使われるに至るoプロレタリイは.退役後の生活の安 定のため土地などを得ようとして将軍をパトロンとLて解く小ようになり,軍事的クリエソ チ-ラ(保護関係)が生まれた。兵員の不足ほまた,属州および国外の住民が提供する補 助軍によっても補われるようになった。.

(5) 149. ローマの広域支配についてのノート. こうして同盟市戦争時代イタリア市民権が普及すると,ローマ軍は,市民兵の正規軍団 と属州民や国外民の補助軍とから構成されることになり,補助軍の騎兵部隊をalae,歩兵 部隊をcohortes. と呼ぶようになった。. 補助軍は,. 細. 物質的利益を目当てとして傭兵となったもの 将軍の法的根拠をもつ命令権(imperium)によって多少とも強制的に集められた. ㈲. もの. (c)法律外的(extra-legal)かつ私的な関係(gratia, ためにはせ参じたもの,の3種に分けられるo. auctoritas)から将軍を援助する (236). ここで氏が問題とするのほ1c)のカテゴリーであるo. たとえばポンペイウスは,ガラティアのデーヨタールスをほじめ国内国外の諸王侯から 「友邦」と 提供された多くの補助軍をもっていた。これらの諸王鍔は,ローマの「盟邦」 称せられるにしても,ローマと軍事条約をもっていたとは限らず,ポンペイウスに対する 個人的な「恩顧」 (gratia)関係と「権威」 (auctoritas)とによって軍事援助を与えたので ある。このことから氏ほ,正規軍団ばかりでなく補助軍が皇帝のクリエソテーラとして持. つ意味に注目しなければならないとする。そのさい,軍隊が国家を対外的に存立させるた めにあったことは別としても,皇帝と異民族軍事力との関係を問題にすること,つまり前. 述のクリエソテーラの関係をあきらかにすることが,ローマの多民族支配を解明するため に必要だとするのである。 この問題提起を氏のことばによって示しておきたい。. 「さて共和時代におけるこれらの軍制上の発展に対して,われわれほ他方帝政時代にお いて皇帝が全軍隊のパトロンであり,そのことが共和末期におけるクリエソテーラとして の軍隊のあり方の必然的な帰結であった事を知っている。皇帝たちほ軍隊を『朕の兵士』 ●. ●. ●. ●. ●. とさえ呼んだ。しかし従来の研究者は皇帝のクリエソテーラとしてめ軍隊を,市民の問に ●. ●. ●. おける皇帝権の支柱としてのみ問題とし,およそ帝国の国防を担うための-したがって 国家の対外的存立そのものを維持するための一軍隊が,何ゆえに皇帝のクリエソテーラ 下に独占されなければならなかったか,という事は問わなかった。しかもその際,. 『帝権. の支柱』としての軍隊のうちでも正規軍団ばかりが関心の対象となり,補助軍が皇帝のク リエソテーラとして持つ意味には観察の目が向けられなかった事は注目をひく。しかし軍 隊が国家の対外的存立(階級的存立という観点は本稿ではしばらくおく)を保障するため にも存在した事ほさておいても,ローマ帝権は単に支配階級内部における特定有力者の主. 導権の問題としてばかりではなく,多数の民族をふくむ一大世界にローマの支配権をきず 普,これに新しい秩序と安定を与えた力の問題として取り上げられなければならず,この 観点にとっても,皇帝と異民族軍事力との関係は充分に問題とされなければならない。」 (230-231). この論文では,前49-48年にカエサルとの内乱に突入したポンペイウスが,バルカン半 島でおこなった非市民補助軍動員が具体例としてあげられている。ポンペイウスは,東方 を拠点として多数の補助軍をふくむ大軍を編成し,ここからイタリアとローマを奪回しよ.

(6) 150. 木. 村. 英. 亮. うとしたのである。ここでほ彼の呼びかけの手紙に応じ. かれの「権威」に従って軍事的. 援助をおこなったいくつかの例をあげているが,そのなかでもっともくわしく述べている のが,. 600の騎兵を率いて参じたガラティアのデーヨタールスについてである。. 元老院の出陣要請にほ応じなかったデーヨタールスは,ポンペイウスの権威には屈した.. それは,第3次ミトリダテス戦争でポンペイウスに軍事的援助を与えた見返りに,戦後い くつかの地域の王に任じられたためである。ガラティアからほ,他に2人が計300の騎兵 を提供したが,これもポンペイウスとの個人的なつながりによるものである.他にパフラ ゴニア,カッパドキア,ボントス等12の例があげられている。 (Ⅱ)でほ,補助軍動員が,まずカエサル側について分析される。カエサルはスペイン,. バルカン等で,それぞれ「名指しで召集された」貴族とその手兵からなるガリア人補助軍 を持っていたようである。たとえば前48年アレクサンドリアでは,友誼関係にあったベル ガモンの富裕な貴族ミトリダテスが,シリア,キリキア方面に派遣され補助軍を集めた。 また前47・46年にはアフリカで敵の陣営からの脱走者をえたが,これはカエサルが,彼に 恩顧を与えたマリウスの簸であったことによる。ポンペイウスの息子も,父の代からの重 要なクリエソテーラであったスペインで支持をうることができた。 さて,ポンペイウスの軍略ほ,彼と同社会・同身分の人びとについても, 「権威」と「友 誼」を軸としてすすめられた。すなわち,彼は前49年のはじめの数カ月にはまだ上級命令 権を与えられていなかったので,ただ,. 「・・-・するようお原則、する」,. 「是非・--するよう. に」, 「--すべきだと思う」などとしか言えず,それ以上ほ彼の個人的「権威」と他の将. 軍の善意に頼らなければならなかった。たとえばキケロは,. 「私は貴君(ポンペイウス). の考えに従ったが,それも国家のためにそうしたのではない。国家の事など私ほ諦めてし まったのだ.そうでほなくて,私ほ貴君を求めたのだ,貴君と一緒にいたかったのだ」と 述べている。. このように,補助軍の動員にほ,広い意味でクリエソテーラと呼ばれる友誼関係・恩顧 関係と「権威」とが大きな意義をもった。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ○. ●. ●. ところでここで言う「権威」には、,政治家としての権威とともに将軍としての権威があ. るとし,後者を強調する。これは戦争遂行のさい不可欠であるが,そのさい「敵がどう思 うか」とともに,. 「盟邦軍がどう思うか」という点にも注意が払われねばならない。キケ. ロほ「dignitasとは,一人の人間がもつところの,尊敬と名誉と畏怖に価する公明正大な 権威の謂である」といっており, 「不正なる方法で」かち得られた権威は, dignitasなき auctoritasであるとしている。. auctoritasとならんで「名(nomen)」という語もあるが, これは権威ある人物の名がもつ重み,声望などを意味する。 「大将軍であるという権威」がない場合には,いかに個々の将軍が大きなクリエソテ-, ラを持っていても補助軍は集められなかった。大なるクリエソテーラと名の輝やかしさの. 両者,すなわち「権威と恩顧(gratia)」とは相結ばなければならなかった。 以上をまとめて次のように氏の主衷の核心が述べられるo 「ローマ国家が都市国家の諸原則を貫ぬき得なくなった時代においては,ローマの将軍.

(7) 151. ローマの広域支配についてのノート. たちもまたその合法的権能のみをもってしては時代の要求する軍事的課題に適応すること ができなくなった。何故ならば有産市民を徴募して正規の軍団を編成し,非市民に条約に よって補助軍を提供させまたこれと傭兵の葵約を結ぶことほ合法的権能をもってこれをな すことが出来たが,職業的な市民軍を長期にわたって将軍に心服させ,また軍事条約にL ばられない非市民を招いて補助軍を質的・量的に充分補充することは合法的権能のなし得 るところでほなく,これを超える力を必要とした。その為にほ法的強制は法律外的強制に よって補なわれなければならなかった。その際,合法的権能が管轄領域(provincia)とい. う活動範囲の限定を有したのに対し,法律外的な権力ほ将軍の『権威』と『クリエソテラ』が拓く限りの世界を(妨害のない限り)無限定の広さにおいて活動領域とした。こう ●. ●. ●. ●. ●. して,合法的権能とその活動領域が国家によって与えられたのに対し,法律外的権力とそ ●. ●. ●. ●. の活動範囲ほ個人によって創られた。 ●. ●. 共和時代にこれを意識的に創ることによってローマの真実の軍事力を一身に体現し,世. 人から『大元帥』の地位を承認されたもっとも著しい例ほポンペイウスであった。しかし 『大元帥』ほ内乱のためにあったのでなく,. (88. T=-マの国防上の要請として存在したo」. -89) このことは,武力による内乱がなかった古い時代にすでに見られたo 軍事的「権威」をもって属州クリエソテーラを経営するという意図は,第二次ポニニ戦. 争時代における大スキピオのスペイン経営に認められる。第二次ポニニ戦争の末期,スキ ピオはスペインの補助軍をもってアフリカで戦ったが,これほスペインを統治Lていた. スキピオの親戚でかつ友人であった人物の援助によって可能となった。この事ほ「党派 (factio)」が対外的な面で積極的な意義をもっていたことを示している。 その例としてユグルタの場合をあげる。ユダルタが弟のアド-ルパルとヌミディアの支 配権を争ったとき,かつてヌマンティアで小スキピオの側近にあった着たちほ,ヌミディ アは軍事的クリエソテーラとして出来るだけ役に立つものでなければならないと考え,. -. グルタを俊敏で好戦的であり適任であるとして支持した。しかし,すべてがあまりにも近 視的な「個人的友誼関係」. (悪い意味での)によって行なわれたため,ユダルタ戦争をひ. きおこしてしまったのである。 次の例は,. 「党派争い」のより高い意味を示している。. 前144年に2人のコンスル・ガルバ(Ser.. Sulpicius. Galba)とコッタ(L.AureliusCotta). がスペインのViriatbus征討戦の軍指揮権を争ったとき,小スキピオほ両者の食欲を非難 し,スキピオの実兄ファビウス(Q.. Fabius. Maximus. Aemilianus)のスペインにおける. 命令権を延長した。しかし,これは必ずしも2人にたいする個人的憎悪からほ説明されな い。すなわちAl且relius氏はスペインとは何のつながりももたず,ガルバほスペイン総督 であったとき原住民に罪悪を犯したのにたいし,ファビウスは実父が. Hispania. Ulterior. のパトロンで,弟スキピオは大スキピオからスペインのクリエソテーラな受けついでいた.. またファビウス自身も前年からスペインで活躍しており,党派がローマ国防の面で果した 積極的役割の例としてみることができるo 共和時代のローマ史にほ同様な例が多くみられる。ポンペイウスの補助軍動員にほスパ.

(8) 152. 木. 村. 英. 亮. ルタがクラウディウス氏のクリエソテーラ下にあり,デーヨタールス王,カッパドキア, キュプロス島が小カト-のクリ-ンテーラであったことが役立ったであろう。カエサルが. ガリア戦争のとき,同盟者であるポンペイウスがスペイン総督であったことがスペイン人 の補助軍動員を可能にしたに違いない。 共和時代の元老院の「第一入着たち(principes)」は,他の元老院議員たちを事実上ク リエソテスとした.ゲルツァー(M.Gelzer)の言うように,クラウディウスは「クリエ ソテーラによってイタリアを占領しようとした」程のパトロン的地位をもち,. 派に対して単に権威ばかりでなく命令権を持っていた」 M.Aemilius. 「自己の一. (キケロ)。また筆頭元老院議員. Scaurusほ「あご一つで殆んど全世界を支配した」といわれるが,これらの. 表現から, 「元老院内部において優越した地位を持つ者が,殆んど全地中海世界を意のま まに操縦し得た事を知る」. (94-95)ことができる。. 「第一人老中の最たる者」としての元. 首の軍事的権威がローマの国防に果す役割ほ,ここでほ論述の対象外とされるが,属州ク リエソテーラの問題がローマの国防という観点からも研究されなければならないことが強 調される。 すなわちペイディアン(E.. Badian)はその研究で,ダラックス以前の時代については. ローマの国家的利害を,ダラックス以後の時代については個人の私的利害を扱っているが, 「国家的利害と私的・個人的利害とは全時代を通じてひとしく考慮されるべきである」 (96)。属州クリエソテーラの軍事的意義について,もっと積極的な評価が必要であろうと して,最後に次のように述べる. 「思うにローマの属州民ほ高い軍事的価値を持っており,地中海世界の戦士層を維持す る事ほローマ国家にとって大きな関心事でなければならなかった.前104年のある元老院 議決は『属州におけるローマの同盟者たる自由人が(借財などのために)奴隷となる事が あってはならない。そしてローマの(派遣した)長官は彼らの自由人化の配慮をせよ』と 定めたが,この決議の行われた動機は補助軍の不足であった.我々はここに,戦士身分を 奴隷化から守ろうとしたソロンやポニテリウスの法を想起する。それと同様の事が前104. 年にほ全地中海的規模において行なわれようとしたのである.一見党派争いに明け暮れし ているように見えるローマの政治家が祖国の存立を真剣に考えていた事も注意しなければ ならない」 (96)o PompeiusのIegio. vernaculaについて. ポンペイウスやカエサルほ,ローマ市民権をもたない属州の原住民を補助軍としてばか りでなく,正規の軍団としても組織した. 『西洋古典学研究』. 8号の論文で氏はこの問題について論じ通説ではローマ史上最初. Alauda の非市民軍団ほ前51年後アルプスのガリアでカエサルによって編成された1egio (雲雀軍団)であるとされているが,実はそれ以前前55-52年にポンペイウスが先鞭をつ. けているという説を提出したoすなわち,ローマ正規軍の異民族化を最初に行なったのほ, カエサルではなくポンペイウスであると主菜し,史料によって論証したのである。. 前49年ポンペイウスほ10個軍団をもち,. 7個ほスペインにあったが,そのうちヴァロ指.

(9) 153. ローマの広域支配についてのノート. 揮下の2個中1個は1egiovernacnla. (原住民軍団)であった。この軍団ほ前49年以降の内. 乱期にしか登場しないので,一時的な変則的軍団にすぎないと考えられてきたがそうでほ ない。. まず,このスペインで編成された軍団の兵士が,ローマ市民権をもたないこと,また軍 団に入るさい市民権を与えられたと考える必要がないことは,次の理由によってあきらか である。 1.この1egio. vernaculaにほ奴隷でさえ兵士として従軍した。. 2.ス-i,インのcoloniae. (植民市)から編成された軍団とはほっきりと区別されている.. たとえばイタリカやコルドバのように多数のローマ市民が住む植民市の市民から編成さ れたものでほない。. 3.スペインにほローマ市民権はもたないがローマの軍事制度・戦術に習術した者が少な からずいた。かつてセルトリウスほ原住民を率いて勢力をふるったが,これらの原住民 はローマ政府軍に敵対したため,その後も市民権をえなかった。 4.デイオタルス軍団のような非市民軍団を決して軍団と呼ばなかったシセロは,原住民 軍団に軍団の名を許さなかった.かれは前49年1月のスペインにおけるポンペイウス側 の兵力を全部で6個軍団と補助軍とし,原住民軍団を補助軍に含ませているが,これは 原住民軍団がローマ市民の軍団でないことを証明している。. 次に,この原住民軍団が前55-52年に形成されたことを論証する。 前48年にスペインの長官となったカシウス(Q.. Cassius. Longinus)は5個軍団をもって. いたが,うち第二軍団と原住民軍団ほヴァロがもっていたものであった。前48年原住民は 2度目の反カシウス陰謀をおこし,続いて兵士の反乱となったが,その経過をみるとver-. naculaは第二軍団とともに老練な軍団であるとの印象を与え,. 「百戦錬磨の古年次兵軍 「百戦」. 団」と記されている.ヴァロとカエサルの戦では戦闘ははとんどなかったので,. ほ内乱以前の蛮族との戦いを意味するo vernaculaとカシウスとの対立はカシウスがこの 地のクエストル(監察官)であった前52年にまでさかのぼりうる。またポンペイウスがス ペインで1個軍団を徴集Lたという記述から,. vernacula成立の上限はかれが総督となっ. た前55年となる。 最後にカエサルがガリアで1egio. Alaudaeを編成できたのは,そこでのパトロン的地位. であり, Alatldaeそのものがかれの「私兵」であったことはあきらかであるが,同じこと がポンペイウスについてもいいうる。スペインにおけるポンペイウスのクリエソテーラに ついて一般的な事はゲルツァーらが十分に研究しているとして,. vernacula. そのものとポ. ンペイウスについて2点のみ付加する。 1.カエサル派のカシウスの下で反乱をおこしたvernaculaについて,決してカエサル的 でなかったと記す史料もあるが,. Dio. Cassiusはこの反乱の反カエサル的,親ポンペイ. ウス的性格をほっきりと伝えている。. 2.前46-45年にスペインにおけるポンペイウス派残存勢力ほ, 大の顔りとした。. 1egionesvernaculaeを最.

(10) 木. 154. 村. 英. リーウィウスにおける外民族のprincipesとEl-マ. 「第一人老」で,政治的には-共同体の principesの本来の意味は「トップに立つ者」, 責任者の資格で,又はこれと対等に,又はこれを補佐して活動する者を指し,共同体が対 外的な交渉を持つ時代表老となる。この概念ほ「ガリア戦記」にあらわれ,前出論文「属 州ク1)エソテーラと補助軍Ⅱ」で扱われているが,ここでほ氏ほもう1つのラテン語史料 アウダストゥス時代の歴史家リーウィウスの現存史料のすべての用例にあたって整理し,. この概念の使用の歴史的意味を解明する。 リーウイウスの理解ではそれは-共同体の最有力老たちであるが,それ自体としては公 的な資格でほない。しかし何らかの形で王の統治や外交に関与し,政治的・軍事的に指導 的な役割を果す老であった。ローマの支配体制はこのようなprincipesの協力によって導 かれる。一般に富裕者であったが,政治に関与Lない老もふくまれており,一種の社会的 地位・社会的存在条件もあらわしていた。つまり,何も活動せず出生と財産によってprin cipesであった老もあるo ある。. clientesもローマのプ1)ンキパートゥス成立史上重要な概念で であるが,. 一般にprincipesはローマを療みとした。その対立物ほmultitudo. 「人民大. 衆」の意味でのmultitudoは大部分-レネス世界やカルタゴなどの先進地域に登場する. この場合,ローマと結ぶprincipesに対立した。. multitudoはある箇所ではprincipes 民衆を合した総体を指す場合があるが,後進地域でほこのような用例のみが見出される。. と. ローマ元首政の起源. 岩波講座『世界歴史』第2巻のこの論文ほ,ローマの支配の解明をおこなうためには, ローマ市民のみでなく,多数の被支配異民族をも等閑視しないようにしなければならない という観点から,はじめに, 還訴訟. 1ローマと原住民支配階級(1ローマの進出. 3原住民の「良き人士」),. ローマと親ローマ的党派,. 2ローマと原住民民衆,. 2不当取得返. 3諸党派と第一人者たち,. 5ローマと親ローマ的「第一人者たち」の構成で論t:,次のよ. うなことばで要約し結んでいる。 「ローマ人の目から見ると,地中海世界は大きくいって富裕な階級が『第一人者たち』 として社会をリードする世界であったし,またそうでなければならなかった.前2-1世 紀の間に,貧民と結ぶ『不達なる』民衆派の『第一人着たち』は一応圧服され,親ローマ を名乗る『良き人士』. (boni)たる『第一入着たち』の支配体制が確立されてゆく。ロー. オプティマチス. (optimates)が敗北してゆくのと裏腹に,地中海世界に マ内政において『最良のうから』 おいて『良き人士』 『最良の人士』の世界が貫徹されてゆくが,この過程こそ帝政成立史の 背景である.ローマ内政史においては『最良のうから』の敗北によって帝政が成立するが, 地中海世界にとってほ『最良のうから』の勝利によって帝政が成立するのである。これか ら見れば,ポンペイウス(ある時期の),カエサル,アントニウス,オクタウィアヌスら ポプラレス. いわゆる『民衆派』政治家とほ,地中海大の『最良のうから』であったといいうるかもし れない。. 『最良のうから』は,都市国家ならぬ大嶺土国家としてのローマの実情に適応し. た『最良のうから』であるためには,. 『民衆派』. -ローマの狭量な『最良のうから』か. 4.

(11) 155. ローマの広域支配についてのノート. ら出た反逆児一にならなければならなかった。そして,地中海世界の『良き人士たる』 『第一人着たち』の最たる者maximus 味で,帝政の成立は『ウルブス』. principumとしてローマ皇帝が出現するoその意 (ポリスに非ず!)ローマの地中海世界-の拡大である。. その意味において,ローマの党派形成・党派対立も,従来よりもより広い視野から,そし て,より高い次元において観察されなければならない。サルステイウスはカエサルに助言. していう, 『もしも貴方が,いかにして自分を政敵の攻撃から守るか,いかにして敵対的 なコンスルに対抗してローマ人民の厚情を確保するか,ということばかりを胸中に謀りめ. くtlらすならば,それは貴方の美徳にふさわしくないと考えられますように。』」. (351-352). このテーマほ後述『支配の天才ローマ人』で補い説明される。 アンビオリクス 本論はローマによる「全世界のパトロン的支配」が,. 「すべてをローマに委ねる」者に. 対しては寛仁であったが,そうでない老に対してはいかに残忍であったかを,ガリア総督 時代のカエサルの-ブローネス国に対する政策を通じて示したものである。ローマはガリ アを征服するさい,従土田を率いたガリア貴族を補助軍として利用した。ガリアの貴族ほ 2分し,ある老はローマと結び進んで人的物的資源の供給者となる事によって自分の地位 を保証されようとしたが,しかし他の老,すなわち直接に重圧を受ける一般民衆と結ぶ老 は,ローマの道具となる事を拒み,自分の独立を守るために激しく闘った。 ここでとりあげられているエブローネス国の王アンビオリクスほ,. 「私は王であるが,. 私が国民に対して持つ権力と,国民が私に対して持つ権力と,どちらが強いか分らない」. (206)と言う程一般民衆と一体となり,智略を尽くしてカエサルをほんろうし,しつよう なゲリラ戦を行なってローマ軍を悩ました人物である。 この論文ほ,アンビオリクスの抵抗を措いたもので,. 『古典古代における伝承と伝記』の. 「ローマにおける詩と真実」と題された第3章におさめられている。 -ブローネス国は,現在のドイツ・ベルギー・オランダの3国が交るあたりにあり,前 2世紀末・. 1世紀初めころから隣国アトアトキ-の勢力下におかれて貢納をおさめアンビ. オリクスの息子と甥を人質にとられていた。前58年ガリア総督となったカエサルはまもな. くアトアトキ一国を破り,掃えられた人質の息子などをアンビオリクスに返し,貢納も免 除した。この後-ブローネス国はトレーウエリー国に従属したo. この国では一時キンゲト. リクスが政権をとってカエサルに服したが,間もなく有力者インドゥティオマールスが政. 権をとり戻し,ローマに対する抵抗の姿勢を守った。 一方広く信望の厚かった--ドイ一国のドムノリクスほ,ガリアの有力者たちに全ガリ ア人が共同してローマと闘うよう働きかけ,本人は殺されたが,その意思はアンビオリク スによって引き継がれた。かれはサピーヌスらに率いられたローマ軍15僻大隊少く. とも. 6,000人を全滅させ,つづいてネルウィイ国に冬営していたキケロの陣営を無傷の暑が1 割に満たないといわれるまでに壊滅させた。 た事ほ非常なもので,カエサルほこの為,. 「およそ彼の成功がガリア人全体を元気づけ --ドイ一人-ドムノリクス亡き後の-と. レ-ミ一人以外のいかなるガリア人も信用できなくなったと述懐しているo. アンビオリク.

(12) 木. 156. 村. 英. 亮. スの捷報が急速にガリア人の問にひろまると,あちこちで戦いの準備がなされ,闘争態勢 をととのえる為の伝令は到る処に飛びまわり,有力者たちは人目につかぬ所で夜をえらん で戦術会議をひらいた。これらの情報のためにカエサルは,一冬を通じて安らかな日がな く,毎冬の習慣であった北イタリアの巡回裁判もとりやめなければならなかった。」. (202). カエサルはゲルマニアに侵入した後, 4万の軍で-ブローネス国を攻撃し,近隣諸国の 軍,ゲルマン人の一部族を招いて掠奪させるなど残虐の限りを尽したのち前53年秋引揚げ た。前52年のウニルキンゲトリスの率いる中部ガリアを中心とする大反乱の後,前51年カ エサルほふたたび-ブローネス国を襲い,その国土の徹底的な破壊を企てた。こうしてブローネス人ほ全滅し,永遠に姿を消した。 「他のガリア諸国の例でほ,国土がこれまで破壊されるより前の段階で親ローマ派が現 われ,適当な仲介者を立ててローマに降伏し,生命と財産(少なくともその一部)を守ろ うとするのが普通であった。. ・--然しそのような勢力■はついに一度も現われなかった。ま. ことにカエサルの一生を通じて,アンビオ1)クスはど彼をふりまわした人物はいなかった と言えよう。」. (209). 条約締結国としてのメッサナ. 共和時代末期の紀元前2世紀半ごろから,ローマ権力の強大化とともに,条約締結国, 貢納国,一般の自由国という区別なく,すべての国がローマの権威に服し,その命ずると ころに従うようになった.こうして誕生した「T=-マ帝国」のローマの無制限な支配権力 のもとで,. 「条約」が具体的にはどのように機能していたのか,これを紀元前263年ごろロ. ーマとシチリア東北端のポリス・メッサナとの間に締結された条約について再検討したの 「条約締結国としてのメッサナ」である.. が,. メヅサナをとりあげた理由ほ,この国の状況が一つの典型と考えられたからで,それは. 結論部分に次のように確認されている。 「ローマは-レニズム時代史のあとを承け,自由な諸ポリスの世界を換骨奪胎してロー マに月艮従する『自由国』の群と化さしめた。自由な諸ポリスの対等な国際関係(『国際法』. の世界)が形骸化(消滅ではない)する中にローマがその支配の論理をどのように浸透さ せていったかほ,歴史学上の大問題であって軽々しくは論じられない。しかし,そのよう. な歴史の展開にとって,前一世紀前半における条約締結国メッサナの状況は,一つの到達 (120-121). 点を示すものではないであろうか。」. 論文でほまずメッサナの地位について,史料によって次の3点が確認される。. 1.メッサナのローマに対する地位は「条約締結国」であるo 2.. しかし,メッサナほ属州シチリアの内部にある。. 3.従ってメッサナほ,属州総督の命令権および職権のもとにある。 次に条約の内容と機能について6点について検討し,条約ほ条約として機能していなか ったと結論している。. 1.メッサナは,条約により,ローマに二段擁船一隻を提供しなければならなかったo ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 「シチリアの諸ポリスほ,条約の有無に拘らず,総督に命ぜられた時には軍艦や陸兵・.

(13) 157. ローマの広域支配についてのノート ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 海兵を提供しなければならず,従ってメッサナも,条約の規定に拘りなく,総督の命令に よって軍艦を提供したり,或ほその負担を免ぜられたりした・--。」つまり条約のこの規 定はまったく形骸化していた。 2.メッサナは,条約により,ローマに陸兵を提供しなければならなかった。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. メッサナほ,条約の規定に拘りなく,総督の命令によって陸兵を提供したり,或ほ免除 されたりしていた。 3.メッサナには,条約によって,追放老安全権が認められていたか。. メッサナに追放老安全権があった事は証明する事はできない。 4.メッサナには,条約によって,裁判高権が認められていたか。. 条約締結国であるといってもシチリアの属州法などにほ従っていた可能性が強く,条約 にメッサナの裁判高権を規定した条項があった事ほ証明できない。 5.メッサナは命令穀物の強制買付に応じなければならなかった。. 「シチリア総督ほ,前73年のローマ当局の決意によって,またそれ以前にもそれとはぼ ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 同内容の慣習に従って,条約の規定に拘りなくメッサナから命令穀物を買付けることがで ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. きた筈であり,メッサナも,条約の規定に拘りなく,買付に応じなければならなかった筈 である。 6.. メッサナにほ関税高権があったか。 シチリア諸港の関税が仮にローマのものであるとすれば,その徴収はローマの公共事業. 穀倉が請負った。メッサナに関税高権が認められたことは証明されていない。 この部分ほ次の文章によって結ばれている。. 「前一世紀前半における条約締結国メッサナの地位にほ,一般の自由国の地位とさして 変る所ほ見られない。にも拘らずローマがこれを集約締結国として過したことは,脱ポリ ス化Lたポリスがなおもポリス(「国家」)である事のみすぼらしい確認でLかない。しか し,単なる「自由」の承認よりほ,より積極的な承認であった。いずれにせよ,それは, ローマがやほり一種のポリスとしての政治機構しか持たず,官僚制的な領土国家にはなり. 得なかった事の反映であろう。」. (119). 最後に,ウェレス統治下における条約の運用にほ,メッサナ人がウェレスに抱いていた 「好意」が前提としてあったことが述べられる.ウニレスはメッサナをことごとに優遇し, メッサナはさまざまな形でこれに応えた。. 「すなわち,ウェレスはメッサナのパトロンだ フィデス. ったのである。ローマ支配下の諸ポリスとローマ元老院議員との信義にもとづく私的な結 びつきほ,ローマの地中海世界進出の最初期から知られる現象であり,ウニレスもまた, その例外ではなかった。」 (120)ウニレスについては後述『ローマ人の戦争』のシチリ の悪総督参照。 支配の天才ローマ人 この本のテーマは,. 「前2世紀を中心とするローマの地中海世界支配のあり方をギリシ. アについてながめ,大ローマ帝国のおいたちの一端をふり返ろうとする」 るo. (16)ものであ. あとがきによれば,横浜国立大学および東京大学(いずれも学部および大学院)の講. ア.

(14) 木. 158. 村. 英. 亮. 義・講読のノートをまとめて書き下したもので,これまでの諸業績ほここに集大成され, 展開されていると考えることができよう。 まず,序章. 「地中海支配」確立の時代でほ,地中海世界の歴史は,. 「ローマ共和政期. にはローマと他の諸国との国際関係の歴史であり,ローマ帝政期にはローマ帝国そのもの の歴史である」. (14)ように叙述されることが多いが,これは「主権」. 「領土」. 「国民」等々. 「ローマほ共和時代にすでに地中海世界を政 の近代的な国際法観念でみるからであって, 「もろもろの民を支配」していたと主張される。つまり 治的に統一」しており, ローマ帝. 国ほ,ローマがシチリア,サルディニア,コルシカの3島を獲得したときに始まっていた。 前3世紀前半にはぼ完成した共和政は約150年にわたって安定するが, 「前2世紀後半から のローマは新しい混乱の時代に入り,. 100年にわたる陣痛ののち,新しい安定を得て帝政. が樹立される.その中間にある共和政の古典時代こそ,ローマが海外に支配をうち建てた 時代である」. (17)。本書では共和政古典時代後半におけるローマとギリシアとの関係が考. 察されるわけである。 全体は7章に分けられる。 第1章 「自由」なる貴族政治でほ,ローマ共和政について基礎的な概念が与えられる。 プラコニトル. コソスル. 共和時代のローマ国家の真の統治者は,統領,法務官などの政務官ではなく,元老院で あった。. 「元老院の決定は政務官を拘束するもので,それがローマ国制上の一つの原則で あり,政務官は元老院の執行機関にすぎない。」 (クンケル)共和時代末期,カエサルらは 政務官職について元老院を無視する行動をとったが,それは完全に慣習法に反するもので, 共和政の崩壊を告げる行為と理解された。 「ローマ人の公生活は何よりも過去の慣習を最大限に尊重した一般の諒解事項によって 営まれており,その中で元老院の果たす役割はとりわけ大きく,人びとのそのような諒解 に対して矛盾が感じられた時,あるいは諒解事項を再確認する必要が感じられた時にのみ, レクス. 問題の点が民会決議によって『法律』として成文化された。しかし,成文化されたものほ全 ●. ●. くケース・バイ・ケースの断片的なもので,これのみを整合的につなぎ合わせて体系化し (23-24) ても,ローマの制度の完結した像は描けない。」 クワエストル. パト. ワ キ. ロ-マの政治家の昇進のコースほl財務官,護民官(貴族身分の老はつけない),按察 官,法務官,統領というもので,前1世紀にほ財務官に就任すれば元老院議員の資格をえ セ. ン. サ. ス. ケ. ン. ソ. ル. た.有資格者は5年ごとの市民監査の時に監察官が拒否しなければ正式に元老院に入れた. 監察官には統領経験者が2名就任したが,これほとくに地位が高かった。元老院議員は法 プ7=ブラニトル. プロコソスル. 務官,統領などに立候補し,ある老は法務官代理官,統領代理官などの資格で海外で活躍 デイクタトル. した。その他の非常の際の官職として「独裁官」があったが,第二次ポニニ戦争以後ほ前 82年まで一度もおかれなかった.定員は統領が毎年2名,按察官や法務官はそれぞれ46名,財務官,護民官はそれぞれ10名程度であるo ′1トt)キ. プレプス. ローマには貴族(patricii),平民(plebs)の身分差別があり,かつてほ政務官職には貴 族しかつけなかったが,前367年のリキニウス=セクスチウス法によって平民も統領になり. うることになって以来この差別はくずれた。しかし財務官になるためにほ10年はど騎士と して勤務しなければならず,そのためにほ一定量以上の財産(土地)をもっていなければ.

(15) ローマの広域支配をこついてのノート. 159. ならなかったので,結局一部の富裕者しかなれなかったo前3世紀後半タラウディウス法 によって騎士身分が狭義の騎士身分と元老院身分に分けられ,後者の経済活動は大土地経 ノービリス. 営に限られた。また,統領にほ貴顕貴族(mobiles)もしくはかれらが許容する著しかなれ なかった。貴顕貴族ほ統領や法務官を祖先にもつ着で,旧貴族とは区別された。したがっ て第二次ポニニ戦争時代からダラックス時代までの約百年の問, 20家族程度の少数の貴顕 貴族が政権をたらいまわしにしていた。一つの派閥・党派が権力者相互の対立を巧みに処 理することによって何年問も政権を独占することも可能であった。ただ1つの派閥が他の 多くを制圧して完全に天下を制したとき帝政が成立した。. さて,あらたに統領などの地位についた平民諸家族の多くはイタリアの諸地方の大貴族 プレブス. ′'.ト1)辛. であったo平民であるイタリア貴族ほ,ローマの旧貴族と結んで新しい貴腐貴族を形成し たが,これほローマ社会の寡頭政的な性格に対応し,その底辺を拡大・強化した。ローマ の旧貴族側もイタリア貴族を迎えいれ婿姻関係を結んでイタリアを自分の勢力下におこう としたのである. 「民主的」諸政策は,これらの富裕支配層が自分たちを再編成するさい 貧艮をつなぎとめる手段にすぎなかった。. ローマはイタリア半島内に支配を拡大するさい,敵国を破るごとにその領土の一部を没 収してローマの国有地とし,植民市を築いて屯田兵をおいた。また一部ほ私有地として国 民に分配した。残った土地ほ元老院議員やイタリアの富裕者が占有し,やがて大土地所有 (1atifundium)に発展させたo. イタリア上層民ほこうしてローマと一体化していったo. ローマ軍もイタリア兵をほぼ半分ふくんだ。すなわち,ローマ有産市民は正規のローマ 軍団を出し,イタリア人ほ別に編成された補助軍を出してローマの将軍の指揮に服した。 一般の兵士を出すローマ・イタリアの中小地主層は大土地所有の増大とともに没落し,軍. 事力ほ危機的な状態となっていく。 ローマ人ほ,公的な「友誼」. (政治的同盟)と私的な「友情」の違いを近代人のように ●. ●. 割り切って考えず,公私が区別されてなかったので,派閥・党派の形成がなまで社会・政 治のあり方を決めた.ローマの政務官たちほ「第一人者たち」の派閥に結びつくことによ. って昇進し,自分が「第一人者たち」になったときはじめて政策を自由に討議した. なお,前5世紀前半から200年間旧貴族に対する平民の反抗の中心であり,前2世紀後 半から100年間閥族派支配に対する民衆派の闘争の尖兵であった護民官ほ,その中間期150 年は完全に体制内にとりこまれていた。前287年,ホルテンシウス法によって護民官が平 民会に提案した決議が全市民を拘束する法としての力をもつことになったとき,ローマの 身分闘争は終ったとされる。. ローマでは古くから有力者ほ劣等な地位の自由人とパトロネ-ジ関係(ラテン語でパト ロ-ツスまたはク1)エソテーラclintelae)を結び,生活各面を保障し,とくに法廷におけ る不利な地位をカバーしていたが,これはやがて身分的に対等な自由人の問の関係へと幅 を広げた.すなわち一般市民が自分の選択によって一人あるいは複数の有力者の子分とな. り,法律相談をおこない,法廷弁論家として助力を乞い,みかえりに選挙立法などの民会 でパトロンのために一票を投じた。 有力者はまた,私的に被征服民のパトロンとなったo元老院議員らほ外国の個人や国家.

(16) 木. 160. 村. 英. 亮. と「賓客関係」を結ぶ習慣をもっていたが,これもローマの優越性の確立とともに上下の 関係にかわり,広い意味のパトロネ-ジとなった。 ローマの民会ほ,元老院内部の派閥争いを忠実に反映した。さらにパトロネ-ジはロー. マ市民の世界を超えた広領域支配につらなったが,こうして一体化したローマとイタリア の富裕者層は,ローマ国有地を占有してラティフンディア経営者となり,イタリアの社会 経済を根底から変えた。 以上のように,貴族がパトロネ-ジを擁して支配する独特な寡頭政社会を成立させてい た共和政古典期のローマでほ,政治的「自由」ほ,王政,専政の対語ではあったが,人民 デーモクヲティア. がみずから治める「民主政治」における「自由」でほなく,貴族層の「自由」であった。 各国民はその力量に応じた「自由」をもつべきで悪平等ほ「自由」な国家の真のあり方に. そぐわないとされた。そこでの「自由」は,事実上,権威ある高貴な指導者を選び出す権 利でしかなく,貴顕貴族たちの「権威」を尊重してこれに自発的に従うところに政治的 「自由」があると考えられた。ゲルツァーはこれを「社会的寡頭政」とよんでいる。そし てこのような関係が成立しえたのは,前200-157年の半世紀,ローマ国庫収入の88%せ占 めた和戦を通じてのイタリア外被征服地からの収入があったからである。イタリアの未曾 有の繁栄は,奴隷など最下層民やイタリア外の広大な世界の住民などローマ貴族のJりp ネ-ジの及ばぬ世界の犠牲を前提としていたのである。完全に低水準にある技術とそれを. 補うものとしての奴隷制が古典古代の文明を成立させた前提であった(ウォールバンク 『p-て帝国衰亡史』 183)0 第2章. 活躍する「第一人者たち」ほ,ファビウス,スキピオを例として,有力者の活. 動の様子を述べる。 一時はとんど王朝に近い支配権力を握り,プルタ-クによってギリシアのペリクレスと. 対比された前3世紀のファビウス氏ほ,シチリアに勢力をふるっていたサムニウム人の貴 族オタキリウスとカンパニア地方の貴族アティリウスと深いつながりをもち,また-トル リアの大貴族リキニウス氏をローマ支配層に迎えいれた。このように,エトルリア,サム ニウムなどの貴族を受けいれることによって,ローマの-レニズム化に貢献したのである。 コルネリウス氏の貴公子大スキピオほクラブススの援助によって台頭し,第2ポニニ戦 争のさいスペインの大部分を勢力下におき,アフリカにも力を伸ばし,前3世紀に統領に 選ばれたoスキピオはローマを地中海規模で考える視野をもっており,そのパトロネ-ジ を地中海西部ばかりでなく東部にも拡大した。スキピオ家のパトロネ-ジ下で最大の利益 をえた者としてヌミディア王マシニッサがあり,広くコルネリウス氏の恩顧をうけたイタ. リア貴族の例としてほポンペイウス氏,アキリウス氏,ラユリウス氏,ディギティウス氏 があげられる.前199年カルタゴを降してローマにもどったスキピオは37歳で元老院首席 /1ト1)辛. となったが,前179年元老院議員の旧貴族88名中23名がコルネリウス氏の着であったとい われる。 第3章. ギリシアの「自由」でほ,前3世紀後半から政治的・軍事的関係を深めたバル. カン半島の情勢が考察される。 ローマは前229-228年のイリリア王国との戦争に勝って現在のアルバニア地方に勢力を.

(17) 161. ローマの広域支配についてのノート. 扶植し,前219年第2次イリリア戦争によってデメトリオスを破り,さらに勢力を強めた。 マケドニア王国のフィリッボス5世は,デメトリオスをうけいれ,前215年-ソニパルと 軍事同盟を結び,ローマに敵対した。シリア王国のアンティオコス3世は,前203-202年 の冬フィリッボス5世と,衰えていたエジプト王国の海外支配領域を分割する密約を結ん. だが,これに脅威をうけたエーゲ海周辺の多くの国ほ,前201年ローマに使者を送り,フ ィリッボスに対する開戦を促した.. T=-マほ前200年宣戦Lたが,前198年統額としてマケ ドニアに送られたフラミニーヌスほ前197年フィリッボスとの決戦に勝ち,翌年全ギリシ. ア人に「自由」独立を与えることを宣言した。このときスパルタ王ナビスは徹底した社会. 改革を行なって貧民の支持をかため,フラミニーヌスに対抗した。 吉村氏はローマ人の考えた「自由」と-レニズム世界における「自由」を比較して次の ように述べる.. 「p-マ人の社会では,寡頭支配暑が『自由』と呼ぶものが民衆の一応の. 納得と同意に裏付けられていたのに対し,ギリシア人の世界では寡頭支配著と民衆とが違 った内容の自由を主張していた。 -レニズム諸王ほこの二つの自由の内容の違いにほ無関 心に,ただスローガンとしての自由という言葉のみを欲したo -しかしローマ人は,ギリシ アにおいても寡頭支配者の自由に民衆の自由が収赦されうると考え,そこに全市民の『和 合』が可能であるとの幻想を抱いた。」. (119-120). いずれにせよフラミニーヌスが言う「自由」ほローマ人が考える自由であって,ギリシ ア都市国家古来の自由ではなかった。実際にほ親ローマ派,あるいほ富裕者を政権につか. せる政策であったのである。 また氏ほ,これらの問題を法的に解釈しようとするダール-イムの見解に対し次のよう に問題提起している。すなわち「そこには『法的』に成り立たぬことを押し通すことが必 ずしも鉄面皮とか暴力的とか感じられず,また『法的』な正確さを守って行動することが 必ずしも清潔さとか廉正さとか感じられないような, ったか,ということである。」. -つの感じ方,考え方の世界がなか (127-128)氏は,近代的な「国家」 「主権」 「国際法」など. 「わ の観念が古代に関して安易に使えないことを力説する西ドイツのネル教授に賛成し, れわれはローマ時代の国際関係を,近代の国際法の観念で理解してはならない。たとえば, 当時の国際関係には主権の尊重とか内政不干渉という原則はない。それは現在よりもはる. かに力関係がものを言う世界であった。そして,第二次ポニニ戦争後の地中海世界の少な くとも西半部において,ローマは他のすべての国々をはるかに凌駕する軍事力を持ってい た。. p-マはこの実力を背景として大国の乱立する-レニズム世界に進出し,いまマケド ボ. 7). ス. エアを降したのである. ・・・・・・-レニズム時代のギリシアの都市国家は,外国の王の支配と いう現実の真只中にあって,自由独立の国家であるという建て前を堅持する,いわば奇妙 「支配というよりは全世界の な存在であった。」 (128-12、9)その場合,ローマの支配は, パトロネ-ジという方が真実である」. (キケロ)ようなもので,. 「うなづき」「合図」によ. る支配であり,あるギリシア人たちにとってかつてのマケドニアの支配より,より輝きに 満ちたしかしほるかに重い鎖であった。 第4章. 「自由」からの解放を求めてほ,このようなローマの支配に対するギリシアの. 反抗の動きをテーマとする。この反抗勢力ほ,シリアのアンティオコス王,マケドニアの.

(18) 木. 162. 村. 英. 亮. ペルセウス王と結んだ。その中心であるアイトリア人大地主の勢力が,カルキス,デメト リアスおよびスパルタを手中に収めると,アンティオコス大王は,前192年進発し,翌年 アイトリア人とともに-ウポイア島のカルキスをはじめ若干の地方を降し味方とした。し かしマケドニアやアカイア同盟はローマを支持し,ローマ軍は前191年統領アキリウス・ グラブリオの下でテルモビレーの決戦に勝利したo両軍はエーゲ海東部でしばしば戦った. フォカイア市はじめ小アジア西岸のギリシア都市国家でほ,一般に富裕層はローマを,氏. 衆はアンチィオコス大王を支持したようである. ローマでほ前190年大スキピオの弟ルキウス・スキピオが統領に選ばれて総司令官とし てアンチィオコス大王を破り,後継者マンリウス・ウルソは大王の同盟者であったガラテ. ア人を攻め,現在のアンカラ方面まで軍を進めた。一方アイトリア同盟は, 陥落(前191年7月)後,ローマ国民の支配権(命令権imperium)と優越性とを虚偽, イソペリウA. -ラクレイア. 「デイユニスタス. 悪意を交えることなしに尊重するという条項をふくむ平和条約を結んだ。 カト-ほ, 大スキピオは政敵カト-との政争に敗れ,前183年に死んだo. 「監察官のカト. 『農業論』を著し,南 -」と呼ばれるはど生活態度が厳しかったが,他方では『起源論』 イタリア出身の詩人エソニウスを保護し,ラテン文学を興した。 第5章 「自由」の凱歌は,ローマによるギリシアの制圧を述べる。 ギリシアでは社会の「変革」を求める勢力は概してローマに敵対したが,ローマ元老院 の態度ほ一貫せず,たとえばフィロボイメソを長官とするアカイア同盟とスパルタとの対. 立においてほ,必ずしも変革勢力が支配していた後者に敵対しなかった。外交におけるロ ーマ元老院の権限ほ大きく,ギリシアの政治家にとっての「ローマの権威」は具体的には 元老院の権威であった。前179年から4半世紀にわたり,元老院首席や大神砥官として聖 俗両面でローマ国家をリードしたのはアユミリウス・レビドゥスで,スキピオ・ナシカが 次いだo. このレビドゥスは,対外戦争の結果ローマに流入した富によって多くの土木・建 築事業を行なった。 ローマはフィ・リッボス世の子ペルセウスと第3次マケドニア戦争を戦い,この勝利によ って地中海世界の支配的地位を確立した.フィリッボスは前180年にローマ元老院に人気. のあった王子デメトリオスを殺し,翌年に没したが,後継の長男ペルセウスは優れた王で あることを示し,アカイア同盟との友好関係の樹立に努めた。ローマは前171年ペルセウ スと開戦,マケドニア王家ほ亡びた。マケドニアは4つの共和国に分割され,ギリシア諸 都市ほ「自由」を保証され,シリアなどその他の王国も存続を許された。商業国のロドス 共和国ほ,ローマの権威を無視したと考えられたため,元老院によって小アジアのリキア,. カリアを奪われ,デーロス島の商港を関税をとれない自由港に指定され,収入を激減した. 一方,南イタリア出身の多くのイタリア人(ギリシア人をふくむ)がとくに前2世紀中頃 以後東方で現地人にとけこんで商業・金融業に従って活躍し,前1世紀初頭,家族や解放 奴隷をふくめ小アジアだけでも10万人を下らなかったと言われている。かれらの存在はギ. リシア世界の商工業を発展させた。 第6章 する。. 「自由」の名による支配ほ,ローマによるギリシア世界の支配のようすを記述.

(19) 163. ローマの広域支配軒こついてのノート. ローマの草7)シアに対する態度は,第三次マケドニア戦争の時代からいっそう強権的と なり,ギリシアの諸ポリスの市民および-レニズム諸国の王は巧みに分割支配された。ベ. 「ローマ人に諮らずに事を行なう時にほ, 『もし成功す ルガモソ王アッタロスは前156年, れば(ローマ人から)嫉妬と剥奪と苦い嫌疑を受け,失敗すれば破滅をみることは必定』 であると言っているo」. (232)諸国の王ほ王位後継者に予定Lた老をローマに留学させて. 元老院議員り間に有力なパトロンを庵させようとしたoまた王位を継承した場合は元老院 の承認を求めた。この例ほシリア王のデメトリオス1世などにみることができる。こうし てローマ帝国の原型ができるo. ローマは第四次マケドニア戦争によってアンドリスコスによる反ローマ闘争を鎮圧した 複,マケドニアの地域に恒久的に将軍を派遣して管酪さ∫せることにした。すなわちマケド ニアほ「プロゲインキア(provincia)」となったのである。この時代,自由国であること. とローマ人の管轄区の中にあることほ矛盾しなかったoそれはローマが一方的に将軍を送 りこんでローマの利益を守らせることであった。プロゲインキアは必ずしも貢納の義務を. 負わず,また第三次マケドニア戦争後のマケドニアのようにプロヴインキアでないのに貢 納の義務を負うものもあった。 ローマほ全ギリシアに事実上の支配を樹立してもそれに見合う統治機構を構築せず,こ れを外国として扱った。アカイア同盟はアカイア戦争でローマに完敗して外交の自由を失 い,貢納の義務を負い,貴金属貨幣の鋳造権も奪われたにもかかわらず,ローマほ「自由」 を与えたと主寮したのである。 最後に,ローマの支配のもう一つの例として,小スキピ刑土よる,かつての地中海の雄 カルタゴの壊滅にいたる過程について述べる。 第7章 「自由」の遺産は,本書の結びで,金地中海支配層のパトロン,ローマ国内の プT)ソケブス. 諸派閥を統合する最大の「第一人老」,. 「権威においてすべての著にまさる」ことを誇るロ. ーマ初代の皇帝アウグスッスの登場までを,簡単に概観する。 T2-マは前200年前後から約半世紀の間に,カルタゴ,.アンチィゴノス朝マケドニア王 国,アッタロス朝ベルガキン王国,セレウコス朝シリア王国を没落させ,アイトリア同盟, アカイア同盟を滅ぼした.しかし前1世紀前半にほ,東方のミトリダテス戦争,西方(ス ペイン)のセルトリウス戦争,イタリアのスパルタクスの奴隷反乱,地中海の海賊の宗教 など,ローマ支配権力-の反抗が拡大し,ローマ軍事力ほ衰退した.ダラックス兄弟ほ, ローマ市民権をもつ著の集会・民会の多数の支持によって国有地使用の上限を決めるなど の改革を行ない,軍事力のにない手であるローマ・イタリアの中小土地所有者層の没落杏 防ごうとしなかったが,長老政治家の権威の壁ほ破れなかった。社会の退廃ほ進み,前2 世紀複半, 「ローマではすべて金次第」 として, 「自由国」. (サルスチウス)であった。やがて被支配民の範時. 「自由免税国」 「貢納国」などの区別が概念の上でも確立し. 支配のた. めの有効な「統治」組織が形成されていく。これに関連して,前1世紀にカリストスのポ 身分的な資格 リストラトスやシチリアのステニウスなど「名誉ある」被支配国民も生じ としてのローマ市民権よりもはるかに現実的な社会的資格が発生してくる。 「・・・・・・共和政古典期につづく時代,すなわち共和時代末期の100年の歴史はt. ローマ内.

(20) 164. 木. 村. 英. 亮. 政史から見れば・以前にほ見られなかったような図抜けた『第一人者』. -たとえばポン ペイウスやカエサルを思い浮べていただきたい-が出現することによって,政界の諸派. 閥が大きく統合されるとともに・全体としての元老院が無力化してゆく歴史であり,地中 海世界全体から見れば,被支配民に対する′{トロネ-ジがこのような図抜けた第一人者の 手に統合されてゆく歴史であるo」. (278-279). ローマ人の戦争. 氏の編集になるこの本は・講談社の『世界の戦争』全10巻の1冊で, の8本の論文のうち,氏の執筆ほ冒頭の「自由という名の支配」 争」 「シチリアの悪給督」の3本である。. 「ほじめに」以外. 「カエサルとガリアの戦. はじ捌こで,ローマほ第二次ポニニ戦争とそれに続く地中海東部諸国との戦いによって 地中海世界の王者となったが,東方諸国との戦いについてほ『支配の天才ローマ人』にか なりくわしく書いたのでここでほ扱わず,イベリア半島,カルタゴ,ガリア方面と小アジ アのミトリダーテス王朝との戦争をテーマとしたことをことわる。時代ほ「ローマの平和」. 確立までの共和政後期の戦争である。 まず・自由という名の支配は,全地中海を支配したローマという副題をもち,. 4牽から. なる。ここでは『支配の天才ローマ人』に展開された氏の見解がまとめられている。それ は下記の章と節の題からもうかがえるであろう。 1章ローマの威令に服す(「自由国」に 対する支配,独立国か自由国か,ローマの命ずる事は何んでも実行), 2章社会を支えた パトロン関係(信義の関係,. 「光輝ある人びと」,社会がそのまま国家,おのずからなる成. 長の所産),. 3章翻弄される自由国(対等ならざる対等の関係,全世界のパトロネ-ジ, 対外政策の蔭でさまざまな人間関係,苛酷な運命に耐え,美化されるローマの権威,先祖 の遺風,ローマ人にとっては),. 4章富裕者中心の支配体制(富裕者階級のパトロン,奴 隷商人の横行,属州とは何か,ローマの「支配領域」,ためされるローマ帝政成立への歩 インべ1)ウム. 衣)o カエサルとガリアの戦争. 1章. は4章にわかれる。 カエサルのガリア経営でほ,前58-50年,カエサルが南フランスの属州総督に任. ぜられ,管轄地域外の中部・北部フランスを平定した経過が,彼自身の『ガリア戦記』. 1. -7巻,部下ヒルティウスの8巻によって述べられる。 この頃ガリア人は民族としての連帯意識,ドルイト教による一体感はもっていたが,寡 頭政ないし王政の60程の小国に分れて抗争し,南からローマ人,東からゲルマン人が勢力 伸長をねらっていた。 カエサルは前55,. 54年の2回プリタリア(大ブリテン島)にも兵を進めたが,. 2回目の. 遠征にさいしては,. --ドイ一国(現在のブルゴーニュあたり)の広く農民の信望もえて いたドムノリクスを人質として同行しようとした。ドムノリクスほ出帆の直前に逃亡をは かったが討死した。カエサルがブリタニアから戻ると北部・中部ガリアに反乱がおこり, とくに-ブローネス(現在のドイツ,ベルギー,オランダの交るあたり)の国王アンビオ リクスに翻弄されたo. アンビオリクスとの戦いについてほ前出「アンビオリクス」にくわ. しく紹介したが,残忍なカエサルの報復は,ガリア社会の憤激を高めた。.

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